上 下
29 / 61

選択肢5

しおりを挟む
「そういえば東京帰るんか?」
帰りの車で武史が千尋に確認する。
「あれ?元々あの家に住まわせてもらうの、1年の約束でしょ?まだ、東京に戻るかどうかは決めていないけどね」
「......聞いとらん」
「もしかしたら、敏子おばちゃんにしか言っていなかったかも。ごめんね、タケちゃん」
(あと8ヶ月か)
「千尋がおらんなったら寂しなるな、トラが」
横で千尋が口を尖らせる。
「トラだけだよ、寂しがってくれるのは」
「怒んなや。……俺かて寂しいわ。千尋の飯食えんなるしな」
「ありがとう。タケちゃんよく食べてくれるから作りがいあるよ」
千尋は嬉しそうに笑う。

ふと、真顔になると千尋はポツリと呟く。
「今は何とかなるけど、どうしてもツテとか情報は東京の方が強いしね。まだどうするか考え中だけど、正直色々迷っている」
初めて聞いた千尋の仕事の悩み。ずっと地元でしている武史には想像することしか出来ない。
「東京はやっぱりすごいんか?」
「うん。ツテも人脈もない私が独立したとき、努力次第で一人で食べていけるくらいのお仕事は貰えていたから。その代わり何かに追われている感じだったけど」
最初は締切がタイトな無茶な仕事も引き受けていたしね、と付け加える。
「この町でゆっくりした空気の中でする仕事も素敵だけどね」

東京とこの町で流れる時間の速さは全然違う。
東京では全てが慌ただしく、駆け足でないと取り残される感覚だった。
自分を振り返ることなく、ただがむしゃらに仕事をする。
そうして得た人脈や、経験。それは、千尋の今の仕事を支えている全てだった。
この町に来て、働き方を変えてゆったりした気分で仕事をすることは、とても心地よかった。
だけど、以前のような自分を追い詰み、がむしゃらに働く中で生まれる言葉達がいることも知っていた。
作者の思いを読者に届けるための大事な言葉。
自ら新しい何かを生み出すことが出来ない千尋にとっては、言葉はとても重いものだった。
だからこそ、ピッタリの表現を見つけた時は身震いする程嬉しかった。

だけど、この町に来てゆったりとした時間を過ごす中で気づいたこともある。
今まで蔑ろにしていた自分自身だ。
ここで過ごす内に好きなものが増えた。

縁側でうたた寝しているトラの横で洋書を読むのが好きだ。
朝、夜明け前に近所の川辺に行って日の出を見ながらおにぎりを食べるのが好きだ。
釣りをしている武史の横で、海を見ながら取り留めのない会話をして過ごすのが好きだ。
美味しいと言ってくれる武史のために料理を作るのが好きだ。
買い物の時に近所の人と他愛もない話をするのが好きだ。

自分の中に日常でこんなに沢山心を満たされることがあることを知らなかった。
知らず知らずの内に心を封印して生きていたのだろう。
ここにいれば、取り繕うことなくありのままの自分でいられる。
その中で翻訳した仕事は、自分でも変化がわかるくらい優しい文章になっていた。

「両方は選べんのか?」
武史の物言いはストレートだ。考え方もとてもシンプルで、ありのままを受け止める。
ぐちゃぐちゃ余計なことを考えてしまう千尋には出来ないことだから、単純だなぁ、と思うと同時に羨ましくもある。
「分かんない。両方選べるのか、それとも片方しかダメなのか……。また違う道も出てくるかもしれないし」
そのタイミングで家に着いた。車を家の駐車場に入れると武史は口を開いた。
「なら、まずは何も考えんと目の前のことを一つ一つ片付けていくことやな。考えてもしゃーないしな」
武史の口癖の「しゃーないしな」を聞くと、ごちゃごちゃ考えていた自分の悩みが大したことじゃないように思える。
こういうところが、武史と一緒にいて居心地がいい理由なのだろう。
必要以上に考え込まなくて済むし、悩みのループにハマっていると救い出してくれる。


「タケちゃん」
「ん?」
「ありがとうね」
彼といてどれだけ救われているか。
柳田のこと、仕事のこと、千尋自身のこと……。
いつかキチンとお礼をしないといけないと思いつつ、今は言葉だけ伝える。
「何もしとらんけど、どういたしまして」
ニカッと笑う武史につられて千尋も笑顔を見せた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

クールな御曹司の溺愛ペットになりました

あさの紅茶
恋愛
旧題:クールな御曹司の溺愛ペット やばい、やばい、やばい。 非常にやばい。 片山千咲(22) 大学を卒業後、未だ就職決まらず。 「もー、夏菜の会社で雇ってよぉ」 親友の夏菜に泣きつくも、呆れられるばかり。 なのに……。 「就職先が決まらないらしいな。だったら俺の手伝いをしないか?」 塚本一成(27) 夏菜のお兄さんからのまさかの打診。 高校生の時、一成さんに告白して玉砕している私。 いや、それはちょっと……と遠慮していたんだけど、親からのプレッシャーに負けて働くことに。 とっくに気持ちの整理はできているはずだったのに、一成さんの大人の魅力にあてられてドキドキが止まらない……。 ********** このお話は他のサイトにも掲載しています

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

処理中です...