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第五章 絡み合う思惑の果て

悩める騎士

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 すっかり目を真っ赤にさせたミリアムが、キリアンを連れて戻ってきたイーリスと共に部屋をあとにするのを、軽く手を振って見送る。扉が完全に閉まる寸前、こちらを振り返ったイーリスから強く睨まれたが、レナートはそれを笑顔で無視した。それから、こちらは無視できない右隣から刺さる視線を、そっと窺う。
 ベッド脇に置かれた椅子に座って腕と足を組み、切れ長の半眼でレナートを無言で睨むのは、当然ながらキリアンだ。鋭い視線と不機嫌に曲がった口元は、態度も併せてキリアンの機嫌の悪さを如実に表していた。だが、レナートにはその表情は不貞腐れているようにも見え、思わず口端に苦笑が漏れる。

 もっとも、キリアンがそんな態度になるのも無理もない。
 心配していた相手の目覚めの報告に急いで来てみれば、当の本人はベッドに寝ているどころか起き上がり、大泣きするミリアムを抱き締めて笑っていたのだから。そんな光景を見せられれば、キリアンならずともレナートを睨み付けたくなるだろう。それこそ、先ほどのイーリスのように。
 扉が完全に閉まり、少し前まで言葉が飛び交っていた部屋に静けさが戻る中、レナートはゆっくりと、だがはっきりとキリアンの姿を視界の中央に収めた。
 途端、じろりと改めて睨まれる。

「ご心配をおかけいたしました、殿下」
「まったくだ。私がどれほど心配したと思っている。ミュルダール家の者達も、皆心配していたのだぞ? なのに、お前ときたら……」
「申し訳ございません」

 レナートが真摯な態度で謝罪をすれば、キリアンはふんと鼻を鳴らしてわずかに視線を逸らした。だが、それもすぐにレナートを気遣う色を伴って戻ってくる。
 改めてレナートの状態を確かめ、キリアンの眉がわずかばかり痛ましげに寄った。特にレナートの利き腕へと視線が注がれているのは、当面剣を握れないことを思ってのことだろうか。現在、レナートの右腕は動かないようしっかりと固定された上で白布に包まれており、キリアンの目には恐らく最も重傷に映っていることだろう。

「お前がこれほどの怪我を負うとはな」
「この程度、すぐに治りますよ」
「目覚めたばかりで、何を言っている」
「殿下こそ、何を仰っているのです。目覚められたなら、あとは回復させるだけではないですか」

 レナートの笑みに、キリアンの眉間には呆れたように皺が刻まれた。
 痛みに対する実感が乏しいキリアンは、レナートの痛みを想像するしかできない。そして、それ故に他者の痛みを目にして己を責める。王太子と言う、己の立場が伴う責任と共に。
 それが分かっているから、レナートもこんな場面では深刻さを見せずに前向きな言葉を口にするようにしている。だからと言って、そこに嘘もなければ、無理に装うこともない。レナートの言葉は、ある意味で本心だ。
 もっとも、流石のレナートもこれほどの怪我を一度に負ったのは、初めてのことではある。

 頭部の挫創に右腕の骨折はレナートも自覚はしているが、全身の痛みが示す通り、部屋へ戻ってきたイーリスから伝えられたレナートの怪我は、当然それだけではなかった。
 大きな傷としては左腿の裂傷と、右足首の腫れ。軽度なものに至っては全身くまなくあるとのことで、胸部や腹部に致命的な怪我がないことがむしろ奇跡と言う状態だ。共にイーリスの話を聞いてすっかり顔を青くしたミリアムほどではないにしろ、レナート自身、よくぞ生きていたものだと内心驚くほどには重傷である。
 そんな状態だから、当然、医師の下した診断は当面絶対安静。常識的に考えれば、こうして体を起こしていることすら辛いものだ。
 事実、レナートもミリアムの手を借りて体を起こした時は、流石に無茶だったかと一瞬後悔したくらいには、これまでに経験したことのない激痛が全身に走った。
 ただし――今現在、不思議なことに、レナートはそこまでの痛みを感じていない。

「これ以上、お前の心配がいらないことはよく分かった。だが、今はまだ横になっていろ、レナート。いくら俺でも、それだけの怪我をしておいて平気で体を起こしていられるわけがないことくらいは分かるからな?」

 明るさと呆れが三割ほど増した声と共に、キリアンの腕がレナートを寝かせようと伸びてくる。だが、キリアンの手が肩に触れたところで、レナートは断るように手を挙げた。

「そのことなのですが」

 キリアンの眉がぴくりと動き、レナートが改まった態度を取り続けていること、その上で更に言葉を続けるつもりでいることを咎める紅い瞳がレナートを見下ろす。レナートはそれを真っ直ぐに見上げ、声を潜めて告げた。

