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第五章 絡み合う思惑の果て
愛し子であると言うこと
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ぎゅ、と私を抱き締める柔らかな腕に力がこもる。その途端、前方のベッドから酷く不機嫌な視線が私の頭上を射て、部屋の空気に不穏なものが混じった。
けれど、それは色を濃くする前にもう一人の声によってすぐに散らされる。
「レナート、そんなことでいちいち睨むな。イーリスもいい加減ミリアムを離せ。その状態では話ができんだろうが」
呆れを隠しもしない一言は、レナートの食事の介助の為にベッドに寄せていた椅子に腰掛けたキリアンのものだ。彼の後ろには、王太子付きの騎士隊を束ねる隊長が控えて、一人私へと穏やかに微笑みを向けている――ほんの少し前まで私とレナートの二人きりだった部屋に、今はどうにも奇妙な状況が生まれていた。
キリアン達三人は、先ほどこの部屋へとやって来た。と言うよりも、半ば押し入って来た。主に、イーリスが。
忙しく扉が叩かれる音に私が我に返った時には、こちらからの応答を待たずにイーリスが扉を開けて足音荒く入って来ていたのだ。そして、何事かと驚いている間に私はイーリスに腕を取られ、ベッドからやけに遠い部屋の隅へと連れて行かれてしまった。
更には何故か体を隅々まで確かめられると、今度はその場で抱き締められて、現在に至っている。
ちら、とイーリスを仰ぎ見るけれど、その表情をはっきり窺うことはできない。ただ、イーリスの腕が私を解放してくれる気配がないことだけは、抱き締める腕の強さからはっきりしていた。そして、私の予想通り彼女の口からは不満気な声が上がる。
「殿下、この状態でも話を聞くことは――」
「イーリス」
途端、二度も言わせるなとばかりに、イーリスの不承知をキリアンがはっきり撥ね付けた。鋭い一声は流石命令することに慣れた地位にいる者のそれで、思わず私の方が声の強さに驚いて身を固くしてしまったほどだ。それなのに、肝心のイーリスにはその声の強さもまるで効いていないのか、なおも渋るように私を抱き締め続けるのだから驚いてしまう。
とは言え、キリアンの紅瞳に無言で射られ続けては、流石のイーリスも我儘を押し通すことはできないのだろう。それとも、自分の行動が身勝手であると理解しているからだろうか。
わずかの沈黙の後、極小さなため息と共に渋々と言う体でイーリスの腕が解け、私の体に自由が戻った。そこに、キリアンの後ろに控えていた隊長からすかさず声が掛かる。
「ミリアム様、どうぞお掛けください」
この中の誰より年長で、武に秀でた騎士と言うにはあまりに物腰柔らかな紳士然とした風貌の彼は、卒のない慣れた動きでキリアンの向かいの椅子を引き、私へとにこやかに示した。
その言葉と行動が示すのは、キリアンは私にもこの場への同席を求めていると言うこと。そのことに、私は意外な思いで目を瞬く。
何故なら、キリアンがイーリスに私を離すよう強く言ったのは、私にこの部屋を辞してほしいからだと考えていたからだ。けれど、現状を見るとどうもそうではないらしい。
では、私も同席する必要のある話とは、一体何なのか――ざっと考えてみるけれど悪いことが伝えられる予感しかせず、私の腹に反射的に力が入る。
にわかに体に緊張を走らせながら、私は慎重に席に着いた。小さな丸テーブルを挟んで間近に向かい合う形となったキリアンは、私が着席したことで表情を緩め、次いで私の緊張を――私の悪癖を――読み取ったのか、口元に柔らかな笑みを刷いた。
「そんなに固くならずとも、悪い知らせはないから安心するといい、ミリアム」
「え! あ……も、申し訳ありません……」
まさかの一言に驚きつつ、私は恥ずかしさに椅子の上で縮こまった。対するキリアンは私の反応にわずかに小さく吹き出したあと、一呼吸を置いて表情を改める。そして、一通の手紙を私達の前に出した。
「先ほど、陛下から今後についての返事が届いた」
端的な一言に、全員の視線が手紙を捉える。
封蝋に捺された印璽は差出人が王家のものであるとはっきり示しており、そのことに私は思わず目を瞠った。同時に、まだ私が王城で過ごしていた頃にレナートから聞いた話が、にわかに脳裏に蘇る。
エリューガル王家には、緊急の際に素早く情報を伝達する為、グーラ種のように加護を持つ特別な鳥が飼育されているのだと言う。その鳥はグーラ種同様、話すことはできずとも人語を解し、エリューガル国内であればどんな遠方だろうと二、三日の内に確実に目的地へ到達することができる能力を持っているのだそうだ。
各国境警備隊でも緊急時の大切な伝令として飼育されており、今回はそちらを使って王城へこちらの状況を知らせたのだろう。
砦の案内をしてもらった時には、飼育小屋がある、と言う程度の説明だけで中まで覗くことはなかった為、今の今まですっかり存在を忘れていた。
「陛下は何と?」
「予定の変更はなし、とのことだ」
「では、殿下は――」
私が伝令の鳥のことを思い出して密かに驚く一方で、私以外の四名は慣れたものなのか驚く様子もなく、手紙を前に淡々と言葉を交わしていた。
レナートの短い問いにキリアンが頷き、その瞳が一度イーリスを捉える。
「……ああ。明日早朝、イーリスを含む騎士三名を伴って、私は聖都へ向かうことにした。以降のことはレナートとヨルゲン、お前達二人に任せる」
「畏まりました」
隊長――ヨルゲンが恭しく一礼し、レナートも同じくベッドの上で了承の意を示す。
「お前達の王都への帰還は急がずともよいと言うことだが、あまり長期になってもミュルダール家に迷惑だろう。レナート、お前がベッドから出られるまで、あとどのくらいの日数が必要だ?」
「二日もあれば」
「では、そのつもりで叔母上には私から伝えておく」
「隊の者には私から周知しておきましょう」
「ミリアムの護衛の人選も頼むぞ、ヨルゲン」
次々にこの先の予定が決まっていく中、急に出てきた自分の名に、私ははっとする。
キリアンの聖都訪問は、先ほどキリアン自身が告げた通り、当初から予定されていたことである。毎年この時期、守護竜の祝祭の事前準備の為に、クルードの愛し子であるキリアンは聖都を訪れているそうなのだ。今回はオスタルグからの要請に応えて東の国境へ赴く公務が急遽入ってしまった為、こちらでの予定を終えたあと、帰路の途中で王都からの神官一行と落ち合い、聖都へ向かう手筈となっていた。
そして、キリアンの護衛として共に聖都へ赴くのはレナートで、イーリスは私の護衛を継続して王都へ帰還する――その予定だったのだ。
それが、明日からレナートではなくイーリスがいなくなり、私の護衛が変更される。状況を考えれば当然のことなのだけれど、この一月近く同室で過ごし、これからも王都へ帰り着くまで一緒だと思っていた相手が突然他の人へ変わると思うと、私の中に急に寂しさが湧き上がった。
特にイーリスは、護衛と言う以上に私がこの国で得た同性の友人の一人である。夜、就寝するまでを二人で過ごす時間は、レナートと過ごす時間とはまた違う、楽しく貴重なものだったのだ。
