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第五章 絡み合う思惑の果て
小さな変化・愛称
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器の中の料理をスプーンで掬う。持ち上げ、手を添えて差し出す。その先には、薄く開いた口。スプーンはあっさり口の中へと迎えられ、すぐさま美味しそうに料理が咀嚼される。あとに残ったのは、掬った中身が綺麗に消えたスプーンだけ。
かれこれ百回は繰り返しただろうたったそれだけの動作をするのに、私の心臓は毎回、いつもよりも早い鼓動を刻んでいた。
「もう一口」
「はい、どうぞ」
催促の声に手にしたスプーンを器の中へと戻し、私は料理を掬って再びレナートの口元へと差し出した。レナートはそれを躊躇いもなく開いた口で受け取り、またもや美味しそうに頬張る。
その姿をどうにも直視できずに、私はほんのわずかに視線を逸らした。どうしてこうなってしまったのだろうと何度となく繰り返した自問自答を今一度繰り返して、気持ちを鎮めるべくそっと深呼吸する。
レナートの食事の介助を勢いで宣言してしまってから、二日。一日五食が提供されるお陰で介助すること自体にはもう慣れたけれど、いまだに私の心はこの状況に慣れることができないでいた。
一つには、二日前のアディーシャとの攻防を見てヤーヴァルが呟いた通り、予想外にレナートが元気なことが理由だろう。
今しばらくは発熱と全身の痛みに苛まれるだろうレナートを思って胸を痛めていたのに、そんな私の心配を余所に、目覚めてたった数時間でレナートの発熱はすっかり下がってしまったのだ。体中が訴えていた痛みも随分引いたそうで、それを聞いた私はあまりの回復の早さと、それを可能にしたリーテの雫の効力に――レナートは何故か曖昧な反応だったけれど――ただただ驚いたものだ。
加えて、食事の介助を始めたその日こそ満足に動かせなかった左腕も、今日の午後にはすっかり痛みも引いて、動かすのに支障がないまでに回復した。
利き腕ではない為、現状では一人で食事をするには覚束なくて介助を必要とするとは言え、それでも想像以上に元気過ぎて、私の考える「重傷者の食事の介助」との乖離が激しいのだ。それはもう、時折、本当にレナートは重傷の怪我人なのだろうかと疑ってしまうくらいには。
実際には、両足の怪我もあって相変わらずベッドからは降りられず、誰よりもしっかり重傷なのだけれど。
そんなことを考えながら、レナートが左手に握ったフォークを使って、一口大に切り分けられた肉料理を自ら食べる様子を見るともなしに見る。と、そのレナートの顔が上がり、私を捉えた。
「ミア?」
どうかしたのか。そんな問いを含んだ視線が私への呼び掛けと共に投げかけられて、私は過剰に反応する体を誤魔化しながら、咄嗟に笑みを浮かべる。
「何でもありませんよ」
「……本当か?」
「本当です。レナー……レファが、左手でもある程度の食事ができるようになってよかったなと思っていただけですから」
「俺の食事、ね」
普通に名を呼びそうになった瞬間、レナートに不満気に軽く睨まれて慌てて言い直し、私は誤魔化す意味も含めてレナートの呟きに対して大きく頷いた。
私がこの状況にいつまでも慣れずにいる理由――もう一つは、これだ。
もっと早くに呼ぶのだった、との言葉を有言実行とばかりに、レナートが私と二人きりの時には私のことを愛称で呼ぶようになったのだ。そして、勿論レナートは私にも同じことを望んだ。つまりは、この時間のレナート呼びを禁止した。
急にそんなことを始められて戸惑う私を余所に、レナートは家族なのだから当然とばかりに、これまでより遠慮のなくなった口調と共に積極的に私を愛称で呼ぶものだから、初めの内はそれはそれは反応に困ってしまったものだ。
そして私が何より困ったのが、いざ日常的に愛称を呼び合うとなった途端、愛称で呼ばれることも呼ぶことも、何故か急に意識してしまうようになったことだった。
