泡沫の記憶

鈴燈

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水溜りの記憶

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 カーテンから、嫌に眩しい光が射し込む。時計は八時十二分を指している。テーブルの上にある、中身の少ないラムネの容器が目に留る。それを本棚の奥に隠し、身支度を始めた。一限目は九時から始まる。
 私は身だしなみを整えると、講義で使う教材とお金、ケータイだけを持って家を出た。
 大学に入学し、一人暮らしを始めて約五ヶ月。生活に慣れ、少しずつ余裕が出てくる頃。そして、新しい人間関係に疲れ始めた頃。代わり映えの無い日々に飽き始めた頃。新しい生活・景色、勉強や新しい友達にも、何か刺激が欲しいと思うようになってきた。
 今日だって、なんの代わり映えもない。いつも通り学校へ行き、いつも通り講義を受ける。そしていつも通りの人間関係。うんざりする。好きでもない人たちの話を聞き、愛想笑いを浮かべ、何を言われても反発することなく、謙り、笑顔でその場をやり過ごす。
 講義室に入ると、いつもと同じ面子が私を待っていた。内心溜息をつきながら、笑って「おはよう」と言う。こんなやり取りすらも、もう疲れたのに。
 心をすり減らしながら毎日を過ごしている。今日もどうにか履修分の講義をやり過ごした。帰りのバスの中でケータイを開くと、ホーム画面に『家入っとくね』と通知が入っていた。 代わり映えのない日々に、代わり映えの無い生活。しかし今日から五日間だけは、少し幸せになれる。二年と数ヶ月付き合っている彼氏からのメッセージだった。遠距離恋愛だから、長期休暇の時しか会えない。明日からシルバーウィークでお互い大学が休みだから会うことになっていた。
 私はバスを降り、家へ歩き始める。いつもより足が軽く感じられ、ぐんぐんと前へ進めた。
 早く会いたくて堪らなくて、玄関の扉を勢いよく開けた。
 「おかえり」
 そこには数ヶ月振りの最愛の人の姿があった。家に帰ると好きな人が待ってる。こんなに幸せなことはこの世にないのではないかと思うほど、私は嬉しかった。
 私は靴を脱ぎ捨て、すぐさま彼に抱きついた。彼は私を抱きしめ、「会いたかった」と言った。「私も会いたかった」と言い、彼を強く抱き締めた。温かくて落ち着く、とても優しい匂いがした。彼の手が私の頬に触れる。顔を上げるとキスをされた。久しぶりのキス。相変わらず彼はキスが下手で、不満が無いって言ったら嘘になる。でも彼が変わりないことが、なんだか嬉しかった。
 玄関で再開の興奮を少し治めて部屋に入った。今日の講義で使った教材を棚に仕舞い、お茶で喉を潤した。彼は私のベッドに腰掛けてケータイを触っていた。私は彼の隣に腰かけ、彼の顔を覗き込んだ。私に気づいた彼はケータイをテーブルの上に置き、私を見た。そして、「学校お疲れ様」と言って、頭を撫でてくれた。ありがとうと笑顔で答えると、彼は少し笑った。
 「なんで笑うの?」
 私が頬を膨らませると、彼はクスクスと笑った。
 「いや、可愛いなぁって思って」
 久しぶりの彼の甘い言葉は、少し照れくさい。二年数ヶ月電話越しで聞き慣れた言葉でも、直接言われるのとでは感じ方が違っている。
 「あ、晩御飯作るね」
 私が立ち上がろうとすると、彼は腕を掴んで座らせた。
 「今日は食べに行こ。疲れてるんでしょ?」
 彼は私が疲れてるのにすぐ気づいてくれて、気を遣ってくれる。私は彼のそんな優しさが好きだった。
 その日は二人で外に食べに行った。お会計の時、割り勘にするつもりだったのに彼が全部払ってくれて少し申し訳なかったけど、「俺が払いたいから、いいよ」って言ってくれた。こんなにいい人が私なんかの彼氏でいいんだろうかって、いつも思ってしまう。
 家に帰って順にお風呂に入った。私は疲れて直ぐにベッドに寝転んだ。疲れた日は、すること全部終わらせて布団にダイブする瞬間が一番幸せ。でも、彼といる時、一日はここで終わらないのがお決まり。
 「愛璃紗」
 遠くで名前を呼ばれた気がした。私は渋々重くなった瞼を開けた。彼が股がって、私をじっと見つめている。
 ほら、始まった。会う度に、この雰囲気になったらしなきゃ寝かせてもらえない。
 あんまりシたくないけど、嫌われたくないからいつも断れない。
 眠たいけど起き上がって彼と向き合う。彼の手が私の頬を撫でる。優しいキスをされたら、決まって激しいキスをされる。
 彼のことが嫌いなわけじゃない。ただ、不満が無いわけじゃない。前戯が短かったり、爪が膣に傷を付けたり。彼なりに精一杯なんだろうけど、快感はほとんど無いと言っても過言ではない。私はいつも感じてる“フリ”に一生懸命だった。「嫌だ、痛い」って言えるものなら言いたいけど、私は彼の全てを受け入れたかった。だから言えないまま、ずっと嘘をつき続けている。私と彼はお互いが“初めて”の相手だったから、色んなことが手探りで始まった。だから、彼のセックスが下手なのは一途に私だけを想ってくれている証拠。だから、彼を遠回しに否定するようなことは言いたくなかった。自分が我慢すれば、気がつけば終わっているから。
 彼が満足すると、やっと眠ることができる。外陰部が少しヒリヒリした。これが五日間続くのかと思うと、少し憂鬱な気分になった。
 ベッドに入り、腕枕をしてもらう。彼の胸に顔を埋める。正直、こうやってただ密着できるだけで私は幸せだった。性欲なんて、この世に無ければいいのに...。そう心の中で呟き、ゆっくりと目を閉じた。

