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後編
11話 相棒のために
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「うわぁぁぁ…っ!」
意識を取り戻す度に叫び声がしていた。喉を痛めるように声を出すものだから、掠れ声になってしまっている。
秋も香月も満の応急処置が早かったため大事に至らず、もうベッドから起き上がって動けるようになっていた。
未だ悪夢にうなされる雫になにかできるでもなく、そっと見守っている。
「雫。僕の声、わかる?」
満が声をかけるが反応は変わらない。ただ叫び続けている。
「来ないでくれる?君たち二人は雫を刺激しかねないから」
満は冷たい声でぴしゃりと告げた。
「僕たちが無事だと知らせる方が落ち着くのではありませんか?おそらく雫の中で僕たちが死んだことになっていて、悪夢にうなされているのだと思います」
「一理ある。暴れる雫を止められる?」
「ふたりがかりなら大丈夫です」
「なら任せるよ。僕はマスコミ対策をする。ニュースになっていたからこの失敗は酷く叩かれるだろうからね」
満は覚悟はしておいたほうがいいと、薬を渡し部屋に戻っていく。
「次に雫が起きたら声をかけよう」
「俺たちは生きてるから悲しまないでと伝えなきゃ」
祈るように二人は雫が目覚めるのを待ち続けていた。
☆
「ーーというわけなんだけど、情報規制はできる?」
『全ては難しいですね。何かしらの餌を与えないとマスコミは納得しないでしょう』
「思ったより権力ないんだね、レイラ」
『あなたたちの影響力がすごすぎるんですよ、満』
「じゃあ、矛先を変えることは?僕はマスコミに何を言われても平気だけど雫はそうじゃない」
『それこそ難しいでしょうね。雫がずっとメインでやってきたのを、今更満メインにするのはかえってマスコミを刺激しますね』
「雫が叩かれるのを見るしかないのか……」
『……残念ながら、支えてあげることしかできないかと』
残念そうに言うレイラに満は唇を噛む。
通話中に研究所のインターホンが鳴る。誰かと思い画面を見てみたらまだ若い少年が立っていた。
『お客さんなら電話を切りますが』
「えらく若いお客さんだ。どこかで見たことあるような…?」
『どんな感じの子です?』
「薄い色の髪をした綺麗な女の子だよ」
『あぁ、結羽ですね。神代結羽。名前を聞いたことはありませんか?』
「あー、雫がすごい天才がいるって騒いでた子か」
『彼女の知恵を借りてみては?』
「人見知りの僕にはキツイね。まだ秋と香月とも普通に話せないのに。ま、とりあえず出るだけ出てみるよ。またね、レイラ」
満はそう電話を切って、直接玄関へと向かう。
「君が神代結羽?」
「はい。そうです」
「とりあえず目立つから中に入って。何の用かはそれから聞くから」
躊躇う結羽の手を取り、満は強引に研究所に入れた。
「雫さんに招待してもらって私は来たんです」
「雫が?」
「はい。前からずっと雫さんに憧れてて、たまたまお会いする機会があって、見においでよと声をかけてもらったんです」
「ふぅん。生憎だけど雫は面会謝絶だよ」
「それはなぜですか?」
「言葉のままだよ。会える状態じゃないんだ」
「何かあったんですね?日狩さんの手に負えないほどのことが」
ずいと結羽は満と距離を詰める。
「力にならせてください」
「言っておくけど無能は要らないから」
「わかっています。お二人には敵わないですが、無能ではないつもりです」
嫌味ではない自信に満ちた顔で結羽は告げる。
「自分の名を汚す覚悟があるなら着いてこい」
歩いていく満の背を結羽は追いかけた。
☆
「雫が試した薬はあるか?」
突然現れた満と見知らぬ少女に秋と香月が驚く。これですと香月が差し出したものを満は受け取り、部屋を後にする。
「雫はこれを打って症状が出た。今はそれがトラウマになって、起きたら暴れるから鎮静剤を打っている」
「これは何の薬です?」
「さぁね。僕が今からこの薬を打つから、治療薬を作って。ここの設備は何を使っても構わない」
さすがに驚く結羽に満は不敵に笑う。
そして。
“実験”がはじまった。
失敗は許されない。
☆
「雫を助けるにしても、雫のことも香月の過去のことも何も知らないんだよなぁ」
一人となった真澄はうーんとひとりで唸っていた。
過去を知らないと先に進めない気がしていた。
情報のスペシャリストに依頼するしかない、か。
他人を巻き込むのは本意ではないが仕方ない。
真澄は友人の元に向かう。
彼が引き受けてくれることを祈りながらーー。
なんでもするって決めたんだ。
☆
「はじめまして。渡香月です」
目の前に手が差し伸べられた。
顔をあげるとそこにいたのは痩せた、見るからに力の無さそうな男だった。
「レイラ。俺、相棒要らないんだけど。人にあわせるのめんどくせーし。しかもさ、どう見ても細くて弱そうじゃんか」
「うちはどっちかと言うと頭脳労働ですよ、真澄」
レイラはそう苦笑する。
「それに彼は弱くない。試してみても良いですよ」
