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第五章 絡み合う思惑の果て
懺悔と許し
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ぱたんと小さな音を立てて無情に閉まった扉を、私は呆然と見つめる。誰もいなくなった空間に伸ばしたままの片手と室内の静けさが、嫌でも私に虚しさを伝えていた。
どうしよう。
しんとしてしまった空気の中で私がまず思ったのは、そんな一言。まさか、イーリスが私を置いて部屋を出て行ってしまうとは思わなかった。
災害から二日も目を覚まさなかったレナートだけれど、私自身、この部屋へ来る少し前に目覚めたばかりなのだ。その原因は怪我ではなく、私がリーテから授かった力を暴走させてしまったから。
その為、今頃私は医師の診察を受けている筈だった。それを、私が目覚めて真っ先に自分のことより何よりレナートの安否を心配して取り乱してしまった為、私が落ち着くのであればと、イーリスがレナートの眠る部屋へと案内してくれたのだ。レナートの顔を見て安心したならすぐに部屋へ戻り、医師の診察を受けると言う約束の元で。
勿論、私はその約束に一も二もなく頷いた。
土砂の中からレナートが救出された時、一度は確かにその生存を確認はした。けれど、直後に気を失ってしまった所為か、私にとってはまるで救出自体が夢の中の出来事のようで、レナート生存の現実味が乏しかったのだ。
だから、どうしても私自身の目ではっきりとレナートの姿を確かめたかった。そうせずにはいられなかった。
それがまさか、レナートが目覚めるだなんて。
嬉しいことの筈なのに全く想定していなかった所為で、どんな顔でレナートと向き合いどんな言葉を口にすればいいのか分からない。おまけに、部屋を出る際に私に繰り返し約束させたイーリスが前言を撤回して私を置いて部屋を出て行ってしまうのだから、これで慌てるなと言う方が無理だ。
そのイーリスを追い掛けたくとも、重傷を負ってベッドから起き上がることもできないレナートを一人放っていくこともできない。
それに、レナートの目覚めによって生まれた心の余裕がこれまでのことを整理させてくれたけれど、そのことが周囲の人達に対する私の罪悪感を強めてもいた。そんな私が一人ここに残って、レナートに一体どう接すればいいと言うのだろう。
私が内心で混乱し冷や汗をかいて口を開けずにいると、不意にレナートから驚いたような気配がして、握っていた手が解かれた。
「レナートさん?」
「悪い。君が、手にも怪我をしているとは思わなかったんだ。……痛くはなかったか?」
どうしたのかと私が反射的にベッドを振り返れば、申し訳なさそうに眉を寄せたレナートの顔と出会う。レナートの視線は、私が扉へ向かって伸ばしていた手とレナートと繋いでいた手のそれぞれに順に向けられ、最後に私を気遣うように上向いた。
その瞬間、私の鼻の奥がつんと痛んで目が潤む。私は慌てて誤魔化すように首を振り、レナートからわずかに視線を逸らした。
レナートの方がよほど重傷なのに、こんな時でさえ私のことを気遣い、心配して、優しい言葉を当たり前のように口にする。そのレナートの私への気遣いを単純に嬉しいと思ってしまう自分の、何と浅ましいことか。
私の呪いが土砂崩れを発生させ、レナート達に大怪我をさせたかもしれないのだ。そうでなくとも、あの現場でろくな働きができなかった私には、気遣う言葉をかけてもらう資格もなければ、かけられた言葉に喜ぶ資格もありはしない。むしろ、私の方がレナートを始め、土砂崩れに巻き込まれた人達に対して謝罪をしなければならないだろうに。
レナートが気遣ってくれた両手の怪我にしてもそうだ。これは、私の愚かさの証。騎士達を助ける為に動けなかったどころか、周りに多大な迷惑をかけた私への戒めだ。決して、こんなに丁寧に手当てをしてもらっていい怪我ではない。
いっそ、おざなりな手当てで放置してくれてよかったのにと思うものの、目を覚ますと既にこの状態で。よほど上等な薬が使われたのか、土砂崩れから二日しか経過していないにも拘らず既に痛みは殆どなく、むしろ包帯が邪魔と感じてしまうほどだ。
「……平気です。見た目が大袈裟なだけで、痛みはありませんから」
「それならいいが……」
「本当に大丈夫です。私なんかよりレナートさんの方がよっぽど重傷なんですから、自分の心配をしてください」
内心の心苦しさを押し隠して敢えて明るく振る舞い、私は痛みがないことを示すべく、レナートが解いてしまった手を再び握った。そうすれば、レナートの表情がわずかばかり安堵に緩む。
けれど、私は言葉に合う笑顔を浮かべることには失敗していたのだろう。私を見上げるレナートの表情は、完全に懸念が払拭されたとは言い難かった。
目を瞬き、真っ直ぐこちらを見つめるレナートの瞳は私の心を見透かすようで、怯んだ私は、表情を取り繕うより先に再びレナートから視線を逸らしてしまった。
これまでならば――少なくとも、貴族令嬢に生まれた時やリンドナー家で暮らしていた頃には――心の内を明かさぬよう表情を作ることなど造作もなかった筈なのに、いつからかすっかり下手になってしまった。こんな態度を取れば、レナートに対して隠しごとがあると自ら明かしているようなものなのに。
