140 / 143
第五章 絡み合う思惑の果て
小さな変化・愛称
しおりを挟む
器の中の料理をスプーンで掬う。持ち上げ、手を添えて差し出す。その先には、薄く開いた口。スプーンはあっさり口の中へと迎えられ、すぐさま美味しそうに料理が咀嚼される。あとに残ったのは、掬った中身が綺麗に消えたスプーンだけ。
かれこれ百回は繰り返しただろうたったそれだけの動作をするのに、私の心臓は毎回、いつもよりも早い鼓動を刻んでいた。
「もう一口」
「はい、どうぞ」
催促の声に手にしたスプーンを器の中へと戻し、私は料理を掬って再びレナートの口元へと差し出した。レナートはそれを躊躇いもなく開いた口で受け取り、またもや美味しそうに頬張る。
その姿をどうにも直視できずに、私はほんのわずかに視線を逸らした。どうしてこうなってしまったのだろうと何度となく繰り返した自問自答を今一度繰り返して、気持ちを鎮めるべくそっと深呼吸する。
レナートの食事の介助を勢いで宣言してしまってから、二日。一日五食が提供されるお陰で介助すること自体にはもう慣れたけれど、いまだに私の心はこの状況に慣れることができないでいた。
一つには、二日前のアディーシャとの攻防を見てヤーヴァルが呟いた通り、予想外にレナートが元気なことが理由だろう。
今しばらくは発熱と全身の痛みに苛まれるだろうレナートを思って胸を痛めていたのに、そんな私の心配を余所に、目覚めてたった数時間でレナートの発熱はすっかり下がってしまったのだ。体中が訴えていた痛みも随分引いたそうで、それを聞いた私はあまりの回復の早さと、それを可能にしたリーテの雫の効力に――レナートは何故か曖昧な反応だったけれど――ただただ驚いたものだ。
加えて、食事の介助を始めたその日こそ満足に動かせなかった左腕も、今日の午後にはすっかり痛みも引いて、動かすのに支障がないまでに回復した。
利き腕ではない為、現状では一人で食事をするには覚束なくて介助を必要とするとは言え、それでも想像以上に元気過ぎて、私の考える「重傷者の食事の介助」との乖離が激しいのだ。それはもう、時折、本当にレナートは重傷の怪我人なのだろうかと疑ってしまうくらいには。
実際には、両足の怪我もあって相変わらずベッドからは降りられず、誰よりもしっかり重傷なのだけれど。
そんなことを考えながら、レナートが左手に握ったフォークを使って、一口大に切り分けられた肉料理を自ら食べる様子を見るともなしに見る。と、そのレナートの顔が上がり、私を捉えた。
「ミア?」
どうかしたのか。そんな問いを含んだ視線が私への呼び掛けと共に投げかけられて、私は過剰に反応する体を誤魔化しながら、咄嗟に笑みを浮かべる。
「何でもありませんよ」
「……本当か?」
「本当です。レナー……レファが、左手でもある程度の食事ができるようになってよかったなと思っていただけですから」
「俺の食事、ね」
普通に名を呼びそうになった瞬間、レナートに不満気に軽く睨まれて慌てて言い直し、私は誤魔化す意味も含めてレナートの呟きに対して大きく頷いた。
私がこの状況にいつまでも慣れずにいる理由――もう一つは、これだ。
もっと早くに呼ぶのだった、との言葉を有言実行とばかりに、レナートが私と二人きりの時には私のことを愛称で呼ぶようになったのだ。そして、勿論レナートは私にも同じことを望んだ。つまりは、この時間のレナート呼びを禁止した。
急にそんなことを始められて戸惑う私を余所に、レナートは家族なのだから当然とばかりに、これまでより遠慮のなくなった口調と共に積極的に私を愛称で呼ぶものだから、初めの内はそれはそれは反応に困ってしまったものだ。
そして私が何より困ったのが、いざ日常的に愛称を呼び合うとなった途端、愛称で呼ばれることも呼ぶことも、何故か急に意識してしまうようになったことだった。
