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断章「日常編」
第4話 君がいたから
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それは、母娘の来訪から始まった。
「こんにちはー」
「やあ、待っていたよ。マリーちゃん」
笑顔でフジが出迎える。今日は月に一度のマリーの検診日だ。
彼女の秘密を守るために全ての診療が終わり、病院に誰もいなくなってから行っている。
「フジ、私は戸締りの確認してくるから」
「うん、ありがとうドラセナ」
病院内の見回りを兼ねて、ドラセナは戸締りに向かう。
彼女もマリーの検診の日に都合を合わせてくれることが多い。
「変わりはないかい?」
「うん。腕輪もあるし、魔術の訓練を始めてからは魔力も安定しているみたい」
まずはトウカがひと月の様子を報告する。
幸い冬の事件以降、マリーの魔力が暴走したり、体調を崩したりすることはない。
「それはよかった。マリーちゃん、学校はどうだい?」
「とっても楽しいよ。キッカお姉ちゃんも、レンカお姉ちゃんも色々教えてくれるし、エリカともいつも遊んでる!」
学校であったことを話すマリー。
その様子はとても楽しそうで、トウカも見ていてつい表情が緩む。
「色々と気を使うことも多いだろうけど、僕もできる限りの支援はするつもりだよ」
「うん。ありがとう、フジ」
「ねえ、フジせんせー」
不意に、マリーがフジに尋ねる。
「ん、何だい?」
「ドラセナお姉ちゃんといつ“けっこん”するのー?」
あまりに自然に刺さる一言を告げられ、フジの表情が笑顔のまま固まった。
「ママたちがこの前言ってたよ。『二人が結婚したら嬉しい』って」
「ええっと……フジ、ごめん」
気まずそうにトウカは目を逸らす。
マリーもそういったことに興味を示す年頃なのだろうか。それにしても子供は見ていないようでしっかりと見ているものだ。
「……いや、いいんだ」
小さくため息をついて、フジが天井を仰ぐ。ここにドラセナはいない。そしてマリーの純粋な言葉だからこそ、フジも素直な気持ちを出せた。
「正直、踏み出していいのかどうかって思っていることがあってね」
「あれ、フジもなの?」
先日、ドラセナが言っていた言葉と同じだった。
彼も彼で、何か引っかかっていることがあるのだろうか。そうトウカは思った。
「僕も……って?」
「何だか、ドラセナも同じようなこと言ってたから」
「ドラセナも?」
「うん、この際だから聞いておきたいんだけど……ドラセナの求婚を一度断ったって本当?」
トウカは思い切って訪ねてみる。ドラセナのいない今だからこそぜひ聞いておきたかった。
フジもまさか子供の頃の話を持ち出されるとは思わず、驚きを見せた。
「……またずいぶん昔のことを持ち出すね」
「じゃあやっぱり本当なんだ」
「いや、だってあの時は――」
フジが言いかけたその時、待合室の辺りで言い争う声が聞こえてきた。
「ですから、今日の診療はもう終わったんです!」
「いえ。用があるのはこの病院の医師にですわ!」
どうやらドラセナが病院に来た誰かに対応しているらしい。
その様子から、患者と言うわけではなさそうだ。
「失礼致します!」
その人物はドラセナを振り切って診察室の扉を強引に開く。音に驚き、トウカにしがみついたマリーを見て、乱入者は険しい表情を緩めて咳払いをする。
「あ、あら診察中でしたの……これは失礼致しました」
「ご、ごめんフジ。駄目だって言ってるのに聞かなくて……」
「あ……」
その人物と目が合ったフジは、一瞬でその表情を青ざめさせる。
「お久しぶりですわ、フジ様」
「あ……アヤメ!?」
「ええっと……お知り合い?」
「申し遅れました」
突如現れた亜麻色の髪の女性は、スカートの裾を引いて優雅に頭を垂れた。
「わたくし、アヤメ=イーリスと申します」
「イーリスって……あの医者の?」
