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第三章「孤独の幸魂」

第32話 心の支え

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美波みなみ……?」
「……まさか、神崎かんざきさん」
「あ……ぐっ…なんで……今……」

 美波みなみの異変に、海斗かいとたちはすぐに気が付いた。
 ここ数日は天気が悪く、劇の練習をしていた時に夕陽は差し込んでいなかった。だから誰も気が付けなかった。

海斗かいと、早く止めた方がいいんじゃ」
「そうだな、すぐに――」
『待って、海斗かいと!』

 テーブルに上ろうとした海斗かいとをミサキが叫んで止める。その表情は海斗かいとたち以上に余裕がなかった。

美波みなみさんから嫌な感じがしてる……これ、これまでの異変が起きた時の感じに似てるのよ!』
「……っ!?」

 不思議な力を操るミサキは海斗かいとたちと違うものを感じ取れる。これまでは彼女が自分の中にいたからこそ、それを共に感じ取ることが海斗かいとにもできた。その感覚を知っているからこそ、ミサキの言葉は無視できない。

美波みなみさんはこの劇を楽しみにしていた……もし劇を中止してそこから降ろしたら、劇を台無しにした自責の念が膨らんでしまうかもしれない。確証はもてないけど……「ミサキ」が、生まれる可能性だってあるわ』
「……そんなこと言ったって」

 二人には、深雪みゆきたちがどうして人が変わったように暴れだしたのか、いまだにわかっていない。だが、深い悲しみや行き所のない思いが影響しているのは確かだ。それはこれまで深雪みゆき御琴みことが巻き込まれた怪異で恨みや怨念が形となったあやかし、ミサキを倒したことによりその理由を知ることができている。

海斗かいと、どうしたの?」
「先輩?」

 美波みなみの抱える辛い思い。それは海斗かいとにも見当がついている。十年前、美波みなみと帰宅途中に芦原大橋あしはらおおはしから転落死した紗那さなのことだ。美波みなみはその時何が起きたのか、一部始終を見ているはずなのだが、それが記憶からすっぽり抜け落ちている。もし、その時の記憶が戻ったとしたら。

「どうすればいいんだ……」

 目の前にいるのに海斗かいとは手を伸ばせない。劇を止めず、美波みなみの抱えているものを取り去る。あるいは和らげる手段など――。

「だめ……せっかくみんなで頑張ったのに」

 ――できることなら、この子の成長を見届けたかった。

 美波みなみが苦しんでいる表情はキツネのお面によって隠され、観客たちは何が起きたのかわかっていない。

「お父さんも観に来ているのに……」

 ――強く、生きて。美波みなみ

 ただ塀の上でうろたえているおさちが、逃げようとするのを躊躇ためらっているように見えている。
 その別れが耐え難いことに苦しみを覚えている姿があまりに真に迫っていることがまた、客たちの視線を引き付けていた。

「全部壊しちゃう……私が、みんなの舞台を壊しちゃう」

 ――大丈夫。いつだって、ずっとそばにいるから。

「あ……ああ……」

 美波みなみが足下を見る。この数日何度も飛び降りた少しの段差。しかし、彼女は思い出してしまっていた。この茜色の世界の中、目に焼き付いている最もつらい光景を。
 先程まで楽しく笑っていた夕暮れ時。芦原大橋あしはらおおはしの上で次に見た光景。

 ――さよなら、美波みなみ

 別れを告げ、自分を置いて一人で橋桁から飛び降りた紗那ははおやの姿を。

「――――っ!」

 ぐらりと、美波みなみの体が揺れる。あの時と同じで彼女の意識が遠ざかる。

「おさちいいいいっ!」
「っ!?」
伊薙いなぎ君!?」

 その時、あらん限りの海斗かいと咆哮ほうこうが、美波みなみ現実こちらへ呼び戻した。

「カイ……くん?」
「こっちに来い!」

 手を広げ、海斗かいと美波みなみを呼ぶ。

「俺たちを信じろ、一人で抱え込むな! みんなで……辛い気持ちを乗り越えればいいじゃないか!」

 それは、台本には全く書いていない台詞、展開だった。本来ならここでおさちは逃げていき、弥助やすけは彼女を捜すことになる。
 だが、このままでは美波みなみは倒れ、劇も中断を余儀なくされる。だからこそ、話を壊しかねないギリギリの線で彼女に呼び掛けていたのだ。

