4 / 47
2.借りていた手
2
しおりを挟む
妻の雪江の仏壇にお茶を供えようと台所から居間に向かう途中で、急に胸が苦しくなる。
思わず、盆ごと湯呑を落としそのまま崩れ落ちた。
遠くで湯呑が割れる音がする。
(……直さないと)
そう思ったのに、自らの体を真っ直ぐにすることが出来ない。
呼吸も出来ないくらい激しい胸の痛みに脂汗が滲む。欠片に手を伸ばそうとするが届かない。
目の前が暗く霞んでくる。
せめて一欠片だけでも、と僅かに指が触れた瞬間、最大の痛みが走って……。
「吾郎!」
――パンッ――
鋭い声と共に、耳元で柏手を打つ音が聞こえた瞬間、浅葱は現実に戻ってきた。
呆れたような表情の千草と、心配そうな信夫の顔。
「……すみません」
ため息と共に千草の小言が飛んでくる。
「不用意に触れるな。念がこもったものは人を取り込む。まぁ浅葱は吾(われ)の眷属だ、死ぬことはないだろうが。ただでさえ信夫はお前の真名を知っておる。用心しろ」
「……はい。申し訳ございません」
気まずい雰囲気が流れる。
まぁまぁ、と場を宥めたのは信夫だった。
「儂には時間がない。急ぎで直して欲しい」
チラリと千草は目線で浅葱に問いかける。
「もう大丈夫です。やれます」
気を取り直した浅葱は欠片に手をかざす。
浅葱の生まれ持った特異体質の一つだ。
対象のものに語りかけ、あるべき姿に戻す。
憑坐体質というのか、良くも悪くも影響されやすい浅葱は、逆に言えば影響を与えることも出来る。
今は千草の血の力の影響もあり、生前よりも強い能力を発揮出来る。
この程度の壊れた物を直すのは容易な作業だった。
ゆっくりと湯呑に語りかけ、それらが望む形に戻す。
そう時間もかからずに湯呑は、一見すると元の形に戻ったようだ。
「奥さんがいつも指を添える辺りは前と違って少し窪んでいます。前の形でしたら少し持ちにくいようだと言っていましたので」
信夫は直った湯呑を手にする。そして、満足そうに頷く。
「この湯呑を作ったあとに雪江がリウマチになってな。確かにこうするとあいつでも持ちやすいだろう」
まだまだ精進が足りんな、と笑う信夫に浅葱は首を振る。
「作られてまだ10年くらいなのに、湯呑自身がキチンとなりたい形を持っていました。大切に作られて大切に扱われていたんですね」
信夫は一言では言い表せない顔をする。それは雪江と歩んできた時間の深さを表していて、浅葱は羨ましく思う。
千草はそんな信夫の感情を読み取ることは出来ないのだろう。
僅かに鼻を鳴らす。
「そうだ、もう一つあるんじゃった」
思い出したように、信夫は千草に両手を差し出す。
「お狐様に貰ったお力をお返しします」
「……なんの。吾(われ)が与えたのはお前の父親のもので、元々はお前のものだ。あっちに持って行っても良いぞ」
信夫は首を振る。
「その親父の残された手の記憶が儂にはとても有難かった。本来なら親父が戦争で死んだ時に消えるはずのものだった。
残念ながら跡継ぎはおらん。お狐様にお返しして、もし望む者が現れたら引継いで頂きたい」
一度目を閉じた千草。彼女が再び目を開けた時には、その瞳は金色に輝いていた。
唄うような声が聞こえる。信夫はその声に誘導されるように目を閉じた。
※
「千草さん、もう……」
浅葱はそう言って首を振った。
目の前には空襲で殺られたのだろう、生きているのが不思議なくらいの状態で男が倒れていた。
「息子を……頼む」
目もよく見えていない様子の男は、腕の中で無事な様子の男の子を千草達に託そうとした。
多くの人の死を見てきたのだろう、男の子は泣き叫ぶこともなく父親の命が失われようとする様子をジッと見ていた。
「お前の望みを叶えてやろうか?」
千草の発言はほんの気まぐれだった。
戦時中の中、死ぬ人間は多い。全ての人間の望みを叶えることは出来ない。
だが、目の前で命を終えようとしている男には何か息子に残したいという強い想いがあった。
鬼気迫るような強い願い。
「千草さん!そんなことをしている場合では」
浅葱の焦る声が聞こえるが千草は目の前の男から目を離さなかった。
榛色の瞳が金色に変わる。そのタイミングで男が口を開いた。
「 」
ゲフッと血を吐きながら望みを伝える男の声は、もう言葉になっていなかった。
だが、千草には聞こえたようだ。
