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第五章 絡み合う思惑の果て
災禍の残滓
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《あーあ。安心したら、なんだかお腹が減ってきちゃったなー、僕》
そう言いながら、フィンはあざとく私を上目遣いで見つめ、期待するように瞬きまでしている。その何とも可愛らしいフィンのおねだりに、私は小さく噴き出してしまった。
何故なら、フィンのすぐ脇には体を横たえた状態でも食べられるようにと、新鮮な野菜や果物が用意された箱が鎮座しているのだ。誰が見ても、フィンは誰かに食べさせてもらえなければ食事ができない状態ではない。
それなのに、フィンは私へ強請る姿勢を崩そうとはしなかった。
《お腹空いたなー。すっごく、ぺこぺこだなー》
「フィンったら……」
《えぇー。駄目?》
「しょうがないなぁ」
甘えた声で可愛らしく言われてしまえば、私も強く駄目とは言えない。元より、普段からおやつを強請られては手ずからあげているのだ。いつものそれと同じと思えば、むしろ駄目と言う方がおかしいだろう。
私はフィンの期待の眼差しに折れて箱の前へと移動し、その中を覗き込んだ。人参に南瓜、萵苣と言った野菜に、林檎や李、柑橘系の果物――様々に用意されたそれらを一通り眺め、フィンの要望に応えて箱の中に手を伸ばす。
その時だった。
「おお! 流石はシシシュ! ここにミリアムさんがおるのは間違いないようだの!」
ぬわーっはっはっは、と砦滞在中にすっかり聞き慣れてしまった野太い笑い声が、厩舎の入口から聞こえてきたのは。
私が驚いて掴んだ李を取り落としたところで、馬房の板壁の向こうから、小山ならぬヤーヴァルの巨体がシシシュの巨躯と共に現れる。
その突然の登場には流石のイーリスも驚きを隠せずにいるようで、巨体を見上げる横顔は、目がわずかに見開かれていた。
「ヤーヴァル殿、何故こちらに? あなたは街道にいらっしゃる筈では……」
「うむ。そのつもりだったのだが、力仕事は粗方キリアン殿下がやってしまわれておっての。現場の者から、図体がでかいだけの奴は邪魔と追い払われてしまったのだ!」
胸を張って言い放ち、再びヤーヴァルの豪快な笑い声が厩舎に響く。
果たして、それは笑って済ませていいことなのだろうか。即座にそんな疑問が過ったけれど、本人が全く気にしていないらしいことを、私達があれこれ言っても仕方がない。それに、ヤーヴァルに対して失礼な物言いができるのは、警備隊のキスタス人だけ。遠慮のない彼らの関係性を考えれば、こちらが気にするだけ無駄と言うものだろう。
私とイーリスは一度困惑の顔を見合わせたけれど、結局どちらも口を開くことはなく、代わりに私はイーリスの隣に並んだ。
「では、砦へ戻るのではなくミュルダール家へいらっしゃったのは? 何かあったのですか?」
「いや、なに。ただで砦へ帰るのも勿体ないのでな。砦へ帰るついでに、方々への報告や連絡役を買って出たのだ。それに、シシシュがミリアムさんに会いたがっておったものでの」
「シシシュさんが?」
思わぬ言葉に、私はヤーヴァルの隣で私をじっと見下ろすシシシュを見上げた。
シシシュは私の視線を受けても一言も発さず、だたただ私を正視し続けている。怪我をした息子のフィンにではなく私に会いたがったと言うことを併せて考えても、これはどうも穏やかではなさそうだ。
私の背筋が勝手に伸び、緊張から無意識に唾を飲み込めば、シシシュは一度、その隻眼を藁に横たわるフィンへと向けた。そして、何かを見定めるようにフィンを凝視する。
《と、父さん……》
《……ふん。傷は大事ないようだな、我が息子よ》
《う、うん。大丈夫だよ。治れば走れる》
《ならばよい。しっかり食べて、傷を癒せ》
どことなく緊張感の漂う親子の会話は、必要なことだけが交わされた非常に短くあっさりとしたものだった。けれど、最後に深く頷いたシシシュからは強い安堵が窺えて、私の緊張がわずかに緩む。
たとえ私に会うのが一番の目的だったとしても、シシシュも子を持つ親。フィンのことを心配しないわけがないのだ。
父からの言葉に揺れるフィンの尾を横目に見て私が更に頬を緩ませたところで、シシシュが私へと顔を戻した。その表情は、一瞬前に安堵を見せていたとは思えないほどに厳しく引き締まっており、たちまち私に緊張が戻る。
《ミリアム。話がある》
簡潔な一言は、私に砦でのことを思い起こさせるのに十分だった。あの時は力についての助言をもらったけれど、この流れは確実に助言ではなく、お叱りだろう。レナートもキリアンもイーリスも、フィン達でさえも私の無事を喜んだだけだったけれど、流石に私がやってしまったことに対して、誰にも何も言われないままで済むわけがないのだ。
厩舎の外へと踵を返すシシシュの姿に、私はこちらも砦の時と同様にイーリスに断りを入れ、覚悟を決めつつそのあとを追った。
《そう身構えずとも、我はおぬしに苦言を呈する為に来たのではない》
「そう……なんですか?」
厩舎から出た辺りで、私の緊張を感じ取っていたらしいシシシュが先に口を開く。けれど、言葉の割には纏う空気は緊迫したまま、シシシュ自身も私を振り返ることなく進み続けている。苦言を言うつもりがないのであれば、何故そのような硬い態度のままなのだろう。
私が疑問符を浮かべて瞬けば、シシシュが一度何かを確かめるように足を止めて周囲を見回し、再び何も言わずに歩を進める。そのまま更に少しだけ進んだところでシシシュはようやく立ち止まると、くるりと私の方へと体を向けた。
