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第6章 ラシャ(Lusha)
ラシャ -1
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キノは不思議な感覚の中にいた。
何も見えないし、何も聞こえない…だけど不安じゃない。ひとりきりなのに、心細くはない。自分の鼓動も体温も、息をしていることすら感じない。でも、私は存在すると信じられる。ここが…世界とラシャを繋ぐ、無の空間…。
今、キノはイエルの世界からラシャへと降りる。
この感覚…宙に浮かんでいくんでも、底に沈んでいくんでもない。まるで、身体から抜け出した私の意識だけがあるみたい。そして、ただ…ここにいる…。世界とラシャのどっちに行くのも降りるって言うのは、ピッタリあてはまる言葉がないからなのか…。
自分が移動しているのか留まっているのかさえ、キノにはわからない。
いったいいつまで続くんだろう…。ラシャはどこ? 浩司も涼醒も、近くにいるの? 私はちゃんと出口に向かってるの?
辺りの様子を窺いたくとも、五感を失った状態にあるキノには成す術がない。
ここに入る前…浩司は何て言ったんだっけ…確か…。
浩司とキノが中空の間に戻ると、そこは闇に包まれていた。開かれた扉から差す廊下の灯りが、二人を待っていた湶樹の横顔を仄かに照らす。
「涼醒も、連れて行くことにした」
浩司のその言葉に、特に驚く様子もなく湶樹がうなずく。
「あと5、6分で明け始めるわ。あなたたちが今日降りること、ラシャは承知しているんでしょう?」
「予定通り待ってるはずだ」
「…道は私が開くわ」
浩司が怪訝そうな目を湶樹に向ける。
「あなたは…今はその力を使わない方がいい」
不安気な面持ちで二人を見つめるキノの横に、いつの間にか涼醒が立っている。
「そうしろよ。せっかくここにも継承者がいるんだ」
涼醒に向けた視線を湶樹へと戻し、浩司がうなずいた。
「わかった。始めてくれ」
湶樹が部屋の中央へと歩き石の池の前で足を止めると、涼醒が石の扉を閉めた。入り込む光を失った空間を、闇が満たす。
誰も何も言わず、時だけが静かに過ぎる。
目が慣れて来るに従い、キノは洞窟のようなこの部屋が完全に閉ざされてはいないことに気づいた。
ここに窓はなかったはずなのに…どこかから、光が入って来てる? 森の中は真っ暗だったけど、家のまわりは木が少なかったような…灯りを消した窓のない部屋より、外の方が明るいから…。
キノは四方を見まわした。湶樹の向こうの壁にわずかな隙間が開いているのが見える。床から天井まで、岩肌に亀裂が生じているような細い裂け目がある。
あそこから…。
静寂に支配された空間に、始めはうっすらと、そして、徐々にはっきりと朝の陽が射し込んでくる。岩の間からの鋭角な光が、夜気の漂う部屋を二分する。
夜が明ける…。
湶樹の後姿が逆光の中に浮かび上がる。真正面からの光線を浴びる湶樹は、身動きひとつせずに立ち尽くしている。
空が綺麗だろうな。ちょっとの陽射しでもこんなに紅く…え? 紅い…?
キノは目を見張る。
たとえ壁を隔てた空が朝焼けに染まっているとしても、陽の光自体が、ここまで紅く部屋を照らしはしない。
紅い光の原因は、湶樹の足元にある石の池だった。外からの陽よりも強い輝きを、部屋の中央から発している。
「開いたわ」
振り向いた湶樹がそう言うと、涼醒が深い息を吐いた。池の前に立ち、浩司がキノを呼ぶ。
「いいか。今からラシャに降りる。ここに入ったら、ラシャに行くことだけ考えろ。よけいなことを思うな」
「わかった」
キノは神妙な顔でうなずくと、紅い光の源を覗き込んだ。目を見開いて息を飲む。
つい先程までそこにあった岩の塊は外側の縁の部分だけを残して消え、その中には薄紅く澄んだ表面が、自らの放つ光によって輝いている。
「ここに…入るの?」
光る池から目を離さずに、キノがつぶやく。
「中は水に見えるが、空間だ。溺れる心配はない。安心しろ」
顔を上げたキノに、浩司が微笑む。
「俺が先に降りる。ラシャで俺が待ってると思えばいい。おまえが心からそこに行きたいと願えば、すぐに着く。忘れるな」
不安の拭いきれないキノの頭を軽く撫で、浩司が涼醒の方を向く。
「おまえはわかってるな」
「…子供の頃と4年前、2度降りただけだけど、大丈夫だ」
「キノが尻込みするようなら、頼む。必要ないといいがな」
「まかせてくれ」
緊張をほぐし、涼醒が笑う。
「湶樹、後のことは…」
「わかってるわ」
何とも形容し難い表情で浩司を見つめ、湶樹が言った。
「さようなら…」
浩司は黙ってうなずき、池の縁に足をかけた。
「浩…」
キノが声をかける前、ほんの一瞬の間に、浩司は紅い光の中に姿を消した。キノの見つめる池の表面には、何の衝撃の跡も見当たらない。
「キノさん、気をつけて行って来て。無事に護りの石を見つけること、願ってるわ。道はちゃんと開いてるから、安心して」
湶樹の声に振り向いたキノは、弱々しい微笑みを返す。
「ありがとう…戻って来たら…またね」
湶樹の視線が、涼醒に移る。
「涼醒…キノさんたちを助けてあげて。それから…ごめんなさい」
「謝るなよ。おまえは何も悪くない。腹が立ったのは、俺自身の…」
涼醒は言葉を濁し、溜息をついた。真剣な眼差しを湶樹に向ける。
「行ってくる。希音と帰る時、また道を開いて待ってろよ」
「…ええ」
湶樹は、涼醒の瞳を真直ぐに見てうなずいた。紅い池を再び見つめたまま動かないキノの肩を、涼醒が叩く。
「希音、あいつが俺に何を頼んで行ったか知ってるか?」
涼醒の笑顔に、キノは少しほっとした表情を浮かべる。
「何…?」
「もし、いつまでも希音に決心がつかないようだったら…突き落とせってさ」
キノは口を開けて涼醒を見つめる。
「自分で飛び込むのと、俺に背中を押されるのと…どっちがいい?」
「それは…」
キノの瞳から恐怖の色が消え去るのに、数秒とはかからなかった。
「自分で…入る」
「あいつがラシャで待ってる。俺もすぐに行くからな」
涼醒が優しく微笑んだ。足元からの紅い光に照らされ、キノの瞳が光る。
深呼吸とともに一度閉じた目をしっかりと開き、キノは池の縁を、イエルの世界の縁を|《け》蹴った。
あの時…紅く光る池を見ながら、考えてた。湶樹ちゃんの言葉の意味…気をつけてって私に言った。それは、私にとってはラシャもヴァイも初めての場所だから…。涼醒に、ごめんなさいって言ったのは? 俺が知らずにいたって…涼醒は、湶樹ちゃんから何を聞いたの…?
キノの意識は、未だ彷徨い続けている。
浩司にさようならって言った時の湶樹ちゃんの顔が…何故か気になる。私と涼醒はイエルに戻るけど、浩司はヴァイに帰るんだから、別れの言葉は自然なはずなのに…それだけの意味じゃなく感じたのは、ただの気のせい…? そして、浩司が私に言ったのは…。
キノの思考が、ようやくそこに辿り着く。
『ラシャに行くことだけ考えろ』
ここにいるのは…怖くない。不安でも危険でもない。だけど…ずっとひとりで、ここにいたくはない。ラシャに…行かなくちゃ…。救いたいものがある、知らなきゃいけないことがある…浩司がそこで待ってる。私は、どうしてもラシャに行きたいの…!
心が叫んだその瞬間、キノは自分の足がどこかを踏み締めるのを感じた。
何も見えないし、何も聞こえない…だけど不安じゃない。ひとりきりなのに、心細くはない。自分の鼓動も体温も、息をしていることすら感じない。でも、私は存在すると信じられる。ここが…世界とラシャを繋ぐ、無の空間…。
今、キノはイエルの世界からラシャへと降りる。
この感覚…宙に浮かんでいくんでも、底に沈んでいくんでもない。まるで、身体から抜け出した私の意識だけがあるみたい。そして、ただ…ここにいる…。世界とラシャのどっちに行くのも降りるって言うのは、ピッタリあてはまる言葉がないからなのか…。
自分が移動しているのか留まっているのかさえ、キノにはわからない。
いったいいつまで続くんだろう…。ラシャはどこ? 浩司も涼醒も、近くにいるの? 私はちゃんと出口に向かってるの?
辺りの様子を窺いたくとも、五感を失った状態にあるキノには成す術がない。
ここに入る前…浩司は何て言ったんだっけ…確か…。
浩司とキノが中空の間に戻ると、そこは闇に包まれていた。開かれた扉から差す廊下の灯りが、二人を待っていた湶樹の横顔を仄かに照らす。
「涼醒も、連れて行くことにした」
浩司のその言葉に、特に驚く様子もなく湶樹がうなずく。
「あと5、6分で明け始めるわ。あなたたちが今日降りること、ラシャは承知しているんでしょう?」
「予定通り待ってるはずだ」
「…道は私が開くわ」
浩司が怪訝そうな目を湶樹に向ける。
「あなたは…今はその力を使わない方がいい」
不安気な面持ちで二人を見つめるキノの横に、いつの間にか涼醒が立っている。
「そうしろよ。せっかくここにも継承者がいるんだ」
涼醒に向けた視線を湶樹へと戻し、浩司がうなずいた。
「わかった。始めてくれ」
湶樹が部屋の中央へと歩き石の池の前で足を止めると、涼醒が石の扉を閉めた。入り込む光を失った空間を、闇が満たす。
誰も何も言わず、時だけが静かに過ぎる。
目が慣れて来るに従い、キノは洞窟のようなこの部屋が完全に閉ざされてはいないことに気づいた。
ここに窓はなかったはずなのに…どこかから、光が入って来てる? 森の中は真っ暗だったけど、家のまわりは木が少なかったような…灯りを消した窓のない部屋より、外の方が明るいから…。
キノは四方を見まわした。湶樹の向こうの壁にわずかな隙間が開いているのが見える。床から天井まで、岩肌に亀裂が生じているような細い裂け目がある。
あそこから…。
静寂に支配された空間に、始めはうっすらと、そして、徐々にはっきりと朝の陽が射し込んでくる。岩の間からの鋭角な光が、夜気の漂う部屋を二分する。
夜が明ける…。
湶樹の後姿が逆光の中に浮かび上がる。真正面からの光線を浴びる湶樹は、身動きひとつせずに立ち尽くしている。
空が綺麗だろうな。ちょっとの陽射しでもこんなに紅く…え? 紅い…?
キノは目を見張る。
たとえ壁を隔てた空が朝焼けに染まっているとしても、陽の光自体が、ここまで紅く部屋を照らしはしない。
紅い光の原因は、湶樹の足元にある石の池だった。外からの陽よりも強い輝きを、部屋の中央から発している。
「開いたわ」
振り向いた湶樹がそう言うと、涼醒が深い息を吐いた。池の前に立ち、浩司がキノを呼ぶ。
「いいか。今からラシャに降りる。ここに入ったら、ラシャに行くことだけ考えろ。よけいなことを思うな」
「わかった」
キノは神妙な顔でうなずくと、紅い光の源を覗き込んだ。目を見開いて息を飲む。
つい先程までそこにあった岩の塊は外側の縁の部分だけを残して消え、その中には薄紅く澄んだ表面が、自らの放つ光によって輝いている。
「ここに…入るの?」
光る池から目を離さずに、キノがつぶやく。
「中は水に見えるが、空間だ。溺れる心配はない。安心しろ」
顔を上げたキノに、浩司が微笑む。
「俺が先に降りる。ラシャで俺が待ってると思えばいい。おまえが心からそこに行きたいと願えば、すぐに着く。忘れるな」
不安の拭いきれないキノの頭を軽く撫で、浩司が涼醒の方を向く。
「おまえはわかってるな」
「…子供の頃と4年前、2度降りただけだけど、大丈夫だ」
「キノが尻込みするようなら、頼む。必要ないといいがな」
「まかせてくれ」
緊張をほぐし、涼醒が笑う。
「湶樹、後のことは…」
「わかってるわ」
何とも形容し難い表情で浩司を見つめ、湶樹が言った。
「さようなら…」
浩司は黙ってうなずき、池の縁に足をかけた。
「浩…」
キノが声をかける前、ほんの一瞬の間に、浩司は紅い光の中に姿を消した。キノの見つめる池の表面には、何の衝撃の跡も見当たらない。
「キノさん、気をつけて行って来て。無事に護りの石を見つけること、願ってるわ。道はちゃんと開いてるから、安心して」
湶樹の声に振り向いたキノは、弱々しい微笑みを返す。
「ありがとう…戻って来たら…またね」
湶樹の視線が、涼醒に移る。
「涼醒…キノさんたちを助けてあげて。それから…ごめんなさい」
「謝るなよ。おまえは何も悪くない。腹が立ったのは、俺自身の…」
涼醒は言葉を濁し、溜息をついた。真剣な眼差しを湶樹に向ける。
「行ってくる。希音と帰る時、また道を開いて待ってろよ」
「…ええ」
湶樹は、涼醒の瞳を真直ぐに見てうなずいた。紅い池を再び見つめたまま動かないキノの肩を、涼醒が叩く。
「希音、あいつが俺に何を頼んで行ったか知ってるか?」
涼醒の笑顔に、キノは少しほっとした表情を浮かべる。
「何…?」
「もし、いつまでも希音に決心がつかないようだったら…突き落とせってさ」
キノは口を開けて涼醒を見つめる。
「自分で飛び込むのと、俺に背中を押されるのと…どっちがいい?」
「それは…」
キノの瞳から恐怖の色が消え去るのに、数秒とはかからなかった。
「自分で…入る」
「あいつがラシャで待ってる。俺もすぐに行くからな」
涼醒が優しく微笑んだ。足元からの紅い光に照らされ、キノの瞳が光る。
深呼吸とともに一度閉じた目をしっかりと開き、キノは池の縁を、イエルの世界の縁を|《け》蹴った。
あの時…紅く光る池を見ながら、考えてた。湶樹ちゃんの言葉の意味…気をつけてって私に言った。それは、私にとってはラシャもヴァイも初めての場所だから…。涼醒に、ごめんなさいって言ったのは? 俺が知らずにいたって…涼醒は、湶樹ちゃんから何を聞いたの…?
キノの意識は、未だ彷徨い続けている。
浩司にさようならって言った時の湶樹ちゃんの顔が…何故か気になる。私と涼醒はイエルに戻るけど、浩司はヴァイに帰るんだから、別れの言葉は自然なはずなのに…それだけの意味じゃなく感じたのは、ただの気のせい…? そして、浩司が私に言ったのは…。
キノの思考が、ようやくそこに辿り着く。
『ラシャに行くことだけ考えろ』
ここにいるのは…怖くない。不安でも危険でもない。だけど…ずっとひとりで、ここにいたくはない。ラシャに…行かなくちゃ…。救いたいものがある、知らなきゃいけないことがある…浩司がそこで待ってる。私は、どうしてもラシャに行きたいの…!
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