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三章 敗北者達の叫び
青天の霹靂
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「国虎様!! 何なのですか、あの爺さんは! 腕によりをかけた料理を出してもすぐに『不味い』と文句を言うばかりで! やってられませんよ!!」
「そうです。それにあの中年、すぐに私のお尻を触ってくるんですよ! しかもニヤけた面で! 気持ち悪過ぎます」
年も明けた天文一二年(一五四三年)、奈半利はとても平和であった。
受け入れた木沢三人衆だが、最初の頃は遠慮もあって借りてきた猫のように大人しくしていた。しかし、自分達の家が完成してそこに移り住むようになると段々と我儘な一面が表に出てきて……現状こうなっている。
やはり京の都と比べて味付けも調理方法も違うからか、舌が合わないのだろう。しかも俺や親信の影響で、この時代としてはかなり濃い味付けが基本となっている。どうしても俺達がこの時代の標準的な味付けに我慢ができなかったからだ。こうなったのも、ここ奈半利では調味料も安く手に入るというのが大きい。
そういった訳で、木沢三人衆の世話係をお願いした面々が俺に対して文句を言いに来るというのが最近の恒例行事となっていた。一筋縄ではいかない連中だと思っていたが、まさかこんな事になるとは思わなかった……が、この程度で済んで良かったとも思っている。迷惑を掛けた世話係には、特別手当を出す事で今回も振り上げた拳を下してもらう。
「それにしても左馬允殿がねぇ……」
「次男の方は目が恐いし、三男の方は女好き。国虎様からの直々のお願いでなければもうとっくに逃げ出してますよ。ああ、私も畠山様の方が良かった……」
「あっちはあっちで駄目だけどな」
畠山 晴満は最初こそ貴公子然とした立ち居振る舞いで皆に一目置かれていたが、当主という肩書きが無くなって気が弛んでしまったのか……激太りしていた。日頃の暴飲暴食の結果である。木沢 浮泛と違い、彼がここの料理を気に入ったというのも大きい。グルメリポーターの彦〇呂のアイドル時代とその後を見た心境である。
意外と言えば失礼になるかもしれないが、次男である木沢 中務大輔だけは日々の鍛錬を怠っていなかった。てっきり酒びたりの毎日を送っていたのかと思っていたら、そうではない。父親や弟の自堕落さとは正反対で黙々と技を磨いている。どうも弓が得意なようだ。目標を見据え努力を怠らない。そうそうできるものではない。
一人で続けるのも大変だと思うので、今度俺達がいつもしている朝の体操に誘ってみようかと思っている。木沢一族は仲良くなれないのではないかと思っていたが、彼だけは俺達と話が合うかもしれない。そんな気がした。
いや……同じ体操に誘うなら、畠山 晴満の方が先か。まさかこうなるとは思っていなかった。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
こうした奈半利での平和な日常とは違い、畿内は相変わらず混乱が続いている。
飯盛山城襲撃の作戦に際して堺近くに確保させた拠点は、今では畿内の情報収集を行なう拠点としてその意味を変えていた。管理は杉谷家の者に任せている。
とは言え、この複雑怪奇な畿内情勢に俺は積極的に関わるつもりはない。単純に大まかな畿内情勢を把握していたかったという理由である。
そこから得られた情報によると、飯盛山城はあれから呆気なく落城した。馬路党の面々が派手に暴れたと言うし、予想はしていた。状況から落城自体の結果は変わらなかったと思うが、時期を早めてしまった形になったと思う。城に残された総州畠山の面々がどうなったかは不明である。何とかして生き残ってくれている事を祈っている。
