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第13章 鎮静の庭
本当の心は -4
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黒い森を背景に、青白い顔をした奏湖が立っていた。リージェイクはとうに知っていたのだろう。奏湖に向けた表情に驚きはない。
「あなたのことで揉めてるみたいだった。涼醒君の声、廊下まで聞こえたわ。『怖いなら、あんたひとりで逃げればいい。それなら希音も納得するさ』って…。あの浩司にも、怖いものがあるのね」
そう言って微かに笑い、奏湖は真剣な眼差しでキノを見つめた。
「希音さん。あなたにはちゃんと謝らなきゃと思ってたわ。ここにいるとは思わなかったけど…。ごめんなさい」
奏湖が頭を下げる。
キノの心に、奏湖を責める気は毛頭なかった。力の護りを巡る今回の苦境が、すでに終わったものだからか。それを強いたのは、ジャルドではなく運命だと思っているからか。あるいは、不条理とわかっていても、奏湖のしたことは全て愛故のものであると知っているからか。
いずれにしろ、無意識に首を振るキノの心は、奏湖の謝罪ではなく、その前の言葉に向けられている。
『怖いならひとりで逃げればいい』…涼醒も、私と同じことを思ったんだ。浩司は、愛することを禁じられた。だから、幸せも幻想のまま…触れなきゃ壊れない、手にしなきゃなくさない…求めちゃいけないものだった。心が何をほしがってるのか、ずっと見ないようにしてきた。だから…。
「知るのが怖いの…?」
自分の心も、幸せの意味も…。強い人間ほど、消えない幻想が必要なら、それをなくすことも…。
「え? 何を…?」
キノのつぶやきを自分への問いだと思い、奏湖が聞き返す。
ハッと我に返ったキノの目が捉えた、険のない落ち着いた奏湖の瞳。涙の乾いた後のその瞳に、愛する者の真実はどう映ったのだろうか。
「ううん…何でもない。今朝のことは…もういいの。護りはラシャに戻るし、希由香も無事だから」
キノは奏湖を真直ぐに見つめる。
「奏湖さん。今も…ジャルドを愛してる?」
奏湖は目をまばたいた。何故そんなことを聞くのかわからないといった表情が、柔らかい笑みに変わる。
「愛してるわ。昨日までの彼も、私の知らない彼も…ジャルドはジャルドだもの」
彼が彼であるかぎり、真実も虚像もなく彼を愛する。
ひたむきで純粋であるが故のその思いは、強さとともに弱さをも併せ持つ。相手の全てを許容し得るということは、疑念や不信の芽吹きを阻害し、見えない真実の存在を見逃してしまうこともある。特に、それが巧みに隠されたものならば。
希由香も…奏湖さんと同じように、浩司が浩司であればいい。彼女は、心で感じる彼の本質を愛してる。だから、見せない心は見えないまま、言わない本心は聞かないままでかまわなかった。思いは変わらない自信があったから。だけど…知りたかった。
「もっと早く、知りたかったわ」
奏湖の声が、キノの思考に重なる。
「ううん、気づけばよかったのね」
「本当のジャルドに…?」
「…本当の自分がわからなくなるほど、彼が…自分の心を無視することに慣れきってたんだってこと。ジャルドの支配から一番逃れたかったのは彼自身だってことに…」
溜息を吐きながら、奏湖が空を仰ぐ。
「不要な感情は表さない。心の奥は誰にも見せない。それがジャルドだったの。いつだって冷静で冷酷で、怖いものなんて何もない。その代わり…彼にはほしいものもなかった。彼の望むことはいつも、継承者として、支配者としてのものだけ…不自然だと思うべきだったわ」
不可解そうに眉を寄せるキノを見つめ、奏湖が寂し気に笑う。
「自分のために何もほしがらない、何も怖がらない…それは、自分のために生きてないってことと同じだもの」
「でも、ジャルドはそのフリをしてたんでしょ?」
「そうね。ただ、確かに始めはそうでも、子どもの頃から、ずっとよ。素の自分を見失うには充分な時間だわ。だから、ないがしろにしてた本心に気づいても、自分からは言い出せなかったのかもしれない。彼は…臆病になってたのよ。踏み込もうとしなかった、私もね」