 また遠くで名前を呼ばれた気がして、私は鉛のような瞼を開けた。
 カーテンから眩しい光が射し込んでいた。朝だ。彼は既に目を覚ましていて、私を見つめている。「おはよう」と彼が笑いかけてくれた。私は「おはよぉ」と返した後、いつものごとく眠気に負けてしまう。
 「愛璃紗」
 私が鉛の瞼に負けると、彼は名前を呼んで起こそうとする。もう少し寝てたいのに。
 「なに...?」
 目を擦りながら何とか起きようとする。私が眠気と戦っていると、彼は小さな声で「...シたい」と言った。寝起きだから聞き間違えたんだと思って聞き返したけれど、それは聞き間違いでも幻聴でもなかった。
 無理に起こしてまでする必要あるの?と思ってしまい、思わず曖昧な返事をしてしまった。すると彼はしゅんとして、「分かった」と呟いた。申し訳ないという気持ちよりも、少し怒りが湧いて来た。
 結局、朝っぱらからすることになってしまった。会う度にこれだから、セックスという行為に愛なんて微塵も必要無いんじゃないかとまで思うようになった。
 その日の夜も、次の日には朝昼夜一回ずつ。気持ちよくないから膣は濡れないし、爪は痛いし、触り方も少し雑。仕舞いには下り物に多少赤褐色が混ざり始める。会う度にこうなるから、私の身体は文字通り磨り減っていく。
 そして、彼が帰る前日の夜も。いつも通りの誘い方でセックスが始まった。今日でしばらくしなくて済む、と自分に言い聞かせた。
 彼がイって、もう終わりと思ったら、彼は私に抱きつき耳元で「生で挿れていい?」と言った。会ったら一回、必ず生で挿れられる。いいよって言いたくないから、何も言わずに首を縦に落とした。勿論ナカには出さないけど、完全に安全と言う訳では無い。私は彼が満足するまでの短くも長い時間が経つのを、ただただ待っていた。