お陰で、レナートにミアと呼ばれる度、私がレナートをレファと呼ぶ度に私の心はわけもなく浮き立って、心臓が鼓動を早めてしまうのだ。どんなに心を落ち着かせて、家族の間では普通のことなのだと自分に言い聞かせても、まるで意味がない。レナートは平気な顔で呼ぶのに私ばかりが変に意識してしまっていることも、逆に私の意識を強める結果に繋がっていた。
そんな状態なものだから、ある意味で私にとってレナートの食事の介助は途轍もない試練になってしまっている。おまけにそんな時間が日に五度も訪れるとあって、私の心は休まる暇がない。
それでも、どうしてこんなことにと思いつつも食事の介助を辞めたいと思う気持ちが全く湧かないのは、あの時、レナートがイーリスでもミュルダール家の侍女でも誰でもなく、私に向かって助けてほしいと言ってくれたからだろう。
まさか、いつも私を助けてくれるばかりのレナートが、反対に助けを求めるなんて。それも、私に。あの時のレナートの一言は私にとって大きな驚きであり、同時に得も言われぬ喜びを感じるものでもあった。
それに実を言えば、アディーシャが介助をする姿を目にした瞬間、砦で二人の姿を初めて目にした時と似た言いようのない不快感が込み上げて、それ以上アディーシャにレナートを介抱されたくないとの思いが、私の胸の中に一気に噴き出したのだ。
その所為もあって勢いのままに介助を申し出てしまい、初めの内こそ後悔をした瞬間もあったのだけれど、今ではこの時間がもっと長く続けばいいのにと、いつか終わってしまうことを惜しむ気持ちさえ生まれている。レナートの言動にこんなにも心乱されていると言うのに、おかしなことに、それがかえって心地よくも感じてしまっているのだ。
この時間にいつまでも浸っていたい、この時間に終わりが来ることが寂しい――
こんな思い、一日も早く怪我を回復させたいレナートにしてみれば、裏切りにも等しいものだろう。私自身、それはレナートの怪我が治らなければいいと言っているも同然であることに気付いた瞬間、驚き以上にそんなことを思ってしまったこと自体に恐ろしさを感じて、慌てて抱いた思いを心の奥底に押し込めた。
私の中にこんな身勝手で恐ろしい思いがあったなんて、自分のことながら信じられなかった。しかも、よりによって散々世話になっているレナートに対してだなんて、恩を仇で返すようなものだ。
だから、この思いは絶対にレナートにだけは知られてはいけないのだ。何としても隠し通さなければ。そして、二度とこんな思いを抱くことのないようにしなければ。
その為にも、レナートには一日も早く怪我を治してもらって、介助を必要としない状態になってもらわなければならない。
レナートが肉料理を食べ切った皿を下げ、あと少し残っていた具沢山のスープも綺麗に空になったところで、ワゴンへ戻す。私の一日の食事量を一つにまとめたかのような本日二度目の夕食は、今日も見事に完食されていた。
この調子ならば、きっとあと三日もすれば足の怪我は回復して、ベッドから出られるようになるだろう。そうなればテーブルに座って食事ができるし、右手はまだ使えなくても私の介助も殆ど必要としなくなる筈だ。
惜しいだとか寂しいだとか、そんなことは思ってはいけない。レナートの怪我の回復を喜ばなければ。
私は、これでいいのだと自分を無理矢理納得させて、レナートに微笑んだ。
「あとで夜食用の果物をいただいてきますね。何か要望はありますか、レファ」
「ミア」
尋ねた私へと返ってきたのは、何故か果物の種類ではなく私の愛称だった。同時に枕元をぽんと軽く叩く動作に、少し不思議に思いながらも私は素直にレナートのそばへと寄る。
すぐに座るよう促されて、私は言われるままに枕元へと腰掛けた。そして、レナートの方へと振り返る――いや、振り返ろうとした。
その動きを阻んだのは私の腰に回る腕と項を掠めた吐息、それから、背中に触れた温もりだった。はっと気付いた時には腕に引き寄せられて私の足は床から離れ、一気に不安定になった体が後ろへ傾ぐ。
「ひょあっ!?」
突然のことに心臓が今日一番に大きく跳ね、更に背中が温もりと密着する感触に、たちまち体が硬直した。一拍置いて肩にずしりと何かの重みを感じても、首を動かしてそれを確かめる勇気もない。
壊れたように心臓が早鐘を打つ中、私はせめてとばかりにその名を呼んだ。