そこは、厩舎から馬場へ通じる開けた場所だった。人の行き来もない今は、私とシシシュだけがぽつんと佇む。強い日差しが私達へと降り注いで、向かい合うシシシュの黒々とした体がより一層力強く艶めき、彼の威厳を示すようだった。
《我が来たのは、おぬしに憑いたものを祓う為だ》
「憑いたものを、祓う?」
鸚鵡返しに口にして、私はぞわりと足元から駆け上がった悪寒に、咄嗟に両腕を掻き抱く。反射的に足元に視線を落とせば、動きに従って揺れる影が一瞬奇妙に蠢いた――気がした。
「――え?」
瞬いてもう一度足元を凝視するけれど、今見たものは私の気の所為とでも言うように、私の影は私の動きを忠実に地面に落とすだけだ。首を傾げても、片手を恐る恐る挙げてみても、それは変わらない。明確な悪寒を感じたのも、最初の一度きり。
それでも、まったくの気の所為とするには見たものへの衝撃があまりに強く、私は慎重にシシシュを見上げた。
「シシシュさん。私に……何が憑いているんですか?」
キリアンからの話の中では、そんなことには一言も触れられなかった。これまで何度かあったように、何らかの理由で知っていながら私には黙っていたのか、それともキリアンですら気付かない内に、何かが私の中に入り込んでしまったのか。
これまでキリアン達は様々に私の身の安全を図ってくれているのに、もしもそれらを掻い潜って私に取り憑いたとなれば、ただごとではない。先ほどとはまた違う恐怖による悪寒が背筋を駆けて、私はぎゅっと体を抱き締めた。
そこに、シシシュの鼻先がそっと近付く。
《悪いが、今ここでその名は言えぬ。だが、案ずるな、ミリアムよ。憑いているとは言ったが、『それ』自体はおぬしに対して何もできぬものだ。ただ、だからと言って放置していいと言うものでもない。故に、早々に祓う。それだけのことだ》
「それは、シシシュさんに危険は及びませんか?」
《ふん。我のことより、おぬし自身の身を案じよ。どうにも、おぬしは様々な存在を引き寄せてしまうようだからな》
「それって、どう……」
言いかけた言葉は、シシシュが私から身を引いたことで最後まで音にならなかった。
《ミリアム、おぬしはそこにじっとしていろ。決して動くな。少々心の臓に悪いかもしれんが、おぬしに傷一つ付けることはないと約束しよう》
シシシュは私の返事を待たずに一歩後退し、踏ん張るように四肢で地面を踏み締める。私は問いたい思いをぐっと堪え、シシシュに言われた通りその場から決して動くまいと、背筋を伸ばして腹に力を入れた。
シシシュと私の間には、太陽を背に立つ私の短い影が伸びている。その影が、これからシシシュが行う何かを恐れ慄くように、一瞬震えた。
《――天空を、大地を、海原を駆けるグズゥラの四肢は、強大なる鎚。陽光宿す蹄、風裂く尻尾、雷纏う鬣。我が声に応えて集い、我が身に宿れ――》
重々しい声で静かに言葉を重ねる度にシシシュの周囲の空気が震え、生命の輝きに似た仄かな光がシシシュの全身を包みだす。尾が揺れる度に風が起こり、鬣が次第に逆立ち、前脚の蹄が陽炎のように揺らめいて輝く。
私がシシシュの神々しい姿に思わず息をのんだ――瞬間。
かっと隻眼を見開いたシシシュが力強い嘶きと共に風を巻き上げる勢いで高々と前脚を振り上げ、私の影を目掛けて振り落とした。
私の鼻先をシシシュの前脚が高速で掠め、腹に響く打撃音が私の足元どころか周辺一帯にまで響き渡って、地面が揺れる。同時に耳の奥で何かの苦鳴が小さく響き、私の影から何かが散った。
突然のことに驚いた鳥達が一斉に羽ばたき周囲が騒めく中、私は影を射抜く勢いで乾いた大地に深くめり込んだシシシュの前脚を呆然と見つめながら、その場にへたり込んでいた。
あまりのことに心臓が一拍遅れて鼓動を早め、震えが足先から駆け上がる。鼻筋に残る風圧が、ひりりと痛かった。
なるほど、これは確かに心臓に悪い。シシシュが私を傷付けることはないと分かっても、事前に伝えられていても心臓が縮む。それでも、シシシュのお陰で細い糸がぷつりと切れたように、私に憑いている「何か」が完全に私の中から消え去ったことだけは、不思議と明確に感じていた。
私は、感謝を込めてシシシュを見上げた。そうすれば、いつの間にかすっかり尾も鬣も蹄も元に戻ったシシシュが、一仕事終えたとばかりに鼻を鳴らして首を振る。
騒がしい足音がやって来たのは、そのすぐあとのこと。
「これ、シシシュ! 何をやっとるんだ、お前さん」
「ミリアム、怪我はない?」
厩舎からヤーヴァルとイーリスが連れ立って駆けて来て、ヤーヴァルはシシシュの手綱を掴んで私から距離を取り、イーリスは私を心配そうに覗き込んできた。
「申し訳なかったの、ミリアムさん。こやつ、街道でも何やら似たようなことをしておったのだが、まさかミリアムさんの目の前でもやるとは思わなんだ。シシシュよ……いくらわしらが認めたと言っても、ミリアムさんはキスタスの女子ではないのだぞ? あのようなこと、怖がらせてしまうだけではないか」
「あの……違うんです、ヤーヴァル様。シシシュさんは、私の為にしてくださったんです」
眉尻を下げて謝罪するヤーヴァルに、イーリスの手を借りて立ち上がった私は首を振った。そうすれば、どう言うことだと問う二人の視線が私に集まる。
私は一度シシシュを窺い、ヤーヴァルの後ろで軽く頷くのを確かめて、二人へ視線を戻した。
「私に、よくないものが憑いていたそうなんです」
「よくないもの?」
「その……私の影に」