「そ……そうだよ、おっかあ! 大丈夫だから、みんないるから!」

 その意図を察したまどかも声をかける。御琴みことは言葉を喋れないが、美波みなみに向けてうなずき、その背を押す。

「がんばれー!」
「行っちゃやだー!」

 観客からも声が上がり始める。だが、美波みなみはまだ海斗かいとの方へと向かえない。そうすると、予定していた話が変わってしまう。観客の中にはこの話のあらすじを知っている人もいるかもしれない。そんな改変が許されるのだろうか。

「……さあ、話も盛り上がってきたところですが、ここで皆さんに質問があります」
「……深雪みゆき先輩?」

 美波みなみが迷いから脱することができない中で、海斗かいとの目線を受けた深雪みゆきが静かに観客に語り始めた。

「ご来場の皆様の中には、この先の展開をご存知の方もいるかと思われます。ですが、この演劇は皆さんで楽しむもの。どうでしょう、もう一つのあり得たかもしれない未来を見てみたいと思いませんか? そう思う方は、拍手をお願いします」

 まず最初に子供たちから拍手が起きた。
 そばにいた保護者、家族、職員とその拍手の輪は広がっていく。
 瞬く間にレクリエーションルーム全体がその結末を求める雰囲気へと変わっていった。

「こりゃあ面白い、そういう演出か!」
「いいぞー、静宮しずみやのお嬢さん!」
「キツネさん、がんばれー!」
美波みなみ……わかるだろ。大丈夫だから」

 記憶の中で微笑む紗那さな海斗かいとの笑顔が重なる。自分に幸せになって欲しいと、願っていた優しい笑顔がそこにある。

「先輩!」
美波みなみん!」
「怖くても俺たちがいる。俺たちなら……少しだけでも支えてやれるから。だから来い、美波みなみ!」
「カイくん……っ!」

 恐怖で震えていた足が力強く踏み出す。何かが背中を押し、手を広げる海斗かいとに向かって美波みなみが飛び降りた――。

「うっ……ひっく……うわああああ!」

 抱き留められた海斗かいとの胸の中で美波みなみは声をあげて泣いた。キツネのお面で覆い隠されているため観客には演技での鳴き声に聞こえただろう。だが、中にはその心からの声に心奮わされ、共に涙ぐむ人もいた。

「このお話の出典『日本霊異記にほんりょういき』につづられているのは違う結末なのですが、こんな結末があっても良かったのではないでしょうか……以上で、私たちの劇は終わりとさせていただきます。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました」

 深雪みゆきが頭を下げるとともに、会場は再び大きな拍手に包まれた。ミサキも、豊秋とよあきも、笑顔で拍手を送る。その大成功の中で幕が閉まる様子を最後まで観客たちは見届けるのだった。




「――気に入らないな」

 だがそんな人々の興奮の中、一人の少年がその光景を忌々しいと吐き捨てていた。

「せっかく色々とお膳立てしておいたのに……やっぱり邪魔するのはお前か、伊薙いなぎの子孫」

 その顔と姿は誰にも見えない。だが、獣のような鋭い目つきが海斗かいとのいた方を睨んでいた。
 美波みなみの心の中に封じ込められていた母親の死の瞬間の記憶は呼び起こせた。そしてこのまま彼女が倒れれば全てが台無しになるはずだった。責任感の強い彼女なら、多くの人の楽しみを、皆で作り、父親の前で頑張ろうとした劇を潰した自分を責めるに違いない。その上で空いた心の隙間に付け入ろうとしていたのだが、それはあと一歩のところで阻まれた。唯一の誤算は、その絶望に歯止めをかけた存在がいたことだ。

「まあいい……絶望に落とす手段は一つじゃない。案外保険は身近にあるものだ」

 少年がその手を伸ばす。少々強引だが、彼はもう一つの手段を使うことにした。

「ふふ……むしろ、|美波あの子にはこっちの方が効くだろうね」

 その表情が、己の抱いた悪意を解き放つ愉悦に歪む。これから起こるであろう悲劇の最後の引き金を引く瞬間に、彼は胸を躍らせる。

「最後の一押しは僕がやってやるよ……まどかあのこにしたみたいにね」

 よどんだ力を送り込む。たった一滴、注ぎ込んだそれは体をおかし、全ての機能を悪い方へと助長する。

「くくくく……お前が下手に手を出したからだぞ、伊薙いなぎ

 その闇が広がっていく様を見届け、少年が嘲笑う。自分の望むように進めるため、彼は人の内面に干渉する。それは、才能を刺激して秘めた力を一時的に解放させることもできるが、こともできる。

「お前のせいで美波あのこはもっと苦しむことになったんだぞ。さあ、どうする気だ、伊薙いなぎ! もう一度救ってみろ、さっきみたいになあ!」

 太陽が山の稜線にかかる。逢魔おうまときがすぐそこまで来ていた。
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