「あっ、あああの、レナートさんっ!?」
けれど、動揺のただ中にあった私の一言は逆にレナートの機嫌を損ねるもので、解放されるどころか、非難するように無言で腕の力が込められてしまった。そうなれば、当然背中に触れる温もりの面積は増えるし、密着度も増すわけで。私の混乱も同様に増して、顔から火が出そうになる。
それでも、ここで何か言わなければ事態は私にとって悪い方向に転がる気がしてならない。これ以上の事態の悪化は避けなければと、本能が発する警告が私に口を開かせた。
「レファ! き、急にどうしたんですかっ?」
愛称を口にした瞬間、まずはわずかに私を抱き締める腕の力が緩んだ。それでも私が自由を得るほどには緩めてもらえず、レナートの腕はしっかりと私の腰に回ったままびくともしない。その力は、片手だけなのにまるで逃げられそうになかった。と言うより、逃がさないと言う意志をひしひしと感じて、私の顔が勝手に引き攣る。
これはまずい。理由は分からないけれど、私にとってまずい事態が待っている。そんな確信が駆け抜ける。
私自身は何をしたつもりもないけれど、何かがレナートの気に障ってしまったのだろう。
いつまでも私が愛称呼びに慣れないのがいけないのだろうか? それとも、私の相変わらず丁寧なままの口調? とにもかくにも、これは早々に謝罪しておかねばなるまい。
そんな思いで私が口を開きかけた時、それより早くレナートの方が口を開いた。
「……ミア」
私の耳元で、わずかに不機嫌の滲むレナートの声が私の愛称を呼ぶ。どこか拗ねているようにも聞こえる響きがあったけれど、それに対して疑問を抱く余裕は私にはなかった。
ろくに返事もできずに、視線だけを恐る恐る肩に乗る顔へと向ける。
「また、何かろくでもないことを考えてただろ。それも、ミア自身を責めるようなことを」
「えっ!」
断定の物言いに思わず出てしまった私の声は、レナートの発言を肯定するも同然の反応だった。
直後に、反射的に口を押さえてしまったのもよくなかったのだろう。レナートがむっとする気配がしたと思ったら緩められていた腕の力が強まって、レナートの吐息が首筋に触れた。その距離の近さに、一時落ち着いていた私の体温は更に上昇してしまう。
日中、セシリーに乞われて彼女の好きに結わせる為に髪を二つに結んだままだったことが、こんなところで仇になろうとは。
けれど、今はそんなことに気を取られている場合ではない。私が今考えなければならないのは、一体何故、私が自分を責めるような考え事をしていたとレナートに気付かれてしまったのか、だ。
ところが、その答えは私が考えを巡らせるより早く、あっさりとレナートの方からもたらされることになる。
「考え事をしてる最中のミアは分かり易いんだよ。おかしな方向に思考を飛ばしているならまだしも、深刻そうな暗い顔でいる時は、大抵自分を責めている時だ。そんな顔を見せられて、俺が気付かないと思うのか?」
「そ……っ、そんなにっ!?」
「言っとくが、ミアは表情を取り繕えてるつもりで、全く取り繕えてないからな?」
止めのような一言に、私は絶句した。まさか、そんなに分かり易く顔に出していたなんて欠片も思いもしなかった。本当に、私はいつの間に表情を取り繕うことがこんなにもできなくなってしまったのだろう。これでは、おいそれと人前で考え事などできやしないではないか。
愕然とする私に、けれどレナートは全く容赦がなかった。
「それで? 何を考えてた?」
私の動揺などお構いなしに、素直に話すまで解放してやらないとの圧が私の横顔に刺さる。
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようも、どれだけ聞かれたって、何を考えていたかはレナートにだけは言えないのだけれど。
だって、話せばきっとレナートは私を軽蔑する。最低な人間だと思うだろう。レナートに突き放されるかもしれないと想像しただけで、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。そんなことになれば、私は絶対に立ち直れない。それだけは嫌だ。
