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終章「縁の言霊」
第61話 命の封印
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朦朧とした意識の中で、美波は懐かしい声を聞いていた。
『美波……美波』
「おかあ……さん?」
暖かさの中で、美波は意識を覚醒させる。ずっと会いたくて、ずっと話したくて、今ではそれが叶わない大切な人の声が、十年ぶりにそこにあったから。
『美波、おはよう』
「お母さん……生きてたの?」
美波の目の前には、あの日の紗那がいた。夢の中でもいい、その姿に会えたことが美波には嬉しかった。
だが、美波の言葉に紗那は悲しげに頭を振った。再会の喜びを分かち合う時間もなく、紗那は語る。
『私はもう死んでるの、あの十年前の時に』
「十年前……」
『時間がないわ。もうすぐ鵺が再度の攻撃を始めるはず。だから、あなたに一つだけ聞くわ』
「なに?」
『あの日、何があったかを知る勇気はある?』
「……っ!」
胸が締め付けられる痛みがあった。今でも時折思い出す最後の時、紗那が橋から飛び降りた夕暮れの芦原大橋の光景を。
『あなたが思い出せないのは、私が死の間際にその記憶を封じたからなの。だから、私の力を使えばそれを解くことができる……だけど』
「何があったのか、全部思い出しちゃうんだね?」
紗那がうなずく。幼子に苛烈な光景を見せたくなかったからこそ、最後の時に紗那は一部始終を封じた。だが、生来の岐の力が影響したのか、美波の記憶封印は不完全だった。それ故に鵺に刺激されて最も強く印象に残った部分の封印だけが解けてしまったのだ。
「……それが、カイくんとミサキさんを助けることに繋がるんだよね?」
だが、迷いなく美波はうなずいた。
「いいよ、お母さん。私はカイくんの……大好きな男の子の力になりたいから」
『あら、海斗君のお嫁さんになるって本気になったの?』
「もー、こんな時に茶化さないでよ」
『ふふ、でもまあ、どうやらそれも叶いそうだから良しとしますか』
「え?」
『こっちの話よ。それじゃ、早速始めましょう、美波』
紗那が美波に手を差し出す。その手を美波が取る。
『あの日、美波との帰り道に起きた全てのこと……それがこれよ』
「――っ!」
紗那の霊力が光となって美波を包み込む、記憶の扉を縛っていた鎖が解け、封じられていたものが美波の目の前に広がっていく。
◇ ◇ ◇
それは、幸せな光景だった。夕陽の中で降る雨、狐の嫁入りの話をして、狐の窓を教えてもらって、美波の花嫁姿を楽しみにしていると話した――その直後。
「……まさか」
「お母さん?」
紗那が自転車を止めた。その視線の先には一人の少年が歩いて向かって来ていた。
「……やあ、ごきげんよう。良い夕陽だね」
「あなた……人間じゃないわね」
「おや、いきなり当たりとは運がいい」
少年が顔を上げる。その表情は読み取れない、顔がないから。
「完全復活前の肩慣らしだ……せいぜい楽しませてくれよ、人間」
「くっ……!」
少年――鵺が放った邪気が一瞬で芦原大橋を覆う。紗那はとっさに霊力を解き放ち、簡易の結界をその場に作る。
「絶対に、ここから動いちゃだめよ、美波!」
「う、うん」
美波を置いて紗那が走り出す。鵺の姿は少年から獣に変わる。翼を広げた猛獣の姿を現した。
「韓非子に曰く、『虎に翼』なんてね」
「まずい……伊薙家はまだ戦える人が育っていない!」
祖父の武志は高齢、末裔の海斗は美波と同じ七歳。家長である海斗の父は武道の心得はあるものの、仕事で出張中だ。血を引いていない嫁の咲耶は論外だ。
「どうして、こんな時に鵺が蘇ったの!」
「封印に綻びができててね、力と意識の一部を外に出してみたのさ。どうやら伊薙も岐も万全じゃないみたいだ。これは僕にとって四百年の我慢は吉と出たみたいだ!」
「そうはさせないわ。あなたはここで止める。例え伊薙がいなくても!」