お陰で、レナートにミアと呼ばれる度、私がレナートをレファと呼ぶ度に私の心はわけもなく浮き立って、心臓が鼓動を早めてしまうのだ。どんなに心を落ち着かせて、家族の間では普通のことなのだと自分に言い聞かせても、まるで意味がない。レナートは平気な顔で呼ぶのに私ばかりが変に意識してしまっていることも、逆に私の意識を強める結果に繋がっていた。
そんな状態なものだから、ある意味で私にとってレナートの食事の介助は途轍もない試練になってしまっている。おまけにそんな時間が日に五度も訪れるとあって、私の心は休まる暇がない。
それでも、どうしてこんなことにと思いつつも食事の介助を辞めたいと思う気持ちが全く湧かないのは、あの時、レナートがイーリスでもミュルダール家の侍女でも誰でもなく、私に向かって助けてほしいと言ってくれたからだろう。
まさか、いつも私を助けてくれるばかりのレナートが、反対に助けを求めるなんて。それも、私に。あの時のレナートの一言は私にとって大きな驚きであり、同時に得も言われぬ喜びを感じるものでもあった。
それに実を言えば、アディーシャが介助をする姿を目にした瞬間、砦で二人の姿を初めて目にした時と似た言いようのない不快感が込み上げて、それ以上アディーシャにレナートを介抱されたくないとの思いが、私の胸の中に一気に噴き出したのだ。
その所為もあって勢いのままに介助を申し出てしまい、初めの内こそ後悔をした瞬間もあったのだけれど、今ではこの時間がもっと長く続けばいいのにと、いつか終わってしまうことを惜しむ気持ちさえ生まれている。レナートの言動にこんなにも心乱されていると言うのに、おかしなことに、それがかえって心地よくも感じてしまっているのだ。
この時間にいつまでも浸っていたい、この時間に終わりが来ることが寂しい――
こんな思い、一日も早く怪我を回復させたいレナートにしてみれば、裏切りにも等しいものだろう。私自身、それはレナートの怪我が治らなければいいと言っているも同然であることに気付いた瞬間、驚き以上にそんなことを思ってしまったこと自体に恐ろしさを感じて、慌てて抱いた思いを心の奥底に押し込めた。
私の中にこんな身勝手で恐ろしい思いがあったなんて、自分のことながら信じられなかった。しかも、よりによって散々世話になっているレナートに対してだなんて、恩を仇で返すようなものだ。
だから、この思いは絶対にレナートにだけは知られてはいけないのだ。何としても隠し通さなければ。そして、二度とこんな思いを抱くことのないようにしなければ。
その為にも、レナートには一日も早く怪我を治してもらって、介助を必要としない状態になってもらわなければならない。
レナートが肉料理を食べ切った皿を下げ、あと少し残っていた具沢山のスープも綺麗に空になったところで、ワゴンへ戻す。私の一日の食事量を一つにまとめたかのような本日二度目の夕食は、今日も見事に完食されていた。
この調子ならば、きっとあと三日もすれば足の怪我は回復して、ベッドから出られるようになるだろう。そうなればテーブルに座って食事ができるし、右手はまだ使えなくても私の介助も殆ど必要としなくなる筈だ。
惜しいだとか寂しいだとか、そんなことは思ってはいけない。レナートの怪我の回復を喜ばなければ。
私は、これでいいのだと自分を無理矢理納得させて、レナートに微笑んだ。
「あとで夜食用の果物をいただいてきますね。何か要望はありますか、レファ」
「ミア」
尋ねた私へと返ってきたのは、何故か果物の種類ではなく私の愛称だった。同時に枕元をぽんと軽く叩く動作に、少し不思議に思いながらも私は素直にレナートのそばへと寄る。
すぐに座るよう促されて、私は言われるままに枕元へと腰掛けた。そして、レナートの方へと振り返る――いや、振り返ろうとした。
その動きを阻んだのは私の腰に回る腕と項を掠めた吐息、それから、背中に触れた温もりだった。はっと気付いた時には腕に引き寄せられて私の足は床から離れ、一気に不安定になった体が後ろへ傾ぐ。
「ひょあっ!?」
突然のことに心臓が今日一番に大きく跳ね、更に背中が温もりと密着する感触に、たちまち体が硬直した。一拍置いて肩にずしりと何かの重みを感じても、首を動かしてそれを確かめる勇気もない。