千草の口から祝詞のような声が紡ぎ出される。意味はわからないが、高く低く唄うように響く音。
千草が唄い終わると同時にコトリ、と赤い珠が男の目の前に転がった。
いつもの榛色の瞳に戻った千草が白い指でつまみ上げる。
「確かに。時期が来たら息子に与えよう」
もう男の耳には届かない。千草は浅葱と残された男の子ー信夫を連れてその場を去っていった。
思わず、盆ごと湯呑を落としそのまま崩れ落ちた。
遠くで湯呑が割れる音がする。
(……直さないと)
そう思ったのに、自らの体を真っ直ぐにすることが出来ない。
呼吸も出来ないくらい激しい胸の痛みに脂汗が滲む。欠片に手を伸ばそうとするが届かない。
目の前が暗く霞んでくる。
せめて一欠片だけでも、と僅かに指が触れた瞬間、最大の痛みが走って……。
「吾郎!」
――パンッ――
鋭い声と共に、耳元で柏手を打つ音が聞こえた瞬間、浅葱は現実に戻ってきた。
呆れたような表情の千草と、心配そうな信夫の顔。
「……すみません」
ため息と共に千草の小言が飛んでくる。
「不用意に触れるな。念がこもったものは人を取り込む。まぁ浅葱は吾(われ)の眷属だ、死ぬことはないだろうが。ただでさえ信夫はお前の真名を知っておる。用心しろ」
「……はい。申し訳ございません」
気まずい雰囲気が流れる。
まぁまぁ、と場を宥めたのは信夫だった。
「儂には時間がない。急ぎで直して欲しい」
チラリと千草は目線で浅葱に問いかける。
「もう大丈夫です。やれます」
気を取り直した浅葱は欠片に手をかざす。
浅葱の生まれ持った特異体質の一つだ。
対象のものに語りかけ、あるべき姿に戻す。
憑坐体質というのか、良くも悪くも影響されやすい浅葱は、逆に言えば影響を与えることも出来る。
今は千草の血の力の影響もあり、生前よりも強い能力を発揮出来る。
この程度の壊れた物を直すのは容易な作業だった。
ゆっくりと湯呑に語りかけ、それらが望む形に戻す。
そう時間もかからずに湯呑は、一見すると元の形に戻ったようだ。
「奥さんがいつも指を添える辺りは前と違って少し窪んでいます。前の形でしたら少し持ちにくいようだと言っていましたので」
信夫は直った湯呑を手にする。そして、満足そうに頷く。
「この湯呑を作ったあとに雪江がリウマチになってな。確かにこうするとあいつでも持ちやすいだろう」
まだまだ精進が足りんな、と笑う信夫に浅葱は首を振る。
「作られてまだ10年くらいなのに、湯呑自身がキチンとなりたい形を持っていました。大切に作られて大切に扱われていたんですね」
信夫は一言では言い表せない顔をする。それは雪江と歩んできた時間の深さを表していて、浅葱は羨ましく思う。
千草はそんな信夫の感情を読み取ることは出来ないのだろう。
僅かに鼻を鳴らす。
「そうだ、もう一つあるんじゃった」
思い出したように、信夫は千草に両手を差し出す。
「お狐様に貰ったお力をお返しします」
「……なんの。吾(われ)が与えたのはお前の父親のもので、元々はお前のものだ。あっちに持って行っても良いぞ」
信夫は首を振る。
「その親父の残された手の記憶が儂にはとても有難かった。本来なら親父が戦争で死んだ時に消えるはずのものだった。
残念ながら跡継ぎはおらん。お狐様にお返しして、もし望む者が現れたら引継いで頂きたい」
一度目を閉じた千草。彼女が再び目を開けた時には、その瞳は金色に輝いていた。
唄うような声が聞こえる。信夫はその声に誘導されるように目を閉じた。
※
「千草さん、もう……」
浅葱はそう言って首を振った。
目の前には空襲で殺られたのだろう、生きているのが不思議なくらいの状態で男が倒れていた。
「息子を……頼む」
目もよく見えていない様子の男は、腕の中で無事な様子の男の子を千草達に託そうとした。
多くの人の死を見てきたのだろう、男の子は泣き叫ぶこともなく父親の命が失われようとする様子をジッと見ていた。
「お前の望みを叶えてやろうか?」
千草の発言はほんの気まぐれだった。
戦時中の中、死ぬ人間は多い。全ての人間の望みを叶えることは出来ない。
だが、目の前で命を終えようとしている男には何か息子に残したいという強い想いがあった。
鬼気迫るような強い願い。
「千草さん!そんなことをしている場合では」
浅葱の焦る声が聞こえるが千草は目の前の男から目を離さなかった。
榛色の瞳が金色に変わる。そのタイミングで男が口を開いた。
「 」
ゲフッと血を吐きながら望みを伝える男の声は、もう言葉になっていなかった。
だが、千草には聞こえたようだ。
千草の口から祝詞のような声が紡ぎ出される。意味はわからないが、高く低く唄うように響く音。
千草が唄い終わると同時にコトリ、と赤い珠が男の目の前に転がった。
いつもの榛色の瞳に戻った千草が白い指でつまみ上げる。
「確かに。時期が来たら息子に与えよう」
もう男の耳には届かない。千草は浅葱と残された男の子ー信夫を連れてその場を去っていった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ニンジャマスター・ダイヤ
竹井ゴールド
キャラ文芸
沖縄県の手塚島で育った母子家庭の手塚大也は実母の死によって、東京の遠縁の大鳥家に引き取られる事となった。
大鳥家は大鳥コンツェルンの創業一族で、裏では日本を陰から守る政府機関・大鳥忍軍を率いる忍者一族だった。
沖縄県の手塚島で忍者の修行をして育った大也は東京に出て、忍者の争いに否応なく巻き込まれるのだった。
清く、正しく、たくましく~没落令嬢、出涸らしの姫をお守りします~
宮藤寧々
キャラ文芸
古き伝統と新しい文化が混じり合う、文明開化が謳われる時代――子爵令嬢の藤花は、両親亡き後、家の存続の為に身を粉にして働いていた。けれど、周囲の心無い振る舞いに傷付き、死を選ぶことを決める。
失意の藤花を支えたのは、幾つかの小さなご縁。
悪霊や妖怪を祓う家の産まれなのに霊力を持たない不遇の姫と、不思議な化け猫との、賑やかな生活が始まって――
幽子さんの謎解きレポート~しんいち君と霊感少女幽子さんの実話を元にした本格心霊ミステリー~
しんいち
キャラ文芸
オカルト好きの少年、「しんいち」は、小学生の時、彼が通う合気道の道場でお婆さんにつれられてきた不思議な少女と出会う。
のちに「幽子」と呼ばれる事になる少女との始めての出会いだった。
彼女には「霊感」と言われる、人の目には見えない物を感じ取る能力を秘めていた。しんいちはそんな彼女と友達になることを決意する。
そして高校生になった二人は、様々な怪奇でミステリアスな事件に関わっていくことになる。 事件を通じて出会う人々や経験は、彼らの成長を促し、友情を深めていく。
しかし、幽子にはしんいちにも秘密にしている一つの「想い」があった。
その想いとは一体何なのか?物語が進むにつれて、彼女の心の奥に秘められた真実が明らかになっていく。
友情と成長、そして幽子の隠された想いが交錯するミステリアスな物語。あなたも、しんいちと幽子の冒険に心を躍らせてみませんか?
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
鬼と私の約束~あやかしバーでバーメイド、はじめました~
さっぱろこ
キャラ文芸
本文の修正が終わりましたので、執筆を再開します。
第6回キャラ文芸大賞 奨励賞頂きました。
* * *
家族に疎まれ、友達もいない甘祢(あまね)は、明日から無職になる。
そんな夜に足を踏み入れた京都の路地で謎の男に襲われかけたところを不思議な少年、伊吹(いぶき)に助けられた。
人間とは少し違う不思議な匂いがすると言われ連れて行かれた先は、あやかしなどが住まう時空の京都租界を統べるアジトとなるバー「OROCHI」。伊吹は京都租界のボスだった。
OROCHIで女性バーテン、つまりバーメイドとして働くことになった甘祢は、人間界でモデルとしても働くバーテンの夜都賀(やつが)に仕事を教わることになる。
そうするうちになぜか徐々に敵対勢力との抗争に巻き込まれていき――
初めての投稿です。色々と手探りですが楽しく書いていこうと思います。
ようこそ猫カフェ『ネコまっしぐランド』〜我々はネコ娘である〜
根上真気
キャラ文芸
日常系ドタバタ☆ネコ娘コメディ!!猫好きの大学二年生=猫実好和は、ひょんなことから猫カフェでバイトすることに。しかしそこは...ネコ娘達が働く猫カフェだった!猫カフェを舞台に可愛いネコ娘達が大活躍する?プロットなし!一体物語はどうなるのか?作者もわからない!!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる