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第一章:生贄
4.神の領域
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「その質素なあだ名も気に入っているが、俺にはフェンリスという名がある。まぁ、好きな方で呼べ」
そう言いながら、口で掛け布団を咥えて、私の首の辺りまで被せた。私は自分の体が清潔になっていて、真っ新なシャツとズボンを着用していることに気がついた。
これも彼が着せてくれたのだろうか。
「フェン、リス…さん……」
「フェンリスでいい」
狼なので表情は分からないし声色も一定だけれど、私が名を呼ぶと彼から満足したような感情が伝わってきた。
塔の中では名前をつけると愛着が湧いてしまうと思い、実に簡素に"犬"と呼んでいた。それを気に入ったと言ってくれた。
「フェンリス……すみ、ませ……さっき、にげて…しつれい、な…たいどを……」
先ほどまで怖がっていた自分が恥ずかしくなって、掠れる声を振り絞って謝った。彼……フェンリスは、威厳のある佇まいで私を見ながら、「謝るな」と言った。
「怖がるのも無理はない。お前を襲おうとした者らには制裁を課したので安心しろ。それより、名を教えてくれないか」
あのままフェンリスが来てくれなかったら、私は……。考えたくもない未来に蓋を閉じ、名前を伝えた。
「周と、いいます」
「アマネか。美しい名だ」
「ありがとう、ございます……たす、けて…くださり」
「そのような堅苦しい言葉遣いでは無かったろう。今まで通りでいい」
暖炉で燃える薪の空気が膨張して爆ぜる音と、フェンリスの心地よい重低音の声が耳でちょうどよく混ざり合って、穏やかな多幸感に包まれた。
「……あり、がとう……」
安心という感覚を、いつぶりに感じただろうか。果てしなく長い暗闇から掬い上げられたような安らぎに、不安からの解放に、耐えきれず声が詰まった。
狼が人になったり、人が狼になったりする現象にはいまだに追いつけてはいないけれど、ここは異世界だ。そう言うことが起きてもおかしく無い世界なのかもしれない。
そんなことよりも、私はただただ感謝を伝えたかった。安堵に包まれながら、何度もお礼を言った。
狼姿のフェンリスは「無理に喋るな」と言い、私の気持ちが落ち着くのを待って傷の具合を見てくれた。
器用に口や前脚で私の服をめくって包帯を取り替えたり、骨にダメージのありそうな部位には添木をしてくれた。さっき手をついた時に捻ってしまった手首も固定してくれた。
そして汗をかいている部分は丁寧に拭って、傷の周りを清潔にしてくれた。
傷を拭う時も包帯を巻く時ももこちらをしきりに窺いつつ、私が表情を歪めたらすぐに中断して、また和らいだら口と前脚を使って包帯をしめ、最大の配慮をしながら手当を続ける。
その寡黙な様子に、塔の中で彼と過ごしている情景と重ねていた。
「…器用、だね……」
「そうか?」
「!」
返事が返ってきたので、心臓がビクッと跳ねた。
「どうした、痛いか?」
「大丈夫、いたくない……」
ほんとはちょっと痛いけど、それよりも嬉しさの方がまさった。
返事が返ってきた。
そうだ。私はずっとずっと彼の声を聞くのが夢だったんだ。彼とお話しするのが夢だったんだ。
黙々と真剣に手当をしてくれていたのでついいつもの様子で話しかけていた。返事などなくても彼と話せるのが唯一の楽しみだった。
でも、今は声が聞ける。
「ね、好きな、たべものって、なに?」
「突然何を………いや、そうだな、特別好みも苦手も無いが…アマネはどうだ」
戸惑いながらもしっかりと応えてくれたフェンリスの声に、私の気持ちはどんどん弾んだ。
「んー、ふわふわの、パン」
「そうか。俺も好きだ」
「狼も、パンたべれるの?」
「何でも食う」
「そうなんだ……!」
お話できてる、フェンリスとお話してる……! まるで絵本の中の主人公に会ったみたいに私はテンションを上げた。体は動かせずとも、いっちょ前にテンションは上がるのだ。
狼姿の彼に器用に手当てされるがままになりながら、私はお話を続けた。
「おなかと、せなか、どっち撫でられたら、嬉しい?」
「……そう、だな……あまり"撫でられる"という感覚に慣れていが……」
頭を捻りながらフェンリスは考え、「お前に腹を撫でられたのは中々良かった」と答えた。
ふーん、お腹派かあ。体が動くようになったら、たくさん撫でたいなあ。
「尻尾や、耳は? あんまり好きじゃない?」
「尻尾と耳は性感帯だ」
「!!……そ、それは、たいへんしつれいしました」
「問題ない」
すん、と澄ましているのはいつも通り。だけど返事が返ってくる。ちょっと変な質問もしちゃったけど、私はほくほくと心をあたためながら、シュルシュルと口と前脚を使って器用に包帯を巻く様子を感心しながら眺める。
ひと通り手当が終わり、掛け布団を咥え顎のあたりまでかけてくれた。
「ありがと、フェンリス」
顔にかかった髪の毛をフェンリスの鼻先で整えられる。吐息がくすぐったかった。
彼は「すぐに痛みが引く、もうしばらくの我慢だ」と言った。そんなにすぐに治るはずないけれど、子をあやすように優しく言われると、本当にすぐに治ってしまいそうだから不思議だ。
そして、私から少し距離を取り、いきなり「俺はお前に謝らねばならない」と言った。
「……え?」
四つ足で姿勢よく立ったフェンリスは綺麗に頭を下げる。
「まず、お前を救い出すのが遅くなってしまった。本当に申し訳ない」
「そんな。あやまらないで」
なぜ助けてくれたのに謝るのだろう。言動を理解できず混乱していると、彼はこう続けた。
「アマネも知っての通り、俺はお前が塔に幽閉されていることを知っていた。だが助けることはしなかった。そのせいで長い間、苦痛を強いてしまった」
助けられなかったって、そんなの当たり前だよ。
軍人たちが居たし、下手したらフェンリスがやられちゃうかもしれない。
「フェンリスの…せいじゃ…」
「いや俺のせいだ。お前が人間たちに攫われ、あの塔へ連れてこられたのは、お前を土地神の生贄にするためだ」
「しってる…軍人のひとの話、きいた」
「その土地神というのが、俺のことだ」
「………え…」
自分が生贄にされることは知っていた。だから塔の中に何年も何年も閉じ込められていた。土地神の生贄になるために。
その土地神が、目の前にいるフェンリス? ずっと、何年も私に寄り添って勇気をくれていた彼に……
「フェンリスに、私は、たべられるの……?」
私の問いに彼は一瞬目を逸らしたが、再び力強くこちらを見据えた。
「俺はアマネを食わないし殺さない……が、これから運命を強いてしまうことに変わりはない」
フェンリスがあまりに苦しそうな顔をするので、私は無意識に手を伸ばし、彼の鼻先に触れていた。
マズルを掻くように撫で、それから喉元や頬をを愛でた。
ふわふわのサラサラだ…いつもと変わらない感触に、心が落ち着く。
「だいじょうぶ……ぜんぶ、おしえて…」
もうあの塔に戻らなくていいならフェンリスの生贄にされてもいい。好きにされていい。彼に思いを伝えると、ひとつずつ話し出した。
「この国では数百年前から旱が続き、人間は長い間苦しみ続けている。私が土地神になったのはほんの百と数十年前だが、その時には既にそういう状況だった」
「百、数十年……」
そうか、フェンリスは神様だから長生きなんだ。私は彼を撫でる手を再開させた。
「ある時人間は、百年に一度起こる月暈の日に祭を開き、土地神に生贄を捧げることで豊作を願うようになった」
「げつ、うん……?」
「月の周りを囲うように光の輪が出現する現象だ。その現象が起こるのが、今宵だ」
「今日……。だから、私は今まで、塔に」