イーリスの問いに曖昧に答えつつ、私は先ほどまで自分の影があった場所を指し示した。そこにはシシシュの足跡が深々と刻まれている。私には名を教えられない何者かによって私に憑いたものを、シシシュが祓ってくれた証だ。
「シシシュさんの行動は、私に憑いたものを祓う為のものだったんです。だから、どうかシシシュさんを叱らないでください、ヤーヴァル様」
二人が慌てたのは、シシシュの行動そのものよりも、私がそのシシシュの目の前でへたり込んでしまったからだろう。けれど、それはシシシュに怪我をさせられたからではなく、単にシシシュの行動が私の予想外過ぎて腰を抜かしてしまっただけで。
流石にそれを正直に告げるのは恥ずかしくて、私はシシシュについてだけを手短に伝えた。
「何と、そうであったか! 目に見えぬものはわしにはさっぱり分からんが、なるほど、ミリアムさんにもあの街道にもよからぬものが憑いておったと言うわけだな、シシシュよ。そして、それをお前は祓ったと。うむ、理解した! 流石はわしの愛馬じゃ!」
手短と言うには簡潔過ぎた気のする私の説明をヤーヴァルはすんなりと納得して、誇らしげにシシシュを撫でてその労を労う。
一方のシシシュはと言えば、撫でられて満更でもないと揺れる尾が示しているのに、素直に喜びを表すことが恥ずかしいのか、ヤーヴァルからはつんと顔を背けていた。
《……ふん。フェルベルグの地は我が領分。そこに断りなく踏み入られ好き勝手に荒らされ、挙句、置き土産までされたとなれば、我とて動かずにはおれぬと言うだけのことだ》
私にしか聞こえない声も、態度と同じく全く素直ではない。ぶんぶんと嬉しそうに揺れ続ける尾だけがシシシュの本音を素直に表して、これまで度々見せていた威厳ある群れの長の姿が実に台無しである。
そして、シシシュのそんな態度は、先ほどトーラの言葉に照れて顔を背けた息子のフィンとよく似ていた。すぐに感謝の言葉を返した分だけフィンの方がずっと素直だけれど、それが余計に私にシシシュを可愛く見せて、思わずふっと笑みが漏れる。
直後に私が笑っていることに気付いたシシシュから鋭く睨まれたものの、そちらもまるで怖いと感じることはなく、私は微笑んだままシシシュへと歩み寄った。
「ありがとうございました、シシシュさん」
《この程度、何と言うこともない。感謝は不要だ》
「それでも、私はとても感謝しているんです」
シシシュは大したことではないと言うけれど、大地を揺らしてしまうほどの力を行使するのは、きっと簡単なことではない筈だ。それに、街道でも同様のことをしていたと言うならば、先ほどの行動は私に憑いたものを祓う為だけではなかったのだと分かる。それ単体では何もできないと言うものを祓うだけにしては、威力が凄まじかったのだから。
恐らくは、私だけではなく現在この城に滞在している土砂崩れの被害に遭った全員に対して、もしくは、私達がいることでこの土地に憑いてしまったかもしれないものに対して、または、その全てに対しての力の行使だった――そう思ってしまうのは、私の考え過ぎだろうか。
何であれ一つ確かなことは、私はシシシュに助けられたと言うことだ。
たとえ、憑いたものをここでシシシュに祓ってもらうことがなかったとしても、いずれ私自身が何らかの異変に気付く時は来ただろう。キリアンやエイナー、ウゥスと言った力持つ人も、持たない人よりは早く異変を感じ取り、対処に動いたに違いない。
けれど、その「いつか」が遅ければ遅いほど、手遅れな事態に発展しないとも限らないのだ。それ自体が何もできなくとも放置していいものではない、と言うのはそう言うことだろうから。
それを思えば、シシシュがどれだけ彼の行動を謙遜しようとも、私のシシシュへの感謝の気持ちは変わらない。むしろ、増すばかりだ。
私は素直ではないシシシュへと、今一度感謝の思いと共に手を伸ばした。そっと漆黒の体に触れれば、シシシュは仕方のない奴だとでも言いたげに、私が撫でやすい位置まで頭を下げてくれる。
そうしながら、群れの長の威厳を取り戻した声で、この程度で安心するなと私に向かって一言静かに告げた。
《ああ言う手合いはしつこい。またいつおぬしに接触を図らんとも限らん。油断はせぬことだ、ミリアム》
それは、感謝の思いしかなかった私の少し浮かれた心を、ぴしゃりと打ち据えるものだった。思わず撫でる手が止まり、ぎこちなくシシシュを見上げて隻眼と見合う。
「え、と……」
《だから、我は感謝は不要と言ったではないか》
「そう、です……ね」
至極当然と私を見下ろすシシシュに、私は言葉少なに頷くしかできなかった。
言われてみれば、シシシュは祓う直前に私にはっきりと口にしていた。どうも私は様々な存在を引き寄せてしまうらしい、と。それは、今回のようなことがただの一度で終わるものではないと言ったも同然で。何故、あの時にすぐ思い至らなかったのかと、私は自分の浅はかさに肩を落とした。
せっかく、レナート達のお陰で今回のことに関して自分を責めずにいられそうだったのに、たちまち私の中に、災害の元凶はやはり自分だったのだとの思いが溢れ出す。
一国の王太子の死と言う悲劇を、繰り返し引き起こしてきたように。呪いである私は、たとえ生まれ育ったアルグライスから遠く離れようとも、どう足掻いても周囲に不幸を撒き散らすしかできないのだ。この先も、きっと何かしらの災厄をもたらしてしまう。そしていつか、この国でも取り返しのつかないことを起こしてしまうのだ。
そのことを思い知らされて、消え去った筈の悪寒が足元から這い上がってきそうだった。
《そう深刻な顔をするな。まさかとは思うが、おぬしはあちらがおぬしに接触を図る度に災害が起こるなどと考えているのか?》
