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6時限目【息を止めて水を漕ぐ】
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外はすっかり日が暮れたというのに、部屋の中を照らす明かりは、窓から差し込む月明かりだけ。暗がりの中、二人の影は光の中に浮かびつつ、闇と溶け合い、ひとつになっていた。
「ふんっ、はあっ、はっ、うんっ、ふっ……。なあ、あいつよりいいだろ? あんなガキの青臭いアレよりさぁ」
中川は喘ぎながらさも愉快そうに呟いているが、凪南は黙ったまま彼の言葉にも顔色ひとつ変えることはなかった。目を瞑り、疼く快楽をやり過ごそうとしていた。
しかし、そんな凪南の様子を気にする風はなく、中川は腰を突くのに夢中だ。
「それにしてもあんた、こうして学校の中であいつとセックスしまくってたなんて、あんたもよほどの好き者だな。淫乱。でも、そういうところ、嫌いじゃないぜ。ほら、もっと感じた顔見せろよ。北野としてたみたいによ」
セックス中の中川は、普段の無口さが嘘みたいに饒舌になる。日頃抑えている感情が、情欲と共に吹き出すみたいな子どもっぽさにうんざりしつつ、この時間を耐える。
でも、この男は一回では気が済まないから、今日も残りの仕事は持ち帰りになるな。そんなことを考えながら、中川の欲望に付き合う。
中川とこうして体を重ねるようになって、一ヶ月になる。あの日はなんとか逃げおおせた。
そして翌日、憂鬱な気分で登校したが、中川は顔を合わせても何もなかったような顔で、いつもと変わりなく化学準備室へ向かった。そんな中川の様子に、凪南は「あれは一時の気の迷いで、彼も気まずい思いをしているのだろう」くらいに思った。
あの時までは。
あの日から一週間後、残業で遅くなった夜中の十二時頃、家に入ろうと鍵を開けた
瞬間、後ろから抱きつかれるように家の中へと引きずり込まれた。靴も脱げず、ずんずん中へ連れ込まれる。
「えっ、何っ? 誰っ? 何するのよ!? 」
必死にもがく凪南に構わず、相手は力任せに彼女を床に押し倒すと、持っていたらしいロープのようなもので凪南の手首を縛り上げる。
「やめてっ! やめてよっ!」
しかし、凪南の哀願も虚しく響くだけで、相手は無言で凪南を押さえ込む。しばらく沈黙が流れた後、電気のスイッチを押すパチンという音がやけに大きく響くと同時に、部屋の中が明るくなる。自分の部屋なのに、まるで他人行儀に見える真っ白い部屋。
恐怖で鼓動が早まり、胸が苦しくなる。
「お願い……お金ならあげるから……命だけは……」
震えながら振り絞った声に、相手は冷ややかに言った。
「金も命もいらないよ。欲しいのはあんただけだ」その声と共に見えたのは、中川の姿だった。
「あんた、今日も北野と保健室でしてたな。毎日毎日、よくも飽きずにお盛んなことで。そんなにしたいなら、俺とだっていいだろ、なあ?」
そう言って凪南の体に覆い被さると、彼女のシャツをボタンが飛ぶほど乱暴にむしる取る。
「あの時は思いがけない邪魔が入ったからな。でも、今日は逃がさないぜ。たっぷりと楽しませてもらうよ」
ブラジャー越しに胸をわしづかみにして揉みしだくその手つきは、あの時のような乱暴さはなく、余裕のある優しいもので、凪南は思わず甘ったるい声が出る。
「ふあっ、はっ、ん……」
「ふふ、いい声だ。でも、あいつとヤってる時はそんなもんじゃないだろ。俺の方がもっと気持ちよくさせてやるから、そんな固くなんなよ」
ブラジャーの中へ手を入れると、手のひらで胸を包みながら指でコリコリと乳首摘まむ。
「あっ、いやっ……」
「いやって言っても立ってるじゃん。無理すんなって。気持ちいいことはいいことなんだからさ、その流れに乗ればいいんだよ」
露わになった胸をべろべろと舐め回しながら、中川の手は腰の方へと移っていく。スカートをめくり上げ、尻を撫で回す。