つい昨日も取り留めのない話で笑い合ったことが思い出されて、私の視線は自然とイーリスを求めて部屋を横断した。
「あら、ミリアムったらそんなに寂しそうな顔をして。今日は私と目一杯お喋りをして、一緒のベッドで眠りましょうか」
「まあっ! イーリスさんっ!」
「お――」
「そうだ、ミリアム。一つ、あなたには知らせておくことがあってな」
にこりと笑うイーリスからの思いがけない嬉しい提案に私が声を弾ませたところで、キリアンの声が鋭く割って入った。何故か腕が横へ真っ直ぐ伸びてレナートの顔が私の視界からはすっかり隠されてしまっていたけれど、ひとまず疑問は脇へ置き、私はイーリスからキリアンへと顔の向きを変える。
「枯れた川に、水が戻り始めているそうだ」
「それは嬉しい知らせですね!」
胸の前で手を合わせて素直に喜んでから、私ははたと表情を固まらせた。
キリアンがわざわざ「私に」と前置きしたこと、オスタルグでの私に対する人々の態度、この地での私の振る舞いと水が戻り始めた川、更には私達を襲った想定外の災害と現状――様々なことが一度に思い出され、そこから予想される事態を考えて、私はわずかに顔を青くした。
何と言っても、フェルベルグ地方ではクルードよりもリーテの方が人々にとって身近な神だ。その愛し子である私のことも、キリアンと同等か、下手をすればそれ以上に敬うべき存在と取られている節がある。そんな私がクルードの愛し子もいる中で土砂災害に見舞われたと知れば、人々はどう思うだろう。どんな行動に出るだろう。
いくら弁えた行動ができる人々だと言っても、私の身に危険が及んだと知ってもなお冷静でいられるとは限らない。勿論、そんな馬鹿なこと、と否定する気持ちもあるけれど、残念ながら礼拝堂で一斉に私に向かって頭を垂れた人々の姿は私の記憶に新しく、どうしても悪い方にばかり思考が走ってしまう。
加えて、私は今この瞬間までそんな事態が起こる可能性をわずかも考えず、ただただミュルダール家でレナートの世話をして過ごしていた。
あまりの愚かさにくらりと目眩を感じた私は、そっと頭に手を添えて密かに息をつく。
まずは落ち着き、冷静になろう。そう自分自身に言い聞かせたところで、不意に複数の視線を感じた私は弾かれるように顔を上げた。
最初に目が合ったのは、正面に座るキリアンだ。次いでその隣、いつの間にか腕が下ろされて遮るもののなくなったレナートとも、はっきりと目が合ってしまう。更には、キリアンの斜め後ろに立つヨルゲンがこちらを控え目に見下ろす視線にも気付いて、私ははたと思考を止めた。
ヨルゲンを除く二人の私に向ける視線は生温かく、表情は笑みの気配を纏って柔らかい。私の荒れる思考とは正反対の穏やかさにも満ちて、そこには危機感も焦燥感も欠片もなかった。
王太子とその騎士が、二人揃って慌てる様子なくこちらを見ている――その理由を考えかけて、はっきりと答えが出るより先に私の顔がかっと熱を持つ。一拍遅れて自分の悪癖を自覚した頃には、目の前のキリアンは今にも吹き出してしまいそうなのを懸命に堪えるように、口元に手を添えていた。
「話を、続けてよさそうだな」
何とか吹き出すのを堪えられたらしいキリアンの一言に、ベッドの上ではレナートも同じく安堵の息をつき、ヨルゲンは静かに目を伏せて私から視線を外す。
私の位置からは顔を動かさなければ見えないけれど、恐らくイーリスも三人と似た反応を見せているのだろう。部屋の空気がどことなく弛緩した気がして、私は言葉もなくただ小さくキリアンへと頷いた。
「先にあなたの不安を払拭しておくと、あなたのことは、怪我は負ったが軽傷で、今は献身的に怪我人の世話をしている、と伝えてある」
一部の熱心な者達の中には、被害の大きさに比して死者が出なかったことについて、私の力によるものではないのかと言う憶測が広がっているとのことだけれど、クルードの愛し子であるキリアンも共に巻き込まれていることから声はさほど大きくはなく、広がりを見せる様子もないそうだ。
当然ながら、実はその憶測が中らずと雖も遠からずであることは、当事者達だけの秘密である。
その代わり、私が日々怪我人の世話に奔走していると言う話に何故か甚く感激する人々が続出しており、私の預かり知らぬところで、私を指して「慈愛の乙女」と言う声が日に日に増えているとかいないとか。
「エステル様の救国の乙女に比べると随分大人しい呼称だが、流石は女神リーテへの信仰心の篤い者達だな。あなたをただ『泉の乙女』と呼ぶだけでは満足しないらしい」
「感心しないでください、キリアン様。私、そんな呼び名を付けられるようなことはしていませんっ」
頷きながらも明らかに面白がっているキリアンに向かって、私はすぐにとんでもないことだと眉を吊り上げる。けれど、まるで効果はなかった。
私の言葉にさも意外そうに片眉を器用に上げたキリアンが、これまた面白がって口端を曲げたのだ。
「そんなことはないだろう。あなたは実際に、毎日レナートの世話をしているのだから」
「ただ食事の介助をしているだけです」
「食事の介助も立派な世話では?」
「そ、うかもしれませんけどっ。でも、違いますっ」
私が間違いなく怪我人の世話をしていることを、ひいては慈愛の乙女と呼称されることを認めさせたいキリアンに、私は必死に首を横に振る。
確かに、キリアンの言う通り食事の介助も世話の一つだ。けれど、言ってしまえば私はそれしかしていない。包帯の取り換えも清拭も着替えも、おおよそ怪我人の世話と言って思い浮かべる主なものは、一つだってやっていないのだ。
しかも、唯一やっている食事の介助にしても相手はレナート一人だけで、恐らく人々が想像しているのだろう十人を超える怪我人全員を相手に行っているわけでもない。時折、食事の配膳や片付けを手伝うことはあっても、本当にそれだけだ。
だからこそ、勘違いで盛大に感動されて「慈愛の乙女」と呼ばれるなんて、あまりに恐れ多いことなのだ。
キリアンだってそのくらいのことは分かっているだろうに面白がっているのだから、何とも質が悪い。そして、そんなキリアンを諌めもせず隣で一緒に笑うレナートも、主従揃ってまったく碌でもない。
「レナートさんも笑ってないで、何か言うことはないんですかっ」
「何かと言われてもな……。実際、俺はミリアムに世話をしてもらっているわけだし、何が問題なんだ?」
「問題大ありじゃないですか! 私、レナートさんのお世話しかしていないんですよ? それなのに、そんな……じ、慈愛だなんてっ。呼ばれていいわけないじゃないですか!」
「そうか? ミリアムの献身は君の慈愛の心の賜物だろう?」
「レナートさん!?」
「ふむ。人数が問題だと言うならば、今からでも他の怪我人を頻繁に見舞ってやるといい。きっと彼らも喜ぶし、慈愛の乙女の名に相応しい行動だろう」
「キリアン様まで何を言っているんです!?」
首を傾げて不思議そうにするレナートに、どこかずれた提案をするキリアン。互いに表情こそ真面目そうな雰囲気を装っていても、そこに滲むのは明らかなからかいの気配だ。
完全に面白がっている。私は大真面目に真剣に御大層な呼称を辞退したいと言うのに、この二人ときたら!