「加減しねーぞ?」
「大丈夫ですよ」
「ホント、しらねーかんな!」
自信満々の真澄はあっという間に香月に転がされ、ぽかんとしていた。
「すげー!強えー!今のどうやんの!?」
キラキラとした目で真澄は香月を見る。
「真澄。先に謝罪をしなさい。あなたは彼を要らないって言ったんですから」
「ごめんなさい。俺が悪かったです」
「香月、言いたいことを言って構いませんよ?」
「いえ、大丈夫です」
無表情に香月が答える。
「もったいねーせっかく綺麗な顔してるのに笑わねーなんて」
屈託なく笑う真澄に香月が顔を背ける。
「仕事に笑顔は関係ありません」
「そんなことねーよ。笑ってるほうが幸せになれる。俺たちの仕事はそういう仕事だろ?」
「少しずつでいいんです。あんなことがあったのだから笑えなくて当然です。私も笑顔でいてくれるほうが嬉しいし、秋も君がそのままなら心配してしまいますよ。真澄はまっすぐな良い子です。だからこそ、相棒にと思ったんです」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします!」
こうして香月と真澄は相棒となり、真澄の純粋さに香月の心の傷は癒されていった。
「久しぶり、香澄」
「……会いたくない奴が来た」
秒速でドアを閉めようとするのを真澄は阻む。
残念ながら二人の体格差は明確で、香澄の力では真澄には及ばなかった。
「また面倒事だろ?」
「ま、そうだけどさ、香澄は普通に遊びに来ただけでも拒否するじゃん」
ズバリと痛い所をつかれて、香澄は黙り込む。
「部屋ばかりにいるんじゃなくて、たまには外にでねーと」
「他人がいる空間が気持ち悪いんだよ。笑ってる裏で何を考えてるかわからないからな」
「難しく考えすぎじゃねー?」
「お前みたいに裏がない奴のほうが珍しいんだよ」
香澄はそこまで言って、真澄の様子が普段と違うことに気づく。
「真澄。相棒はどうした?」
「俺が殺した。もういないよ」
「お前が人を?何の冗談だよ?」
「冗談なんかじゃねー。何が起こったかわかんねーうちに殺してたんだ」
「……大丈夫なのかよ、お前」
「大丈夫じゃない。けど、香月に頼まれたことがあるから、それをしなくちゃならないんだ」
「……中、入れよ。何を調べればいい?」
結局のところ、香澄は真澄に甘い。
文句を言いながらもいつも協力している。
「ある人物の過去を調べてほしい」
「名前は?」
「雨宮雫」
「こりゃまた有名人だな」
「そんなに有名?」
「天才と騒がれていた人だ。神代結羽が現れて、話は聞かなくなったけどな。相棒の頼みってなんなんだ?」
「雫を助けて、って」
「助けて、か」
香澄はブランケットを真澄に投げつける。
「調べてやるから少し寝とけ。隈もできてるし、目も腫れてる。泣いてまともに寝てないんだろ。冷蔵庫に作りおきのおかずがあるから食べとけ」
「……あんがと、香澄」
「礼は要らねーよ」
「巻き込んでごめん」
「お前のことだから、相棒のために全て捨ててきたんだろ」
「……なんでわかんの?」
「長い付き合いだからな。嫌でもわかる。いいから食べて寝ろ。俺は味方でいてやるから」
その言葉に真澄は嬉しそうに笑った。
☆
身体が、血が暑い。
抑えがたい衝動が身体を、精神を支配する。
殺したい。
壊したい。
殺人衝動だ。
そうか。
これで雫は秋と香月を襲ったのか。
理性が犯されていく。
「手荒にしますからね」
結羽の手が首に伸び、満の意識を奪った。
ベッドに満を寝かせ、暴れないように固定していく。
採血をし、打った薬とあわせて調べていく。
「……なるほど。人体に入ると変異するのか」
既存の抗生物質をそのウイルスに投与してみるが効果はない。
一度頭を冷やす必要がある。
おそらく既存のアプローチでは解決できない。
そんな簡単なもので彼らがつまづくはずはない。
結羽は思考を切り替えるために瞳を閉じた。
☆
「うわ、この人どうなってんだよ。こりゃ一筋縄じゃいけねーな。そもそも相棒もすごいスペックじゃねーか」
香澄は思わず呻いていた。真澄もすごいのだが相手が悪すぎる。
「あー、手伝えってことか。そういうことか、あいつは」
はぁと香澄はため息をつき、頭をがしがしと掻く。
パソコン画面には満の顔写真が表示されていた。そこには“死亡”という文字が記されていた。
☆
目をあけると白い天井が広がっていた。
意識が途切れるまで身体を苛んでいた殺人衝動は綺麗に消えていた。
「気分はどうですか?」
「悪くないよ。ウィルスは死滅したの?」
「死滅しました」
「どんな手を使ったの?」
「あの子の血を使いました。あれはあの子の血から作られたものでしょう?」
「……よくわかったね」
「まぁ、あなたが作った抗体の精度には劣りますが」
「合格だよ。じゃあ今からひとつ仕事をしてもらうよ」
「仕事…?」
「雫の記憶を消す。今のままじゃ雫は壊れてしまうから。辛い記憶は僕だけが持っていれば良いんだよ」
「恨まれませんか?」
「苦しむ姿を見るより恨まれるほうがずっと良いよ」
優しく笑う満に結羽も微笑んだ。
「香月、脳医学には詳しいかい?」