「そうだ。儀式が始まって数百年経ち、どう話がひん曲がったのか、『月暈の日に贄を捧げなければ神の怒りを買い土地が滅ぶ』というふざけた言い伝えに出来上がってしまった」
苦虫を噛み潰したように、彼は悔しさの滲む声で呟いた。
「今からちょうど百年前、まだ俺が土地神となって間もない頃、初めて自分へ贄が捧げられようとしていることに気がついた。お前と同じ年頃の人間だった」
「その、人は、どうなったの?」
「俺は贄など要らん。お前と同じくあの塔に幽閉され不当な扱いを受けている人間を…逃した」
「じゃあ、助かったの?」
フェンリスは、どこか自分を責めているように見えた。彼は続けた。
「間違いだった。塔の中で過ごし体力も削られた人間を逃したところで、逃げられる限界などたかが知れている。その人間は、逃げる途中で人間に捕らえられ、殺された。俺の元にはその亡骸が供えられた」
「……………そんな…」
フェンリスの喉元を撫でていた手が、低い低い、耳では聞こえないほど低い唸りを振動で感じ取った。
「贄としての責務から逃げることは『神に対する冒涜』らしい。俺は冒涜された覚えなど無い。
どうすればあの人間が死なずに済んだのか、答えが出ぬまま百年の月日が経ち、アマネが来た」
四つ脚で姿勢良く立っていた彼は後ろ脚を折り曲げ腰を落ち着けた。座った体勢で私の方へ顔を近づけ、撫でやすいよう移動してくれた。
「お前は既に弱っていた。百年前のようにただ逃したのでは、おそらく再び捕らえられる。同じ過ちを冒したくはなかった。俺が手引きをして人間の手が届かぬところまで連れ出してやればいいのでは無いか、そうも考えたが、アマネの体力がどこまでもつか想像もできなかった」
フェンリスの鼻の横を指でかきかきすると、くすぐったそうに「ふん」と鼻息を吐いた。
「回復するまで匿おうとも考えた。神の領域は人間からは見えず、安全だ。しかしその考えもあえなく潰えた。一瞬でも神域に人間が足を踏み入れてしまうと、その者は丸一日経てば消滅してしまう」
「消滅……消えてしまうってこと?」
「……その通りだ。だから、贄に捧げられるまで待つしか無かった。一度俺のものになってしまえばそこから先は自由だ。これが一番の近道だと思い、アマネに長い間苦痛を強いた。そして、最後の最後で予期せぬことが起きてしまった」
「ぁ……」
軍人に犯されそうになったのをもう一度思い出し恐怖に身を奪われそうになるも、フェンリスの頭を撫でると不思議なことに心がすとんと落ち着いた。
そして私は、先ほどより彼を撫でる手がスムーズに動いていることに気がついた。目が覚めたら時には身じろぐのも精一杯だったのに、こうして彼に手を伸ばして、好き勝手に撫でている。
心なしか、体も少し軽い気がする。
目の前で手のひらを開いたり閉じたりして体の感覚を確かめていると、フェンリスが、
「痛みが少しずつ和らいでいるのが分かるか?」
と言った。
「うん……なんだかだんだん、楽になってる…。声も、出やすくなった」
「そうか……」
私の喜びに反して、だんだんと項垂れていくフェンリス。なぜだろう。
もしかすると、私の痛みや苦痛を吸い取って彼の身に移しでもしているのだろうか。
神様ならありえるかもしれない。そういう力もあるのかもしれない。
もしそうなら、早く辞めさせなければ。
「フェン…「すまないっ…!」」
私が彼の名を呼ぶのより早く、苦しそうな声で謝罪を述べた。
そして、もっと苦しそうな声で続けた。
「あの塔から連れ出した時、アマネは既に息絶える寸前だった。外傷のみならず栄養失調もあり、肺もやられていた」
「息、絶える……でも、今、ぜんぜん」
体は辛いが、問題なく動いたり声を発したりできている。彼が助けてくれたのだろう。私は自分の無事と感謝を彼に訴えた。しかしフェンリスを取り巻く空気はずしりと重くなるばかりだった。