 目が覚めると、彼が帰る日になっていた。やっと解放される...。なんだか少し、心が晴れたような気がした。
 彼が荷物をまとめ終えるのを待って、二人で駅に向かった。 私は、彼女失格だと思う。彼とまた暫く会えなくなるのに、不思議と寂しくはなかったし、寧ろどこか嬉しいような気がしていた。
 彼を改札前まで見送った。彼は別れ際に私を抱きしめて「また絶対会いに来るから」と言った。そして好きだよと囁き、私の頬にキスをした。
 「私も好きだよ」
 笑ってそう返し、彼の頬にキスをした。
 彼は嬉しそうに、でもどこか寂しそうに改札を抜けて、私のいない日常へと戻って行った。
 私は軽い足取りで家に戻った。

 その数日後、私は熱を出した。微熱だったからそんなに気にしなかったが、風邪薬を飲んでもあまり効きが良くない。生理も少し遅れていて、どこか気分も悪かった。
 まさかと思い、ケータイで検索サービスを立ち上げる。考えたくはなかったが、信じたくはなかったが、私の症状は妊娠超初期症状に酷似していたのだ。
 あぁ、まただ...。
 心に暗い影が落ちた。会う度にこうなる。毎度毎度妊娠してしまったんじゃないかと、不安でたまらなくなってしまう。怖くなった私は、本棚の奥に仕舞ったラムネの容器を取り出した。中身は薬。私は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、薬をこれでもかと言わんばかりに飲んだ。使用量の約六倍の量を一度に飲んだ。子宮の辺りを拳で殴り、身体を冷やしたり。思いつく限りの対策を行った。しかし、どれも裏目に出てしまう。オーバードーズをしたせいで生理がさらに遅れ、体を冷やしたせいで熱も下がらなかった。
 会う度に、毎回こうなる。病むのも、怖い思いをするのも、女である私だけ。
 私はもう心も身体も磨り減って、ズタズタになっていた。そして決心した。もうあんな男とは別れてしまおう、と。
 確かに彼は私を愛してくれた。でも、彼はまるで化学繊維でできたカーディガンだ。包み込んで温めてくれるけれど、素肌にチクチクと繊維が当たり、どこか着心地が良くない。
 何度も嫌な思いをしたし、何度か裏切られた。私だって彼を裏切ったことがないと言えば嘘になる。だが、そんなことは関係ない。私はもう二度とこんな思いをするのは御免だ。
 そう決心して間もなくの頃、ようやく生理が来てくれた。その頃、私は彼と連絡を取るのを避けていた。
 前にも同じ気持ちになって別れて、後悔してよりを戻したことが何度かある。だから、今回もそうなのかもと思って、別れを切り出すのを躊躇っていた。時間が経てばこんな気持ちなくなると、何故か思っていた。
 それからあまり時間が経たないうちに、私には気になる人ができていた。同じ学部の人で、同級生。気がつけば私は、彼氏のことより同じ学部の子の方が好きになっていた。
 これも一時の気の迷いだと思った。彼氏への愛が薄れているから、他の人に目移りしてしまうだけだ、と。しかし、一ヶ月半ほど経っても私の気持ちは変わらなかった。それどころか、同じ学部の人のことを本当に好きになっていたのだ。
 この気持ちは変わらないと思い、私は彼氏と別れることを再び決心し、連絡を取ることにした。
 『ごめん、別れよう』とメッセージを送ると、直ぐに電話がかかってきた。電話越しの彼の声は少し震えていた。終わりが来ることに怯えているようだった。
 私は正直に「気になる人ができた」と言ったら、彼は「気になるってだけで、まだ好きではないんでしょ?なら...」と言ってきた。私はそれになんだか苛立ってしまった。
 女々しい。でも、私に怒る権利はない。以前に二度、同じ理由で別れたことがある。申し訳ないと思う。それでも、私は満たされたかった。嫌な思い一つせず、私を満たしてくれる“誰か”を求めていた。いつだってそう。
 だから、今回こそは振り返らない。そう決心して、恋人としての関係を終わりにしてもらった。新しい恋をして、新しい自分になるために。
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