「……違うんですか?」
《呆れた奴だ。そんな傍迷惑なことがあって堪るか》
盛大な鼻息と共にシシシュに呆れられ、私はそのまま鼻先で額を小突かれた。地味に鈍い痛みが走り、私は思わず額を抑える。
けれど、その痛みのお陰で私の心は少しばかり軽さを取り戻していた。
《――蛇だ》
両手で額を抑えたまま顔を上げた私に、シシシュの言葉が降ってくる。
「蛇……?」
その瞬間、そばにいたイーリスが顔を強張らせる気配があった。けれど、私がそちらを気にするよりも先に、シシシュが言葉を続ける。
《蛇に気を付けておればいい。おぬしを欲する者は蛇の先にいる。蛇はその者の手足だ。あれらは狙った獲物を言葉巧みに誘い、惑わせ、罠に嵌め、そうして獲物を主の元へ堕す。もしもこの先おぬしの前に蛇が現れたならば、それの言葉には決して耳を貸すな》
私は、シシシュの言葉にはっとした。それには覚えがある。キリアンの叫びがにわかに脳裏に蘇り、私に囁いた声の記憶が呼び起こされた。
どうしようもなく乱暴な気持ちが湧いていた私へと、寄り添うように囁いた優しい声。正常な思考が働いていれば、絶対に耳を傾けることはなかっただろう言葉。あの時の私にはどうしようもなく耳心地がよく、たった一つの救いに思えた、それ。
あれが、シシシュの言う蛇の声だったのだとしたら。もしもあの時、キリアンが止めに入ってくれることなく私が声に応えてしまっていたら――
ぞっとする私に、シシシュの落ち着いた声が安心させるように続く。
《おぬしは、まだ蛇の先の者の名を知らんのだろう。故に、あちらも簡単におぬしを堕すことができなかったと見える。それはおぬしの助けだ。おぬしにしてみれば知らぬ恐怖もあるだろうが、今しばらく……せめておぬしの心休まる地へ戻るまでは、その者の名を知ろうとせぬことだ。それがおぬしを守るだろう》
そう言って、シシシュは最後に私を励ますように顔を寄せた。と、その耳が何かを聞きつけたのか、ぴくりと動く。
「シシシュさん?」
《……ふむ。だが、どうやら今のおぬしが一番に心配せねばならんのは、おぬしではなくレナートの小僧のようだな》
「えっ?」
大怪我をしたレナートの姿が即座に過って思わず声が出てしまった私へ、シシシュがあれを見ろと示すように頭を巡らせた。そこには、乗り手のいない一頭の馬がこちらを目指して軽快な歩みでやって来る姿があった。
亜麻色の毛に、所々を可愛らしく編んだ黒い鬣と尾。その馬の姿は見覚えのあるもので、私は意外な思いで目を瞬いた。同じく馬に気付いたヤーヴァルも意外だったのか、目を丸くする。
「ニトではないか。何故、あいつがここにおるんだ? アディーシャにはわしの留守を頼んでおった筈だが……」
「何かあったんでしょうか」
直前にシシシュが口にしたレナートの名と蛇の話が尾を引いて、私はすぐさまよくない方向へと想像を向けた。けれど、最初に馬に気付いたシシシュはまるで緊迫感のない様子で、ふんと鼻を鳴らすだけだ。
《我が言ったではないか。レナートの小僧を心配せよと》
私は今一度繰り返された言葉とやって来る馬、その馬の主と彼女の性格とを順に思い浮かべて考えた。
ヤーヴァルに任された留守を放ってまで、アディーシャがミュルダール家へ馬を走らせる理由とは、と。
「もしかして……」
「ねえ、ミリアム」
「うむ。アディーシャはミリアムさんとレナートのことを、それは心配しておったからの」
私が恐る恐る零した声にイーリスとヤーヴァルの声が続き、それを聞いた私の顔が勝手に引き攣った。
つまり、こう言うことか。
私とレナートの心配をしていたアディーシャは、誰からか私達が目覚めたことを聞き、居ても立っても居られずやって来てしまったと。任されていた筈の砦の留守は、きっと誰かに押し付けたのだろう。例えば、タァニ辺りに。
あとはよろしくねと笑顔で砦を出るアディーシャの背後で、叫びながら頽れるタァニの姿が想像されて、私は一時遠い目をした。
けれど、こうしてはいられない。アディーシャはベッドで休んでいる重傷人を前にして無遠慮に騒ぐほど常識のない人ではない筈だけれど、レナートの目覚めた姿に喜ぶあまり、と言うこともあり得ないではない。何せ、彼女は悪戯と称して私の飲料にも平気で酒を混入させてしまうような人なのだ。
勢いを持ってイーリスを振り返った私を、イーリスの頭痛を堪えるような顔とため息が迎える。
「様子を見に行った方がよさそうね」
「ならば、わしも共に行こう」
頷き合った私達は、ヤーヴァルの戻りをフィン達と待つと告げたシシシュとニトをそこに残し、連れ立ってレナートの部屋を目指すことにした。
*
そうして、心配しながら向かったレナートの部屋で私達が目にしたのは。
「ほぅら、レナート君。美味しいお粥よー。はい、あーん!」
湯気を立てる料理をスプーンで掬ってレナートへ差し出す笑顔のアディーシャと、
「いや、いい。いいって言ってるだろうが! やめろ! スプーンを近付けるな! 自分で食える!」
盛大に顔を引き攣らせ上体を仰け反らせながら、全力で食べさせてもらうのを遠慮するレナートの姿だった。
「……何、これ」
「何じゃ、レナートも元気ではないか」
「――……っ、助けてくれミリアム!」
部屋の入口に突っ立ったまま呆れる二人の呟きに、私達に気付いたレナートの助けを求める必死な声が重なる。
その声に、その視線に。
気付けば私は予想外の出来事に呆然としていたことも忘れて、大股でアディーシャの元へ向かっていた。そして、レナートの口へ近付く手を掴むと、その勢いのままに声を張る。
「レナートさんの食事の介助は私がしますっ!」