「私は真面目に困っているんです!」
私が不満を目一杯顔に表し二人を睨んで口を曲げれば、ようやく見兼ねたらしいヨルゲンが二人へ向かって控え目に口を開いた。
「キリアン殿下、レナート殿も。その辺りで」
もういいでしょうとばかりに二人を止めるヨルゲン自身も、実のところ苦笑を堪えようとしてどうにも堪えきれていない様子ではあったけれど、私は敢えてそれを見なかったことにして、表情を崩したキリアンを半眼で見据える。
「すまない、ミリアム。少々ふざけが過ぎたな。あなたの気持ちは分かった。呼称については、叔母上から人々に伝えてくれるよう頼んでおこう。ただ――」
そこで不意にキリアンの眉尻が下がり、これまで浮かんでいた笑みが種類を変えた。苦笑と言うには私に対する謝罪が込められた瞳が、私を申し訳なさそうに見つめる。
「あなたは望まないだろうが、この地に住まう者達にとってあなたは……いや、『泉の乙女』と言う存在はそれだけ大きいものなのだと言うことだけは、どうか心に留め置いていてはくれないだろうか」
ゆっくりと言葉を選びながら、キリアンが告げる。その言葉と表情は、決して私を責めてはいなかった。けれど、私が自分の言動の身勝手さに気付くには十分で。私は自分のあまりの情けなさに、くっと唇を噛み締めていた。
聖花祭を楽しむ旅行の最中、自分の意思でマーリットと対面し、女神リーテに背中を押され、ヒューゴから騎士の申し出を受けて、私は思った筈ではなかったか。リーテの愛し子と言う自分の立場と向き合い、自分がどうあるべきかを考えながら前を向いて生きるのだと。
それなのに、今の私はどうだろう。
神官やセルマの要請を受けてこの地へ来て、私は何をした? 現状の自分の小さな力に比して周囲の期待のあまりの大きさに尻込みをし、リーテの愛し子としては積極的に動こうとはしなかったのではなかったか。
神官もセルマもキリアン達も誰も何も言わないのをいいことに、私はただ周囲の声に従って、人々が期待する「泉の乙女」と言う役を当たり障りなく演じただけだったのではないだろうか。
その上、今の言動だ。キリアンに、言外に諫められるのも仕方がない。
だって、この地の人々にとって私は「泉の乙女」以外の何者でもないのにその自覚に欠け、人々の私を思う気持ちから生まれた呼称を迷惑とばかりに受け入れず、あまつさえ、そのことでセルマの手を煩わせようとしているのだから。
きっと真面目なヒューゴは私の騎士になるべく日々努力を重ねているだろうに、二年待つと約束をした側の私がこれでは、ヒューゴに対してもこの地の人々に対しても、そして目の前のクルードの愛し子に対しても、あまりに失礼だ。
(……どうして私は、こうなのだろう)
誰より人生を繰り返してきているのに、いつの人生も繰り返しから逃れることばかりを追い求めていた所為か、その経験はまるで役に立たない。今生でも、気付けば身勝手ばかりで周囲を困らせているなんて、情けないにもほどがある。
こんな私を、これまでとは違うこの人生でも、誰がいつ見限らないと言えるだろう。手の平を返して冷たく突き放さないと、どうして思えるだろう。
その瞬間を考えただけで私の心は抉られるように痛み、同時に新たな人生を送る度に繰り返し感じてきた諦念が押し寄せて目の前が暗くなる。じわりと手足の先から熱が奪われ、凍えていくようだった。
「ミリアム」
名を呼ぶ声にのろのろと顔を上げれば、キリアンがまたしても申し訳なさそうに眉を下げている姿を、私の両の目が捉える。
何故キリアンがそんな顔でいるのだろうと疑問に思う私へ、キリアンの声が柔らかく続いた。
「あなたを悩ませるつもりはなかったのだが……どうも、私の言葉はあなたには重く受け止められてしまうようだ」
自嘲の色を覗かせて、キリアンが微かに笑む。そして、私が上手く反応できずにいる間に、キリアンは私に両手を出すよう示した。
小さな丸テーブルに、キリアンの両手が先に現れる。それを見て一度瞬き、私も恐る恐ると両手を出せば、これまで度々そうしてきたようにキリアンは私の手を両手で包み込むように握った。
慣れた手の温もりが宥めるように甲を撫で、ゆっくりとキリアンに宿る力の拍動が私の全身に伝わっていく。不思議なことに、たったそれだけで昏く沈んでいこうとしていた私の心は掬い上げられ、みるみる落ち着きを取り戻していた。
なおも握った手を通して伝わり続ける拍動に合わせて幾度も呼吸を繰り返し、私がようやく気まずさにそっと視線を逸らしたところで、キリアンがくすりと笑みを零す。
「も、申し訳――」
居た堪れずに口を突いて出た謝罪の言葉は、けれどすぐにキリアンに首を横に振られて途中で尻すぼみに消えた。言葉がない分だけ相手の気遣いが分かって、私の中で更に居た堪れなさが増す。
(また、私は……っ)
着席直後にやってしまったばかりでまたしても悪癖を発揮してしまうなんて、久々に穴があったら入りたい気分だ。こう言う面でも、どうして私はこうなのだろうかと強く思う。けれど、冷静になった今抱く感情は、先ほどとは違って羞恥が圧倒的に強い。
全くもって、私はどうかしていた。悪い方へ考えすぎるにもほどがある。
何故なら、キリアンが私に告げた言葉は全く深刻に受け止めるようなものではないのだと、今なら簡単に理解できるのだから。
そもそも、これまで神殿や神官達からの私への面会申請を始めとする様々な要請を私に知らせずに全て断り続け、極力私が泉の乙女として人前へ出ることがないよう取り計らい続けてくれたキリアンが、ここにきて突然、私の愛し子としての自覚の欠如を責めるわけがないのだ。
この国に暮らす限り、私にとっては切っても切れない「泉の乙女」と言う存在が人々にとってどう言うものであるのか。キリアンは、ただその事実を私に教えようとしただけ。同じ愛し子として、この先私が愛し子であるが故の事態に遭遇するであろう時に、少しでも私の思考の助けとなるように。
決して、その事実を持って私に自覚ある行動を促すだとか、泉の乙女であることを強要しようだとか、そんな考えがあるわけがないのだ。キリアンの言葉は、いつだって私への思いやりに満ちているのだから。
キリアンが手を握り続けてくれているからか、それとも凍えていくように感じたのは単に私の気の所為だったのか。私の体はいつの間にかすっかりすっかり熱を取り戻し、荒れていた思考も凪いでキリアンの言葉の意味を正しく理解し、正面からの視線を真っ直ぐに受け止めていた。
