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心と向き合う4
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上京した千尋は忙しかった。
俊樹の結婚相手のご両親との顔合わせに始まり、仕事の関係者に挨拶に回ったり、大学の友人と会ったり。
久しぶりに刺激のある毎日に千尋はワクワクしていた。
「村上はこれからどんな翻訳家になるんだ?」
昔勤めていて今でも仕事を貰っている会社の社長に挨拶に行った際に言われた。
「悩んでいます」
社長の言わんとしていることは分かっていた。千尋も何度も考えていることだった。
「産業翻訳で行くか、出版翻訳もするのか。片手間でやるのか、生業としてやるのか、そろそろ決めておけよ。
いつまでも俺のところの専属でやるのも良いが、先は見えているからな」
暗に俺の元を離れろという社長ならではの励ましに千尋は有難く思う。こういう言葉をかけてくれる存在は貴重だ。
「分かりました。いつもありがとうございます、社長」
席を立った千尋に社長は声をかけた。
「柳田に会いたくないから、といってお前のやりたいことを潰すことは止めとけよ」
社長からの言葉に千尋は微笑む。自分は周りに恵まれている。それはとても幸せなことだ。
「ありがとうございます。ずっとお世話になりっぱなしで。キチンと考えて答え出します」
「おう」
社長は短い言葉に最大限の応援の気持ちを込めた返事をして千尋を送り出した。
ホテルに帰った千尋は、社長の言葉を思い出し考え込んでいた。
武史のこと、柳田のこと、仕事のこと。
今千尋は岐路に立っている。
自分のこの先の運命を決める選択肢だ。
近いうちに決断をしないといけない。
そのためには、自分の心と向き合わないとダメだということもわかっている。
「いつまでも逃げられないもんね」
ため息を一つつき、明日のパーティーに着ていく服を見つめる。
別れを告げた日から、初めて柳田と会う。
その時の自分の心がどう動くのかは、まだ分からなかった。
「千尋さん、食べていますか?」
「うん、ありがとう。適当につまんでいるよ」
本当は食欲はなかったが、美香を心配させないように答える。
顔見知りと挨拶をし、紹介された人と名刺交換をしつつ、自分を売り込む。
フリーランスには必要な作業だった。
半年以上このような華やかな場所から離れていた千尋にとっては、人の多さに酔いそうになる。
ちょうど一通り挨拶も終わった頃、そっと会場から抜け出す。
お手洗いで身なりを整え気合いを入れると、もうひと仕事と自分を鼓舞し、会場に戻るところだった。
「千尋」
後ろから低い声で呼び止められた。
振り向かなくても呼び止めた人が誰か分かっていた。
お手洗いに行く間に喫煙所があったな、と今更ながら思い出すがもう遅い。
何度もシミュレーションしていたはずだったのに、いざその時が来たら何も出来ないままその場で固まってしまった。
「そこは邪魔になる」
柳田が手を引っ張り、廊下の端の人目につかないところに連れていく。
先程までタバコを吸っていたのだろう。電子タバコ特有の香りがする。
「お久しぶりです」
タバコの匂いにクラクラする頭で何とか顔を上げ、その言葉だけを絞り出した。
その言葉に何を思ったのだろう。柳田は片眉を上げて皮肉そうに笑う。
彼特有の笑い方だ。
変わっていないと思った時にはキスをされていた。
抵抗は許さないというように激しいキスに頭は混乱する。
今まで彼にこのような思いのこもったキスはされたことは無かった。
もっというと、柳田からキスされたのも片手で足りるくらいだ。
一瞬放心状態に陥った千尋だったが、ハッと気付き、柳田の腕から逃げ出そうともがく。
だが、千尋の抵抗は細身といえども男の力でねじ伏せている柳田にとっては些細なことだった。
それでも一瞬の隙をついて突き飛ばした。
肩で息をしながら千尋は警戒するように柳田と距離を取る。
リップのついた唇を手の甲で拭った柳田は、意地悪そうに笑った。
「山崎くんの言ったとおりだな。男が出来たか」
「あなたには関係ないはずです」
キッと睨みつけるが、そのことすら柳田は可笑しいようだ。
「初めだけ読んだよ、お前の文章。装丁を頼まれたけど、断った。意味は分かるな?