イーリス家はウィステリア家と並ぶ医師の家系だ。
王都を中心に活動するウィステリア家と違い、地方で力を振るっていることで知られている。地方領主の間ではイーリス家の方が有名なくらいだ。
「ええ、そしてフジ様の婚約者ですわ」
「え……?」
時が止まったかと思うほど、一瞬で静まり返る。そして、アヤメと名乗った女性の後ろでドラセナが凍り付いていた。
「こ……婚約者!?」
トウカはフジと、アヤメの二人の間で視線を泳がせる。フジは気まずそうにアヤメから視線を外した。
「……“元”婚約者だけどね」
「わたくしは承服していませんわ!」
その言葉に、アヤメは語気を強めて反論する。
「イーリス家とウィステリア家の婚姻は互いの家の発展のためになる縁談。それを破談にされるなんて理解できません!」
「一年も前のことじゃないか」
「家を出て生活が立ちゆくわけがないと思ったからです。すぐ戻ってくると思いましたが、まさか耐えられるとは……」
トウカはその傍らで苦笑する。
人間、立場もプライドも捨てて死ぬ気になれば生活できるという事は、彼女が一番よく知っていた。
「今日と言う今日は我慢の限界です。わたくし、今日は貴方を連れ戻しに参りました!」
「……それは、父の差し金かい?」
「い、いえ……ヒガン様は何も」
「だったら放っておいてくれないか。僕はもうあの家に戻る気はない」
「リコリス様の一件が原因なのは分かります。ですがこのままでは!」
「アヤメ!」
フジから発せられたとは思えないほど強い言葉にアヤメが身をすくませる。
そして、自分が激情に任せて言ってはならないことを口走っていたことに気付いた。
「……そのことには触れないでくれ」
「も、申し訳ありません……」
だが、二人の間に出た名前はトウカたちにとっては、捨て置けないものでもあった。
「……リコリスおば様に何かあったの?」
フジが唇を噛む。リコリスはフジの母親だ。トウカたちも王立学院時代に何度か会ったことがある。優しさを体現したような穏やかな笑みを常に浮かべた、一緒にいてとても落ち着く人だった覚えが彼女たちにもあった。
ドラセナを見ると首を横へ降る。この話は彼女も聞いていなかったのだ。
「……二年前から寝たきりなんだ。父さんのせいで」
「フジ様。ですがそれは!」
「わかってる! 理屈ではわかっているんだ……でも“家を継ぐ者”としては理解できても、“家族”としては納得できないんだ!」
行き場のない憤りがフジの拳を固く握らせていた。
トウカたちはフジが自分の医療をしたいがために家を出たことは知っていた。だが、彼女たちも知らない父子の確執がそこにあったのだ。それもかなり根深い。
「だから僕は父さんのようにはならない。自分の信念に基づいた医師になる」
「それでは、地位も、名誉も得られません!」
「その姿勢が嫌なんだ! 医療技術は万人のためのものだ。誰かが独占していいものじゃない!」
「では、万人を救い続けて家の者を養えると仰るのですか?」
「僕一人なら何とかなる。だから家を出たんだ!」
睨み合うフジとアヤメ。互いに一歩も譲るつもりはない。
だが、その会話はトウカの一言に遮られた。
「二人とも……娘が怖がっているから、もうやめて」
二人の剣幕にマリーはトウカの足にしがみついて今にも泣きそうな顔をしていた。
その姿を見て二人も、自分がどれほど子供の前で醜態を演じていたかに気づく。
「……ごめん。子供の前でする話じゃなかったね」
「……わたくしも、冷静さを欠いていました」
落ち着きを取り戻す二人。
だが、ドラセナだけは腕を強く握り、平静を装い続けていた。
フジがかつて彼女の求婚を断っていた理由が判明した。それがアヤメだ。
話から分かることは去年まで二人は婚約関係にあったこと。そしてフジが家を出た理由には母親のリコリスと父親のヒガンが関わっていること。
元々彼らの話において自分が部外者なのはわかっている。だが、自分が出る幕がないとはこういうことを言うのだろうか。