こうして、木沢 長政の乱から続く畿内の畠山家の一連の騒動も細川 晴元と畠山 稙長の勝利という形で終わり、一時の平穏がやってくるかと思っていたが……さすがは伏魔殿である。一難去ってまた一難。今度は細川 氏綱が堺で挙兵した。
この細川 氏綱という人物、俺が偏諱を受けた細川 高国様の養子であり、反細川 晴元の旗頭であるという。……という事で、細川 高国派残党である細川 国慶もこれに呼応して参戦する。丹波国の守護代である内藤 国貞という同士もいるという話だ。今村 慶満殿や北川 玄蕃も共に従軍しているだろう。これまで 細川 晴元相手に単独で戦うには無理があると思っていただけに、そうではないという事が分かり少し安心した。
残念なのは約一万という兵力で城に立て篭もったとしても、それ以上の明確な軍事行動が無い点である。散発的な小競り合いかゲリラ活動に終始していると思われる。この実情を知ると、挙兵に意味があるのか、それとも嫌がらせと割り切っているのか、もしくは何らかの事情があって挙兵する必要があったのかと意図を疑ってしまう。何故なら具体的な目標を定めた挙兵ではなく、パフォーマンスとして反細川 晴元の活動をしているように見えてしまったからだ。
個人的には本気で細川 晴元に勝つつもりなら、充分な力を蓄えるなり、大勢力の力を借りるなり、晴元陣営を内側から瓦解させるなりのやりようがあると思……ああ、そういう事か。木沢 長政の粛清が反細川 晴元陣営にとってチャンスに見えたのだろう。もしくは力を盛り返した畠山 稙長が反細川 晴元陣営に参戦してくれると踏んだか。その両方だろう。
確かに畠山 稙長は追放される前は細川 晴元に反目していたというが、この度の木沢家粛清のために細川 晴元と手を組んだばかりである。さすがにどんなに嫌いな相手でも、握手したその手でいきなり掌を返す事はできない。挙兵するにしても、時期が早過ぎたというのが正解だと思う。
願わくば、こんな無謀な戦いで命を落とさないで欲しい。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
今日も一日が終わり、まったりとした時間が流れている。電灯の無いこの時代は、日が暮れてしまうと本気で真っ暗となってしまう。けれども寝るにはまだ早い時間。そんな時俺はよく本を読んでいる。薄暗い行灯の灯りの中でミミズが這ったような文字を読み進める。自分達の書く文字は楷書体を使って読み易いようにしているが、この時代の一般的な行書体も今では慣れた。
最近のお気に入りは「応仁記」という軍記物語。前世ではこんな書物があるとは知らなかった。歴史の教科書で習った「応仁の乱」はこれが出典である事を知る。細川 益氏様より「面白い本が手に入った」という事で、いつもの如く写本を頂いた形だ。
「あっ、そうそう和葉。俺、婚約してたみたいだ。父上と母上が決めたんだろうな。でも心配するなよ。きちんと破棄するから」
一区切り付いた所で近くにいる和葉に声を掛ける。今日も黙々と縫い物をしている。
既製服の販売という概念が無いこの時代、裁縫は主に女性の家庭での仕事の一つとなっている。和葉は奈半利にやって来た頃から裁縫を始め、今では一人前のお針子さんと言える腕前になっていた。今では俺の服の繕い物から製作まで、彼女に頼りっぱなしである。
正直な所、俺は一日の終わりの和葉といるこの時間が好きだ。十年後もこれを続けたいと思っている。
「婚約の話はアヤメちゃんから聞いていたから知ってたけど、さっきの『婚約破棄』は本気なの? そんな事したら家の名前に傷が付かない? 正妻には家柄の良い女の人を迎えて欲しいんだけど……」
「安芸の名は軽いからな。大した事じゃないさ。正妻は和葉が良いというのもあるけど……はっきり言ってぽっちゃりは嫌だ」
「またそういう事を言う。それに私は痩せ過ぎだよ。私の事を褒めてくれるのは国虎くらい……あっ、親信さんもいたか」
