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 第二話 武士に二言なし! 『誠』に誓う武士の意地

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 現在は新選組の屯所となっている西本願寺北集会所の裏手に、古い松がある。
 大阪夏・冬の陣が始まる頃から植えられていたと言うから、相当古い松だろう。果たしてこの松は、変わりゆく時代の変化と人々の栄枯盛衰を、どれだけ見続けて来たのであろうか。
 だがそれが世の流れとはいえ、現在いまも歯を食いしばり、必死に戦っている武士はいる。
 深夜・子の刻――、新選組副長・土方歳三は、文机の上で走らせていた筆を止め、庭に出ていた。
 この日は数日ぶりに月が顔を出し、青白く照らされる庭の光景に一句捻ってみるかとなるが、土方の視線は風に揺らめく『誠』の旗に注がれる。
 さすがにこの刻限ともなると、袴に木綿絣もめんがすり着物一重きものひとえでは冷えるが、彼にとって寒さは苦ではなかった。京の寒さに慣れたという訳ではなかったが、地の雪も溶かす熱い想いが現在もなお、炎となって彼の中で燃え続けていた。
 慶応二年も残り二十日余り、この年も四月に七番隊組長であった谷三十郎が祇園石段下で殺害され、七月には十四代徳川将軍・家茂が逝去、九月には三条制札事件と、世も新選組も騒がしかったが、以前に比べれば現在の京は静かな方と言えよう。だが厄介事は、息つく暇もなく土方の元にやって来る。
 諸士調役兼監察・山崎丞の報告では薩摩藩の動きが怪しいらしく、長州の訊問じんもんに向かうという幕府要人に随行した局長・近藤勇によれば、長州も怪しいと太い眉を寄せていた。
 新選組にとって長州は因縁の相手だけに、土方も長州は動くであろう事は予想していたものの、公武合体派の薩摩藩はさすがに警戒の範囲に入っていなかった。これから導かれる答えは一つ――、薩摩が反幕府に傾いた事を意味する。
「まったく、よくもまぁ次から次へと」
 土方も呆れる世の変移、しかしだからと言って彼の意思は変わらない。
 新選組の旗を『誠』の一字に決めた時、まさにぴったりだと土方は思った。
 武士が一度口にした事は、最後まで貫く――、まさに己の想いは『誠』の一字そのまま。
 そんな土方の傍で、松に積もっていた雪がどさっと落ちた。視線を運べばその松の下に、腕を組んで立つ男が立っていた。
 土方は亡霊などいないと思っていたが、実際見ると「なるほどな」と思った。
 腰から下は闇に溶け、足がない。しかしその男の顔は二度と思い出したくない男のものだった為、土方の気分は下降を始めた。
「俺を恨んで死んでいった奴は多いだろうが、どうして化けて出て来るのがあんたなんだ?」
 男は以前そのままに、口の端を上げてわらった。  
 生きているときも非常識な男であったが、亡霊となっても非常識は健在なようだ。
(鉄之助あいつなら、悲鳴上げていやがるだろうな……)
 生意気盛りの土方の両長召抱人は、この手のものが苦手だった。
 いったいこの亡霊おとこは祟りに来たのか、それとも取り憑きに来たのか。どちらにせよ、招かざる訪問者であることは確かである。早々に退散してもらいところだ。
「今頃何の用だ? 亡霊と言えば夏に出るものと相場が決まっている。何もこんな寒い時期に出て来なくてもいいだろうに。それともなにか? あんまり現世の行いが悪すぎて閻魔えんまにも嫌われたか? だからといってそれは俺の所為じゃねぇよ。言っておくが俺は今、そっち側に行く気はねぇんだが?」
 男の亡霊は、漸く口を開いた。
わらいに来たのよ。貴様が無様になった姿を』
「あんたは相変わらずだな? 芹沢」
 芹沢鴨――、新選組嘗ての筆頭局長。不逞浪士と変わらぬ行いが仇となり、土方たちに斬られた男。
『これから先も、多くの血が流される。俺の言った通りになった。士道を貫くと言ったお前の手は、何人の血で染まったんだろうな? 土方』
「俺は自分のやった事は悔いちゃいねぇよ。俺はあんたと違って、向こうに逝っても堂々と閻魔に啖呵たんかを切るさ。嗤うかどうかは、その時にしてもらえねぇか?」
『お前がこっちへ来たら、地獄の鬼どもまで斬るだろうよ。せいぜい、頑張るがいい』
 芹沢鴨の亡霊は、最後に不敵に嗤って消えた。
 果たして土方が見た亡霊は幻か、それとも本物の亡霊だったのか。
 恐らく亡霊を見たなど言っても、周りは信じはしないだろう。土方自身、さっきまでそうした側の人間だったのだから。
「副長――」
「どうした? こんな刻限に」
 土方が振り向けば、山崎丞が硬い表情で控えていた。
「北野八幡宮近くで、天誅騒ぎが起きたようです――」
 芹沢鴨の亡霊が去ったかと思えば新たな天誅騒ぎと、どうして今夜は碌な事が起きないなのか――、土方は嘆息した。
「天誅騒ぎは、もう終わったんじゃなかったのか……? 山崎」
  どうやら今夜もぐっすりとはいかねぇなと、土方は月を見上げたのだった。

