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第4章 闇の瞳を持つ男
闇の正体 -1
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抑えきれずに浩司の胸に泣き顔を埋めたキノは、その心臓の音を聞く。自分自身の鼓膜に初めて響く浩司の鼓動は、キノのそれよりゆっくりと落ち着いて打っていた。
母親の胎内の楽園で眠る胎児の心音は、繋がる母親のものより遥かに速い。母体から大音響で奏でられる、自分の脈拍より遅くのんびりとしたリズムを休みなく聞きながら、胎児は声を上げる瞬間を夢に見る。
安全な場所。安心出来るぬくもり。生まれて来た赤ん坊が、母親の胸でその懐かしい子守唄を聞き泣き止むように、浩司の鼓動はキノの心を安らぎへと向かわせる。
浩司の腕がキノを包む。その体温が、キノの心に浸透して行く。
「キノ…泣きたけりゃ、好きなだけ泣いていい。だが、今だけにしろ」
「だって…」
キノは顔を上げず、くぐもった声を出す。
「いいか。どうにもならないことはある。自分にも、他人にもな。おまえのために泣く人間もいるだろう。その姿をずっと見ていたいか?」
キノは必死に嗚咽を飲み込んだ。
「おまえが俺に同情しようが、哀れもうが、蔑もうが、それはかまわない」
キノの啜り泣きの消えた室内に、浩司の静かな声だけが響く。
「俺は今までずっと、何も求めないようにして生きてきた。最初から望んでないものが手に入らなくても、辛くはない。それなりに楽しくやって来たつもりだった。幸せとは言わないがな」
浩司がキノの髪を撫でる。コウの時と同様に、宥めるように優しく動く指。
「そして、希由香に会った。俺にとってはほかの女と同じだ。ただ気まぐれに、寂しさをまぎらわしてくれるだけでよかった」
「…涼醒も、同じようなこと言ってた」
ようやく普通に呼吸が出来るようになったキノがつぶやく。
「あの男もリシールだからな。お互いを使い捨てに出来る女は、簡単に見極めが利くだろう。俺は誤ったが…」
浩司の手が止まる。
「希由香は、身体だけ求める男に、心まで差し出した。初めて…後悔したな」
「どうして? 希由香は、それでもかまわなかったでしょ?」
「…あいつの本当に欲しいものは、やれないんだ」
浩司の身体が熱い。キノは目を見開いた。そこから流れる涙のしずくは、もう音をたてずに落ちて行く。
「どれだけ傷つこうが、希由香は俺を愛し続ける。だが…俺が去れば、あいつは追わない」
浩司は無表情のまま、自分の胸から顔を上げたキノを椅子に座らせ、その向かいに腰を下ろす。
滅多に感情を表に出さない浩司の、瞳だけがその心を映す。キノは浩司の悲しみをそこに見る。胸が、痛い。
「希由香と別れてから3年以上経った今年の9月、俺の母親が死んだ。そして、すでに俺が持っていたシェラを含む四人の遺書に、彼女のものが加わった」
「いつから…知ってたの?」」
浩司はしばらく黙っていた。握り締めた両手の拳が、微かに震えている。
「俺が12の時、親父が死んだ」
浩司はキノの瞳を見た。
「お袋の血のせいでな」
キノは浩司の顔を見つめたまま、声も出せない。浩司が自分の手元に視線を移す。
「シェラの呪いを彼女は知っていた。遺書は読んだだろうし、自分の母親からも散々聞かされていたはずだ。子供を残してはならない、誰かを愛してはいけない、この血は呪われているとな。だが、理解出来ると思うか。あれから100年も経った今の時代に、呪いなんかが本当にあると」
「浩司のお母さんも?」
「完全に信じちゃいなくても、気をつけてはいたんだろう。俺が12になるまで、親父は生きてたんだからな」
「じゃあ…どうして?」
「結婚して、一緒に暮らしてたんだ。親父はお袋に惚れてたし、最初はどうか知らないが、お袋も親父を愛した。それを隠し続けるには、限度があったんだろう。あるいは、呪われた血なんてないと思うようになったか。シェラたちの遺書があっても、実際にその効果を目にしたわけじゃない。リシールについては更に曖昧で、それを証明するのは足の瘤だけだ。多少勘が鋭くても、何かを予感することがあっても、特殊な一族だという認識を持つには至らない」
浩司は、爪が食い込んで白くなった拳を開き、再び組み直す。
「12の春だった。あの時見た光景を、俺は死ぬ瞬間まで忘れないだろう。ある夜家に帰ると、どこにも灯りが点いていない。親父はいつものことだが、お袋がいないのは珍しい。自分の部屋に入ろうとした時、隣から泣き声が聞こえて、俺は半開きになっていたそのドアを開けた」
