ある時計台の運命

丑三とき

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旅路

よく分からない感情

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頭の中に当時の情景がぐるぐると渦巻き、ジルさんの声が遠ざかる。

新聞記者を始めて、知らないことは調べる癖が身についた。切り裂きジャックもビッグ・ベンも名前は聞いたことあったけど、そこまで詳しいことは知らなかった。

ビッグ・ベンは、ロンドンの時計台『エリザベスタワー』に付いている鐘のことを指すけれど、一般的には時計台の総称として使われている。時計台としてビッグ・ベンが完成したのが1859年。163年前。当時としては世界で最も正確な時計だったという。

ビッグ・ベンから約5キロ東に位置するホワイトチャペル地区で、1888年の8月から11月に起きた5件の殺人が切り裂きジャックによるものだとされている。被害者はいずれも売春婦、というのが当時から現在に渡って広く通用している説だ。1888年。134年前。


「・・・その時計台は、当時は世界一正確な時計で、今でも世界一有名な時計台です。その時計台のある町で起きたその事件は、134年経った今でもまだ未解決事件として世界中で様々な犯人像が議論されています。世の中のことに興味がない僕もその名前は知っていたくらい。その作品を題材に数多くの創作物も作られ続けています」

「ということは、やはり」

「分かりません。分かりませんが・・・僕の世界で起きた出来事と酷似しています。年代も、恐らくこちらとほぼ同時期です。この世界で流れる時間は、多分僕の世界と同じです。時計の形も同じだったから、最初はちょっとびっくりしたんです」

遠い国で起きた遥か昔の事件の被害者たちに対して、心が痛むかと言われると正直微妙だ。しかし、一人一人が全く違う人間で全く違う世界を持っているのに『売春婦』と一括りにされ、被害者にもかかわらず死んでもなお誹謗中傷が続いていたと知った時は、一瞬惨むごいと思った。一瞬でもそう思った自分が怖かった。
この世界に来るまで、僕も同じような事をして人を傷つけていたのに。
あのまま仕事を続けていたら、もっと多くの人の心を殺していたかもしれない。


ヒタ、と左頬が冷たいものに包まれる。

見上げるとジルさんが僕の頬に手を添えながらじっとこちらを見ていた。僕のような人間が彼の優しい眼差しを受ける権利なんかあるはずないのに、ここから離れたくないと思ってしまう。この人を独り占めしたい気持ちがどんどん強くなっていってしまう。

「アキオ、すまない。楽しくない話をしてしまった」

「そんな、僕の方こそ・・・」

添えられた手を取り、自分の両手で包む。この手を今はここから逃したくない。僕の独占欲はこんなに強かったっけ?でも、少しでも触れていないと心細くて仕方がない。ジルさんに触れている時だけは、自分がここに存在していると実感することができるから。

「もし繋がった時計台が僕の世界ものだったとして、僕がそこから召喚された可能性はありますか?」

真実を知るのは怖い。もしかしたら元の世界へ帰らなければいけなくなるかもしれないし、この世界に居るとしてもジルさんともう二度と会えなくなるかもしれない。
でも本当の事が知りたい。じゃないと一生ジルさんから巣立てない気がする。このまま依存し続けて困らせてしまうのはもっと嫌だ。真実を知って気持ちの整理をつけて、一刻も早く自立しなければいけない。


「此方の世界から繋がることができるのは、原則一つの世界につき一つの時計台のみだ。アキオはその時計台の付近に居たのか?」

「・・・多分、9000キロ以上は離れています。国も違うし、大陸も違います」

「そうか。こちらの世界が干渉できるのは、その時計台を中心に10キロ程度までと言われている。アキオの居た場所までは到底力が及ばないだろう」


じゃあ、どうして僕はここに居るんだろう。
簡単には真実に辿り着けない。大きな迷路に放り込まれたみたい。

「すまない。安心させてやりたいのだが、私もまだ知らないことの方が多い。それに私の独断で話せることも限られている。これ以上は王に見解を伺わねばならない。
しかしこれだけは信じてくれ。私は何があってもアキオを守る」

血が沸騰して顔じゅうに広がっていくようだ。分からない。この感情が何なのか僕自身が教えてくれない。
見えるはずのない感情ばかり心の中で追っている滑稽な僕を、ジルさんはもう一度抱きしめた。どうしよう、どうしよう。ずっとこのままで居たいと思ってしまう。


「こんなこと、僕に話して良かったんですか。国の大事な情報でしょう?」

「すべての国民は本来国の全てを知る権利がある。私は、国民が当たり前に情報を得られる国にしたいと思っている。実現はなかなか難しいが。
・・・しかし、私も軍隊生活で用心深くなってしまっていてな。精霊にこの周りを取り巻いてもらい、内部の音が外に漏れるのを防いでもらった。アキオの話も私以外は聞いていないから安心してくれ」

え、ここ精霊いるの。見てみたい・・・って、そうじゃなくて。

「そうじゃなくて、僕が知ってしまって良かったんですか?だって、部外者というか・・・」

抱きしめられた腕の力がより一層強くなった。

「そんな事を言わないでくれ。アキオ、この国は、この世界は君を傷つけ、苦しめ、悲しませてしまった。もう二度と傷つけない。私がそうさせない。約束しよう」

ためらいながらも背中に手を回す。
一瞬戸惑ったように力が緩んだ後再び強大な圧力に押し潰されて、思わずカエルのような声が出そうになるのを何とか抑えた。


「色々なことがあって疲れただろう。王都まで時間はまだある。諸々の話はいずれしよう。今日はゆっくり眠りなさい」

「はい」

そうだった。もう寝ようという時に僕がこんな事を言い出してしまったんだった。しかも明日は朝市でモーニングだから割と早めに出発しないといけないのに。
しかも年代とか歴史とか、頭を使う話題がたくさん出てきたので余計眠たくなってしまった。

しかし、今は精神状態的にちょっと。

「ジルさん、非常に厚かましいことを言ってもいいですか?」


「何でも言ってくれ」


腕から抜け出し、一度唾を飲んで喉を潤して覚悟を決める。



「あの、一緒のベッドで寝てもいいですか?」


全て打ち明けたことにより、これまで目を向けてこなかった不安感が剥き出しになり、突然心細さが襲ってきた。
なんか、一人で眠れる気がしない。一人部屋じゃなくて本当に良かった。
なぜ自分がこんなに繊細になっちゃったのかは分からない。何もないアパートで一人で寝ていた頃が嘘みたいだ。

「もちろんだ」

ジルさんは頷いてくれるが、その表情がかたいのは気のせいだろうか?
やっぱり一人でゆっくり寝たかったかな?「やっぱり大丈夫です」と言おうとしたが、あっという間に抱え上げられてベッドの壁際に寝かされ、隣にジルさんが入ってきた。
もう、いいや。心細いを言い訳にしてこの人の温もりを存分に吸い取ってやろう。
この旅はあと数日で終わってしまうのだから。


隣からわずかに伝わる振動に安心感を覚えつつ、もうそろそろで意識が落ちるという時に先程のジルさんの言葉が頭の中によみがえってきた。

彼の言葉はどれも嬉しかったが、一つだけ訂正しておかなければならない事を思い出し意識が急浮上したのだ。

「・・・ジルさん、起きていますか?」

万が一寝ていた時のために小さな小さな声で囁いてみたが

「ああ、起きている。どうした、眠れないのか?」

と即座に返事が返ってくる。

「いいえ、そうじゃなくて。あの、先程『この世界は君を傷つけた』って言いましたよね?」


「その通りだ。異世界からやってきて何もわからないアキオが、攫われ、捕らわれ、2ヶ月もの間苦しめられた。私も、隣の部屋の君の存在に気づいていたにも関わらず結果的に救出が遅れた。私だって君を苦しめた人間のうちの1人にすぎない」

「それは違います!」

思わず大きな声が出てしまい、慌ててボリュームを落とす。

「最初に言ったように、僕は幸せなんです。ジルさんが助けてくれたから。この世界の人たちも・・・あ、まだイガさんとメテさんと昨日の男の人くらいしか話したことはないけれど、皆さん良い人です。
僕は傷ついていません。だからそんな事言わないでください」

悲しげに話す彼の方を向くと、暗くてもわかるほどに目を開き驚愕を滲ませていた。そんなに変なことを言っただろうか。

「アキオ・・・君は本当に」

「へ?」

腕がこちらに伸ばされて、大きな手の平がまた頬を包む。

「ありがとう」


・・・ほっぺが熱い。ジルさんの手は割と冷たいのに、僕の頬はとてつもなく熱くなっている。

何だこれ、自分で言ったのに何だか恥ずかしい。さっきまで独占したいとか逃したくないとか言っていた自分までよみがえってきて余計恥ずかしくなってしまう。

さっきから情緒がなかなか安定してくれない。掴みきれない未知の感情に辟易するも、嫌な気分は全くないんだ。

もう、寝てしまおう。

「お、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

手から逃れるように逆方向を向く。
ジルさんの呼吸や身じろぐ振動を背中に感じるたび幸福が蓄積する。抱きしめられていないのに抱きしめられているように全身が温かい。もしかしたら空気の精霊がいたずらをしているのかもしれない。

穏やかな高揚感に包まれ、意識を手放した。
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