Candle

音和うみ

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第1章

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「おい!お前今まで何してたんだよ!」
「…す、すみま━━━「あー、もううっぜえ」

帰ってすぐに飛んできたのは明らかに怒りを含んだ声だった。続けて、見せしめにガラスのコップが床に叩きつけられる。

「あ、の…ごめんなさい」

「お前さ、謝ればなんでもオッケーだと思ってんじゃねえの?」

「す、すみません。あ、ああ、っ、違くて、反省してます」

ガラスの怖いところはこの散らばった破片も、相さんの機嫌がとっても悪ければ口に突っ込まれて、それでその後1週間以上お腹が痛くなることだった。

だから早いところ機嫌を取らないといけない、と思うといつも以上に焦りが募って。そのせいでちゃんとすぐに相さんに謝れなかった。いや、謝ったら済むと思ってる、って解釈されたからもっとダメだった。

言葉がすらすら出てこないからいつも相さんの機嫌を損なってしまうのに、いつまでも治らないのは、琉来がバカだから。

「反省してます、だけかよ。それじゃあ謝罪と変わんねーじゃん。行動改めろよ。あったまわりーな」

叩いたら機械みたいに治んねえかな、と後頭部を掴まれて壁に2、3回ぶつけられて、ただでさえふわふわと安定していなかった視界は一気にぐにゃりと歪む。

確か昔、2週間以上外にいたことがあった時、お邪魔虫がいない方が疲れねえもん、とキレることもなかった。だから調子が悪くて外にいました。とか誤魔化せたら良いけど様子から察するに全部を知っていそうだった。だって、母さんは相さんに敵わないから僕のことはいつも筒抜けになる。

「す、すみませんでした。その。も、もうしません。ごめんなさい」

「聞こえねーよ。このバカ」

そう、重たい蹴りが入って、壁に体が叩きつけられる。最初からこんなに機嫌が悪いってことは土下座して何度謝っても、相さんの怒りは多分簡単には鎮まらない。だって怒られた翌日から家事を1週間もしていなかったのだ。それも当然かもしれない。

何もしないのが一番相さんを怒らせると分かっているから、急いで体を起こしてガラスの破片をかき集めていく。

「…相楽って奴がいるだろ」

…え

瞬間、息が詰まる。今、なんて。

「おい、返事は?」

「……あ、あの」

なんで知っているのだろう。母さんならまだしも相さんまで。

「返事は?って言ってんだろ!」

出ない声が唇を震わせて、反応が遅れて。強く頬を叩かれてせいで意識がグッと引かれる。まずい、と思って逃げようとしたけど、先に両手が首元に伸びて、締め上げられた。もがいて、身を捩って、どうにか振り解こうをするけれど。全然ダメだった。そもそもそんな体力が元からない。

「今度、学校から真っ直ぐ帰ってこなかったらそいつ殺すからな。冗談抜きで。お前と2人」

「…っげほ…げほ…っ……は、は、」

苛立ちからかいつもよりも力任せな蹴りだった。

だからきっと今日は殴られるか蹴られるかのどっちかだからと思って、受け身をとって、いつ解放されるんだろうって考え回していたけれど。珍しく、いつもより怒られるのが短かった。

それも母さんとお出かけに行くから、らしかった。

「入籍する予定なの」、そう嬉しそうに、母さんが相さんの手を取ってつなぐ。幸せそうな顔をしていた。初めて見るような満面の笑み。刺すように痛む左目を覆いながら見間違いじゃないかと思った。関わる相手が違うと、母さんはあんなふうに笑うものらしい。お腹に手をやって、愛らしそうに撫でている。

ゾッと体が震える。
それが意味することが、どうしようもなく、理解したくなかった。

「反省文100枚書いとけ。俺たちが帰ってくる前に、な」

「は、はい。ちゃんと書きます。すみませんでした」

バタン、とドアが強く閉まる音を最後に一気に部屋がしんと静まりかえる。

途端に緊張が切れて前兆もなく嘔吐してしまった。これ誰が片付けるんだろう、と考えて、僕だよね、なんて思う。なんで面倒なことを自分で増やしちゃうんだろう。せめて、体が強ければ、良かったのに。