「殿下。泉の乙女の涙に力がある、と言うのは、どうやら本当のようです」
「突然、何だ。……涙?」
「はい。実は、ミリアムの涙に触れてから、私の体が随分と楽になったのです。まだ、彼女には伝えていませんが」

 正確には、流れ落ちた涙が偶然にもレナートの口の中へ入ってしまってから。まるで花の蜜のように甘いそれを口に含んだ途端、自分でもはっきり分かるくらいに発熱と激しい痛みが引いたのだ。
 傷自体が癒えたわけではない為に依然として全身に痛みはあるものの、強い鎮痛効果のある薬を飲んだ時のように、感じる痛みは軽い。それこそ、こうして上体を起こしていることを苦痛と感じないほどには。

「それは……本当か?」

 俄かにキリアンの視線が鋭くなり、こちらも声が潜められた。レナートも無言で頷く。
 一般にはあまり信じられていないことだが、文献に記述が見られる程度には、泉の乙女の涙に力が宿っていることは古くから言われている。
 もっとも、その内容はカルネアーデ家の祖、聖域の民アーデ・リーデが喜びに涙して森が創られたと言う話を始め、どれもこれもが伝聞の眉唾なものばかりで、実際に涙が効果を発揮したところを目にした者の話ともなれば、皆無に近いのだが。
 同様に、涙に力のある泉の乙女の存在も確認されておらず、万能薬になると言うキリアンの血と同じく、極めて稀な力と言えるだろう。ミリアム自身、文献を読んで知識として得ているだけで、自分の涙に力があるとは思っていない筈だ。

「ただ、私が明確に涙の力を感じたのは一度きりでした。必ずしも、彼女の流す涙全てに力があるわけではなさそうです」
「……そうか」

 レナートの言葉に短く呟いたきり、キリアンは真剣な表情で考え込み始める。だが、少しの間のあと、その表情がふと怪訝な色を見せた。
 逸れていた視線がじろりとレナートを半眼で捉え、お前、と発した声がわずかに震える。

「まさか、ミリアムが泣き続けるのをいいことに……っ」
「殿下、私がそのようなことをするとお思いですか?」
「絶対にしないとも言えんだろうが、お前はっ」

 眉を吊り上げたキリアンの言い分に、レナートは澄ました態度のままで心外だと眉を跳ね上げた。
 砦での一連の出来事以降、どうにもキリアンのレナートに対する信用は、ミリアムに関することにだけ著しく低下している気がする。特に、あの夜のことをキリアンに洗い浚い白状させられてからは、実に顕著だ。
 確かにレナート自身、盛大にやらかした自覚はある。酒に盛られたとは言え、耐性がある筈が簡単に理性を溶かされかけたとは、失態以外の何物でもない。あの時ミリアムが叫んでくれなければ、レナートは彼女に何をしていたことか……考えると、今でも血の気が引く。
 だからと言って、キリアンの言動はあまりにレナートを信用しなさ過ぎではなかろうか。

「私は重傷の怪我人なのですよ?」
「そこに付け込まないと、どうして言い切れる?」
「付け込むとは、それこそ心外ですね。殿下は私を何だと思っているのですか」

 そう反論するものの、実のところキリアンがそう考えてしまうのも、納得はしないが理解はできるのだ。レナートが複数回涙を口に含んでいなければ、一度きりなどと言う言葉は出てこないのだから。
 だが、誤解のないよう言っておくが、レナートは決して意図したわけではない。自分の身に起こったことを確かめたいとの気持ちが全くなかったと言えば嘘にはなるが、レナートの言葉に素直に涙するミリアムの純粋な思いを無視してまで確認を優先させるほど、レナートは人でなしではないつもりだ。
 あくまでも涙が止まらないミリアムを宥める過程で、幾度か偶然的または必然的に涙に触れてしまうことがあっただけで、全ては不可抗力である。

「大体、いつまでもしつこくその態度で居続けるから胡散臭く見えるんだろうが、お前は」
「重要な話を真面目に伝えることの何が悪いのです?」
「ミリアムが泣き止まないのをいいことに存分に抱き締めて嬉しそうにしておいて、何が重要な話だ。この似非騎士が」
「人聞きの悪い。互いの生存を純粋に喜んでいただけではないですか。それに、部屋へ入る機を窺いつつこちらの会話を盗み聞きしていた殿下には、言われたくないのですが」
「それこそ不可抗力だろうが!」