祓いの力を漲らせる。印を結び、術を発動させるために祝詞を口ずさむ。
「岐の御名にて咎懲む――」
「舐めてるのか?」
だが、その術はあっさりと弾かれる。鵺が翼を広げる。紗那が行った術をさらに上回る力を開放する。
「先祖二人でようやく封じたこの鵺を、お前一人でどうにかできると思ったのか!」
邪気が鵺の周囲に集う。高まった邪悪な気が火花を発し、強大な力となって紗那に光と力を放つ。
「ぐうっ……!? あああああっ!」
放たれた雷が紗那を襲った。霊力で張った障壁でそれを防ぐが、その威力が想定をはるかに超えている。防ぎきるだけで力の大半を削られてしまった。
「ハハハ! 威勢が良かったくせに、もう消耗したのか。まだ岐春の方が歯ごたえがあったぞ!」
「これが……鵺」
先祖から伝え聞いていた妖の存在。しかし、岐春がそれを封じてからこの四百年で遭遇したのは紗那が初めてだ。長い歴史の中で、人によって伝えられていく中でその強大さが十分に伝わらなくなっていたのだ。
「勝てない……私一人じゃ。でも!」
後ろにいる愛娘だけは守り通さなければならない。まだ美波は何が起きているのかまるでわかっていない。突然発生した雷に身を縮こまらせている。こんな危険な場所に居ていい存在ではないのだ。
「普通に生きて、普通に恋して、普通に家庭を作って……そんな生活をさせてあげたいのよ、美波には!」
幼い頃から過酷な修行が始まった。どうしてこんな目に遭うのだろうと親を恨んだこともある。だが、その力を伝えなければならない一族に生まれた、退魔の一族に生まれたからこそ力を得なければ誰も守ることができないと耐え忍んだ。
「たとえ刺し違えてでも、この子だけは守ってみせる! それが岐の……人を守る術を伝えて来た私の使命なのよ!」
美波ももうすぐ訓練を始める時期だ。だが、家庭をもって分かった。岐の宿命に、過酷な運命に我が子を本当は関わらせたくない。だけど、力を持たなければこの小さな命はすぐに消えてしまう。四百年の因縁から守るためにも、彼女に岐の力を伝えなければならないのだ。
「そいつが次の岐か……お前の次はそいつの番だ!」
「あなたは、ここにいたらいけない……この世界にいていい存在じゃない!」
再び襲う雷に懐から取り出した勾玉を投げ放つ。
「そいつは!?」
「岐の勾玉の力、思い知りなさい!」
砕け散った勾玉から膨大な霊力が溢れ出る。先ほどを超える力の障壁で受け止め、鵺が面食らった隙に紗那は祝詞を唱える。
「馬鹿め、お前の術は効かないと分かったばかり――」
「誰が一個だけって言ったのよ!」
続いて二つ目の勾玉を投げ放つ。砕けた勾玉が紗那の術を増幅し、鵺に強烈な一撃を加える。
「ぬうっ!」
「あと二個……っ!」
「……これが勾玉の力か」
だが、鵺が不敵に笑う。紗那の使う勾玉を興味深そうに眺め、それが自分の本体を縛り付けていたあの洞窟の封印。要石に使われていることを彼は知っていた。
「そいつを使えば、もっと面白いことになりそうだ!」
鵺の眼がギラリと光る。その先に標的を定め、一直線に走り出す。だが、それは紗那に向けてではない。
「しまった!?」
紗那が走る。鵺の巨体が向かうのは自転車の上で怯えている美波。
「美波っ!」
先にたどり着いた紗那が美波を抱え込む。そして、その直後に鵺の爪が――。
「おかあ……さん?」
「くっ……大丈夫、美波?」
顔を上げる美波に紗那は笑顔で返す。だが、その背中には深々と鵺の爪が立てられていた。
「くくく……親子の愛情とやらか。自分の身を挺してでも子供を守る……実に人間らしくて、弱い奴らが身を寄せ合う滑稽な姿に見えるよ!」
紗那から爪を引き抜いた。心臓に直結する血管を傷つけたその一撃は致命傷だった。だが、最後まで紗那は美波に苦しい姿を見せないように気丈に振る舞った。
「ねえ、何が起きてるの? お母さん、怪我したの?」
「大丈夫……大丈夫だから。美波はなーんにも心配しなくていいんだから」