                                 ◆◆◆

 京は四方を山々に囲まれた盆地で、真冬でも不断櫻ふだんさくらという桜が咲くという。
 それでも、冬は底冷えするほどの寒さであった。
 何せその寒さたるや、外気はキンキンに冷えて痛いほどで、足元からジーンと寒さが伝わってくるのだ。
「さぶぃ……(※寒い)」
 鉄之助が雪鋤を持って屯所の庭に出れば、この日もよくもまあこんなにもと感心するほど雪が積もっていた。
 しかし、である。
「おりゃあっ!!」
 雪は冷気によってガチガチに固まりかけ、なかなか鋤が刺さらない。
 鉄之助の雄叫びは、今や朝の定番である。
 もちろん雪かきは鉄之助だけの仕事ではないのだが、他の両長召抱人がまったくやる気がなかった。
 数日前――、両長召抱人が鉄之助だけでは大変だろうという局長・近藤勇の意見により、数名の新人隊士が両長召抱人に就いた。その中の一人は田村銀之助といい、兄の一郎・銀四郎と入隊、年は鉄之助の二歳下。もう一人は井上泰介といい鉄之助の四歳下で、叔父が六番隊組長の井上源三郎であった。
 しかし両長召抱人は増えたが、鉄之助の仕事は全くならない。
 二人を見れば、雪合戦を始め出した。
「おまえら――……、いい加減に働けっ!!」
 鉄之助はキャッキャッと犬のように駆け回る泰介・銀之助を見ては空を仰ぐ。
 このあと土方に怒鳴られるかと思うと、心は萎える一方だ。
「鉄っちゃん、何を朝から怒っているんだ?」
 鉄之助の心の内など知る由のない銀之助は、こてんと首を傾げた。
「お前らガキははいいな。呑気で」
「鉄っちゃんだって、ガキじゃないか」
「お前らは、うちの副長の怖さを知らないんだ。とにかく鬼なんだ。いや絶対鬼だ。今朝なんかにわとりが鳴く前に叩き起こされたぞ、鬼副長め」
「――そんなに怖ぇのか……?」
 返ってきた声はやけに大人っぽかったが、鉄之助はその声の主を確かめるよりも愚痴が止まらなかった。
 眠いし寒いし雪は重いし、朝餉の膳に小魚一尾では割に合わないと、鉄之助の不満は蓄積される一方だ。
 と言っても相手はこの新選組の副長、文句などいえば撃沈されるのがオチである。
 鉄之助は怒る土方の顔を表現すべく口の両端に指を入れ、ぐいっと広げてみた。
「怒る時など、こーーーーんな顔で――……」
 そのまま振り向けばそこに泰介・銀之助の姿はなく、目の前にいたのはその副長・土方本人だった。
「……悪かったな……? こんな顔で……」
「あ、あれ……?」
  土方は太い血管をこめかみに張り付かせ、肩がふるふると震えていた。鉄之助はこのあと、最大級の雷とげんこつを覚悟しなくてはならなかった。
  