僕が相楽みたいだったら母さんはあんなふうに笑うんだろうか。

頭の良い、かっこいい、優しい相楽なら、怒られたりしないんだろうか。

こうして苦しくなった時に反芻し続けていた相楽の、あの優しい声。じんわりと触れられないどこかを温めてくれるような、大好きな声。

部屋の角で、小さく蹲って。頭の中で再生する。

ちょっとだけ会いたい。ほんの少しの間で良いからこの前みたいに抱きしめてほしい。大丈夫だよ、って頭を撫でて。背中をさすって、大好きだよって言ってくれたら。

それだけで体の痛みが全部忘れられるから。

会いたい。今から相楽の家に逃げたい。

でもそんなこと。できるわけ。

何回も相楽にそうしてもらえることを想像しては、嬉しくなって、でも現実に意識が戻った時に1人でいることの冷たさがいっそう感じられて。そもそも迷惑をかけた自分にそんな資格はないだろうと責めた。理解しているのに。諦め切れない、なんて___馬鹿みたい。

***


いつも、みんなに「ゴミ」って言われた。

汚いから、臭いから、醜いから……

僕は文字通りゴミみたいに扱われて、みんなゴミ箱に片付ける。真っ黒な袋を被せられて、ゴミ捨て場に置かれて。

直接じゃなくても、視界からゴミ箱に僕を捨てて、見ないように蓋をする。そうしたら埃みたいな扱いの無視が始まる。

でも最初は、違うんじゃないかって、間違ってるんじゃないかって思って鏡で自分のことを確認した。

でも何回確認してもダメだった。空みたいな、海みたいな明るい色とは違って灰色みたいだし、廃れているようで、自分でもゴミみたいだって思った。

だから今度は、身体中を毎日ちゃんと洗った。学校の外にある水道には固形の石鹸が付いていて、いくら使っても良かったから洗ってみた。石鹸は、白くて綺麗だったから、もしかしたら綺麗になれるかもしれないと思ったけど、ダメだった。

次は髪を切ってみた。クラスに心の優しい男の子がいて、はさみを貸してくれたからみんなみたいに整えようと思って切った。でも、全然下手くそで、散々バカ笑いされた。これもダメ。

次は笑う練習をした。口角を上げてみたり、目を細めてみたり。けど気持ち悪がられるだけだった。これもダメだった。

その次は、その次は、って。
出来ることはやった。

でも。

全部ダメで。

いつもゴミ箱が僕の居場所だった。

学校のすぐそば、大きめの駐車場の隣。あるいは家のすぐそば。

そこには潰されたカタツムリと、冷えて死にそうな猫がいた。僕によく似た生き物だった。寂しそうなものたち。

でも僕にはゴミに見えなくて、助けてあげたくて、カタツムリにはふかふかの土に寝かせて、猫には雨を凌げるように傘を持ってきた。

そうしたらみんなにもっと笑われた。

それなのに、相楽だけは違った。

こんな優しいやつ見たことないって、言った。驚きすぎて僕に言われたと思ってなくて通り過ぎてたけど、旧校舎で2人きりになっても言うからそこで初めて気がついた。相楽が、僕に「優しいやつだ」って言ってたことを。

「ね、相楽」

「ん?」

「相楽は、い…要らなくなったもの、を、ご、ゴミ箱に捨てる?」

「え、当たり前だろ?」

だけど相楽といる時だけは、自分がゴミじゃないみたいだった。抱きしめてくれたとき、手を繋いでくれたとき、笑いかけてくれたとき、きっと今鏡を見たらゴミみたいには見えないんだろうなって何となく思ったから。