「もう、心配する必要はなさそうだな」
そう言いつつもキリアンは私の手を握ったままで、別の話題を口にし始める。
「これからのことについて、あなたにいくつか助言をしておくとしよう」
私達はこれから、キリアンが不在のままで王都へと帰還することになる。それは、先日私達を襲った者にしてみれば、まともな自衛手段を持たない私を今一度狙う、またとない好機と言えるだろう。
さしもの力持つ者でも、立て続けに大規模な災害を引き起こすことはできないとは言え、あの時キリアンが止めてくれていなければ、相手の声に応えてしまっていたかもしれない私だ。諦めの悪い者であればあるほど、私への接触を試みる可能性はあると警戒をしておくべきである。
「とは言え、必要以上に不安に思うことはない。相手も、こちらが警戒することは当然承知の筈。であれば、警戒しているあなたへ無理に接触を図るより、消耗した力の回復に努める方が賢明だ。それでも、不安を感じることや、あなただからこそ知覚できる事象に触れることがあった場合には、すぐにレナートへ伝えるといい」
「レナートさんに、ですか?」
愛し子としては未熟な私が言うのもなんだけれど、レナートはただの人間だ。私が気持ちを伝えることで前者は解決しても、後者に関しては申し訳ないながら、レナートにどうこうできるとは思えない。
私の正直な気持ちがうっかり顔に現れていたのか、それとも私が考えるであろうことは既に想定していたのか、キリアンが苦笑しながら頷いた。
「あなたがそう思うのも無理はない。だが、レナートはティーティスからその羽根を授かっている。ティーティスが己の役割をレナートに求めて羽根を授けたならば、必ずあなたの力となる筈だ。それに、長年私と行動を共にしているレナートは、恐らく誰よりもその手のことに冷静に対処できる。だから、あなたは存分にレナートを頼ればいい」
「でしたら、レナート殿にはミリアム様の馬車に同乗していただくとしましょう。ミリアム様のことはお任せいたしますよ、レナート殿」
「承知した。ミリアムも構わないか?」
真面目な顔でレナートに問われるけれど、知識もない護衛されるだけの私が、道中の警護の如何について意見などできる筈もない。キリアンから任された二人が決めたことなら、私は従うだけだ。
私が同意を込めて一つ頷けば、更にヨルゲンから私へと提案が寄越される。
「ミリアム様。よろしければ、これからあなた様の護衛の人選にお付き合いいただけないでしょうか。ぜひとも、ミリアム様の御意見も頂戴したく思うのです」
柔らかな微笑みが、私に控え目に注がれる。
恐らくは、キリアンの言葉を受けてのものだろう。提案自体は、とてもありがたいものである。けれど、そこまでしてもらわずとも騎士隊の皆のことは信頼しているし、特に女性騎士達とは、これまでイーリスを通じて何度となく共に時間を過ごしてきた。誰が護衛をしてくれたとしても、私が安心を得こそすれ、不安になることはないと思うのだ。
だから、私としてはレナートが馬車に同乗すること同様ヨルゲン達が決めてくれればそれでいいのだけれど、かと言って、せっかくの厚意を無下にするのも非常に申し訳ない。
そんな思いを抱きつつ私がキリアンとレナートそれぞれを窺えば、二人からは当然のように、行って来るといいとの意を込めた頷きが返ってきた。
「……よろしくお願いします」
二人の反応に背中を押されて私が返事を返せば、それを合図にキリアンの両手が私から離れ、そのままヨルゲンに促される形で私は席を立つ。
またあとでね、と軽く手を振るイーリスに手を振り返し、
「ミリアム」
最後にレナートに呼び止められて、私はベッドを振り返った。
「おやすみ」
――ミア。
音を伴って告げられたのは、いつもの挨拶。毎日夜食を届けた際、最後にレナートと交わす言葉だ。けれど、続いて無音のままに口が形作った予想外の二文字は、私の心臓を大きく跳ねさせた。
皆の視線が部屋を出る私に集中した隙を狙っての不意打ちに、たちまち私の頬が熱を持つ。音こそなかったとは言え、二人きりの時だけの呼び名を他の人がいる前で口にされた事実に、言いようのないむず痒さが全身を駆けた。おまけに、レナートが私へ期待の眼差しを向けるものだから更に私の鼓動は早まって、挨拶を返そうと開いた口が戦慄く。
「ミリアム、どうかしたの?」
首を傾げるイーリスの声に大袈裟に肩を跳ねさせ、私はその反応を誤魔化すようにふるふると勢いよく首を振った。
「なっ、なな、何でもないですっ。み、皆さんもおやすみなさいませ! キリアン様とイーリスさんは、ど、どうかお気を付けて!」
そして、慌てた私は盛大に吃りながらどうにもおかしな挨拶を言い放ち、扉を開けて待つヨルゲンの横を逃げるように急ぎ足で通り過ぎる。
それでも、ヨルゲンの手によって扉が閉められてしまう直前、なけなしの勇気を振り絞って振り返り、扉の陰からレナートへ向かって挨拶を口にした。
勿論、レナートに倣うことも忘れずに。
「お、おやすみなさい……っ」
――レファ。
その瞬間、ほんのわずかな隙間から見えたレナートが嬉しそうに綻ばせた顔は、ヨルゲンに案内されて騎士隊の人達に宛がわれた部屋へ着くまで、私の頬に熱を灯し続けたのだった。
けれど、それは色を濃くする前にもう一人の声によってすぐに散らされる。
「レナート、そんなことでいちいち睨むな。イーリスもいい加減ミリアムを離せ。その状態では話ができんだろうが」
呆れを隠しもしない一言は、レナートの食事の介助の為にベッドに寄せていた椅子に腰掛けたキリアンのものだ。彼の後ろには、王太子付きの騎士隊を束ねる隊長が控えて、一人私へと穏やかに微笑みを向けている――ほんの少し前まで私とレナートの二人きりだった部屋に、今はどうにも奇妙な状況が生まれていた。
キリアン達三人は、先ほどこの部屋へとやって来た。と言うよりも、半ば押し入って来た。主に、イーリスが。
忙しく扉が叩かれる音に私が我に返った時には、こちらからの応答を待たずにイーリスが扉を開けて足音荒く入って来ていたのだ。そして、何事かと驚いている間に私はイーリスに腕を取られ、ベッドからやけに遠い部屋の隅へと連れて行かれてしまった。
更には何故か体を隅々まで確かめられると、今度はその場で抱き締められて、現在に至っている。
