RED LOTUS MAN

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多和輪実子

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風がスローモーションで流れフラッシュバックする黄金の稲穂が手を振るしじま赤い軽トラックがのどかな田園風景を突っ切る。「雨が来る」風がタクトを振るい水田に波紋を浮かべてアメンボを追い回す深みを増すグレーの雲に気が逸るアマガエルが急かす
濃緑を割って顔を出す濃紺の茄子が葉群を退ける。軽快なフットワークで進む小さな旅
カット割りで挿入されるシーンの如き牧歌的な見晴らしが心地よい。矢のような赤い車は些か年式が旧いマツダの軽トラックポーターキャブ。意外に程度はいいのかも知れない。軽自動車の規格一杯に収まるコンパクトなRED LOTUS号が甲高いエンジン音を吹かせ、なだらかな上り勾配を一気に駆け抜ける。 ハンドルも軽やかに口笛を吹き、ナイスガイが顎をしゃくる。「見ろ」
流れる風景の中心に目の焦点が合う。
「あれがそうだ」 
ピッチャーから放たれた球がバットに吸い込まれる如く
茶色い建物が社長のジェスチャーに呼応し陽光を眩しく跳ね返す。

 この県庁所在地の地方都市にあって、県内でも有数の大学のキャンパスの直近という好条件の立地に、そのイタリアンレストランはあった。
番内社長命名するところ『あるとき硬めのアルデン亭』 
洒落が効いているネーミングらしいが、いかんせん俺には元ネタもわからないしセンスがいいのかもわからない。だからまあ硬めのアルデンテが好きな人は好んで訪れるのかも知れない程度に思っていた。

 赤茶けたレンガを丸く積み上げた城砦のような塔が聳え立ちそのレストランの外観を印象付けている。成功した巨大IT企業の本社ビルと説明を受けても嘘に聞こえないほど大きく趣のある建物に否応なく期待が高まる。築城から時を経た壁に水を得た魚のように濃淡織り混ざる緑の蔦が絡み付く。
音を立てて閉じたハードカバーの御伽噺のような、国籍や時代に捉われない個性を放っている。徳の高い王様に従う貴族や気高い騎士そして美しいお姫様が妖精や花園に囲まれて過ごす世界を思わせる。
 蔓が這う下方に赤く塗られた木製のドアがある。あそこから入るのか。益々おとぎ話だ。さしずめ聳え立つ絵本といえよう!
レストランというよりテーマパークみたいだ。靴を鳴らして親を急かす子供のように落ち着きをなくす。某◯◯ニーのキャラやドワーフがここを潜っても不自然に見えない。騎士が馬で乗り付けても絵的に嵌るだろう。そのドアの前に今俺は立っている。手に汗握りマイクを握るリポーター同様胸が高鳴る。ターフで出走を待つ競走馬よろしくたたずむ子供を宥める親しかし砂時計に流れる砂の如き行列に駄々を捏ねる
「もう次からは連れて来ないわよ」などとお母さんが脅し文句を言うのだこんな素敵な場所に二度と来れないなら大人しくしないと大変だ!楽しいスポットは躾にもいいんだ。
ここなら味は二の次でも家族サービスに足を運ぶ。
美味ければリピート必至だ。社長は何か掴みどころのない、人間性のわからない人だったがこんなに凄い店を経営しているなんていい意味で余計わからなくなった。この店同様不思議な人だ。
呼吸を整え、鈍く真鍮色に輝くドアノブを捻る。瞬間重なる多数の談笑グラスを鳴らす音温かい喧騒が漏れ聞こえて来る。「流行っているんだ!」初対面に等しい関係などから経営が順調かは聞きそびれていたので不安だったが蓋を開けてみればこの盛況はどうだ。ジャンプして快哉を叫びたくなる。異国のような外観が一変して店内はアイボリーの壁をムーディーな間接照明で照らす現代的かつお洒落な内装で設えられていてそこで寛ぐ客も皆映画のワンシーンを演じる役者のようにロマンティックだみんなキマっている。タウン誌の紹介記事で一目惚れしたような、恋人が出来たらデートに連れて来たいスポットナンバーワンに今決定した。