到底かっこいい相楽には及ばないけど、捨てられるほどじゃないかなって。

だからずっと。

ずっとずっと。

相楽の隣に居たかった。

そしたらゴミ箱に入れられない気がしたから。

「相楽。ね、相楽」

「なんだよ」

「僕のことゴミに見えたことある?」

ちょっとだけ確認したかった。聞きたいこと聞いても良いって言ってくれて、ゆっくり時間をとってくれる相楽に。

「ない。絶対にない。なんで?」

「あ、いや、う、嬉しい……そ、それが聞きたかった。あ、あの、ね。相楽にそう言ってもらえると、安心した」

じんわりと心の奥があったまる。その熱が逃げていかないように胸に手を当てて、心の中で反芻する。録音したい。忘れないようにしないと。

「あはは、どうしたんだよ。ちゃんと鏡見てみろ?そんなんに見えたりしないから。……ほら、こっち来いよ」

ほらね。相楽といれば僕はゴミじゃない。
みんなに言いたい。
僕を、捨ててきた人たちみんなに。

「琉来は可愛いなぁ。天使みたい。
本物みたこと見たことねえけど」

「僕もない」

僕の頬を両手で挟み込んで顔をじっと見つめて言ってくれるから、見間違ってないと思う。ちょっとだけはずかしくなった。嬉しい。相楽は嘘つかないから。

「いや、でも琉来の方が俺にとっては可愛いから。世界一じゃなくて、宇宙一だから。
そうしたら俺にとっちゃ琉来が天使か。やっぱり可愛い」

相楽の兄弟とか、恋人とか、そういう「家族」の人たちは、毎日こんなふうに優しく触れてもらえるのだろうか。

そう思っていた「家族」に、なろうって相楽は言ってくれた。
そしたらどっちかが死ぬまでずっと一緒にいられるのかな。

あ、家族じゃなくても、ペットでも、奴隷でも良い。
掃除とか洗濯とかおつかいとか、お手でも伏せでもなんでもできる。
ただ相楽のそばにおいて欲しい。

「相楽」

「なーに」

「あっ、、い、いっぱい待ってくれてありがと。こ、今度は、相楽のお話聞くね。  次はもっと、スラスラに喋れるように…そ、その練習しとくね!」

「俺もゆっくり喋りたいから。気にしなくていいよ、別に」

「…あ、うん」

嬉しい。

僕は僕の喋り方が一番嫌い。
引っかかるし、下手くそで、おどおどしてて、震えてて。

「い、…いつか。ね、相楽みたいに喋れたら良いのにな……って思ってる」

「そう?」

だからいっぱい声聞きたい。

それを覚えて、直したら、きっと相楽は喜んでくれると思う。

今は気を使わせてばっかりだから僕は、僕自身を良いと思ってない。

「そろそろ学校戻らないと」

「え、あ、ああ……あ、ごめ」

僕の話ばっかりで時間が過ぎてしまった。相楽は話したいことなかったのかな。
自分勝手だった。反省しないと。こんなだったら嫌われるかも。

「どうしたどうした」

「あ…え、っと」

今ちゃんと「ごめんね」って言わないと。

謝って許してもらわないと、次の授業集中出来ない。頭の中がぐるぐる回って、視線が彷徨って、心臓がどきどきうるさくなる。

見えない何かに襲われそうで、トイレとか、押し入れとか、小さい空間に身を隠したくなって。

息を、吸って吐いて、が狂って。

結局教室から逃げ出すしかなくなる。

けれど、

「琉来、大丈夫だよ」

ぐちゃぐちゃになり始めた頭の中に、柔らかい音が差し込んできた。手を差し伸べるみたいに。

「だ、だいじょうぶ、?」

落ちていた視線を上げてみると、ぎゅってしてくれて、額にキスが落ちてきた。息が戻って、頭の中のぐるぐるが嘘みたいに止まる。

魔法みたい。と思う。
遅れてじんわりと触れられない心のどこかがあったかくなっていった。

「そう、大丈夫。行こうか」

おまじないみたいに心の中で繰り返す。大丈夫、の言葉。相楽の優しい声。

「うん。ありがと」



***



治療によって琉来の体調は大幅に良くなった。
退院したのは初めて朝霧クリニックに来て1週間後のことだった。

家に返すのが心配で、どうしても安全なところにとどめておきたいところだったが、そのまま家に泊まらないか、という相楽の提案に琉来は乗らなかった。何度お願いしても、どうしても帰るの一点張りで、それ以上の会話をあまりしてくれなかった。
明日も学校に必ず来るという約束のもと、相楽は琉来を天羽家に送り届けたのだった。