「それなりには」
「じゃあ、神代の補助にまわれ。今から雫の記憶を消す」
☆
「なかなかにえげつない攻撃をしますね」
「そうでもしないと勝てない相手だからね」
血液は人それぞれ違うウイルス等を持っていて、医療廃棄物として扱われる。血はある意味毒だ。
「焦りが見えますね。雫の記憶が戻りそうなんですか?」
「全く、どこまで知ってるんだか」
「それはお互い様でしょう?」
血はレイラを濡らしている。
「早く帰りなよ。僕の血には未知のウイルスがいっぱいだ」
「私も死ぬわけにはいかないですしね」
あっさりと戦闘が終わる。
「予言しておきましょう。雫はあなたの元を去ります。香月の残した希望が彼女を助けるんです」
「僕だけ悪者?僕はただ雫といたいだけなのに」
「一緒にいたいなら彼女を暗闇に閉じ込めるのはお止めなさい。光に出るなら彼女も満足するでしょう」
「光、光ってホントに虫みたいだね。気持ち悪い」
ふたりはそう言い離れていく。
「光にも闇にも居場所がない僕はどうすればいいんだろうね」
満は小さくそう呟いた。
満、香月、結羽の手によって雫の記憶は封じられた。正しくは改変したというべきかもしれない。
失敗したという事実は変えられない。
ならば何かを変わりに公表しなければならない。
Murder Impulse Promotion Virus
直訳すれば殺人衝動促進ウイルス。
新しいウイルスを発見したと発表された。どんな症状が起こるのかは伏せられたままだった。
新薬発表と期待されていた分、世間の反応は厳しかった。記憶を封じても、弱っていた雫は少しずつ病み、研究も手につかなくなっていた。
「雫さん。こっちできました」
新しい助手(本人曰く弟子)の結羽は知識をつけ、功績をあげていった。
雫はもう終わりだと世間では言われていた。
秋と香月は変わらずにいたが、雫はぼんやりとしていることが多かった。
決定打は雑誌の雫と結羽の対談だっただろうか。
結羽贔屓で、雫のことは悪く書かれていた。
「あたしははもう要らない人間だから、消えます」
そう書き置きを残し、雫は姿を消した。
あてもなくふらふらと夜の街をさ迷った。
楽しそうに笑う声がやたら耳に響く。
街は夜でも賑やかで、どこか静かな場所に行きたいと雫はふらりとタクシーに乗った。
「どちらまで行かれますか?」
「静かなところまで」
雫の言葉に運転手は困ったように笑っている。
「山に登って夜景を見るか、海に行って波の音でも聞きますか?」
思わぬ言葉に雫がえ?と返す。
「あなたは有名人ですから。最近、マスコミもひどいものですね」
「あたしのこと知ってる……?」
「あなたの研究のおかげで私の子どもが助かりましたから」
思わぬ言葉にぼろぼろと涙が零れた。
「海にしましょうか?波の音は心を落ち着かせるともいいますし」
返事も待たずにタクシーは走り出す。車の揺れに瞼が落ちる。
心が疲れていた。
みんなが励ましてくれていたが、それも辛かった。
だから誰も自分のことを知らない場所まで逃げ出したかった。
運転手は疲れきった雫を寝かせてくれた。
まだ若いのに天才と呼ばれる人間は大変な思いをしていると思う。
天才に助けられている。
でも、その天才たちに支えはあるんだろうかと不意に疑問を抱く。
天才は孤独だとよく聞く。
雫もそうなのかと思うと胸がちくりと痛んだ。
海に着いても雫はまだ眠っていた。
仕事に戻りたかったが、安らかに眠る彼女を起こすことも憚られ乗せてあったブランケットを雫にかけて自分も仮眠をとることにした。
☆
朝になっても起きてこない雫を起こしに行き、書き置きを見つけたのは香月だった。
すぐに皆にそれを伝え、満も起こし、それぞれが雫を探している。
何か手がかりはないかと雫の私室を探したが、目に着いたのは壊されたスマホだけだった。
彼女は一体どんな気持ちでスマホを壊したのだろうか。
ぎゅっと手を握りしめて香月は私室を去った。
持っていったものを考えると雫は死ぬつもりなんじゃないかと思ってしまう。
追い詰められていたのはわかっていたことなのに、なぜ何もしなかったのかと自分を責めることしかできない。
何が親友だ。
辛い思いをしている雫を助けることもできないなんて。
お願いだから無事でいてくれと祈りながら香月は走った。
☆
眩しさにふと目が覚める。
目の前には海があって、太陽がのぼりかけていた。
「……目が覚めましたか?」
知らず知らずのうちに涙がまた溢れていた。
「綺麗な夜明けですね。綺麗な景色は嫌なことを忘れさせてくれますね。あぁ、無理矢理泣き止もうとしないでください。泣くことも大事なんですよ。泣くことでストレスが緩和されるんです」
雫はただただ涙を流す。
運転手は静かに朝の景色を眺めていた。
運転手にありがとうと伝えて、お金を払った。
マスコミの声に負けないでくださいと励まされてしまった。
朝焼けが綺麗だ。潮騒の音が優しく耳に響く。
人が少ない。
実行するなら今だなとぼんやりと考える。
薬は自分の専門だ。
死ぬ薬を作るのは容易い。
涙がぽろぽろと溢れている。
死んで姉さんに会えるかな?
姉さんは悪いことをしてないから会えないか。
自分は兄を殺した。きっと地獄に落ちるだろう。
「!?」
不意にぎゅっと抱き締められた。
その手は震えていた。
「……どうしてここがわかったの?見つからないようにスマホを壊してまできたのに」
「一晩中探したんだよ」
「探してくれなくて良かったのに。あたしはもう必要ない存在。だから消えるんだよ」
「それを飲んで?」
「そう」
「僕には雫が必要だ」
「それは姉さんが俺を大事にしてくれてたからだろ?あたしは姉さんによく似ているから身代わりなんだろ?気づいてたんだよ。あたしの中に“姉さん”を探してたってこと」
「違っ……」
「違わない。満の目はあたしを見ているようで見てなかった。誰もあたしを見ていないんだ」
「雫を涙を重ねてみたことなんて一度もないよ」
「嘘だ。あたしは何?天才?姉さんのかわり?」
「雫、マスコミは気にするな」
「ただの“雨宮雫”を見てくれる人はどこにいるんだよ!?」
腕を振りほどき、雫は走り出す。運動の苦手な満はどんどんと引き離されていく。
「好きなんだ、雫が!だから、だからいかないでくれ!大切な人を失うのはもう嫌なんだ!」
その言葉に雫の動きが止まる。
はぁはぁと肩で息をしながら満が雫に近寄っていく。
「愛してる。涙は関係ない。僕は“雨宮雫”が好きなんだ。必要なんだ。どうしても死にたいのなら、僕も一緒に死ぬよ」
頬に手が伸び、涙を拭う。
そっと触れるだけのキスをして、強く抱き締める。
「僕が君を守るよ」
甘い声がそう告げた。
自分は弱いなと思う。
昔は姉に守られ、これからは満が守ってくれる。
心が強ければこんな状態にならなかったのにと苦笑いする。
するりと手から薬が奪われる。
「これはもう要らないだろう?」
満の声にゆらゆらと瞳が揺れる。
「……今日をお前の命日にしよう。“雨宮雫”は自殺した。もうマスコミに追われるのは嫌だろう?」
こくんと頷く雫に満はふわりと笑う。
「世間に復讐してやろうよ。天才だと僕らに勝手に期待して、勝手に失望していった奴らに。僕たちにはそれだけの力があるし、権利もある」
甘い毒がじわりと弱った心に染み込んでいく。
「僕は雫以外の人間が大嫌いだ。滅ぼしてやろう。あの子の血を使って」
「あたしはそんなことのために秋を引き取ったんじゃないよ」
「多くの命を救うため、だろう?けど、その“助けたい”と思った人間たちはお前に何をした?」
まっすぐな目が雫を捉え、離さない。
「天才なんかいないんだよ。僕たちは普通の人間で、傷つくんだ」
この気持ちはきっとお互いしか理解できない。
伸びてきた腕が雫を抱き締める。
「僕は雫を傷つけない。死にたくなったら一緒に死ぬよ。だから一緒に行こう。共に生きよう」
重なる唇にぎゅっと背中に手をまわした。
「家に帰ろう、一緒に」
うんと雫は大きく頷いた。
☆
「雫!」
「雫さん!」
「雨宮さん!」
帰ってきた雫に各々が抱きついた。
涙を流し、喜んでいる。
「雫は死んだことにした。これでマスコミに追われることもないし、自由だ」
「それじゃ、雫はいない人間じゃないか!」
香月が満に食ってかかる。
「うるさい、偽善者が。表面ばかりを見て、物事の本質を見ようとしない。全てから逃げたかった雫をまた苦しめるつもりか?」
「マスコミには抗議文を出せば良い。あんたはやりすぎだ。雫が外を歩けないようにして、自由を奪ってるのはあんたじゃないか!」
「“天才”になれなかった君にはわからないだろうね。僕らの苦しみが。結羽にはわかるだろう?」
殴りかかろうとする香月を秋が止め、結羽は複雑な表情を浮かべながらも頷いていた。
「……雫はそれでいいの?」
雫は俯いて答えない。
「一緒に、人を助ける研究をするって言ったじゃないか!そのために努力をしていたじゃないか!」
「お前は何も知らないんだよ、雫のこと。だから綺麗事ばかり言える」
「あんたが雫に何か吹き込んだんだろ!?雫が、雫が逃げるなんてないんだ……雫は強くて、僕の憧れで…っ!」
「そういうのが“天才”を苦しめるんだよ」
「………いよ」
ぼそりと呟く声がする。
「あたしは…強くなんか…ないよ」
弱々しく答える雫に香月は黙りこむ。
「……辛いから…出ていって……」
ぎゅうと満の服を握りながら雫が呟く。
「……あんたの好きにはさせないから。秋、行こう。雫、また会いにくるから」
去っていく香月に雫はぽろぽろと涙を流す。
「僕もいないほうがいいですね」
「君はまた雫が落ち着いたら来てくれるかな?」
去ろうとする結羽の背に声がかけられる。
「呼んでいただけるのであれば喜んで」
そう答え、結羽は去っていった。
「雫、大丈夫だよ。もうみんな帰ったから」
とんとんと満は雫の背を優しく叩いていた。
疲れた雫は眠ってしまう。
「大丈夫だよ。君の心を揺らすものは僕が全て排除してあげる」
優しい目で満は雫を見つめていた。
意識を取り戻す度に叫び声がしていた。喉を痛めるように声を出すものだから、掠れ声になってしまっている。
秋も香月も満の応急処置が早かったため大事に至らず、もうベッドから起き上がって動けるようになっていた。
未だ悪夢にうなされる雫になにかできるでもなく、そっと見守っている。
「雫。僕の声、わかる?」
満が声をかけるが反応は変わらない。ただ叫び続けている。
「来ないでくれる?君たち二人は雫を刺激しかねないから」
満は冷たい声でぴしゃりと告げた。
「僕たちが無事だと知らせる方が落ち着くのではありませんか?おそらく雫の中で僕たちが死んだことになっていて、悪夢にうなされているのだと思います」
「一理ある。暴れる雫を止められる?」
「ふたりがかりなら大丈夫です」
「なら任せるよ。僕はマスコミ対策をする。ニュースになっていたからこの失敗は酷く叩かれるだろうからね」
満は覚悟はしておいたほうがいいと、薬を渡し部屋に戻っていく。
「次に雫が起きたら声をかけよう」
「俺たちは生きてるから悲しまないでと伝えなきゃ」
祈るように二人は雫が目覚めるのを待ち続けていた。
☆
「ーーというわけなんだけど、情報規制はできる?」
『全ては難しいですね。何かしらの餌を与えないとマスコミは納得しないでしょう』
「思ったより権力ないんだね、レイラ」
『あなたたちの影響力がすごすぎるんですよ、満』
「じゃあ、矛先を変えることは?僕はマスコミに何を言われても平気だけど雫はそうじゃない」
『それこそ難しいでしょうね。雫がずっとメインでやってきたのを、今更満メインにするのはかえってマスコミを刺激しますね』
「雫が叩かれるのを見るしかないのか……」
『……残念ながら、支えてあげることしかできないかと』
残念そうに言うレイラに満は唇を噛む。
通話中に研究所のインターホンが鳴る。誰かと思い画面を見てみたらまだ若い少年が立っていた。
『お客さんなら電話を切りますが』
「えらく若いお客さんだ。どこかで見たことあるような…?」
『どんな感じの子です?』
「薄い色の髪をした綺麗な女の子だよ」
『あぁ、結羽ですね。神代結羽。名前を聞いたことはありませんか?』
「あー、雫がすごい天才がいるって騒いでた子か」
『彼女の知恵を借りてみては?』
「人見知りの僕にはキツイね。まだ秋と香月とも普通に話せないのに。ま、とりあえず出るだけ出てみるよ。またね、レイラ」
満はそう電話を切って、直接玄関へと向かう。
「君が神代結羽?」
「はい。そうです」
「とりあえず目立つから中に入って。何の用かはそれから聞くから」
躊躇う結羽の手を取り、満は強引に研究所に入れた。
「雫さんに招待してもらって私は来たんです」
「雫が?」
「はい。前からずっと雫さんに憧れてて、たまたまお会いする機会があって、見においでよと声をかけてもらったんです」
「ふぅん。生憎だけど雫は面会謝絶だよ」
「それはなぜですか?」
「言葉のままだよ。会える状態じゃないんだ」
「何かあったんですね?日狩さんの手に負えないほどのことが」
ずいと結羽は満と距離を詰める。
「力にならせてください」
「言っておくけど無能は要らないから」
「わかっています。お二人には敵わないですが、無能ではないつもりです」
嫌味ではない自信に満ちた顔で結羽は告げる。
「自分の名を汚す覚悟があるなら着いてこい」
歩いていく満の背を結羽は追いかけた。
☆
「雫が試した薬はあるか?」
突然現れた満と見知らぬ少女に秋と香月が驚く。これですと香月が差し出したものを満は受け取り、部屋を後にする。
「雫はこれを打って症状が出た。今はそれがトラウマになって、起きたら暴れるから鎮静剤を打っている」
「これは何の薬です?」
「さぁね。僕が今からこの薬を打つから、治療薬を作って。ここの設備は何を使っても構わない」
さすがに驚く結羽に満は不敵に笑う。
そして。
“実験”がはじまった。
失敗は許されない。
☆
「雫を助けるにしても、雫のことも香月の過去のことも何も知らないんだよなぁ」
一人となった真澄はうーんとひとりで唸っていた。
過去を知らないと先に進めない気がしていた。
情報のスペシャリストに依頼するしかない、か。
他人を巻き込むのは本意ではないが仕方ない。
真澄は友人の元に向かう。
彼が引き受けてくれることを祈りながらーー。
なんでもするって決めたんだ。
☆
「はじめまして。渡香月です」
目の前に手が差し伸べられた。
顔をあげるとそこにいたのは痩せた、見るからに力の無さそうな男だった。
「レイラ。俺、相棒要らないんだけど。人にあわせるのめんどくせーし。しかもさ、どう見ても細くて弱そうじゃんか」
「うちはどっちかと言うと頭脳労働ですよ、真澄」
レイラはそう苦笑する。
「それに彼は弱くない。試してみても良いですよ」
「加減しねーぞ?」
「大丈夫ですよ」
「ホント、しらねーかんな!」
自信満々の真澄はあっという間に香月に転がされ、ぽかんとしていた。
「すげー!強えー!今のどうやんの!?」
キラキラとした目で真澄は香月を見る。
「真澄。先に謝罪をしなさい。あなたは彼を要らないって言ったんですから」
「ごめんなさい。俺が悪かったです」
「香月、言いたいことを言って構いませんよ?」
「いえ、大丈夫です」
無表情に香月が答える。
「もったいねーせっかく綺麗な顔してるのに笑わねーなんて」
屈託なく笑う真澄に香月が顔を背ける。
「仕事に笑顔は関係ありません」
「そんなことねーよ。笑ってるほうが幸せになれる。俺たちの仕事はそういう仕事だろ?」
「少しずつでいいんです。あんなことがあったのだから笑えなくて当然です。私も笑顔でいてくれるほうが嬉しいし、秋も君がそのままなら心配してしまいますよ。真澄はまっすぐな良い子です。だからこそ、相棒にと思ったんです」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします!」
こうして香月と真澄は相棒となり、真澄の純粋さに香月の心の傷は癒されていった。
「久しぶり、香澄」
「……会いたくない奴が来た」
秒速でドアを閉めようとするのを真澄は阻む。
残念ながら二人の体格差は明確で、香澄の力では真澄には及ばなかった。
「また面倒事だろ?」
「ま、そうだけどさ、香澄は普通に遊びに来ただけでも拒否するじゃん」
ズバリと痛い所をつかれて、香澄は黙り込む。
「部屋ばかりにいるんじゃなくて、たまには外にでねーと」
「他人がいる空間が気持ち悪いんだよ。笑ってる裏で何を考えてるかわからないからな」
「難しく考えすぎじゃねー?」
「お前みたいに裏がない奴のほうが珍しいんだよ」
香澄はそこまで言って、真澄の様子が普段と違うことに気づく。
「真澄。相棒はどうした?」
「俺が殺した。もういないよ」
「お前が人を?何の冗談だよ?」
「冗談なんかじゃねー。何が起こったかわかんねーうちに殺してたんだ」
「……大丈夫なのかよ、お前」
「大丈夫じゃない。けど、香月に頼まれたことがあるから、それをしなくちゃならないんだ」
「……中、入れよ。何を調べればいい?」
結局のところ、香澄は真澄に甘い。
文句を言いながらもいつも協力している。
「ある人物の過去を調べてほしい」
「名前は?」
「雨宮雫」
「こりゃまた有名人だな」
「そんなに有名?」
「天才と騒がれていた人だ。神代結羽が現れて、話は聞かなくなったけどな。相棒の頼みってなんなんだ?」
「雫を助けて、って」
「助けて、か」
香澄はブランケットを真澄に投げつける。
「調べてやるから少し寝とけ。隈もできてるし、目も腫れてる。泣いてまともに寝てないんだろ。冷蔵庫に作りおきのおかずがあるから食べとけ」
「……あんがと、香澄」
「礼は要らねーよ」
「巻き込んでごめん」
「お前のことだから、相棒のために全て捨ててきたんだろ」
「……なんでわかんの?」
「長い付き合いだからな。嫌でもわかる。いいから食べて寝ろ。俺は味方でいてやるから」
その言葉に真澄は嬉しそうに笑った。
☆
身体が、血が暑い。
抑えがたい衝動が身体を、精神を支配する。
殺したい。
壊したい。
殺人衝動だ。
そうか。
これで雫は秋と香月を襲ったのか。
理性が犯されていく。
「手荒にしますからね」
結羽の手が首に伸び、満の意識を奪った。
ベッドに満を寝かせ、暴れないように固定していく。
採血をし、打った薬とあわせて調べていく。
「……なるほど。人体に入ると変異するのか」
既存の抗生物質をそのウイルスに投与してみるが効果はない。
一度頭を冷やす必要がある。
おそらく既存のアプローチでは解決できない。
そんな簡単なもので彼らがつまづくはずはない。
結羽は思考を切り替えるために瞳を閉じた。
☆
「うわ、この人どうなってんだよ。こりゃ一筋縄じゃいけねーな。そもそも相棒もすごいスペックじゃねーか」
香澄は思わず呻いていた。真澄もすごいのだが相手が悪すぎる。
「あー、手伝えってことか。そういうことか、あいつは」
はぁと香澄はため息をつき、頭をがしがしと掻く。
パソコン画面には満の顔写真が表示されていた。そこには“死亡”という文字が記されていた。
☆
目をあけると白い天井が広がっていた。
意識が途切れるまで身体を苛んでいた殺人衝動は綺麗に消えていた。
「気分はどうですか?」
「悪くないよ。ウィルスは死滅したの?」
「死滅しました」
「どんな手を使ったの?」
「あの子の血を使いました。あれはあの子の血から作られたものでしょう?」
「……よくわかったね」
「まぁ、あなたが作った抗体の精度には劣りますが」
「合格だよ。じゃあ今からひとつ仕事をしてもらうよ」
「仕事…?」
「雫の記憶を消す。今のままじゃ雫は壊れてしまうから。辛い記憶は僕だけが持っていれば良いんだよ」
「恨まれませんか?」
「苦しむ姿を見るより恨まれるほうがずっと良いよ」
優しく笑う満に結羽も微笑んだ。
「香月、脳医学には詳しいかい?」
「それなりには」
「じゃあ、神代の補助にまわれ。今から雫の記憶を消す」
☆
「なかなかにえげつない攻撃をしますね」
「そうでもしないと勝てない相手だからね」
血液は人それぞれ違うウイルス等を持っていて、医療廃棄物として扱われる。血はある意味毒だ。
「焦りが見えますね。雫の記憶が戻りそうなんですか?」
「全く、どこまで知ってるんだか」
「それはお互い様でしょう?」
血はレイラを濡らしている。
「早く帰りなよ。僕の血には未知のウイルスがいっぱいだ」
「私も死ぬわけにはいかないですしね」
あっさりと戦闘が終わる。
「予言しておきましょう。雫はあなたの元を去ります。香月の残した希望が彼女を助けるんです」
「僕だけ悪者?僕はただ雫といたいだけなのに」
「一緒にいたいなら彼女を暗闇に閉じ込めるのはお止めなさい。光に出るなら彼女も満足するでしょう」
「光、光ってホントに虫みたいだね。気持ち悪い」
ふたりはそう言い離れていく。
「光にも闇にも居場所がない僕はどうすればいいんだろうね」
満は小さくそう呟いた。
満、香月、結羽の手によって雫の記憶は封じられた。正しくは改変したというべきかもしれない。
失敗したという事実は変えられない。
ならば何かを変わりに公表しなければならない。
Murder Impulse Promotion Virus
直訳すれば殺人衝動促進ウイルス。
新しいウイルスを発見したと発表された。どんな症状が起こるのかは伏せられたままだった。
新薬発表と期待されていた分、世間の反応は厳しかった。記憶を封じても、弱っていた雫は少しずつ病み、研究も手につかなくなっていた。
「雫さん。こっちできました」
新しい助手(本人曰く弟子)の結羽は知識をつけ、功績をあげていった。
雫はもう終わりだと世間では言われていた。
秋と香月は変わらずにいたが、雫はぼんやりとしていることが多かった。
決定打は雑誌の雫と結羽の対談だっただろうか。
結羽贔屓で、雫のことは悪く書かれていた。
「あたしははもう要らない人間だから、消えます」
そう書き置きを残し、雫は姿を消した。
あてもなくふらふらと夜の街をさ迷った。
楽しそうに笑う声がやたら耳に響く。
街は夜でも賑やかで、どこか静かな場所に行きたいと雫はふらりとタクシーに乗った。
「どちらまで行かれますか?」
「静かなところまで」
雫の言葉に運転手は困ったように笑っている。
「山に登って夜景を見るか、海に行って波の音でも聞きますか?」
思わぬ言葉に雫がえ?と返す。
「あなたは有名人ですから。最近、マスコミもひどいものですね」
「あたしのこと知ってる……?」
「あなたの研究のおかげで私の子どもが助かりましたから」
思わぬ言葉にぼろぼろと涙が零れた。
「海にしましょうか?波の音は心を落ち着かせるともいいますし」
返事も待たずにタクシーは走り出す。車の揺れに瞼が落ちる。
心が疲れていた。
みんなが励ましてくれていたが、それも辛かった。
だから誰も自分のことを知らない場所まで逃げ出したかった。
運転手は疲れきった雫を寝かせてくれた。
まだ若いのに天才と呼ばれる人間は大変な思いをしていると思う。
天才に助けられている。
でも、その天才たちに支えはあるんだろうかと不意に疑問を抱く。
天才は孤独だとよく聞く。
雫もそうなのかと思うと胸がちくりと痛んだ。
海に着いても雫はまだ眠っていた。
仕事に戻りたかったが、安らかに眠る彼女を起こすことも憚られ乗せてあったブランケットを雫にかけて自分も仮眠をとることにした。
☆
朝になっても起きてこない雫を起こしに行き、書き置きを見つけたのは香月だった。
すぐに皆にそれを伝え、満も起こし、それぞれが雫を探している。
何か手がかりはないかと雫の私室を探したが、目に着いたのは壊されたスマホだけだった。
彼女は一体どんな気持ちでスマホを壊したのだろうか。
ぎゅっと手を握りしめて香月は私室を去った。
持っていったものを考えると雫は死ぬつもりなんじゃないかと思ってしまう。
追い詰められていたのはわかっていたことなのに、なぜ何もしなかったのかと自分を責めることしかできない。
何が親友だ。
辛い思いをしている雫を助けることもできないなんて。
お願いだから無事でいてくれと祈りながら香月は走った。
☆
眩しさにふと目が覚める。
目の前には海があって、太陽がのぼりかけていた。
「……目が覚めましたか?」
知らず知らずのうちに涙がまた溢れていた。
「綺麗な夜明けですね。綺麗な景色は嫌なことを忘れさせてくれますね。あぁ、無理矢理泣き止もうとしないでください。泣くことも大事なんですよ。泣くことでストレスが緩和されるんです」
雫はただただ涙を流す。
運転手は静かに朝の景色を眺めていた。
運転手にありがとうと伝えて、お金を払った。
マスコミの声に負けないでくださいと励まされてしまった。
朝焼けが綺麗だ。潮騒の音が優しく耳に響く。
人が少ない。
実行するなら今だなとぼんやりと考える。
薬は自分の専門だ。
死ぬ薬を作るのは容易い。
涙がぽろぽろと溢れている。
死んで姉さんに会えるかな?
姉さんは悪いことをしてないから会えないか。
自分は兄を殺した。きっと地獄に落ちるだろう。
「!?」
不意にぎゅっと抱き締められた。
その手は震えていた。
「……どうしてここがわかったの?見つからないようにスマホを壊してまできたのに」
「一晩中探したんだよ」
「探してくれなくて良かったのに。あたしはもう必要ない存在。だから消えるんだよ」
「それを飲んで?」
「そう」
「僕には雫が必要だ」
「それは姉さんが俺を大事にしてくれてたからだろ?あたしは姉さんによく似ているから身代わりなんだろ?気づいてたんだよ。あたしの中に“姉さん”を探してたってこと」
「違っ……」
「違わない。満の目はあたしを見ているようで見てなかった。誰もあたしを見ていないんだ」
「雫を涙を重ねてみたことなんて一度もないよ」
「嘘だ。あたしは何?天才?姉さんのかわり?」
「雫、マスコミは気にするな」
「ただの“雨宮雫”を見てくれる人はどこにいるんだよ!?」
腕を振りほどき、雫は走り出す。運動の苦手な満はどんどんと引き離されていく。
「好きなんだ、雫が!だから、だからいかないでくれ!大切な人を失うのはもう嫌なんだ!」
その言葉に雫の動きが止まる。
はぁはぁと肩で息をしながら満が雫に近寄っていく。
「愛してる。涙は関係ない。僕は“雨宮雫”が好きなんだ。必要なんだ。どうしても死にたいのなら、僕も一緒に死ぬよ」
頬に手が伸び、涙を拭う。
そっと触れるだけのキスをして、強く抱き締める。
「僕が君を守るよ」
甘い声がそう告げた。
自分は弱いなと思う。
昔は姉に守られ、これからは満が守ってくれる。
心が強ければこんな状態にならなかったのにと苦笑いする。
するりと手から薬が奪われる。
「これはもう要らないだろう?」
満の声にゆらゆらと瞳が揺れる。
「……今日をお前の命日にしよう。“雨宮雫”は自殺した。もうマスコミに追われるのは嫌だろう?」
こくんと頷く雫に満はふわりと笑う。
「世間に復讐してやろうよ。天才だと僕らに勝手に期待して、勝手に失望していった奴らに。僕たちにはそれだけの力があるし、権利もある」
甘い毒がじわりと弱った心に染み込んでいく。
「僕は雫以外の人間が大嫌いだ。滅ぼしてやろう。あの子の血を使って」
「あたしはそんなことのために秋を引き取ったんじゃないよ」
「多くの命を救うため、だろう?けど、その“助けたい”と思った人間たちはお前に何をした?」
まっすぐな目が雫を捉え、離さない。
「天才なんかいないんだよ。僕たちは普通の人間で、傷つくんだ」
この気持ちはきっとお互いしか理解できない。
伸びてきた腕が雫を抱き締める。
「僕は雫を傷つけない。死にたくなったら一緒に死ぬよ。だから一緒に行こう。共に生きよう」
重なる唇にぎゅっと背中に手をまわした。
「家に帰ろう、一緒に」
うんと雫は大きく頷いた。
☆
「雫!」
「雫さん!」
「雨宮さん!」
帰ってきた雫に各々が抱きついた。
涙を流し、喜んでいる。
「雫は死んだことにした。これでマスコミに追われることもないし、自由だ」
「それじゃ、雫はいない人間じゃないか!」
香月が満に食ってかかる。
「うるさい、偽善者が。表面ばかりを見て、物事の本質を見ようとしない。全てから逃げたかった雫をまた苦しめるつもりか?」
「マスコミには抗議文を出せば良い。あんたはやりすぎだ。雫が外を歩けないようにして、自由を奪ってるのはあんたじゃないか!」
「“天才”になれなかった君にはわからないだろうね。僕らの苦しみが。結羽にはわかるだろう?」
殴りかかろうとする香月を秋が止め、結羽は複雑な表情を浮かべながらも頷いていた。
「……雫はそれでいいの?」
雫は俯いて答えない。
「一緒に、人を助ける研究をするって言ったじゃないか!そのために努力をしていたじゃないか!」
「お前は何も知らないんだよ、雫のこと。だから綺麗事ばかり言える」
「あんたが雫に何か吹き込んだんだろ!?雫が、雫が逃げるなんてないんだ……雫は強くて、僕の憧れで…っ!」
「そういうのが“天才”を苦しめるんだよ」
「………いよ」
ぼそりと呟く声がする。
「あたしは…強くなんか…ないよ」
弱々しく答える雫に香月は黙りこむ。
「……辛いから…出ていって……」
ぎゅうと満の服を握りながら雫が呟く。
「……あんたの好きにはさせないから。秋、行こう。雫、また会いにくるから」
去っていく香月に雫はぽろぽろと涙を流す。
「僕もいないほうがいいですね」
「君はまた雫が落ち着いたら来てくれるかな?」
去ろうとする結羽の背に声がかけられる。
「呼んでいただけるのであれば喜んで」
そう答え、結羽は去っていった。
「雫、大丈夫だよ。もうみんな帰ったから」
とんとんと満は雫の背を優しく叩いていた。
疲れた雫は眠ってしまう。
「大丈夫だよ。君の心を揺らすものは僕が全て排除してあげる」
優しい目で満は雫を見つめていた。
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