以前今村殿が持ってきた俺の縁談は、何故か婚約という形で纏まってしまっていた。流れたと思っていたが、知らない間に父上や母上と話を進めていたようだ。この時代の結婚は家同士で決めるのが基本であり、当主ではない俺に結果だけ連絡するというのは特別な話ではない。ましてや俺がはっきりと断らずに迂遠な言い方をしてしまったがために、「結婚が早いなら婚約なら問題無い」という解釈で話が進んだものと思われる。
そうまでして俺と縁続きになりたいのだろうか? ちょっと理解できそうにない。
今回の婚約は書状を見る限り父上母上共に喜んでいる。実態はどうあれ、相手は細川玄蕃頭家だからな。きっと家柄自体は良いのだろう。俺からすれば、この婚約は詐欺にしか見えないが……。
いや、政略結婚として見れば、こちらは高い家柄と縁続きになるメリットがあり、向こうは実利を得るというメリットがある。実に理想的と言えるか。
……うん。そんなものいらないな。俺には不釣合いでしかない。
この件に付いては、数日中にも実家に顔を出して白紙に戻してもらうように伝えるつもりだ。父上も母上も細川玄蕃頭家が現状どうなっているか知れば、俺の意見を支持してくれる筈だと踏んでいる。まさか相手の家がいつ滅亡してもおかしくない所だとは思ってもいないだろう。そういった意味での詐欺である。下手すると安芸家も細川玄蕃頭家の滅亡に連座する可能性を孕む事になる。
ただ、その前に……
「アヤメ! そこにいるのは分かっているから入って来い。盗み聞きは趣味が悪いぞ」
部屋の外で控えていると思われるアヤメに声を掛けた。最近は「監視」と言いながらずっと俺の後ろに付いてくるような事はなくなり、俺への刺客を警戒する警護や護衛のような役目を果たすようになっていた。俺が杉谷家を家臣に組み込んだ事で、杉谷家の忍びである彼女の役割も変化した形だ。小柄だが意外にも腕っ節は強く、実力は一羽より確実に上である。
「ついに拙僧も国虎殿の寝所に呼ばれるようになりましたか」
「そういうのはまた今度な。それとここは俺達しかいないんだから、深編笠を取れ。顔が見えないだろう」
「…………はい」
すっと入ってきたアヤメが恥ずかしそうに深編笠を取る。そこに現れたのは顔の三分の一がただれた少女の姿。アヤメが普段深編笠を被っていたのはなんの事はない、顔の火傷跡がひど過ぎて隠していただけであった。
相変わらず深編笠を取った時のアヤメは人が変わったように下を向いてもじもじしている。きっと今の状態が本来の姿なのだろう。虚無僧というロールプレイで人格を偽る。それが彼女の処世術だった。
「俺はアヤメの事を可愛いと思っているんだから、この場では火傷の事は気にするな。女性としてとても魅力的だぞ」
だからこそ俺は、機会があればこうして火傷程度でアヤメの価値は下がらないと伝える。アヤメの気持ちは分かるが、ずっと自分を偽って生きるのは悲し過ぎると思ったからだ。人の価値は顔だけではないと知って欲しいし、人の目を過剰に気にしないで生きて欲しいと願っている。
「国虎のそういう所、凄く分かり易い。アヤメちゃんも私と同じくらい痩せてるからだよね」
「……嫉妬か?」
「知らない」
ただ、何故かこの手の話をすると和葉が拗ねるような態度を取る。変な事を言っているつもりはないので、いつものようにからかい気味に返すと可愛らしい反応をする。確かにアヤメは背が低いものの、細身の華奢な身体つきなので俺の好みであるのは間違いない。けれども、和葉の方が抜群のスタイルなのだから比べるまでもないと思うのは俺の贔屓目なのだろうか?
「まあ良いか……って、アヤメ、どうして服を脱ごうとする?」
「……その……お礼を……私の体で……」
「そういうのはまた今度で。それより聞きたい事かあるんだが……ん? 何だ? 騒々しい」
今回の婚約話の件でアヤメと情報のすり合わせをする筈が今度は邪魔が入る。廊下にけたたましい足音が響き、こちらに近付いてくるのが分かった。
タンッと勢い良く障子を開け放ち、息せき切った家臣が入ってくる。夜だというのにこちらの事情を一切考慮しない余裕の無さ。一体何があったと言うのだ?