そこからまた日常に戻って、残りわずかとなった中学生活。
いつものようにトトと琉来と共に旧校舎で食事を取っていた。

「ね、相楽」

「ん?」

「それ、良い匂いする?」

何か聞きたいけど、言えない。みたいなことは琉来の場合良くある。今日も口を開いては、「や、やっぱり…何でもない」と語尾が小さくなっていって口を閉じるというのの繰り返しだった。

匂いが気になるのか何度も服に鼻を近づけてはトイレに行って手を洗ったりしている。かといってこちらは大して気にするほどの匂いがあるわけでもなかった。

「これ……?消臭剤というか、芳香剤というか、まあ良い匂いするけど」

汗をかいていたから少し気になってかけたくらいだった。琉来は近づいてきて匂いを確認する。結構念入りに。

「いいなぁ……」

「そうか?」

良い匂い、とっても羨ましいなぁ、なんていうから、ちょっと困惑した。何をそんなにさっきから気にしているのか。

「琉来も、あの……やっても良い?」

「いーよ。全然」

「あ、ありがと!」

恐る恐る許可を得て、その後笑って返事したと思えば琉来は自分にかけ始めた。頭から何度も。取り憑かれたように。

「……おい、何してる」

「え、」

「これは服にかけるもん。人にかけるものじゃない」

困惑した表情をするから多分あんまり何かわかっていない。とりあえずちょっと貸して、と洋服を借りて適当な量を振りかけて琉来に差し出した。

「ああ…ご、ごめんね。ごめんなさい。そのわざとじゃなくて、あ、いや、言い訳なんて聞きたくないよね…..ね、ねえ。怒った?」

「いいや。怒ってない。どうしたんだよ。匂い気になんの?」

なんでも無いことだって思うのに、全然気にならないことなのに、最近の琉来はおかしかった。顔色を伺ったり、機嫌を伺う言動が多くなって、笑う回数も変に増えている。

「臭かったら…その、い、いや…でしょ?あ、その…ごめん」

「なんで?もしかして吐いた後?」

「……」

そういえば午前中が終わった休み時間、琉来が出てきたのは教室ではなくトイレからだった。手をとって、水を含ませたタオルで肌を拭っていく。最近も急に琉来が自分のことがゴミみたいじゃないかって聞いてくるから驚いたけど。精神的に不安定になっているのは間違いなかった。

もちろん、普通に笑っている時もある。
けどどこかに不安を感じては安心を求めて何かしていようと挙動不審になる。

どうにかしないと気が鎮まらない。何かをしていないと不安に押し潰されるから手当たり次第に思いついたことをする。みたいなことが異常に多かった。

「気になるなら帰ってお風呂入ろうか?」

「…ううん」

「吐いたんならお腹痛い?熱は?」

「大丈夫」

対して、こちらから近づこうとすれば琉来はすぐに距離を取る。心配して額に手を当てようとすれば避けるし、調子はどうかと聞けば、明らかに顔色が悪くても大丈夫だと言い張る。昼ごはんも残さず食べては、帰宅途中に嘔吐することもあった。

「昼ごはんは食べれそうか?もし、きつかったら━━」

「えっ、ううん!き、きつくないよ!」

「そう?」

「食べたい」

「わかった」

弁当の蓋を開ける前に目をキラキラさせるのは、いつも変わらず。
嬉しそうに、美味しそうに食べてくれるけれど。
あれから俺の家に琉来が来ることは完全になくなっていた。誘っても用事がある、と断られることが大半で、そうじゃ無い時は早退していたり、保健室にいたり。