あの時、自分は何を浮かれていたのだろうとドラセナは思っていた。フジが家を出る際に自分を頼りにしてくれたと、それだけで舞い上がってしまっていたのだ。
彼が何故、長年過ごした家を出てまで自分を貫こうとしていたのか、その理由まで思い至らなかったことを恥じる。
「今日のところは帰ってくれないか。アヤメ」
「わかりました……ですが、私は諦めませんわ。ウィステリアの技術を得て王家との繋がりを得るのはイーリスの悲願です」
アヤメは踵を返し、後ろで俯くドラセナを一瞥すると再び歩き出す。
病院から出ていった後に、外で馬車が走り出す音がした。その音が聞こえなくなるまで、誰もが言葉を発せられずにいた。
「……もう、怒ってない?」
トウカの陰からおびえた目でマリーが顔をのぞかせた。
「ごめんね。マリーちゃんに怖い思いをさせるつもりはなかったんだ」
「アヤメお姉さんとちゃんと仲直りしなくちゃだめだよ、せんせー」
「うん……そうだね」
だが許してもらえるとは到底思えなかった。
幼い頃に決められたこの縁談はお互いの家にとってもまたとない話だった。王国の二つの医師の家が一つになる。それは揺るぎのない地位を約束していた。
だが、フジが家を飛び出したことで一方的に婚約を解消する形となった。イーリス家への不義理、そしてウィステリア家の名に泥を塗った彼は家の一員から追放された。
「婚約者と言っても、ほとんど会ったこともなかったんだけどね」
「……でも、フジはそれを受け入れていたんでしょ?」
トウカの問いにフジは頷く。
家の地位も名誉も守るためには、その方針に従うのが当然。幼い頃からそう言われていたフジにとって、顔も知らない相手と婚約することはさほど疑問を抱くことではなかった。それが当然と思っていたから。
「……でも、そんな僕を変えたのはドラセナだったんだよ」
「え……?」
「家の方針が嫌だなんて、僕の中では考えられなかったことだからさ」
父の跡を継いでウィステリアの家を盛り立てる。その為に医術や魔術を身に着けるのが当然と思っていた。
だが、そんな中で出会ったドラセナは、受け継がれて来た家の力を忌避していた。
「驚いたよ。騎士が戦いで相手の命を奪うのは当然だと思っていたのに、その後継ぎがそれを嫌がっていたんだから」
「私は、そんなつもりじゃ……」
「僕にとってはとても大きなことだったんだよ」
自分の弱さが意図せず彼の価値観を変えていたことにドラセナは驚く。
微笑むフジをなんだか見ていられなくなって、思わず目を逸らしてしまった。
「それからは言われるがままに学ぶんじゃなくて、自分なりに考えて学ぼうと思ったんだ。そうしたら、自分の身の回りがおかしいってことに気付いたよ」
「……それで、フジは私たちの対立を止めようとしていたんだ」
その頃のトウカたちの関係は、主要五家の対立の影響が出ていた。表向きは魔王討伐のために手を結び始めていたが、まだあちこちで火種がくすぶっている状態だった。
新興勢力であったフロスファミリア家を露骨に目の敵にしていたシオン。向けられる敵愾心から妹を守ろうといつもオウカが立ちはだかり、ことあるごとに二人はいがみ合う。
そんな二人をトウカも止めることができず、まだ引っ込み思案だったドラセナはそんな状況から逃げるように図書室に閉じ籠もっていた。そんな中でフジと出会ったのだ。
「ママたち、みんな仲悪かったの?」
「うん。でも、フジのお陰でみんなお友達になれたんだよ」
「フジせんせー、すごーい」
そしてある日、フジはシオンとオウカの対立に割って入ってきた。主要五家ではなく、医師の家と言う独立勢力だったこともあり、どちらに対しても意見できる立場だった。
シオンに非があればそれを咎め、オウカに非があればそれを正す。そうやっている内に、皆も自分たちがおかしなことをしている事実に気付き始めたのだ。
「生まれた家が違うだけで差別して、蔑んで……そんなのおかしいからね。本当なら同じ年代の子供同士仲良くできるはずなんだよ」