私が自分の行動を後悔し、それでも改めて取り繕うこともできずにいれば、案の定、瞳を伏せて何事かを考えていたレナートの口が開いて、そこから私の名が紡がれた。
「ミリアム」
私を怒るでも責めるでもなく、ただ純粋に私の視線がレナートから逸れていることを惜しみ、こちらを向いてほしいと強請るような柔らかな声だ。そんな優しさに満ちた声でレナートに名を呼ばれてしまえば、私には彼の声に応えずにいることはできなかった。
そろりとレナートへと視線をやれば、深く青い瞳が嬉しそうに細められ、柔らかなままの声が私に問い掛ける。
「何があった?」
災害そのものの詳細ではなく、明らかに私自身への一言は、私を労わり、私の心に寄り添おうとするものだった。私を優しく包み込む声が、レナートの視線が、私に胸の内にある後悔を吐き出してごらんと促す。
けれど。
「な、にも……」
私の口から咄嗟に出たのは、何かあると確信している相手に対しては何とも最悪な誤魔化しだった。
事実、何もなかったどころか誤魔化しようがないほどに、私は大いにやらかしている。
ところどころ記憶が飛んでいるけれど、あの場にレナートの姿がなかったことに我を失い、リーテに授かった力を暴走させ、キリアンの手を煩わせたことだけは、はっきり自覚している。こんな話、これから怪我の治療に専念しなければならないレナートの耳に入れていい話ではない。
だから、悪手だろうと何だろうと、私は何もなかったと誤魔化し通すべきなのだ。レナートを、私のような者のくだらない雑音で煩わせない為にも。
それなのに、レナートに手を握り返され、その手の温かさとこちらに注がれる柔らかな眼差しに触れた途端、私の口は懺悔をするように勝手に言葉を紡ぎ出していた。
役に立てなかったんです、と。
直後に手を口に当てて後悔しても、一言でも口を開いてしまえば、あとは止められなかった。聞かせる話ではないと戒めたのに、先を促すレナートの頷きもあって、これまでのことが次から次に私の口から零れ出る。
そうして、私は時間をかけて懺悔をし尽くした。
話していく内に徐々に下がった頭は、話し終えた頃には自分の膝を見つめていたけれど、レナートの反応を目にするのが怖くて上げられないままだ。話の最後に、私が目覚めたのがつい先ほどだと伝えたところでレナートが一番驚いたようだった時でさえ、表情を確かめる勇気は私にはなかった。
果たして、レナートは驚くほど役立たずだったどころか迷惑しかかけなかった、いっそお荷物な私の話を、どんな思いで聞いただろう。
あまりの無能振りに呆れ果てただろうか。キリアンの救助活動を妨げたことに憤っただろうか。キリアンと同じ愛し子なのに、彼のように助けになる行動を取れなかった私を軽蔑しただろうか。起きたばかりでレナートの様子を見に来るなんて、イーリスに迷惑をかけてとんでもないと罵られるだろうか――
様々な想像をして、私が身を硬くした時だった。
「君の体調は……休んでいなくて平気なのか、ミリアム?」
想像とは真逆の気遣いに溢れた言葉が耳に飛び込んできて、私は驚きに目を丸くする。同時に顔も跳ね上げれば、目の前にあったのは心配そうに眉を寄せるレナートの顔。
「何で……」
私が思わず零せばレナートは不思議そうに首を傾げ、それからさも当然のように続けた。
「力が暴走してしまったんだろう? イーリスが君をここへ連れて来ていいと判断したとは言え、暴走の反動は甘く見ない方がいいんだ。体調に変化はないか?」
小さな頃のエイナーは頻繁に力を暴走させており、酷い時には昏倒して三、四日高熱に魘されたこともあったと語るレナートの態度は、私の力の暴走など大したことではないと示すようだった。いや、事実、レナートはそう考えているのだろう。そして、その上で何よりも私の体調が気掛かりだと本心から思っているのだ。
そこに、私の不甲斐なさを激しく叱責しようとする気配は微塵もない。それどころか、声音も表情も私の体調以外に気にすることなどないと言わんばかりだ。
ただただ私を心配するレナートの姿に、私の中で、どうしてと今一度言葉が過る。
「ミリアム?」
レナートが私の名を呼ぶ声も、これまでと変わらず柔らかく優しい。その声に絆されそうになって、私は慌てて唇を噛み締めた。
大勢に迷惑をかけた私は、そんなに簡単に許されていい筈がない。相応の叱責を受けるべきなのだ。レナートの優しさに勘違いして、許された気になってはいけない。
レナートへ返答もせず自分に言い聞かせていれば、レナートから息を吐くような微かな笑い声が聞こえてきた。
「相変わらずだな、ミリアムは。君はただ必死だっただけだろう? それは叱責されるようなことではないし、誰かと比べることでもない。それとも、ミリアムはそんなに叱られたいのか? 悪いが、俺は叱ってやらないぞ?」
少しばかりおどけたあと、レナートは私に向かってはっきりと笑った。途端、私の頬を雫が伝う。慌てて拭うけれど、その瞬間をしっかり目にしていたらしいレナートが満足気に笑みを深めるものだから、私は勢いのままにレナートから顔を逸らした。
レナートに見透かされていたことへの羞恥だろうか、体が熱い。けれど同時に、私はレナートの言葉に安堵する自分を感じてもいた。
本当は、私だって分かっているのだ。私が懺悔と称して自分の役立たずっぷりをいくら告げたところで、そう思っているのは私だけ。レナートが言ったように、必死だっただけの行動に対して、彼はその無茶を窘めはしてもきつく叱責するわけがないのだと。