鵺が翼を広げ、空へと舞い上がった。このまま逃がせば鵺は勾玉を得てこの世で暴れ出す。それだけはさせるわけにはいかない。美波をゆっくり地面に下ろすと、紗那は残された力を振り絞って祝詞を唱える。
「岐の……御名にて……吹き荒べ!」
「なにっ!?」
三つ目の勾玉を使い、気流を暴風に変える。激しい気流の動きに鵺の翼がもぎ取られ、バランスを崩した鵺はそのまま橋の下、芦原川へと墜落した。
「行かせはしない……絶対に!」
橋の下に落ちた鵺はその姿を変異させようとしていた。蛇か、魚か。いずれにしろこのままでは逃亡を許してしまう。紗那の命もまもなく尽きる。追いかけることは不可能だ。
「……できることなら、この子の成長を見届けたかった」
そして、紗那が決断を下した。最後の勾玉を取り出し、いまだ状況がわからず泣き出しそうな美波を優しく抱きしめた。
「お母さん?」
「強く、生きて。美波」
その温もりをしっかりと刻みつける。例え魂だけになっても忘れないように。
「大丈夫。いつだって、ずっとそばにいるから……」
「お母さん、何を言って――」
「さよなら、美波」
そして、紗那は美波に術をかけた。この出来事は間違いなく彼女にとって忌まわしい記憶になる。だからこそ、何が起きたかをわからないように封じなければならない。
「おか……さ」
紗那は思う。せめて、幸せな日々を過ごして欲しいと。その願いがどこまで適うのかわからない。その時に自分は側にいてあげられないのだから。
してあげたいこともいっぱいあった。教えたいこともいっぱいあった。幸せになる姿を見届けたかった。
「豊秋さん……美波を、お願いします」
だからこそ、自分の愛した人に、我が子を託す。自分はもう助からないから。
いつかまた、縁が巡り合わせてくれるのであれば、その時には真実を話せるかもしれない。その日まで、立派に育ててくれると確信しているから。
「あとは……私の手でできることをする」
そして紗那は退魔の一族としての顔に戻る。これからすることは、残り少ない命を懸けてするだけの価値はある。できるのかはわからない。伝えられているだけで、これまでその術を試した者はいないと言うのだから。
橋の欄干に立つ。眼下には変異を終えて川を下ろうとしている蛇と化した鵺の姿があった。
「岐の御名にて、清め給う事を聞き給えと宣る――」
全ての霊力を解き放つ。命すら、魂すら燃やして霊力に変え、その強大な存在を封じるために紗那は全てを注ぐ。
「我が命、千引の石と成せ――」
わずかな時間でいい。できれば十年。それだけあれば伊薙の末裔が戦えるくらいの年齢に育つ。美波が大好きな伊薙の後継ぎ――海斗が。
「禍津を留めし楔とならん!」
そして、紗那は欄干から飛び降りた。最後の勾玉を使い、術を限界まで強化する。
「何っ!?」
まさか人間が死を覚悟して飛び降りるとは想像していなかった鵺は、直上から迫る紗那に完全に無防備な背を晒してしまっていた。
「鵺! せめてその力、封じさせてもらうわ!」
「き、貴様あああああ!」
その術はかつて、鵺が受けた岐春の術と全く同じものだった。己の命と引き換えに霊力で妖を縛る力。
「うがあああああ!」
紗那の術が炸裂し、鵺の分身体であるその身が吹き飛ぶ威力を放つ。力の大半を吹き飛ばされ、もはや外で活動することは不可能。残る本体が蘇るまで何もできない。
「やっ……た――――」
そして、わずかな時間を勝ち取った満足感のまま、紗那は河川敷に墜落していった。残された希望に、全てを託して。
『美波……美波』
「おかあ……さん?」
暖かさの中で、美波は意識を覚醒させる。ずっと会いたくて、ずっと話したくて、今ではそれが叶わない大切な人の声が、十年ぶりにそこにあったから。
『美波、おはよう』
「お母さん……生きてたの?」
美波の目の前には、あの日の紗那がいた。夢の中でもいい、その姿に会えたことが美波には嬉しかった。
だが、美波の言葉に紗那は悲しげに頭を振った。再会の喜びを分かち合う時間もなく、紗那は語る。