マリーとエリカの関係がまさしくそれだ。
対立していた家同士の者が知り合い、名前も知らない内にすぐに友達になれた。本来ならぶつかり合うより簡単なことのはずだ。
「ドラセナ、ありがとう。君がいなかったら今の僕はないと思う」
「そんな……私だって、貴方がいたから……」
お互いがいたからこそ、変わることができた。
そして前に踏み出した結果、五人は掛け替えの無い友達になれた。冬の事件でも、マリーを助ける力になってくれたのだ。
「あのー……いい雰囲気の中、申し訳ないんだけど。私たちのこと、忘れてない?」
「ご、ごめん!」
見つめ合っていたフジとドラセナに、非常に申し訳なさそうにトウカが声をかけた。
慌てて目線を外した二人を見て、トウカは呆れたように大きく息をつく。
「はいはい。あとは二人でどうぞごゆっくり」
「ごゆっくりー」
「ちょっとトウカ。マリーちゃんまで!」
冷やかすトウカたちに、ドラセナは真っ赤になる。
そんなやり取りに、フジも笑いかける。だが、すぐにその表情が寂しげなものへと変わった。
ドラセナのことが好きだという気持ちは確かだ。
だが、だからこそ彼女の思いに応えることが怖かった。
アヤメとの件はまだ解決していない。そして、何より父の様になることが彼にとって最も――。
「先生、フジ先生!」
突如病院の扉を叩く者があった。その声は、一刻の余裕もないことを伺わせる。
フジはそのただならぬ様子に、すぐさま医師の表情に戻ると扉を開け、訪問者を出迎えた。
「どうしたんですか?」
「すまねえ先生、すぐに来てくれ。向こうの工事現場で事故だ!」
「工事現場で?」
先日から、町の一角で住宅の建設が行われていた。そこで事故が起きたのだと言う。
「崩れた家やら資材やらの下敷きになってる奴もいる。手が足りねえんだ」
「わかりました。すぐ行きます!」
フジは道具が詰まったカバンを持ち、病院を飛び出していく。
外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
「こんにちはー」
「やあ、待っていたよ。マリーちゃん」
笑顔でフジが出迎える。今日は月に一度のマリーの検診日だ。
彼女の秘密を守るために全ての診療が終わり、病院に誰もいなくなってから行っている。
「フジ、私は戸締りの確認してくるから」
「うん、ありがとうドラセナ」
病院内の見回りを兼ねて、ドラセナは戸締りに向かう。
彼女もマリーの検診の日に都合を合わせてくれることが多い。
「変わりはないかい?」
「うん。腕輪もあるし、魔術の訓練を始めてからは魔力も安定しているみたい」
まずはトウカがひと月の様子を報告する。
幸い冬の事件以降、マリーの魔力が暴走したり、体調を崩したりすることはない。
「それはよかった。マリーちゃん、学校はどうだい?」
「とっても楽しいよ。キッカお姉ちゃんも、レンカお姉ちゃんも色々教えてくれるし、エリカともいつも遊んでる!」
学校であったことを話すマリー。
その様子はとても楽しそうで、トウカも見ていてつい表情が緩む。
「色々と気を使うことも多いだろうけど、僕もできる限りの支援はするつもりだよ」
「うん。ありがとう、フジ」
「ねえ、フジせんせー」
不意に、マリーがフジに尋ねる。
「ん、何だい?」
「ドラセナお姉ちゃんといつ“けっこん”するのー?」
あまりに自然に刺さる一言を告げられ、フジの表情が笑顔のまま固まった。
「ママたちがこの前言ってたよ。『二人が結婚したら嬉しい』って」
「ええっと……フジ、ごめん」
気まずそうにトウカは目を逸らす。
マリーもそういったことに興味を示す年頃なのだろうか。それにしても子供は見ていないようでしっかりと見ているものだ。
「……いや、いいんだ」
小さくため息をついて、フジが天井を仰ぐ。ここにドラセナはいない。そしてマリーの純粋な言葉だからこそ、フジも素直な気持ちを出せた。
