傷ついた心を癒すのは大きな愛

雪本 風香

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動く歯車4

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あの時の千尋の表情は、どういう意味だったのだろう。
秀樹が側にいることも忘れ、物思いにふける。
あのまま想いを伝えていたら、千尋は拒んでいただろう。
それでもあの迷うようなツラそうな表情は何だったのか。
少しは期待してもいいのか。
まだ柳田のことを完全に思い出になっている訳ではないことは知っている。
それでも、あの時見せた揺らぎは間違いなく武史に対してだった。
今まで柳田のこと以外ではマイナスな感情を見せなかった千尋が見せた綻び。
それは、千尋の心が武史に対して揺らいでいると思ってもいいものなのか。

「あんな表情見せられたら、我慢できるもんもできんなるわ」
長い間思案したあとだった。秀樹が横にいることも忘れ、思わず呟いた言葉。
勿論秀樹はすぐに食らいつく。
「千尋ちゃんと何があったんや!」
しまったと思ったがもう遅い。
しつこく食い下がる秀樹に勘弁したように言う。
「何も無いから困っとんや!」
顔を真っ赤にしながら目線を逸らす武史は愚痴る。
「一緒に住むんやなかったわ。……タガが外れそうになる」
「たまには外してもええやろ」
ジロリと秀樹を睨みつける。
「お前が邪魔したんやろが」
「え?いつや?」
再びしまった、という顔をする。今日の武史はボロが出まくりだ。
長い付き合いだが、ここまで感情が垂れ流しも珍しい。
勿論、全て白状させるまで帰す気はなかった。




(仕事なくてよかったわ)
酒には強いはずだったが、昨日は久々にしこたま飲まされた。
何となく重い頭を抱えながら、水を求めて台所に向かう。
「おはよう。早いな」
「……っつ!おはよ」
驚いた様子の千尋を横目に、コップを手に取り水を飲む。
目が腫れているのには気づいたが、まだ腹の虫は治まっていない。敢えて触れずに水を飲み干す。
その様子を見ていた千尋は探るように武史に尋ねる。
「タケちゃん、昨日どこまで覚えている?」
「昨日?」

武史は昨日のことを思い出す。
飲みすぎても記憶は飛ばないタイプだ。
勿論すべて覚えていた。
だが……

「俺、何かしたか?」
その返事で千尋はどこかホッとしたような顔をする。
「覚えていないんだ」
心の底から安堵したような千尋の言葉に胸の奥が痛む。
だが、表情には出さずに続きを促すように千尋の言葉を待つ。
「トラの尻尾踏んで引っかかれていたよ。後で謝っておいてね」
千尋の指先を追いかけるように足元を見ると、確かに引っかき傷があった。
(トラには悪いことしたけんな)
「後でトラのおやつ買ってきて詫びるわ」
千尋は黙って頷いた。


自室に戻った千尋は、ほうっと深いため息をついた。
(タケちゃんが覚えていなくてよかった)
そっと自分の唇を指でなぞる。昨日武史にキスをされた感触はまだ覚えている。


昨日、秀樹と共に帰ってきた武史は、さっさと家に上がり、シャワーを浴び始めた。
玄関の框に腰掛けた秀樹はそんな武史のの様子に笑う。
「久しぶりに飲ませすぎたわ。千尋ちゃん、よければ水もらえる?」
千尋が持ってきた水を美味しそうに飲み干すと、秀樹は言った。
「見えんやろうけどあいつに浴びるほど酒飲ませとるけん、面白いほど感情ダダ漏れなんよ。
だから、あいつが風呂出て部屋戻るまで見とくわ。
……それとも千尋ちゃん、あいつの気持ち受け止める自信ある?」
口調はおちゃらけているが、眼差しは真剣な秀樹に語りかけられ、スルリと言葉が出てきた。
「まだ、親戚だからって思いたい。まだ前の人を忘れられたわけでもない。けど……それでもタケちゃんがそれ以上の関係を望むなら、私も真剣に考えたい。
タケちゃんや秀樹くんが欲しい答えが出せる保証はないけど、ちゃんと向き合って答えを出そうと思う」

自然に出てきた言葉だった。
向き合うのが怖い。それでも向き合いたい。
1週間前、電話で中断された武史の言葉の続き。
それを聞く心づもりはできていた。

千尋の言葉に秀樹は満足そうに頷くと、コップを千尋に返す。
「なら、俺は帰るわ。あとは頼むな」

秀樹が帰ったタイミングで武史が風呂から出てくる。
帰ってきた時には気づかなかったが、少し酔っ払っているようで顔が赤い。
声をかけようと思った時に、エサをねだろうとすり寄ってきたトラの尻尾を武史が踏んだ。
「ふぎゃー!!」
「っつ!」
足を思いっきり引っかかれた武史と、毛を逆立てながら怒るトラ。
突然のことにどうするか一瞬フリーズするが、幸いにも武史の傷は深くないようだ。
千尋はトラにエサをやることを優先した。
台所に行き、トラのエサを取る。
「トラ、ごめんね」
そう言ってエサを器に入れるが、怒っているトラは近づいてこない。
しばらくしゃがんでトラの様子を見守る。いつもと変わらぬ歩き方を見て千尋は安堵のため息をつく。 

「タケちゃん、トラだいじょっ……」
立ち上がりながら振り向くといつの間にか武史がすぐ側にいた。
抱きしめられたと思った瞬間、唇が重なった。
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