アディーシャがしてやったりと笑みを深めたのは、その直後。私が自分の発言を後悔するのは――ほんの少し、あとのこと。
そう言いながら、フィンはあざとく私を上目遣いで見つめ、期待するように瞬きまでしている。その何とも可愛らしいフィンのおねだりに、私は小さく噴き出してしまった。
何故なら、フィンのすぐ脇には体を横たえた状態でも食べられるようにと、新鮮な野菜や果物が用意された箱が鎮座しているのだ。誰が見ても、フィンは誰かに食べさせてもらえなければ食事ができない状態ではない。
それなのに、フィンは私へ強請る姿勢を崩そうとはしなかった。
《お腹空いたなー。すっごく、ぺこぺこだなー》
「フィンったら……」
《えぇー。駄目?》
「しょうがないなぁ」
甘えた声で可愛らしく言われてしまえば、私も強く駄目とは言えない。元より、普段からおやつを強請られては手ずからあげているのだ。いつものそれと同じと思えば、むしろ駄目と言う方がおかしいだろう。
私はフィンの期待の眼差しに折れて箱の前へと移動し、その中を覗き込んだ。人参に南瓜、萵苣と言った野菜に、林檎や李、柑橘系の果物――様々に用意されたそれらを一通り眺め、フィンの要望に応えて箱の中に手を伸ばす。
その時だった。
「おお! 流石はシシシュ! ここにミリアムさんがおるのは間違いないようだの!」
ぬわーっはっはっは、と砦滞在中にすっかり聞き慣れてしまった野太い笑い声が、厩舎の入口から聞こえてきたのは。
私が驚いて掴んだ李を取り落としたところで、馬房の板壁の向こうから、小山ならぬヤーヴァルの巨体がシシシュの巨躯と共に現れる。
その突然の登場には流石のイーリスも驚きを隠せずにいるようで、巨体を見上げる横顔は、目がわずかに見開かれていた。
「ヤーヴァル殿、何故こちらに? あなたは街道にいらっしゃる筈では……」
「うむ。そのつもりだったのだが、力仕事は粗方キリアン殿下がやってしまわれておっての。現場の者から、図体がでかいだけの奴は邪魔と追い払われてしまったのだ!」
胸を張って言い放ち、再びヤーヴァルの豪快な笑い声が厩舎に響く。
果たして、それは笑って済ませていいことなのだろうか。即座にそんな疑問が過ったけれど、本人が全く気にしていないらしいことを、私達があれこれ言っても仕方がない。それに、ヤーヴァルに対して失礼な物言いができるのは、警備隊のキスタス人だけ。遠慮のない彼らの関係性を考えれば、こちらが気にするだけ無駄と言うものだろう。
私とイーリスは一度困惑の顔を見合わせたけれど、結局どちらも口を開くことはなく、代わりに私はイーリスの隣に並んだ。
「では、砦へ戻るのではなくミュルダール家へいらっしゃったのは? 何かあったのですか?」
「いや、なに。ただで砦へ帰るのも勿体ないのでな。砦へ帰るついでに、方々への報告や連絡役を買って出たのだ。それに、シシシュがミリアムさんに会いたがっておったものでの」
「シシシュさんが?」
思わぬ言葉に、私はヤーヴァルの隣で私をじっと見下ろすシシシュを見上げた。
シシシュは私の視線を受けても一言も発さず、だたただ私を正視し続けている。怪我をした息子のフィンにではなく私に会いたがったと言うことを併せて考えても、これはどうも穏やかではなさそうだ。
私の背筋が勝手に伸び、緊張から無意識に唾を飲み込めば、シシシュは一度、その隻眼を藁に横たわるフィンへと向けた。そして、何かを見定めるようにフィンを凝視する。
《と、父さん……》
《……ふん。傷は大事ないようだな、我が息子よ》
《う、うん。大丈夫だよ。治れば走れる》
《ならばよい。しっかり食べて、傷を癒せ》
どことなく緊張感の漂う親子の会話は、必要なことだけが交わされた非常に短くあっさりとしたものだった。けれど、最後に深く頷いたシシシュからは強い安堵が窺えて、私の緊張がわずかに緩む。
たとえ私に会うのが一番の目的だったとしても、シシシュも子を持つ親。フィンのことを心配しないわけがないのだ。
父からの言葉に揺れるフィンの尾を横目に見て私が更に頬を緩ませたところで、シシシュが私へと顔を戻した。その表情は、一瞬前に安堵を見せていたとは思えないほどに厳しく引き締まっており、たちまち私に緊張が戻る。
《ミリアム。話がある》
簡潔な一言は、私に砦でのことを思い起こさせるのに十分だった。あの時は力についての助言をもらったけれど、この流れは確実に助言ではなく、お叱りだろう。レナートもキリアンもイーリスも、フィン達でさえも私の無事を喜んだだけだったけれど、流石に私がやってしまったことに対して、誰にも何も言われないままで済むわけがないのだ。
厩舎の外へと踵を返すシシシュの姿に、私はこちらも砦の時と同様にイーリスに断りを入れ、覚悟を決めつつそのあとを追った。
《そう身構えずとも、我はおぬしに苦言を呈する為に来たのではない》
「そう……なんですか?」
厩舎から出た辺りで、私の緊張を感じ取っていたらしいシシシュが先に口を開く。けれど、言葉の割には纏う空気は緊迫したまま、シシシュ自身も私を振り返ることなく進み続けている。苦言を言うつもりがないのであれば、何故そのような硬い態度のままなのだろう。
私が疑問符を浮かべて瞬けば、シシシュが一度何かを確かめるように足を止めて周囲を見回し、再び何も言わずに歩を進める。そのまま更に少しだけ進んだところでシシシュはようやく立ち止まると、くるりと私の方へと体を向けた。
そこは、厩舎から馬場へ通じる開けた場所だった。人の行き来もない今は、私とシシシュだけがぽつんと佇む。強い日差しが私達へと降り注いで、向かい合うシシシュの黒々とした体がより一層力強く艶めき、彼の威厳を示すようだった。