「申し上げま……、あっ、夜分遅く申し訳ございません」
「大丈夫だ。気にするな。そんな事より何か大事な話か?」
「あっ、はい。安芸城より至急の報せです! 本日、御当主である安芸 元泰様が討ち死にされました! 急ぎ安芸城までお戻りください!!」
何の予告も無く訪れる突然の訃報。青天の霹靂とはまさしくこういうのを指すのだろう。今日、俺の奈半利での日々は終りを告げた。
「そうです。それにあの中年、すぐに私のお尻を触ってくるんですよ! しかもニヤけた面で! 気持ち悪過ぎます」
年も明けた天文一二年(一五四三年)、奈半利はとても平和であった。
受け入れた木沢三人衆だが、最初の頃は遠慮もあって借りてきた猫のように大人しくしていた。しかし、自分達の家が完成してそこに移り住むようになると段々と我儘な一面が表に出てきて……現状こうなっている。
やはり京の都と比べて味付けも調理方法も違うからか、舌が合わないのだろう。しかも俺や親信の影響で、この時代としてはかなり濃い味付けが基本となっている。どうしても俺達がこの時代の標準的な味付けに我慢ができなかったからだ。こうなったのも、ここ奈半利では調味料も安く手に入るというのが大きい。
そういった訳で、木沢三人衆の世話係をお願いした面々が俺に対して文句を言いに来るというのが最近の恒例行事となっていた。一筋縄ではいかない連中だと思っていたが、まさかこんな事になるとは思わなかった……が、この程度で済んで良かったとも思っている。迷惑を掛けた世話係には、特別手当を出す事で今回も振り上げた拳を下してもらう。
「それにしても左馬允殿がねぇ……」
「次男の方は目が恐いし、三男の方は女好き。国虎様からの直々のお願いでなければもうとっくに逃げ出してますよ。ああ、私も畠山様の方が良かった……」
「あっちはあっちで駄目だけどな」
畠山 晴満は最初こそ貴公子然とした立ち居振る舞いで皆に一目置かれていたが、当主という肩書きが無くなって気が弛んでしまったのか……激太りしていた。日頃の暴飲暴食の結果である。木沢 浮泛と違い、彼がここの料理を気に入ったというのも大きい。グルメリポーターの彦〇呂のアイドル時代とその後を見た心境である。
意外と言えば失礼になるかもしれないが、次男である木沢 中務大輔だけは日々の鍛錬を怠っていなかった。てっきり酒びたりの毎日を送っていたのかと思っていたら、そうではない。父親や弟の自堕落さとは正反対で黙々と技を磨いている。どうも弓が得意なようだ。目標を見据え努力を怠らない。そうそうできるものではない。
一人で続けるのも大変だと思うので、今度俺達がいつもしている朝の体操に誘ってみようかと思っている。木沢一族は仲良くなれないのではないかと思っていたが、彼だけは俺達と話が合うかもしれない。そんな気がした。
いや……同じ体操に誘うなら、畠山 晴満の方が先か。まさかこうなるとは思っていなかった。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
こうした奈半利での平和な日常とは違い、畿内は相変わらず混乱が続いている。
飯盛山城襲撃の作戦に際して堺近くに確保させた拠点は、今では畿内の情報収集を行なう拠点としてその意味を変えていた。管理は杉谷家の者に任せている。
とは言え、この複雑怪奇な畿内情勢に俺は積極的に関わるつもりはない。単純に大まかな畿内情勢を把握していたかったという理由である。
そこから得られた情報によると、飯盛山城はあれから呆気なく落城した。馬路党の面々が派手に暴れたと言うし、予想はしていた。状況から落城自体の結果は変わらなかったと思うが、時期を早めてしまった形になったと思う。城に残された総州畠山の面々がどうなったかは不明である。何とかして生き残ってくれている事を祈っている。
こうして、木沢 長政の乱から続く畿内の畠山家の一連の騒動も細川 晴元と畠山 稙長の勝利という形で終わり、一時の平穏がやってくるかと思っていたが……さすがは伏魔殿である。一難去ってまた一難。今度は細川 氏綱が堺で挙兵した。
