ある時計台の運命

丑三とき

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旅路

浴室に響く記憶◉sideJILL

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風呂から上がってアキオに声をかけると、彼は返事を寄越しながら慌てて何かを背後に隠した。

単独で放置するのはなるべく避けたいので、昨日は私の入浴中イガとメテの部屋に連れて行った。しかしアキオも1人の時間は欲しいだろう。今日は特に何も言い付けず、彼の優しさに甘えて一番風呂を貰った。
アキオを見守らせていた精霊曰く特に異常はないという事だったが、先程のあの様子・・・何か思い悩んでいる事があるのだろうか。

アキオは異世界からの来訪を打ち明けてくれたが、それ以外にも何かを抱え込んでいるような気がしてならない。
昨夜も苦しそうに魘されていた。
朝になるとやはりいつものアキオに戻っている。しかし覚えていないとはいえ精神的負担が大きいことに変わりはないだろう。
早いうちにじっくり話をする時間を取ろうと思う。


ひとまず風呂に送り出し、部屋に響くシャワーの音に耳を澄ませながら荷物を纏める。

王都に持ち帰る土産物も日に日に増えていった。
アキオは中々要望を口にしないので、彼の気に入っていそうなものを片っ端から買おうとすると「そんなに要りません」と遠慮される。
アキオの望みは何でも叶えてやりたいが、彼の心を読み取るのは中々に難しい。それでも最初の頃より生き生きとしてきた瞳に、何にも変え難い幸福を感じる。


浴室からは、未だに一定の流水音が響いている。
たとえ精霊でも誰かに風呂を覗かれるというのは気分が良くないだろうと思い、見張りは付けなかった。
洗うのに苦戦しているのだろうか。足の調子も良くなっているとはいえ、ただ歩くのと足場の悪い風呂に入るのとでは勝手が違うだろう。
しかし・・・この、人が動く気配すら感じさせない音の響き方。

考えるよりも前に、本能が私の体を動かした。

脇目も振らず駆け込んだ浴室には、椅子から崩れ落ちたようにその場にへたり込み、抱えた頭をシャワーに打たれているアキオが居た。

「アキオ!」
水を止め肩に触れると、氷のように冷たくなった青白い肌がビクッと跳ねる。
「いやだっ・・・!」
無意識下で拒絶を示す様子に、自分の身体からザッと血の気が引いていくのが分かる。
「アキオ、どうした!」
両肩を掴んで呼びかけるも、頭を振って嫌だやめてと繰り返すばかりでまるで私の存在など認識していない。
「私が分かるか!?」
全身をタオルで包む。
いきなり温めては温度変化に体が適応できず、血圧が急激に低下する恐れがある。少しずつ熱を与えるように摩りながら目を合わせようと覗き込むが、焦点の合わないその瞳は、私ではない何か別の物を映し恐怖に揺れているようだ。

「しっかりしろ!」

「嫌・・・さわらない・・で・・・」

これまでも何度かフラッシュバックを起こしている様子はあったが、こんなにも辛そうなアキオは見たことが無い。
寒さからか、恐怖からか、小さな身体はガタガタと小刻みに震えている。

「こっちを見なさい!アキオ!!」

「・・・ッ!!」

体を揺すり肩を叩き何度も呼びかけ続けると、ヒュッ!と息を呑む音がかすかに聞こえた。奥深くまで闇の色が広がっていた目は、少しずつ焦点が合ってゆく。
「アキオ?」
「ジル・・・さん・・・」
浴室に消え入りそうな声が響いた。

「もう大丈夫だ」

青ざめてわなわなと震える体を思い切り抱きしめる。

自分が数分の間冷静さを欠いていたことに気が付き平常を保とうと努めるも、次の瞬間、再び血の気の引く感覚が全身を襲う。

「ジルさんっ・・はぁっ・・・僕・・」

アキオの様子がおかしい。
それまで恐怖に怯えていた表情を強張らせ、荒い呼吸を繰り返し始めた。
「ごめっなさ・・はっ、ひっ、はぁ」
おそらく過呼吸を起こしている。
よほど気持ちが張り詰めていたのだろう。華奢な肩を上下に揺らし、深く早い呼吸に体を支配され苦しむ姿に胸が張り裂けそうになる。
なぜ彼がこんなに苦しまないといけないのだろうか。知らないうちにどことも分からない異世界へ連れて来られ、見ず知らずの他人に自由を奪われ、心身を痛めつけられ。
いつになったら彼は解放される?私はどうすれば彼を救える?

どこにも向けようの無い怒りを抑え込み、平静を取り戻す。

「アキオ。ゆっくりと息をしろ」
「ご、ごめっ、なさぃっ・・・ヒュッ、はぁっ、僕っ」
肩を叩いて落ち着かせようと試みるも、謝るばかりで余計に呼吸は荒くなっていく。
「アキオ、謝る必要は無い。もう大丈夫だ。私に合わせて呼吸出来るか?」
こく、こく、と頷くアキオに顔を近づけ、自分の呼吸音を聞かせる。
「ゆっくり。そう、上手だ」
すぅー、はぁー、と小さな口から細く吐き出される息が頬を掠めるたびアキオの儚い精気を肌に感じ、私にも少しずつ血の気が戻って来る。
「もう少し、ゆっくり、できるか?」
懸命に頷く頭を撫で、濡れた髪を僅かに解かす。
「そう、そのまま、ゆっくり吐くんだ」
「はあーー、ふぅ・・・」
全身の水滴を拭いつつ、落ち着いたところを見計らいベッドに連れて行き、タオルごと毛布で包んで寝かせる。
一定のリズムで胸を叩きながら呼吸を模倣させ続けると、少しずつ普段通りの息遣いに落ち着いてきた。


「苦しかったな。もう大丈夫だ」

「ジルさん・・・」

アキオはもぞもぞと身動きをし、毛布の中からやっと出した細い腕をゆっくりこちらに伸ばす。

なるべく気道に障らないようやわらかく抱きしめると、縋るように精一杯の力を込めしがみついてきた。まるで何かから逃げる様に。

「大丈夫。ここに居る」

「ジルさん、行かないで」

「ああ。どこにも行かない」

ようやく洩れる弱々しい響きは、確かに私の耳に届いた。
この消え入りそうな声も、繊細な腕も、柔らかい肌も、何もかもが私を昂らせる。アキオの僅かな動きや言葉ひとつひとつに自分の感情が左右される。

私は、彼を手放したく無いなどと考えている。

元の世界に帰りたいと望んでいるかも知れない。今はまだ先のことなど考えられず、現状に困惑しているかも知れない。そんな彼の気持ちを考慮すれば私の感情など我欲の塊に過ぎないだろう。
ただ、今だけはこの小さく愛おしい温もりを、この腕の中に閉じ込めておきたい。
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