『私はもう死んでるの、あの十年前の時に』
「十年前……」
『時間がないわ。もうすぐ鵺が再度の攻撃を始めるはず。だから、あなたに一つだけ聞くわ』
「なに?」
『あの日、何があったかを知る勇気はある?』
「……っ!」
胸が締め付けられる痛みがあった。今でも時折思い出す最後の時、紗那が橋から飛び降りた夕暮れの芦原大橋の光景を。
『あなたが思い出せないのは、私が死の間際にその記憶を封じたからなの。だから、私の力を使えばそれを解くことができる……だけど』
「何があったのか、全部思い出しちゃうんだね?」
紗那がうなずく。幼子に苛烈な光景を見せたくなかったからこそ、最後の時に紗那は一部始終を封じた。だが、生来の岐の力が影響したのか、美波の記憶封印は不完全だった。それ故に鵺に刺激されて最も強く印象に残った部分の封印だけが解けてしまったのだ。
「……それが、カイくんとミサキさんを助けることに繋がるんだよね?」
だが、迷いなく美波はうなずいた。
「いいよ、お母さん。私はカイくんの……大好きな男の子の力になりたいから」
『あら、海斗君のお嫁さんになるって本気になったの?』
「もー、こんな時に茶化さないでよ」
『ふふ、でもまあ、どうやらそれも叶いそうだから良しとしますか』
「え?」
『こっちの話よ。それじゃ、早速始めましょう、美波』
紗那が美波に手を差し出す。その手を美波が取る。
『あの日、美波との帰り道に起きた全てのこと……それがこれよ』
「――っ!」
紗那の霊力が光となって美波を包み込む、記憶の扉を縛っていた鎖が解け、封じられていたものが美波の目の前に広がっていく。
◇ ◇ ◇
それは、幸せな光景だった。夕陽の中で降る雨、狐の嫁入りの話をして、狐の窓を教えてもらって、美波の花嫁姿を楽しみにしていると話した――その直後。
「……まさか」
「お母さん?」
紗那が自転車を止めた。その視線の先には一人の少年が歩いて向かって来ていた。
「……やあ、ごきげんよう。良い夕陽だね」
「あなた……人間じゃないわね」
「おや、いきなり当たりとは運がいい」
少年が顔を上げる。その表情は読み取れない、顔がないから。
「完全復活前の肩慣らしだ……せいぜい楽しませてくれよ、人間」
「くっ……!」
少年――鵺が放った邪気が一瞬で芦原大橋を覆う。紗那はとっさに霊力を解き放ち、簡易の結界をその場に作る。
「絶対に、ここから動いちゃだめよ、美波!」
「う、うん」
美波を置いて紗那が走り出す。鵺の姿は少年から獣に変わる。翼を広げた猛獣の姿を現した。
「韓非子に曰く、『虎に翼』なんてね」
「まずい……伊薙家はまだ戦える人が育っていない!」
祖父の武志は高齢、末裔の海斗は美波と同じ七歳。家長である海斗の父は武道の心得はあるものの、仕事で出張中だ。血を引いていない嫁の咲耶は論外だ。
「どうして、こんな時に鵺が蘇ったの!」
「封印に綻びができててね、力と意識の一部を外に出してみたのさ。どうやら伊薙も岐も万全じゃないみたいだ。これは僕にとって四百年の我慢は吉と出たみたいだ!」
「そうはさせないわ。あなたはここで止める。例え伊薙がいなくても!」
祓いの力を漲らせる。印を結び、術を発動させるために祝詞を口ずさむ。
「岐の御名にて咎懲む――」
「舐めてるのか?」
だが、その術はあっさりと弾かれる。鵺が翼を広げる。紗那が行った術をさらに上回る力を開放する。
「先祖二人でようやく封じたこの鵺を、お前一人でどうにかできると思ったのか!」
邪気が鵺の周囲に集う。高まった邪悪な気が火花を発し、強大な力となって紗那に光と力を放つ。
「ぐうっ……!? あああああっ!」
放たれた雷が紗那を襲った。霊力で張った障壁でそれを防ぐが、その威力が想定をはるかに超えている。防ぎきるだけで力の大半を削られてしまった。
「ハハハ! 威勢が良かったくせに、もう消耗したのか。まだ岐春の方が歯ごたえがあったぞ!」
「これが……鵺」