勿論、力を学び始めて間もない私にキリアンと同程度の働きを期待することもないし、できなかったからと言って私を悪し様に罵ることも、冷たく蔑むことも、まして理不尽に暴力を振るうことだってない。レナートは、決してそんなことをする人ではない。
いや、レナートだけではなく私がこの国で出会った人、皆がそうだろう。私を心配しこそすれ、私に冷たく当たる人は誰もいやしない。それを十分知っているのに、私のこれまでの幾多の人生の積み重ねが、反射的に自分を責めさせるのだ。
十歳で記憶を取り戻した私は、家族を壊し、様々な人間関係を壊し、最後にはフィロンを殺し、私の人生までも終わりにしてきた。時には、無関係な大勢の人を巻き添えにして。そして、数多の血を流した先で、私は新たな人生を何知らぬ顔で始めてきた。
いつだって、悪いことは私が原因だった。私が起こしてきたのだ。今回のことだってその一つかもしれないと思うと、自分を責めずにはいられなかった。原因である私は、責められて当然との考えが染み付いてしまっているから。
だから、レナートの優しさを素直に受け取れない。受け取ってはいけないと、自分に言い聞かせようとしてしまう。この国の人達の前ではそんな必要はないと頭では分かっているのに、どうしてもやめられない。
「……すみません、でした」
「それも、ミリアムの悪い癖だな」
笑いの滲む声に言われて、私は逸らしていた顔を少しだけレナートの方へと戻した。
確かに、これも私の悪い癖だろう。私が原因で起こる数々の不幸に対して、私は謝罪するしかできないから、どうしても謝罪の言葉が口をついて出てしまう。今生では特に、リンドナー家での暮らしが、より口に出させやすくしている気もする。あの家で私が最も多く口にしたのは、きっと謝罪の言葉だ。
あまりの自己嫌悪に久々にアルグライスでのことが思い出されて、私は小さく息を吐く。その私の手を、レナートが軽く引いた。
「ミリアム。少し、手を貸してくれないか?」
「……手、ですか?」
「できれば、肩も貸してくれるとありがたいんだが」
「肩……?」
要領を得ない突然の頼みごとに、私はきょとんとレナートを見下ろす。けれど、当の本人は私の反応を気にした様子もなく、それどころか返事も待たずに動き出してしまった――あろうことか、辛うじて自由に動く左手を使って、ベッドから身を起こし始めたのだ。
それを見た私は、大いに慌てた。ようやく目覚めたばかりの重傷人の無茶は、洒落では済まない。
「何をやっているんですか、レナートさん! 寝ていなくちゃ駄目ですよ!」
私は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、ほんのわずか体を動かしただけで苦悶の表情を浮かべるレナートにすかさず手を伸ばした。
服越しに触れるレナートの体は普段よりも熱く、発熱の度合いが知れる。また、明らかに服の下にも包帯の感触があり、レナートが負った怪我の多さも私に伝えていた。こんな体で起き上がろうだなんて、本当に無茶だ。
「レナートさん、やめてください!」
「嫌だ」
「嫌って……そんな、子供みたいなことっ」
少し動くだけで痛みに呻いて顔を盛大に歪めている人が、何を言っているのか。こんな無茶をして万が一傷口が開きでもしたら、それこそ事なのに。
私は起き上がろうとするレナートを、何とか寝かせようと奮闘した。けれど、体格と純粋な力の差か、気付いた時には貸してくれと言われた手や肩どころか全身を使って、私はレナートが身を起こす為の支えになってしまっていた。
どうにかこうにか上体を起こしたレナートが、私の気も知らずに遠慮なく私に寄りかかり、息を吐く。その体の重みと熱を感じながら、私は手早くレナートの背に枕を宛がった。ついでにレナートの額から落ちた布を拾い上げ、すっかり冷たさを失っているそれに眉根を寄せる。
「……まずいな。本当に全身が痛い」
「もうっ。だから、寝ていてくださいって言ったじゃないですか」
「それは嫌だと言っただろう? 手伝ってくれてありがとう、ミリアム」
「私は、手伝いたくて手伝ったんじゃありません」
私が眉を吊り上げれば、レナートはそんな私を見上げて、全く反省の欠片もなく笑った。頭に幾重にも巻かれた包帯こそ痛々しいけれど、こちらが心配する気持ちを全く気にしていないその笑みは、どうにも腹立たしい。
ただ、普段から無茶をするなら私の方で、レナートはそれを諫めたり止めたりする側にいるのに立場が逆転してしまっている今の状況には、少しばかり不安も感じていた。急に普段とは異なる行動を取るだなんて、よくないことの兆しのようだ。
「レナートさん。どうして……」
「ミリアムを抱き締めるには、起きなきゃどうしようもないからな」
え、と聞き返す間もなくレナートの片腕が私の背に回され、そのまま引き寄せられる。
ベッドに上半身を起こしたレナートの頭は、寄りかかっていることもあって私の肩にある。ただでさえそれだけ間近にあったレナートの顔が更に距離を縮めて私に迫り、焦った私は反射的に腕を突っぱね――ようとして、相手が怪我人であることを思い出し、寸前で留まった。代わりに上擦った声を上げる。
「レナートさん! 何をっ」
「うん? 君を抱き締めているんだよ。片手だけなのが惜しいけどな」
