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第二章「嫉妬の荒魂」

第20話 蛟―芦原大橋の怪異―

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 芦原大橋あしはらおおはしに近づけば近づくほど邪気は濃くなり、行逢ゆきあった人々は全員気を失っていた。車の中のいる人も、救助に向かった警察官や消防士も皆倒れ、その場から動けないでいた。

「くそっ!」

 海斗かいとは今すぐにでも手を貸して、邪気の届かない場所へ連れて行ってあげたかった。だがそれには数が多すぎる。被害の規模が大きすぎる。恐らくはこの橋付近だけではない。川に沿って他の地域にも被害が出ているはずだ。

御琴みこと!」

 橋を渡り切り、海斗かいとは自転車を乗り捨てて土手を駆け下りる。どろりとまとわりつくような空気の中、芦原川あしはらがわの岸辺で、その幼馴染は足首を水に入れて立っていた。

「来たんだ、海斗かいと

 御琴みことは振り向かずにそう答えた。そして、この状況に不似合いな明るい声で海斗かいとに語り掛けて来た。

「懐かしいな。昔はこうして川辺で遊んだよね」
「……ああ」
「あの時は何にも考えてなかったなー。海斗かいとがいて、美波みなみんがいて、あたしのママも、咲耶さくやおばさんも、紗那さなさんもいて。とっても幸せだったと思う」

 海斗かいとたちは幼い頃、休日には三つの家庭の母子でよくピクニックに来ていた。この川辺もたくさんの思い出が残っている。

「でもさ……紗那さなさんが死んでから、ここに来なくなっちゃったよね」
「……美波みなみにはトラウマになっているからな」

 海斗かいとたちが小学生になってしばらくした頃、紗那はここで命を落とした。なぜか橋から転落して。美波みなみはその時、橋の上に取り残されて呆然としていた。
 一時は美波みなみが突き落としたのではないかと憶測も立ったが、結局現場に争った様子があり、大人の母親を突き落とす力も、動機もまるでないために美波みなみが犯人という線は消え、警察は通り魔の犯行と考えた。だが、今でもその犯人は捕まっていないのだ。

「さっきのこと、あたしは悪いって思ってるんだ。美波みなみんに酷いこと言っちゃって」
「……ちゃんと謝れば許してくれるさ」
「ううん、それじゃあたしの気が済まない。美波みなみんはさ、ここがある限りお母さんの死を思い出さなくちゃいけないんだよね。だからさ、あたし思うんだ」

 そして、御琴みことが振り向く。その胸元に、怪しく輝く勾玉を下げて。あの日、光と闇が入り混じる空の下で深雪が浮かべていたのものと同じ妖しい笑みを浮かべながら。

「この場所を壊しちゃえば、そんな辛いこと思い出さなくて良くなるんじゃないかな?」
「勾玉!」
『やっぱり、何かに憑りつかれてる』

 クスクスと御琴みことは笑う。だがそれはいつもの彼女のように周りを明るくしてくれるものではなく、寒気の走るような不気味さがあった。

「あたしはね。美波みなみんが笑顔でいて欲しいんだ。あたしと、海斗かいとも一緒にそこにいて、みんなで幸せになりたいんだ」

 御琴みことは楽しそうに夢を語っているのに、海斗かいとはそれに同意ができない。何かが間違っている。彼女の中で論理が破綻しているのに、それに気が付いていない。

「だから邪魔なものは全部壊すんだ……
「――っ!」

 そして、その恐ろしい言葉も御琴みことは平然と笑顔で言い放った。

「だってさ、あの子が全部悪いんだもん。ご飯は食べられないし、水泳部でも散々。美波みなみんともケンカしちゃったし……あの子さえいなければこんなことにはならなかったんだよ。そう思わない、海斗かいと?」

 海斗かいとは首を振る。

「違う……確かに御琴みことが辛かったのは分かるよ。だけど、それを全部三木みきに押し付けるのは違う。いつもの御琴みことならわかるだろ?」
「……そう、海斗かいとならわかってくれると思っていたんだけどな」

 御琴みことの立っている場所から波紋が起こる。それに応えるように穏やかな芦原川あしはらがわの中心からも、もう一つ波紋が起こる。

「あたしの居場所を……あたしの幸せを邪魔するなら海斗かいとでも許さない」
御琴みこと!」
『だめ、完全に力に呑まれてる!』

 もう言葉は届かない。禍々まがまがしさを増す御琴みことの雰囲気と強まっていく邪気にミサキが心の中で全力で警鐘を鳴らす。

「あたしはそのための力を手に入れたんだから!」

 水面の波紋がどんどん間隔を狭め、流れを生み始める。中心が窪み、流れる水を巻き込んで大きな渦を作り始める。

海斗かいと、来るっ!』
「くそっ、どうしてこうなっちゃうんだ!」

 海斗かいとは竹刀を取り出す。背筋を通り抜ける寒気があの日のように危機を知らせる。周囲に漂う邪気が渦に吸い込まれて行く。そして、その中で異形の魔物が生まれ出でる。

「そんなちっぽけな竹刀で戦えるとでも思ってるの……こいつと!」

 御琴みことが腕を振り上げ、指を天に向けて立てる。それと同時に渦の中心から水柱が立ち上がる。
 巨大で細長い体。橋げたまで届きそうなほど高く、その身が水を突き抜けて天に向けて伸びる。