「正直、踏み出していいのかどうかって思っていることがあってね」
「あれ、フジもなの?」
先日、ドラセナが言っていた言葉と同じだった。
彼も彼で、何か引っかかっていることがあるのだろうか。そうトウカは思った。
「僕も……って?」
「何だか、ドラセナも同じようなこと言ってたから」
「ドラセナも?」
「うん、この際だから聞いておきたいんだけど……ドラセナの求婚を一度断ったって本当?」
トウカは思い切って訪ねてみる。ドラセナのいない今だからこそぜひ聞いておきたかった。
フジもまさか子供の頃の話を持ち出されるとは思わず、驚きを見せた。
「……またずいぶん昔のことを持ち出すね」
「じゃあやっぱり本当なんだ」
「いや、だってあの時は――」
フジが言いかけたその時、待合室の辺りで言い争う声が聞こえてきた。
「ですから、今日の診療はもう終わったんです!」
「いえ。用があるのはこの病院の医師にですわ!」
どうやらドラセナが病院に来た誰かに対応しているらしい。
その様子から、患者と言うわけではなさそうだ。
「失礼致します!」
その人物はドラセナを振り切って診察室の扉を強引に開く。音に驚き、トウカにしがみついたマリーを見て、乱入者は険しい表情を緩めて咳払いをする。
「あ、あら診察中でしたの……これは失礼致しました」
「ご、ごめんフジ。駄目だって言ってるのに聞かなくて……」
「あ……」
その人物と目が合ったフジは、一瞬でその表情を青ざめさせる。
「お久しぶりですわ、フジ様」
「あ……アヤメ!?」
「ええっと……お知り合い?」
「申し遅れました」
突如現れた亜麻色の髪の女性は、スカートの裾を引いて優雅に頭を垂れた。
「わたくし、アヤメ=イーリスと申します」
「イーリスって……あの医者の?」
イーリス家はウィステリア家と並ぶ医師の家系だ。
王都を中心に活動するウィステリア家と違い、地方で力を振るっていることで知られている。地方領主の間ではイーリス家の方が有名なくらいだ。
「ええ、そしてフジ様の婚約者ですわ」
「え……?」
時が止まったかと思うほど、一瞬で静まり返る。そして、アヤメと名乗った女性の後ろでドラセナが凍り付いていた。
「こ……婚約者!?」
トウカはフジと、アヤメの二人の間で視線を泳がせる。フジは気まずそうにアヤメから視線を外した。
「……“元”婚約者だけどね」
「わたくしは承服していませんわ!」
その言葉に、アヤメは語気を強めて反論する。
「イーリス家とウィステリア家の婚姻は互いの家の発展のためになる縁談。それを破談にされるなんて理解できません!」
「一年も前のことじゃないか」
「家を出て生活が立ちゆくわけがないと思ったからです。すぐ戻ってくると思いましたが、まさか耐えられるとは……」
トウカはその傍らで苦笑する。
人間、立場もプライドも捨てて死ぬ気になれば生活できるという事は、彼女が一番よく知っていた。
「今日と言う今日は我慢の限界です。わたくし、今日は貴方を連れ戻しに参りました!」
「……それは、父の差し金かい?」
「い、いえ……ヒガン様は何も」
「だったら放っておいてくれないか。僕はもうあの家に戻る気はない」
「リコリス様の一件が原因なのは分かります。ですがこのままでは!」
「アヤメ!」
フジから発せられたとは思えないほど強い言葉にアヤメが身をすくませる。
そして、自分が激情に任せて言ってはならないことを口走っていたことに気付いた。
「……そのことには触れないでくれ」
「も、申し訳ありません……」
だが、二人の間に出た名前はトウカたちにとっては、捨て置けないものでもあった。
「……リコリスおば様に何かあったの?」
フジが唇を噛む。リコリスはフジの母親だ。トウカたちも王立学院時代に何度か会ったことがある。優しさを体現したような穏やかな笑みを常に浮かべた、一緒にいてとても落ち着く人だった覚えが彼女たちにもあった。
ドラセナを見ると首を横へ降る。この話は彼女も聞いていなかったのだ。