だから、私は懸命にこの状況を打開するべく考えを巡らせるのだけれど、既に詰んでいる状況ではいい案など浮かぶ筈もなく。焦る思いとは裏腹に、私の口は無意味な開閉を続けるしかできなかった。
かれこれ百回は繰り返しただろうたったそれだけの動作をするのに、私の心臓は毎回、いつもよりも早い鼓動を刻んでいた。
「もう一口」
「はい、どうぞ」
催促の声に手にしたスプーンを器の中へと戻し、私は料理を掬って再びレナートの口元へと差し出した。レナートはそれを躊躇いもなく開いた口で受け取り、またもや美味しそうに頬張る。
その姿をどうにも直視できずに、私はほんのわずかに視線を逸らした。どうしてこうなってしまったのだろうと何度となく繰り返した自問自答を今一度繰り返して、気持ちを鎮めるべくそっと深呼吸する。
レナートの食事の介助を勢いで宣言してしまってから、二日。一日五食が提供されるお陰で介助すること自体にはもう慣れたけれど、いまだに私の心はこの状況に慣れることができないでいた。
一つには、二日前のアディーシャとの攻防を見てヤーヴァルが呟いた通り、予想外にレナートが元気なことが理由だろう。
今しばらくは発熱と全身の痛みに苛まれるだろうレナートを思って胸を痛めていたのに、そんな私の心配を余所に、目覚めてたった数時間でレナートの発熱はすっかり下がってしまったのだ。体中が訴えていた痛みも随分引いたそうで、それを聞いた私はあまりの回復の早さと、それを可能にしたリーテの雫の効力に――レナートは何故か曖昧な反応だったけれど――ただただ驚いたものだ。
加えて、食事の介助を始めたその日こそ満足に動かせなかった左腕も、今日の午後にはすっかり痛みも引いて、動かすのに支障がないまでに回復した。
利き腕ではない為、現状では一人で食事をするには覚束なくて介助を必要とするとは言え、それでも想像以上に元気過ぎて、私の考える「重傷者の食事の介助」との乖離が激しいのだ。それはもう、時折、本当にレナートは重傷の怪我人なのだろうかと疑ってしまうくらいには。
実際には、両足の怪我もあって相変わらずベッドからは降りられず、誰よりもしっかり重傷なのだけれど。
そんなことを考えながら、レナートが左手に握ったフォークを使って、一口大に切り分けられた肉料理を自ら食べる様子を見るともなしに見る。と、そのレナートの顔が上がり、私を捉えた。
「ミア?」
どうかしたのか。そんな問いを含んだ視線が私への呼び掛けと共に投げかけられて、私は過剰に反応する体を誤魔化しながら、咄嗟に笑みを浮かべる。
「何でもありませんよ」
「……本当か?」
「本当です。レナー……レファが、左手でもある程度の食事ができるようになってよかったなと思っていただけですから」
「俺の食事、ね」
普通に名を呼びそうになった瞬間、レナートに不満気に軽く睨まれて慌てて言い直し、私は誤魔化す意味も含めてレナートの呟きに対して大きく頷いた。
私がこの状況にいつまでも慣れずにいる理由――もう一つは、これだ。
もっと早くに呼ぶのだった、との言葉を有言実行とばかりに、レナートが私と二人きりの時には私のことを愛称で呼ぶようになったのだ。そして、勿論レナートは私にも同じことを望んだ。つまりは、この時間のレナート呼びを禁止した。
急にそんなことを始められて戸惑う私を余所に、レナートは家族なのだから当然とばかりに、これまでより遠慮のなくなった口調と共に積極的に私を愛称で呼ぶものだから、初めの内はそれはそれは反応に困ってしまったものだ。
そして私が何より困ったのが、いざ日常的に愛称を呼び合うとなった途端、愛称で呼ばれることも呼ぶことも、何故か急に意識してしまうようになったことだった。
お陰で、レナートにミアと呼ばれる度、私がレナートをレファと呼ぶ度に私の心はわけもなく浮き立って、心臓が鼓動を早めてしまうのだ。どんなに心を落ち着かせて、家族の間では普通のことなのだと自分に言い聞かせても、まるで意味がない。レナートは平気な顔で呼ぶのに私ばかりが変に意識してしまっていることも、逆に私の意識を強める結果に繋がっていた。