壊れたように心臓が早鐘を打つ中、私はせめてとばかりにその名を呼んだ。
「あっ、あああの、レナートさんっ!?」
けれど、動揺のただ中にあった私の一言は逆にレナートの機嫌を損ねるもので、解放されるどころか、非難するように無言で腕の力が込められてしまった。そうなれば、当然背中に触れる温もりの面積は増えるし、密着度も増すわけで。私の混乱も同様に増して、顔から火が出そうになる。
それでも、ここで何か言わなければ事態は私にとって悪い方向に転がる気がしてならない。これ以上の事態の悪化は避けなければと、本能が発する警告が私に口を開かせた。
「レファ! き、急にどうしたんですかっ?」
愛称を口にした瞬間、まずはわずかに私を抱き締める腕の力が緩んだ。それでも私が自由を得るほどには緩めてもらえず、レナートの腕はしっかりと私の腰に回ったままびくともしない。その力は、片手だけなのにまるで逃げられそうになかった。と言うより、逃がさないと言う意志をひしひしと感じて、私の顔が勝手に引き攣る。
これはまずい。理由は分からないけれど、私にとってまずい事態が待っている。そんな確信が駆け抜ける。
私自身は何をしたつもりもないけれど、何かがレナートの気に障ってしまったのだろう。
いつまでも私が愛称呼びに慣れないのがいけないのだろうか? それとも、私の相変わらず丁寧なままの口調? とにもかくにも、これは早々に謝罪しておかねばなるまい。
そんな思いで私が口を開きかけた時、それより早くレナートの方が口を開いた。
「……ミア」
私の耳元で、わずかに不機嫌の滲むレナートの声が私の愛称を呼ぶ。どこか拗ねているようにも聞こえる響きがあったけれど、それに対して疑問を抱く余裕は私にはなかった。
ろくに返事もできずに、視線だけを恐る恐る肩に乗る顔へと向ける。
「また、何かろくでもないことを考えてただろ。それも、ミア自身を責めるようなことを」
「えっ!」
断定の物言いに思わず出てしまった私の声は、レナートの発言を肯定するも同然の反応だった。
直後に、反射的に口を押さえてしまったのもよくなかったのだろう。レナートがむっとする気配がしたと思ったら緩められていた腕の力が強まって、レナートの吐息が首筋に触れた。その距離の近さに、一時落ち着いていた私の体温は更に上昇してしまう。
日中、セシリーに乞われて彼女の好きに結わせる為に髪を二つに結んだままだったことが、こんなところで仇になろうとは。
けれど、今はそんなことに気を取られている場合ではない。私が今考えなければならないのは、一体何故、私が自分を責めるような考え事をしていたとレナートに気付かれてしまったのか、だ。
ところが、その答えは私が考えを巡らせるより早く、あっさりとレナートの方からもたらされることになる。
「考え事をしてる最中のミアは分かり易いんだよ。おかしな方向に思考を飛ばしているならまだしも、深刻そうな暗い顔でいる時は、大抵自分を責めている時だ。そんな顔を見せられて、俺が気付かないと思うのか?」
「そ……っ、そんなにっ!?」
「言っとくが、ミアは表情を取り繕えてるつもりで、全く取り繕えてないからな?」
止めのような一言に、私は絶句した。まさか、そんなに分かり易く顔に出していたなんて欠片も思いもしなかった。本当に、私はいつの間に表情を取り繕うことがこんなにもできなくなってしまったのだろう。これでは、おいそれと人前で考え事などできやしないではないか。
愕然とする私に、けれどレナートは全く容赦がなかった。
「それで? 何を考えてた?」
私の動揺などお構いなしに、素直に話すまで解放してやらないとの圧が私の横顔に刺さる。
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようも、どれだけ聞かれたって、何を考えていたかはレナートにだけは言えないのだけれど。