「こうなってよかったと思ってる?」
「…ええ。リージェイクの言った通りだとしたら、ジャルドは彼を待ってたような気さえするわ」
キノは目を見開いた。出口を見つけた答えに、確信の力が宿る。
「これからの心配もあるけど…」
奏湖がリージェイクを見やる。つられて向けられたキノの視線の先で、リージェイクがいうなずいた。
「浩司にも、心を解くきっかけが必要だとしたら…あなたはそれになれる」
微笑むリージェイクに、キノはしっかりとうなずき返す。
「ありがとう。あなたと話せて、本当によかった。私…戻らなきゃ…」
キノは勢い良く立ち上がった。夜に融けた館の端に一瞬目を留め、その視線を奏湖へと戻す。
「あなたにも、今ここで会えてよかった」
「私もよ。夜明けには…私たちも、中空の間に行くわ」
「…またね」
キノはつぶやいて微笑んだ。奏湖に、リージェイクに、そして、補色を散りばめた濃紺の天と地に。
「会は無事に…?」
森へ向かうキノの後姿が闇に同化する頃、リージェイクの静かな声が沈黙を破る。
「私が目を醒ましたのは、ついさっきよ。会には出てないわ」
奏湖の声が微かに震える。
「詳しいいきさつは知らないけど、浩司が…何の混乱も起こさずに解散させたらしいわ。ジャルドの謝罪も…」
「ラシャには…?」
奏湖が腕時計を見やる。
「交信は、お姉ちゃんと浩司がすることになってる。『護りは明日、希音さんたちが無事持ち帰る。ラシャの者が降りるような状況は起きていない』って。今朝のことは…何も報告しないみたい。あんな目に合わされたのに、不思議よね」
「必要ないとわかっているからでしょう。ジャルドが自分で片をつけるなら、一族の問題をラシャに持っていくことはない」
「…むこうはきっとそう思ってないわ。それを承知で、彼は明日ラシャに降りるつもりなの。呼ばれても呼ばれなくてもよ」
リージェイクの瞳にあるかなきかのとまどいが奔るのを見て、奏湖が深く息を吸う。
「その理由も聞いたわ」
穏やかな水面が突然沸騰するかのように、二人を取り巻く空間が緊迫する。
「もっとも…全部じゃなく、まだほんの一部だけだけど」
「…きみがここに来たのはそのためか」
「あなたに…聞きたいことがあるの」
「あなたのことで揉めてるみたいだった。涼醒君の声、廊下まで聞こえたわ。『怖いなら、あんたひとりで逃げればいい。それなら希音も納得するさ』って…。あの浩司にも、怖いものがあるのね」
そう言って微かに笑い、奏湖は真剣な眼差しでキノを見つめた。
「希音さん。あなたにはちゃんと謝らなきゃと思ってたわ。ここにいるとは思わなかったけど…。ごめんなさい」
奏湖が頭を下げる。
キノの心に、奏湖を責める気は毛頭なかった。力の護りを巡る今回の苦境が、すでに終わったものだからか。それを強いたのは、ジャルドではなく運命だと思っているからか。あるいは、不条理とわかっていても、奏湖のしたことは全て愛故のものであると知っているからか。
いずれにしろ、無意識に首を振るキノの心は、奏湖の謝罪ではなく、その前の言葉に向けられている。
『怖いならひとりで逃げればいい』…涼醒も、私と同じことを思ったんだ。浩司は、愛することを禁じられた。だから、幸せも幻想のまま…触れなきゃ壊れない、手にしなきゃなくさない…求めちゃいけないものだった。心が何をほしがってるのか、ずっと見ないようにしてきた。だから…。
「知るのが怖いの…?」
自分の心も、幸せの意味も…。強い人間ほど、消えない幻想が必要なら、それをなくすことも…。
「え? 何を…?」
キノのつぶやきを自分への問いだと思い、奏湖が聞き返す。
ハッと我に返ったキノの目が捉えた、険のない落ち着いた奏湖の瞳。涙の乾いた後のその瞳に、愛する者の真実はどう映ったのだろうか。
「ううん…何でもない。今朝のことは…もういいの。護りはラシャに戻るし、希由香も無事だから」
キノは奏湖を真直ぐに見つめる。
「奏湖さん。今も…ジャルドを愛してる?」
奏湖は目をまばたいた。何故そんなことを聞くのかわからないといった表情が、柔らかい笑みに変わる。
