この世界よりも、あなたを救いたい~幸運がいつもあなたのそばにあるように~

Kinon

文字の大きさ
上 下
63 / 83
第11章 守るべきもの、切望するもの

冷たい仮面の下に -1

しおりを挟む
 生温かい血液が、キノの手の平とそこに握られているナイフのとの隙間すきまめる。
 キノの指先は、刃が肉を断つ音を聞いたのだろうか。キノの指は、自らの持つナイフが大切な者の身体からだを突き刺す感触を知ってしまったのだろうか。

 キノの手を包む浩司の掌は、刺衝ししょうによる反応を示すことはなく、その唇からうめきを発することもなかった。

 浩司…?

 まるで途切れた時の狭間はざまにでもおちいったかのように、一瞬の沈黙が終わらない。

 目を開けるのが怖い…!

 キノの耳に、すぐ頭上にある浩司の口ではなくその向こうから、深い息を吐く音が聞こえた。静かな声が、それに続く。

「手を離してください。血を流すのは、あなたの心だけで充分ではないですか」

 リージェイクの言葉に、当惑した声で浩司がつぶやく。

「おまえ…」

 キノは恐る恐る目を開けた。あかい血に染まるナイフを、キノの手が握っている。それに重なる浩司の指が、とまどうようにかすかに動いた。

「あなたが離さなければ、希音さんの手も血をぬぐえない」

 そう言ったリージェイクの手にも、しっかりとナイフが握られている。ただし、キノの持つナイフの、ではなくの部分が。

 12センチほどの刃の先端は、浩司のシャツをわずかに突き抜けていて見えない。臙脂色えんじいろの繊維の一部分は、血を含みその濃さを増している。けれども、したたる鮮血の大部分は、浩司の身体からだではなく、リージェイクの手の平と指から流れるものだった。

「どうして…あなたが…」

 気が動転しているキノに、いったい何が起こったのかを把握する余裕はない。

「手が…早く、手当しなくちゃ…血が…手を…」

「もう、浩司の命をたてにしなくてもいい。あなたたちが、こんなことをする必要はない」

 動揺するキノのが、真剣な眼差まなざしを向けるリージェイクと、彼に視線を静止させている浩司との間を泳ぐ。

「浩司…私があなたを止めたのは、継承者の力を守るためではない。手をどけてください」

 無言で手元を見やった浩司が、後ろを振り返る。

 いつの間にか、そこに立っていた涼醒が、リージェイクの腕をつかんだ。

「先にあんたが離さなけりゃ、浩司は引かない。希音も…心配してる。次があるようなら、俺が止めるさ」

「私なら、大丈夫です」

 血まみれの手の平をナイフからがし、リージェイクはキノに微笑んだ。

「目に見える傷なら、時がいやせる。心は…そう簡単にはいかない」

「早く…手当を…」

 キノの視線が部屋をめぐる。

「私が…」

 驚きの消えぬ顔で、奏湖が立ち上がる。ジャルドは、険しさに悲しみを混ぜたような、あきらめを安堵あんどまくで覆ったような、形容しがたひとみをキノたちの方に向けたまま黙っている。
 浩司は、リージェイクの行動に対して何も言わないジャルドをいぶかし気に見つめた。その指を、涼醒が軽く叩く。

「浩司…この男、リージェイクは、ジャルドの計画には参加してない。信じるかどうかは別でも…希音にあんたを刺させるなんてやめてくれ…本気だったろ?」

 涼醒の視線をとらえ、浩司が溜息ためいきをつく。

「何を守りきれなかったとしても、キノは心を痛めるだろう。ひとつを選ぶなら…これしかなかったからな」

 ためらいを見せながらも、浩司は震えるキノの手を離した。一瞬後、キノの指から滑り落ちたナイフが、あかいしずくを跳ね上げる。

「浩司は…何ともない?」

 沈痛ちんつう面持おももちで浩司を見つめるキノのひとみには、言葉にするまでもない確たる思いが満ちていた。
 もう二度と、浩司に向けるナイフは握らないと。

「少しかすっただけだ」

「もう…」

「わかってる…すまなかった」

 キノに微笑んだ浩司の視線が、リージェイクへと移る。

「おまえはここの継承者のひとりだろう? いったい何を考えてる? 俺の力をなくさないためでなけりゃ、何故なぜこんな真似をする?」

 テーブルのはす向い。空いている椅子に腰を下ろすリージェイクに、浩司がたずねる。

「あなたの命を危険にさらしたくはなかった。一族のためではなく…個人的に。リシールではない者の手を使っても、動かすのが本人なら命までは奪えない。でも、あなたは9の継承者だ。ナイフを持つ希音さんに殺す気がなくても、もしかしたらと…ジャルドも、内心あせったでしょう」

 浩司がジャルドを見る。無言のまま目を合わせるジャルドは、ナイフが浩司を突こうとした時から一言も発していない。

 浩司はリージェイクへと視線を戻す。

「どうして死なないと知ってる?」

「自分で何度も試したからよ」

 浩司の問いに、答えたのは奏湖だった。救急箱を手に、リージェイクの横に険しい表情をして立っている。

「手を出して。平気だと知ってても、いつまでも血を見てたくないわ」

「…ありがとう。頼みます」

 リージェイクはあかく染まった左手をテーブルの上に乗せた。その手の平と指に負った一筋の傷は、深く口を開いているにもかかわらず、そこを覆う血はすでに固まり始めている。

「あなたが何を考えてるのか、全くわからない。ジャルドも…」

 けた皮膚に薬を塗ったガーゼをあてながら、奏湖が頭を振った。

「何を聞いてもずっと黙ったまま…」

「彼の本心を聞く時が来た。本当の自分が何を望んでいるのか…彼自身も、知るべきだとわかっているはずだ」

 包帯を巻かれた指をもう一方の手で撫でながら、リージェイクが静かに言った。

「知りたいのは私の方よ!」

 薬箱のふたを叩きつけるように閉じ、奏湖はジャルドへと向かう。

 キノと涼醒、そして、浩司の視線が奏湖に向けられ、次にジャルドへと移る。狂喜きょうきの光を失ったそのは、リージェイクをじっと見つめている。

「ジャルド…どうして黙ってるの? 話し合いを再開するんでしょう? 護りを手にするまで、あと一歩なのよ」

 肩に置かれた奏湖の手に自分の手を重ね、ジャルドが目を閉じる。

「9人の継承者を揃えて一族の繁栄を願う。それがあなたの望みじゃないの? 私はあなたが望むなら何だってするわ」

 目を開けたジャルドは奏湖を見上げ、引き寄せたその指先にそっと口づけた。

「奏湖…」

 そのささやきは聞き取れないほど小さく、奏湖はジャルドの口元に耳を寄せる。

「私のためには、もう何もしなくていい」

「え…?」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

離婚した彼女は死ぬことにした

まとば 蒼
恋愛
2日に1回更新(希望)です。 ----------------- 事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。 ----------------- とあるコンテストに応募するためにひっそり書いていた作品ですが、最近ダレてきたので公開してみることにしました。 まだまだ荒くて調整が必要な話ですが、どんなに些細な内容でも反応を頂けると大変励みになります。 書きながら色々修正していくので、読み返したら若干展開が変わってたりするかもしれません。 作風が好みじゃない場合は回れ右をして自衛をお願いいたします。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

処理中です...