「そうじゃありません!」
「だって、ミリアムにはもっと言葉と行動で示さなきゃ伝わらないだろう?」
「言葉だけで十分伝わりますっ」
私が言い返せば言い返すほど、何故かレナートは笑みを深めて腕の力を強めた。
レナートが腕の力を強める度、私とレナートの体がより密着する。私の首筋にレナートの髪が触れ、額が触れ、頬が触れ、常より高い体温も、その所為で熱い吐息も息遣いも、喋っている際の声帯の震えすらもが直に私に伝わってくる。
それは私の視界をどうしようもなく滲ませて、私はくっと唇を噛み締めた。
本当なら、私は無茶をするレナートを怒って寝かせなければならない立場だ。こんな無茶を許したままではいけない。それなのに、こうしてレナートに抱き締められていることが、彼の体温とその鼓動をはっきりと感じられていることが、これ以上なく嬉しくて堪らない。何故か、レナートに許されているのだと不思議なほど素直に思えて、安堵が広がる。
「ほら。やっぱり、行動で示さなきゃ駄目だったじゃないか」
どこか勝ち誇ったように笑うレナートに対して、私は何も言えなかった。口を開けば、そこから出るのは言葉ではなく嗚咽だと分かっていたから。
実際、声が笑っているからそうだと分かるだけで、レナートの笑う顔はとうに濡れた視界の中でぐちゃぐちゃだ。
「自分を責めなくていいんだ。力の暴走だって、これから上手く扱えるようになればいい。無茶は確かに褒められたことじゃないが、次は俺がきっと君の無茶を止めるから、それも気にしなくていい」
レナートの落ち着いた声が、私の心に素直に沁みていく。どうしようもなく自分を責めてしまう私のその考えを、じわりと溶かしていく。
「俺にとっては、君が生きていてくれたならそれでいい。それだけでいいんだ――ミア」
その名を耳にした瞬間、私は信じられない思いで目を見開いていた。一瞬、呼吸まで止まり、喉が引き攣る。驚きと喜びと、そして同じだけの混乱が私の中で渦を巻き、どうしてと声に出さずに疑問が駆ける。
その名は、伴侶の振りをする為だけに必要としたもので、もう二度と誰からも呼ばれることのないものだ。私自身、この先の人生で決して自ら口にすることはないし、その名で呼んでほしいと願うこともないものなのに。決して望むべきではないものだと、必死に私が過去に置き捨てた名だったのに。
どうしてレナートが、またその名で私を呼ぶのか。何より大切な宝物であるかのように、その名を口にするのか。
一瞬にしてあの夜の満ち足りた時間が思い出されて、私の顔がみっともなく崩れた。そんな私の頭を、レナートが撫でてくれる。いつもよりも、殊更に優しい手つきで。
「前に言っただろう。君が大切で、好きだと。それに、君はフェルディーンの大切な家族なんだ。そんな相手を愛称で呼ぶことは、何もおかしなことじゃない」
「で、もっ」
愛称で呼ぶことが許されるのは、伴侶だけだ。私とレナートは伴侶ではないのだから、たとえ家族だとしても、たとえレナートが私のことを一人の人間として大切に思ってくれているのだとしても、それを理由に呼ぶことが許されるわけではない。
レナートの優しさは嬉しいけれど、その為にレナートが悪く言われるくらいなら、私は呼ばれなくたって構わない。元々、その望みは私には過ぎたものなのだから。
そう思って私は首を横に振るけれど、レナートに軽く笑い飛ばされてしまった。
「馬鹿だな、ミアは。キスタス人でもないのに、どうして彼らの風習を律儀に守らなきゃならない? 俺だって、血が流れていると言ったって半分だ。おまけに、生まれも育ちもエリューガルなんだぞ? 彼らの文化に染まると思うか?」
その言い方は、まるでレナートはこれからも私のことを愛称で呼ぶと告げているかのようで。伴侶の為に決めた愛称だった筈なのに、そんな都合のいい夢みたいなことが現実にあってもいいのだろうか。
「こんなことなら、伴侶騒動を理由にせず、もっと早く君をミアと呼ぶんだった。そうすれば、君におかしな遠慮をさせることも、一人で思い悩ませることも、君自身を必要以上に責めさせることもなかっただろうにな」
申し訳なさそうに、レナートがすっかり濡れてしまった私の頬をそっと拭う。きっと手を動かすのも本当は辛いだろうに、私に触れてくるその手付きがまた優しくて、すぐに幾筋もの涙が新たに流れて頬を濡らした。それを見てレナートがおかしそうに笑うものだから、私もますます顔をくしゃくしゃにしてしまう。
どうしてレナートは、こんなに優しいのだろう。これまで私が諦めてきたものをこんなにも拾い上げて、当たり前のように私に与えてくれるのだろう。それも、私の心を見透かしたように。
「どう、して」
私の中に渦巻く数多の疑問は、端的な言葉として自然と口に出ていた。そして、私の疑問に寄越された答えもまた、端的なものだった。
「ミア」
愛称は親愛の証。その人を大切に思っていると伝えるもの、愛情の形。そして、信頼の証でもある。
たった一言。たった二音。けれど、私の疑問への答えには十分すぎるものだった。
ただでさえ止まる気配のない涙が余計に溢れ、私は何の為にこの部屋へやって来たのかも忘れて、ただただレナートに縋り付くようにして泣き続けた。
ただ一つ。私にたくさんのものを与えてくれるレナートに応える為に、私からも、二度と口にすることはないだろうと思っていた名だけは、口にして。