そんな状態なものだから、ある意味で私にとってレナートの食事の介助は途轍もない試練になってしまっている。おまけにそんな時間が日に五度も訪れるとあって、私の心は休まる暇がない。
それでも、どうしてこんなことにと思いつつも食事の介助を辞めたいと思う気持ちが全く湧かないのは、あの時、レナートがイーリスでもミュルダール家の侍女でも誰でもなく、私に向かって助けてほしいと言ってくれたからだろう。
まさか、いつも私を助けてくれるばかりのレナートが、反対に助けを求めるなんて。それも、私に。あの時のレナートの一言は私にとって大きな驚きであり、同時に得も言われぬ喜びを感じるものでもあった。
それに実を言えば、アディーシャが介助をする姿を目にした瞬間、砦で二人の姿を初めて目にした時と似た言いようのない不快感が込み上げて、それ以上アディーシャにレナートを介抱されたくないとの思いが、私の胸の中に一気に噴き出したのだ。
その所為もあって勢いのままに介助を申し出てしまい、初めの内こそ後悔をした瞬間もあったのだけれど、今ではこの時間がもっと長く続けばいいのにと、いつか終わってしまうことを惜しむ気持ちさえ生まれている。レナートの言動にこんなにも心乱されていると言うのに、おかしなことに、それがかえって心地よくも感じてしまっているのだ。
この時間にいつまでも浸っていたい、この時間に終わりが来ることが寂しい――
こんな思い、一日も早く怪我を回復させたいレナートにしてみれば、裏切りにも等しいものだろう。私自身、それはレナートの怪我が治らなければいいと言っているも同然であることに気付いた瞬間、驚き以上にそんなことを思ってしまったこと自体に恐ろしさを感じて、慌てて抱いた思いを心の奥底に押し込めた。
私の中にこんな身勝手で恐ろしい思いがあったなんて、自分のことながら信じられなかった。しかも、よりによって散々世話になっているレナートに対してだなんて、恩を仇で返すようなものだ。
だから、この思いは絶対にレナートにだけは知られてはいけないのだ。何としても隠し通さなければ。そして、二度とこんな思いを抱くことのないようにしなければ。
その為にも、レナートには一日も早く怪我を治してもらって、介助を必要としない状態になってもらわなければならない。
レナートが肉料理を食べ切った皿を下げ、あと少し残っていた具沢山のスープも綺麗に空になったところで、ワゴンへ戻す。私の一日の食事量を一つにまとめたかのような本日二度目の夕食は、今日も見事に完食されていた。
この調子ならば、きっとあと三日もすれば足の怪我は回復して、ベッドから出られるようになるだろう。そうなればテーブルに座って食事ができるし、右手はまだ使えなくても私の介助も殆ど必要としなくなる筈だ。
惜しいだとか寂しいだとか、そんなことは思ってはいけない。レナートの怪我の回復を喜ばなければ。
私は、これでいいのだと自分を無理矢理納得させて、レナートに微笑んだ。
「あとで夜食用の果物をいただいてきますね。何か要望はありますか、レファ」
「ミア」
尋ねた私へと返ってきたのは、何故か果物の種類ではなく私の愛称だった。同時に枕元をぽんと軽く叩く動作に、少し不思議に思いながらも私は素直にレナートのそばへと寄る。
すぐに座るよう促されて、私は言われるままに枕元へと腰掛けた。そして、レナートの方へと振り返る――いや、振り返ろうとした。
その動きを阻んだのは私の腰に回る腕と項を掠めた吐息、それから、背中に触れた温もりだった。はっと気付いた時には腕に引き寄せられて私の足は床から離れ、一気に不安定になった体が後ろへ傾ぐ。
「ひょあっ!?」
突然のことに心臓が今日一番に大きく跳ね、更に背中が温もりと密着する感触に、たちまち体が硬直した。一拍置いて肩にずしりと何かの重みを感じても、首を動かしてそれを確かめる勇気もない。
壊れたように心臓が早鐘を打つ中、私はせめてとばかりにその名を呼んだ。
「あっ、あああの、レナートさんっ!?」
けれど、動揺のただ中にあった私の一言は逆にレナートの機嫌を損ねるもので、解放されるどころか、非難するように無言で腕の力が込められてしまった。そうなれば、当然背中に触れる温もりの面積は増えるし、密着度も増すわけで。私の混乱も同様に増して、顔から火が出そうになる。
それでも、ここで何か言わなければ事態は私にとって悪い方向に転がる気がしてならない。これ以上の事態の悪化は避けなければと、本能が発する警告が私に口を開かせた。
「レファ! き、急にどうしたんですかっ?」
愛称を口にした瞬間、まずはわずかに私を抱き締める腕の力が緩んだ。それでも私が自由を得るほどには緩めてもらえず、レナートの腕はしっかりと私の腰に回ったままびくともしない。その力は、片手だけなのにまるで逃げられそうになかった。と言うより、逃がさないと言う意志をひしひしと感じて、私の顔が勝手に引き攣る。
これはまずい。理由は分からないけれど、私にとってまずい事態が待っている。そんな確信が駆け抜ける。
私自身は何をしたつもりもないけれど、何かがレナートの気に障ってしまったのだろう。
いつまでも私が愛称呼びに慣れないのがいけないのだろうか? それとも、私の相変わらず丁寧なままの口調? とにもかくにも、これは早々に謝罪しておかねばなるまい。
そんな思いで私が口を開きかけた時、それより早くレナートの方が口を開いた。
「……ミア」
私の耳元で、わずかに不機嫌の滲むレナートの声が私の愛称を呼ぶ。どこか拗ねているようにも聞こえる響きがあったけれど、それに対して疑問を抱く余裕は私にはなかった。
ろくに返事もできずに、視線だけを恐る恐る肩に乗る顔へと向ける。
「また、何かろくでもないことを考えてただろ。それも、ミア自身を責めるようなことを」
「えっ!」
断定の物言いに思わず出てしまった私の声は、レナートの発言を肯定するも同然の反応だった。
直後に、反射的に口を押さえてしまったのもよくなかったのだろう。レナートがむっとする気配がしたと思ったら緩められていた腕の力が強まって、レナートの吐息が首筋に触れた。その距離の近さに、一時落ち着いていた私の体温は更に上昇してしまう。
日中、セシリーに乞われて彼女の好きに結わせる為に髪を二つに結んだままだったことが、こんなところで仇になろうとは。
けれど、今はそんなことに気を取られている場合ではない。私が今考えなければならないのは、一体何故、私が自分を責めるような考え事をしていたとレナートに気付かれてしまったのか、だ。
ところが、その答えは私が考えを巡らせるより早く、あっさりとレナートの方からもたらされることになる。
「考え事をしてる最中のミアは分かり易いんだよ。おかしな方向に思考を飛ばしているならまだしも、深刻そうな暗い顔でいる時は、大抵自分を責めている時だ。そんな顔を見せられて、俺が気付かないと思うのか?」
「そ……っ、そんなにっ!?」
「言っとくが、ミアは表情を取り繕えてるつもりで、全く取り繕えてないからな?」
止めのような一言に、私は絶句した。まさか、そんなに分かり易く顔に出していたなんて欠片も思いもしなかった。本当に、私はいつの間に表情を取り繕うことがこんなにもできなくなってしまったのだろう。これでは、おいそれと人前で考え事などできやしないではないか。
愕然とする私に、けれどレナートは全く容赦がなかった。
「それで? 何を考えてた?」
私の動揺などお構いなしに、素直に話すまで解放してやらないとの圧が私の横顔に刺さる。
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようも、どれだけ聞かれたって、何を考えていたかはレナートにだけは言えないのだけれど。
だって、話せばきっとレナートは私を軽蔑する。最低な人間だと思うだろう。レナートに突き放されるかもしれないと想像しただけで、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。そんなことになれば、私は絶対に立ち直れない。それだけは嫌だ。
だから、私は懸命にこの状況を打開するべく考えを巡らせるのだけれど、既に詰んでいる状況ではいい案など浮かぶ筈もなく。焦る思いとは裏腹に、私の口は無意味な開閉を続けるしかできなかった。
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