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【ジーク】決して治せない

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「ふざけんなよ!!」

 先日のことがあって油断していた。一日二人きりにしても、翌朝急に不安定になっても、コハクに無体を働くことなく過ごせていたからつい信じてしまった。

「よくも、俺の運命を……」

 それに、今回も今まで同様俺含めてでの吸血だった。そして、クシェルもそれを拒む様子もなく普段通りの様子だった。だから、油断した。特段、危機感なんて抱いていなかった。まさかクシェルが俺の目の前でコハクにあんな事をするなんて思ってもみなかった。

「俺とコハクの唯一の繋がりを返せクソ野郎ーー!!」

 人をこんなにも強く、身体強化魔法までかけて全力でぶん殴ったのはこれが初めてだ。

 あまりの怒りに感覚が麻痺し、痛みは全く感じない。が、拳を握る感覚のズレから右手の指にヒビが入ったのが分かった。しかし、そんなことで今のこの衝動が収まるはずもなければ、振り上げる拳に迷いが生じることもない。

 今の俺には目の前に横たわっている男が敵にしか見えなかった。俺の唯一にして最愛の人の魂を汚し、俺から運命を奪った。俺とコハク二人だけの特別な繋がりを、世界で唯一俺だけに許されたコハクとの尊い繋がりを、俺の唯一の心の拠り所を奪った憎むべき敵だ。

 胸ぐらを掴んで持ち上げ、怒りに任せ全力で床に殴りつけた。すると、そいつの口から赤いものが床に散り、己の拳にも多少の損傷を覚える。が俺は構わず、そいつに馬乗りになり更に殴り続けた。

「返せ、返せ!俺の唯一を今すぐ返せ!!」

 俺にはそれしかないんだ。俺が、半端者の俺なんかが、神の愛し子である彼女に私欲を向けることが許されていたのはそれがあったからだ。

 俺は純粋な獣人族でもなければ、『救い』を必要とする程不幸な生い立ちというわけでもない。彼女の心の傷に共感し寄り添えるような経験もない。本来なら彼女に選んでもらえる権利も素養もない、何かを望むことすら許されない有象無象の一人だ。

 そんな俺がこうして、彼女が伸ばしてくれた手を取れるのは、素直に彼女の好意を喜び受け止め、その先を求められるのは『運命の番』という免罪符があったからだ。

 この関係は神によって選択された、許されたモノだと思えたからだ。

 なのに、それが奪われた今ーー

「ぁ……っあああ゛あ゛ーー!!」

 俺はただ己の情欲で、神に愛されし彼女に穢れをもたらすだけの卑しき罪人だ。



「落ち着きなさい!今あなたがすべきことはこんなことではないでしょう!」

 聞き覚えのある女の声に、ふと意識を外に向けると、俺はいつの間にか拘束用の魔道具を手足に付けられ、騎士にうつ伏せの状態で床に押さえ付けられていた。

 女の声がした方向、右斜め上を見ると、そこには涙を流しながら俺を叱るサアニャの姿があった。

 そうか、彼女が俺を止めてくれたのか。

 止めた?何を?俺は今まで何をーー

「魔王様!目を開けてください!魔王様!魔王様っ!!」

 悲痛な声でクシェルのことを呼ぶルークの声が聞こえて、視線を前方に戻す。するとその先には赤い血溜まりの上に仰向けに倒れているクシェルと、その傍で泣きながら必死に声かけを行なっているルーク、そしてクシェルの治療を行なっているアレクの姿があった。

「お、俺が……やったのか」

 そんなこと聞かずとも状況を見れば明らかだ。何より自らの両手に感じる痛みと水ではない何かに濡れた感覚が全てを物語っていた。

「うっ嘘だ。何故こんな……っ!コハク!コハクが!クシェルにコハクが」
「大丈夫。眠っているけど、怪我もないし息も安定してる。命に別状はないわ」

 サアニャは再び我を忘れそうになった俺を落ち着けるために、あえて穏やかな声でコハクの現状を知らせてくれた。

「しかし……」

 コハクの魂は汚されたままだ。

「分かってる。あの子の身に起きたことも、あなたの気持ちも充分理解してる。でも、今は耐えて。コレは元凶を潰したからって解決する問題ではないわ。それに、そんなことしたらきっと後で悔やむことになる」

 ーーもう遅い。

 俺はクシェルに暴力を振るった。殺しはしてないが、死んでも構わないと思いながら殴った。俺は決して許されないことをしたんだ。コハクが最も嫌うことをした。
 しかも、運命でなくなりただの有象無象に成り果てた俺が……コハクに選ばれるべくして選ばれたクシェルに、彼女の真の伴侶に重傷を負わせた。コレは決して許されざる大罪だ。


 その後俺を押さえ付けておく必要がなくなったグレンがルーク達に加わり、三人でクシェルをこの部屋から運び出していった。
 恐らく別の部屋で、治癒魔法師を呼びきちんとした治療を行うためだろう。

 クシェルの許可した者しか入れないこの部屋に自由に出入り出来るのは先程までここにいた面々とフレイヤ様、シェーンハイト様だけだ。前は俺とルークだけだったが、あの監禁事件以降また同じようなことがないようにと、付け足された。
 そのおかげで今回、我を忘れた俺からクシェルを守ることができた。また、アレクが居てくれたおかげで、表面上の傷だけでも治療することができ、止血も行えた。

 きっと今頃治療師数人によって、俺に負わされた傷は跡形もなく全て元通りに治されるのだろう。まるで、何もなかったかのように。

 一方、コハクは外傷もなく一見何も変わらないように見えて、その奥深くーー魂に決して治せない毒を流し込まれ、存在のあり方を無理矢理歪まされてしまった。

 そう一度ヴァンパイアに変えられた者は、決して治せないのだ。どんな手を使っても、フレイヤ様の力を持ってしても決して元には戻らない。もう一生コハクが俺の『運命の番』に戻ることはない。



「こんなことなら、初めから『運命』なんかじゃなければ良かった」

 そうしたらこんな苦しみ味合わずに済んだ。この底知れない喪失感も絶望も知らずにいられた。初めから希望なんてなければーー

「そうかもね……でも『運命』だったからこそ得られたものもあるはずよ」

 フレイヤ様達が到着するまで、俺と共にこの部屋でコハクを見守ることにしたサアニャは、コハクの眠るベッド横に二人分の椅子を並べると、コハクの顔を悲しそうに撫でながら俺の言葉に答えを返す。

「だからこそ、失ったものがあまりに大き過ぎる。きっと俺はもう……」

 コハクに愛してもらえない。必要としてもらえない。それどころか嫌われて、憎まれてーー

「側に在ることも許してもらえない」
「はぁ⁈この子がそんなこと言うわけ」
「『運命』でもない俺がコハクのっ、彼女の慈悲を授かれるわけないだろ!!」

 そんなこと、望むことすら烏滸がましい。

「……はぁあ?それ本気で言ってるの」

 嘘や冗談でこんなこと言うはずない。それに、サアニャも知っているはずだ。『神の愛し子』がどれ程尊く、神聖な存在か。

「あ゛ーーっだから嫌いなのよ!獣人族も!ヴァンパイアも!こんな煩わしい世界を作ったクソ女神も何もかも!」

 サアニャは怒りに任せて、勢いよく椅子から立ち上がると、椅子に座って項垂れる俺の胸ぐらを掴んだ。

「いい、よく聞きなさい!人を想う気持ちや想われたいと思うことに誰の許可も何の資格も要らないし!誰かに指図される謂れもないの!必要なのは当人同士の気持ちでしょ?」
「し、しかし、コハ……彼女はクシェルのための『救い』であって、本来俺は」
「だからっ!そんなの関係ないって言ってるの!大体そんなこといつ誰が言ったの!この子が言ったの?この子がそう望んだの?違うでしょ!」

 違わない。だっていつもそうだ。彼女はいつも、いつだってクシェルのための選択をする。

 出会ったのは俺が先なのに、彼女が初めて頬を染め「綺麗」だと賞賛の言葉を送ったのも、「勉強がしたい」と要求を言葉にし頼ったのも、初めて誰かのために本気で怒ったのも、塞ぎ込んだ時扉を開いたのも、心の傷を晒したのも、その相手は全部全部クシェルだ!
 俺じゃない。彼女が必要としているのは俺じゃないんだ。俺はただ彼女の優しさと純真さを利用し拐かした異分子だ。

「しっかりしなさい!」

 俺が言葉なく涙を流すと、それを許さないとでも言うように、サアニャが俺の胸ぐらを掴んだ手を揺り、檄を飛ばしてきた。

「…………」
「仮にあなたの言う通りだったとして、本当にそれだけなの?この子が望んだのはそれだけ?魔王を救うことだけ?違うでしょ?」

 彼女の、コハクの望みーー

「この子はあなたのことも必要としてくれたでしょ?」
「でも、それは」
「この子が愛したのは『運命の番』としてのあなたじゃない。あなた自身でしょ!獣人としての本能に呑まれずにもう一度よく考えなさい。この子が、あなたが心から愛したこの子がどういう子か」

 彼女が、俺が愛したコハクがどういう子か……。

「そして自分が愛した子と、この子を愛した自分を信じなさい」

 サアニャの力強いその言葉は、『運命』を失い絶望に呑まれた俺の心に一筋の光をもたらした。


 こ、コハクは、肩書きや神の、世界の意思なんか気にしない。いつも……いつだって相手の人となりを見て、自分の意思で動いている。俺が『運命』じゃなくなったからって、きっと何も変わらない。変わらないでいてくれる。

 ああ見えて、意志の強い子だ。だから他人が、俺が、神が「ジーク・フォン・グランツは貴女に相応しい人間ではない」と言っても、きっと聞き入れないでいてくれる。
 獣人族の国に行った時のように、きっと「そういう考え方は嫌い」だと「わたしが良いと言っているんだからそれで良い」と言って俺の手を取ってくれる。離さないとでもいうように強く握って、俺に笑顔を向けてくれる。今なら、そう信じられる。

 ただ、クシェルを殴ってしまったことはーー

「じ、事情が事情だから分かってもらえるとは思うが、流石に怒られて……また数日は怖がられてしまうだろうな」



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