「愛してるわ。昨日までの彼も、私の知らない彼も…ジャルドはジャルドだもの」
彼が彼であるかぎり、真実も虚像もなく彼を愛する。
ひたむきで純粋であるが故のその思いは、強さとともに弱さをも併せ持つ。相手の全てを許容し得るということは、疑念や不信の芽吹きを阻害し、見えない真実の存在を見逃してしまうこともある。特に、それが巧みに隠されたものならば。
希由香も…奏湖さんと同じように、浩司が浩司であればいい。彼女は、心で感じる彼の本質を愛してる。だから、見せない心は見えないまま、言わない本心は聞かないままでかまわなかった。思いは変わらない自信があったから。だけど…知りたかった。
「もっと早く、知りたかったわ」
奏湖の声が、キノの思考に重なる。
「ううん、気づけばよかったのね」
「本当のジャルドに…?」
「…本当の自分がわからなくなるほど、彼が…自分の心を無視することに慣れきってたんだってこと。ジャルドの支配から一番逃れたかったのは彼自身だってことに…」
溜息を吐きながら、奏湖が空を仰ぐ。
「不要な感情は表さない。心の奥は誰にも見せない。それがジャルドだったの。いつだって冷静で冷酷で、怖いものなんて何もない。その代わり…彼にはほしいものもなかった。彼の望むことはいつも、継承者として、支配者としてのものだけ…不自然だと思うべきだったわ」
不可解そうに眉を寄せるキノを見つめ、奏湖が寂し気に笑う。
「自分のために何もほしがらない、何も怖がらない…それは、自分のために生きてないってことと同じだもの」
「でも、ジャルドはそのフリをしてたんでしょ?」
「そうね。ただ、確かに始めはそうでも、子どもの頃から、ずっとよ。素の自分を見失うには充分な時間だわ。だから、ないがしろにしてた本心に気づいても、自分からは言い出せなかったのかもしれない。彼は…臆病になってたのよ。踏み込もうとしなかった、私もね」
「こうなってよかったと思ってる?」
「…ええ。リージェイクの言った通りだとしたら、ジャルドは彼を待ってたような気さえするわ」
キノは目を見開いた。出口を見つけた答えに、確信の力が宿る。
「これからの心配もあるけど…」
奏湖がリージェイクを見やる。つられて向けられたキノの視線の先で、リージェイクがいうなずいた。
「浩司にも、心を解くきっかけが必要だとしたら…あなたはそれになれる」
微笑むリージェイクに、キノはしっかりとうなずき返す。
「ありがとう。あなたと話せて、本当によかった。私…戻らなきゃ…」
キノは勢い良く立ち上がった。夜に融けた館の端に一瞬目を留め、その視線を奏湖へと戻す。
「あなたにも、今ここで会えてよかった」
「私もよ。夜明けには…私たちも、中空の間に行くわ」
「…またね」
キノはつぶやいて微笑んだ。奏湖に、リージェイクに、そして、補色を散りばめた濃紺の天と地に。
「会は無事に…?」
森へ向かうキノの後姿が闇に同化する頃、リージェイクの静かな声が沈黙を破る。
「私が目を醒ましたのは、ついさっきよ。会には出てないわ」
奏湖の声が微かに震える。
「詳しいいきさつは知らないけど、浩司が…何の混乱も起こさずに解散させたらしいわ。ジャルドの謝罪も…」
「ラシャには…?」
奏湖が腕時計を見やる。
「交信は、お姉ちゃんと浩司がすることになってる。『護りは明日、希音さんたちが無事持ち帰る。ラシャの者が降りるような状況は起きていない』って。今朝のことは…何も報告しないみたい。あんな目に合わされたのに、不思議よね」
「必要ないとわかっているからでしょう。ジャルドが自分で片をつけるなら、一族の問題をラシャに持っていくことはない」
「…むこうはきっとそう思ってないわ。それを承知で、彼は明日ラシャに降りるつもりなの。呼ばれても呼ばれなくてもよ」
リージェイクの瞳にあるかなきかのとまどいが奔るのを見て、奏湖が深く息を吸う。
「その理由も聞いたわ」
穏やかな水面が突然沸騰するかのように、二人を取り巻く空間が緊迫する。
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