浩司がキノを見る。
「お袋がベッドに寄りかかるように座り、膝に乗せた親父の頭を撫でていた。部屋の入口に呆然と立ち竦む俺に気づいたお袋が、泣きながらつぶやいた。『愛する者が死ぬ…あの呪いは、本当だったわ…』」
恐怖に見開いたキノの瞳を、浩司は目を逸らずに見つめ続けている。
「親父はもうすでに息がなく、お袋は血まみれだった。彼女の血が親父の頬に流れ…紅い涙に見えた」
浩司がまばたいた。キノの目には、それがまるでスローモーションのようにゆっくりとした動作に見えた。
「救急車の中で、お袋は俺に向かって何度も繰り返し叫び続けた。『私のこの血は呪われてる! 浩司、あなたもよ! 誰かを愛したら、必ず死ぬわ!』親父の遺体の隣で…病院に着くまで、狂ったようにずっとだ」
浩司が自分の左手をじっと見つめる。
「俺はその時、まだシェラのことは知らなかった。お袋の言う呪いが何のことか、さっぱりわからなかった。だが、理屈なんかいらない。自分のこの目が見たものが、嫌というほど教えたからな。手術室の前で、自分の手に付いたお袋の血が乾くのを見ながら誓った。俺は生涯、誰も愛さないと」
「お母さんは…どうして…?」
震える声で、キノが言った。
「親父の死に心当たりがあったんだろう。愛したから死んだってな。それに耐えられず、何度も自分を斬りつけた。普通の人間なら、確実に死ねたろうにな。検死の結果から、親父は原因不明の突然死、お袋は夫の死に錯乱しての自殺未遂とされた。真実を知ってるのは、俺一人だ」
「遺書を…見つけたのね」
「シェラとその子孫が、それぞれ自分の娘に宛てたものをな」
「その後、お母さんには?」
「…病院の面会室で何度か会った。お袋は、俺が誰なのかすらわからなかったがな。リシールにしては…心が弱かったんだろう」
浩司が深い息をつく。
「シェラたちの遺書から、血とともに受け継がれている呪いのことを知った。あの光景を目の当たりにした俺に、疑う余地は一遍もない。リシールについてはあやふやだったが、はっきりとわかったことが三つだけあった」
「三つ…」
「ひとつは、足の指に瘤のある子はリシールであること。二つ目は、子供がリシールの男だけなら必ず血を絶やせること。何故なら、その子は子孫を残すことが出来ない」
「…あとひとつは?」
「俺が、シェラの呪いを終わりに出来る、その最後の一人ということだ」
母親の胎内の楽園で眠る胎児の心音は、繋がる母親のものより遥かに速い。母体から大音響で奏でられる、自分の脈拍より遅くのんびりとしたリズムを休みなく聞きながら、胎児は声を上げる瞬間を夢に見る。
安全な場所。安心出来るぬくもり。生まれて来た赤ん坊が、母親の胸でその懐かしい子守唄を聞き泣き止むように、浩司の鼓動はキノの心を安らぎへと向かわせる。
浩司の腕がキノを包む。その体温が、キノの心に浸透して行く。
「キノ…泣きたけりゃ、好きなだけ泣いていい。だが、今だけにしろ」
「だって…」
キノは顔を上げず、くぐもった声を出す。
「いいか。どうにもならないことはある。自分にも、他人にもな。おまえのために泣く人間もいるだろう。その姿をずっと見ていたいか?」
キノは必死に嗚咽を飲み込んだ。
「おまえが俺に同情しようが、哀れもうが、蔑もうが、それはかまわない」
キノの啜り泣きの消えた室内に、浩司の静かな声だけが響く。
「俺は今までずっと、何も求めないようにして生きてきた。最初から望んでないものが手に入らなくても、辛くはない。それなりに楽しくやって来たつもりだった。幸せとは言わないがな」
浩司がキノの髪を撫でる。コウの時と同様に、宥めるように優しく動く指。
「そして、希由香に会った。俺にとってはほかの女と同じだ。ただ気まぐれに、寂しさをまぎらわしてくれるだけでよかった」
「…涼醒も、同じようなこと言ってた」
ようやく普通に呼吸が出来るようになったキノがつぶやく。
「あの男もリシールだからな。お互いを使い捨てに出来る女は、簡単に見極めが利くだろう。俺は誤ったが…」
浩司の手が止まる。
「希由香は、身体だけ求める男に、心まで差し出した。初めて…後悔したな」
「どうして? 希由香は、それでもかまわなかったでしょ?」
「…あいつの本当に欲しいものは、やれないんだ」
浩司の身体が熱い。キノは目を見開いた。そこから流れる涙のしずくは、もう音をたてずに落ちて行く。
「どれだけ傷つこうが、希由香は俺を愛し続ける。だが…俺が去れば、あいつは追わない」