……せっかくの才能を無駄にするのか?」
冷水を浴びせられたような気分だった。
そして、その事に愕然とした。
読者ではなく、自分の評価基準が柳田になっていることに。
目を見開いたまま固まっている千尋に柳田は名刺の裏に何かを書きつけて差し出した。
受け取る素振りを見せない千尋の右手に強引に握らせると一方的に伝えて去っていった。
「連絡しろ、必ず。お前に仕事を用意している。そして居場所も。分かったな」
俊樹の結婚相手のご両親との顔合わせに始まり、仕事の関係者に挨拶に回ったり、大学の友人と会ったり。
久しぶりに刺激のある毎日に千尋はワクワクしていた。
「村上はこれからどんな翻訳家になるんだ?」
昔勤めていて今でも仕事を貰っている会社の社長に挨拶に行った際に言われた。
「悩んでいます」
社長の言わんとしていることは分かっていた。千尋も何度も考えていることだった。
「産業翻訳で行くか、出版翻訳もするのか。片手間でやるのか、生業としてやるのか、そろそろ決めておけよ。
いつまでも俺のところの専属でやるのも良いが、先は見えているからな」
暗に俺の元を離れろという社長ならではの励ましに千尋は有難く思う。こういう言葉をかけてくれる存在は貴重だ。
「分かりました。いつもありがとうございます、社長」
席を立った千尋に社長は声をかけた。
「柳田に会いたくないから、といってお前のやりたいことを潰すことは止めとけよ」
社長からの言葉に千尋は微笑む。自分は周りに恵まれている。それはとても幸せなことだ。
「ありがとうございます。ずっとお世話になりっぱなしで。キチンと考えて答え出します」
「おう」
社長は短い言葉に最大限の応援の気持ちを込めた返事をして千尋を送り出した。
ホテルに帰った千尋は、社長の言葉を思い出し考え込んでいた。
武史のこと、柳田のこと、仕事のこと。
今千尋は岐路に立っている。
自分のこの先の運命を決める選択肢だ。
近いうちに決断をしないといけない。
そのためには、自分の心と向き合わないとダメだということもわかっている。
「いつまでも逃げられないもんね」
ため息を一つつき、明日のパーティーに着ていく服を見つめる。
別れを告げた日から、初めて柳田と会う。
その時の自分の心がどう動くのかは、まだ分からなかった。
「千尋さん、食べていますか?」
「うん、ありがとう。適当につまんでいるよ」
本当は食欲はなかったが、美香を心配させないように答える。
顔見知りと挨拶をし、紹介された人と名刺交換をしつつ、自分を売り込む。
フリーランスには必要な作業だった。
半年以上このような華やかな場所から離れていた千尋にとっては、人の多さに酔いそうになる。
ちょうど一通り挨拶も終わった頃、そっと会場から抜け出す。
お手洗いで身なりを整え気合いを入れると、もうひと仕事と自分を鼓舞し、会場に戻るところだった。
「千尋」
後ろから低い声で呼び止められた。
振り向かなくても呼び止めた人が誰か分かっていた。
お手洗いに行く間に喫煙所があったな、と今更ながら思い出すがもう遅い。
何度もシミュレーションしていたはずだったのに、いざその時が来たら何も出来ないままその場で固まってしまった。
「そこは邪魔になる」
柳田が手を引っ張り、廊下の端の人目につかないところに連れていく。
先程までタバコを吸っていたのだろう。電子タバコ特有の香りがする。
「お久しぶりです」
タバコの匂いにクラクラする頭で何とか顔を上げ、その言葉だけを絞り出した。
その言葉に何を思ったのだろう。柳田は片眉を上げて皮肉そうに笑う。
彼特有の笑い方だ。
変わっていないと思った時にはキスをされていた。
抵抗は許さないというように激しいキスに頭は混乱する。
今まで彼にこのような思いのこもったキスはされたことは無かった。
もっというと、柳田からキスされたのも片手で足りるくらいだ。
一瞬放心状態に陥った千尋だったが、ハッと気付き、柳田の腕から逃げ出そうともがく。
だが、千尋の抵抗は細身といえども男の力でねじ伏せている柳田にとっては些細なことだった。
それでも一瞬の隙をついて突き飛ばした。
肩で息をしながら千尋は警戒するように柳田と距離を取る。
リップのついた唇を手の甲で拭った柳田は、意地悪そうに笑った。
「山崎くんの言ったとおりだな。男が出来たか」
「あなたには関係ないはずです」
キッと睨みつけるが、そのことすら柳田は可笑しいようだ。
「初めだけ読んだよ、お前の文章。装丁を頼まれたけど、断った。意味は分かるな?
……せっかくの才能を無駄にするのか?」
冷水を浴びせられたような気分だった。
そして、その事に愕然とした。
読者ではなく、自分の評価基準が柳田になっていることに。
目を見開いたまま固まっている千尋に柳田は名刺の裏に何かを書きつけて差し出した。
受け取る素振りを見せない千尋の右手に強引に握らせると一方的に伝えて去っていった。
「連絡しろ、必ず。お前に仕事を用意している。そして居場所も。分かったな」
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