ちら、とイーリスを仰ぎ見るけれど、その表情をはっきり窺うことはできない。ただ、イーリスの腕が私を解放してくれる気配がないことだけは、抱き締める腕の強さからはっきりしていた。そして、私の予想通り彼女の口からは不満気な声が上がる。
「殿下、この状態でも話を聞くことは――」
「イーリス」
途端、二度も言わせるなとばかりに、イーリスの不承知をキリアンがはっきり撥ね付けた。鋭い一声は流石命令することに慣れた地位にいる者のそれで、思わず私の方が声の強さに驚いて身を固くしてしまったほどだ。それなのに、肝心のイーリスにはその声の強さもまるで効いていないのか、なおも渋るように私を抱き締め続けるのだから驚いてしまう。
とは言え、キリアンの紅瞳に無言で射られ続けては、流石のイーリスも我儘を押し通すことはできないのだろう。それとも、自分の行動が身勝手であると理解しているからだろうか。
わずかの沈黙の後、極小さなため息と共に渋々と言う体でイーリスの腕が解け、私の体に自由が戻った。そこに、キリアンの後ろに控えていた隊長からすかさず声が掛かる。
「ミリアム様、どうぞお掛けください」
この中の誰より年長で、武に秀でた騎士と言うにはあまりに物腰柔らかな紳士然とした風貌の彼は、卒のない慣れた動きでキリアンの向かいの椅子を引き、私へとにこやかに示した。
その言葉と行動が示すのは、キリアンは私にもこの場への同席を求めていると言うこと。そのことに、私は意外な思いで目を瞬く。
何故なら、キリアンがイーリスに私を離すよう強く言ったのは、私にこの部屋を辞してほしいからだと考えていたからだ。けれど、現状を見るとどうもそうではないらしい。
では、私も同席する必要のある話とは、一体何なのか――ざっと考えてみるけれど悪いことが伝えられる予感しかせず、私の腹に反射的に力が入る。
にわかに体に緊張を走らせながら、私は慎重に席に着いた。小さな丸テーブルを挟んで間近に向かい合う形となったキリアンは、私が着席したことで表情を緩め、次いで私の緊張を――私の悪癖を――読み取ったのか、口元に柔らかな笑みを刷いた。
「そんなに固くならずとも、悪い知らせはないから安心するといい、ミリアム」
「え! あ……も、申し訳ありません……」
まさかの一言に驚きつつ、私は恥ずかしさに椅子の上で縮こまった。対するキリアンは私の反応にわずかに小さく吹き出したあと、一呼吸を置いて表情を改める。そして、一通の手紙を私達の前に出した。
「先ほど、陛下から今後についての返事が届いた」
端的な一言に、全員の視線が手紙を捉える。
封蝋に捺された印璽は差出人が王家のものであるとはっきり示しており、そのことに私は思わず目を瞠った。同時に、まだ私が王城で過ごしていた頃にレナートから聞いた話が、にわかに脳裏に蘇る。
エリューガル王家には、緊急の際に素早く情報を伝達する為、グーラ種のように加護を持つ特別な鳥が飼育されているのだと言う。その鳥はグーラ種同様、話すことはできずとも人語を解し、エリューガル国内であればどんな遠方だろうと二、三日の内に確実に目的地へ到達することができる能力を持っているのだそうだ。
各国境警備隊でも緊急時の大切な伝令として飼育されており、今回はそちらを使って王城へこちらの状況を知らせたのだろう。
砦の案内をしてもらった時には、飼育小屋がある、と言う程度の説明だけで中まで覗くことはなかった為、今の今まですっかり存在を忘れていた。
「陛下は何と?」
「予定の変更はなし、とのことだ」
「では、殿下は――」
私が伝令の鳥のことを思い出して密かに驚く一方で、私以外の四名は慣れたものなのか驚く様子もなく、手紙を前に淡々と言葉を交わしていた。
レナートの短い問いにキリアンが頷き、その瞳が一度イーリスを捉える。
「……ああ。明日早朝、イーリスを含む騎士三名を伴って、私は聖都へ向かうことにした。以降のことはレナートとヨルゲン、お前達二人に任せる」
「畏まりました」
隊長――ヨルゲンが恭しく一礼し、レナートも同じくベッドの上で了承の意を示す。
「お前達の王都への帰還は急がずともよいと言うことだが、あまり長期になってもミュルダール家に迷惑だろう。レナート、お前がベッドから出られるまで、あとどのくらいの日数が必要だ?」
「二日もあれば」
「では、そのつもりで叔母上には私から伝えておく」
「隊の者には私から周知しておきましょう」
「ミリアムの護衛の人選も頼むぞ、ヨルゲン」
次々にこの先の予定が決まっていく中、急に出てきた自分の名に、私ははっとする。
キリアンの聖都訪問は、先ほどキリアン自身が告げた通り、当初から予定されていたことである。毎年この時期、守護竜の祝祭の事前準備の為に、クルードの愛し子であるキリアンは聖都を訪れているそうなのだ。今回はオスタルグからの要請に応えて東の国境へ赴く公務が急遽入ってしまった為、こちらでの予定を終えたあと、帰路の途中で王都からの神官一行と落ち合い、聖都へ向かう手筈となっていた。
そして、キリアンの護衛として共に聖都へ赴くのはレナートで、イーリスは私の護衛を継続して王都へ帰還する――その予定だったのだ。
それが、明日からレナートではなくイーリスがいなくなり、私の護衛が変更される。状況を考えれば当然のことなのだけれど、この一月近く同室で過ごし、これからも王都へ帰り着くまで一緒だと思っていた相手が突然他の人へ変わると思うと、私の中に急に寂しさが湧き上がった。
特にイーリスは、護衛と言う以上に私がこの国で得た同性の友人の一人である。夜、就寝するまでを二人で過ごす時間は、レナートと過ごす時間とはまた違う、楽しく貴重なものだったのだ。
つい昨日も取り留めのない話で笑い合ったことが思い出されて、私の視線は自然とイーリスを求めて部屋を横断した。
「あら、ミリアムったらそんなに寂しそうな顔をして。今日は私と目一杯お喋りをして、一緒のベッドで眠りましょうか」
「まあっ! イーリスさんっ!」
「お――」
「そうだ、ミリアム。一つ、あなたには知らせておくことがあってな」
にこりと笑うイーリスからの思いがけない嬉しい提案に私が声を弾ませたところで、キリアンの声が鋭く割って入った。何故か腕が横へ真っ直ぐ伸びてレナートの顔が私の視界からはすっかり隠されてしまっていたけれど、ひとまず疑問は脇へ置き、私はイーリスからキリアンへと顔の向きを変える。
「枯れた川に、水が戻り始めているそうだ」