「――レファ」
それは、自分でも驚くほどか細い音だった。けれど、濡れた頬に触れるレナートの温かな唇が、確かに彼に届いたことを私に教えてくれていた。
どうしよう。
しんとしてしまった空気の中で私がまず思ったのは、そんな一言。まさか、イーリスが私を置いて部屋を出て行ってしまうとは思わなかった。
災害から二日も目を覚まさなかったレナートだけれど、私自身、この部屋へ来る少し前に目覚めたばかりなのだ。その原因は怪我ではなく、私がリーテから授かった力を暴走させてしまったから。
その為、今頃私は医師の診察を受けている筈だった。それを、私が目覚めて真っ先に自分のことより何よりレナートの安否を心配して取り乱してしまった為、私が落ち着くのであればと、イーリスがレナートの眠る部屋へと案内してくれたのだ。レナートの顔を見て安心したならすぐに部屋へ戻り、医師の診察を受けると言う約束の元で。
勿論、私はその約束に一も二もなく頷いた。
土砂の中からレナートが救出された時、一度は確かにその生存を確認はした。けれど、直後に気を失ってしまった所為か、私にとってはまるで救出自体が夢の中の出来事のようで、レナート生存の現実味が乏しかったのだ。
だから、どうしても私自身の目ではっきりとレナートの姿を確かめたかった。そうせずにはいられなかった。
それがまさか、レナートが目覚めるだなんて。
嬉しいことの筈なのに全く想定していなかった所為で、どんな顔でレナートと向き合いどんな言葉を口にすればいいのか分からない。おまけに、部屋を出る際に私に繰り返し約束させたイーリスが前言を撤回して私を置いて部屋を出て行ってしまうのだから、これで慌てるなと言う方が無理だ。
そのイーリスを追い掛けたくとも、重傷を負ってベッドから起き上がることもできないレナートを一人放っていくこともできない。
それに、レナートの目覚めによって生まれた心の余裕がこれまでのことを整理させてくれたけれど、そのことが周囲の人達に対する私の罪悪感を強めてもいた。そんな私が一人ここに残って、レナートに一体どう接すればいいと言うのだろう。
私が内心で混乱し冷や汗をかいて口を開けずにいると、不意にレナートから驚いたような気配がして、握っていた手が解かれた。
「レナートさん?」
「悪い。君が、手にも怪我をしているとは思わなかったんだ。……痛くはなかったか?」
どうしたのかと私が反射的にベッドを振り返れば、申し訳なさそうに眉を寄せたレナートの顔と出会う。レナートの視線は、私が扉へ向かって伸ばしていた手とレナートと繋いでいた手のそれぞれに順に向けられ、最後に私を気遣うように上向いた。
その瞬間、私の鼻の奥がつんと痛んで目が潤む。私は慌てて誤魔化すように首を振り、レナートからわずかに視線を逸らした。
レナートの方がよほど重傷なのに、こんな時でさえ私のことを気遣い、心配して、優しい言葉を当たり前のように口にする。そのレナートの私への気遣いを単純に嬉しいと思ってしまう自分の、何と浅ましいことか。
私の呪いが土砂崩れを発生させ、レナート達に大怪我をさせたかもしれないのだ。そうでなくとも、あの現場でろくな働きができなかった私には、気遣う言葉をかけてもらう資格もなければ、かけられた言葉に喜ぶ資格もありはしない。むしろ、私の方がレナートを始め、土砂崩れに巻き込まれた人達に対して謝罪をしなければならないだろうに。
レナートが気遣ってくれた両手の怪我にしてもそうだ。これは、私の愚かさの証。騎士達を助ける為に動けなかったどころか、周りに多大な迷惑をかけた私への戒めだ。決して、こんなに丁寧に手当てをしてもらっていい怪我ではない。
いっそ、おざなりな手当てで放置してくれてよかったのにと思うものの、目を覚ますと既にこの状態で。よほど上等な薬が使われたのか、土砂崩れから二日しか経過していないにも拘らず既に痛みは殆どなく、むしろ包帯が邪魔と感じてしまうほどだ。
「……平気です。見た目が大袈裟なだけで、痛みはありませんから」
「それならいいが……」
「本当に大丈夫です。私なんかよりレナートさんの方がよっぽど重傷なんですから、自分の心配をしてください」
内心の心苦しさを押し隠して敢えて明るく振る舞い、私は痛みがないことを示すべく、レナートが解いてしまった手を再び握った。そうすれば、レナートの表情がわずかばかり安堵に緩む。
けれど、私は言葉に合う笑顔を浮かべることには失敗していたのだろう。私を見上げるレナートの表情は、完全に懸念が払拭されたとは言い難かった。
目を瞬き、真っ直ぐこちらを見つめるレナートの瞳は私の心を見透かすようで、怯んだ私は、表情を取り繕うより先に再びレナートから視線を逸らしてしまった。
これまでならば――少なくとも、貴族令嬢に生まれた時やリンドナー家で暮らしていた頃には――心の内を明かさぬよう表情を作ることなど造作もなかった筈なのに、いつからかすっかり下手になってしまった。こんな態度を取れば、レナートに対して隠しごとがあると自ら明かしているようなものなのに。
私が自分の行動を後悔し、それでも改めて取り繕うこともできずにいれば、案の定、瞳を伏せて何事かを考えていたレナートの口が開いて、そこから私の名が紡がれた。
「ミリアム」