賞賛に間に合わない尽きたボキャブラリーに歯痒い思いをする俺の気持ちをよそに盤内社長は微塵も動じない正にポーカーフェイスだ。
経営は順調で軌道に乗っているのだろう。彼にとってはこの盛況も日常的な風景で混雑していて当たり前なのか。面倒くさそうに適当に指を指して空いているテーブルに腰かけるよう促した。どの席も客で埋まり簡単に確かめられる空席はない。空きを探すと先客から異物を見るような目を向けられるし向こうの会話も止まる。それでも賑わっている店内に改めて感動すると一人浮いている。インテリアに過ぎない大きなタモ材のテーブルは訪問者と交歓する家人のように堂々としている。室内照明も心憎いほど絶妙な配置で居心地の良さに笑みが溢れそうになる。
植樹そのものに思える支柱飾らないテーブルここは緑のテーマパークか自然公園かと錯覚するほどの配置佇まいである。肩の力が抜けて和むアクアリウムの中の魚かテラリウムの観葉植物……そんな俺は言いようのない予感に満ちていた。ハプニングかサプライズか冒険か、然してそれはすぐに訪れた。恐らく視界の隅で無意識に捉えていたのだろう。
 つかつかと厨房へ向かった社長への従業員の挨拶が遠巻きに聞こえてくる。オーケストラに拍手で迎えられた指揮者のようだ。いよいよコンサートが始まる。食器の触れ合う音、鍋とレードルが織りなすリズミカルな調子、それらが客の楽しげな会話と混ざり合って一層心地よい雰囲気を醸し出していた。クライマックスを迎えるオペラのようだ。
 どこを切り取っても、インスタグラムで高評価が集まるさしずめいいねのスタンディングオベーションだ。それほど雰囲気のいい店内だったが、くつろぐ客を邪魔するようで撮影は自主的に遠慮した。フォトジェニックに過ぎて結構後ろ髪を引かれる思いだったと付け加えておこう。

 ほのかに漂う甘い香りを身に纏い、俺は我に返った。
 「どうぞ」
甘い香りに甘い声否応無く上がる甘やかな期待
 俺は後悔した。振向いたことをだ。無警戒に過ぎた。こんな可愛い娘が後ろにいるんだとわかってたら振り向かなかった。照れた顔を見せたくない。からだしかし照れは獰猛な猛禽類の狙い澄ます嘴のように避けようがない。それを幸せに受け止めながら嘆いた辻斬りの白刃なら刀を杖に片膝を立てながら「さあ斬れ」と見栄を切っている。負ける恋と分かっていて思いがバレるなんて救いようがない。だが今この恋が成就しなければこの美しい娘は他の誰かの物になってしまう。
それならバレた方がいい。長い好きかも知れないもしかしたら自分のことを狙っているかも知れないという好奇心の綱渡りを「ゆーんゆあーんゆやゆよん」としながら相手の出方を待ちそういえば捨てておけないまあまあの男だよねみたいな恋愛感情のプロセスを経て初めて勝負の機会が訪れてそこを一気呵成に攻めてこそ「まあいいでしょそれもそうよね」等と輝くハートを俺の矢で穿てるのだ。それも叶わず悶々と家で頭を抱えるなど穴の開いたガソリンタンクを満タンにして発車を待つマッスルカーのような物に違いない。ボンネットの下では夜の暗闇を仰いで対空砲火に備え射撃角度を揃える主砲の如きシリンダーの中で運動に備えるピストンが息を殺して待っている
彼女の魅力はゴング開始と同時に相手を屠った強打のボクサーのパンチにも等しい。こんな女の子に晒す表情を俺は持たない。ムエタイの強豪がいいのを貰った時に笑うそうだクリティカルヒットの手答えを感じた方が不気味になるという心理的な作戦らしいそれが俺は紅顔が認める拙いラブレターで事実上白旗を上げ彼女にその添削を求めてさらに絶望する。その辛い採点にだ。輝くキーを差し込んで重いセルモーターを回すと後悔の念が火に油を注ぐ。鉛入りのハイオクの給油を受けた往年のマッスルカーが轟音で応える。白煙を纏って突き進む恋がゴール無きコースでタイヤを鳴らす俺は彼女が受けた印象がどういうものか不安で笑顔が崩れる。情け無い、これが一目惚れか湧き上がる俺の照れはレッドゾーンに入っていた。荒ぶる駿馬の蹄が蹈鞴を踏みビッグV8の咆哮を呼び食らい付いた天国のターフを駆け巡る今が一瞬にして過去に流れる
 その愛くるしい目が俺を捉え雄弁な笑みが流星群の如き矢をハートに突き刺す。弁慶の立ち往生の如くハートはときめいたまま停止してしまう。彼女の 「どうぞ」、という言葉が固まるハートを叩く凄じい加速で何も見えなくなって逆上せ上がる
「う、 美しい!なぜこんなにも!こんな」言葉を失い眩しさに盲目になる。俺は愛の言葉を銀河から探すこんなに素敵な女性が声をかけるなんて美しい刺激を躱すのに間に合わないロープを背に防御に徹する身に容赦ない連打がそれもハードパンチャーのコンビネーションが続く「倒せ!」「倒せ!」「倒せ!」殺気立つフィニッシュを待つ無情なコールが場内に轟く間合いを瞬時に詰めた彼女の目にも止まらぬフック気味のワンツーが俺の顔面を捉え天にも昇る気持ちで前後不覚へのカウントダウンを始める。見えていても避けられない。M号の軟球を数人掛かりで投げ付けられているかのようだ。つまりウェイトレスらしき
グラドル顔負けの女性が頼みもしないのに甘い香りを放つカプチーノカップなどを携えて俺の前に立っている!真っ直ぐに刺さる美しい視線間接キスのような笑み甘やかな時の流れ止まらない鼓動一方的な攻撃に守勢に回るボクサーの如く俺には後がない。
好きだ。多分、いや絶対好きだ。でもどうしたらいい。この星に星の数ほど男女の出会いがありその物語がある。ハッピーエンド  失恋 ハッピーエンド 失恋バッドエンド柄にもなく花占いかナナ!ネガティブな思考とポジティブな思考の間を願望が往復する。でもこの恋が上手く行くとは思えない。「取り敢えず腰をお掛け下さいな」ロープを背にダウン寸前の俺と違い余裕綽々の彼女のリードに任せスタミナ切れの腰を椅子に落とした。