《我が来たのは、おぬしに憑いたものを祓う為だ》
「憑いたものを、祓う?」
鸚鵡返しに口にして、私はぞわりと足元から駆け上がった悪寒に、咄嗟に両腕を掻き抱く。反射的に足元に視線を落とせば、動きに従って揺れる影が一瞬奇妙に蠢いた――気がした。
「――え?」
瞬いてもう一度足元を凝視するけれど、今見たものは私の気の所為とでも言うように、私の影は私の動きを忠実に地面に落とすだけだ。首を傾げても、片手を恐る恐る挙げてみても、それは変わらない。明確な悪寒を感じたのも、最初の一度きり。
それでも、まったくの気の所為とするには見たものへの衝撃があまりに強く、私は慎重にシシシュを見上げた。
「シシシュさん。私に……何が憑いているんですか?」
キリアンからの話の中では、そんなことには一言も触れられなかった。これまで何度かあったように、何らかの理由で知っていながら私には黙っていたのか、それともキリアンですら気付かない内に、何かが私の中に入り込んでしまったのか。
これまでキリアン達は様々に私の身の安全を図ってくれているのに、もしもそれらを掻い潜って私に取り憑いたとなれば、ただごとではない。先ほどとはまた違う恐怖による悪寒が背筋を駆けて、私はぎゅっと体を抱き締めた。
そこに、シシシュの鼻先がそっと近付く。
《悪いが、今ここでその名は言えぬ。だが、案ずるな、ミリアムよ。憑いているとは言ったが、『それ』自体はおぬしに対して何もできぬものだ。ただ、だからと言って放置していいと言うものでもない。故に、早々に祓う。それだけのことだ》
「それは、シシシュさんに危険は及びませんか?」
《ふん。我のことより、おぬし自身の身を案じよ。どうにも、おぬしは様々な存在を引き寄せてしまうようだからな》
「それって、どう……」
言いかけた言葉は、シシシュが私から身を引いたことで最後まで音にならなかった。
《ミリアム、おぬしはそこにじっとしていろ。決して動くな。少々心の臓に悪いかもしれんが、おぬしに傷一つ付けることはないと約束しよう》
シシシュは私の返事を待たずに一歩後退し、踏ん張るように四肢で地面を踏み締める。私は問いたい思いをぐっと堪え、シシシュに言われた通りその場から決して動くまいと、背筋を伸ばして腹に力を入れた。
シシシュと私の間には、太陽を背に立つ私の短い影が伸びている。その影が、これからシシシュが行う何かを恐れ慄くように、一瞬震えた。
《――天空を、大地を、海原を駆けるグズゥラの四肢は、強大なる鎚。陽光宿す蹄、風裂く尻尾、雷纏う鬣。我が声に応えて集い、我が身に宿れ――》
重々しい声で静かに言葉を重ねる度にシシシュの周囲の空気が震え、生命の輝きに似た仄かな光がシシシュの全身を包みだす。尾が揺れる度に風が起こり、鬣が次第に逆立ち、前脚の蹄が陽炎のように揺らめいて輝く。
私がシシシュの神々しい姿に思わず息をのんだ――瞬間。
かっと隻眼を見開いたシシシュが力強い嘶きと共に風を巻き上げる勢いで高々と前脚を振り上げ、私の影を目掛けて振り落とした。
私の鼻先をシシシュの前脚が高速で掠め、腹に響く打撃音が私の足元どころか周辺一帯にまで響き渡って、地面が揺れる。同時に耳の奥で何かの苦鳴が小さく響き、私の影から何かが散った。
突然のことに驚いた鳥達が一斉に羽ばたき周囲が騒めく中、私は影を射抜く勢いで乾いた大地に深くめり込んだシシシュの前脚を呆然と見つめながら、その場にへたり込んでいた。
あまりのことに心臓が一拍遅れて鼓動を早め、震えが足先から駆け上がる。鼻筋に残る風圧が、ひりりと痛かった。
なるほど、これは確かに心臓に悪い。シシシュが私を傷付けることはないと分かっても、事前に伝えられていても心臓が縮む。それでも、シシシュのお陰で細い糸がぷつりと切れたように、私に憑いている「何か」が完全に私の中から消え去ったことだけは、不思議と明確に感じていた。
私は、感謝を込めてシシシュを見上げた。そうすれば、いつの間にかすっかり尾も鬣も蹄も元に戻ったシシシュが、一仕事終えたとばかりに鼻を鳴らして首を振る。
騒がしい足音がやって来たのは、そのすぐあとのこと。
「これ、シシシュ! 何をやっとるんだ、お前さん」
「ミリアム、怪我はない?」
厩舎からヤーヴァルとイーリスが連れ立って駆けて来て、ヤーヴァルはシシシュの手綱を掴んで私から距離を取り、イーリスは私を心配そうに覗き込んできた。
「申し訳なかったの、ミリアムさん。こやつ、街道でも何やら似たようなことをしておったのだが、まさかミリアムさんの目の前でもやるとは思わなんだ。シシシュよ……いくらわしらが認めたと言っても、ミリアムさんはキスタスの女子ではないのだぞ? あのようなこと、怖がらせてしまうだけではないか」
「あの……違うんです、ヤーヴァル様。シシシュさんは、私の為にしてくださったんです」
眉尻を下げて謝罪するヤーヴァルに、イーリスの手を借りて立ち上がった私は首を振った。そうすれば、どう言うことだと問う二人の視線が私に集まる。
私は一度シシシュを窺い、ヤーヴァルの後ろで軽く頷くのを確かめて、二人へ視線を戻した。
「私に、よくないものが憑いていたそうなんです」
「よくないもの?」
「その……私の影に」
イーリスの問いに曖昧に答えつつ、私は先ほどまで自分の影があった場所を指し示した。そこにはシシシュの足跡が深々と刻まれている。私には名を教えられない何者かによって私に憑いたものを、シシシュが祓ってくれた証だ。
「シシシュさんの行動は、私に憑いたものを祓う為のものだったんです。だから、どうかシシシュさんを叱らないでください、ヤーヴァル様」
