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第五章 絡み合う思惑の果て

賑やかな厩舎にて

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 ミュルダール家の城内で人に会う度に声を掛けられながら、私はイーリスに付き添われて厩舎に足を踏み入れていた。当分この地を訪れることはないからと出発前に目に焼き付けるように見て回ったばかりのそこは、流石に二日しか経過していなければ変化のしようもない。
 ただし、馬房にいる馬の様子は二日前とは異なっていた。
 イーリスに示された馬房にいたのは、胴や後ろ足に包帯を巻き、たっぷりと敷き詰められた藁に力なく体を横たえたフィンだ。傷が痛むのかレナートのことを心配しているのか、馬房の隅に顔を向けたままぴくりともしない姿は普段の明るいフィンからは想像できないくらい元気がなく、濃い茶褐色の体に目立つ白い包帯の存在も相俟って、私の目には酷く痛々しく映った。
 けれど、物音にぴくりと耳を動かすと共に持ち上がったフィンの頭は、私の予想を裏切る嬉しそうな表情で振り返った。

《あ! ミリアムだー!》

 たちまち目を輝かせて、フィンが元気に尾を振る。ただし、その体は横たわったまま動く気配はない。その様子がフィンの怪我もまた軽いものではないのだと私に示すようで、フィンの嬉しそうな表情に反して私の胸はずきりと痛んだ。
 もしもあの時、私が力を暴走させることなく上手く使えていたらこんなことには――そんな思いが巡りかけて、フィンの弾む声が私を現実に引き戻す。

《よかった! ミリアム、目が覚めたんだね!》
「うん……少し前に。心配をかけてごめんね、フィン」
《ううん、全然! レナートも目を覚ましたんでしょ? だから、嬉しいことしかないよー。来てくれてありがとね!》

 痛々しい見た目とは裏腹にフィンの声はいつも通り明るく、その明るさに釣られるように私の顔にも自然と笑みが灯る。けれど、すぐに不思議に思って首を傾げた。
 何故なら、私が厩舎へやって来たのは、レナートの目覚めをフィンに伝えておいてほしいと、レナートとの話を終えて部屋へやって来たキリアンに頼まれたからだ。
 その頃には私の診察は終わり、怪我の回復具合を見た医師からは、激しい運動さえしなければ問題ないとの言葉を貰っていた。
 だから、医師が去り、キリアンから二日前のことについて詳細な話を聞いた――正確に言えば、私がキリアンへ謝罪したことを切っ掛けに、あの場で話すつもりではなかったらしい彼に詳細を話させてしまった――あと、軽く食事をしてからここに来たのだけれど。

「レナートさんのこと、誰かが知らせに来てくれたの?」
《ううん、今知ったよ》

 馬房の中へ入って尋ねるも、フィンにあっけらかんと言われ、私はますますわけが分からず頭の上に疑問符を浮かべる。

「どう言うこと?」
《だって、ミリアムが僕に会いに来てくれたんだもん。レナートが目を覚ましてなかったら、ミリアムは絶対レナートのそばから離れないでしょ!》
「な……っ」

 知ってるもんね、と得意顔のフィンに自信満々に言い切られて、私は咄嗟に返す言葉が出てこなかった。いや、正確には言い返せなかった。反論できなかったのだ。
 何故なら、フィンの言葉通りの行動をする自分の姿が容易に想像できてしまったから。まさか、フィンにまで私が取り得る行動を完全に予測されているとは思わなかった。
 フィンとはレイラに次いで共に過ごす時間が多く、私の性格を把握されていることは何もおかしなことではない。けれど、それを差し引いても、こうも見事に言い当てられてしまうだなんて、それはそれでとても恥ずかしい。
 私は一拍を置いて顔に集まる熱に、思わず両手を当てた。一方のフィンは私の反応に気をよくして、「僕ってば頭いいー」と鼻を高く上げて嬉しそうだ。私がそれを何とも言えない気持ちで眺めていれば、実はね、と秘密を打ち明けるようにフィンが私へ顔を寄せた。

《ミリアムから、涙とレナートの匂いもしたんだ。目もちょっと赤いし……ミリアムがそんなに泣くくらい嬉しいことって、レナートが目を覚ますことくらいだもんね!》
「えっ!」
《それで、あんまり嬉しくって二人で抱き合って喜んでたでしょ!》
「ひょあっ!?」

 半ば確信してのフィンの一言に、レナートの部屋でのことが瞬時に思い出されて、私の体温が急上昇した。
 衝撃的な単語にも反射的に自分の服の臭いを嗅ぎそうになって慌てて留めたけれど、まさかそんな馬鹿な。私がレナートの部屋を出て随分経つし、医師の診察で取れた包帯も多い。軽くとは言え食事だってしたし、ここに来るまでに風がそよぐ外だって歩いて来た。何より、服を着替えてここへ来たのだから、たとえ私が短くない時間レナートの腕の中にいたとしても、今の私にレナートの匂いなんて残っている筈が――
 そこまで考えて、私は間近からこちらに注がれる視線に気付き、はたと思考を止めた。

《ミリアムってば、顔真っ赤! 林檎みたい! かーわいー!》
「もうっ! フィン! 揶揄ったわね!」

 悪戯を成功させた子供のように瞳を輝かせたフィンと目が合い、私はしてやられた恥ずかしさに思わず大きな声を出してしまった。けれど、フィンは悪びれなくただただ楽しそうに笑うだけだ。

《えぇー? 揶揄ってないよー。だって僕、レナートもミリアムもお互いのことが大好きだって知ってるもん! 大好きなら抱き締めちゃいたいもんね! そう言うのって、相思相愛って言うんだよねー》
「だ、そ……っ!? 何言ってるのっ? そんな……っ、か、家族っ! ただの家族よ、フィン!」
《えぇー?》
「えぇー、じゃないの!」

 確かに、私はレナートのことは嫌いではない。好きか嫌いかで問われれば、迷うことなく好きと答えるだろう。けれど、それはあくまで「人として」の好きであって、それ以上でも以下でもない。私の無事な姿に安堵したレナートだって同じだろう。本人が私のことを「家族として」大切だと言ったのだから、それは間違いない。
 相思相愛だなんて、そんな言葉で言われるような関係であるわけがない。フィンは、何てとんでもない勘違いをするのだろう。

《本当に?》
「まだ言うの?」

 フィンのしつこさに私が頬を膨らませれば、フィンはなおも納得がいかないと鼻を鳴らして私を鼻先で突いた。

《だって、僕、レナートのことは誰より分かるし、ミリアムのことだってグーラの中では一番知ってる自信あるんだもん》
「あら。それは、レイラよりもってこと?」
《うえっ! ええっとね、今のなし! ここにいる中で! レイラの次に!》

 一頭だけ留守番を言い渡されて王都にいるレイラの存在をはっと思い出したのか、フィンが慌てて言い直す。

《今の、レイラには内緒にしててね! 僕、怒られちゃうから!》
「じゃあ、フィンも納得してね? レイラより私のことは詳しくないんでしょう?」
《えぇ! それはそれじゃないの? レイラだって言うと思うけどなー》
「それじゃないし、レイラはそんなこと言いません!」
《んもう! ミリアムの頑固者ー》
「そっちこそ!」

 互いに不満気な視線を交わらせて睨み合い――それから、急におかしさが込み上げてきて、私とフィンは同時に吹き出した。
 私はフィンの鬣に手を伸ばし、フィンはそれだけでは物足りないと私の肩に顎を乗せて引き寄せる。必然的に私はフィンの首を抱く形になり、触れた箇所から伝わってくるフィンの体温に私の顔が綻んだ。
 もしもフィンがもっと酷い怪我をしていたら……それこそ死んでしまっていたら。今、ここでこうして会話もできなかっただろう。そのことを考えると、フィンが生きていることを何よりはっきり伝えてくれる温もりがとても嬉しいし、言葉を交わせる喜びを実感する。

「本当によかった……」
《へへっ。ミリアム、だーい好きっ》
「……うん」

 私が小さく頷いたところで、フィンの馬房へ別の馬がぬっと顔を覗かせた。隣の馬房に入っているトーラだ。

《やれやれ、随分と賑やかなことだ。さっきまで、主人のことが心配で食事も喉を通らなかった奴とは思えないな、フィン?》

 金に輝く鬣を持つトーラは全体的にすらりとした体躯の持ち主で、美しい佇まいが目を引く馬だ。彼は、行動を共にすることの多いグーラ種の中で一番の年長であるからか、口調こそ偉ぶっているものの大変面倒見がよく、フィン達の頼れるお兄さんと言う立ち位置にある。
 そんなトーラへ向かって、フィンの不満満載の声が飛んだ。

《ちょっとー。今、それ言わなくてもよくない? せっかく僕が楽しくミリアムと喋ってたのにー》

 もう、と口を尖らせ、フィンが半眼をトーラへ寄越す。けれど、トーラはまるで気にする様子はなかった。

《こいつは失敬。ただ、今まで厩舎が不気味なほど静かだったものでね》
《ほらまた、そう言うこと言う》
《――だから、また賑やかになったことが嬉しいのだよ》

 優しさに溢れる一言と共にトーラの穏やかな瞳がフィンを静かに見下ろせば、フィンは途端に言葉に詰まってトーラからぷいと顔を背けた。けれど、その行動が照れ隠しであることは明らかだ。

「ふふ。よかったね、フィン」

 私が顔を撫でるとフィンの頭が躊躇いがちにわずかに上下に動き、次いで少しだけ後ろを振り返る。

《トーラもアシェルも、僕のこと心配してくれてありがとね! みんな大好き!》

 へへっ、とはにかんだ笑いが最後に漏れて、フィンが私に恥ずかしそうに鼻面を押し付けてきた。

《うむ。フィンはそうでなくては》
《……お前が賑やかでないと、こちらまで調子が狂ってしまうからな》

 フィンの感謝の言葉にトーラは鷹揚に頷き、反対隣の馬房にいるアシェルからは、素っ気ないながらも喜びの滲む声だけが届く。そのことに、更にフィンが恥ずかしがりながらも嬉しそうに尾を振った。
 フィン達のやり取りに、私の頬も自然と緩む。けれど、同時に現実を思い出した私の胸が、再び小さく痛んだ。
 今回の土砂崩れでは、奇跡的に人命は無事だったものの、多くの馬の命が失われたのだ。
 隊列の誰より先頭をイーリスを乗せて走っていたトーラ、キリアンの代わりに騎士隊の隊長を騎乗させて、馬車の前方を走っていたアシェル。この二頭は辛くも難を逃れて無事だっただけに、ただ一頭グーラ種で怪我を負ったフィンのことを、彼らは随分と心配していたのだろう。しかも、いつだって元気でお喋りなフィンが食事すら摂れないほど塞ぎ込んでいたと言うのだから、二頭がフィンを心配する気持ちは尚更強かったに違いない。
 フィンが無事で本当によかった。その思いを込めて、私は改めてフィンへと手を伸ばす――と。

《勿論、僕達は君のことも心配していたのだよ、ミリアム》

 不意に名を呼ばれ、驚いた私は手を止めてトーラを仰ぎ見た。途端、視線の先にあったトーラの、理知的な光を宿した瞳が柔らかく細められる。

《僕達からも言わせておくれ、ミリアム。君が無事で、何よりだ》

 静かに紡がれた言葉は何の変哲もないようでいて、確かな重みを感じるものだった。そのことに、私は小さく息をのむ。
 恐らくトーラは――いや、トーラだけでなくアシェルも、土砂崩れが起こってからのことについて、詳細に知っているのだろう。
 何せ、彼らは人語を解す。唯一現場にいたフィンが語らずとも、周囲の人間達の交わす会話からある程度のことは把握しただろう。加えて、彼らの主であるイーリスやキリアンが、相棒であるトーラ達に話をしていないとも思えない。
 けれど、そうして話を聞かされ全てを知ってもなお、トーラが口にしたのはレナートやフィンと同じく、私の無事に対する安堵と喜び。やはり、ここでも誰も私を責める言葉を口にしない。皆が当然のように、私のことを大切に思ってくれている。
 短いながらも思いのこもったトーラの一言は、私の胸に強く響いた。

「……ありがとう、みんな」

 最初に私がフィンに告げたのは、謝罪の言葉だった。それは、私の中にあったフィン達に対する後ろめたさが言わせたものだ。
 けれど、今は自然と感謝の言葉が口から出てくる。

《僕達がミリアムのこと心配しないわけないもんね!》
《そうだとも》

 フィンが顔を上げて言い切れば、トーラもはっきりと頷いて応じる。

《……ミリアム。あなたはもう少し、多くの者に大切に思われている自覚を持つべきだ。私達だって、相手がグーラだろうと人間だろうと、大切と思う相手には相応に心を寄せる。……私達の思いを、疑わないでほしい》

 最後に、二頭からはわずかに遅れてアシェルから、淡々とした口調ながら優しさに満ちた言葉が私へ送られた。

「アシェル……」

 トーラ達をこんなにも心配させてしまったのは、いつだって強い気持ちで周囲を信じることのできない私の弱さだろう。そのことに、申し訳ない気持ちが湧く。
 けれど、きっと今の彼らが私に対して欲しているのは謝罪の言葉ではない。

「うん、そうだね。本当に……みんな、ありがとう」

 私がはっきりと笑顔で頷けば、フィン達の表情が明るくなり、動物の声が聞こえないイーリスも私の言葉と三頭の様子から大体のことを察したのか、笑顔でこちらを見ていた。
 と、フィンが思い出したように顔を寄せて私の顔を覗き込む。

《そう言えば、ミリアムの怪我は大丈夫?》

 フィンの視線は主に私の頭部と指先に集中して、怪我の具合を確かめるように瞬いた。
 診察時に大方の包帯は取れてしまったので、フィンがその二か所を熱心に見るのは、土砂崩れの現場での私の姿が強く記憶に残っているからだろう。私はフィンを安心させるように撫で、その手をフィンの目の前に翳してみせた。
 目覚めた当初、肘まで覆うほどの包帯に包まれていた両手は、今では爪を酷く傷付けてしまった一部の指先にその存在を残す程度だ。頭部に巻かれた包帯も、今はない。

「眠っている間に随分とよくなったから、もう殆ど痛みはないの。心配してくれてありがとう、フィン」
《よかったー! でも、無理しちゃ駄目だよ?》
「まあ。フィンにまでそんな心配をされるの、私? 大丈夫よ?」
《あはは。レナートの心配症が僕にも移っちゃったみたい》
「もう。……でも、リーテの雫って凄いのね。私、リーテの雫をこんな風に使っているなんて知らなかったから、驚いちゃった」

 翳した手を自分でも見つめながら、私は診察中に医師に聞いた話を思い出す。
 私が傷の治りの早さに驚いていると、医師が教えてくれたのだ。今回手当てに使われた薬や包帯には、自己治癒力が高まるよう祈りを込めたリーテの雫が使われているのだ、と。しかも、より効果が高まるよう二滴分を使用したものが。
 もっとも、このこと自体は特別なことではないそうで、同様の薬は定期的に神殿から王家や騎士団、各国境警備隊に納められているのだそうだ。そして今回は偶然にも、土砂に巻き込まれたのが騎士団の一隊で、怪我人が運び込まれたのがセルマの嫁いだミュルダール家であり、すぐ近くには東の国境警備隊の砦があると言うことで、怪我人の数に対して十分すぎるほどの量の薬が確保でき、手当てや治療に際して惜しげもなく使われたのだとか。
 その為、比較的軽傷だった私の傷の殆どは、寝ている二日の間に大抵が癒えてしまったのだ。

《でしょ! 凄いよねー。だから、レナートの怪我もあっと言う間に治っちゃうよ!》
「勿論、フィンの怪我もね」
《うん。早く治して、ミリアムのこと乗せてあげるね、僕!》
「ありがとう、フィン。楽しみにしてる」

 笑顔で約束するものの、医師から同時に聞かされた効果の高さ故の難点のことが頭を過り、私は少しばかりレナートのことが気にかかった。
 リーテの雫を使用した薬は、込められた祈りにより自己治癒力が強制的に高められる。けれど、それがかえって傷の治癒を優先させすぎることに繋がってしまい、体力を大幅に奪われるのだ。そして、それを補う為に食欲が異様に増してしまう。
 その為、栄養のある食事をしっかりと摂れる状態になければかえって体を衰弱させかねず、実は使いどころが難しい代物だと言うのだ。
 お陰で、私もひとまず軽く食事はしたものの、実は空腹が満たされているとは言い難い。
 ちなみに、やや効果の劣る雫一滴を使用した薬も、当然ながら存在するそうだ。けれど、そちらは主に各地方の警備兵団と主要な礼拝堂に納められる品であり、ミュルダール家にはそう数あるものではなく、今回の手当てには使用されていないとのこと。

 つまり、全身に痛みを抱えて満足に体を動かせず熱も高い状態にあるレナートも、目覚めた以上は、傷が癒やされる分だけ体が食事を欲してしまう。
 けれど、果たして今のレナートに満足に食事を摂ることができるだろうか。彼は利き腕を動かせないのだ。加えて、傷を手当するのに使われた薬の量も私の比ではない。当然、自覚する空腹の度合いも私より強い筈だ。食べたいのに思うように食べられず飢餓感に苦しむ、なんてことにならなければいいのだけれど。
 今頃は医師の診察を終えて休んでいるのだろうレナートを思って、私の眉が自然と寄る。
 いまだ辛い中にあるレナートに、私は何ができるだろう――ふと湧き上がった思いと共に私が更に眉間に力を込めたところで、フィンから少しばかりわざとらしい声が上がった。
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