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第七章
決着
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1
赤穂浪士の裁決は、討ち入りの翌年に持ち越しとなった。そうさせたのは、綱吉と柳沢の赤穂浪士賛美で盛り上がる世論の取り扱いを巡る苦悩である。
大衆は赤穂浪士を義士として称賛した。幕閣内にも討ち入りを忠義と捉える者がいた。何よりも最終決定権者である綱吉の中で、浅野内匠頭の即日切腹の裁決に対し大衆から突き上げられた批判が苦い記憶となって残っていたのだ。
赤穂浪士の裁決に当たっては、学者の意見が更に混迷度を強めた。
学者の意見は二分していた。一方は赤穂浪士を義士として賛美する宥免派、他方は厳罰派である。宥免派の代表は、綱吉の信任が厚い幕府学問所の学頭である林鳳岡、有罪処罰派の代表は柳沢吉保 の儒臣である荻生徂徠である。
林鳳岡の論理展開は以下のようなものであった。
"この度の浅野遺臣が、亡き主君の意趣を継いで吉良を討ったのは正義であり、忠誠心を称賛すべきである。もし、江戸城お膝元での騒動をけしからんとして厳罰に処したならば、この事件によって世に喧伝された忠誠心の重さが生かされず、世の忠義が地に堕ちることは必定"
一方の荻生徂徠は以下のような論陣を張った。
"赤穂浪士が主君の仇を討ったのは、その行為は忠義と言えるものの、その実態は私怨である。
その私怨の原点は、主君内匠頭が殿中を憚らず上野介に刃傷に及び切腹を言い渡されたもので、そのことをもって上野介を仇と見なし、公儀の許可なしに騒動を起こしたことは法が許さぬであろう。赤穂浪士が武士の礼をもって切腹に処せば上杉家は忠義を軽んじたことにはならず納得が得られるであろう。ここで公論よりも私論を優先したなら、この先天下の法は成り立たなくなる"
宥免派の意見の中には、浅野刃傷事件との整合性についての言及がなかった。激情に駆られて抜刀し無抵抗な老人に傷を負わせた内匠頭を切腹に処した幕府の裁決との整合性である。先の刃傷事件の被害者上野介が加害者である主君内匠頭の仇であろうはずがないのである。その根本の部分の論拠付けから意図的に逃げているのである。主君綱吉の意に添って赤穂浪士の討ち入りを美談化すればする程、綱吉が激怒に乗じて強行した内匠頭切腹の非を色濃く浮き上がらせるという皮肉な結果を招くことになるのである。宥免派の学者達にとっては過去や法との整合性などはどうでもよいのである。ただ単に世論に迎合した学者にあるまじき稚拙な情緒論と思われた。
厳罰派の荻生徂徠の方の意見はどうか?こちらは、正論が散りばめられてあり、隙がない。浅野刃傷事件が内匠頭の一方的暴力によって引き起こされたものであるから、家臣がその怨みを晴らすことは仇討ちにはならないと論じている。更に、赤穂浪士が厳罰となれば、追撃軍を派遣しなかった上杉家は忠義に反したことにはならないと、上杉家擁護論にまで言及している。
市民の反発は必至であるが、法的な論理展開としては問題ないように思えた。
裁決の行方は、幕閣内においても宥免派と厳罰派の間で揺れに揺れた。荻生徂徠の意見で厳罰寄りへ、評定所の意見書提出で宥免寄りへ、柳沢吉保の反論で厳罰寄りへ、と反転を繰り返した。
結局、幕府の決定は大衆が期待した方向へも赤穂浪士が期待した方向へも進まなかった。
処分は翌年2月4日に切腹と決定した。幕府は赤穂浪士達の討ち入りを仇討ちとは認めなかったのだ。内蔵助が預けられていた細川家へ、それを伝える検使として派遣されたのは赤穂城明け渡しの際に受城監察役となった目付荒木十左衛門である。
その内容は以下のようなものであった。
"内匠頭家来46名徒党を致し、吉良宅へ押し込み上野介を討ち取り候始末、公儀を恐れざる候段、重々不届きに候、これにより切腹申しつくるものなり"
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは仇討ちとは認められず徒党による押し込みとされたのである。
併せて、荒木から内蔵助へ吉良家当主の義周の諏訪家へのお預けも伝えられた。荒木の内蔵助への気遣いと思われる。
五十畑は、それを知って柳沢の真意を知った。柳沢には赤穂浪士の助命を本気で達成させる気はなかったのだ。柳沢が為したのは内蔵助との密約実現のために奔走したという足跡を刻むことのみであった。綱吉や老中に討ち入りを果たした赤穂浪士の忠義を称賛させ、評定所での流れを宥免論へ向けさせる。たが、そこまでが限界であった。赤穂浪士無罪実現には幕府定法の壁があったのだ。
幕府は仇討ちについて明確な定義を定めていた。仇討ちとは親兄弟を殺した加害者を自らの手で葬り去り遺恨を晴らすこと。さらに、仇討ちを実行する際は、藩や幕府へ届け出をして許可を得る必要があるということ。赤穂浪士の場合はどうか?討つべき相手上野介は親や兄の仇ではなく主君の仇であるし、更に言えば上野介は主君である内匠頭を殺したのではない。内匠頭は切腹によって死んだのだ。しかも、赤穂浪士は上野介討ちに当たり幕府に届け出をしていない。全てにおいて赤穂浪士の吉良上野介討ちを仇討ちと見るには無理があるのだ。赤穂浪士の所業が仇討ちでなければ、無罪とすべき法的な根拠が見出だせないのである。
吉良家のお家断絶も合わせて公表され、浅野家と吉良家の処分は後れ馳せながら不平等が解消されたことになる。柳沢の内蔵助との密約破棄に対する代償ということになるのであろう。
同日、46名全員が預りとなっていた4家にて切腹となった。
内蔵助が柳沢を操ったとしたら、最終局面で手違いが生じたことになる。たが、冷静なる視線を有する内蔵助が、本気で無罪やその後の仕官を信じていたとも思えなかった。内蔵助が面談で残した、同志達は討ち入りに死場所を求めた、それが内蔵助の真意なのではなかったか。その思いは同志の中の主だったところで共有していたのではないか。五十畑はそんな気がした。
内蔵助は、柳沢から提示された仕官話など当初から眼中になかったのかもしれない。一歩早まった引退後の遊蕩の夢を果たせた。華々しく討ち入りを果たして潔く腹を切る。内蔵助の残された思いはそれのみであったのではないか。仕官の口をちらつかせれば、脱盟した同志をつなぎ止めることもできたかもしれない。だが、それのみを目的に討ち入りに参加した者に期待し得るものなど何一つない。討ち入りでは安全地帯に身を置き大願成就となってしゃしゃり出ては大言壮語を口にし無罪放免後に好条件の仕官の口を手に入れることに討ち入りを利用せんとしている。それ故に、密約が反故になり切腹を言い渡された際には狂気となって暴言を吐くか情けなくも命乞いをしかねない輩である。内蔵助はそのような余剰分子を排除するために、仕官話を敢えて口にしなかったのではないだろうか。
とすれば内蔵助は並みの俗物ではない。人間を射抜く眼力と人心掌握力に優れ、狙いを定めた後はそれに向けて丹念にその障害を取り除く。水も漏らさぬ計画を立案した上で果敢に挑戦する。一級の人物である。同志達には迷いはなかった。ただ内蔵助の背中だけを見詰めて付いて行けばよかったのだ。
遊蕩に溺れる内蔵助の姿のみに惑わされその本質に目が届かなかった五十畑一生の不覚であった。
更に五十畑は改めて柳沢の存在の大きさを思い知らされた。柳沢は五十畑が考えの遥か先を見通していたのだ。赤穂浪士討ち入りから吉良家お家断絶までは深淵壮大なる絵図のまだほんの入口に過ぎなかったのだ。
最終的な狙いは家康公以来徳川幕府政策の柱とも言うべき儒教の精神の教宣にあったのではないか?重用の序、即ち年長者に対する敬意である。親や主君に対する敬意と、背信・裏切りに対する警鐘である。それによって征夷大将軍を頂点とする徳川政権の更なる磐石化を推し進めようとしたのだ。生類憐れみの令は本来の狙いから大きくかけ離れ歪んだ結果となったが、その轍を踏まんと慎重に事を進めた。綱吉の考えはそのまま柳沢の考えに移行する。正に二人は一心同体なのだ。そんな二人の関係が築かれたのは、柳沢が七歳、綱吉19歳の時である。当時館林城主であった綱吉の家臣であった父親によって引き会わされたのだ。二人は共に学問好きで馬が合った。その後綱吉が将軍職に就いた際に小姓として綱吉に従った。それから、柳沢は怒濤の大出世を遂げたのであるが、その裏には美少年であった柳沢の特性が遺憾なく発揮されたとの穿った見方をする向きもある。真偽は不明である。
綱吉の意を受けた柳沢の奸計の核心となったのが、赤穂浪士の吉良邸討ち入りである。その実態は主君に対する忠義などではなく、浪士達の私利私欲なのであるが。その実態を公にしてはならない。死をも恐れぬ純粋高潔なる義士達の仇討ちでなければならない。限りない武士道の追求なのだ。
そして総仕上げが赤穂浪士に対して下した切腹だったのだ。義士達の死によって、劇的な仇討ちに花を添え感動を盛り上げたと同時に、赤穂浪士から真相が漏れるのを防いだのだ。あの切腹は口封じでもあったのだ。
赤穂浪士は大衆の称賛と吉良家厳罰という見返りは得たものの、結果的には柳沢吉保作演出の仇討ち劇への出演のために使い捨てにされたことになる。だが、内蔵助の慧眼は、柳沢のそれら全ての深層を見通していたのだ。それ故、同志達には、柳沢から提示された上野介討ち後の仕官の話を秘しておいたのだ。最終的な狙いは違えど、対峙した二人の巨人の熱く強かな駆引きが、痛み分けという形でそこに到達させたのだ。浅慮なる五十畑には到底及びもつかない領域に思えた。
2
柳沢吉保が綱吉からの呼び出しで本丸中奥の将軍用私室に入ると、いつもの思い詰めた表情を向けてきた。
「のう、弥太郎」
柳沢が綱吉に小姓として仕えていたころの呼称である。綱吉は二人きりの時は、その呼称を今でも用いている。
「赤穂浪士の処分はあれでよかったのか?市中の反応はどうじゃ?」
この台詞は、綱吉のこのところの口癖となっていた。浅野切腹裁決に対する大衆の批判が、余程堪えているのだ。その度に、柳沢は同じ答を返した。
「問題ございません。あれでよかったのでございます」
「そうか。よかったのか」
綱吉の表情が少し緩んだ。
「市中では今暫くは公儀に対する批判が続きますでしょう。されど、それも一時的なものにございます。大衆は、亡き主君の屈辱を晴らした義士達の美しき忠義心という作られた美談に酔いしれていますが、やがて知識人や学識者の言によって公儀の裁定の妥当性正当性が深く静かに浸透することでありましょう。市民の不満や批判は、それにより雲散霧消するはずであります。ご安心下さい。浅野刃傷事件も浅野遺臣による吉良邸討ち入りも、上様が下した裁決には一片の誤りもございません。
法治国家としては、定法が最上位にあらねばなりませぬ。世論は流行り病のごときもの。新しき病が世に出現すれば、記憶の上書きにより古き病は忘れ去られましょう。されど、天下の定法は不滅であらねばなりませぬ。現世の大衆は場の空気感や情で評価します。されど、これから先の歴史家や学者は知と理にて評価することでありましょう。さすれば、必ずやこの裁決の正しさが世に定着するに違いありませぬ。
更に、忘れてならぬのが、徳川政権の永続性にございます。君主に対する敬意と忠誠。その精神が、徳川の長期安定政権を支えてくれることでしょう。赤穂の浪士達はその精神を世に大きな遺産として遺してくれもうした。家康公が目指された忠孝の教えが、今ここに完成形として結実したと申し上げてよろしいかと」
徳川政権の祖家康は、政権の永続性を担保するため、朱子学の思想を取り入れ、それを定着させんとした。徳川政権前の戦国時代は、暗愚なる君は潰し自らが入れ替わることを是とする下克上の思想が基本であったが、それを"君、君たらずとも、臣、臣たれ"、つまり如何に暗愚なる主君であろうとも、家臣はただ黙って主君に従え、という主君にとっては誠に都合のいい主従関係である。たた盲目的に主君に従うだけではなく、そこには敬意と忠義が介在していなければならないというものである。その思想が戦いのない泰平の世を築き上げたのである。
「お主は、その為に赤穂浪士を利用したと申すか?」
「結果的にはそうなるかもしれませぬが、ある意味では赤穂浪士も公儀を利用したと言えるのかもしれませぬ。喰いつめ浪人として行き場や自らの存在理由を封じられ、その怒りを捌け口を模索していた彼らに降って沸いたように救いの手が差しのべられもうした。迷うという贅沢は許されませぬ。最期に華々しき花道を歩むことができもうした。偽善とも言える彼らの行為は、実態が秘匿され美化されたことにより、誇りと自信を胸に、彼らは旅立つことができたのではないかと思われまする」
当初より赤穂浪士の裁決について、綱吉と柳沢は一枚岩とは言えず、少なからぬずれがあった。世論に過剰に敏感な綱吉は、赤穂浪士無罪を主張し続けていた。柳沢にしても内蔵助との密約があり、できるものなら宥免論に乗りたかった。だが、柳沢のその思いを押し留めたのが、浅野内匠頭裁決との整合性と法的な裏付けの弱さ、赤穂浪士達の忠義心とは程遠い挙兵の動機、そしてその真実が赤穂浪士の口から漏れる危険性である。その不純なる挙兵の真実及び彼らを決起させたはずの主君に対する忠義の真実と主君の真の姿、それらが露呈したとしたら、世論は一挙に逆向きに方向を変え、公儀への批判となるはずである。赤穂浪士の口を封じる必要性からも、無罪放免は何としてでも避けなければならなかったのだ。
柳沢の厳罰論が裁決に結び付くまでには、多くの障害があった。先ず、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付で構成される評定所での合議によって老中からの諮問に対する答申書が作成され、それを柳沢と五名の老中衆が内容を精査し意見交換をした上で綱吉に提出し、決裁を仰ぐことになる。評定書の答申書は、評定所一座存寄書と称されるが、その中身は赤穂浪士に同情的、吉良家上杉家に対しては厳しいものとなっていた。亡き主君の遺恨を継いで御敵上野介を討ったのは忠義であり、武家諸法度第一条の、文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事、の主旨に準ずる行為であり、目的達成の為やむを得ず共謀したもので徒党にあらず、といった内容であった。対する吉良側に対しては、義周は親を見捨てて逃げた卑怯な振舞、上杉側には赤穂浪士が引き揚げの際に追手を差し向けることなく静観したのは武士としてあるまじきこと、と現実を無視したものとなっていた。答申書の内容を引き継いだ老中の意見もほぼ同様であった。柳沢は老中筆頭格であるが、如何せん分が悪すぎた。老中達は全員宥免派である。老中達の、綱吉の側近中の側近である柳沢に対する対抗心が彼らを宥免派に走らせていた。柳沢と老中衆の対立は、浅野内匠頭に対する裁定から始まっていた。内匠頭の刃傷に情状酌量の余地なしと切腹を主張する柳沢と性急なる裁決は禍根を残すことになるとして慎重なる評定を主張する老中派との対立は、綱吉の即日切腹の一声で決定した。だが、世論はその裁決の理不尽さを叩き、それが仇討ち待望論を巻き起こすことになる。綱吉自身もがその渦に巻き込まれ強い自責の念に悩まされることになったのである。それによって老中派が勢いを得、この赤穂浪士宥免論に繋がったのだ。
綱吉の考えを忖度しての宥免論は当初は優位であったが、その流れを変えたのが五十畑調書であった。内匠頭の刃傷は酒乱によるもの。事件以前に浅野家には取り潰しを免れぬ藩主の不行跡あり。幕府の内匠頭切腹、浅野家改易、吉良家及び上野介おとがめなしの裁決に非無し、よって赤穂浪士の討ち入りに道理なし、討ち入りは仇討ちにあらず。
宥免論にがんじがらめに取り込まれていた綱吉も老中も、その五十畑調書を突き付けられ二の句がなかった。
元々脆弱な情緒論からなる宥免案は、細密で強靭な定法と理屈で補強された厳罰案に対し分はなかったのであるが、その上に宥免論の最大の拠り所といえる忠孝が見せ掛けであることが暴露されては、勝負にならなかったのである。
赤穂浪士討ち入りの裁決の流れを決した五十畑調書であったが、その存在は固く秘せられた。赤穂浪士賛美によって市中に浸透した忠孝思想を沈静化させるわけにはいかなかった。
だが、上杉家取り潰しの方向性については、綱吉と柳沢の思いは完全に一致していたはずであったが、柳沢が色部と手を結んだ時点でそれが崩れた。柳沢は上野介抹殺を優先し、上杉取り潰しを引っ込めたのだ?その為に、吉良を討った赤穂浪士に対する追撃軍の派遣にストップを掛けたのだ。目的の為なら裏切りも辞さない柳沢の妥協の産物であった。上杉家としては、悪性の腫瘍か全身に広がる前に切除したことになるし、柳沢は二つの腫瘍の内切除しやすく重症化しやすい方を切除したことになる。
結局上杉家取り潰しはならなかった。柳沢と色部が合体した時点で、柳沢の方が、上杉家取り潰しに関しては、懐の合口を引っ込めたのであろう。そのために、老中に命じて上杉家の赤穂浪士追撃を止めさせたのだ。江戸城下で上杉と浅野遺臣軍が戦闘ということになれば、上杉家も無傷ではいられない。今度こそは喧嘩両成敗の対象となる。
だが、上杉家はその後奇しくも不幸続きとなった。藩主綱憲は、実子で吉良家に養子に出した義周が諏訪家へお預けになったのに連座する形で、子吉憲共々遠慮を申し渡された。綱憲は約一ヶ月半、吉憲は一ヶ月間、蟄居閉門どなった。その後は、討ち入りの翌年の秋綱憲が病気により隠居を願い出た。上杉15万石は綱憲の長男吉憲が継いだ。討ち入り一年半後に綱憲が死亡した。42歳の若さであった。更にその二ヶ月後に上野介に嫁いだ上杉藩二代藩主上杉忠勝の4女で三代藩主綱勝の妹が死亡した。そのことを知った江戸市民は多くはなかった。しかも、市民の反応は、あの赤穂浪士討ち入りで熱狂したと同じ者達とは思えない程、薄いものであった。
赤穂浪士切腹の日、吉良家党首吉良左兵衛義周に対し、公儀よりの処分宣告が下された。吉良家の処分は極めて厳しいものとなった。
引退した上野介の後を継いだ養子義周に対する領地没収と信州諏訪高島城に幽閉というものであった。清和源氏の嫡流吉良家はここに断絶が決した。浅野刃傷事件においては叶わなかった喧嘩両成敗が、一年11か月近くの時を経て達成されたことになる。だがその処分理由が不明確である。赤穂浪士の討ち入りに際し、武士としてあるまじき醜態をさらしたということのようであるが、確かに応戦せずに逃げ隠れした家臣がいたことは事実であるが、堂々と上野介の前に立ち塞がり、ナマスのように切り刻まれた側近もいるのである。深夜に武装集団の襲撃を受け、主君をはじめ家臣の多くが斬殺され、その挙げ句が喧嘩両成敗では浮かばれない。義周は、ただちに網駕籠に囚人として乗せられ諏訪に運ばれた。赤穂浪士討ち入りの際に負った傷がまだ癒えておらず、過酷な道中であった。英雄として4家にお預けとなり、ご馳走攻めとなった上に厚遇を受けた赤穂浪士とは雲泥の差である。
前年の浅野内匠頭の早まった裁決に対する痛み分けを狙ったとしか考えられなかった。幕府の片手落ちの浅野刃傷裁決における幕府批判の収拾が、吉良上野介の後継の義周への片手落ち裁決によって図られたことになる。その意味では、赤穂事件の最大の犠牲者は、逆恨みによって討たれた上野介と、浅野刃傷事件において部外者であったにも拘わらす、その後後継当主の座に着いたばかりに不当な裁決を背負うことになった義周の親子であったと言えるかもしれない。
赤穂浪士の裁決は、討ち入りの翌年に持ち越しとなった。そうさせたのは、綱吉と柳沢の赤穂浪士賛美で盛り上がる世論の取り扱いを巡る苦悩である。
大衆は赤穂浪士を義士として称賛した。幕閣内にも討ち入りを忠義と捉える者がいた。何よりも最終決定権者である綱吉の中で、浅野内匠頭の即日切腹の裁決に対し大衆から突き上げられた批判が苦い記憶となって残っていたのだ。
赤穂浪士の裁決に当たっては、学者の意見が更に混迷度を強めた。
学者の意見は二分していた。一方は赤穂浪士を義士として賛美する宥免派、他方は厳罰派である。宥免派の代表は、綱吉の信任が厚い幕府学問所の学頭である林鳳岡、有罪処罰派の代表は柳沢吉保 の儒臣である荻生徂徠である。
林鳳岡の論理展開は以下のようなものであった。
"この度の浅野遺臣が、亡き主君の意趣を継いで吉良を討ったのは正義であり、忠誠心を称賛すべきである。もし、江戸城お膝元での騒動をけしからんとして厳罰に処したならば、この事件によって世に喧伝された忠誠心の重さが生かされず、世の忠義が地に堕ちることは必定"
一方の荻生徂徠は以下のような論陣を張った。
"赤穂浪士が主君の仇を討ったのは、その行為は忠義と言えるものの、その実態は私怨である。
その私怨の原点は、主君内匠頭が殿中を憚らず上野介に刃傷に及び切腹を言い渡されたもので、そのことをもって上野介を仇と見なし、公儀の許可なしに騒動を起こしたことは法が許さぬであろう。赤穂浪士が武士の礼をもって切腹に処せば上杉家は忠義を軽んじたことにはならず納得が得られるであろう。ここで公論よりも私論を優先したなら、この先天下の法は成り立たなくなる"
宥免派の意見の中には、浅野刃傷事件との整合性についての言及がなかった。激情に駆られて抜刀し無抵抗な老人に傷を負わせた内匠頭を切腹に処した幕府の裁決との整合性である。先の刃傷事件の被害者上野介が加害者である主君内匠頭の仇であろうはずがないのである。その根本の部分の論拠付けから意図的に逃げているのである。主君綱吉の意に添って赤穂浪士の討ち入りを美談化すればする程、綱吉が激怒に乗じて強行した内匠頭切腹の非を色濃く浮き上がらせるという皮肉な結果を招くことになるのである。宥免派の学者達にとっては過去や法との整合性などはどうでもよいのである。ただ単に世論に迎合した学者にあるまじき稚拙な情緒論と思われた。
厳罰派の荻生徂徠の方の意見はどうか?こちらは、正論が散りばめられてあり、隙がない。浅野刃傷事件が内匠頭の一方的暴力によって引き起こされたものであるから、家臣がその怨みを晴らすことは仇討ちにはならないと論じている。更に、赤穂浪士が厳罰となれば、追撃軍を派遣しなかった上杉家は忠義に反したことにはならないと、上杉家擁護論にまで言及している。
市民の反発は必至であるが、法的な論理展開としては問題ないように思えた。
裁決の行方は、幕閣内においても宥免派と厳罰派の間で揺れに揺れた。荻生徂徠の意見で厳罰寄りへ、評定所の意見書提出で宥免寄りへ、柳沢吉保の反論で厳罰寄りへ、と反転を繰り返した。
結局、幕府の決定は大衆が期待した方向へも赤穂浪士が期待した方向へも進まなかった。
処分は翌年2月4日に切腹と決定した。幕府は赤穂浪士達の討ち入りを仇討ちとは認めなかったのだ。内蔵助が預けられていた細川家へ、それを伝える検使として派遣されたのは赤穂城明け渡しの際に受城監察役となった目付荒木十左衛門である。
その内容は以下のようなものであった。
"内匠頭家来46名徒党を致し、吉良宅へ押し込み上野介を討ち取り候始末、公儀を恐れざる候段、重々不届きに候、これにより切腹申しつくるものなり"
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは仇討ちとは認められず徒党による押し込みとされたのである。
併せて、荒木から内蔵助へ吉良家当主の義周の諏訪家へのお預けも伝えられた。荒木の内蔵助への気遣いと思われる。
五十畑は、それを知って柳沢の真意を知った。柳沢には赤穂浪士の助命を本気で達成させる気はなかったのだ。柳沢が為したのは内蔵助との密約実現のために奔走したという足跡を刻むことのみであった。綱吉や老中に討ち入りを果たした赤穂浪士の忠義を称賛させ、評定所での流れを宥免論へ向けさせる。たが、そこまでが限界であった。赤穂浪士無罪実現には幕府定法の壁があったのだ。
幕府は仇討ちについて明確な定義を定めていた。仇討ちとは親兄弟を殺した加害者を自らの手で葬り去り遺恨を晴らすこと。さらに、仇討ちを実行する際は、藩や幕府へ届け出をして許可を得る必要があるということ。赤穂浪士の場合はどうか?討つべき相手上野介は親や兄の仇ではなく主君の仇であるし、更に言えば上野介は主君である内匠頭を殺したのではない。内匠頭は切腹によって死んだのだ。しかも、赤穂浪士は上野介討ちに当たり幕府に届け出をしていない。全てにおいて赤穂浪士の吉良上野介討ちを仇討ちと見るには無理があるのだ。赤穂浪士の所業が仇討ちでなければ、無罪とすべき法的な根拠が見出だせないのである。
吉良家のお家断絶も合わせて公表され、浅野家と吉良家の処分は後れ馳せながら不平等が解消されたことになる。柳沢の内蔵助との密約破棄に対する代償ということになるのであろう。
同日、46名全員が預りとなっていた4家にて切腹となった。
内蔵助が柳沢を操ったとしたら、最終局面で手違いが生じたことになる。たが、冷静なる視線を有する内蔵助が、本気で無罪やその後の仕官を信じていたとも思えなかった。内蔵助が面談で残した、同志達は討ち入りに死場所を求めた、それが内蔵助の真意なのではなかったか。その思いは同志の中の主だったところで共有していたのではないか。五十畑はそんな気がした。
内蔵助は、柳沢から提示された仕官話など当初から眼中になかったのかもしれない。一歩早まった引退後の遊蕩の夢を果たせた。華々しく討ち入りを果たして潔く腹を切る。内蔵助の残された思いはそれのみであったのではないか。仕官の口をちらつかせれば、脱盟した同志をつなぎ止めることもできたかもしれない。だが、それのみを目的に討ち入りに参加した者に期待し得るものなど何一つない。討ち入りでは安全地帯に身を置き大願成就となってしゃしゃり出ては大言壮語を口にし無罪放免後に好条件の仕官の口を手に入れることに討ち入りを利用せんとしている。それ故に、密約が反故になり切腹を言い渡された際には狂気となって暴言を吐くか情けなくも命乞いをしかねない輩である。内蔵助はそのような余剰分子を排除するために、仕官話を敢えて口にしなかったのではないだろうか。
とすれば内蔵助は並みの俗物ではない。人間を射抜く眼力と人心掌握力に優れ、狙いを定めた後はそれに向けて丹念にその障害を取り除く。水も漏らさぬ計画を立案した上で果敢に挑戦する。一級の人物である。同志達には迷いはなかった。ただ内蔵助の背中だけを見詰めて付いて行けばよかったのだ。
遊蕩に溺れる内蔵助の姿のみに惑わされその本質に目が届かなかった五十畑一生の不覚であった。
更に五十畑は改めて柳沢の存在の大きさを思い知らされた。柳沢は五十畑が考えの遥か先を見通していたのだ。赤穂浪士討ち入りから吉良家お家断絶までは深淵壮大なる絵図のまだほんの入口に過ぎなかったのだ。
最終的な狙いは家康公以来徳川幕府政策の柱とも言うべき儒教の精神の教宣にあったのではないか?重用の序、即ち年長者に対する敬意である。親や主君に対する敬意と、背信・裏切りに対する警鐘である。それによって征夷大将軍を頂点とする徳川政権の更なる磐石化を推し進めようとしたのだ。生類憐れみの令は本来の狙いから大きくかけ離れ歪んだ結果となったが、その轍を踏まんと慎重に事を進めた。綱吉の考えはそのまま柳沢の考えに移行する。正に二人は一心同体なのだ。そんな二人の関係が築かれたのは、柳沢が七歳、綱吉19歳の時である。当時館林城主であった綱吉の家臣であった父親によって引き会わされたのだ。二人は共に学問好きで馬が合った。その後綱吉が将軍職に就いた際に小姓として綱吉に従った。それから、柳沢は怒濤の大出世を遂げたのであるが、その裏には美少年であった柳沢の特性が遺憾なく発揮されたとの穿った見方をする向きもある。真偽は不明である。
綱吉の意を受けた柳沢の奸計の核心となったのが、赤穂浪士の吉良邸討ち入りである。その実態は主君に対する忠義などではなく、浪士達の私利私欲なのであるが。その実態を公にしてはならない。死をも恐れぬ純粋高潔なる義士達の仇討ちでなければならない。限りない武士道の追求なのだ。
そして総仕上げが赤穂浪士に対して下した切腹だったのだ。義士達の死によって、劇的な仇討ちに花を添え感動を盛り上げたと同時に、赤穂浪士から真相が漏れるのを防いだのだ。あの切腹は口封じでもあったのだ。
赤穂浪士は大衆の称賛と吉良家厳罰という見返りは得たものの、結果的には柳沢吉保作演出の仇討ち劇への出演のために使い捨てにされたことになる。だが、内蔵助の慧眼は、柳沢のそれら全ての深層を見通していたのだ。それ故、同志達には、柳沢から提示された上野介討ち後の仕官の話を秘しておいたのだ。最終的な狙いは違えど、対峙した二人の巨人の熱く強かな駆引きが、痛み分けという形でそこに到達させたのだ。浅慮なる五十畑には到底及びもつかない領域に思えた。
2
柳沢吉保が綱吉からの呼び出しで本丸中奥の将軍用私室に入ると、いつもの思い詰めた表情を向けてきた。
「のう、弥太郎」
柳沢が綱吉に小姓として仕えていたころの呼称である。綱吉は二人きりの時は、その呼称を今でも用いている。
「赤穂浪士の処分はあれでよかったのか?市中の反応はどうじゃ?」
この台詞は、綱吉のこのところの口癖となっていた。浅野切腹裁決に対する大衆の批判が、余程堪えているのだ。その度に、柳沢は同じ答を返した。
「問題ございません。あれでよかったのでございます」
「そうか。よかったのか」
綱吉の表情が少し緩んだ。
「市中では今暫くは公儀に対する批判が続きますでしょう。されど、それも一時的なものにございます。大衆は、亡き主君の屈辱を晴らした義士達の美しき忠義心という作られた美談に酔いしれていますが、やがて知識人や学識者の言によって公儀の裁定の妥当性正当性が深く静かに浸透することでありましょう。市民の不満や批判は、それにより雲散霧消するはずであります。ご安心下さい。浅野刃傷事件も浅野遺臣による吉良邸討ち入りも、上様が下した裁決には一片の誤りもございません。
法治国家としては、定法が最上位にあらねばなりませぬ。世論は流行り病のごときもの。新しき病が世に出現すれば、記憶の上書きにより古き病は忘れ去られましょう。されど、天下の定法は不滅であらねばなりませぬ。現世の大衆は場の空気感や情で評価します。されど、これから先の歴史家や学者は知と理にて評価することでありましょう。さすれば、必ずやこの裁決の正しさが世に定着するに違いありませぬ。
更に、忘れてならぬのが、徳川政権の永続性にございます。君主に対する敬意と忠誠。その精神が、徳川の長期安定政権を支えてくれることでしょう。赤穂の浪士達はその精神を世に大きな遺産として遺してくれもうした。家康公が目指された忠孝の教えが、今ここに完成形として結実したと申し上げてよろしいかと」
徳川政権の祖家康は、政権の永続性を担保するため、朱子学の思想を取り入れ、それを定着させんとした。徳川政権前の戦国時代は、暗愚なる君は潰し自らが入れ替わることを是とする下克上の思想が基本であったが、それを"君、君たらずとも、臣、臣たれ"、つまり如何に暗愚なる主君であろうとも、家臣はただ黙って主君に従え、という主君にとっては誠に都合のいい主従関係である。たた盲目的に主君に従うだけではなく、そこには敬意と忠義が介在していなければならないというものである。その思想が戦いのない泰平の世を築き上げたのである。
「お主は、その為に赤穂浪士を利用したと申すか?」
「結果的にはそうなるかもしれませぬが、ある意味では赤穂浪士も公儀を利用したと言えるのかもしれませぬ。喰いつめ浪人として行き場や自らの存在理由を封じられ、その怒りを捌け口を模索していた彼らに降って沸いたように救いの手が差しのべられもうした。迷うという贅沢は許されませぬ。最期に華々しき花道を歩むことができもうした。偽善とも言える彼らの行為は、実態が秘匿され美化されたことにより、誇りと自信を胸に、彼らは旅立つことができたのではないかと思われまする」
当初より赤穂浪士の裁決について、綱吉と柳沢は一枚岩とは言えず、少なからぬずれがあった。世論に過剰に敏感な綱吉は、赤穂浪士無罪を主張し続けていた。柳沢にしても内蔵助との密約があり、できるものなら宥免論に乗りたかった。だが、柳沢のその思いを押し留めたのが、浅野内匠頭裁決との整合性と法的な裏付けの弱さ、赤穂浪士達の忠義心とは程遠い挙兵の動機、そしてその真実が赤穂浪士の口から漏れる危険性である。その不純なる挙兵の真実及び彼らを決起させたはずの主君に対する忠義の真実と主君の真の姿、それらが露呈したとしたら、世論は一挙に逆向きに方向を変え、公儀への批判となるはずである。赤穂浪士の口を封じる必要性からも、無罪放免は何としてでも避けなければならなかったのだ。
柳沢の厳罰論が裁決に結び付くまでには、多くの障害があった。先ず、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付で構成される評定所での合議によって老中からの諮問に対する答申書が作成され、それを柳沢と五名の老中衆が内容を精査し意見交換をした上で綱吉に提出し、決裁を仰ぐことになる。評定書の答申書は、評定所一座存寄書と称されるが、その中身は赤穂浪士に同情的、吉良家上杉家に対しては厳しいものとなっていた。亡き主君の遺恨を継いで御敵上野介を討ったのは忠義であり、武家諸法度第一条の、文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事、の主旨に準ずる行為であり、目的達成の為やむを得ず共謀したもので徒党にあらず、といった内容であった。対する吉良側に対しては、義周は親を見捨てて逃げた卑怯な振舞、上杉側には赤穂浪士が引き揚げの際に追手を差し向けることなく静観したのは武士としてあるまじきこと、と現実を無視したものとなっていた。答申書の内容を引き継いだ老中の意見もほぼ同様であった。柳沢は老中筆頭格であるが、如何せん分が悪すぎた。老中達は全員宥免派である。老中達の、綱吉の側近中の側近である柳沢に対する対抗心が彼らを宥免派に走らせていた。柳沢と老中衆の対立は、浅野内匠頭に対する裁定から始まっていた。内匠頭の刃傷に情状酌量の余地なしと切腹を主張する柳沢と性急なる裁決は禍根を残すことになるとして慎重なる評定を主張する老中派との対立は、綱吉の即日切腹の一声で決定した。だが、世論はその裁決の理不尽さを叩き、それが仇討ち待望論を巻き起こすことになる。綱吉自身もがその渦に巻き込まれ強い自責の念に悩まされることになったのである。それによって老中派が勢いを得、この赤穂浪士宥免論に繋がったのだ。
綱吉の考えを忖度しての宥免論は当初は優位であったが、その流れを変えたのが五十畑調書であった。内匠頭の刃傷は酒乱によるもの。事件以前に浅野家には取り潰しを免れぬ藩主の不行跡あり。幕府の内匠頭切腹、浅野家改易、吉良家及び上野介おとがめなしの裁決に非無し、よって赤穂浪士の討ち入りに道理なし、討ち入りは仇討ちにあらず。
宥免論にがんじがらめに取り込まれていた綱吉も老中も、その五十畑調書を突き付けられ二の句がなかった。
元々脆弱な情緒論からなる宥免案は、細密で強靭な定法と理屈で補強された厳罰案に対し分はなかったのであるが、その上に宥免論の最大の拠り所といえる忠孝が見せ掛けであることが暴露されては、勝負にならなかったのである。
赤穂浪士討ち入りの裁決の流れを決した五十畑調書であったが、その存在は固く秘せられた。赤穂浪士賛美によって市中に浸透した忠孝思想を沈静化させるわけにはいかなかった。
だが、上杉家取り潰しの方向性については、綱吉と柳沢の思いは完全に一致していたはずであったが、柳沢が色部と手を結んだ時点でそれが崩れた。柳沢は上野介抹殺を優先し、上杉取り潰しを引っ込めたのだ?その為に、吉良を討った赤穂浪士に対する追撃軍の派遣にストップを掛けたのだ。目的の為なら裏切りも辞さない柳沢の妥協の産物であった。上杉家としては、悪性の腫瘍か全身に広がる前に切除したことになるし、柳沢は二つの腫瘍の内切除しやすく重症化しやすい方を切除したことになる。
結局上杉家取り潰しはならなかった。柳沢と色部が合体した時点で、柳沢の方が、上杉家取り潰しに関しては、懐の合口を引っ込めたのであろう。そのために、老中に命じて上杉家の赤穂浪士追撃を止めさせたのだ。江戸城下で上杉と浅野遺臣軍が戦闘ということになれば、上杉家も無傷ではいられない。今度こそは喧嘩両成敗の対象となる。
だが、上杉家はその後奇しくも不幸続きとなった。藩主綱憲は、実子で吉良家に養子に出した義周が諏訪家へお預けになったのに連座する形で、子吉憲共々遠慮を申し渡された。綱憲は約一ヶ月半、吉憲は一ヶ月間、蟄居閉門どなった。その後は、討ち入りの翌年の秋綱憲が病気により隠居を願い出た。上杉15万石は綱憲の長男吉憲が継いだ。討ち入り一年半後に綱憲が死亡した。42歳の若さであった。更にその二ヶ月後に上野介に嫁いだ上杉藩二代藩主上杉忠勝の4女で三代藩主綱勝の妹が死亡した。そのことを知った江戸市民は多くはなかった。しかも、市民の反応は、あの赤穂浪士討ち入りで熱狂したと同じ者達とは思えない程、薄いものであった。
赤穂浪士切腹の日、吉良家党首吉良左兵衛義周に対し、公儀よりの処分宣告が下された。吉良家の処分は極めて厳しいものとなった。
引退した上野介の後を継いだ養子義周に対する領地没収と信州諏訪高島城に幽閉というものであった。清和源氏の嫡流吉良家はここに断絶が決した。浅野刃傷事件においては叶わなかった喧嘩両成敗が、一年11か月近くの時を経て達成されたことになる。だがその処分理由が不明確である。赤穂浪士の討ち入りに際し、武士としてあるまじき醜態をさらしたということのようであるが、確かに応戦せずに逃げ隠れした家臣がいたことは事実であるが、堂々と上野介の前に立ち塞がり、ナマスのように切り刻まれた側近もいるのである。深夜に武装集団の襲撃を受け、主君をはじめ家臣の多くが斬殺され、その挙げ句が喧嘩両成敗では浮かばれない。義周は、ただちに網駕籠に囚人として乗せられ諏訪に運ばれた。赤穂浪士討ち入りの際に負った傷がまだ癒えておらず、過酷な道中であった。英雄として4家にお預けとなり、ご馳走攻めとなった上に厚遇を受けた赤穂浪士とは雲泥の差である。
前年の浅野内匠頭の早まった裁決に対する痛み分けを狙ったとしか考えられなかった。幕府の片手落ちの浅野刃傷裁決における幕府批判の収拾が、吉良上野介の後継の義周への片手落ち裁決によって図られたことになる。その意味では、赤穂事件の最大の犠牲者は、逆恨みによって討たれた上野介と、浅野刃傷事件において部外者であったにも拘わらす、その後後継当主の座に着いたばかりに不当な裁決を背負うことになった義周の親子であったと言えるかもしれない。
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