だって、話せばきっとレナートは私を軽蔑する。最低な人間だと思うだろう。レナートに突き放されるかもしれないと想像しただけで、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。そんなことになれば、私は絶対に立ち直れない。それだけは嫌だ。
だから、私は懸命にこの状況を打開するべく考えを巡らせるのだけれど、既に詰んでいる状況ではいい案など浮かぶ筈もなく。焦る思いとは裏腹に、私の口は無意味な開閉を続けるしかできなかった。
かれこれ百回は繰り返しただろうたったそれだけの動作をするのに、私の心臓は毎回、いつもよりも早い鼓動を刻んでいた。
「もう一口」
「はい、どうぞ」
催促の声に手にしたスプーンを器の中へと戻し、私は料理を掬って再びレナートの口元へと差し出した。レナートはそれを躊躇いもなく開いた口で受け取り、またもや美味しそうに頬張る。
その姿をどうにも直視できずに、私はほんのわずかに視線を逸らした。どうしてこうなってしまったのだろうと何度となく繰り返した自問自答を今一度繰り返して、気持ちを鎮めるべくそっと深呼吸する。
レナートの食事の介助を勢いで宣言してしまってから、二日。一日五食が提供されるお陰で介助すること自体にはもう慣れたけれど、いまだに私の心はこの状況に慣れることができないでいた。
一つには、二日前のアディーシャとの攻防を見てヤーヴァルが呟いた通り、予想外にレナートが元気なことが理由だろう。
今しばらくは発熱と全身の痛みに苛まれるだろうレナートを思って胸を痛めていたのに、そんな私の心配を余所に、目覚めてたった数時間でレナートの発熱はすっかり下がってしまったのだ。体中が訴えていた痛みも随分引いたそうで、それを聞いた私はあまりの回復の早さと、それを可能にしたリーテの雫の効力に――レナートは何故か曖昧な反応だったけれど――ただただ驚いたものだ。
加えて、食事の介助を始めたその日こそ満足に動かせなかった左腕も、今日の午後にはすっかり痛みも引いて、動かすのに支障がないまでに回復した。
利き腕ではない為、現状では一人で食事をするには覚束なくて介助を必要とするとは言え、それでも想像以上に元気過ぎて、私の考える「重傷者の食事の介助」との乖離が激しいのだ。それはもう、時折、本当にレナートは重傷の怪我人なのだろうかと疑ってしまうくらいには。
実際には、両足の怪我もあって相変わらずベッドからは降りられず、誰よりもしっかり重傷なのだけれど。
そんなことを考えながら、レナートが左手に握ったフォークを使って、一口大に切り分けられた肉料理を自ら食べる様子を見るともなしに見る。と、そのレナートの顔が上がり、私を捉えた。
「ミア?」
どうかしたのか。そんな問いを含んだ視線が私への呼び掛けと共に投げかけられて、私は過剰に反応する体を誤魔化しながら、咄嗟に笑みを浮かべる。
「何でもありませんよ」
「……本当か?」
「本当です。レナー……レファが、左手でもある程度の食事ができるようになってよかったなと思っていただけですから」
「俺の食事、ね」
普通に名を呼びそうになった瞬間、レナートに不満気に軽く睨まれて慌てて言い直し、私は誤魔化す意味も含めてレナートの呟きに対して大きく頷いた。
私がこの状況にいつまでも慣れずにいる理由――もう一つは、これだ。
もっと早くに呼ぶのだった、との言葉を有言実行とばかりに、レナートが私と二人きりの時には私のことを愛称で呼ぶようになったのだ。そして、勿論レナートは私にも同じことを望んだ。つまりは、この時間のレナート呼びを禁止した。
急にそんなことを始められて戸惑う私を余所に、レナートは家族なのだから当然とばかりに、これまでより遠慮のなくなった口調と共に積極的に私を愛称で呼ぶものだから、初めの内はそれはそれは反応に困ってしまったものだ。
そして私が何より困ったのが、いざ日常的に愛称を呼び合うとなった途端、愛称で呼ばれることも呼ぶことも、何故か急に意識してしまうようになったことだった。