 言葉と共に、互いの視線が鋭くぶつかる。
 そのまま無言で睨み続けること、数秒。レナートとキリアンは、同時に小さく噴き出した。直後にレナートは傷の痛みに顔を顰めたが、それを見てもキリアンは笑みを深めるだけで、最早レナートを心配する素振りはない。

「それだけ喋れて頭もはっきりしているなら、本当に心配なさそうだな、レナート」
「……ああ。重傷には変わりないんだろうが、ミリアムのお陰で寝たきりと言う状態からは早々に抜け出せそうだ。怪我も、冗談抜きで早く治る気がする」
「呆れた奴め」
「そいつはよかった。これで、キリアンの心配も一つは減っただろう?」
「ミリアムの件に関しては増えたがな」

 まったく、との呟きと共に息を吐いたキリアンの表情が、そこでやや笑みを潜めた。
 冗談めかして言いはしたが、やはりレナートが回復の兆しを見せた程度では、キリアンの心を十分に晴らしてやることはできないらしい。

「現状は……悪いのか?」
「お前は、ミリアムからどの程度聞いている?」
「詳しくは聞いていない。ミリアム自身、力の暴走の所為で記憶が曖昧らしくてな」
「そうか」

 短く返したきりキリアンの瞳が細まり、考え込むように口が閉じる。それだけで室内に漂っていた空気が引き締まり、レナートも自然と姿勢を正した。当然ではあるが、キリアンやレナートの立場は、ただその無事を喜び合うばかりでいさせてはくれないのだ。
 ややあってキリアンから出たのは、災害の発生から今に至るまでの詳細。そして、特にミリアムに関することだった。

「――それは……厄介、だな」
「厄介に過ぎる。クルードやリーテならともかく、よりにもよってモースだぞ? 流石に、俺の想定を超えている。どうすればいいのか……」

 珍しく本当に参っていると分かる弱々しい声と共に、キリアンが頭を抱える。くっきりと眉間に寄った皺の深さがキリアンの悩みの多さや現状の深刻さをそのまま表しているようで、レナートも何も言えずに押し黙った。と言うよりも、単純に言葉が見つからなかった。
 ミリアムにまじないをかけた本人モルムが接触してくるならともかく、そちらを素っ飛ばして神が出張ってくるなど、通常では考えられないのだ。いくらまじないを通じて接触が可能だと言っても、神とは本来、人間に直接接触することのない存在。愛し子でさえも、神との対話は望めばすんなり叶うと言うわけではない。
 クルードに関しては、キリアンから話を聞く限りでは頻繁にキリアンと対話をしているらしいが、これは例外中の例外だろう。
 そんな滅多に行われない接触を、あろうことか自らの愛し子ではなく他神の愛し子に図り、あまつさえ自らのものにしようなど、相手の神に対して喧嘩を売るようなものだ。神々の諍いは人間を滅ぼすと言われているのに、簡単にそんなことをされては人間の側としては堪ったものではない。

 生命の泉の女神リーテと、死を祀る地底の神モース。それぞれが司る生命と死をもって、本来は一柱の神であるとか一対の神――あるいは夫婦神――であるとか、何かと関係が深いと考えられている二神ではあるが、それでもやっていいことの領分を遥かに超えている。
 だと言うのに、愛し子を奪われかねなかったリーテの側は何の動きも見せなかったのだから、ただただ驚くばかりだ。考えようによってはあの場にいたクルードの愛し子キリアンに任せたとも取れるが、相手が神であるならば、いくら愛し子とは言え人間に対処を任せるのは危険だろう。それとも、リーテはミリアムがモースの手に堕ちても構わなかったと言うのか。
 いずれにせよ、キリアンの話は人間に神々の思考は理解し難いのだと言うことを、レナートに改めて思い知らせるだけだった。思わず、唸るようにため息が出る。

「悪い、レナート。怪我人のお前には、やはりまだ話すべきではなかったな」
「いや、今聞こうがあとで聞こうが、大した差はなかっただろう。それに、何もキリアンの話だけが理由と言うわけでもない」

 軽く首を振ったレナートに、申し訳なさそうだったキリアンの怪訝な視線が刺さる。それを受けて、今度はレナートが自分の身に起きたことを語った。
 それは、レナートにとっての、神を理解し難いもう一つの事柄。ミリアムの涙によって体が楽になると共に俄かに思い出した、夢とも現実ともつかない記憶である。