先祖から伝え聞いていた妖の存在。しかし、岐春がそれを封じてからこの四百年で遭遇したのは紗那が初めてだ。長い歴史の中で、人によって伝えられていく中でその強大さが十分に伝わらなくなっていたのだ。
「勝てない……私一人じゃ。でも!」
後ろにいる愛娘だけは守り通さなければならない。まだ美波は何が起きているのかまるでわかっていない。突然発生した雷に身を縮こまらせている。こんな危険な場所に居ていい存在ではないのだ。
「普通に生きて、普通に恋して、普通に家庭を作って……そんな生活をさせてあげたいのよ、美波には!」
幼い頃から過酷な修行が始まった。どうしてこんな目に遭うのだろうと親を恨んだこともある。だが、その力を伝えなければならない一族に生まれた、退魔の一族に生まれたからこそ力を得なければ誰も守ることができないと耐え忍んだ。
「たとえ刺し違えてでも、この子だけは守ってみせる! それが岐の……人を守る術を伝えて来た私の使命なのよ!」
美波ももうすぐ訓練を始める時期だ。だが、家庭をもって分かった。岐の宿命に、過酷な運命に我が子を本当は関わらせたくない。だけど、力を持たなければこの小さな命はすぐに消えてしまう。四百年の因縁から守るためにも、彼女に岐の力を伝えなければならないのだ。
「そいつが次の岐か……お前の次はそいつの番だ!」
「あなたは、ここにいたらいけない……この世界にいていい存在じゃない!」
再び襲う雷に懐から取り出した勾玉を投げ放つ。
「そいつは!?」
「岐の勾玉の力、思い知りなさい!」
砕け散った勾玉から膨大な霊力が溢れ出る。先ほどを超える力の障壁で受け止め、鵺が面食らった隙に紗那は祝詞を唱える。
「馬鹿め、お前の術は効かないと分かったばかり――」
「誰が一個だけって言ったのよ!」
続いて二つ目の勾玉を投げ放つ。砕けた勾玉が紗那の術を増幅し、鵺に強烈な一撃を加える。
「ぬうっ!」
「あと二個……っ!」
「……これが勾玉の力か」
だが、鵺が不敵に笑う。紗那の使う勾玉を興味深そうに眺め、それが自分の本体を縛り付けていたあの洞窟の封印。要石に使われていることを彼は知っていた。
「そいつを使えば、もっと面白いことになりそうだ!」
鵺の眼がギラリと光る。その先に標的を定め、一直線に走り出す。だが、それは紗那に向けてではない。
「しまった!?」
紗那が走る。鵺の巨体が向かうのは自転車の上で怯えている美波。
「美波っ!」
先にたどり着いた紗那が美波を抱え込む。そして、その直後に鵺の爪が――。
「おかあ……さん?」
「くっ……大丈夫、美波?」
顔を上げる美波に紗那は笑顔で返す。だが、その背中には深々と鵺の爪が立てられていた。
「くくく……親子の愛情とやらか。自分の身を挺してでも子供を守る……実に人間らしくて、弱い奴らが身を寄せ合う滑稽な姿に見えるよ!」
紗那から爪を引き抜いた。心臓に直結する血管を傷つけたその一撃は致命傷だった。だが、最後まで紗那は美波に苦しい姿を見せないように気丈に振る舞った。
「ねえ、何が起きてるの? お母さん、怪我したの?」
「大丈夫……大丈夫だから。美波はなーんにも心配しなくていいんだから」
鵺が翼を広げ、空へと舞い上がった。このまま逃がせば鵺は勾玉を得てこの世で暴れ出す。それだけはさせるわけにはいかない。美波をゆっくり地面に下ろすと、紗那は残された力を振り絞って祝詞を唱える。
「岐の……御名にて……吹き荒べ!」
「なにっ!?」
三つ目の勾玉を使い、気流を暴風に変える。激しい気流の動きに鵺の翼がもぎ取られ、バランスを崩した鵺はそのまま橋の下、芦原川へと墜落した。
「行かせはしない……絶対に!」
橋の下に落ちた鵺はその姿を変異させようとしていた。蛇か、魚か。いずれにしろこのままでは逃亡を許してしまう。紗那の命もまもなく尽きる。追いかけることは不可能だ。
「……できることなら、この子の成長を見届けたかった」
そして、紗那が決断を下した。最後の勾玉を取り出し、いまだ状況がわからず泣き出しそうな美波を優しく抱きしめた。