「……二年前から寝たきりなんだ。父さんのせいで」
「フジ様。ですがそれは!」
「わかってる! 理屈ではわかっているんだ……でも“家を継ぐ者”としては理解できても、“家族”としては納得できないんだ!」
行き場のない憤りがフジの拳を固く握らせていた。
トウカたちはフジが自分の医療をしたいがために家を出たことは知っていた。だが、彼女たちも知らない父子の確執がそこにあったのだ。それもかなり根深い。
「だから僕は父さんのようにはならない。自分の信念に基づいた医師になる」
「それでは、地位も、名誉も得られません!」
「その姿勢が嫌なんだ! 医療技術は万人のためのものだ。誰かが独占していいものじゃない!」
「では、万人を救い続けて家の者を養えると仰るのですか?」
「僕一人なら何とかなる。だから家を出たんだ!」
睨み合うフジとアヤメ。互いに一歩も譲るつもりはない。
だが、その会話はトウカの一言に遮られた。
「二人とも……娘が怖がっているから、もうやめて」
二人の剣幕にマリーはトウカの足にしがみついて今にも泣きそうな顔をしていた。
その姿を見て二人も、自分がどれほど子供の前で醜態を演じていたかに気づく。
「……ごめん。子供の前でする話じゃなかったね」
「……わたくしも、冷静さを欠いていました」
落ち着きを取り戻す二人。
だが、ドラセナだけは腕を強く握り、平静を装い続けていた。
フジがかつて彼女の求婚を断っていた理由が判明した。それがアヤメだ。
話から分かることは去年まで二人は婚約関係にあったこと。そしてフジが家を出た理由には母親のリコリスと父親のヒガンが関わっていること。
元々彼らの話において自分が部外者なのはわかっている。だが、自分が出る幕がないとはこういうことを言うのだろうか。
あの時、自分は何を浮かれていたのだろうとドラセナは思っていた。フジが家を出る際に自分を頼りにしてくれたと、それだけで舞い上がってしまっていたのだ。
彼が何故、長年過ごした家を出てまで自分を貫こうとしていたのか、その理由まで思い至らなかったことを恥じる。
「今日のところは帰ってくれないか。アヤメ」
「わかりました……ですが、私は諦めませんわ。ウィステリアの技術を得て王家との繋がりを得るのはイーリスの悲願です」
アヤメは踵を返し、後ろで俯くドラセナを一瞥すると再び歩き出す。
病院から出ていった後に、外で馬車が走り出す音がした。その音が聞こえなくなるまで、誰もが言葉を発せられずにいた。
「……もう、怒ってない?」
トウカの陰からおびえた目でマリーが顔をのぞかせた。
「ごめんね。マリーちゃんに怖い思いをさせるつもりはなかったんだ」
「アヤメお姉さんとちゃんと仲直りしなくちゃだめだよ、せんせー」
「うん……そうだね」
だが許してもらえるとは到底思えなかった。
幼い頃に決められたこの縁談はお互いの家にとってもまたとない話だった。王国の二つの医師の家が一つになる。それは揺るぎのない地位を約束していた。
だが、フジが家を飛び出したことで一方的に婚約を解消する形となった。イーリス家への不義理、そしてウィステリア家の名に泥を塗った彼は家の一員から追放された。
「婚約者と言っても、ほとんど会ったこともなかったんだけどね」
「……でも、フジはそれを受け入れていたんでしょ?」
トウカの問いにフジは頷く。
家の地位も名誉も守るためには、その方針に従うのが当然。幼い頃からそう言われていたフジにとって、顔も知らない相手と婚約することはさほど疑問を抱くことではなかった。それが当然と思っていたから。
「……でも、そんな僕を変えたのはドラセナだったんだよ」
「え……?」
「家の方針が嫌だなんて、僕の中では考えられなかったことだからさ」
父の跡を継いでウィステリアの家を盛り立てる。その為に医術や魔術を身に着けるのが当然と思っていた。
だが、そんな中で出会ったドラセナは、受け継がれて来た家の力を忌避していた。