「それは嬉しい知らせですね!」
胸の前で手を合わせて素直に喜んでから、私ははたと表情を固まらせた。
キリアンがわざわざ「私に」と前置きしたこと、オスタルグでの私に対する人々の態度、この地での私の振る舞いと水が戻り始めた川、更には私達を襲った想定外の災害と現状――様々なことが一度に思い出され、そこから予想される事態を考えて、私はわずかに顔を青くした。
何と言っても、フェルベルグ地方ではクルードよりもリーテの方が人々にとって身近な神だ。その愛し子である私のことも、キリアンと同等か、下手をすればそれ以上に敬うべき存在と取られている節がある。そんな私がクルードの愛し子もいる中で土砂災害に見舞われたと知れば、人々はどう思うだろう。どんな行動に出るだろう。
いくら弁えた行動ができる人々だと言っても、私の身に危険が及んだと知ってもなお冷静でいられるとは限らない。勿論、そんな馬鹿なこと、と否定する気持ちもあるけれど、残念ながら礼拝堂で一斉に私に向かって頭を垂れた人々の姿は私の記憶に新しく、どうしても悪い方にばかり思考が走ってしまう。
加えて、私は今この瞬間までそんな事態が起こる可能性をわずかも考えず、ただただミュルダール家でレナートの世話をして過ごしていた。
あまりの愚かさにくらりと目眩を感じた私は、そっと頭に手を添えて密かに息をつく。
まずは落ち着き、冷静になろう。そう自分自身に言い聞かせたところで、不意に複数の視線を感じた私は弾かれるように顔を上げた。
最初に目が合ったのは、正面に座るキリアンだ。次いでその隣、いつの間にか腕が下ろされて遮るもののなくなったレナートとも、はっきりと目が合ってしまう。更には、キリアンの斜め後ろに立つヨルゲンがこちらを控え目に見下ろす視線にも気付いて、私ははたと思考を止めた。
ヨルゲンを除く二人の私に向ける視線は生温かく、表情は笑みの気配を纏って柔らかい。私の荒れる思考とは正反対の穏やかさにも満ちて、そこには危機感も焦燥感も欠片もなかった。
王太子とその騎士が、二人揃って慌てる様子なくこちらを見ている――その理由を考えかけて、はっきりと答えが出るより先に私の顔がかっと熱を持つ。一拍遅れて自分の悪癖を自覚した頃には、目の前のキリアンは今にも吹き出してしまいそうなのを懸命に堪えるように、口元に手を添えていた。
「話を、続けてよさそうだな」
何とか吹き出すのを堪えられたらしいキリアンの一言に、ベッドの上ではレナートも同じく安堵の息をつき、ヨルゲンは静かに目を伏せて私から視線を外す。
私の位置からは顔を動かさなければ見えないけれど、恐らくイーリスも三人と似た反応を見せているのだろう。部屋の空気がどことなく弛緩した気がして、私は言葉もなくただ小さくキリアンへと頷いた。
「先にあなたの不安を払拭しておくと、あなたのことは、怪我は負ったが軽傷で、今は献身的に怪我人の世話をしている、と伝えてある」
一部の熱心な者達の中には、被害の大きさに比して死者が出なかったことについて、私の力によるものではないのかと言う憶測が広がっているとのことだけれど、クルードの愛し子であるキリアンも共に巻き込まれていることから声はさほど大きくはなく、広がりを見せる様子もないそうだ。
当然ながら、実はその憶測が中らずと雖も遠からずであることは、当事者達だけの秘密である。
その代わり、私が日々怪我人の世話に奔走していると言う話に何故か甚く感激する人々が続出しており、私の預かり知らぬところで、私を指して「慈愛の乙女」と言う声が日に日に増えているとかいないとか。
「エステル様の救国の乙女に比べると随分大人しい呼称だが、流石は女神リーテへの信仰心の篤い者達だな。あなたをただ『泉の乙女』と呼ぶだけでは満足しないらしい」
「感心しないでください、キリアン様。私、そんな呼び名を付けられるようなことはしていませんっ」
頷きながらも明らかに面白がっているキリアンに向かって、私はすぐにとんでもないことだと眉を吊り上げる。けれど、まるで効果はなかった。
私の言葉にさも意外そうに片眉を器用に上げたキリアンが、これまた面白がって口端を曲げたのだ。
「そんなことはないだろう。あなたは実際に、毎日レナートの世話をしているのだから」
「ただ食事の介助をしているだけです」
「食事の介助も立派な世話では?」
「そ、うかもしれませんけどっ。でも、違いますっ」
私が間違いなく怪我人の世話をしていることを、ひいては慈愛の乙女と呼称されることを認めさせたいキリアンに、私は必死に首を横に振る。
確かに、キリアンの言う通り食事の介助も世話の一つだ。けれど、言ってしまえば私はそれしかしていない。包帯の取り換えも清拭も着替えも、おおよそ怪我人の世話と言って思い浮かべる主なものは、一つだってやっていないのだ。
しかも、唯一やっている食事の介助にしても相手はレナート一人だけで、恐らく人々が想像しているのだろう十人を超える怪我人全員を相手に行っているわけでもない。時折、食事の配膳や片付けを手伝うことはあっても、本当にそれだけだ。
だからこそ、勘違いで盛大に感動されて「慈愛の乙女」と呼ばれるなんて、あまりに恐れ多いことなのだ。
キリアンだってそのくらいのことは分かっているだろうに面白がっているのだから、何とも質が悪い。そして、そんなキリアンを諌めもせず隣で一緒に笑うレナートも、主従揃ってまったく碌でもない。
「レナートさんも笑ってないで、何か言うことはないんですかっ」
「何かと言われてもな……。実際、俺はミリアムに世話をしてもらっているわけだし、何が問題なんだ?」
「問題大ありじゃないですか! 私、レナートさんのお世話しかしていないんですよ? それなのに、そんな……じ、慈愛だなんてっ。呼ばれていいわけないじゃないですか!」
「そうか? ミリアムの献身は君の慈愛の心の賜物だろう?」
「レナートさん!?」
「ふむ。人数が問題だと言うならば、今からでも他の怪我人を頻繁に見舞ってやるといい。きっと彼らも喜ぶし、慈愛の乙女の名に相応しい行動だろう」
「キリアン様まで何を言っているんです!?」
首を傾げて不思議そうにするレナートに、どこかずれた提案をするキリアン。互いに表情こそ真面目そうな雰囲気を装っていても、そこに滲むのは明らかなからかいの気配だ。
完全に面白がっている。私は大真面目に真剣に御大層な呼称を辞退したいと言うのに、この二人ときたら!