「へ、蛇!?」
『違う、あれは!』

 それは巨大な蛇のようであり、それでいて四つの脚が胴体から生えているという異形の姿。
 巨大なトカゲか龍が最も近い物と言えるだろうか。いずれにしても海斗かいとの知識にこのような生物は存在していない。だからミサキがその名を口にする。

『……みずち

 蛇が五百年の時を生き、その身を変化させた怪物。さらなる五百年を生きれば龍に成ると言われるあやかし。古くは『日本書紀』にもその名が出る、毒を吐く魔物――それがみずちと呼ばれる存在であった。

「さあ海斗かいと……止められるなら止めてみなさいよ、あたしのを!」
『――っ!?』

 そしてみずちはその長い体をゆっくりと倒し、水しぶきを立てながら水面を真っ二つに割る。

「シャアアアーッ!」

 鋭い牙を向け、海斗かいとを見据えてみずちが吠える。そして次の瞬間、それは海斗かいと目掛けて襲い掛かった。

海斗かいと、逃げて! あんな大きい奴、竹刀じゃ敵わない!』

 鎌鼬かまいたちの時とは大違いだった。あちらは凶悪ではあったが倒せない大きさではない。だが今回は誰が見ても手に余る。そんな怪物だった。

「……それでも」

 今にも逃げ出したい恐怖を、海斗かいとは必死に自分を鼓舞することで押さえつける。まっすぐに突進してくるみずちから身をかわし、その横顔に思い切り竹刀を叩きつける。

「あいつを放っておけるわけないだろ!」
海斗かいと!』

 みずちの顔を思い切り打ち付ける。しかし海斗かいとの手に強い痺れが跳ね返って来るだけで、みずちはダメージを受けたようにも見えなかった。

「シャアアアア!」
「うわっ!」

 乱暴に頭を振り回すようにして海斗かいとを弾き飛ばす。そしてみずちは地面に転がる海斗かいと目掛けてまた突っ込んでくる。

「同じ手を食らうかよ!」

 ウエストポーチに入れておいた粗塩をつかみ出す。みずちの突進を転がるように避けると、袋を口で切って粗塩を投げつけた。

「ギャアアアア!」
「でやあああ!」

 悶えるみずちを滅多打ちにする。効いているとか効いていないとかそんなことを気にしている暇はない。
 ただ倒すため、がむしゃらに海斗かいとみずちの固い鱗を叩き続ける。

「ふうん……こいつに立ち向かうなんて、やっぱりカッコいいじゃん」

 それを見ていた御琴みことが薄く笑う。勾玉が強く輝いて川の水がうねり始める。

「……それでこそ、あたしが好きになった海斗かいとだよ」

 その言葉は水の音にかき消される。見る見るうちに水量が増え、御琴みことの膝下まで水位は上がって来た。そしてそれは海斗かいとの足元にも押し寄せて来る。

御琴みこと、よせ!」
「うるさい!」

 御琴みことが手を振るう。水が生き物のようにうねり、海斗かいと目掛けて押し寄せる。

「うわあああっ!」
海斗かいと!』

 ミサキの叫び声すら水音にかき消されるほどの濁流に押し流され、橋脚きょうきゃく海斗かいとは叩きつけられる。

「シャアアアア!」

 倒れたそこにみずちが牙をむく。竹刀を杖に立ち上がり、もう一度粗塩を叩きつけるためにポーチに手を入れる。

「――しまった」

 だが粗塩は、水を受けて使い物にならなくなっていた。

「ぐはっ……!」

 |蛟の突進を真正面から食らう。海斗かいとは弾き飛ばされ、水を切るように飛んでいく。

「あははははは! さっきまでの威勢はどうしたの海斗かいと!」
「う……ぐ」

 ダメージで目の前が揺れていた。竹刀も手元にない、今の衝撃で手放してしまった。

海斗かいと、起きて海斗かいと!』
「く……そ……」

 みずちが地を這うようにゆっくりと歩を進める。その途中に落ちていた竹刀は無残にも踏み折られた。
 頼みの綱の粗塩も全部水浸しで使えない。竹刀も失った。ダメージも深く、体も動かない。

海斗かいと! 海斗かいとーっ!』
「ダメだ……動けない」

 御琴みことはそんな海斗かいとの姿をあざ笑っていた。彼女は昔から、どんなに無様でも頑張っている相手をけなしたり、笑うような女の子じゃなかった。それが、どうしてこうなってしまったのか。

「さあて、邪魔ものがいなくなったら次はどうしようかなー」

 まだわからないことはたくさんある。ミサキのこと、彼女が守らなくてはならないもの、封じられていたもののこと……それがわからないまま終わってしまうのかと、海斗かいとは心の中で強い憤りを感じていた。

「バイバイ、海斗かいと

 目の前でみずち海斗かいとを見下ろす。その口が開き、海斗かいとを丸呑みすべく襲い掛かった。

「――っ!」

 無念と恐怖で海斗かいとは目を閉じた――その時だった。

『ダメえええええ!』

 ミサキの叫びと共に海斗かいとの手が動く。脚が動く。それは当然、海斗かいとが意図していないものだった。

「これって!?」

 受けていたダメージをものともせず、突如跳ね起きた海斗かいとみずちの牙を回避し、安全な位置まで距離を取って再び|みずちと対峙する。

『やらせない……絶対に海斗かいとは殺させない!』
「……ミサキ」

 気を抜けば今にも倒れてしまいそうなほど海斗かいとのダメージは深かった。だが、そんな彼の体を、泣きそうな声で、ミサキの強い意志が支えているのだった。
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