この細川 氏綱という人物、俺が偏諱を受けた細川 高国様の養子であり、反細川 晴元の旗頭であるという。……という事で、細川 高国派残党である細川 国慶もこれに呼応して参戦する。丹波国の守護代である内藤 国貞という同士もいるという話だ。今村 慶満殿や北川 玄蕃も共に従軍しているだろう。これまで 細川 晴元相手に単独で戦うには無理があると思っていただけに、そうではないという事が分かり少し安心した。
残念なのは約一万という兵力で城に立て篭もったとしても、それ以上の明確な軍事行動が無い点である。散発的な小競り合いかゲリラ活動に終始していると思われる。この実情を知ると、挙兵に意味があるのか、それとも嫌がらせと割り切っているのか、もしくは何らかの事情があって挙兵する必要があったのかと意図を疑ってしまう。何故なら具体的な目標を定めた挙兵ではなく、パフォーマンスとして反細川 晴元の活動をしているように見えてしまったからだ。
個人的には本気で細川 晴元に勝つつもりなら、充分な力を蓄えるなり、大勢力の力を借りるなり、晴元陣営を内側から瓦解させるなりのやりようがあると思……ああ、そういう事か。木沢 長政の粛清が反細川 晴元陣営にとってチャンスに見えたのだろう。もしくは力を盛り返した畠山 稙長が反細川 晴元陣営に参戦してくれると踏んだか。その両方だろう。
確かに畠山 稙長は追放される前は細川 晴元に反目していたというが、この度の木沢家粛清のために細川 晴元と手を組んだばかりである。さすがにどんなに嫌いな相手でも、握手したその手でいきなり掌を返す事はできない。挙兵するにしても、時期が早過ぎたというのが正解だと思う。
願わくば、こんな無謀な戦いで命を落とさないで欲しい。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
今日も一日が終わり、まったりとした時間が流れている。電灯の無いこの時代は、日が暮れてしまうと本気で真っ暗となってしまう。けれども寝るにはまだ早い時間。そんな時俺はよく本を読んでいる。薄暗い行灯の灯りの中でミミズが這ったような文字を読み進める。自分達の書く文字は楷書体を使って読み易いようにしているが、この時代の一般的な行書体も今では慣れた。
最近のお気に入りは「応仁記」という軍記物語。前世ではこんな書物があるとは知らなかった。歴史の教科書で習った「応仁の乱」はこれが出典である事を知る。細川 益氏様より「面白い本が手に入った」という事で、いつもの如く写本を頂いた形だ。
「あっ、そうそう和葉。俺、婚約してたみたいだ。父上と母上が決めたんだろうな。でも心配するなよ。きちんと破棄するから」
一区切り付いた所で近くにいる和葉に声を掛ける。今日も黙々と縫い物をしている。
既製服の販売という概念が無いこの時代、裁縫は主に女性の家庭での仕事の一つとなっている。和葉は奈半利にやって来た頃から裁縫を始め、今では一人前のお針子さんと言える腕前になっていた。今では俺の服の繕い物から製作まで、彼女に頼りっぱなしである。
正直な所、俺は一日の終わりの和葉といるこの時間が好きだ。十年後もこれを続けたいと思っている。
「婚約の話はアヤメちゃんから聞いていたから知ってたけど、さっきの『婚約破棄』は本気なの? そんな事したら家の名前に傷が付かない? 正妻には家柄の良い女の人を迎えて欲しいんだけど……」
「安芸の名は軽いからな。大した事じゃないさ。正妻は和葉が良いというのもあるけど……はっきり言ってぽっちゃりは嫌だ」
「またそういう事を言う。それに私は痩せ過ぎだよ。私の事を褒めてくれるのは国虎くらい……あっ、親信さんもいたか」
以前今村殿が持ってきた俺の縁談は、何故か婚約という形で纏まってしまっていた。流れたと思っていたが、知らない間に父上や母上と話を進めていたようだ。この時代の結婚は家同士で決めるのが基本であり、当主ではない俺に結果だけ連絡するというのは特別な話ではない。ましてや俺がはっきりと断らずに迂遠な言い方をしてしまったがために、「結婚が早いなら婚約なら問題無い」という解釈で話が進んだものと思われる。
そうまでして俺と縁続きになりたいのだろうか? ちょっと理解できそうにない。
今回の婚約は書状を見る限り父上母上共に喜んでいる。実態はどうあれ、相手は細川玄蕃頭家だからな。きっと家柄自体は良いのだろう。俺からすれば、この婚約は詐欺にしか見えないが……。
いや、政略結婚として見れば、こちらは高い家柄と縁続きになるメリットがあり、向こうは実利を得るというメリットがある。実に理想的と言えるか。
……うん。そんなものいらないな。俺には不釣合いでしかない。
この件に付いては、数日中にも実家に顔を出して白紙に戻してもらうように伝えるつもりだ。父上も母上も細川玄蕃頭家が現状どうなっているか知れば、俺の意見を支持してくれる筈だと踏んでいる。まさか相手の家がいつ滅亡してもおかしくない所だとは思ってもいないだろう。そういった意味での詐欺である。下手すると安芸家も細川玄蕃頭家の滅亡に連座する可能性を孕む事になる。
ただ、その前に……
「アヤメ! そこにいるのは分かっているから入って来い。盗み聞きは趣味が悪いぞ」
部屋の外で控えていると思われるアヤメに声を掛けた。最近は「監視」と言いながらずっと俺の後ろに付いてくるような事はなくなり、俺への刺客を警戒する警護や護衛のような役目を果たすようになっていた。俺が杉谷家を家臣に組み込んだ事で、杉谷家の忍びである彼女の役割も変化した形だ。小柄だが意外にも腕っ節は強く、実力は一羽より確実に上である。
「ついに拙僧も国虎殿の寝所に呼ばれるようになりましたか」
「そういうのはまた今度な。それとここは俺達しかいないんだから、深編笠を取れ。顔が見えないだろう」
「…………はい」
すっと入ってきたアヤメが恥ずかしそうに深編笠を取る。そこに現れたのは顔の三分の一がただれた少女の姿。アヤメが普段深編笠を被っていたのはなんの事はない、顔の火傷跡がひど過ぎて隠していただけであった。
相変わらず深編笠を取った時のアヤメは人が変わったように下を向いてもじもじしている。きっと今の状態が本来の姿なのだろう。虚無僧というロールプレイで人格を偽る。それが彼女の処世術だった。
「俺はアヤメの事を可愛いと思っているんだから、この場では火傷の事は気にするな。女性としてとても魅力的だぞ」
だからこそ俺は、機会があればこうして火傷程度でアヤメの価値は下がらないと伝える。アヤメの気持ちは分かるが、ずっと自分を偽って生きるのは悲し過ぎると思ったからだ。人の価値は顔だけではないと知って欲しいし、人の目を過剰に気にしないで生きて欲しいと願っている。
「国虎のそういう所、凄く分かり易い。アヤメちゃんも私と同じくらい痩せてるからだよね」
「……嫉妬か?」
「知らない」
ただ、何故かこの手の話をすると和葉が拗ねるような態度を取る。変な事を言っているつもりはないので、いつものようにからかい気味に返すと可愛らしい反応をする。確かにアヤメは背が低いものの、細身の華奢な身体つきなので俺の好みであるのは間違いない。けれども、和葉の方が抜群のスタイルなのだから比べるまでもないと思うのは俺の贔屓目なのだろうか?
「まあ良いか……って、アヤメ、どうして服を脱ごうとする?」
「……その……お礼を……私の体で……」
「そういうのはまた今度で。それより聞きたい事かあるんだが……ん? 何だ? 騒々しい」
今回の婚約話の件でアヤメと情報のすり合わせをする筈が今度は邪魔が入る。廊下にけたたましい足音が響き、こちらに近付いてくるのが分かった。
タンッと勢い良く障子を開け放ち、息せき切った家臣が入ってくる。夜だというのにこちらの事情を一切考慮しない余裕の無さ。一体何があったと言うのだ?
「申し上げま……、あっ、夜分遅く申し訳ございません」
「大丈夫だ。気にするな。そんな事より何か大事な話か?」
「あっ、はい。安芸城より至急の報せです! 本日、御当主である安芸 元泰様が討ち死にされました! 急ぎ安芸城までお戻りください!!」
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