「私は真面目に困っているんです!」
私が不満を目一杯顔に表し二人を睨んで口を曲げれば、ようやく見兼ねたらしいヨルゲンが二人へ向かって控え目に口を開いた。
「キリアン殿下、レナート殿も。その辺りで」
もういいでしょうとばかりに二人を止めるヨルゲン自身も、実のところ苦笑を堪えようとしてどうにも堪えきれていない様子ではあったけれど、私は敢えてそれを見なかったことにして、表情を崩したキリアンを半眼で見据える。
「すまない、ミリアム。少々ふざけが過ぎたな。あなたの気持ちは分かった。呼称については、叔母上から人々に伝えてくれるよう頼んでおこう。ただ――」
そこで不意にキリアンの眉尻が下がり、これまで浮かんでいた笑みが種類を変えた。苦笑と言うには私に対する謝罪が込められた瞳が、私を申し訳なさそうに見つめる。
「あなたは望まないだろうが、この地に住まう者達にとってあなたは……いや、『泉の乙女』と言う存在はそれだけ大きいものなのだと言うことだけは、どうか心に留め置いていてはくれないだろうか」
ゆっくりと言葉を選びながら、キリアンが告げる。その言葉と表情は、決して私を責めてはいなかった。けれど、私が自分の言動の身勝手さに気付くには十分で。私は自分のあまりの情けなさに、くっと唇を噛み締めていた。
聖花祭を楽しむ旅行の最中、自分の意思でマーリットと対面し、女神リーテに背中を押され、ヒューゴから騎士の申し出を受けて、私は思った筈ではなかったか。リーテの愛し子と言う自分の立場と向き合い、自分がどうあるべきかを考えながら前を向いて生きるのだと。
それなのに、今の私はどうだろう。
神官やセルマの要請を受けてこの地へ来て、私は何をした? 現状の自分の小さな力に比して周囲の期待のあまりの大きさに尻込みをし、リーテの愛し子としては積極的に動こうとはしなかったのではなかったか。
神官もセルマもキリアン達も誰も何も言わないのをいいことに、私はただ周囲の声に従って、人々が期待する「泉の乙女」と言う役を当たり障りなく演じただけだったのではないだろうか。
その上、今の言動だ。キリアンに、言外に諫められるのも仕方がない。
だって、この地の人々にとって私は「泉の乙女」以外の何者でもないのにその自覚に欠け、人々の私を思う気持ちから生まれた呼称を迷惑とばかりに受け入れず、あまつさえ、そのことでセルマの手を煩わせようとしているのだから。
きっと真面目なヒューゴは私の騎士になるべく日々努力を重ねているだろうに、二年待つと約束をした側の私がこれでは、ヒューゴに対してもこの地の人々に対しても、そして目の前のクルードの愛し子に対しても、あまりに失礼だ。
(……どうして私は、こうなのだろう)
誰より人生を繰り返してきているのに、いつの人生も繰り返しから逃れることばかりを追い求めていた所為か、その経験はまるで役に立たない。今生でも、気付けば身勝手ばかりで周囲を困らせているなんて、情けないにもほどがある。
こんな私を、これまでとは違うこの人生でも、誰がいつ見限らないと言えるだろう。手の平を返して冷たく突き放さないと、どうして思えるだろう。
その瞬間を考えただけで私の心は抉られるように痛み、同時に新たな人生を送る度に繰り返し感じてきた諦念が押し寄せて目の前が暗くなる。じわりと手足の先から熱が奪われ、凍えていくようだった。
「ミリアム」
名を呼ぶ声にのろのろと顔を上げれば、キリアンがまたしても申し訳なさそうに眉を下げている姿を、私の両の目が捉える。
何故キリアンがそんな顔でいるのだろうと疑問に思う私へ、キリアンの声が柔らかく続いた。
「あなたを悩ませるつもりはなかったのだが……どうも、私の言葉はあなたには重く受け止められてしまうようだ」
自嘲の色を覗かせて、キリアンが微かに笑む。そして、私が上手く反応できずにいる間に、キリアンは私に両手を出すよう示した。
小さな丸テーブルに、キリアンの両手が先に現れる。それを見て一度瞬き、私も恐る恐ると両手を出せば、これまで度々そうしてきたようにキリアンは私の手を両手で包み込むように握った。
慣れた手の温もりが宥めるように甲を撫で、ゆっくりとキリアンに宿る力の拍動が私の全身に伝わっていく。不思議なことに、たったそれだけで昏く沈んでいこうとしていた私の心は掬い上げられ、みるみる落ち着きを取り戻していた。
なおも握った手を通して伝わり続ける拍動に合わせて幾度も呼吸を繰り返し、私がようやく気まずさにそっと視線を逸らしたところで、キリアンがくすりと笑みを零す。
「も、申し訳――」
居た堪れずに口を突いて出た謝罪の言葉は、けれどすぐにキリアンに首を横に振られて途中で尻すぼみに消えた。言葉がない分だけ相手の気遣いが分かって、私の中で更に居た堪れなさが増す。
(また、私は……っ)
着席直後にやってしまったばかりでまたしても悪癖を発揮してしまうなんて、久々に穴があったら入りたい気分だ。こう言う面でも、どうして私はこうなのだろうかと強く思う。けれど、冷静になった今抱く感情は、先ほどとは違って羞恥が圧倒的に強い。
全くもって、私はどうかしていた。悪い方へ考えすぎるにもほどがある。
何故なら、キリアンが私に告げた言葉は全く深刻に受け止めるようなものではないのだと、今なら簡単に理解できるのだから。
そもそも、これまで神殿や神官達からの私への面会申請を始めとする様々な要請を私に知らせずに全て断り続け、極力私が泉の乙女として人前へ出ることがないよう取り計らい続けてくれたキリアンが、ここにきて突然、私の愛し子としての自覚の欠如を責めるわけがないのだ。
この国に暮らす限り、私にとっては切っても切れない「泉の乙女」と言う存在が人々にとってどう言うものであるのか。キリアンは、ただその事実を私に教えようとしただけ。同じ愛し子として、この先私が愛し子であるが故の事態に遭遇するであろう時に、少しでも私の思考の助けとなるように。