凪南は足をいやいやさせて抵抗するが、その動きが逆に中川を迎え入れるように足を広げさせられる。
「さあて、ここはどうなってるんでしょうね? 」
にやにやと笑いながら、中川は下着越しに秘所を捉えると、そこはじっとりと潤いを帯びていた。濡れた指を舐めながら、「なんだ、もう濡れてるの。そんなにここに入れられるの楽しみなんだ。やっぱり淫乱じゃん」と言う。
「じゃあ、ご期待に応えるとしましょうかね」
ベルトを外し、ファスナーを下げようとする中川に凪南は必死に懇願する。
「いやっ! やめて! 何でも言うこときくから!」
しかし、中川は平然とした顔を凪南に向けるとこう言い放つ。
「だーかーらー、俺が欲しいのはさ、あんたなんだよ。あんたが俺の言う通りにしてくれればそれでいいの」
下着を下ろし、昂ぶったペニスを掴むと凪南の下着に擦りつける。
「もうあんなガキ忘れさせてやるくらい、いい思いさせてやるよ」
凪南の下着を脱がすと、彼女の秘所の受け入れ具合を確かめるように指で馴らし始めた。快感など覚えたくもない男なのに、感じてしまう自分が悔しくて唇を噛む。
「力抜けって。固くなると余計に危ないんだからさ」
中川の指と舌の動きが、凪南を快感の渦に巻き込んでいく。
「あんっ、ふあっ、やっ、やめっ……て……、おね、がい、それ以上やったら……おかしくなる……」
「おかしくなっても大丈夫だって。な、一緒に気持な ちか よくなっておかしくなろうぜ」
中川はさっよりも力の入ったペニスを、凪南の膣内に一気に挿れる。痛みに少し顔を歪める凪南に、中川は額にキスをしながら気遣うように言葉をかける。
「はあっ、はあ、先生痛かった? ごめんね、でも嬉しくて抑えがきかなくてさ……ゆっくり動かすから力抜いてて」
そうして中川は腰を動かすが、すぐさま弾みがついて早さが増す。
「うっ、ふっ、ふんっ、はっ、はっ、はあ。どう先生? ここがいいの? じゃあ、たくさん突いてあげるから、俺の、良く覚えて置いてよ。北野より俺の方がいいんだからね……」
凪南は目を瞑る。何も見えない。何も感じない。何も聞こえない。ただ、涙が頬を伝っていた。
一度だけだろうと思っていた。一度したら済むだろうと。
しかし、それから中川は機会を窺っては凪南の周りをうろつくようになり、関係を続けるよう迫ってくる。
「北野からくら替えるなんて簡単だろ。さっさとあのガキと手を切っちまえよ。そうしないと北野とのこと、本当にばらしちゃうよ? それでもいいの? 」
中川の誘いを断り切れず何度か体を合わせたが、中川の欲望は底が知れなかった。しかし、彼の誘いを断ってしまえば伊織の身に何が起こるか分からないと言う不安から無碍には出来ず、二重の関係が続くようになった。
伊織との逢瀬の時間がそれまでのような甘いものでなくなり、ぎくしゃくするようになったのは、中川との関係が始まって二ヶ月後の頃だった。
「先生、僕のこと嫌いになった?」
思い詰めた表情で聞いてくる伊織に、本当のことは言えなかった。伊織のことが大事だった。伊織のことを守りたかった。
だから、自分が泥を被ればいいだけのこと。
そう思って応じた中川との関係だが、こうして歪んだ秘密を抱えて暮らす日々に、凪南の心は虚ろになっていく。
いつの頃からか深酒が習慣になり、酒が残ったまま学校へ行くことも珍しくなくなった。酒の匂いくらいは何とかごまかせるものの、頭が上手く回らず、ミスが多くなった。
そんな凪南を見かねた同僚からは、何度か「休んだ方がいいですよ」と助言されていたが、「いいえ、大丈夫です。ちょっと疲れが溜まってるだけですよ」と軽くいなしていた。
本音を言えば、学校になど来たくなかった。今日も中川が待っていると思うと、朝から吐き気がした。でも、伊織がいる。彼の笑顔も、声も、肌も、佇まいも、何もかもが愛おしい。伊織のことを思うだけで元気が出た。
凪南の日常は、伊織の存在だけで支えられていたと言ってもよかった。しかし、そんな危ういバランスを打ち砕くことが起きる。