 午の巡察担当の隊士が屯所を出て行けば、屯所は事件が起きない限りは静寂に包まれる。
 非番の隊士は三々五々、素振りの稽古や囲碁・将棋、書を読んだり書いたりとして過ごすらしい。もちろん酒場などに繰り出す隊士もいたが、いつなんどき出動要請がかかるか理解らないため、あまり遠出はしないのだという。
 寒風が吹く外は、ちらちらとまた雪が降っていた。
 火鉢で温められた座敷は極楽だが、鉄之助の前には鬼がいた。
(なにも、殴る事はないだろう!)
 ズキズキと痛む脳天を押さえつつ、鉄之助は土方の背に、あっかんべーをした。 
 しかしこういう時に限って、土方が振り向くので鉄之助は焦った。
「なんだ?」
「さ……、寒いですねぇ?」
「だらしがねぇ。素振りでもしろ。直ぐに暖まるぜ」
 土方はそう言うが、これ以上の体力消費は勘弁してもらいたいと正直思う鉄之助なのであった。
 両長召抱人は増えたが、土方の世話は相変わらず鉄之助の担当であった。
「副長、なんで泰介と銀之助が局長の方なんですかぁ!? せめて一人はこっちに回してくれてもいいと思うのですが?」
 この日の鉄之助の抗議も、土方はあっさりと聞き流した。
「近藤さんの指示なんでな。俺としても、これ以上面倒くさい奴を増やされちゃ適わねぇ」
「面倒くさい奴って俺の事ですかぁ?」
「ほぅ……、自覚があるのか?」
「……っ」
 鉄之助は偶に、土方の後ろからぶん殴りたい衝動に駆られる時がある。
 しかし土方に視殺しさつされてしまえばその衝動はへなへなと萎んで、すごすごと引き下がるしかないのであった。
 もちろん鉄之助はまだ命が惜しいし、新選組副長相手に喧嘩を売ろうなど、それほど彼の神経は図太くはない。あくまでもほんの、悪戯心である。
「鉄之助」
「え……」
「え、じゃねぇ。あのクソ野郎は留守か?」
 鉄之助は土方の言う『クソ野郎』とは誰の事か理解ったが、何と答えるべきか困った。
「もしてかして、伊東参謀の事でしょうか……?」
「あいつ以外に他に誰がいる。クソ野郎で充分だ」
 やはり伊東の事だったようで、土方は嫌そうに眉間に縦皺を刻む。
「……今朝からまだお見かけしていませんが。御用なら探して参りましょうか?」
「やめろ……。俺の気分が低下する」
 既に低下しているじゃないか――、という言葉を飲み込み、鉄之助はへらっと笑ってみた。
「よほど嫌いなんですね」
 鉄之助も好きではないし会いたいとも思わないが、苦手と思う人間ほど遭遇する確率は高い。何しろ伊東は参謀である。呼ばなくても向こうから現れる。
「――土方さんならば伊東さんを前にしたら、何をするか理解りませんね」
 突然背後から声がして、鉄之助は飛び退いた。
 いつからそこにいたのか、巡察に出ていた沖田総司が立っていた。
 新選組一番隊組長・沖田総司――、少し丸みを帯びた顔で目は二重、土方と同様に一つに括っただけの髪を背に流している。新選組屈指の剣豪にして、得意技は三段突きだという。
「……総司、いつも言っているが、一言断ってから障子を開けろ」
「いやぁ、ここの障子が開けて下さいと言うので」
 鉄之助は障子がそんな事を言うわけがないとツッコミたかったが、土方の怒りの皺が増えたことは間違いない。
「総司――、お前の軽口は今に始まった事じゃねぇが、暇なら巡察の回数を増やしてやるが?」
「酷いなぁ――。それより土方さん、いくら伊東さんが嫌いでもぶん殴りに行くのはいけません。士道に反します。土方さんの切腹の介錯など私は嫌ですよ」
「勝手に話を作るんじゃねぇ!」
「あ、伊東さんを落とし穴に落とす方でしたか? でも他の隊士が落ちたら大変ですよ」
 ぶん殴りに行くのも落とし穴に落とすのもどうかと思うが、沖田は楽しそうである。
 土方は沖田を天邪鬼と評しているが、沖田の性格は無邪気で快活かいかつで、鉄之助は彼と一緒にいるとへんに愉快な気持ちになるのだった。鬼と言われる土方に、堂々と軽口を言えるのはおそらく彼だけだろう。
「うるせぇ! お前は巡察の報告をしに来たのか、俺を揶揄からかいに来たのかどっちなんだ?」
「三条川原に首から晒されたそうですよ」
「総司、お前もか……?」
 土方は眉を寄せ、何ともいえない表情になった。
「何だ、もうご存じなんですか? 土方さん」
「山崎が報せて来たんだよ。三条川原に侍の首が晒されているってな。ま、首が晒されていても驚きはしねぇが」
「二人とも良く平気ですね――? 首ですよ? 首!」
 怖くて仕方がない鉄之助に対し、二人の顔は「それが?」という表情だ。
 鴨川に架かる橋の一つに三条大橋というがある。
 京と東国を結ぶ出入り口だが、橋の下にある三条川原は獄門となった罪人の刑場だという。
 獄門の罪状は強盗殺人をはじめ、主人の親類の殺害、地主や家主の殺害、偽の秤や枡の製造などであったという。
 罪人は斬首刑の後、刎ねにれた首は台に載せられて三日間二晩、見せしめとして晒しものにされるらしい。
 お陰で都の人にとっても、首が晒されても珍しくないそうだ。
「見に行きませんか?」
「物好きな野郎だな。巡察で獄門首を見つけろとは言ってねぇぞ」
「違いますよ。首を晒した奴の方です」
 この日、三条川原にある男の首が晒されたという。
 見物の群衆の中、京都見廻り組が凄い剣幕でやって来て首を回収していったらしい。
 見廻り組とは新選組同じ京都守護職傘下だが、直参など幕臣で構成されているという。
「三尺高い木の上に乗っているのは見廻り組の首――、という訳か」
「どうして……、見廻り組の人を……」
「天誅さ」
 沖田曰く、以前の京は天誅が蔓延っていたという。
 嘗てこの京では、幕政を非難し、天誅と言っては幕府の関係者を斬り、更に首を三条川原に晒したという。
 しかしその騒動は、既に収束した筈だと、土方と沖田は首を捻る。
「とんだ外道だな……」
「どうです? 熊でもあるまいし、冬籠もりしてもどうせ駄句しか浮かばないかと」
「駄句って言うんじゃねぇ!」
 まるで、子供の喧嘩である。
 ふんと鼻を鳴らした方は、刀掛けから和泉守兼定と堀川国広を外し、袴の帯に捻じ込んだ。
「お出かけですか? 副長」
「その馬鹿野郎の顔――、拝んでやろうじゃねぇか」
 土方の視線はそのまま、鉄之助に注がれた。
 嫌な予感がする鉄之助に、沖田がクスクスと笑う。
「あ、あの……、な、なにか……?」
「土方さんのあの顔は、お前も来い、って顔だね。鉄之助くん」
「丁重にご辞退致します! 」
 退散しようとする鉄之助だが、沖田に袖を捕まれてしまう。
「土方さん、鉄之助くんは行きたいそうです」
「言い覚悟だ」
「違いますっ! そんな事言ってませんからぁ!!」
 この時の鉄之助の絶叫は、見事に二人に無視されてしまうのであった。