お陰で、レナートにミアと呼ばれる度、私がレナートをレファと呼ぶ度に私の心はわけもなく浮き立って、心臓が鼓動を早めてしまうのだ。どんなに心を落ち着かせて、家族の間では普通のことなのだと自分に言い聞かせても、まるで意味がない。レナートは平気な顔で呼ぶのに私ばかりが変に意識してしまっていることも、逆に私の意識を強める結果に繋がっていた。
そんな状態なものだから、ある意味で私にとってレナートの食事の介助は途轍もない試練になってしまっている。おまけにそんな時間が日に五度も訪れるとあって、私の心は休まる暇がない。
それでも、どうしてこんなことにと思いつつも食事の介助を辞めたいと思う気持ちが全く湧かないのは、あの時、レナートがイーリスでもミュルダール家の侍女でも誰でもなく、私に向かって助けてほしいと言ってくれたからだろう。
まさか、いつも私を助けてくれるばかりのレナートが、反対に助けを求めるなんて。それも、私に。あの時のレナートの一言は私にとって大きな驚きであり、同時に得も言われぬ喜びを感じるものでもあった。
それに実を言えば、アディーシャが介助をする姿を目にした瞬間、砦で二人の姿を初めて目にした時と似た言いようのない不快感が込み上げて、それ以上アディーシャにレナートを介抱されたくないとの思いが、私の胸の中に一気に噴き出したのだ。
その所為もあって勢いのままに介助を申し出てしまい、初めの内こそ後悔をした瞬間もあったのだけれど、今ではこの時間がもっと長く続けばいいのにと、いつか終わってしまうことを惜しむ気持ちさえ生まれている。レナートの言動にこんなにも心乱されていると言うのに、おかしなことに、それがかえって心地よくも感じてしまっているのだ。
この時間にいつまでも浸っていたい、この時間に終わりが来ることが寂しい――
こんな思い、一日も早く怪我を回復させたいレナートにしてみれば、裏切りにも等しいものだろう。私自身、それはレナートの怪我が治らなければいいと言っているも同然であることに気付いた瞬間、驚き以上にそんなことを思ってしまったこと自体に恐ろしさを感じて、慌てて抱いた思いを心の奥底に押し込めた。
私の中にこんな身勝手で恐ろしい思いがあったなんて、自分のことながら信じられなかった。しかも、よりによって散々世話になっているレナートに対してだなんて、恩を仇で返すようなものだ。
だから、この思いは絶対にレナートにだけは知られてはいけないのだ。何としても隠し通さなければ。そして、二度とこんな思いを抱くことのないようにしなければ。
その為にも、レナートには一日も早く怪我を治してもらって、介助を必要としない状態になってもらわなければならない。
レナートが肉料理を食べ切った皿を下げ、あと少し残っていた具沢山のスープも綺麗に空になったところで、ワゴンへ戻す。私の一日の食事量を一つにまとめたかのような本日二度目の夕食は、今日も見事に完食されていた。
この調子ならば、きっとあと三日もすれば足の怪我は回復して、ベッドから出られるようになるだろう。そうなればテーブルに座って食事ができるし、右手はまだ使えなくても私の介助も殆ど必要としなくなる筈だ。
惜しいだとか寂しいだとか、そんなことは思ってはいけない。レナートの怪我の回復を喜ばなければ。
私は、これでいいのだと自分を無理矢理納得させて、レナートに微笑んだ。
「あとで夜食用の果物をいただいてきますね。何か要望はありますか、レファ」
「ミア」
尋ねた私へと返ってきたのは、何故か果物の種類ではなく私の愛称だった。同時に枕元をぽんと軽く叩く動作に、少し不思議に思いながらも私は素直にレナートのそばへと寄る。
すぐに座るよう促されて、私は言われるままに枕元へと腰掛けた。そして、レナートの方へと振り返る――いや、振り返ろうとした。
その動きを阻んだのは私の腰に回る腕と項を掠めた吐息、それから、背中に触れた温もりだった。はっと気付いた時には腕に引き寄せられて私の足は床から離れ、一気に不安定になった体が後ろへ傾ぐ。