私を怒るでも責めるでもなく、ただ純粋に私の視線がレナートから逸れていることを惜しみ、こちらを向いてほしいと強請るような柔らかな声だ。そんな優しさに満ちた声でレナートに名を呼ばれてしまえば、私には彼の声に応えずにいることはできなかった。
そろりとレナートへと視線をやれば、深く青い瞳が嬉しそうに細められ、柔らかなままの声が私に問い掛ける。
「何があった?」
災害そのものの詳細ではなく、明らかに私自身への一言は、私を労わり、私の心に寄り添おうとするものだった。私を優しく包み込む声が、レナートの視線が、私に胸の内にある後悔を吐き出してごらんと促す。
けれど。
「な、にも……」
私の口から咄嗟に出たのは、何かあると確信している相手に対しては何とも最悪な誤魔化しだった。
事実、何もなかったどころか誤魔化しようがないほどに、私は大いにやらかしている。
ところどころ記憶が飛んでいるけれど、あの場にレナートの姿がなかったことに我を失い、リーテに授かった力を暴走させ、キリアンの手を煩わせたことだけは、はっきり自覚している。こんな話、これから怪我の治療に専念しなければならないレナートの耳に入れていい話ではない。
だから、悪手だろうと何だろうと、私は何もなかったと誤魔化し通すべきなのだ。レナートを、私のような者のくだらない雑音で煩わせない為にも。
それなのに、レナートに手を握り返され、その手の温かさとこちらに注がれる柔らかな眼差しに触れた途端、私の口は懺悔をするように勝手に言葉を紡ぎ出していた。
役に立てなかったんです、と。
直後に手を口に当てて後悔しても、一言でも口を開いてしまえば、あとは止められなかった。聞かせる話ではないと戒めたのに、先を促すレナートの頷きもあって、これまでのことが次から次に私の口から零れ出る。
そうして、私は時間をかけて懺悔をし尽くした。
話していく内に徐々に下がった頭は、話し終えた頃には自分の膝を見つめていたけれど、レナートの反応を目にするのが怖くて上げられないままだ。話の最後に、私が目覚めたのがつい先ほどだと伝えたところでレナートが一番驚いたようだった時でさえ、表情を確かめる勇気は私にはなかった。
果たして、レナートは驚くほど役立たずだったどころか迷惑しかかけなかった、いっそお荷物な私の話を、どんな思いで聞いただろう。
あまりの無能振りに呆れ果てただろうか。キリアンの救助活動を妨げたことに憤っただろうか。キリアンと同じ愛し子なのに、彼のように助けになる行動を取れなかった私を軽蔑しただろうか。起きたばかりでレナートの様子を見に来るなんて、イーリスに迷惑をかけてとんでもないと罵られるだろうか――
様々な想像をして、私が身を硬くした時だった。
「君の体調は……休んでいなくて平気なのか、ミリアム?」
想像とは真逆の気遣いに溢れた言葉が耳に飛び込んできて、私は驚きに目を丸くする。同時に顔も跳ね上げれば、目の前にあったのは心配そうに眉を寄せるレナートの顔。
「何で……」
私が思わず零せばレナートは不思議そうに首を傾げ、それからさも当然のように続けた。
「力が暴走してしまったんだろう? イーリスが君をここへ連れて来ていいと判断したとは言え、暴走の反動は甘く見ない方がいいんだ。体調に変化はないか?」
小さな頃のエイナーは頻繁に力を暴走させており、酷い時には昏倒して三、四日高熱に魘されたこともあったと語るレナートの態度は、私の力の暴走など大したことではないと示すようだった。いや、事実、レナートはそう考えているのだろう。そして、その上で何よりも私の体調が気掛かりだと本心から思っているのだ。
そこに、私の不甲斐なさを激しく叱責しようとする気配は微塵もない。それどころか、声音も表情も私の体調以外に気にすることなどないと言わんばかりだ。
ただただ私を心配するレナートの姿に、私の中で、どうしてと今一度言葉が過る。
「ミリアム?」
レナートが私の名を呼ぶ声も、これまでと変わらず柔らかく優しい。その声に絆されそうになって、私は慌てて唇を噛み締めた。
大勢に迷惑をかけた私は、そんなに簡単に許されていい筈がない。相応の叱責を受けるべきなのだ。レナートの優しさに勘違いして、許された気になってはいけない。
レナートへ返答もせず自分に言い聞かせていれば、レナートから息を吐くような微かな笑い声が聞こえてきた。
「相変わらずだな、ミリアムは。君はただ必死だっただけだろう? それは叱責されるようなことではないし、誰かと比べることでもない。それとも、ミリアムはそんなに叱られたいのか? 悪いが、俺は叱ってやらないぞ?」
少しばかりおどけたあと、レナートは私に向かってはっきりと笑った。途端、私の頬を雫が伝う。慌てて拭うけれど、その瞬間をしっかり目にしていたらしいレナートが満足気に笑みを深めるものだから、私は勢いのままにレナートから顔を逸らした。
レナートに見透かされていたことへの羞恥だろうか、体が熱い。けれど同時に、私はレナートの言葉に安堵する自分を感じてもいた。
本当は、私だって分かっているのだ。私が懺悔と称して自分の役立たずっぷりをいくら告げたところで、そう思っているのは私だけ。レナートが言ったように、必死だっただけの行動に対して、彼はその無茶を窘めはしてもきつく叱責するわけがないのだと。
勿論、力を学び始めて間もない私にキリアンと同程度の働きを期待することもないし、できなかったからと言って私を悪し様に罵ることも、冷たく蔑むことも、まして理不尽に暴力を振るうことだってない。レナートは、決してそんなことをする人ではない。