テスト週間でがらんとした放課後の校内を歩いていると、とある教室から人の声が聞こえてきた。それは伊織のクラスの教室。下校を促そうと教室に近づくと、見えたのは伊織ととある女子が向き合って話し込んでいるところだった。
ただならぬ雰囲気に、凪南は扉の陰に身を隠す。
あの女子は確か、津和野梓といったはずだ 。伊織とどんな関係の子だろうか。何か不穏な予感を感じながら、二人の会話を盗み聞く。
「で、話って何? 僕、明日の現国ヤバいから、早く帰って勉強したいんだよね」
「現国って、北野君成績いいじゃない。何が不満なの?」
「不満って言うか、いい成績なら尚更確実にしておきたいだろ。それだけだよ」
「そうじゃないでしょ」
梓はそう言うと、少し間を置いて、「鈴木先生、でしょ。本当の目的は」と口にした。「私、北野君が鈴木先生のこと好きなの知ってるよ。見る目が違うもん。あんなにあからさまに蕩けた目をしてたらバレない方がおかしいって。でも、鈴木先生は諦めた方がいいよ。先生、中川先生と付き合ってるから」
思いがけない形でそんなことを言われ、凪南は否定しに二人の前に出たくなるが、その前に伊織が声を荒げた。
「そんな……そんなはずない! 」
「認めたくないのは分かるけど、私知ってるもの。鈴木先生と中川先生がエッチしてるとこ、見ちゃったんだ」
「ど、どこで……?」
「中川先生の『聖域』で。放課後、帰りが遅くなった時に偶然見ちゃった。意外な組み合わせだなあって思ったけど、案外そうでもないかもね」
梓は歌でも歌いそうな調子で、伊織に事実を突きつける。凪南にとってはそれは誤解なのだが、梓にとってはどうでもいいことのようだ。
「そんなことない。そんなはずは……」
「ショックなのは分かるけどさ、諦めなよ。で、さ……」
打ちひしがれる伊織の隙を埋めるように、梓はこう言った。
「私にしちゃいなよ。私、前から北野君のこと、好きだったんだ」
凪南は、外堀を埋めてなし崩してきに告白する彼女の狡猾さにため息をつくが、それ以上に伊織の反応が気になった。断って欲しいと願っていると、俯いていた伊織は顔を上げ、梓の方に向き直るとキッと睨みつけこう言った。
「それで僕が君と付き合うとでも思った? 消去法で君を選ぶとでも? そんな女、僕、大嫌いなんだよね」
そう言い放った伊織は教室から出ようとした。
まずい。このままでは伊織と鉢合わせになってしまう。
凪南は焦り、足早にその場を立ち去ろうとしていると、後ろから「先生? 」と小声で声をかけられた。
伊織は困った顔をして凪南を見ていたが、すぐさま険しい顔に変わり、凪南の元へ駆け寄ると彼女の腕を掴んで歩き始める。
「なに? どうしたの?」
「いいから、こっちに来て」
そう言われて連れられてきたのは保健室だった。いつもなら甘い気分に浸る場所だが、今は艶めかしい気分ではいられなかった。二人の間に重苦しい空気が流れる。
長い沈黙を破って、口を開いたのは伊織の方だった。
「……先生、僕たちの話聞いてたんでしょ」
「……うん」
「なら、さっきの彼女の話は本当?」
どこか苛立った声に、凪南は胸が痛む。違う。そう答えたかった。
しかし、嘘をつく自分の卑屈さにも我慢できない。 黙っていると、伊織はその沈黙を事実と受け止めた。
「そうか、なんだ。僕、やっぱり遊びだったんだ……」
伊織は椅子に座り込むと、凪南を苦々しげに見つめる。
「楽しかった? 僕のこと弄んで。恋愛ごっこで本気になってるガキを見て、面白かった?」
こんな風に皮肉めいたことを言うような人間ではないから、相当にショックなのが伝わる。でも、こんな風に思われたままなのは悔しくて、凪南は声を荒げて反論する
「遊びじゃないわ! 本当に、本当にあなたのこと好きなのよ! 信じてちょうだい! でも、でも……」
本当のことを言いたかった。でも、本当のことは伊織を傷つけるだろう。それは言いたくなかった。 だが、口をつぐむ凪南を、伊織は誤解したらしい。
「でも? 何? 君も好きだけど中川先生も好きです、って? 冗談言わないでよ。二股女なんかに用はないよ」
切り捨てるように言い置いて、伊織は保健室から出て行った。
廊下を走る伊織の足音を遠くに聞きながら、凪南は泣くしかなかった。
「ふんっ、はあっ、はっ、うんっ、ふっ……。なあ、あいつよりいいだろ? あんなガキの青臭いアレよりさぁ」
中川は喘ぎながらさも愉快そうに呟いているが、凪南は黙ったまま彼の言葉にも顔色ひとつ変えることはなかった。目を瞑り、疼く快楽をやり過ごそうとしていた。
しかし、そんな凪南の様子を気にする風はなく、中川は腰を突くのに夢中だ。
「それにしてもあんた、こうして学校の中であいつとセックスしまくってたなんて、あんたもよほどの好き者だな。淫乱。でも、そういうところ、嫌いじゃないぜ。ほら、もっと感じた顔見せろよ。北野としてたみたいによ」
セックス中の中川は、普段の無口さが嘘みたいに饒舌になる。日頃抑えている感情が、情欲と共に吹き出すみたいな子どもっぽさにうんざりしつつ、この時間を耐える。
でも、この男は一回では気が済まないから、今日も残りの仕事は持ち帰りになるな。そんなことを考えながら、中川の欲望に付き合う。
中川とこうして体を重ねるようになって、一ヶ月になる。あの日はなんとか逃げおおせた。
そして翌日、憂鬱な気分で登校したが、中川は顔を合わせても何もなかったような顔で、いつもと変わりなく化学準備室へ向かった。そんな中川の様子に、凪南は「あれは一時の気の迷いで、彼も気まずい思いをしているのだろう」くらいに思った。
あの時までは。
あの日から一週間後、残業で遅くなった夜中の十二時頃、家に入ろうと鍵を開けた
瞬間、後ろから抱きつかれるように家の中へと引きずり込まれた。靴も脱げず、ずんずん中へ連れ込まれる。
「えっ、何っ? 誰っ? 何するのよ!? 」
必死にもがく凪南に構わず、相手は力任せに彼女を床に押し倒すと、持っていたらしいロープのようなもので凪南の手首を縛り上げる。
「やめてっ! やめてよっ!」
しかし、凪南の哀願も虚しく響くだけで、相手は無言で凪南を押さえ込む。しばらく沈黙が流れた後、電気のスイッチを押すパチンという音がやけに大きく響くと同時に、部屋の中が明るくなる。自分の部屋なのに、まるで他人行儀に見える真っ白い部屋。
恐怖で鼓動が早まり、胸が苦しくなる。
「お願い……お金ならあげるから……命だけは……」
震えながら振り絞った声に、相手は冷ややかに言った。
「金も命もいらないよ。欲しいのはあんただけだ」その声と共に見えたのは、中川の姿だった。
「あんた、今日も北野と保健室でしてたな。毎日毎日、よくも飽きずにお盛んなことで。そんなにしたいなら、俺とだっていいだろ、なあ?」
そう言って凪南の体に覆い被さると、彼女のシャツをボタンが飛ぶほど乱暴にむしる取る。
「あの時は思いがけない邪魔が入ったからな。でも、今日は逃がさないぜ。たっぷりと楽しませてもらうよ」
ブラジャー越しに胸をわしづかみにして揉みしだくその手つきは、あの時のような乱暴さはなく、余裕のある優しいもので、凪南は思わず甘ったるい声が出る。
「ふあっ、はっ、ん……」
「ふふ、いい声だ。でも、あいつとヤってる時はそんなもんじゃないだろ。俺の方がもっと気持ちよくさせてやるから、そんな固くなんなよ」
ブラジャーの中へ手を入れると、手のひらで胸を包みながら指でコリコリと乳首摘まむ。
「あっ、いやっ……」
「いやって言っても立ってるじゃん。無理すんなって。気持ちいいことはいいことなんだからさ、その流れに乗ればいいんだよ」
露わになった胸をべろべろと舐め回しながら、中川の手は腰の方へと移っていく。スカートをめくり上げ、尻を撫で回す。
凪南は足をいやいやさせて抵抗するが、その動きが逆に中川を迎え入れるように足を広げさせられる。
「さあて、ここはどうなってるんでしょうね? 」
にやにやと笑いながら、中川は下着越しに秘所を捉えると、そこはじっとりと潤いを帯びていた。濡れた指を舐めながら、「なんだ、もう濡れてるの。そんなにここに入れられるの楽しみなんだ。やっぱり淫乱じゃん」と言う。
「じゃあ、ご期待に応えるとしましょうかね」
ベルトを外し、ファスナーを下げようとする中川に凪南は必死に懇願する。
「いやっ! やめて! 何でも言うこときくから!」
しかし、中川は平然とした顔を凪南に向けるとこう言い放つ。
「だーかーらー、俺が欲しいのはさ、あんたなんだよ。あんたが俺の言う通りにしてくれればそれでいいの」
下着を下ろし、昂ぶったペニスを掴むと凪南の下着に擦りつける。
「もうあんなガキ忘れさせてやるくらい、いい思いさせてやるよ」
凪南の下着を脱がすと、彼女の秘所の受け入れ具合を確かめるように指で馴らし始めた。快感など覚えたくもない男なのに、感じてしまう自分が悔しくて唇を噛む。
「力抜けって。固くなると余計に危ないんだからさ」
中川の指と舌の動きが、凪南を快感の渦に巻き込んでいく。
「あんっ、ふあっ、やっ、やめっ……て……、おね、がい、それ以上やったら……おかしくなる……」
「おかしくなっても大丈夫だって。な、一緒に気持な ちか よくなっておかしくなろうぜ」
中川はさっよりも力の入ったペニスを、凪南の膣内に一気に挿れる。痛みに少し顔を歪める凪南に、中川は額にキスをしながら気遣うように言葉をかける。
「はあっ、はあ、先生痛かった? ごめんね、でも嬉しくて抑えがきかなくてさ……ゆっくり動かすから力抜いてて」
そうして中川は腰を動かすが、すぐさま弾みがついて早さが増す。
「うっ、ふっ、ふんっ、はっ、はっ、はあ。どう先生? ここがいいの? じゃあ、たくさん突いてあげるから、俺の、良く覚えて置いてよ。北野より俺の方がいいんだからね……」
凪南は目を瞑る。何も見えない。何も感じない。何も聞こえない。ただ、涙が頬を伝っていた。
一度だけだろうと思っていた。一度したら済むだろうと。
しかし、それから中川は機会を窺っては凪南の周りをうろつくようになり、関係を続けるよう迫ってくる。
「北野からくら替えるなんて簡単だろ。さっさとあのガキと手を切っちまえよ。そうしないと北野とのこと、本当にばらしちゃうよ? それでもいいの? 」
中川の誘いを断り切れず何度か体を合わせたが、中川の欲望は底が知れなかった。しかし、彼の誘いを断ってしまえば伊織の身に何が起こるか分からないと言う不安から無碍には出来ず、二重の関係が続くようになった。
伊織との逢瀬の時間がそれまでのような甘いものでなくなり、ぎくしゃくするようになったのは、中川との関係が始まって二ヶ月後の頃だった。
「先生、僕のこと嫌いになった?」
思い詰めた表情で聞いてくる伊織に、本当のことは言えなかった。伊織のことが大事だった。伊織のことを守りたかった。
だから、自分が泥を被ればいいだけのこと。
そう思って応じた中川との関係だが、こうして歪んだ秘密を抱えて暮らす日々に、凪南の心は虚ろになっていく。
いつの頃からか深酒が習慣になり、酒が残ったまま学校へ行くことも珍しくなくなった。酒の匂いくらいは何とかごまかせるものの、頭が上手く回らず、ミスが多くなった。
そんな凪南を見かねた同僚からは、何度か「休んだ方がいいですよ」と助言されていたが、「いいえ、大丈夫です。ちょっと疲れが溜まってるだけですよ」と軽くいなしていた。
本音を言えば、学校になど来たくなかった。今日も中川が待っていると思うと、朝から吐き気がした。でも、伊織がいる。彼の笑顔も、声も、肌も、佇まいも、何もかもが愛おしい。伊織のことを思うだけで元気が出た。
凪南の日常は、伊織の存在だけで支えられていたと言ってもよかった。しかし、そんな危ういバランスを打ち砕くことが起きる。
テスト週間でがらんとした放課後の校内を歩いていると、とある教室から人の声が聞こえてきた。それは伊織のクラスの教室。下校を促そうと教室に近づくと、見えたのは伊織ととある女子が向き合って話し込んでいるところだった。
ただならぬ雰囲気に、凪南は扉の陰に身を隠す。
あの女子は確か、津和野梓といったはずだ 。伊織とどんな関係の子だろうか。何か不穏な予感を感じながら、二人の会話を盗み聞く。
「で、話って何? 僕、明日の現国ヤバいから、早く帰って勉強したいんだよね」
「現国って、北野君成績いいじゃない。何が不満なの?」
「不満って言うか、いい成績なら尚更確実にしておきたいだろ。それだけだよ」
「そうじゃないでしょ」
梓はそう言うと、少し間を置いて、「鈴木先生、でしょ。本当の目的は」と口にした。「私、北野君が鈴木先生のこと好きなの知ってるよ。見る目が違うもん。あんなにあからさまに蕩けた目をしてたらバレない方がおかしいって。でも、鈴木先生は諦めた方がいいよ。先生、中川先生と付き合ってるから」
思いがけない形でそんなことを言われ、凪南は否定しに二人の前に出たくなるが、その前に伊織が声を荒げた。
「そんな……そんなはずない! 」
「認めたくないのは分かるけど、私知ってるもの。鈴木先生と中川先生がエッチしてるとこ、見ちゃったんだ」
「ど、どこで……?」
「中川先生の『聖域』で。放課後、帰りが遅くなった時に偶然見ちゃった。意外な組み合わせだなあって思ったけど、案外そうでもないかもね」
梓は歌でも歌いそうな調子で、伊織に事実を突きつける。凪南にとってはそれは誤解なのだが、梓にとってはどうでもいいことのようだ。
「そんなことない。そんなはずは……」
「ショックなのは分かるけどさ、諦めなよ。で、さ……」
打ちひしがれる伊織の隙を埋めるように、梓はこう言った。
「私にしちゃいなよ。私、前から北野君のこと、好きだったんだ」
凪南は、外堀を埋めてなし崩してきに告白する彼女の狡猾さにため息をつくが、それ以上に伊織の反応が気になった。断って欲しいと願っていると、俯いていた伊織は顔を上げ、梓の方に向き直るとキッと睨みつけこう言った。
「それで僕が君と付き合うとでも思った? 消去法で君を選ぶとでも? そんな女、僕、大嫌いなんだよね」
そう言い放った伊織は教室から出ようとした。
まずい。このままでは伊織と鉢合わせになってしまう。
凪南は焦り、足早にその場を立ち去ろうとしていると、後ろから「先生? 」と小声で声をかけられた。
伊織は困った顔をして凪南を見ていたが、すぐさま険しい顔に変わり、凪南の元へ駆け寄ると彼女の腕を掴んで歩き始める。
「なに? どうしたの?」
「いいから、こっちに来て」
そう言われて連れられてきたのは保健室だった。いつもなら甘い気分に浸る場所だが、今は艶めかしい気分ではいられなかった。二人の間に重苦しい空気が流れる。
長い沈黙を破って、口を開いたのは伊織の方だった。
「……先生、僕たちの話聞いてたんでしょ」
「……うん」
「なら、さっきの彼女の話は本当?」
どこか苛立った声に、凪南は胸が痛む。違う。そう答えたかった。
しかし、嘘をつく自分の卑屈さにも我慢できない。 黙っていると、伊織はその沈黙を事実と受け止めた。
「そうか、なんだ。僕、やっぱり遊びだったんだ……」
伊織は椅子に座り込むと、凪南を苦々しげに見つめる。
「楽しかった? 僕のこと弄んで。恋愛ごっこで本気になってるガキを見て、面白かった?」
こんな風に皮肉めいたことを言うような人間ではないから、相当にショックなのが伝わる。でも、こんな風に思われたままなのは悔しくて、凪南は声を荒げて反論する
「遊びじゃないわ! 本当に、本当にあなたのこと好きなのよ! 信じてちょうだい! でも、でも……」
本当のことを言いたかった。でも、本当のことは伊織を傷つけるだろう。それは言いたくなかった。 だが、口をつぐむ凪南を、伊織は誤解したらしい。
「でも? 何? 君も好きだけど中川先生も好きです、って? 冗談言わないでよ。二股女なんかに用はないよ」
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