                              2

 京は北野天満宮近くに、大報恩寺だいほうおんじ(※現在の京都市上京区にある寺)という寺があるという。
 真言宗智山派の寺院で、別名『千本釈迦堂』というらしい。
 師走の七日、この時期になると京の幾つかの寺では大根焚きという行事が開かれるという。
 何でも大報恩寺の大根焚き行事は、釈迦が悟りを開いた日を意味する成道会法要の際、大根の切り口に梵字を書いて、醤油などで煮込むという。
 参詣者がその大根を食べると、諸病除けになるとされているらしい。
 監察の調べでは、最近怪しい侍がこの大報恩寺付近をうろうろしているという。
 近くの団子屋までやって来た鉄之助、土方、沖田らは床几に腰を下ろした。
 ――何もわざわざ災難に遭いに、来なくてもいいだろうに……。
 無理矢理同行させられた鉄之助としては、不満しかない。
 上目遣いで見た空は、まだ薄曇りである。
「副長――、本当に見廻り組の一人を斬った男と会うつもりですか?」
「その『 副長』はよせ」
 相変わらず無理難題を言う――、と鉄之助は思った。
 では何と土方を呼べばいいのか。副長としか呼んだ事がない鉄之助は眉を寄せ「うーん」と唸った。
(いや……、土方さんではまずいだろう……。まず睨まれるし、帰ったら凄く仕事が増えていそうな気がする……)
「お……」                                     
「お……?」
 思わず漏れた鉄之助の一声に、土方の鋭い視線が飛んで来る。
「お、遅いですねぇ……? お団子。ははは……」
 鉄之助の愛想笑いに土方は眉間に小さな縦皺を刻んだが「おに」と、言わなくて良かったと思う鉄之助である。
「お侍はん、大報恩寺さんに行きはるので?」
 団子屋の主が人の良さそうな笑みを浮かべながら、団子の皿と茶器を床几に置く。
「ええ」
「今日は晴れの日やさかい、人はぎょうさんいてますやろな」
「晴れの日……?」
 古来より人は、普段通りの日常を「」の日、祭礼や年中行事などを行う日を「晴れ」の日と呼び、日常と非日常を使い分けていたという。
 なんでも日常である「褻」に良くない事があればそれは「穢れ」と捉えるらしい。
「最近のこの辺で侍同士の斬り合いがおまして、知ってはりますか?」
 思わず団子が喉につっかえそうになった鉄之助である。
「せっかくの晴れの日でおます。物騒な事は堪忍してほしいもんですわ」
 嘆く団子屋の主に、鉄之助も同感である。
 ここは早々に立ち去るべきと判断し、鉄之助が先に腰を上げた。
「か、帰りましょうか……?」
「往生際が悪いねぇ……。辻斬りにしろ何にしろ、人混みには現れないよ」
「それはそうですけどぉ――……」
「鉄之助、やつらは、無抵抗の町人まで斬っている。放っておく訳にはいかねぇだろう」
「見つけたらどうするんですか……?」
「新選組は基本、捕縛だ」
「相手が斬りかかってきたら……」
 鉄之助の言葉に、茶器に口を付ける土方が目線を上げた。
「間違いは正さなきゃならねぇだろうな」
 鉄之助は、土方から刃引きの刀を貰った時の言葉を思い出した。