浩司は無表情のまま、自分の胸から顔を上げたキノを椅子に座らせ、その向かいに腰を下ろす。
滅多に感情を表に出さない浩司の、瞳だけがその心を映す。キノは浩司の悲しみをそこに見る。胸が、痛い。
「希由香と別れてから3年以上経った今年の9月、俺の母親が死んだ。そして、すでに俺が持っていたシェラを含む四人の遺書に、彼女のものが加わった」
「いつから…知ってたの?」」
浩司はしばらく黙っていた。握り締めた両手の拳が、微かに震えている。
「俺が12の時、親父が死んだ」
浩司はキノの瞳を見た。
「お袋の血のせいでな」
キノは浩司の顔を見つめたまま、声も出せない。浩司が自分の手元に視線を移す。
「シェラの呪いを彼女は知っていた。遺書は読んだだろうし、自分の母親からも散々聞かされていたはずだ。子供を残してはならない、誰かを愛してはいけない、この血は呪われているとな。だが、理解出来ると思うか。あれから100年も経った今の時代に、呪いなんかが本当にあると」
「浩司のお母さんも?」
「完全に信じちゃいなくても、気をつけてはいたんだろう。俺が12になるまで、親父は生きてたんだからな」
「じゃあ…どうして?」
「結婚して、一緒に暮らしてたんだ。親父はお袋に惚れてたし、最初はどうか知らないが、お袋も親父を愛した。それを隠し続けるには、限度があったんだろう。あるいは、呪われた血なんてないと思うようになったか。シェラたちの遺書があっても、実際にその効果を目にしたわけじゃない。リシールについては更に曖昧で、それを証明するのは足の瘤だけだ。多少勘が鋭くても、何かを予感することがあっても、特殊な一族だという認識を持つには至らない」
浩司は、爪が食い込んで白くなった拳を開き、再び組み直す。
「12の春だった。あの時見た光景を、俺は死ぬ瞬間まで忘れないだろう。ある夜家に帰ると、どこにも灯りが点いていない。親父はいつものことだが、お袋がいないのは珍しい。自分の部屋に入ろうとした時、隣から泣き声が聞こえて、俺は半開きになっていたそのドアを開けた」
浩司がキノを見る。
「お袋がベッドに寄りかかるように座り、膝に乗せた親父の頭を撫でていた。部屋の入口に呆然と立ち竦む俺に気づいたお袋が、泣きながらつぶやいた。『愛する者が死ぬ…あの呪いは、本当だったわ…』」
恐怖に見開いたキノの瞳を、浩司は目を逸らずに見つめ続けている。
「親父はもうすでに息がなく、お袋は血まみれだった。彼女の血が親父の頬に流れ…紅い涙に見えた」
浩司がまばたいた。キノの目には、それがまるでスローモーションのようにゆっくりとした動作に見えた。
「救急車の中で、お袋は俺に向かって何度も繰り返し叫び続けた。『私のこの血は呪われてる! 浩司、あなたもよ! 誰かを愛したら、必ず死ぬわ!』親父の遺体の隣で…病院に着くまで、狂ったようにずっとだ」
浩司が自分の左手をじっと見つめる。
「俺はその時、まだシェラのことは知らなかった。お袋の言う呪いが何のことか、さっぱりわからなかった。だが、理屈なんかいらない。自分のこの目が見たものが、嫌というほど教えたからな。手術室の前で、自分の手に付いたお袋の血が乾くのを見ながら誓った。俺は生涯、誰も愛さないと」
「お母さんは…どうして…?」
震える声で、キノが言った。
「親父の死に心当たりがあったんだろう。愛したから死んだってな。それに耐えられず、何度も自分を斬りつけた。普通の人間なら、確実に死ねたろうにな。検死の結果から、親父は原因不明の突然死、お袋は夫の死に錯乱しての自殺未遂とされた。真実を知ってるのは、俺一人だ」
「遺書を…見つけたのね」
「シェラとその子孫が、それぞれ自分の娘に宛てたものをな」
「その後、お母さんには?」
「…病院の面会室で何度か会った。お袋は、俺が誰なのかすらわからなかったがな。リシールにしては…心が弱かったんだろう」
浩司が深い息をつく。
「シェラたちの遺書から、血とともに受け継がれている呪いのことを知った。あの光景を目の当たりにした俺に、疑う余地は一遍もない。リシールについてはあやふやだったが、はっきりとわかったことが三つだけあった」
「三つ…」
「ひとつは、足の指に瘤のある子はリシールであること。二つ目は、子供がリシールの男だけなら必ず血を絶やせること。何故なら、その子は子孫を残すことが出来ない」
「…あとひとつは?」
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