なんということか
今日この地球で生まれる数多の男女の出会いの物語に今一つ悲恋のエピソードが加わるのだ!それも俺を主人公にして。
だがもう運命はこの女の子と出会ってしまった。後戻りは出来ない。
彼女は美しいだけではない。男を焼き尽くす太陽を二つ胸に収めて涼しげに微笑む張り裂けそうに弾むへビー級ボクサーのに等しいグローブが俺を射程に捉えて胸元で睨み恋をするか引き下がるかの二者択一を迫るゴージャス極まりない肉体美には交渉や駆け引き等意味を為さない人目に着く所で一目惚れを認める以外彼女は認めない。
即ち恋に悩むか恋しないで悩むかを迫って悩ませるのだ。男なら生きているなら恋しないで悩む方は選択しない。恋して想いが叶わなくて悩んでやろうじゃないか!望み通りメロメロに男の芯が溶けるほど参ってやる
破壊力に満ち悩ましさで人を殺傷せしめる言うなれば『悩殺のライセンス』を持つ女
俺のように奥手な男を依頼を受けて抹殺するプロのエージェントだ
「女は臆病な男が好き。私もよ」いつか見たいつか見たルキノビスコンティの『白夜』の主人公マリアのセリフだ。それとは違う意味でそう言って憚らないゴージャスなボディ
ちっぽけな俺の恋心などその弾力で跳ね返してしまいそうな胸の膨らみ背中を向けてさえ一滴涙を垂らせば怒った大魔神でさえ秒で帰るほどの美女
そんなコチラの事情など露ほど汲むこともなく彼女は大きな目をいっぱいに開けた愛くるしい笑みで応じる。君が微笑むと唇が緩む鼓動がF1カーの調整よろしく上がる。無限音階の如くときめきが止まらない
 仕立てのいいベルベットのストールのようにきめ細やかにそして感触よく言葉遣いの優しさが纏わりつく接客が丁寧な彼女がその胸のせいで高圧的に感じる。
 