決して、その事実を持って私に自覚ある行動を促すだとか、泉の乙女であることを強要しようだとか、そんな考えがあるわけがないのだ。キリアンの言葉は、いつだって私への思いやりに満ちているのだから。
キリアンが手を握り続けてくれているからか、それとも凍えていくように感じたのは単に私の気の所為だったのか。私の体はいつの間にかすっかりすっかり熱を取り戻し、荒れていた思考も凪いでキリアンの言葉の意味を正しく理解し、正面からの視線を真っ直ぐに受け止めていた。
「もう、心配する必要はなさそうだな」
そう言いつつもキリアンは私の手を握ったままで、別の話題を口にし始める。
「これからのことについて、あなたにいくつか助言をしておくとしよう」
私達はこれから、キリアンが不在のままで王都へと帰還することになる。それは、先日私達を襲った者にしてみれば、まともな自衛手段を持たない私を今一度狙う、またとない好機と言えるだろう。
さしもの力持つ者でも、立て続けに大規模な災害を引き起こすことはできないとは言え、あの時キリアンが止めてくれていなければ、相手の声に応えてしまっていたかもしれない私だ。諦めの悪い者であればあるほど、私への接触を試みる可能性はあると警戒をしておくべきである。
「とは言え、必要以上に不安に思うことはない。相手も、こちらが警戒することは当然承知の筈。であれば、警戒しているあなたへ無理に接触を図るより、消耗した力の回復に努める方が賢明だ。それでも、不安を感じることや、あなただからこそ知覚できる事象に触れることがあった場合には、すぐにレナートへ伝えるといい」
「レナートさんに、ですか?」
愛し子としては未熟な私が言うのもなんだけれど、レナートはただの人間だ。私が気持ちを伝えることで前者は解決しても、後者に関しては申し訳ないながら、レナートにどうこうできるとは思えない。
私の正直な気持ちがうっかり顔に現れていたのか、それとも私が考えるであろうことは既に想定していたのか、キリアンが苦笑しながら頷いた。
「あなたがそう思うのも無理はない。だが、レナートはティーティスからその羽根を授かっている。ティーティスが己の役割をレナートに求めて羽根を授けたならば、必ずあなたの力となる筈だ。それに、長年私と行動を共にしているレナートは、恐らく誰よりもその手のことに冷静に対処できる。だから、あなたは存分にレナートを頼ればいい」
「でしたら、レナート殿にはミリアム様の馬車に同乗していただくとしましょう。ミリアム様のことはお任せいたしますよ、レナート殿」
「承知した。ミリアムも構わないか?」
真面目な顔でレナートに問われるけれど、知識もない護衛されるだけの私が、道中の警護の如何について意見などできる筈もない。キリアンから任された二人が決めたことなら、私は従うだけだ。
私が同意を込めて一つ頷けば、更にヨルゲンから私へと提案が寄越される。
「ミリアム様。よろしければ、これからあなた様の護衛の人選にお付き合いいただけないでしょうか。ぜひとも、ミリアム様の御意見も頂戴したく思うのです」
柔らかな微笑みが、私に控え目に注がれる。
恐らくは、キリアンの言葉を受けてのものだろう。提案自体は、とてもありがたいものである。けれど、そこまでしてもらわずとも騎士隊の皆のことは信頼しているし、特に女性騎士達とは、これまでイーリスを通じて何度となく共に時間を過ごしてきた。誰が護衛をしてくれたとしても、私が安心を得こそすれ、不安になることはないと思うのだ。
だから、私としてはレナートが馬車に同乗すること同様ヨルゲン達が決めてくれればそれでいいのだけれど、かと言って、せっかくの厚意を無下にするのも非常に申し訳ない。
そんな思いを抱きつつ私がキリアンとレナートそれぞれを窺えば、二人からは当然のように、行って来るといいとの意を込めた頷きが返ってきた。
「……よろしくお願いします」
二人の反応に背中を押されて私が返事を返せば、それを合図にキリアンの両手が私から離れ、そのままヨルゲンに促される形で私は席を立つ。
またあとでね、と軽く手を振るイーリスに手を振り返し、
「ミリアム」
最後にレナートに呼び止められて、私はベッドを振り返った。
「おやすみ」
――ミア。
音を伴って告げられたのは、いつもの挨拶。毎日夜食を届けた際、最後にレナートと交わす言葉だ。けれど、続いて無音のままに口が形作った予想外の二文字は、私の心臓を大きく跳ねさせた。
皆の視線が部屋を出る私に集中した隙を狙っての不意打ちに、たちまち私の頬が熱を持つ。音こそなかったとは言え、二人きりの時だけの呼び名を他の人がいる前で口にされた事実に、言いようのないむず痒さが全身を駆けた。おまけに、レナートが私へ期待の眼差しを向けるものだから更に私の鼓動は早まって、挨拶を返そうと開いた口が戦慄く。
「ミリアム、どうかしたの?」
首を傾げるイーリスの声に大袈裟に肩を跳ねさせ、私はその反応を誤魔化すようにふるふると勢いよく首を振った。
「なっ、なな、何でもないですっ。み、皆さんもおやすみなさいませ! キリアン様とイーリスさんは、ど、どうかお気を付けて!」
そして、慌てた私は盛大に吃りながらどうにもおかしな挨拶を言い放ち、扉を開けて待つヨルゲンの横を逃げるように急ぎ足で通り過ぎる。
それでも、ヨルゲンの手によって扉が閉められてしまう直前、なけなしの勇気を振り絞って振り返り、扉の陰からレナートへ向かって挨拶を口にした。
勿論、レナートに倣うことも忘れずに。
「お、おやすみなさい……っ」
――レファ。
その瞬間、ほんのわずかな隙間から見えたレナートが嬉しそうに綻ばせた顔は、ヨルゲンに案内されて騎士隊の人達に宛がわれた部屋へ着くまで、私の頬に熱を灯し続けたのだった。
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