いや、レナートだけではなく私がこの国で出会った人、皆がそうだろう。私を心配しこそすれ、私に冷たく当たる人は誰もいやしない。それを十分知っているのに、私のこれまでの幾多の人生の積み重ねが、反射的に自分を責めさせるのだ。
十歳で記憶を取り戻した私は、家族を壊し、様々な人間関係を壊し、最後にはフィロンを殺し、私の人生までも終わりにしてきた。時には、無関係な大勢の人を巻き添えにして。そして、数多の血を流した先で、私は新たな人生を何知らぬ顔で始めてきた。
いつだって、悪いことは私が原因だった。私が起こしてきたのだ。今回のことだってその一つかもしれないと思うと、自分を責めずにはいられなかった。原因である私は、責められて当然との考えが染み付いてしまっているから。
だから、レナートの優しさを素直に受け取れない。受け取ってはいけないと、自分に言い聞かせようとしてしまう。この国の人達の前ではそんな必要はないと頭では分かっているのに、どうしてもやめられない。
「……すみません、でした」
「それも、ミリアムの悪い癖だな」
笑いの滲む声に言われて、私は逸らしていた顔を少しだけレナートの方へと戻した。
確かに、これも私の悪い癖だろう。私が原因で起こる数々の不幸に対して、私は謝罪するしかできないから、どうしても謝罪の言葉が口をついて出てしまう。今生では特に、リンドナー家での暮らしが、より口に出させやすくしている気もする。あの家で私が最も多く口にしたのは、きっと謝罪の言葉だ。
あまりの自己嫌悪に久々にアルグライスでのことが思い出されて、私は小さく息を吐く。その私の手を、レナートが軽く引いた。
「ミリアム。少し、手を貸してくれないか?」
「……手、ですか?」
「できれば、肩も貸してくれるとありがたいんだが」
「肩……?」
要領を得ない突然の頼みごとに、私はきょとんとレナートを見下ろす。けれど、当の本人は私の反応を気にした様子もなく、それどころか返事も待たずに動き出してしまった――あろうことか、辛うじて自由に動く左手を使って、ベッドから身を起こし始めたのだ。
それを見た私は、大いに慌てた。ようやく目覚めたばかりの重傷人の無茶は、洒落では済まない。
「何をやっているんですか、レナートさん! 寝ていなくちゃ駄目ですよ!」
私は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、ほんのわずか体を動かしただけで苦悶の表情を浮かべるレナートにすかさず手を伸ばした。
服越しに触れるレナートの体は普段よりも熱く、発熱の度合いが知れる。また、明らかに服の下にも包帯の感触があり、レナートが負った怪我の多さも私に伝えていた。こんな体で起き上がろうだなんて、本当に無茶だ。
「レナートさん、やめてください!」
「嫌だ」
「嫌って……そんな、子供みたいなことっ」
少し動くだけで痛みに呻いて顔を盛大に歪めている人が、何を言っているのか。こんな無茶をして万が一傷口が開きでもしたら、それこそ事なのに。
私は起き上がろうとするレナートを、何とか寝かせようと奮闘した。けれど、体格と純粋な力の差か、気付いた時には貸してくれと言われた手や肩どころか全身を使って、私はレナートが身を起こす為の支えになってしまっていた。
どうにかこうにか上体を起こしたレナートが、私の気も知らずに遠慮なく私に寄りかかり、息を吐く。その体の重みと熱を感じながら、私は手早くレナートの背に枕を宛がった。ついでにレナートの額から落ちた布を拾い上げ、すっかり冷たさを失っているそれに眉根を寄せる。
「……まずいな。本当に全身が痛い」
「もうっ。だから、寝ていてくださいって言ったじゃないですか」
「それは嫌だと言っただろう? 手伝ってくれてありがとう、ミリアム」
「私は、手伝いたくて手伝ったんじゃありません」
私が眉を吊り上げれば、レナートはそんな私を見上げて、全く反省の欠片もなく笑った。頭に幾重にも巻かれた包帯こそ痛々しいけれど、こちらが心配する気持ちを全く気にしていないその笑みは、どうにも腹立たしい。
ただ、普段から無茶をするなら私の方で、レナートはそれを諫めたり止めたりする側にいるのに立場が逆転してしまっている今の状況には、少しばかり不安も感じていた。急に普段とは異なる行動を取るだなんて、よくないことの兆しのようだ。
「レナートさん。どうして……」
「ミリアムを抱き締めるには、起きなきゃどうしようもないからな」
え、と聞き返す間もなくレナートの片腕が私の背に回され、そのまま引き寄せられる。
ベッドに上半身を起こしたレナートの頭は、寄りかかっていることもあって私の肩にある。ただでさえそれだけ間近にあったレナートの顔が更に距離を縮めて私に迫り、焦った私は反射的に腕を突っぱね――ようとして、相手が怪我人であることを思い出し、寸前で留まった。代わりに上擦った声を上げる。
「レナートさん! 何をっ」
「うん? 君を抱き締めているんだよ。片手だけなのが惜しいけどな」
「そうじゃありません!」
「だって、ミリアムにはもっと言葉と行動で示さなきゃ伝わらないだろう?」
「言葉だけで十分伝わりますっ」
私が言い返せば言い返すほど、何故かレナートは笑みを深めて腕の力を強めた。