二人が慌てたのは、シシシュの行動そのものよりも、私がそのシシシュの目の前でへたり込んでしまったからだろう。けれど、それはシシシュに怪我をさせられたからではなく、単にシシシュの行動が私の予想外過ぎて腰を抜かしてしまっただけで。
流石にそれを正直に告げるのは恥ずかしくて、私はシシシュについてだけを手短に伝えた。
「何と、そうであったか! 目に見えぬものはわしにはさっぱり分からんが、なるほど、ミリアムさんにもあの街道にもよからぬものが憑いておったと言うわけだな、シシシュよ。そして、それをお前は祓ったと。うむ、理解した! 流石はわしの愛馬じゃ!」
手短と言うには簡潔過ぎた気のする私の説明をヤーヴァルはすんなりと納得して、誇らしげにシシシュを撫でてその労を労う。
一方のシシシュはと言えば、撫でられて満更でもないと揺れる尾が示しているのに、素直に喜びを表すことが恥ずかしいのか、ヤーヴァルからはつんと顔を背けていた。
《……ふん。フェルベルグの地は我が領分。そこに断りなく踏み入られ好き勝手に荒らされ、挙句、置き土産までされたとなれば、我とて動かずにはおれぬと言うだけのことだ》
私にしか聞こえない声も、態度と同じく全く素直ではない。ぶんぶんと嬉しそうに揺れ続ける尾だけがシシシュの本音を素直に表して、これまで度々見せていた威厳ある群れの長の姿が実に台無しである。
そして、シシシュのそんな態度は、先ほどトーラの言葉に照れて顔を背けた息子のフィンとよく似ていた。すぐに感謝の言葉を返した分だけフィンの方がずっと素直だけれど、それが余計に私にシシシュを可愛く見せて、思わずふっと笑みが漏れる。
直後に私が笑っていることに気付いたシシシュから鋭く睨まれたものの、そちらもまるで怖いと感じることはなく、私は微笑んだままシシシュへと歩み寄った。
「ありがとうございました、シシシュさん」
《この程度、何と言うこともない。感謝は不要だ》
「それでも、私はとても感謝しているんです」
シシシュは大したことではないと言うけれど、大地を揺らしてしまうほどの力を行使するのは、きっと簡単なことではない筈だ。それに、街道でも同様のことをしていたと言うならば、先ほどの行動は私に憑いたものを祓う為だけではなかったのだと分かる。それ単体では何もできないと言うものを祓うだけにしては、威力が凄まじかったのだから。
恐らくは、私だけではなく現在この城に滞在している土砂崩れの被害に遭った全員に対して、もしくは、私達がいることでこの土地に憑いてしまったかもしれないものに対して、または、その全てに対しての力の行使だった――そう思ってしまうのは、私の考え過ぎだろうか。
何であれ一つ確かなことは、私はシシシュに助けられたと言うことだ。
たとえ、憑いたものをここでシシシュに祓ってもらうことがなかったとしても、いずれ私自身が何らかの異変に気付く時は来ただろう。キリアンやエイナー、ウゥスと言った力持つ人も、持たない人よりは早く異変を感じ取り、対処に動いたに違いない。
けれど、その「いつか」が遅ければ遅いほど、手遅れな事態に発展しないとも限らないのだ。それ自体が何もできなくとも放置していいものではない、と言うのはそう言うことだろうから。
それを思えば、シシシュがどれだけ彼の行動を謙遜しようとも、私のシシシュへの感謝の気持ちは変わらない。むしろ、増すばかりだ。
私は素直ではないシシシュへと、今一度感謝の思いと共に手を伸ばした。そっと漆黒の体に触れれば、シシシュは仕方のない奴だとでも言いたげに、私が撫でやすい位置まで頭を下げてくれる。
そうしながら、群れの長の威厳を取り戻した声で、この程度で安心するなと私に向かって一言静かに告げた。
《ああ言う手合いはしつこい。またいつおぬしに接触を図らんとも限らん。油断はせぬことだ、ミリアム》
それは、感謝の思いしかなかった私の少し浮かれた心を、ぴしゃりと打ち据えるものだった。思わず撫でる手が止まり、ぎこちなくシシシュを見上げて隻眼と見合う。
「え、と……」
《だから、我は感謝は不要と言ったではないか》
「そう、です……ね」
至極当然と私を見下ろすシシシュに、私は言葉少なに頷くしかできなかった。
言われてみれば、シシシュは祓う直前に私にはっきりと口にしていた。どうも私は様々な存在を引き寄せてしまうらしい、と。それは、今回のようなことがただの一度で終わるものではないと言ったも同然で。何故、あの時にすぐ思い至らなかったのかと、私は自分の浅はかさに肩を落とした。
せっかく、レナート達のお陰で今回のことに関して自分を責めずにいられそうだったのに、たちまち私の中に、災害の元凶はやはり自分だったのだとの思いが溢れ出す。
一国の王太子の死と言う悲劇を、繰り返し引き起こしてきたように。呪いである私は、たとえ生まれ育ったアルグライスから遠く離れようとも、どう足掻いても周囲に不幸を撒き散らすしかできないのだ。この先も、きっと何かしらの災厄をもたらしてしまう。そしていつか、この国でも取り返しのつかないことを起こしてしまうのだ。
そのことを思い知らされて、消え去った筈の悪寒が足元から這い上がってきそうだった。
《そう深刻な顔をするな。まさかとは思うが、おぬしはあちらがおぬしに接触を図る度に災害が起こるなどと考えているのか?》
「……違うんですか?」
《呆れた奴だ。そんな傍迷惑なことがあって堪るか》
盛大な鼻息と共にシシシュに呆れられ、私はそのまま鼻先で額を小突かれた。地味に鈍い痛みが走り、私は思わず額を抑える。