「驚いたよ。騎士が戦いで相手の命を奪うのは当然だと思っていたのに、その後継ぎがそれを嫌がっていたんだから」
「私は、そんなつもりじゃ……」
「僕にとってはとても大きなことだったんだよ」
自分の弱さが意図せず彼の価値観を変えていたことにドラセナは驚く。
微笑むフジをなんだか見ていられなくなって、思わず目を逸らしてしまった。
「それからは言われるがままに学ぶんじゃなくて、自分なりに考えて学ぼうと思ったんだ。そうしたら、自分の身の回りがおかしいってことに気付いたよ」
「……それで、フジは私たちの対立を止めようとしていたんだ」
その頃のトウカたちの関係は、主要五家の対立の影響が出ていた。表向きは魔王討伐のために手を結び始めていたが、まだあちこちで火種がくすぶっている状態だった。
新興勢力であったフロスファミリア家を露骨に目の敵にしていたシオン。向けられる敵愾心から妹を守ろうといつもオウカが立ちはだかり、ことあるごとに二人はいがみ合う。
そんな二人をトウカも止めることができず、まだ引っ込み思案だったドラセナはそんな状況から逃げるように図書室に閉じ籠もっていた。そんな中でフジと出会ったのだ。
「ママたち、みんな仲悪かったの?」
「うん。でも、フジのお陰でみんなお友達になれたんだよ」
「フジせんせー、すごーい」
そしてある日、フジはシオンとオウカの対立に割って入ってきた。主要五家ではなく、医師の家と言う独立勢力だったこともあり、どちらに対しても意見できる立場だった。
シオンに非があればそれを咎め、オウカに非があればそれを正す。そうやっている内に、皆も自分たちがおかしなことをしている事実に気付き始めたのだ。
「生まれた家が違うだけで差別して、蔑んで……そんなのおかしいからね。本当なら同じ年代の子供同士仲良くできるはずなんだよ」
マリーとエリカの関係がまさしくそれだ。
対立していた家同士の者が知り合い、名前も知らない内にすぐに友達になれた。本来ならぶつかり合うより簡単なことのはずだ。
「ドラセナ、ありがとう。君がいなかったら今の僕はないと思う」
「そんな……私だって、貴方がいたから……」
お互いがいたからこそ、変わることができた。
そして前に踏み出した結果、五人は掛け替えの無い友達になれた。冬の事件でも、マリーを助ける力になってくれたのだ。
「あのー……いい雰囲気の中、申し訳ないんだけど。私たちのこと、忘れてない?」
「ご、ごめん!」
見つめ合っていたフジとドラセナに、非常に申し訳なさそうにトウカが声をかけた。
慌てて目線を外した二人を見て、トウカは呆れたように大きく息をつく。
「はいはい。あとは二人でどうぞごゆっくり」
「ごゆっくりー」
「ちょっとトウカ。マリーちゃんまで!」
冷やかすトウカたちに、ドラセナは真っ赤になる。
そんなやり取りに、フジも笑いかける。だが、すぐにその表情が寂しげなものへと変わった。
ドラセナのことが好きだという気持ちは確かだ。
だが、だからこそ彼女の思いに応えることが怖かった。
アヤメとの件はまだ解決していない。そして、何より父の様になることが彼にとって最も――。
「先生、フジ先生!」
突如病院の扉を叩く者があった。その声は、一刻の余裕もないことを伺わせる。
フジはそのただならぬ様子に、すぐさま医師の表情に戻ると扉を開け、訪問者を出迎えた。
「どうしたんですか?」
「すまねえ先生、すぐに来てくれ。向こうの工事現場で事故だ!」
「工事現場で?」
先日から、町の一角で住宅の建設が行われていた。そこで事故が起きたのだと言う。
「崩れた家やら資材やらの下敷きになってる奴もいる。手が足りねえんだ」
「わかりました。すぐ行きます!」
フジは道具が詰まったカバンを持ち、病院を飛び出していく。
外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
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