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2.借りていた手

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妻の雪江の仏壇にお茶を供えようと台所から居間に向かう途中で、急に胸が苦しくなる。
思わず、盆ごと湯呑を落としそのまま崩れ落ちた。
遠くで湯呑が割れる音がする。
(……直さないと)
そう思ったのに、自らの体を真っ直ぐにすることが出来ない。
呼吸も出来ないくらい激しい胸の痛みに脂汗が滲む。欠片に手を伸ばそうとするが届かない。
目の前が暗く霞んでくる。
せめて一欠片だけでも、と僅かに指が触れた瞬間、最大の痛みが走って……。


「吾郎!」

――パンッ――


鋭い声と共に、耳元で柏手を打つ音が聞こえた瞬間、浅葱は現実に戻ってきた。
呆れたような表情の千草と、心配そうな信夫の顔。
「……すみません」
ため息と共に千草の小言が飛んでくる。
「不用意に触れるな。念がこもったものは人を取り込む。まぁ浅葱は吾(われ)の眷属だ、死ぬことはないだろうが。ただでさえ信夫はお前の真名を知っておる。用心しろ」
「……はい。申し訳ございません」
気まずい雰囲気が流れる。


まぁまぁ、と場を宥めたのは信夫だった。
「儂には時間がない。急ぎで直して欲しい」
チラリと千草は目線で浅葱に問いかける。
「もう大丈夫です。やれます」
気を取り直した浅葱は欠片に手をかざす。


浅葱の生まれ持った特異体質の一つだ。
対象のものに語りかけ、あるべき姿に戻す。
憑坐体質というのか、良くも悪くも影響されやすい浅葱は、逆に言えば影響を与えることも出来る。
今は千草の血の力の影響もあり、生前よりも強い能力を発揮出来る。
この程度の壊れた物を直すのは容易な作業だった。

ゆっくりと湯呑に語りかけ、それらが望む形に戻す。
そう時間もかからずに湯呑は、一見すると元の形に戻ったようだ。
「奥さんがいつも指を添える辺りは前と違って少し窪んでいます。前の形でしたら少し持ちにくいようだと言っていましたので」
信夫は直った湯呑を手にする。そして、満足そうに頷く。
「この湯呑を作ったあとに雪江がリウマチになってな。確かにこうするとあいつでも持ちやすいだろう」
まだまだ精進が足りんな、と笑う信夫に浅葱は首を振る。
「作られてまだ10年くらいなのに、湯呑自身がキチンとなりたい形を持っていました。大切に作られて大切に扱われていたんですね」

信夫は一言では言い表せない顔をする。それは雪江と歩んできた時間の深さを表していて、浅葱は羨ましく思う。
千草はそんな信夫の感情を読み取ることは出来ないのだろう。
僅かに鼻を鳴らす。


「そうだ、もう一つあるんじゃった」
思い出したように、信夫は千草に両手を差し出す。
「お狐様に貰ったお力をお返しします」
「……なんの。吾(われ)が与えたのはお前の父親のもので、元々はお前のものだ。あっちに持って行っても良いぞ」
信夫は首を振る。
「その親父の残された手の記憶が儂にはとても有難かった。本来なら親父が戦争で死んだ時に消えるはずのものだった。
残念ながら跡継ぎはおらん。お狐様にお返しして、もし望む者が現れたら引継いで頂きたい」

一度目を閉じた千草。彼女が再び目を開けた時には、その瞳は金色に輝いていた。

唄うような声が聞こえる。信夫はその声に誘導されるように目を閉じた。



「千草さん、もう……」
浅葱はそう言って首を振った。
目の前には空襲で殺られたのだろう、生きているのが不思議なくらいの状態で男が倒れていた。
「息子を……頼む」
目もよく見えていない様子の男は、腕の中で無事な様子の男の子を千草達に託そうとした。
多くの人の死を見てきたのだろう、男の子は泣き叫ぶこともなく父親の命が失われようとする様子をジッと見ていた。

「お前の望みを叶えてやろうか?」
千草の発言はほんの気まぐれだった。
戦時中の中、死ぬ人間は多い。全ての人間の望みを叶えることは出来ない。
だが、目の前で命を終えようとしている男には何か息子に残したいという強い想いがあった。
鬼気迫るような強い願い。

「千草さん!そんなことをしている場合では」
浅葱の焦る声が聞こえるが千草は目の前の男から目を離さなかった。
榛色の瞳が金色に変わる。そのタイミングで男が口を開いた。
「     」
ゲフッと血を吐きながら望みを伝える男の声は、もう言葉になっていなかった。
だが、千草には聞こえたようだ。

千草の口から祝詞のような声が紡ぎ出される。意味はわからないが、高く低く唄うように響く音。

千草が唄い終わると同時にコトリ、と赤い珠が男の目の前に転がった。
いつもの榛色の瞳に戻った千草が白い指でつまみ上げる。
「確かに。時期が来たら息子に与えよう」
もう男の耳には届かない。千草は浅葱と残された男の子ー信夫を連れてその場を去っていった。


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