 ――いいか? 鉄之助。武士はいざとなったら刀を抜かなきゃならねぇ事がある。命のやり取りをするんだ。そりゃあ怖くねぇと言ったら嘘になる。だがな、死を怖がっていたらいつまでもそいつは弱腰と言われ続けるんだ。
 武士はなぁ、人として正す為だけに刀を抜くのさ。憎しみと欲だけで抜いちゃならねぇ。
 
 鉄之助は、そっと自身の刀に手を触れた。
 今ここで逃げ出せば、自分は後悔するかも知れない。もう土方の目を見られないかも知れない。
 鉄之助も武士の子である。新選組で生きていく為には、乗り越えねばならぬ試練であった。
 団子屋を出て幾つかの辻を曲がり、軈て人気も消えた。
 如何にも何か出そうな雰囲気に、鉄之助の足は恐怖に竦む。ゴクリと生唾を飲み込んで歩き出せば、先頭を歩く土方の歩がぴたりと止まった。
「副長……?」
「鉄之助、下がっていろ。いいか? 決して動くんじゃねぇ」
 土方は振り返らない。既に左手は刀を体制に入り、前をみれば袴姿の武士が二人、こっちを睨んでいた。
 総髪に着物袴姿という点ではお互い差異はないが、眼光鋭く、嫌な殺気を漂わせている。
「何者だ……? 貴様ら」
 最初に口を開いたのは、その男たちの一人であった。
「通りがかりの者と言いたいが、最近この辺に天誅など馬鹿な事をしている野郎がいると聞いてな」
「ふんっ。会いに来たって事か? ガキつれて」
 男のいう「ガキ」とは、明らかに鉄之助だろう。
 鉄之助はカチンときたが、沖田に制される。
「なんだ。てっきり何処かの藩がまた暴れ出したかと思えば、いつもの不逞浪士じゃないか」
「何を……っ、勤王の士である我々をよくも!!」
 沖田ののんびりとした口調に、男たちは激昂し刀を抜いた。
「総司、刺激過ぎだ。これじゃ、捕まえるどころじゃなくなったじゃねぇか」
「捕まえる気など最初はじめからないでしょう? 土方さん」
「貴様ら……、奉行所の役人か!?」
 沖田がにっと笑うと、愛刀・大和守安定やまとのかみやすさだを腰の鞘から抜いて名乗った。
「新選組副長助勤・一番隊組長、沖田総司」
「お、沖田だと……っ!?」
 男たちの顔は赤くなったり青くなったり、忙しい。
「土方さん、私って有名人のようですよ?」
 状況が理解っているのかいないのか、沖田の口調は明るい。
 新選組の名は京に広く知られているようで、不逞浪士の男たちが構える切っ先は、小刻みに震えていた。
「総司、一人も逃がすんじゃねぇぞ」
「土方さんこそ大丈夫ですか? 部屋に籠もってばかりで実戦から遠のいて久しいでしょうに」
「ふん。此奴こいつに劣る腕じゃねぇよ」
 青ざめる男たちが土方に視線を運び、同時に土方の左腰で和泉守兼定の鯉口が切られる。
  勝負に於いて、焦れば負けだという。
 挑発されても動じず、冷静に判断を見極めるのだそうだ。
「観念するなら今のうちですよ?」
 沖田の口調は変わっていないが、顔は笑っていなかった。
「ふんっ。総司を本気にちまったようだな? 腕か足、一本なくなる事は覚悟しておくんだな」
「だ、黙れ!!」
 不逞浪士二人は、明らかに動揺し冷静さを逸していた。
 そんな中にも関わらず、鉄之助の脳裏にはこの時、ある光景が浮かんでいた。
 それは幼いの日の、古い記憶である。
 
                     ◆◆◆
 
「辰兄、何処だ?」
 暮れなずむ国友村の空――、鉄之助は帰りが遅い兄・辰之助を求めて歩いていた。
 この日は隣村に行っているという辰之助は、日暮れ前には帰ってくる筈だった。しかしいくら待っても、辰之助は帰っては来ない。腹が減って寂しくて怖くて、鉄之助はひたすら兄の姿を求めた。
 日が暮れてしまえば一気に闇に包まれる。化け物の存在を信じていた鉄之助は、林の木々でさえ化け物に見えた。
 それは――、鉄之助が故郷・美濃大垣を離れ近江国・国友村へ移り住んで数年経った頃の記憶である。
「辰之助の馬鹿野郎……」
 兄に対してどうかと思うが鉄之助は、まだ十にも満たぬ子供だった。
 父をなくし、唯一の血縁は兄・辰之助一人。もちろん親類はいたが鉄之助が心から頼れるのは兄だけだった。
 愚痴はそのうち涙声になって、鉄之助を更に絶望へと追い詰めていく。このまま山で、熊に喰われてしまうかも知れない。追い剥ぎに殺されてしまうかも知れない。無力な鉄之助など、あっという間だろう。
「早く……帰って来いよ……、ばか……」
 涙で滲む目を擦り鼻をすすり、鉄之助は歩き続けた。
 田んぼの畦道あぜみちかやが茂る野原、歩き回っているうちに帰り道など理解らなくなってしまった。
 ようやく辰之助を見つけた時、辰之助は鉄之助を抱き締めてきた。その顔は強張っていて、震えているのが鉄之助にも理解った。何でもこの先で、人が斬り殺されたという。
「辰兄……?」
「鉄之助、お前は俺が守る……! 何があっても――」
 武士は人として正す為だけに刀を抜く――、辰之助が刀を抜いた姿は鉄之助はまだ見た事はなかったが、息が詰まるほど抱き締めて来て言ったあの決意は、本物だったのだろう。
 ただ辰之助は後々になって「弟はあほで、のんびりとした性格になってしまった」と嘆くが。

 鉄之助はあれからもう十四である。これからは自分の身は自分で守り、自分が正しき事のために刀を抜く番。その日は、もうすぐやって来るだろう。
 鉄之助の目の前では、まさに人として正す為に刀を抜いた男二人がいる。
 取り乱す不逞浪士二人とは違い、冷静に刀を構えて跳ね返す。
 新選組副長・土方歳三と一番隊組長・沖田総司――、普段は兄弟のような二人がここ一番最強の侍となる瞬間。
 刀がぶつかる金属音が響き、砂利を踏む音も鮮明だった。
「邪魔をするな。これは天誅なのだ。この国を傾けた幕府に対する抗議である!!」
 不逞浪士たちは、自分たちが正しいと主張をする。
「言う事はそれだけか?」
「なに……っ」
「お前らのやっている事は単なる憂さ晴らしじゃねぇか」
「土方さん、相手を刺激するなと言いますけど、土方さんも刺激しているじゃありませんか?」
「刀を抜いたのは此奴らが先だぜ」
「確かにそうですけど、お寺と神社の近くではやりたくはないんですけどねぇ」
  しかし、男たちはそんな事はお構いなしに土方と沖田に斬りかかっていく。
「うあああああ!!」
 ――キン!
「太刀筋が甘いですよ」
「くっ……貴様たちに何が理解る……、武士として生まれても必要とされぬ悲哀が……、腐っていく浪士はわれだけではない……っ」
「いい年こいて甘ったれた事を言ってんじゃねぇ! 自分の始末も出来ねぇ奴が、武士を語るとは笑止千万!」
「副長……っ!!」
 鉄之助はこの時、何故身体が前に動いてしまったのか理解らない。
「来るんじゃねぇー!! 鉄之助!」
 土方の怒声に、鉄之助は動きを止めた。
「幕府の狗どもめ……っ」
「狗で結構!」
 和泉守兼定が、男の胴を払う。
「ぐぁ!!」
 沖田の右薙ぎ(※左の水平の太刀筋)と、土方の左切り上げ(※袈裟切りの逆)により、男たちが立ち上がる気配はない。とどめを刺してはいないというが、人が血を流して倒れている光景はいいものでない。
「おまえたち、ここを何処と思っておる!?」
 聞き慣れぬ声に鉄之助が視線を運べば、野次馬の中を数人の男たちがやって来るのが見えた。
「誰です? 沖田さん」
「奉行所の役人だよ。相変わらず、事が終わってから来るんだから」
 新選組は不逞浪士と遭遇した際、捕縛し奉行所に引き渡すという。
 しかしこの時、土方も沖田も鉄之助も、新選組と理解る黒装束を着ていない。駆けつけた役人は、浪士たちの斬り合いだと思っているらしい。
 傲岸不遜ごうがんふそんな態度で、土方たちを睨んで来る。
「我々は京都守護職・会津中将肥後守様御預かり、新選組である! 天誅と称して人を襲いし不逞の輩二名、捕らえようとしたところ刃向かった為斬り合いになった次第。この者たちの身柄は預ける故、後は如何様にも」
  いつもの土方とは別人の口調に、鉄之助は唖然とした。
「さ、左様か……。ご苦労でござった。然と承る」
 新選組と知るや役人の態度は一転し、ばつが悪そうな顔で引き上げていく。
 確かに終わった頃にやって来て、何の活躍もしないまま帰る羽目になれば当然だが。
 かくして――、天誅事件はこれ以上広がることなく収束したのだった。

                           3

 新選組・西本願寺屯所――。
  雪化粧をした庭で、土方は梅の木を見上げた。
 今宵も突き刺すような寒さで、寒風に背に流した髪が遊ばれる。
 土方は人を斬った日に、梅の木を見上げる事が癖になった。
 梅の枝は未だ何の変化はなく、人を招くようにゆらゆらと揺れている。
「今年も咲くといいねぇ」
 そう言って土方に近づいたのは、井上源三郎であった。
「まだ寝てなかったのか? 源さん」
「……斬り合いがあったそうじゃないか」
「まぁな。なぁ? 源さん。俺の手はもうたくさんの血に染まっている。武士になりたくて剣を学んだが、時折、真剣がずっしり重く感じる。天然理心流の、あの太くて重い木刀には直ぐに慣れたんだけどな」
「トシ、それは私も同じだよ。剣の重さを感じるという事はいい事だと、よく私の父が言っていた。剣は武士だけに許された武器。身を守り、時として戦う為に人も斬る。私はずっと人など斬らずに生きていけたらと思っていた。試衛館にいた頃のようにね。近藤さんがいて、トシがいて、原田くんに永倉くん、藤堂くんに総司……、みんながあの頃は笑顔で夢を語っていた。今はもう懐かしい記憶だ」
「もう後戻りはできねぇよ。源さん」
「そうだね。でも、刀の重みはしっかりと覚えておかねばならない。それを忘れたら、武士は暴走する」
 井上の言う通りだと、土方は思った。
 刀が重いのは、人の命の重さ。その命を絶つ事が出来てしまう武器を腰に差しているのだという責任の重み――、それを忘れたら人は本当の鬼になる。
 井上とは、同じ武州多摩・日野生まれの日野育ち。
 土方が『バラガキ』と呼ばれ、田畑を駆けていた頃まで井上は知っている。
 農家の小倅に過ぎなかった己が今や新選組副長――、変われば変わるものだと土方はククッと笑う。
「源さん、俺は変わったか?」
 土方の問いに、井上は「変わってないよ。君は」とふっと笑う。
「君は変わっていない。人は君を鬼だと言うが、私にすれば君は今でも『バラガキのトシ』さ。もし君が本当の鬼なら、刀が重いなど思わない。命の大事さを知る者は、決して無謀な判断はしないものさ」
「あんたは俺を、かいかぶり過ぎているよ。源さん」
 もう過去へは帰れない。後ろを振り向いている余裕はない。
 迷いを断ち、己が信じた道を悔いなく最期まで進む。
 簡単だと思っていた道は、土方にも難関で人知れず考える。
「梅もいいが――、桜が咲いたらお花見もいいねぇ。久しぶりに原田くんの腹踊りが見たいものだ」
「そんな事をいったら、あいつは直ぐに裸になるぜ?」
  新選組十番隊組長・原田左之助は試衛館からの同志だが、彼には酔うと腹踊りをするという癖がある。
 過去に於いて酒席で相手と口論により切腹してみせたと笑って話す男である。
 今は真っ白に染められる京の都、春になれば梅や桜が咲き、さぞ見事だろう。
 江戸にいた頃は試衛館の庭に小さな桜の木があり、花見を良くやったものだ。
「明日も早い。早く休んだ方がいいよ」
「ああ。でも巡察に出た奴らを待たねぇとな」
 井上は「そうか」と優しく微笑んで去って行った。

                         ◆◆◆

 炊事場がある土間の竈で、燃やされる薪がぱちぱちとぜる。
 鉄之助はこの夜も上がり框に座って頬杖をつく。しかしこの夜はいつもの愚痴は湧かず、漏れるのは溜め息だけだった。
 今や毎晩の日課となった、深夜のお茶出し。
 夜の巡察担当隊士を見送り帰ってくるまで、土方は起きて彼等を待つ。
 鉄之助はそんな土方の、一日の最後の世話をする。
 しかしこの夜の鉄之助の心は複雑で、暗がりの闇やちょっとした物音など気になる事はなかった。それよりも、怖い世界が、すぐ近くにあることを知ったから。
 斬り合いを見たから仕方がないとしても、やはり死への怖さは鉄之助にもあった。
 生きとし生けるものはいつかは死ぬ――、それは鉄之助でも理解っているつもりなのだ。
 だがやはり――。
(もし、俺だったら……)
 刀を抜いて向かってくる相手に対し、土方や沖田のように刀を抜けるだろうか。
 命惜しまず相手の間違いを制し、その懐に飛び込んでいく勇気が果たしてあるだろうか。おそらくその答えは、その時になってみなければ出ないのだろう。
 茶を持って土方の部屋に行けば彼はおらず、こんな夜中に何処に行ったのかと廊下を歩いていると、井上源三郎と出くわした。
「厠ですか? 井上さん」
「まぁね。もしかして、トシを探しているのかい? 市村くん」
「え、まぁ……」
 井上は温厚な性格で、副長助勤でありながら賄い方が大変だろうと良く手伝っているという。
「泰介は良くやっているかい? 迷惑を掛けていないだろうか?」
 井上のいう泰介とは、鉄之助と同じ両長召抱人の井上泰介の事だ。叔父として、泰介の働きぶりが心配なのだろう。
「え……、えっとぉ……、とても良くやっていますよ」
「そうかい」
 井上がにっこりと微笑む。
 鉄之助としてはありのまま伝えたかったが、まさか「貴方の甥っ子は、遊んでばかりで邪魔ばかりしてきます」とは、温厚そうな井上源三郎には言えない。
 井上曰く、土方は庭にいると言う。
「この寒い中……、ですか?」
「彼は迷い事があると、庭に出る癖があってね。迷う己を叱咤しったする為らしい。実に彼らしい」
「あの副長が迷い事!?」
 鉄之助にはいつも鬼のように怒鳴る土方が迷うなど信じられなかったが、せっかく煎れた茶が無駄になってしまった。
「だいたいさぁ、茶を持って来いと命じておいて、部屋にいないってどういう神経をしてんだよ! うちの鬼副長は!」
 いつものようにプリプリと愚痴り、鉄之助は草履に足を入れた。
 庭に何があるのかと行けば、土方は腕を組み何かを見上げている。
「風邪を引きますよ」
「鉄之助、これが新選組の旗だ」
 言われて視線を運べば、少し高い位置で赤い旗が掲げられていた。
「誠……」
「誠の字は、言ったことを成すだ」
 赤い地に「誠」の一字を白く染めた旗――、土方のその言葉の通り、誠の字は「言」と「成」から構成される。
「鉄之助、人は常に自分と戦っている。だかな、鉄之助。楽な道へ楽な道へと行こうとする自分と勝ってこそ人は強くなる。自分に負けたらその後の人生は、つまらねぇものとなる。今日の馬鹿どものようにな」
 武士は常に冷静沈着、迷いも悔いもなく、いざとなれば命も惜しまぬ覚悟と勇気がいるという。
「武士はな、鉄之助。武士に二言なしと言ってな、一度口にした事は最後まで貫かなきゃならねぇ。人間いつかは死ぬ。死にたくねぇと思っても、寿命には逆らえん。俺はいつも死ぬ覚悟は出来ているが、まだやらなきゃいけねぇ事が山ほどある。武士は生きるときには生きる。決して人として恥じる行動はしちゃならねぇし、悔いも残しちゃらなねぇ。武士ってやつは厄介で面倒だが、俺は武士であることを悔いちゃいない。この旗の前で、己からも敵からも逃げねぇと誓ったんでな」
「副長……、少しだけ理解った気がします」
 鉄之助は、もう一度『 誠』の旗を見上げた。
 己の言った事に偽りなく、最期まで貫く――、風邪に揺れる誠の旗に誓う武士の意地。
「……っくしゅっ」
 鉄之助のくしゃみに土方がに眉を寄せ「やっぱりお前はまだガキだな」と眉を寄せる。
 確かに鉄之助はまだ子供だ。井上泰介や田村銀之助など最年少隊士と比べてもせいぜい四つの差。
 しかしこの寒さでも、鬼副長は健在だった。
「鉄之助、茶だ!」
「少し前に煎れた茶ならお部屋に置いてあります」
「鉄之助――、俺に冷えた茶を飲めと……?」
「今から!?」
 そろそろ丑の刻、巡察担当隊士が帰ってくる刻限である。
 鉄之助が不平不満を言えば、土方は最後に伝家の宝刀を抜くのだ。
「うるせえ! 副長命令だ!!」
 職権乱用のような気がするが、いつものやりとりに鉄之助の心は少し軽くなった。
「おに……」
 呟くように言えば、土方が振り向いた。
「……何か言ったか?」
 土方は、相変わらずの地獄耳である。
「な、何もっ!」
 鉄之助は雪に足を取られながらも、再び炊事場へ向かうのだった。
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