「ひょあっ!?」
突然のことに心臓が今日一番に大きく跳ね、更に背中が温もりと密着する感触に、たちまち体が硬直した。一拍置いて肩にずしりと何かの重みを感じても、首を動かしてそれを確かめる勇気もない。
壊れたように心臓が早鐘を打つ中、私はせめてとばかりにその名を呼んだ。
「あっ、あああの、レナートさんっ!?」
けれど、動揺のただ中にあった私の一言は逆にレナートの機嫌を損ねるもので、解放されるどころか、非難するように無言で腕の力が込められてしまった。そうなれば、当然背中に触れる温もりの面積は増えるし、密着度も増すわけで。私の混乱も同様に増して、顔から火が出そうになる。
それでも、ここで何か言わなければ事態は私にとって悪い方向に転がる気がしてならない。これ以上の事態の悪化は避けなければと、本能が発する警告が私に口を開かせた。
「レファ! き、急にどうしたんですかっ?」
愛称を口にした瞬間、まずはわずかに私を抱き締める腕の力が緩んだ。それでも私が自由を得るほどには緩めてもらえず、レナートの腕はしっかりと私の腰に回ったままびくともしない。その力は、片手だけなのにまるで逃げられそうになかった。と言うより、逃がさないと言う意志をひしひしと感じて、私の顔が勝手に引き攣る。
これはまずい。理由は分からないけれど、私にとってまずい事態が待っている。そんな確信が駆け抜ける。
私自身は何をしたつもりもないけれど、何かがレナートの気に障ってしまったのだろう。
いつまでも私が愛称呼びに慣れないのがいけないのだろうか? それとも、私の相変わらず丁寧なままの口調? とにもかくにも、これは早々に謝罪しておかねばなるまい。
そんな思いで私が口を開きかけた時、それより早くレナートの方が口を開いた。
「……ミア」
私の耳元で、わずかに不機嫌の滲むレナートの声が私の愛称を呼ぶ。どこか拗ねているようにも聞こえる響きがあったけれど、それに対して疑問を抱く余裕は私にはなかった。
ろくに返事もできずに、視線だけを恐る恐る肩に乗る顔へと向ける。
「また、何かろくでもないことを考えてただろ。それも、ミア自身を責めるようなことを」
「えっ!」
断定の物言いに思わず出てしまった私の声は、レナートの発言を肯定するも同然の反応だった。
直後に、反射的に口を押さえてしまったのもよくなかったのだろう。レナートがむっとする気配がしたと思ったら緩められていた腕の力が強まって、レナートの吐息が首筋に触れた。その距離の近さに、一時落ち着いていた私の体温は更に上昇してしまう。
日中、セシリーに乞われて彼女の好きに結わせる為に髪を二つに結んだままだったことが、こんなところで仇になろうとは。
けれど、今はそんなことに気を取られている場合ではない。私が今考えなければならないのは、一体何故、私が自分を責めるような考え事をしていたとレナートに気付かれてしまったのか、だ。
ところが、その答えは私が考えを巡らせるより早く、あっさりとレナートの方からもたらされることになる。
「考え事をしてる最中のミアは分かり易いんだよ。おかしな方向に思考を飛ばしているならまだしも、深刻そうな暗い顔でいる時は、大抵自分を責めている時だ。そんな顔を見せられて、俺が気付かないと思うのか?」
「そ……っ、そんなにっ!?」
「言っとくが、ミアは表情を取り繕えてるつもりで、全く取り繕えてないからな?」
止めのような一言に、私は絶句した。まさか、そんなに分かり易く顔に出していたなんて欠片も思いもしなかった。本当に、私はいつの間に表情を取り繕うことがこんなにもできなくなってしまったのだろう。これでは、おいそれと人前で考え事などできやしないではないか。
愕然とする私に、けれどレナートは全く容赦がなかった。
「それで? 何を考えてた?」
私の動揺などお構いなしに、素直に話すまで解放してやらないとの圧が私の横顔に刺さる。
