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第11章 守るべきもの、切望するもの
冷たい仮面の下に -4
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奏湖の眉間に刻まれた細い皺が表すのは、キノに対する怒りではない。
それぞれが何を選び、物事がどの方向へ向かおうとしているのか。そして、自らの取るべき道がある。
その理をわかってはいても、よりどころとしていた支えの一部を突然失い、奏湖は自分を見失っていた。心の弱さを完全に制御するには未だ未成熟な己への苛立ちと焦燥が、奏湖の瞳を歪ませている。
「誰も希音さんを説得する気はないの?」
奏湖が部屋を見まわす。けれども、視線をジャルドに留める勇気はない。
ナイフの刃が柔らかいキノの肌を撫で、首に紅い線が薄くついた。
「奏湖…!」
涼醒が叫ぶ。キノは身じろぎもせず、奏湖を見つめている。汐とリージェイクは、かけるべき言葉を探している。その場から動かずに、浩司が口を開く。
「おまえも、これと決めたことには自分の命を厭わず行動出来るんだろう。だが、自分のでも他人のでも、人の命を賭ける時…それで何を得て何を失うか、ちゃんと考えてやってるのか?」
奏湖が浩司を睨む。
「馬鹿にしないで。賭けに負けたらどうなるかくらい覚悟してるわ」
「一族の繁栄を願う…おまえが囚われているその望みは世界を壊す。たとえ完全な崩壊を免れたとしても、継承者の命を失うだけじゃなく多くの犠牲を払うのは確かだ。そうまでしてこの血を増やして何の意味がある? その後の世界がクリムと同じ道を辿るなら、ヴァイは時を止められるだけじゃ済まない。それだけの…」
「待って。今、何て…?」
浩司の言葉をさえぎる奏湖の顔には、当惑よりも濃い恐怖の色が浮かんでいる。
「何らかの事情があって時を止めるしかなかったらしいが、ラシャは…」
「違う! その前よ! 継承者の命を失う!? そう言ったの…?」
浩司が眉を寄せる。
「おまえ…知らなかったのか。ジャルドはおまえに…」
「奏湖!」
ジャルドの呼ぶ声に、奏湖の身体が一瞬強張った。小刻みに揺れる視線を、逆側へと移動させる。
「もう…やめるんだ。きみが一族の繁栄を望む理由はもうないだろう?」
ゆっくりと歩み寄るジャルドの瞳に射竦められ、全神経を彼に向ける奏湖は、ただ呼吸のみをしているかのように見える。
足を踏み出そうとした涼醒の腕を、浩司がつかむ。
今、奏湖のナイフからキノを救おうとするのは、容易く見えてそうではない。奏湖の意識から離れているであろうナイフの刃は、キノに触れている。今の奏湖であれば、咄嗟の反応の動きの方が、故意に行うものよりも危険なのは明らかだった。
唯一、奏湖の隙を的確に衝くことの出来るキノ本人ならば、喉元で紅く光る刃先から逃れることが出来たかもしれない。けれども、キノの意識も、ジャルドへと向けられている。
「本当なの…?」
聞き取れないほど小さく震える声で、奏湖が尋ねる。
「その時が来て、終わって…あなたがいなくなることで教えるつもりだったの? そんな…」
手の届く距離で足を止めたジャルドは、これ以上に辛いことはないというような瞳で奏湖を見つめている。
キノは今はっきりと気づいていた。ジャルドの瞳にある闇は浩司のものとは違う。けれども、ジャルドもまた、暗い闇の深淵でもがき苦しんでいるのだと。
「奏湖…」
ジャルドが奏湖へと手を伸ばす。
最後まで引くことをしなかった、支配者ジャルドの悲しい同志。部屋にいる全ての者が、奏湖を止められるのは、ジャルドだけだと知っている。
「私…一族の繁栄を願えば、ずっとあなたといられると思ってた」
奏湖がつぶやくように言う。ジャルドはナイフを握る奏湖の手をそっとつかみ、その刃をキノから離した。
「一緒に笑って…あなたが死ぬ時も、そばにいて…」
言葉を詰まらせる奏湖を胸に抱き寄せ、ジャルドはその耳元に何か囁いた。床を打つナイフの音が響く中、ジャルドの指先が奏湖の髪を優しく撫で、その額に触れる。
継承者の持つラシャの力に導かれ、ジャルドの腕に崩れる奏湖。その閉じた瞼から、涙がこぼれた。
それは悲しみ故か、喜び故か。あるいは、その両方を含むしずくなのか。愛する男の隠された真実を知り、それでも尚、彼を思う自分の心に安堵し、奏湖は今、安らかな境地に眠るのかもしれない。
ジャルドたちの望んでいた一族の繁栄は、継承者たちの命と引き換えに願われるものであるという事実。そして、大切なもののために己を賭す者たちの思いを知ったからだろうか。キノの脳裏にふと、浩司と交わした会話が甦る。
『愛する者を残して自分が死ぬのと、愛する者の死を見るのと、どっちが辛い?』
『…どっちも…辛いよ』
得体の知れぬ胸騒ぎを覚え、キノは足元をふらつかせた。奏湖の涙から視線を剥がし、窓から差し込む陽光に目を細める。
明日の夜明けに、護りは無事ラシャへと戻るだろう。その安心が、キノの心に残された不安を新たにする。
浩司が我が身よりも守りたかったもののひとつ、約束された護りの発動。
キノが浩司の祈りを知る時が来た。
それぞれが何を選び、物事がどの方向へ向かおうとしているのか。そして、自らの取るべき道がある。
その理をわかってはいても、よりどころとしていた支えの一部を突然失い、奏湖は自分を見失っていた。心の弱さを完全に制御するには未だ未成熟な己への苛立ちと焦燥が、奏湖の瞳を歪ませている。
「誰も希音さんを説得する気はないの?」
奏湖が部屋を見まわす。けれども、視線をジャルドに留める勇気はない。
ナイフの刃が柔らかいキノの肌を撫で、首に紅い線が薄くついた。
「奏湖…!」
涼醒が叫ぶ。キノは身じろぎもせず、奏湖を見つめている。汐とリージェイクは、かけるべき言葉を探している。その場から動かずに、浩司が口を開く。
「おまえも、これと決めたことには自分の命を厭わず行動出来るんだろう。だが、自分のでも他人のでも、人の命を賭ける時…それで何を得て何を失うか、ちゃんと考えてやってるのか?」
奏湖が浩司を睨む。
「馬鹿にしないで。賭けに負けたらどうなるかくらい覚悟してるわ」
「一族の繁栄を願う…おまえが囚われているその望みは世界を壊す。たとえ完全な崩壊を免れたとしても、継承者の命を失うだけじゃなく多くの犠牲を払うのは確かだ。そうまでしてこの血を増やして何の意味がある? その後の世界がクリムと同じ道を辿るなら、ヴァイは時を止められるだけじゃ済まない。それだけの…」
「待って。今、何て…?」
浩司の言葉をさえぎる奏湖の顔には、当惑よりも濃い恐怖の色が浮かんでいる。
「何らかの事情があって時を止めるしかなかったらしいが、ラシャは…」
「違う! その前よ! 継承者の命を失う!? そう言ったの…?」
浩司が眉を寄せる。
「おまえ…知らなかったのか。ジャルドはおまえに…」
「奏湖!」
ジャルドの呼ぶ声に、奏湖の身体が一瞬強張った。小刻みに揺れる視線を、逆側へと移動させる。
「もう…やめるんだ。きみが一族の繁栄を望む理由はもうないだろう?」
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今、奏湖のナイフからキノを救おうとするのは、容易く見えてそうではない。奏湖の意識から離れているであろうナイフの刃は、キノに触れている。今の奏湖であれば、咄嗟の反応の動きの方が、故意に行うものよりも危険なのは明らかだった。
唯一、奏湖の隙を的確に衝くことの出来るキノ本人ならば、喉元で紅く光る刃先から逃れることが出来たかもしれない。けれども、キノの意識も、ジャルドへと向けられている。
「本当なの…?」
聞き取れないほど小さく震える声で、奏湖が尋ねる。
「その時が来て、終わって…あなたがいなくなることで教えるつもりだったの? そんな…」
手の届く距離で足を止めたジャルドは、これ以上に辛いことはないというような瞳で奏湖を見つめている。
キノは今はっきりと気づいていた。ジャルドの瞳にある闇は浩司のものとは違う。けれども、ジャルドもまた、暗い闇の深淵でもがき苦しんでいるのだと。
「奏湖…」
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「私…一族の繁栄を願えば、ずっとあなたといられると思ってた」
奏湖がつぶやくように言う。ジャルドはナイフを握る奏湖の手をそっとつかみ、その刃をキノから離した。
「一緒に笑って…あなたが死ぬ時も、そばにいて…」
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それは悲しみ故か、喜び故か。あるいは、その両方を含むしずくなのか。愛する男の隠された真実を知り、それでも尚、彼を思う自分の心に安堵し、奏湖は今、安らかな境地に眠るのかもしれない。
ジャルドたちの望んでいた一族の繁栄は、継承者たちの命と引き換えに願われるものであるという事実。そして、大切なもののために己を賭す者たちの思いを知ったからだろうか。キノの脳裏にふと、浩司と交わした会話が甦る。
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『…どっちも…辛いよ』
得体の知れぬ胸騒ぎを覚え、キノは足元をふらつかせた。奏湖の涙から視線を剥がし、窓から差し込む陽光に目を細める。
明日の夜明けに、護りは無事ラシャへと戻るだろう。その安心が、キノの心に残された不安を新たにする。
浩司が我が身よりも守りたかったもののひとつ、約束された護りの発動。
キノが浩司の祈りを知る時が来た。
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