レナートが腕の力を強める度、私とレナートの体がより密着する。私の首筋にレナートの髪が触れ、額が触れ、頬が触れ、常より高い体温も、その所為で熱い吐息も息遣いも、喋っている際の声帯の震えすらもが直に私に伝わってくる。
それは私の視界をどうしようもなく滲ませて、私はくっと唇を噛み締めた。
本当なら、私は無茶をするレナートを怒って寝かせなければならない立場だ。こんな無茶を許したままではいけない。それなのに、こうしてレナートに抱き締められていることが、彼の体温とその鼓動をはっきりと感じられていることが、これ以上なく嬉しくて堪らない。何故か、レナートに許されているのだと不思議なほど素直に思えて、安堵が広がる。
「ほら。やっぱり、行動で示さなきゃ駄目だったじゃないか」
どこか勝ち誇ったように笑うレナートに対して、私は何も言えなかった。口を開けば、そこから出るのは言葉ではなく嗚咽だと分かっていたから。
実際、声が笑っているからそうだと分かるだけで、レナートの笑う顔はとうに濡れた視界の中でぐちゃぐちゃだ。
「自分を責めなくていいんだ。力の暴走だって、これから上手く扱えるようになればいい。無茶は確かに褒められたことじゃないが、次は俺がきっと君の無茶を止めるから、それも気にしなくていい」
レナートの落ち着いた声が、私の心に素直に沁みていく。どうしようもなく自分を責めてしまう私のその考えを、じわりと溶かしていく。
「俺にとっては、君が生きていてくれたならそれでいい。それだけでいいんだ――ミア」
その名を耳にした瞬間、私は信じられない思いで目を見開いていた。一瞬、呼吸まで止まり、喉が引き攣る。驚きと喜びと、そして同じだけの混乱が私の中で渦を巻き、どうしてと声に出さずに疑問が駆ける。
その名は、伴侶の振りをする為だけに必要としたもので、もう二度と誰からも呼ばれることのないものだ。私自身、この先の人生で決して自ら口にすることはないし、その名で呼んでほしいと願うこともないものなのに。決して望むべきではないものだと、必死に私が過去に置き捨てた名だったのに。
どうしてレナートが、またその名で私を呼ぶのか。何より大切な宝物であるかのように、その名を口にするのか。
一瞬にしてあの夜の満ち足りた時間が思い出されて、私の顔がみっともなく崩れた。そんな私の頭を、レナートが撫でてくれる。いつもよりも、殊更に優しい手つきで。
「前に言っただろう。君が大切で、好きだと。それに、君はフェルディーンの大切な家族なんだ。そんな相手を愛称で呼ぶことは、何もおかしなことじゃない」
「で、もっ」
愛称で呼ぶことが許されるのは、伴侶だけだ。私とレナートは伴侶ではないのだから、たとえ家族だとしても、たとえレナートが私のことを一人の人間として大切に思ってくれているのだとしても、それを理由に呼ぶことが許されるわけではない。
レナートの優しさは嬉しいけれど、その為にレナートが悪く言われるくらいなら、私は呼ばれなくたって構わない。元々、その望みは私には過ぎたものなのだから。
そう思って私は首を横に振るけれど、レナートに軽く笑い飛ばされてしまった。
「馬鹿だな、ミアは。キスタス人でもないのに、どうして彼らの風習を律儀に守らなきゃならない? 俺だって、血が流れていると言ったって半分だ。おまけに、生まれも育ちもエリューガルなんだぞ? 彼らの文化に染まると思うか?」
その言い方は、まるでレナートはこれからも私のことを愛称で呼ぶと告げているかのようで。伴侶の為に決めた愛称だった筈なのに、そんな都合のいい夢みたいなことが現実にあってもいいのだろうか。
「こんなことなら、伴侶騒動を理由にせず、もっと早く君をミアと呼ぶんだった。そうすれば、君におかしな遠慮をさせることも、一人で思い悩ませることも、君自身を必要以上に責めさせることもなかっただろうにな」
申し訳なさそうに、レナートがすっかり濡れてしまった私の頬をそっと拭う。きっと手を動かすのも本当は辛いだろうに、私に触れてくるその手付きがまた優しくて、すぐに幾筋もの涙が新たに流れて頬を濡らした。それを見てレナートがおかしそうに笑うものだから、私もますます顔をくしゃくしゃにしてしまう。
どうしてレナートは、こんなに優しいのだろう。これまで私が諦めてきたものをこんなにも拾い上げて、当たり前のように私に与えてくれるのだろう。それも、私の心を見透かしたように。
「どう、して」
私の中に渦巻く数多の疑問は、端的な言葉として自然と口に出ていた。そして、私の疑問に寄越された答えもまた、端的なものだった。
「ミア」
愛称は親愛の証。その人を大切に思っていると伝えるもの、愛情の形。そして、信頼の証でもある。
たった一言。たった二音。けれど、私の疑問への答えには十分すぎるものだった。
ただでさえ止まる気配のない涙が余計に溢れ、私は何の為にこの部屋へやって来たのかも忘れて、ただただレナートに縋り付くようにして泣き続けた。
ただ一つ。私にたくさんのものを与えてくれるレナートに応える為に、私からも、二度と口にすることはないだろうと思っていた名だけは、口にして。
「――レファ」
それは、自分でも驚くほどか細い音だった。けれど、濡れた頬に触れるレナートの温かな唇が、確かに彼に届いたことを私に教えてくれていた。
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