「クルードが、お前を……?」
「キリアンにとっては、あまり気分のいい話ではないよな」

 愛し子にとって、力を授けてくれた神はある種、親のような存在だ。その親が子の身近にいる者を苦しめたなど、人によっては激高してもおかしくない内容である。それに、ただでさえミリアムのことで手一杯のキリアンに更なる問題を増やすようで、レナートとしては心苦しくもあった。
 だが、申し訳ないと目を伏せるレナートに対してキリアンはあっさりと首を横に振り、レナートの心苦しさを何でもないことのように払い除けた。

「気にするな。むしろ、話してくれて助かった」
「流石に、クルードの話をお前に伝えないわけにいかないからな。ただ……できれば、もう少し落ち着いてから話したかったんだが」
「それこそ気にするなよ、レナート。考えるのは俺の仕事だ」

 悪い、とのレナートの謝罪にも、キリアンは苦笑と共に肩を竦めただけ。そこに、無理をしている様子は見受けられない。とは言え、レナートとしてはその言葉を素直に受け取り、考えることをキリアンだけに任せるつもりはなかった。
 何より、レナート自身、巻き込まれたからにはクルードの行動の意味を考えずにはいられない。
 目下一番の問題は、今回のことがミリアムの力を暴走させる為に引き起こされたのだとして、何故わざわざクルードがレナートに対して行動を起こしたのか、である。
 あの時、クルードによって与えられた圧迫感が、現実では大量の土砂によって与えられていたものだとしたなら、レナートはクルードによって生き埋めにされ、これだけの重傷を負わされたとも考えられる。だが、そんなことに一体何の意味があると言うのだろう。
 キリアンも、暴走の直接の引き金になったのはレナートが生き埋めになってミリアムの目の前から消えたことだと言ってはいたが、レナートはどうにも納得できないでいた。

 何故なら、他者を思う心優しいミリアムのこと、大勢の人間が一度に土砂に生き埋めにされた光景を目にしさえすれば、それだけで十分に力を暴走させる切っ掛けになるのだ。殊更、レナートだけを念入りに生き埋めにする必要はないように思う。
 仮に、暴走を確実にさせる為にミリアムに近しい者――フェルディーン家で共に暮らす家族――と言うことでレナートが選ばれたのだとしても、ミリアムにとっての家族は、いまだに叱責されることを真っ先に考えてしまうような存在だ。果たして、力の暴走を引き起こさせるほど、彼女の心を強く揺さぶるものだろうか。
 ただ、神は決して無駄なことはしないことも事実。その行動には、必ず意味がある。ならば、やはりミリアムにとってのレナートは、多少なり他よりも心を傾ける相手であると考えていいのだろうか。
 確かに、目覚めて真っ先にレナートの安否を心配してくれたことは、その可能性を示唆している気はする。それでも、ミリアムが去ってしまった今、レナートには自信を持ってその考えを肯定できなかった。

 先ほどまで腕に抱いていたミリアムの姿を、思い出す。
 止めどなく涙を流す姿は、言葉はなくともミリアムが喜びを感じているのだとレナートにはっきりと伝えていた。それはレナートにとって何より嬉しいことであり、幸せを感じることでもあった。レナートが愛称を呼んで一層くしゃりと崩れた顔には愛おしさを感じたし、ミリアムの口から愛称が紡がれた時には、レナートの心は喜びに満たされた。人の無事に対してこんなにも強く安堵したのも、初めてのことだ。
 ただ、どれだけレナートが心からの言葉を伝えて抱き締めても、それに対して涙することはあっても、ミリアムは身を縮めてレナートにしがみ付くだけで、腕を伸ばしてくることはなかったのだ。そのことが、今頃になってレナートの心に重く圧し掛かる。

 初めはレナートの怪我を考慮してのことかと思ったが、思い返せば、これまでもミリアムがレナートを抱き締めたことはない。いつだって、レナートだけがミリアムを抱き締めている。そのことが、レナートは心底から心を許せる存在ではないと言われているようで、胸が締め付けられた。
 アレクシアやイーリス達女性陣とはよく抱き合って喜ぶ姿を見るのに、レナートと一体何が違うのだろうか。まさに性別の違いだと言われてしまうとどうしようもないが、ではどうすれば、ミリアムはレナートにも腕を伸ばしてくれるだろう。今のレナートには、何が足りないのだろう。

「……駄目だ、分からん」

 怪我の所為か、思考が方々へ飛んで普段ならばまとまる考えが上手くまとまらず、決断するのも躊躇して迷いだけが積み重なる。ついでに、積み重なった分だけ重くなったため息が無意識に漏れ出た。
 本当に、どうすればいいのか――途方に暮れる思いで視線を左手に移して眉を寄せたところで、レナートとは別のため息が耳を掠めた。

「お前のことだから、どうせミリアムのことを考えているんだろうが……あれだけミリアムを泣かせてその腕に抱いておいて、何をそんなに考え込むことがある?」

 いつの間にか再び腕と足を組んで椅子に座ったキリアンが、レナートへと呆れた顔を見せていた。紅色の半眼は、くだらないことを考えていないで横になって休めとでも言いたげで、レナートの眉が自然と角度を増す。
 こちらは真剣に悩んでいると言うのに、この主は他人事だと思って随分と軽い反応を寄越すものだ。

「睨むなよ。まったく……何を悩んでいるのかは知らんが、クルードが関わろうが関わらなかろうが、ミリアムにとってお前の存在は十分大きいからな?」
「……根拠は?」
「ミリアムが力を暴走させただろう。それに、お前を心配してこの部屋に真っ先にやって来た。根拠はそれで十分だろうが」

 キリアンの口から出たのは、レナートが一度は考えながらも打ち消した可能性だ。レナートが信じたくて信じきれなかったそれを、キリアンは自信に満ちた口振りでさも当然のように信じていいと言い切る。
 こちらを真っ直ぐ見る瞳の力強さもレナートの迷いをぐらつかせ、気付けば誘われるように口が開いていた。

「……俺は、ミリアムに信頼されていると思うか?」
「当たり前だろう。されていなければ、ミリアムはここに来ていない。呆れた奴だな。そんなことを悩んでいたのか、お前」
「そう、か……」

 答えながら、ミリアムが出て行った扉を遠くに見る。と、その視界が不意に軽く揺れ、同時に背中にキリアンの手を感じた。ゆるりと視線だけを動かせば、柔らかなキリアンの笑みと会う。

「誰より頼れる俺の騎士が珍しく随分と弱気なのは、大怪我の所為か? お前はうじうじ悩むような奴じゃないだろう。悩む暇があるなら行動しろ」

 キリアンは軽く言うが、行動と言われても、今でさえレナートはできる限りのことをしているつもりでいるのに、これ以上どう行動すればいいと言うのか。あまりに動きすぎると、逆にミリアムに距離を置かれてしまわないだろうか。

「そんなに信頼の実感が欲しいなら、お前がミリアムを信じて頼ればいい」
「俺が、頼る?」
「家族、なんだろう? だったら、互いに助け支え合え。お前はどうもミリアムに与えすぎるからな。おまけに、大抵のことは他人に頼らずこなしてしまえる。彼女の性格では、与えられたならその分返したいと願うだろう。それなのにお前に返す隙がないとなれば、せめてお前に与えられないよう、彼女は彼女でその隙を埋めようとするんじゃないのか? だから、こうしてお前がおかしな悩みを抱えることになる」

 もう一度、発破を掛けるように背を叩かれ、レナートはゆっくりと瞬いて改めて部屋の扉へと視線を向けた。
 イーリスに促されて部屋を出て行ったミリアムは、レナートに背を向けるまでどんな顔をしていただろう。レナートを抱き締めてくれることのなかった手は、それでも最後までどこにあっただろう。
 その表情と手の温もりを思い出して、レナートの口元が自然に緩んだ。

「……頼る、か」

 それが、レナートに足りなかったもの、なのだろう。
 騎士であるばかりに、守ることを第一に考えすぎていたのかもしれない。芽吹きの祈願祭後に夢でティーティスの羽根を渡されて、どこかでミリアムを託されたように感じていたのも一因だろう。
 ミリアムが様々なことに積極的に取り組み、その姿が無理をしているように見えていたのも、レナートのこれまでの行動が遠因となっていたのだろうか。

「ちょうど頼るのにお誂え向きの大怪我をしていることだし、気兼ねなく頼ってしまえ」
「キリアン、それは少し違わないか?」
「違うものか。何であろうと、切っ掛けがあるならそれを大いに利用しろ。相手はあのミリアムだぞ? お前が躊躇してどうする」

 眉を跳ね上げて上から覗き込まれ、レナートは遠慮の塊であるミリアムの姿を思い浮かべて、思わず口元を歪めた。確かに、ミリアム相手に躊躇は悪手でしかないだろう。

「お前に何かあれば、またミリアムが力を暴走させかねないんだ。しっかりしてくれよ、俺の騎士殿」
「……そうですね。善処いたしましょう」

 レナートの迷いが晴れると同時、キリアンは一つ頷き、医師を呼んで来ようと立ち上がる。そのまま部屋を出て行くその背に向かって、レナートは今できる限りで深々と静かに頭を下げた。
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