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第12章 祈り
静止する心
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未来は不確かなものだからこそ、幸福の最中にさえ不安は生まれ、そして、いかなる時も希望はゼロになり得ない。
心の有り様を除けば、最も不確定であるはずの生死。自ら選べぬべきその時は、何によって定められているのだろう。事前に知らされた来たる運命への抗議は、どこへ向ければいいのだろう。
リシールの継承者の寿命は、34年に満たない。
その事実を知ったキノの心は慟哭した。
目の前にいる男が、同じ魂を持つ希由香の愛する男、キノ自身も彼の幸せを願ってやまない浩司が、3年後の冬には存在しなくなる未来に。どうにもならないことの多くは酷な意味を持ち、受け入れ難くとも我が身を取り込んでいく貪欲な真実であることに。
暗くなり始めた窓の外。夜の気配を含んだ風のみが、凝り固まる部屋の空気を揺らす。重い沈黙がどのくらいの時間続いていたのかを知る太陽の尻尾が、名残惜し気にこの空を去ろうとしていた。
「キノ…ほかに聞きたいことはあるか?」
静けさを少しも乱さぬ、宥めるような優しい声で浩司が言った。キノはまばたいて、浩司を見つめる瞳から涙を落とす。けれども、その唇は言葉を紡げない。
「俺の祈りは、自分勝手なものだとわかってる。記憶を消しても、俺と会わなかった場合の未来に繋がるわけじゃない。忘れさせても、過去がなかったことにはならない」
まるで自分自身に言い聞かせるかのような口調で、浩司が続ける。
「それでも、俺を思い続ける可能性はなくなる。希由香にとってもその方がいいと…決めたのは俺だ。あいつの運命を他人の俺が選ぶからには、後の後悔も全て俺が負う。死ぬ時にする一番の後悔は、もう決まってるがな」
浩司の視線はキノを正面に捉えている。けれども、その瞳が見ているのは、キノではない何か。心の奥に潜む深淵、その底に秘める切ない思いの向かうべきところ。語ることを禁じられた切望と、憧憬し続けるもの。
「希音…大丈夫か?」
心配と不安の色をありありと含んだ声で、涼醒が言った。何も言わず身動きすらせずに浩司に目を止めたまま、キノは全く反応を見せない。その横顔を悲痛な瞳で見つめ、涼醒が続ける。
「浩司の祈り…納得出来たのか?」
涼醒がそう尋ねたのは、キノの肯定を予想してではない。むしろ、否定して感情を露にさせたいがための問いだった。
これまで、動揺する事柄を受け止めようとする時、キノは心に湧く感情を表に吐き出してきた。疑問を問いただし、自らを納得させてきた。どうにもならないとわかっていることに嘆いても仕方ない。それを自覚しながらも、心に溜まる澱をいくらかでも解き放ち浄化することを、憤りや悲しみと対峙する助けにしてきた。
そして、今、キノはただ静かだった。それがかえって、キノを思う涼醒の心を緊張させている。
身体に受けた傷は、外よりも中への出血の方が危険な場合が多い。時に心も同様と言えるだろう。落ち着きと対極にある、最たる動揺の表れ。キノの平静さはそれだと、涼醒は危惧していた。
「希音…? 浩司に聞きたいことも、言いたいこともないのか? ずっと不安で、知りたかったことだろ? 聞いて満足したんなら、どう思うかくらい言ってみろよ」
涼醒は、故意に強い口調で言った。キノの心を外へと向けるために。無言で涙の原因に飲み込まれるのを待つより、非情な運命を罵り泣き喚いてほしかった。内に抱え込む感情の爆発に、精神を危うくされてしまう前に。
「浩司の望みを叶えてやりたくて頑張ったんじゃないのか? おまえも、自分が納得した上で発動させたいだろ?」
キノはピクリとも動かない。その耳に聞こえているはずの言葉は、心を揺すりはしても、そこから思いを連れ出すに至らないのだろうか。
「涼醒」
浩司が溜息をついた。キノと合わせていた目をゆっくり涼醒へと移す。
「しばらく放っといてやれ」
「だけど…」
「後から、キノの言い分を聞く時間はまだある」
キノに留めていた視線を引き剥がし、涼醒が浩司を見る。
「あんたの祈りは…」
微かに眉を寄せながら言いかけ、涼醒は言葉を途切らせた。頭を振って俯く涼醒に、浩司がつぶやく。
「おまえにも謝らなけりゃな」
涼醒が顔を上げるのを待って、浩司が続ける。
「すまなかった。おまえにどれほどのプレッシャーを与えることになるか充分承知の上で、精神が保たないかもしれない危険を冒した。どうしても護りを見つけたいというのももちろんあったが…その在処がわかった時は、キノに話さなけりゃならない。それを先に延ばしたかったのも、理由のひとつだ。出来れば、知らせずにおきたかった…護りを手に入れるまではな」
浩司は手元に落とした視線をキノへと向けた。口を開こうとした涼醒が、ふいにドアを見やる。
「誰か来る」
「…汐だ。俺を呼びに来たんだろう」
浩司の言葉が終わらぬうちに、ドアが控えめにノックされた。
「今夜、館にいる者達に、ジャルドが話すことになってる。何がどうなったのか聞かなけりゃ、皆帰るに帰れないらしい」
「あんたもその集会ってやつに?」
「実際にラシャに降りても、この力を使っても…自分がリシールの継承者だという実感はない。だが、それ以外の俺は…もういないも同然だからな」
そう言って立ち上がった浩司を目で追うキノの頭が動いた。小刻みに首を左右に振るその頬を、新たな一しずくの涙が伝い落ちる。それが何を憂うものなのか、何に対しての否定なのか語ることもなく、キノは再び時を止めたかのように静止した。
「キノ、これをラシャに持って行ってくれないか」
無言のまま痛いほどの眼差しを向けているキノの手に、浩司が何かを握らせる。
「シキに、預かっててくれと伝えて欲しい。それともうひとつ…祈りに変更はないとな」
浩司は力の抜けたようなキノの手の平を固く閉じさせ、その拳を両手で包んだ。
「おまえに…あいつの記憶を残したままですまない」
キノの瞳が揺れる。何を伝えたいのか、何を見透かしたいのか。その意思を表さぬ心の覗き窓は、ぼかされた虚ろな輪郭すら外からは見えない。
キノの視界から、浩司が消える。
「集会が終わったら、戻って来てくれ。話はまだ終わっちゃいないよな。あんただって、希音が納得してるとは思ってないだろ?」
「…それまでに、キノを落ち着かせてやれ」
涼醒にそう言い残し、浩司は部屋を出て行った。
心の有り様を除けば、最も不確定であるはずの生死。自ら選べぬべきその時は、何によって定められているのだろう。事前に知らされた来たる運命への抗議は、どこへ向ければいいのだろう。
リシールの継承者の寿命は、34年に満たない。
その事実を知ったキノの心は慟哭した。
目の前にいる男が、同じ魂を持つ希由香の愛する男、キノ自身も彼の幸せを願ってやまない浩司が、3年後の冬には存在しなくなる未来に。どうにもならないことの多くは酷な意味を持ち、受け入れ難くとも我が身を取り込んでいく貪欲な真実であることに。
暗くなり始めた窓の外。夜の気配を含んだ風のみが、凝り固まる部屋の空気を揺らす。重い沈黙がどのくらいの時間続いていたのかを知る太陽の尻尾が、名残惜し気にこの空を去ろうとしていた。
「キノ…ほかに聞きたいことはあるか?」
静けさを少しも乱さぬ、宥めるような優しい声で浩司が言った。キノはまばたいて、浩司を見つめる瞳から涙を落とす。けれども、その唇は言葉を紡げない。
「俺の祈りは、自分勝手なものだとわかってる。記憶を消しても、俺と会わなかった場合の未来に繋がるわけじゃない。忘れさせても、過去がなかったことにはならない」
まるで自分自身に言い聞かせるかのような口調で、浩司が続ける。
「それでも、俺を思い続ける可能性はなくなる。希由香にとってもその方がいいと…決めたのは俺だ。あいつの運命を他人の俺が選ぶからには、後の後悔も全て俺が負う。死ぬ時にする一番の後悔は、もう決まってるがな」
浩司の視線はキノを正面に捉えている。けれども、その瞳が見ているのは、キノではない何か。心の奥に潜む深淵、その底に秘める切ない思いの向かうべきところ。語ることを禁じられた切望と、憧憬し続けるもの。
「希音…大丈夫か?」
心配と不安の色をありありと含んだ声で、涼醒が言った。何も言わず身動きすらせずに浩司に目を止めたまま、キノは全く反応を見せない。その横顔を悲痛な瞳で見つめ、涼醒が続ける。
「浩司の祈り…納得出来たのか?」
涼醒がそう尋ねたのは、キノの肯定を予想してではない。むしろ、否定して感情を露にさせたいがための問いだった。
これまで、動揺する事柄を受け止めようとする時、キノは心に湧く感情を表に吐き出してきた。疑問を問いただし、自らを納得させてきた。どうにもならないとわかっていることに嘆いても仕方ない。それを自覚しながらも、心に溜まる澱をいくらかでも解き放ち浄化することを、憤りや悲しみと対峙する助けにしてきた。
そして、今、キノはただ静かだった。それがかえって、キノを思う涼醒の心を緊張させている。
身体に受けた傷は、外よりも中への出血の方が危険な場合が多い。時に心も同様と言えるだろう。落ち着きと対極にある、最たる動揺の表れ。キノの平静さはそれだと、涼醒は危惧していた。
「希音…? 浩司に聞きたいことも、言いたいこともないのか? ずっと不安で、知りたかったことだろ? 聞いて満足したんなら、どう思うかくらい言ってみろよ」
涼醒は、故意に強い口調で言った。キノの心を外へと向けるために。無言で涙の原因に飲み込まれるのを待つより、非情な運命を罵り泣き喚いてほしかった。内に抱え込む感情の爆発に、精神を危うくされてしまう前に。
「浩司の望みを叶えてやりたくて頑張ったんじゃないのか? おまえも、自分が納得した上で発動させたいだろ?」
キノはピクリとも動かない。その耳に聞こえているはずの言葉は、心を揺すりはしても、そこから思いを連れ出すに至らないのだろうか。
「涼醒」
浩司が溜息をついた。キノと合わせていた目をゆっくり涼醒へと移す。
「しばらく放っといてやれ」
「だけど…」
「後から、キノの言い分を聞く時間はまだある」
キノに留めていた視線を引き剥がし、涼醒が浩司を見る。
「あんたの祈りは…」
微かに眉を寄せながら言いかけ、涼醒は言葉を途切らせた。頭を振って俯く涼醒に、浩司がつぶやく。
「おまえにも謝らなけりゃな」
涼醒が顔を上げるのを待って、浩司が続ける。
「すまなかった。おまえにどれほどのプレッシャーを与えることになるか充分承知の上で、精神が保たないかもしれない危険を冒した。どうしても護りを見つけたいというのももちろんあったが…その在処がわかった時は、キノに話さなけりゃならない。それを先に延ばしたかったのも、理由のひとつだ。出来れば、知らせずにおきたかった…護りを手に入れるまではな」
浩司は手元に落とした視線をキノへと向けた。口を開こうとした涼醒が、ふいにドアを見やる。
「誰か来る」
「…汐だ。俺を呼びに来たんだろう」
浩司の言葉が終わらぬうちに、ドアが控えめにノックされた。
「今夜、館にいる者達に、ジャルドが話すことになってる。何がどうなったのか聞かなけりゃ、皆帰るに帰れないらしい」
「あんたもその集会ってやつに?」
「実際にラシャに降りても、この力を使っても…自分がリシールの継承者だという実感はない。だが、それ以外の俺は…もういないも同然だからな」
そう言って立ち上がった浩司を目で追うキノの頭が動いた。小刻みに首を左右に振るその頬を、新たな一しずくの涙が伝い落ちる。それが何を憂うものなのか、何に対しての否定なのか語ることもなく、キノは再び時を止めたかのように静止した。
「キノ、これをラシャに持って行ってくれないか」
無言のまま痛いほどの眼差しを向けているキノの手に、浩司が何かを握らせる。
「シキに、預かっててくれと伝えて欲しい。それともうひとつ…祈りに変更はないとな」
浩司は力の抜けたようなキノの手の平を固く閉じさせ、その拳を両手で包んだ。
「おまえに…あいつの記憶を残したままですまない」
キノの瞳が揺れる。何を伝えたいのか、何を見透かしたいのか。その意思を表さぬ心の覗き窓は、ぼかされた虚ろな輪郭すら外からは見えない。
キノの視界から、浩司が消える。
「集会が終わったら、戻って来てくれ。話はまだ終わっちゃいないよな。あんただって、希音が納得してるとは思ってないだろ?」
「…それまでに、キノを落ち着かせてやれ」
涼醒にそう言い残し、浩司は部屋を出て行った。
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