 彼女は自分の量感のある胸の分、俺のパーソナルスペースを侵害していた。それほど、彼女の膨らみは大きいし突き出ていて自然に詰めよられていた。ミディアムのおさげにアレンジした艷やかな髪は、ストレートに伸びた綿菓子のようなボリュームがあり、その髪一本一本に空気が柔らかく遊び、
纏わり付く。まるで異世界に棲まう、オスをたぶらかす不思議な動物の尻尾を想像させた。或いはピクシーダストを撒きながら浮かぶ妖精か

「カチン」
 その女性が持つ、カプチーノカップのソーサーの上で、俺の代わりに金色のスプーンがたじろいだ。
そのスプーンは俺の夢の目指す方向を示す羅針盤の針に違いない。


 

その髪は、肩から下へ向かった途端。不自然な圧力によって弧を描いて外へ追いやられている。暖簾を分けて挨拶する家人のような胸にだだから俺は彼女が俺の顔を見て 「こんなに胸の大きな女の子は初めて見たと顔に書いてある」と読んだろう。そんな風に指摘されたらどうしよう。そればかりが気になった。だから真っ先に歪んだ口角をフラットにすべく自分が発するすべての気配に神経を尖らせた。目付き、視線興奮を示す鼻腔の膨らみをだ。
話を金色のスプーンに戻す。それはソーサーの上で弾けムーンサルトを描いて床へとダイブした。思うに彼女は、いつも自分に近づく異性を虜にしているに違いない。俺はその中の出会いのタイミングから行けば最後から数えて一番だ。命中させたくない矢を放ったキューピッドが無駄にした矢を嘆くまた胸目当てのエロガキなどを撃ってしまった。さして重要でないポジションにしかいないのだと考える。何と、俺は愕然とした。飛躍した俺の思考はだから、大抵の場合周りの男がチヤホヤしてちょっとばかり可愛いからってお高く止まっている本当は鼻持ちならない女かとそんな女に振り回されるような安物の男じゃない、と何故か態度が硬質になってしまった。こうしている場合ではない、落ちたスプーンだ。拾い上げようとしたとき気付いた。この角度から見上げたら彼女の胸は運悪く地球の軌道上をひた走る彗星の如く地球の危機を予感させて惑う人心に等しい。大きすぎるだろう。最前見たよりもより迫力を以ってリビドー生成に働きかける。これも彼女の手管か、わざとスプーンを落として拾わせるように仕向けて下から見上げた方がより見応えがあるわよみたいな。そうさ、そうだろうよ。観念した。参ったよ参りましたよ。白旗上げますよ。その圧倒的迫力には抗いがたい魅力があり、そのせいで少々卑屈になってしまった。「待って、あなたもここで働くんならお客様に拾わせちゃだめよ」「ほうら来た。へっ!?」「こういう時は給仕に言い付けるのがテーブルマナーなのよ新しいのを持ってこさせるの」「えっじゃあ君が下から拝んだ方がより扇情的だって、と何故か演出を企んだとか何かじゃなくって」「あなた何を言ってるの」「あ、いやいや何でもないよ考え事してて、つい、俺は何を言っているんだ」「あなたの落としたスプーンは金でできたスプーンですか、銀で出来たスプーンですか、それとも纏めて発注を掛けて一本120円の普通のスプーンですか、」「あ、あ、いくらかは知らないけどさその普通のスプーンだよ。正直者のあなたを側に従わせてあげてよ無限にリビドーを生成するマシーンにおなりなさい」「オナりなさいオナりなさいオナりなさい」目眩がする
 余計な心労をよそに彼女はカプチーノをテーブルに置く、その彼女のわずかな姿勢の傾きに、震度3程度の揺れと同様の不安を感じる。その不安の正体を彼女は知っている、そう断定しないと不安はなおも増大し続け、やがて苦悩となって自分を苛むであろうことを無意識に暗示した。
 しかしこちらが色眼鏡で見ない限り、その無垢な笑顔は意図の陰りを微塵も見せない。
 小意気なカップから立ち上るカプチーノの甘い香りは、実は揮発性の毒で、彼女は自らの存在を解毒剤としてちらつかせ、毒に当たりたくないならいうことを聞くよう服従を迫っているのかも知れなかった。秘密を喋るよう迫っているのかも知れなかった。秘密はある。平たく言えば恋心だ。
「社長はまだ来れないみたい。さあ、冷めないうちに」
 カプチーノにはハートのラテアートが浮かんでいた。物質的な温度はともかく、ラテアートに描かれたその象徴は冷めることはない。彼女の言に抗うわけではないが勧められるままに口を付けるのは躊躇われた。
「もしかして、猫舌?」
 否ラテアートのハート型が壊れるのに抵抗があっただけだ。 
「君は、ここの人?」 
 当然そうだろう。だが、彼女の口からそれを聞いて確かめたかった。蹲の、鏡のような水面に映る月よろしく、アカペラを熱唱する夜を反射するホールの窓に映るハートのようなラテアートを描く、その手に指輪を嵌めたくなってしまった。
「多和輪実子です、よろしく。キッチンのミコって、そんな呼び方されてる」
 ミコ、気兼ねなくその名を呼べる日を夢見て遂に俺の恋は始まった。素敵な名前を心の中で反芻した。
「へえ、俺は鳴沢なおき。よろしく」
 努めて平静を装った。掲示板やツイートの際に使う自己紹介のテンプレートのような言葉で会話の流れを保つ。
「鳴沢のな、なおきのなで、ナナじゃなくロクかハチって、みんなそういう」
「ナナでいいじゃないの」 
 ミコは笑った。よせよ、なおきって男らしい名前があるのに、とは言えなかった。
 口に手を当てて笑う仕草をゆっくりと追い越すミコの胸が揺れる。ロケットに乗って地球を離れ、宇宙飛行士になって月面を跳ねた。そうやって初めて俺の弾む心とミコの弾む胸はシンクロした。一方的なときめきから少し二人の触れ合いという時間の流れになったと思った。その瞬間彼女の纏った色っぽさは表面張力を失い、床に落ちてチャチャのリズムを刻む。
 彼女は悪戯っぽく俺をナナと呼んだ。ナナ、ナナ、いい響きだ、今日から俺はミコのナナだ。単純だがそれがいい。
「うん、ミコがそういうんなら」
 ホールで動き回るスタッフは緑色のユニフォームだが、ミコは赤系の色だった。それが映えた。「君のコスチュームは赤いんだね」
「これはね、研修用の制服。普段はキッチンの白衣。社長がここは俺に任せてカプチーノを運んで来いっていうから」
 ああそうか。研修用ならホールでも違和感がない。じゃあ、これは俺の研修のようなものなのか。
「ナナって将来お店を出すんだって?」唐突に何を!あの人か、社長のおしゃべり。「まだ人に言うレベルじゃないのに」何気に姿勢を正す。小さく咳払いなどして軽く頷いた。
 ミコが将来という言葉を使うと背中がぞくぞくした。カフェやレストラン、あるいはペンションなどのガイドブックで、夫婦揃って映る店主の写真に自分とミコが並んでいる姿を想像した。その途端、
「甘いわよ、そのカプチーノくらい」冷や水を浴びせられたような気がした。未だリングに伸びていてセコンドからバケツで水をかけられた気分だ。
 その辛口な言葉に、飲み頃を口に含んだカプチーノの半分をカップに戻した。まるでコントだしかしその失態を見ても動じることなく、ミコは真顔で続けた。
「ナナ、事業計画書みたいなの書いたことある?」
「ない」 
 何だろう事業計画書って。将来自分の店を開く者なら書いていて然るべき物なのだろう。彼女の物言いにはそんな響きがあった。全然知らない。それが恥ずかしかった。これじゃ中2が見る願望の域を出ない憧れと同じだ。純粋な分、そっちの方が価値があるかも知れない。
「どうして起業したいの? お金? もちろんそれは外せないことだけど、これはこう、と説明できるコンセプトはあるの?」
 何も言えなかった。出店のプランに対する構想は、このミコの前では、勝手に新婚の将来設計という形に頭で変換され、そして稚拙に過ぎて、後悔を恐れ口籠ってしまう。それが恥という概念に結びつき、ただ反省をするばかりになってしまった。
「出資してもらえる当てはある? 貯金はどれくらい? まさかゼロってことないわね」 
 彼女が語気を強めると、大きな胸との相乗効果でより圧迫を受ける。 
「それは、これから貯めるつもりで」 
 何か、言い訳じみてきた。
「じゃあさウチに就職すれば? バイトなんていう腰かけみたいなのやめて」
「え?」
 発表はまだだが、もし大学受かってたらもちろん進学する、とさっきまでは思っていた。多和輪実子という女に出会うまでは。じゃあ受かってても、ミコと働けるなら進学を棒に振るか、といえばどうしてもそこに微妙な計算が入る。つまりミコが独身でフリーかということだ。働きながら学ぶという選択肢の天秤にかかっているのは実子と会う時間の長短だから秤に掛けようがない

 現実を見ろ鳴沢なおき、彼女が独身でフリーでも、自分を好いてくれるとは限らない。それにお前は小物だぞ鳴沢なおき、彼女に相手がいても奪うくらいの勢いでなきゃ女の心が傾くはずもない。
 合格発表後に落ちていて、それで就職させてくれと頼むのはそれ以上にロマンがない。
だが今なら、仮に不合格でも、少なくとも自分はミコのために進学を棒に振ってこの職場を選んだと良い方に解釈し納得できるはずだ。
 このあざといというか、小賢しいというか、その計算ぶりがどうにも小物な自分に嫌気が差すが、頭の中のイメージの粘土みたいなものは段々形づいてきた。出店計画もだ。

「ちゃんとした事業計画書が書ければ、日本政策金融公庫が創業融資で資金を貸してくれる。それには誰でも見られる夢程度の、ほろ酔いと共に消える希望ではだめなのよ」 


 ほどなく盤内さんが繁忙期の台所を捌いてテーブルに来た。
「ミケタ、ちゃんと説明したか」
 ミケタ? ミコじゃないのか。疑問は口にした方がいい、ミコのおかげでアクティブになれた。
「ミケタって何?」 そう聞くと、顔に張り手が飛んできて、頬の手前で失速してやっぱり加速した。盤内さんは大ウケしている。
「以前飼っていた猫の名前さ、そうだろ多和輪」
「社長、それってセクハラですからね」
 ミコ、ミケタか、が頬を膨らませるとなぜかドキッとした。
「ミケタってのはな、3桁のことだ。多和輪クンのバストサイズが3桁なのに由来する」
「そ、それはわかったけど、命名は社長なのに、なぜビンタが俺に」
「微妙な女心よ」
 自分で言うか、てか立場上経営者に強く出られなかった感情の矛先がこっち向いただけじゃん。と、思いながら、熱と共に残る手の感覚が少し心地よかった。
「トマトは飾っておくもんじゃねえ、食うもんだ」
 盤内さんは何の暗示か謎の言葉で締めくくった。

 『ある時硬めのアルデン亭』から『びいあんどえぬ農園』に戻ることになり、レッドロータス号のエンジンを掛けて盤内社長を待っていた。もう、自分でも否定できないくらい心が傾いた多和輪実子。コースに出たレースカーが引き返せないのと同じくらい気持ちが暴走している彼女と、このまま何もなく別れることに気が重くなった。今入札しないと終了して売り切れてしまうオークションみたいな。その暗い感情を受けてではないだろうが、少し雨が降り出して来た。
 社長を傘に入れて、ミコは走って来た。濡れたフロントウィンドウ越しにも、彼女の胸の揺れははっきりと浮かんだ。
「盤内さん、さあ」 慌ててRED LOTUS号のドアを開けた。傘を借りてくればよかったのに、そう言おうとして、社長が今日ここで面談をした意図を慮り、口ごもった。
「はああ、急に降って来たな。お、どうした、顔色悪いぞ」
「そんなこと、曇天と急な雨のせいで翳って
見えるだけですよ」
「相合傘が気に入らなかったのか。妬いてるのか」 そんなこと、思い切り息を吸い込んで、声を張り上げる前にため息に変えた。社長はミコへの思いに気付いてる。だからわざわざ、傘に一緒に入る形で、ここまでミコを連れて来てくれたのだ。その粋な計らいが切ない。
 ワイパーが、フロントガラスの雨を拭えば、その度に視界がクリアになり、その視界の中でミコが何度も大きく映る。
 ちぎれ雲のような心の余韻残して、手を振るワイパーのさよならが雨と同調する。
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