ある時計台の運命

丑三とき

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王都〜第二章〜

幸せ者

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——チャポン、チャポン

ゆらゆら揺らめく湯気を目で追う。

「ごくらく、ごくらく……」

「ああ、実に "ゴクラク" だ」

「ふふ、ジルさん僕のマネした」

「確か、嫌なことを忘れて心身の安らぐ喜びを表現している言葉だったな」

「さすが。よく覚えていますね」

「アキオの世界の風習は、実に興味深いものばかりなのでな」

「それは、うれしい限りです」


おそらく普通に会話はできていると思う。けど内心はもちろんそれどころじゃなかった。
隣の大きな体が少し動くだけでもお湯が揺れる。そんな何でもない些細な光景さえ扇情的に映ってしまう。

思いが通じた愛しい人とお互い一糸纏わぬ姿で狭い空間にいるってよくよく考えたらとんでもない状況じゃない? ジルさんとは何度も一緒にお風呂に入ってるはずだけど、彼の気持ちを知れた今、僕の中にそわそわと緊張が顔を覗かせた。
なにこれ、なんだろうこの緊張。
どうしてこんなに動揺してるんだろう。

自分に降り注ぐ未知の感情に戸惑うけれどこの感覚は愛おしくもある。


「アキオ、そんな風に浸かるとのぼせてしまうぞ」


———ぶくぶくぶく

「ぶ?」

自分の気持ちを模索しているうちに体は口の辺りまで湯に沈み、目の前にはぶくぶくと泡が浮かんでは消える。
自分の顔が暑さでほてっているのがよくわかる。ジルさんの呼びかけに返事をすると、彼もまた頬を赤くしながら顔を背けた。

なんだなんだ。ジルさんだってのぼせてるじゃないか。

2人仲良くのぼせたところでジルさんがそろそろ上がろうと言ってきたので、よしきたと提案に乗った。こんな空間、心臓がもたない。


髪を乾かして歯を磨いて寝る準備を整えている間、ジルさんはなんだか悩んでいるふうな顔をしていた。
傷が痛いのだろうか。でもお腹の傷は綺麗さっぱり無くなってたし……

だめだ。自分のことで精一杯で頭がまわらない。


思いが通じて2回目の夜。
布団の中でのポジショニングは?
寝るまでの会話にはどんな話題が適切?
今日の感謝を伝えきるにはどんな言葉でも足りない。
手を繋いで寝ても良いかな?でもそしたら懐中時計はベッド脇の台に置いて寝なきゃダメかも。

まわらない頭にとってあまりにも考えることが多すぎる。

ベッドに座ってぐちゃぐちゃの思考回路をまとめようと踏ん張っていると、肩に温もりが触れた。

「アキオ、湯冷めしてしまう。布団に入りなさい」

「そ、うですね……」

ジルさんに促されて布団を被る。隣に横になるジルさんの重みでベッドが軋む。
ついに今日が終わってしまう。この日を終えてしまうのが惜しい。いつまでも起きてお話をしていたいけど、ジルさん明日はお仕事らしい。

「ジルさん」

「どうした?」

「っ、えっと」

無意識のうちに愛しい人の名前を呼んでいた。
自分から呼びかけたにもかかわらず不意打ちに返事が返ってきたことに戸惑っていると、大きな手が僕の指先に触れた。
薄暗い中でようやく彼の視線を捉えれば、まだ何かを考え込んでいるような瞳がそこにはあった。

「アキオ、先ほどから考えていたのだが」

「なんでしょう……」

指先にピリリと緊張が走る。
何を言われるのか皆目見当もつかないが、ジルさんの表情の機微が読み取れるようになった自分には賞賛を送りたい気持ちだ。

心を落ち着けて、彼の言葉に耳をすませる。


「君は先ほど幸せだとそう言ったが、やはり私の感じる幸福に適う者はいないと思う」


………


「ふふっ」


あまりにも真剣な顔で何を言い出すかと思えば、そんなことで頭を悩ませていたなんて。どうしよう、ジルさん可愛すぎる。

「何か変なことを言っただろうか」

ニヤニヤが顔に出ていたのか、ジルさんが訝しげに聞いてくる。

「はい。言いました」

「そうか……すまない。今後のためにどこがどのように変だったかを教えてはくれないだろうか」

「んー。だめです」

「なぜだ」

ジルさんは意外といった声色で不思議そうに聞く。

「ジルさんのそういう変なところも、とても好きだからです」

「っ、……やはり私は世界一の幸せ者らしい」

愛おしいつぶやきから漏れる吐息が近づいてくる。暗いなら、顔が赤いのもばれないよね?

僕は一世一代の勇気を振り絞って、自分から少しだけ顔を近づけた。こんな小さな小さなことでも心が疼く。まるで、僕の心臓の動きから呼吸の回数、脈の打ち方まで全てがジルさんに決められているみたい。

愛しい気配はどんどん近くなってゆく。


だ……
だめだ、これがキャパオーバーというやつか。

やっぱりむりむりむり、と慌てて身を引こうとすると、大きな手のひらが後頭部を撫でた。その優しくも力強い指遣いに身動きが取れなくなる。逃げ場を失った僕の唇には柔らかい感触があたり、体の中心から溶け出してしまいそうなほどの火照りが生まれる。

この火照りを知ってか知らずか、後頭部を支える手とは逆の手で彼は僕の腰を引き寄せた。

これは………あまりにも密着しすぎていやしないか?  すごい。ジルさんとこんなに近い。自分の体中全部がドクドクと脈打っている気がする。なんだこれ、変な気分だ。

無理。無理無理緊張が止まらない。
気持ちを落ち着けようにも、この気持ちの正体がわからないから落ち着けようもないのだ。
どきどきがおさまってくれない。どうしよう。

「アキオ」

「っはい」

突然の呼びかけは心臓に悪い。それもとっても近いところから声がする。なんとか口から出そうになる心臓を飲み込んで、1ミリも聞き逃すまいと彼から出る響きに心を澄ませる。

「私はこれまで、隊員の皆に支えられてきた。彼らの笑顔や奮闘が、私の軍人としての原動力だった」

「はい」

「しかし今、私はただ一人の私として、君に支えられ、君によって生かされているとまで感じる」

「そんな……」

「私が生まれてきたのはきっとアキオに出会うためだった。君のことを必ず幸せにすると誓う」

宝物みたいに優しくて熱い時間が流れた。ジルさんが、僕と全く同じことを考えていることに驚いた。それがたまらなく嬉しくて、胸が苦しくて、まばたきをするのも忘れて彼の鋭い目に釘付けになっていた。

「僕も、ジルさんのこともっともっと幸せにします」

僕なんかがジルさんを幸せにできるだろうか、なんて懸念は今は無い。いや、正確にいうと無い訳ではないんだけど、そんな不安を気に留めていられないくらい溢れる気持ちを伝えたくてしょうがなかった。

僕も大好きな人を守ってみせる。
頼りない意気込みに、その大好きな人は「やはりアキオは心強いな」と言って笑った。
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