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようも、どれだけ聞かれたって、何を考えていたかはレナートにだけは言えないのだけれど。
だって、話せばきっとレナートは私を軽蔑する。最低な人間だと思うだろう。レナートに突き放されるかもしれないと想像しただけで、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。そんなことになれば、私は絶対に立ち直れない。それだけは嫌だ。
だから、私は懸命にこの状況を打開するべく考えを巡らせるのだけれど、既に詰んでいる状況ではいい案など浮かぶ筈もなく。焦る思いとは裏腹に、私の口は無意味な開閉を続けるしかできなかった。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
乙女ゲームの正しい進め方
みおな
恋愛
乙女ゲームの世界に転生しました。
目の前には、ヒロインや攻略対象たちがいます。
私はこの乙女ゲームが大好きでした。
心優しいヒロイン。そのヒロインが出会う王子様たち攻略対象。
だから、彼らが今流行りのザマァされるラノベ展開にならないように、キッチリと指導してあげるつもりです。
彼らには幸せになってもらいたいですから。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

白い結婚をめぐる二年の攻防
藍田ひびき
恋愛
「白い結婚で離縁されたなど、貴族夫人にとってはこの上ない恥だろう。だから俺のいう事を聞け」
「分かりました。二年間閨事がなければ離縁ということですね」
「え、いやその」
父が遺した伯爵位を継いだシルヴィア。叔父の勧めで結婚した夫エグモントは彼女を貶めるばかりか、爵位を寄越さなければ閨事を拒否すると言う。
だがそれはシルヴィアにとってむしろ願っても無いことだった。
妻を思い通りにしようとする夫と、それを拒否する妻の攻防戦が幕を開ける。
※ なろうにも投稿しています。

1人生活なので自由な生き方を謳歌する
さっちさん
ファンタジー
大商会の娘。
出来損ないと家族から追い出された。
唯一の救いは祖父母が家族に内緒で譲ってくれた小さな町のお店だけ。
これからはひとりで生きていかなくては。
そんな少女も実は、、、
1人の方が気楽に出来るしラッキー
これ幸いと実家と絶縁。1人生活を満喫する。

逆行転生、断罪され婚約を破棄された落ちこぼれ令嬢は、神の子となり逆行転生したので今度は王太子殿下とは婚約解消して自由に生きたいと思います
みゅー
恋愛
アドリエンヌは魔法が使えず、それを知ったシャウラに魔法学園の卒業式の日に断罪されることになる。しかも、シャウラに嫌がらせをされたと濡れ衣を着せられてしまう。
当然王太子殿下との婚約は破棄となったが気づくと時間を遡り、絶大な力を手に入れていた。
今度こそ人生を楽しむため、自分にまるで興味を持っていない王太子殿下との婚約を穏便に解消し、自由に幸せに生きると決めたアドリエンヌ。
それなのに国の秘密に関わることになり、王太子殿下には監視という名目で付きまとわれるようになる。
だが、そんな日常の中でアドリエンヌは信頼できる仲間たちと国を救うことになる。
そして、その中で王太子殿下との信頼関係を気づいて行き……

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

【完結】逃がすわけがないよね?
春風由実
恋愛
寝室の窓から逃げようとして捕まったシャーロット。
それは二人の結婚式の夜のことだった。
何故新妻であるシャーロットは窓から逃げようとしたのか。
理由を聞いたルーカスは決断する。
「もうあの家、いらないよね?」
※完結まで作成済み。短いです。
※ちょこっとホラー?いいえ恋愛話です。
※カクヨムにも掲載。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる