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第8章 カウンセラー
あなたは何を話したい?
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重い足取りで、3階への階段を上っている。
『ダイニングの後片づけを先に済ませちゃうから、9時半に3階の一番端の部屋に来て。東側のね』
そう言って。綾さんは、さっさとテーブルの上にある朝食の残りをキッチンへと運び始めた。
チーズを食べ野菜ジュースを飲み終え、綾さんを手伝うためにキッチンに行った……けど、ここはひとりで大丈夫だからと言われ、自室に戻った。
楽しくない時間というより。精神的に苦痛な時間がすぐあとに控えている憂鬱な気分のまま、明日使う小道具の準備をした。
そして、40分後の9時25分。
自分の部屋を後にした。
館の3階には汐と奏子、二人の両親、綾さんそれぞれの自室と客室がある。
東の一番端の部屋。
諦めの深呼吸をして、ドアをノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ってドアを閉めて振り返ると、そこは大きな弁護士事務所の応接室みたいな空間だった。
真ん中にゆったりとした二人掛けのソファが向かい合わせでふたつ。
その間にローテーブル。
部屋の南側の窓の下にはガラス戸の棚があり、オブジェとかオモチャみたいなものが所狭しと飾られている。
東側の窓のそばに、パソコンの載ったデスク。
もう一面には、本や書類ファイルの並んだ本棚とバスルームへのドアがある。
「いらっしゃい。そこに座ってくつろいで」
デスクの前の椅子から立ち上がり、綾さんが言った。
無言でソファに身を沈めた。
「さて……と」
僕の正面に腰を下ろした綾さんの手には、分厚いファイル。
それを見ただけで、もう帰りたくなる。
僕がエルファのカウンセリングをはじめて受けたのは、事件から9日後。
監禁場所から逃げ出して保護されてから7日後だった。
すでにその時点で、僕に関する資料は豊富にあった。
母の検死結果報告書。
僕の身体の外傷の診療報告書。
事件現場の鑑識結果報告書の一部。
ほかにもあるけど、主にその三つから。僕の身体と心に何が起こったのか、大体のことがわかる。
そして、それをもとにカウンセリングは行われた。
今、綾さんが持っているファイルには。最初からエルファが得ていた情報プラス、これまでに彼の行ったカウンセリングの報告書が含まれているはず。
つまり、綾さんはエルファが知っていることはすべて知っている。
あの事件のすべて……あの場にいた僕にしか知り得ないことで、僕が話していないことを除いて……を。
「はじめに断っておくけど、私は通常のカウンセリングをするつもりはないの」
え……?
「一通りのカウンセリングは、すでにエルファがやってるんだから。あなたがさっき言ったように……」
綾さんは手に持ったファイルをテーブルに置いて、その表面を指で叩く。
「ここに記載されている以上のことを、あなたから聞き出せるとは思ってないもの」
「じゃあ、あなたは……僕と何を話したいんですか?」
綾さんはニッコリして僕を見る。
「そうね……あなたは何を話したい?」
「僕が話したいことは、特にありません」
淡々と事実を伝える。
「あの事件を主観的になぞり、さらに客観的に見て僕のアイデンティティの一部として受け入れる。そのために、何十回も起きたことを繰り返し話しました。今はもう、それを人に聞かされたり自分から人に話す行為がトリガーとなって僕がPTSDの症状を示すことはありません」
「ジャルド……」
綾さんが溜息をつく。
「1年前にあなたの身に起きたことを、無理に話させる気はないわ」
「それ以外に何を……?」
「何でも。守秘義務の名目があるから、ほかのクライアントたちのカウンセリングの内容は話せないけど、それ以外なら何でもオーケーよ。好きな映画の話でも恋愛相談でも。いじめっ子の悪口でも、殺人計画でも。あなたがしたいなら、下ネタでもかまわない」
じっと僕を見つめる綾さんを、黙って見つめ返す。
「私たちリシールは、身体の成長は人間と同じでも、精神の成熟は速い。だから、15歳になれば大人と同様の扱いになるし、10歳を過ぎれば自分の行動の責任は自分で取ることを求められる。その代わり、主張する権利や知る権利も得る。私とのカウンセリングにタブーな話題はないわ。どう?」
そう言われても……特に話したいことはないんだけど。
どうしてもカウンセリングをやらなきゃいけないなら、せめて楽しく時間を潰そうってこと……?
じゃないよね。
綾さんは、僕をダシにしてエルファと賭けをしているんだから。
「ただの世間話をすることで、僕の心を開けるんですか?」
「どうかしらね。少なくとも、会話を重ねることでお互いを知っていけば、今よりガードは下がるでしょう?」
「僕を賭けに使っていると宣言しておきながら、ガードを下げることを期待されても困ります」
「あら。自分に有利になるから教えたのよ。賭けのこと」
眉を寄せた。
「あなたが勝つように、僕が協力すると……何故そう思うんですか?」
「私が勝ったら、メイドのエルファを1日分、ジャルドにあげる」
これ以上のご褒美は存在しないかのような綾さんの言い方と満足げな微笑みに、半開きになった口をそのまま横に開いて笑った。
もういいや、今日は。
この人に勝てなくても。
綾さんはきっと、僕とは違う星の住人なんだ。
「わかりました」
一気に脱力して。綾さんのオファーを受け入れて、カウンセリングという名の世間話をスタートさせた。
『ダイニングの後片づけを先に済ませちゃうから、9時半に3階の一番端の部屋に来て。東側のね』
そう言って。綾さんは、さっさとテーブルの上にある朝食の残りをキッチンへと運び始めた。
チーズを食べ野菜ジュースを飲み終え、綾さんを手伝うためにキッチンに行った……けど、ここはひとりで大丈夫だからと言われ、自室に戻った。
楽しくない時間というより。精神的に苦痛な時間がすぐあとに控えている憂鬱な気分のまま、明日使う小道具の準備をした。
そして、40分後の9時25分。
自分の部屋を後にした。
館の3階には汐と奏子、二人の両親、綾さんそれぞれの自室と客室がある。
東の一番端の部屋。
諦めの深呼吸をして、ドアをノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ってドアを閉めて振り返ると、そこは大きな弁護士事務所の応接室みたいな空間だった。
真ん中にゆったりとした二人掛けのソファが向かい合わせでふたつ。
その間にローテーブル。
部屋の南側の窓の下にはガラス戸の棚があり、オブジェとかオモチャみたいなものが所狭しと飾られている。
東側の窓のそばに、パソコンの載ったデスク。
もう一面には、本や書類ファイルの並んだ本棚とバスルームへのドアがある。
「いらっしゃい。そこに座ってくつろいで」
デスクの前の椅子から立ち上がり、綾さんが言った。
無言でソファに身を沈めた。
「さて……と」
僕の正面に腰を下ろした綾さんの手には、分厚いファイル。
それを見ただけで、もう帰りたくなる。
僕がエルファのカウンセリングをはじめて受けたのは、事件から9日後。
監禁場所から逃げ出して保護されてから7日後だった。
すでにその時点で、僕に関する資料は豊富にあった。
母の検死結果報告書。
僕の身体の外傷の診療報告書。
事件現場の鑑識結果報告書の一部。
ほかにもあるけど、主にその三つから。僕の身体と心に何が起こったのか、大体のことがわかる。
そして、それをもとにカウンセリングは行われた。
今、綾さんが持っているファイルには。最初からエルファが得ていた情報プラス、これまでに彼の行ったカウンセリングの報告書が含まれているはず。
つまり、綾さんはエルファが知っていることはすべて知っている。
あの事件のすべて……あの場にいた僕にしか知り得ないことで、僕が話していないことを除いて……を。
「はじめに断っておくけど、私は通常のカウンセリングをするつもりはないの」
え……?
「一通りのカウンセリングは、すでにエルファがやってるんだから。あなたがさっき言ったように……」
綾さんは手に持ったファイルをテーブルに置いて、その表面を指で叩く。
「ここに記載されている以上のことを、あなたから聞き出せるとは思ってないもの」
「じゃあ、あなたは……僕と何を話したいんですか?」
綾さんはニッコリして僕を見る。
「そうね……あなたは何を話したい?」
「僕が話したいことは、特にありません」
淡々と事実を伝える。
「あの事件を主観的になぞり、さらに客観的に見て僕のアイデンティティの一部として受け入れる。そのために、何十回も起きたことを繰り返し話しました。今はもう、それを人に聞かされたり自分から人に話す行為がトリガーとなって僕がPTSDの症状を示すことはありません」
「ジャルド……」
綾さんが溜息をつく。
「1年前にあなたの身に起きたことを、無理に話させる気はないわ」
「それ以外に何を……?」
「何でも。守秘義務の名目があるから、ほかのクライアントたちのカウンセリングの内容は話せないけど、それ以外なら何でもオーケーよ。好きな映画の話でも恋愛相談でも。いじめっ子の悪口でも、殺人計画でも。あなたがしたいなら、下ネタでもかまわない」
じっと僕を見つめる綾さんを、黙って見つめ返す。
「私たちリシールは、身体の成長は人間と同じでも、精神の成熟は速い。だから、15歳になれば大人と同様の扱いになるし、10歳を過ぎれば自分の行動の責任は自分で取ることを求められる。その代わり、主張する権利や知る権利も得る。私とのカウンセリングにタブーな話題はないわ。どう?」
そう言われても……特に話したいことはないんだけど。
どうしてもカウンセリングをやらなきゃいけないなら、せめて楽しく時間を潰そうってこと……?
じゃないよね。
綾さんは、僕をダシにしてエルファと賭けをしているんだから。
「ただの世間話をすることで、僕の心を開けるんですか?」
「どうかしらね。少なくとも、会話を重ねることでお互いを知っていけば、今よりガードは下がるでしょう?」
「僕を賭けに使っていると宣言しておきながら、ガードを下げることを期待されても困ります」
「あら。自分に有利になるから教えたのよ。賭けのこと」
眉を寄せた。
「あなたが勝つように、僕が協力すると……何故そう思うんですか?」
「私が勝ったら、メイドのエルファを1日分、ジャルドにあげる」
これ以上のご褒美は存在しないかのような綾さんの言い方と満足げな微笑みに、半開きになった口をそのまま横に開いて笑った。
もういいや、今日は。
この人に勝てなくても。
綾さんはきっと、僕とは違う星の住人なんだ。
「わかりました」
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