けれど、その痛みのお陰で私の心は少しばかり軽さを取り戻していた。
《――蛇だ》
両手で額を抑えたまま顔を上げた私に、シシシュの言葉が降ってくる。
「蛇……?」
その瞬間、そばにいたイーリスが顔を強張らせる気配があった。けれど、私がそちらを気にするよりも先に、シシシュが言葉を続ける。
《蛇に気を付けておればいい。おぬしを欲する者は蛇の先にいる。蛇はその者の手足だ。あれらは狙った獲物を言葉巧みに誘い、惑わせ、罠に嵌め、そうして獲物を主の元へ堕す。もしもこの先おぬしの前に蛇が現れたならば、それの言葉には決して耳を貸すな》
私は、シシシュの言葉にはっとした。それには覚えがある。キリアンの叫びがにわかに脳裏に蘇り、私に囁いた声の記憶が呼び起こされた。
どうしようもなく乱暴な気持ちが湧いていた私へと、寄り添うように囁いた優しい声。正常な思考が働いていれば、絶対に耳を傾けることはなかっただろう言葉。あの時の私にはどうしようもなく耳心地がよく、たった一つの救いに思えた、それ。
あれが、シシシュの言う蛇の声だったのだとしたら。もしもあの時、キリアンが止めに入ってくれることなく私が声に応えてしまっていたら――
ぞっとする私に、シシシュの落ち着いた声が安心させるように続く。
《おぬしは、まだ蛇の先の者の名を知らんのだろう。故に、あちらも簡単におぬしを堕すことができなかったと見える。それはおぬしの助けだ。おぬしにしてみれば知らぬ恐怖もあるだろうが、今しばらく……せめておぬしの心休まる地へ戻るまでは、その者の名を知ろうとせぬことだ。それがおぬしを守るだろう》
そう言って、シシシュは最後に私を励ますように顔を寄せた。と、その耳が何かを聞きつけたのか、ぴくりと動く。
「シシシュさん?」
《……ふむ。だが、どうやら今のおぬしが一番に心配せねばならんのは、おぬしではなくレナートの小僧のようだな》
「えっ?」
大怪我をしたレナートの姿が即座に過って思わず声が出てしまった私へ、シシシュがあれを見ろと示すように頭を巡らせた。そこには、乗り手のいない一頭の馬がこちらを目指して軽快な歩みでやって来る姿があった。
亜麻色の毛に、所々を可愛らしく編んだ黒い鬣と尾。その馬の姿は見覚えのあるもので、私は意外な思いで目を瞬いた。同じく馬に気付いたヤーヴァルも意外だったのか、目を丸くする。
「ニトではないか。何故、あいつがここにおるんだ? アディーシャにはわしの留守を頼んでおった筈だが……」
「何かあったんでしょうか」
直前にシシシュが口にしたレナートの名と蛇の話が尾を引いて、私はすぐさまよくない方向へと想像を向けた。けれど、最初に馬に気付いたシシシュはまるで緊迫感のない様子で、ふんと鼻を鳴らすだけだ。
《我が言ったではないか。レナートの小僧を心配せよと》
私は今一度繰り返された言葉とやって来る馬、その馬の主と彼女の性格とを順に思い浮かべて考えた。
ヤーヴァルに任された留守を放ってまで、アディーシャがミュルダール家へ馬を走らせる理由とは、と。
「もしかして……」
「ねえ、ミリアム」
「うむ。アディーシャはミリアムさんとレナートのことを、それは心配しておったからの」
私が恐る恐る零した声にイーリスとヤーヴァルの声が続き、それを聞いた私の顔が勝手に引き攣った。
つまり、こう言うことか。
私とレナートの心配をしていたアディーシャは、誰からか私達が目覚めたことを聞き、居ても立っても居られずやって来てしまったと。任されていた筈の砦の留守は、きっと誰かに押し付けたのだろう。例えば、タァニ辺りに。
あとはよろしくねと笑顔で砦を出るアディーシャの背後で、叫びながら頽れるタァニの姿が想像されて、私は一時遠い目をした。
けれど、こうしてはいられない。アディーシャはベッドで休んでいる重傷人を前にして無遠慮に騒ぐほど常識のない人ではない筈だけれど、レナートの目覚めた姿に喜ぶあまり、と言うこともあり得ないではない。何せ、彼女は悪戯と称して私の飲料にも平気で酒を混入させてしまうような人なのだ。
勢いを持ってイーリスを振り返った私を、イーリスの頭痛を堪えるような顔とため息が迎える。
「様子を見に行った方がよさそうね」
「ならば、わしも共に行こう」
頷き合った私達は、ヤーヴァルの戻りをフィン達と待つと告げたシシシュとニトをそこに残し、連れ立ってレナートの部屋を目指すことにした。
*
そうして、心配しながら向かったレナートの部屋で私達が目にしたのは。
「ほぅら、レナート君。美味しいお粥よー。はい、あーん!」
湯気を立てる料理をスプーンで掬ってレナートへ差し出す笑顔のアディーシャと、
「いや、いい。いいって言ってるだろうが! やめろ! スプーンを近付けるな! 自分で食える!」
盛大に顔を引き攣らせ上体を仰け反らせながら、全力で食べさせてもらうのを遠慮するレナートの姿だった。
「……何、これ」
「何じゃ、レナートも元気ではないか」
「――……っ、助けてくれミリアム!」
部屋の入口に突っ立ったまま呆れる二人の呟きに、私達に気付いたレナートの助けを求める必死な声が重なる。
その声に、その視線に。
気付けば私は予想外の出来事に呆然としていたことも忘れて、大股でアディーシャの元へ向かっていた。そして、レナートの口へ近付く手を掴むと、その勢いのままに声を張る。
「レナートさんの食事の介助は私がしますっ!」
アディーシャがしてやったりと笑みを深めたのは、その直後。私が自分の発言を後悔するのは――ほんの少し、あとのこと。
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