明らかな傷を見つけて、これ誰にやられたの?って何度も聞くけれど転んだ、とかなんでもないよ、とか。絶対にあの男の名前は出てこない。そして琉来は手当てをさせてくれない。
勝手に琉来の家に置いてきた盗撮盗聴器のある部屋では兄貴によると最近は何も怒っていないらしい。けれど、琉来の母親に関してはこちらから一切連絡が取れなくなっていた。

「じゃあ、いただきます」

「いただきます」

琉来は自分の気持ちに気づいて欲しいと言っているようにも、気づかないふりをして欲しいと言っているようにも見える。ふとした動作がぎこちなかったり、繰り返しが多くなったり、目線が合わなくなったり。今までよりも細い糸を掴んでいるように思えて、あれだけ強く干渉してきたのにこの関係が壊れるのを恐れて見守ることしかできない自分がいた。

「さっきの話だけど、誰かに何か言われたりしてねえのか?」

「…ううん、大丈夫」

「今日じゃなくても、昔誰かに言われて、それを思い出して、反芻するから怖くなってるんじゃねえの?」

意外と推測が当たった時の反応はわかりやすい。1番は言葉が詰まること、あとは表情も結構動く。

「…あ、ああ…っ
えっと、違うよ。本当に大丈夫……あっ、それよりこれとっても美味しいね」

下手くそな誤魔化し方で、でも必死で。
すごく美味しい。魔法みたい。口の中、幸せ。あったかい匂いがする。
頬を赤らめて、笑って、感想を言ってくれる。その笑顔がとっても可愛い。

でも。違う。心の奥が、全然笑ってない。
蹲って、息を殺すように、泣いている。まるで小さな子供のように、膝を抱えて震えている琉来がいて。
狭い檻に閉じ込められて、鍵がかかっていて、出られない。

「そっか、よかった」

「いつも…ありがとう..だ、大好き」

「俺も大好き」

その鍵を見つけるためにできる限りのことはするつもりだった。


***



結局、何にもできずに俺の中学の卒業式の日を迎えた。

琉来は悲しそうに微笑んで、「相楽、卒業おめでとう」と花と綺麗な貝殻をくれた。贈り物なんて別に全然気にしなくて良かったのに、必死に探してくれたのだろう。この辺では見かけたことがない綺麗な花だった。嬉しかったけど、琉来が無理をしたのではないかと言う不安の方が大きかったのは、日に日に元気がなくなって行くのが目に見えていたから、だった。

「相楽、じゃあね」

[newpage]

離れるのが怖くて、忘れたくなくて、一生続いて欲しかった相楽との中学生活も終わりを告げようとしていた。相楽の卒業式の日だった。

相楽は偏差値の高い公立校に合格したし、これから勉強が忙しくなるだろう。
それに…母さんは明日遠くに引っ越すのだと言っていた。新しい家族と暮らすらしい。それの準備もおおかた終わっている。

ここ1週間、会えるのは今日が最後かもしれない、と思うと、涙が止まらなかった。完璧な相楽の横に僕なんか相応しくないのはわかっていたけれど、浅ましい考えだけで、僕の甘えで隣に居させてもらっていた。その時間が唯一生きていたい時間だった。
1人で空腹を紛らわせる毎日がまた始まる。

来てほしくなかった、相楽の卒業式。

たくさん助けてもらったから、出来れば花屋さんとかに行ってとびきり綺麗な花束とかお菓子をプレゼント出来れば良かった。必死に節約したお小遣いだったのに、お金を持って見に行ったお花屋さんでは、卒業シーズンだからかお金が足りなかった。だから前日に相さんの目を盗んで花を探しに行ったのだ。

雑草と変わらない、と言われて仕舞えばそれまでだった。
でも相楽なら喜んでくれるのを知っていた。これもまた甘えだけど、絶対にあしらわれたりなんかしないから、ちょっとでも喜んでもらえるように綺麗に咲いたものを慎重に選んだ。

「琉来、ありがとうな」

だから、そう言われた時は本当に嬉しかった。頭をぐしゃりと力強く撫でてくれて、笑っていた。相楽にそうしてもらえることまで計画しての、それだった。
昨日は何回もそうしてもらえる想像をしては心がほんの少し温まって、幸せだった。実際にしてもらえると、もっと嬉しくてやっと得られた。と思う。

だから結局は自分のためで。相楽みたいな良い子なんかじゃなくて、琉来はわがままな悪い子のままだった。

「喜んでもらえて、そ、その嬉しい」

散々に痛みが走っていたのに、触れられた頭の痛みが柔らかくなっている。
いつもは着崩している制服も今日はちゃんと着ているみたいで、またその姿もかっこよかった。

寂しい。その気持ちが溢れてしまいそうで、不意に言ってしまいそうで、怖かったけれど。精一杯悟られないように笑って見せた。
心の中では、こんなものしか渡せなくてごめんなさい、と謝りながら、笑うことしかできない自分が嫌だった。

「相楽ー、こっちこいよ。集合写真撮ろうぜ」

遠くからすぐに声が飛んでくる。明るく弾んだ元気な声。人気者の相楽は女の子に囲まれていたり、立派な花束をもらったり、学校内での成績優秀者として表彰されていた。だから忙しかっただろうに、相楽は僕なんかのためにわざわざその輪を抜けてきてくれていたのだ。

その輪で明るく騒ぐのが相楽の本来の姿なのだ、と思う。

「はいはい、わかったよ。すぐそっち行くから待ってろー」

「ごめん琉来。また、後で来るな」

瞬間悲しみが心に広がっていくのに、また笑う。相楽にそれが伝染してほしくないから。

「わかった。ぼ、ぼくのことなんて..気にしなくて..いいよ…」

「ほんとごめんな。絶対来るから帰んなよ」

引き止めてくれるその強い口調がまた大好きだった。

***

今日こそは必ず俺の家に連れて行こうと思っていた。卒業したらどうする、とか、お昼ご飯はどこで食べる、とか話したい内容が多かったのはもちろんだったけど。
琉来の疲れ切って一つ一つの動作が重たそうなのが続いて、昼食を吐き出してしまうことが長引いて、一度緊張のほぐれるところに、あるいは病院に連れて行きたかったのだ。

また断られるのかと心配していたのに、家に来ないかと言う誘いに琉来は珍しく素直についてきてくれたのだった。

「琉来ー、今日食べたいものある?」

「、?」

「ご飯じゃなくても、なんでも。アイスとかでもいいし。今日はお昼前に一緒に食材買いに行って、一緒に作ろ」

今まで約束して、叶えてあげられていなかったことだった。病院にいた間きっと、ずっと楽しみにしていたことだっただろう。一瞬嬉しそうに琉来ははっと目を見開いて、なのに、すぐにすっと細める。

「…だいじょぶ」

嬉しい、という気持ちとそれを殺して我慢しないと、という気持ち。押し合いして勝ったのは我慢する方だったのだろう。

小さな手を握りしめて、「今日は、相楽が好きなこと…する日だから」とこぼした。
「琉来がこの前、わがまま…その、い、言っちゃったから……反省してた」

機械みたいに抑揚のない声。俺くらいにならわがままを言えるようになって欲しいと思っていた。何度も飲み込んできた、甘えたいという気持ちを受け止めてやるのは俺が精一杯やるはずだったのに、上手に掬ってあげられなかったのは俺の力不足だったなと思う。

「なあ、琉来がしたいこと俺もしたいんだよ。わがままも言ってもいいから」

「……え、いい…そ、その…。でも本当に大丈夫」

そんなこんなで反省と、後悔とが混ざりながら歩いた道。
家が近づくにつれ、琉来はふらつき始めている。そっと支えを入れて歩いているが、それすら琉来は気がついていないようで。
こんなことしかしてやれない、安心させてやれない自分もまた、悔しいのだ。
どうして、こんなにも近くにいながら何もしてやれないのだろうか。



バタン、と、大きな音がしたのは家に着いてすぐのことだった。
靴を脱ぐ前に緊張の糸が切れるのが先だったのだろう、琉来が失神してしまったのだ。

あまりにも前触れがなさすぎて受け止めきれなかった。

「おい琉来、琉来ー?」

「…は、は……っ…うっ」

「気づかなくてごめん」

流石に焦ってすぐに抱き起こして怪我がないかを確認する。とは言っても、傷だらけの体は見分けがつかなかった。相当苦しかったのか、痛みがあったからか、小さな呻く声。

とりあえずベットだな。と思ってそのまま近くの寝室に連れていく。抱き抱えている琉来は小さく、浅く、痛みを逃すような呼吸を繰り返しながら、体はかなり熱を持っていた。

「ごめんな、本当にごめん」

そうなるまでに追い詰められて、苦しくなっていた琉来の体。痩せて軽い、まだ未発達な体。声変わりをしていない高いままの声、変形が見られる左足。
痛いほど琉来が受けてきた言葉と体の暴力。

ただでさえ身体が弱いのに。


とりあえず熱で汗をかいているから服を脱がして体を拭き、楽な服に着替えさせて休ませることにした。病院にいる間は眠るとどうせ悪夢を見るから、とやけに起きていたがって、3時を上回ってやっと寝る日もあれば「相楽の隣にいる時くらい起きていたい」と不意に溢したあたり寝るのは上手な方ではないはずだった。
実際、起きてみると泣いた跡があったり、朝霧に「琉来くん、昨日過呼吸になっちゃってね、お薬入れて眠っているところ」と言われることもあった。

そもそも朝霧が、もう2週間くらいは病院にいてほしいところなんだけどね、と言っていたのだから元々退院に万全な体ではなかった。
本来なら病院に今すぐにでも連れて行くべきだっただろう。兄貴に連絡を入れたのだが、忙しいのか繋がらなかった。それに琉来が病院に行きたがらないのはわかっていた。

過呼吸になった時にいつでも背中をさすってやれるように向かい合わせに抱っこしたまま椅子に座る。

胸に預けられた頭を支えて、背中をさすって、やっと表情が緩んでいく琉来を見て、胸が張り裂けそうな思いだった。思った以上に寝顔は幼い。
どうしたって解決の糸口が見えないもどかしさがただ苦しかった。

それから小一時間ほど勉強をしながら時折背中をさすっては汗を拭いたり、ずっとくっついた。意識が戻ったのかと思えば薄く目を開けてぼーっとした表情で「相楽、」と呼んでは「会いたかった」と言う。「俺も会いたかった」と返すと少し恥ずかしそうに微笑んで。小さな子供みたいに頬擦りしたり、ぎゅう、と服を握りしめたり。
そして、また力なく事切れたようにふっと意識がなくなる。

意識がもうちょっとはっきりした時に飲ませたいポカリや嘔吐した時に受ける袋も必要だと思って動こうとするのだが、わずかな振動で目をぱっと開いては「行かないで。待って。相楽待って」と必死に引き止めようとするものだから全然離れられなかった。

本当に長い間ゆっくりしていたと思う。久々に長い間一緒にいて、くっついていた。限界を大幅に超えているのだな、と感じると同時にその姿が本当はしたいこと、なのだろうなと思う。

とんとん、と体を揺らしながら一定のテンポで背中を叩いているとかなり落ち着いてくれるのだが顔色は2時間経っても悪いままだった。予定になく帰ってきてくれた母に相談すると「嫌がるだろうけど、」と坐薬を入れてくれたから熱は下がってきている。とはいえ、冷や汗もなかなか止まらない。何度も拭って、もう一回着替えさせたところ。

体が辛かったことをどうして帰り道に言ってくれなかったのだろう。寂しいとか、苦しいとか、心の奥底に沈む重たいものは言葉にすることで軽くなることを知っている。そして、溜め込んでしまうともっと苦しくなるのも知っている。

もう誰にも責められない遠くのどこかに逃げようか?

小さく声をかける。

そうしたら眠れるのなら、笑えるのなら。
俺が喜んでどこにでも連れて行きたい。

あと3年。大人になるまであと3年。

絶対に2人で暮らせるように準備をしておくつもりだと伝えたら?

━━━━━━━琉来は待っていてくれるだろうか。
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