そして私がなぜ一命を取り留めたのか、その理由を説明し始めた。
「……神域には、生物の回復力を高める"気"が流れている。この気に晒されれば身体の治癒力が増幅する。俺はお前を生かすために、神域に連れ込んでしまった。今、この場所がそうだ」
耐えられないほど痛かった腕も脚も喉も、和らいでいる。"神域"がこんなに生活感溢れてて庶民的なところだとは予想外だけど、心が温まる神秘的な雰囲気はやけに居心地が良かった。
そっか、だからだんだん楽になったんだ。
でも神域にいるってことは……。
「私は、消えちゃうんだね」
だから悲しそうな顔をしてくれていたんだね。
「でも、もういいんだ。塔の中にいる時からね、もう生贄でいいかなって、思ってたの。死んでも、消えても、もうあの塔に戻らなくていいなら、なんでもいい。最後に、幸せな思い出をありがとう……私は、このまま消えても…」
「その逆だ」
「……逆?」
彼の言葉の意味がわからない。
私の反芻に、フェンリスはさらに自責を滲ませながら続けた。
「私はお前に選択肢を与えることをしなかった。アマネ、お前は消えない。死なない。いや……死ねないんだ」
「それは、どういう……」
薪のパチパチ爆ぜる音が、耳元でやけに大きく響いた。
「アマネを神域に連れて来たのは昨日の、ちょうど今と同じ刻。息絶える寸前だったお前は神域の気で回復し一命を取り留めた。が、蓄積された損傷が大きく中々目を覚まさなかった。このまま何もしなければ消えてしまう。だから俺は、お前に俺の血を飲ませた」
「血?」
「神が血を分け与えた者は"半神"となる。神と同じく永遠に生きる。果てしない生命を俺はお前の承諾も得ず、気持ちも確認せずに勝手に与えた。……消えて欲しく、なかったんだ」
フェンリスの方が消えてしまいそうなくらい、弱々しい声だった。
「半神、」
なんとかして状況を飲み込みたい私は脳みそをフルに回転させて彼の言葉を咀嚼するが、回復しているとはいえ疲労の残る心身では追いつかず、一気に襲ってきた眠気に抗えなかった。
再び雲のように柔らかい意識の中へと落ちていった。
そう言いながら、口で掛け布団を咥えて、私の首の辺りまで被せた。私は自分の体が清潔になっていて、真っ新なシャツとズボンを着用していることに気がついた。
これも彼が着せてくれたのだろうか。
「フェン、リス…さん……」
「フェンリスでいい」
狼なので表情は分からないし声色も一定だけれど、私が名を呼ぶと彼から満足したような感情が伝わってきた。
塔の中では名前をつけると愛着が湧いてしまうと思い、実に簡素に"犬"と呼んでいた。それを気に入ったと言ってくれた。
「フェンリス……すみ、ませ……さっき、にげて…しつれい、な…たいどを……」
先ほどまで怖がっていた自分が恥ずかしくなって、掠れる声を振り絞って謝った。彼……フェンリスは、威厳のある佇まいで私を見ながら、「謝るな」と言った。
「怖がるのも無理はない。お前を襲おうとした者らには制裁を課したので安心しろ。それより、名を教えてくれないか」
あのままフェンリスが来てくれなかったら、私は……。考えたくもない未来に蓋を閉じ、名前を伝えた。
「周と、いいます」
「アマネか。美しい名だ」
「ありがとう、ございます……たす、けて…くださり」
「そのような堅苦しい言葉遣いでは無かったろう。今まで通りでいい」
暖炉で燃える薪の空気が膨張して爆ぜる音と、フェンリスの心地よい重低音の声が耳でちょうどよく混ざり合って、穏やかな多幸感に包まれた。
「……あり、がとう……」
安心という感覚を、いつぶりに感じただろうか。果てしなく長い暗闇から掬い上げられたような安らぎに、不安からの解放に、耐えきれず声が詰まった。
狼が人になったり、人が狼になったりする現象にはいまだに追いつけてはいないけれど、ここは異世界だ。そう言うことが起きてもおかしく無い世界なのかもしれない。
そんなことよりも、私はただただ感謝を伝えたかった。安堵に包まれながら、何度もお礼を言った。
狼姿のフェンリスは「無理に喋るな」と言い、私の気持ちが落ち着くのを待って傷の具合を見てくれた。
器用に口や前脚で私の服をめくって包帯を取り替えたり、骨にダメージのありそうな部位には添木をしてくれた。さっき手をついた時に捻ってしまった手首も固定してくれた。
そして汗をかいている部分は丁寧に拭って、傷の周りを清潔にしてくれた。
傷を拭う時も包帯を巻く時ももこちらをしきりに窺いつつ、私が表情を歪めたらすぐに中断して、また和らいだら口と前脚を使って包帯をしめ、最大の配慮をしながら手当を続ける。
その寡黙な様子に、塔の中で彼と過ごしている情景と重ねていた。
「…器用、だね……」
「そうか?」
「!」
返事が返ってきたので、心臓がビクッと跳ねた。
「どうした、痛いか?」
「大丈夫、いたくない……」
ほんとはちょっと痛いけど、それよりも嬉しさの方がまさった。
返事が返ってきた。
そうだ。私はずっとずっと彼の声を聞くのが夢だったんだ。彼とお話しするのが夢だったんだ。
黙々と真剣に手当をしてくれていたのでついいつもの様子で話しかけていた。返事などなくても彼と話せるのが唯一の楽しみだった。
でも、今は声が聞ける。
「ね、好きな、たべものって、なに?」
「突然何を………いや、そうだな、特別好みも苦手も無いが…アマネはどうだ」
戸惑いながらもしっかりと応えてくれたフェンリスの声に、私の気持ちはどんどん弾んだ。
「んー、ふわふわの、パン」
「そうか。俺も好きだ」
「狼も、パンたべれるの?」
「何でも食う」
「そうなんだ……!」
お話できてる、フェンリスとお話してる……! まるで絵本の中の主人公に会ったみたいに私はテンションを上げた。体は動かせずとも、いっちょ前にテンションは上がるのだ。
狼姿の彼に器用に手当てされるがままになりながら、私はお話を続けた。
「おなかと、せなか、どっち撫でられたら、嬉しい?」
「……そう、だな……あまり"撫でられる"という感覚に慣れていが……」
頭を捻りながらフェンリスは考え、「お前に腹を撫でられたのは中々良かった」と答えた。
ふーん、お腹派かあ。体が動くようになったら、たくさん撫でたいなあ。
「尻尾や、耳は? あんまり好きじゃない?」
「尻尾と耳は性感帯だ」
「!!……そ、それは、たいへんしつれいしました」
「問題ない」
すん、と澄ましているのはいつも通り。だけど返事が返ってくる。ちょっと変な質問もしちゃったけど、私はほくほくと心をあたためながら、シュルシュルと口と前脚を使って器用に包帯を巻く様子を感心しながら眺める。
ひと通り手当が終わり、掛け布団を咥え顎のあたりまでかけてくれた。
「ありがと、フェンリス」
顔にかかった髪の毛をフェンリスの鼻先で整えられる。吐息がくすぐったかった。
彼は「すぐに痛みが引く、もうしばらくの我慢だ」と言った。そんなにすぐに治るはずないけれど、子をあやすように優しく言われると、本当にすぐに治ってしまいそうだから不思議だ。
そして、私から少し距離を取り、いきなり「俺はお前に謝らねばならない」と言った。
「……え?」
四つ足で姿勢よく立ったフェンリスは綺麗に頭を下げる。
「まず、お前を救い出すのが遅くなってしまった。本当に申し訳ない」
「そんな。あやまらないで」
なぜ助けてくれたのに謝るのだろう。言動を理解できず混乱していると、彼はこう続けた。
「アマネも知っての通り、俺はお前が塔に幽閉されていることを知っていた。だが助けることはしなかった。そのせいで長い間、苦痛を強いてしまった」
助けられなかったって、そんなの当たり前だよ。
軍人たちが居たし、下手したらフェンリスがやられちゃうかもしれない。
「フェンリスの…せいじゃ…」
「いや俺のせいだ。お前が人間たちに攫われ、あの塔へ連れてこられたのは、お前を土地神の生贄にするためだ」
「しってる…軍人のひとの話、きいた」
「その土地神というのが、俺のことだ」
「………え…」
自分が生贄にされることは知っていた。だから塔の中に何年も何年も閉じ込められていた。土地神の生贄になるために。
その土地神が、目の前にいるフェンリス? ずっと、何年も私に寄り添って勇気をくれていた彼に……
「フェンリスに、私は、たべられるの……?」
私の問いに彼は一瞬目を逸らしたが、再び力強くこちらを見据えた。
「俺はアマネを食わないし殺さない……が、これから運命を強いてしまうことに変わりはない」
フェンリスがあまりに苦しそうな顔をするので、私は無意識に手を伸ばし、彼の鼻先に触れていた。
マズルを掻くように撫で、それから喉元や頬をを愛でた。
ふわふわのサラサラだ…いつもと変わらない感触に、心が落ち着く。
「だいじょうぶ……ぜんぶ、おしえて…」
もうあの塔に戻らなくていいならフェンリスの生贄にされてもいい。好きにされていい。彼に思いを伝えると、ひとつずつ話し出した。
「この国では数百年前から旱が続き、人間は長い間苦しみ続けている。私が土地神になったのはほんの百と数十年前だが、その時には既にそういう状況だった」
「百、数十年……」
そうか、フェンリスは神様だから長生きなんだ。私は彼を撫でる手を再開させた。
「ある時人間は、百年に一度起こる月暈の日に祭を開き、土地神に生贄を捧げることで豊作を願うようになった」
「げつ、うん……?」
「月の周りを囲うように光の輪が出現する現象だ。その現象が起こるのが、今宵だ」
「今日……。だから、私は今まで、塔に」
「そうだ。儀式が始まって数百年経ち、どう話がひん曲がったのか、『月暈の日に贄を捧げなければ神の怒りを買い土地が滅ぶ』というふざけた言い伝えに出来上がってしまった」
苦虫を噛み潰したように、彼は悔しさの滲む声で呟いた。
「今からちょうど百年前、まだ俺が土地神となって間もない頃、初めて自分へ贄が捧げられようとしていることに気がついた。お前と同じ年頃の人間だった」
「その、人は、どうなったの?」
「俺は贄など要らん。お前と同じくあの塔に幽閉され不当な扱いを受けている人間を…逃した」
「じゃあ、助かったの?」
フェンリスは、どこか自分を責めているように見えた。彼は続けた。
「間違いだった。塔の中で過ごし体力も削られた人間を逃したところで、逃げられる限界などたかが知れている。その人間は、逃げる途中で人間に捕らえられ、殺された。俺の元にはその亡骸が供えられた」
「……………そんな…」
フェンリスの喉元を撫でていた手が、低い低い、耳では聞こえないほど低い唸りを振動で感じ取った。
「贄としての責務から逃げることは『神に対する冒涜』らしい。俺は冒涜された覚えなど無い。
どうすればあの人間が死なずに済んだのか、答えが出ぬまま百年の月日が経ち、アマネが来た」
四つ脚で姿勢良く立っていた彼は後ろ脚を折り曲げ腰を落ち着けた。座った体勢で私の方へ顔を近づけ、撫でやすいよう移動してくれた。
「お前は既に弱っていた。百年前のようにただ逃したのでは、おそらく再び捕らえられる。同じ過ちを冒したくはなかった。俺が手引きをして人間の手が届かぬところまで連れ出してやればいいのでは無いか、そうも考えたが、アマネの体力がどこまでもつか想像もできなかった」
フェンリスの鼻の横を指でかきかきすると、くすぐったそうに「ふん」と鼻息を吐いた。
「回復するまで匿おうとも考えた。神の領域は人間からは見えず、安全だ。しかしその考えもあえなく潰えた。一瞬でも神域に人間が足を踏み入れてしまうと、その者は丸一日経てば消滅してしまう」
「消滅……消えてしまうってこと?」
「……その通りだ。だから、贄に捧げられるまで待つしか無かった。一度俺のものになってしまえばそこから先は自由だ。これが一番の近道だと思い、アマネに長い間苦痛を強いた。そして、最後の最後で予期せぬことが起きてしまった」
「ぁ……」
軍人に犯されそうになったのをもう一度思い出し恐怖に身を奪われそうになるも、フェンリスの頭を撫でると不思議なことに心がすとんと落ち着いた。
そして私は、先ほどより彼を撫でる手がスムーズに動いていることに気がついた。目が覚めたら時には身じろぐのも精一杯だったのに、こうして彼に手を伸ばして、好き勝手に撫でている。
心なしか、体も少し軽い気がする。
目の前で手のひらを開いたり閉じたりして体の感覚を確かめていると、フェンリスが、
「痛みが少しずつ和らいでいるのが分かるか?」
と言った。
「うん……なんだかだんだん、楽になってる…。声も、出やすくなった」
「そうか……」
私の喜びに反して、だんだんと項垂れていくフェンリス。なぜだろう。
もしかすると、私の痛みや苦痛を吸い取って彼の身に移しでもしているのだろうか。
神様ならありえるかもしれない。そういう力もあるのかもしれない。
もしそうなら、早く辞めさせなければ。
「フェン…「すまないっ…!」」
私が彼の名を呼ぶのより早く、苦しそうな声で謝罪を述べた。
そして、もっと苦しそうな声で続けた。
「あの塔から連れ出した時、アマネは既に息絶える寸前だった。外傷のみならず栄養失調もあり、肺もやられていた」
「息、絶える……でも、今、ぜんぜん」
体は辛いが、問題なく動いたり声を発したりできている。彼が助けてくれたのだろう。私は自分の無事と感謝を彼に訴えた。しかしフェンリスを取り巻く空気はずしりと重くなるばかりだった。
そして私がなぜ一命を取り留めたのか、その理由を説明し始めた。
「……神域には、生物の回復力を高める"気"が流れている。この気に晒されれば身体の治癒力が増幅する。俺はお前を生かすために、神域に連れ込んでしまった。今、この場所がそうだ」
耐えられないほど痛かった腕も脚も喉も、和らいでいる。"神域"がこんなに生活感溢れてて庶民的なところだとは予想外だけど、心が温まる神秘的な雰囲気はやけに居心地が良かった。
そっか、だからだんだん楽になったんだ。
でも神域にいるってことは……。
「私は、消えちゃうんだね」
だから悲しそうな顔をしてくれていたんだね。
「でも、もういいんだ。塔の中にいる時からね、もう生贄でいいかなって、思ってたの。死んでも、消えても、もうあの塔に戻らなくていいなら、なんでもいい。最後に、幸せな思い出をありがとう……私は、このまま消えても…」
「その逆だ」
「……逆?」
彼の言葉の意味がわからない。
私の反芻に、フェンリスはさらに自責を滲ませながら続けた。
「私はお前に選択肢を与えることをしなかった。アマネ、お前は消えない。死なない。いや……死ねないんだ」
「それは、どういう……」
薪のパチパチ爆ぜる音が、耳元でやけに大きく響いた。
「アマネを神域に連れて来たのは昨日の、ちょうど今と同じ刻。息絶える寸前だったお前は神域の気で回復し一命を取り留めた。が、蓄積された損傷が大きく中々目を覚まさなかった。このまま何もしなければ消えてしまう。だから俺は、お前に俺の血を飲ませた」
「血?」
「神が血を分け与えた者は"半神"となる。神と同じく永遠に生きる。果てしない生命を俺はお前の承諾も得ず、気持ちも確認せずに勝手に与えた。……消えて欲しく、なかったんだ」
フェンリスの方が消えてしまいそうなくらい、弱々しい声だった。
「半神、」
なんとかして状況を飲み込みたい私は脳みそをフルに回転させて彼の言葉を咀嚼するが、回復しているとはいえ疲労の残る心身では追いつかず、一気に襲ってきた眠気に抗えなかった。
再び雲のように柔らかい意識の中へと落ちていった。
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