「お母さん?」
「強く、生きて。美波」
その温もりをしっかりと刻みつける。例え魂だけになっても忘れないように。
「大丈夫。いつだって、ずっとそばにいるから……」
「お母さん、何を言って――」
「さよなら、美波」
そして、紗那は美波に術をかけた。この出来事は間違いなく彼女にとって忌まわしい記憶になる。だからこそ、何が起きたかをわからないように封じなければならない。
「おか……さ」
紗那は思う。せめて、幸せな日々を過ごして欲しいと。その願いがどこまで適うのかわからない。その時に自分は側にいてあげられないのだから。
してあげたいこともいっぱいあった。教えたいこともいっぱいあった。幸せになる姿を見届けたかった。
「豊秋さん……美波を、お願いします」
だからこそ、自分の愛した人に、我が子を託す。自分はもう助からないから。
いつかまた、縁が巡り合わせてくれるのであれば、その時には真実を話せるかもしれない。その日まで、立派に育ててくれると確信しているから。
「あとは……私の手でできることをする」
そして紗那は退魔の一族としての顔に戻る。これからすることは、残り少ない命を懸けてするだけの価値はある。できるのかはわからない。伝えられているだけで、これまでその術を試した者はいないと言うのだから。
橋の欄干に立つ。眼下には変異を終えて川を下ろうとしている蛇と化した鵺の姿があった。
「岐の御名にて、清め給う事を聞き給えと宣る――」
全ての霊力を解き放つ。命すら、魂すら燃やして霊力に変え、その強大な存在を封じるために紗那は全てを注ぐ。
「我が命、千引の石と成せ――」
わずかな時間でいい。できれば十年。それだけあれば伊薙の末裔が戦えるくらいの年齢に育つ。美波が大好きな伊薙の後継ぎ――海斗が。
「禍津を留めし楔とならん!」
そして、紗那は欄干から飛び降りた。最後の勾玉を使い、術を限界まで強化する。
「何っ!?」
まさか人間が死を覚悟して飛び降りるとは想像していなかった鵺は、直上から迫る紗那に完全に無防備な背を晒してしまっていた。
「鵺! せめてその力、封じさせてもらうわ!」
「き、貴様あああああ!」
その術はかつて、鵺が受けた岐春の術と全く同じものだった。己の命と引き換えに霊力で妖を縛る力。
「うがあああああ!」
紗那の術が炸裂し、鵺の分身体であるその身が吹き飛ぶ威力を放つ。力の大半を吹き飛ばされ、もはや外で活動することは不可能。残る本体が蘇るまで何もできない。
「やっ……た――――」
そして、わずかな時間を勝ち取った満足感のまま、紗那は河川敷に墜落していった。残された希望に、全てを託して。
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最初の主人公は普通の青年です。
大した学もなければ異世界で役立つ知識があるわけではありません。
神を自称する女に異世界に飛ばされますがすべてを無に帰すチートをもらえるわけではないです。
もしかしたらチートを手にすることなく物語を終える、そんな結末もあるかもです。
ここまで何も確定的なことを言っていませんが最後に、この物語は必ず「完結」します。
長くなるかもしれませんし大して話数は多くならないかもしれません。
ただ必ず完結しますので安心してお読みください。
ブックマーク、評価、感想などいつでもお待ちしています。
この小説は同じ題名、作者名で「小説家になろう」、「カクヨム」様にも掲載しています。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
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ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
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