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第五章 絡み合う思惑の果て
雨に響く声
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――耳を劈く轟音が、空を裂く。
景色が白く煙るほどに激しく降る雨の中、全身が濡れそぼつのも構わず、私はすっかり様変わりしてしまった街道の有様を目にして、呆然と立ち尽くしていた。
綺麗に整えられていた街道は雪崩れ込んできた大量の土砂によって埋め尽くされて、見る影もない。噎せ返るほどの濃い土の匂いが辺りに充満し、土砂の運んできた落石や倒木があちらこちらに転がっている。
(何、で……?)
信じられなかった。目に見えるもの全てを信じたくなかった。嘘だと誰かに言ってほしかった。
空から降る雷鳴が、強い雨音が、キリアンの切迫した声が、騎士達の必死に応じる声が、馬の苦しげな嘶きが、助けを求める人の声が――数多の音が、私の聴覚を埋め尽くす。けれど、私にとって全ては意味を成さない雑音だった。
一呼吸毎に荒くなる自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえ、次第にそれは耳鳴りと共に全ての音を掻き消した。耳の奥からは心臓の鼓動が聞こえ始め、私は熱に浮かされるようにふらりと一歩を踏み出す。
泥濘んだ土砂が私の足を飲み込むのも構わず、一歩、更に一歩と歩を進め、それは次第に速さを増して、気付けば私は雪崩れた土砂に向かって無我夢中で駆け出していた。
「待て、ミリアム! どこへ行くんだっ! 戻れ! ミリアムッ!!」
背後からキリアンの慌てる声が聞こえた気がしたけれど、私の足は止まらない。
どれだけ泥だらけになろうと、手足に傷を作ろうと、私は必死になって土砂を駆けた。目の前から消え去った、鮮やかな金色を探して。
どうしてこうなってしまったのかと、多大な後悔を抱きながら――
◇
少しばかり、時は遡る。
婚前の祝宴が催された翌日、本来ならば午前中の内に砦を発つ予定は、視察組対国境警備隊の訓練試合の開催――基、主にレナートによる国境警備隊への制裁――によって、昼過ぎに延期された。
訓練中、私への悪戯に腹を立てていたレナートは当然ながら、どう言うわけかキリアンやイーリスも随分と気合が入っており、彼らの気迫に押されたのか結果は視察組の圧勝。主に三人によって積み上げられた警備隊の敗者の山は堆く、訓練は最後にキリアンがアディーシャに参ったと言わせ、レナートがまさかのヤーヴァルに膝を付かせると言う驚きの結果で終了した。
この結果にはヤーヴァル本人が一番驚いており、このことがレナートを真に認めることに繋がったようで、砦を発つ頃にはレナートのことを「ヴィシュヴァ・ラヌ」と呼ぶ人は誰もいなくなっていたのは、レナートにとっては予想外の収穫だったことだろう。
私はと言えば、夜通し自分に言い聞かせていたお陰か、レナートに対しての冷静さを取り戻すことに成功していた。レナートの方はまだ多少引きずっている様子で、初めの内は私に対してどうにもぎこちない様子だったものの、私があくまで普段通りに接したことが功を奏したのか、いつの間にか、わざわざ仮初の伴侶であることを意識することもなくなるくらいには、いつもの私とレナートの関係に戻っていた。
ちなみに、砦の人達にはそんな私達でも「伴侶である」と言う刷り込みからか、婚前の祝宴を終えたあとだったからか、関係を怪しまれるようなことは一切なく、どこへ行っても何をしても私達はすこぶる仲のよい伴侶として見られていた。
あまりの怪しまれなさに肩透かしを食らったような気分ではあったけれど、何はともあれ、私は無事にレナートの仮初の伴侶役をやり遂げられたわけで。
色々と想定外のことが起こった砦での滞在は、多少の問題はありつつも、何とか平穏に幕を閉じた。
その後、ミュルダール家の古城へと帰還した私達は、翌日からは古城を起点にフェルベルグ地方の他都市への視察に赴いた。私も泉の乙女としてキリアンと共に各都市を回り、各地の礼拝堂で祈りを捧げ、民との交流を行い、今回のオスタルグ慰問を兼ねた視察の全行程を恙なく終える。
そうして、私達が古城を発つ日がやって来た。
*
昨夜から降り始めた雨の所為で生憎の空模様の中、大粒の涙を流して別れを惜しむセシリーを含むセルマ達に見送られながら、私達は予定通りに出発する。
行きに四人を乗せた馬車は、神官が礼拝堂へ戻り、文官も今しばらく地方官の仕事を補佐するとのことで、帰りには私とキリアンの二人だけ。すっかり広くなってしまった馬車は、しとしとと細く降り続く雨もあってか、どこか寂しい。
そんな馬車に揺られること、しばらく。都市ナーデルを出ると、途端に窓外の景色は一変する。人家の数は疎らになり、緑が視界を埋め尽くすのだ。都市間を繋ぐ街道は雨によって増水した川から離れ、上も下も木々の繁る中を縫うように進んでいく。
行きにこの道を通った際には、鳥達の声や時折姿を見せる動物達に耳と目を楽しませてもらっていたけれど、流石に雨の降る中ではそうもいかない。私はキリアンと言葉を交わすことで次の都市へ到着するまでの退屈を紛らわせながら、馬車に揺られた。
それから、どれほどの時間が経った頃だろうか。ひたすら代わり映えのしない緑に囲まれた街道を進む中、不意に、雨音に混じって「痛い」との姿なき声が私の耳を掠めた。
はっとして窓外に目をやるけれど、見えるのは変わらず白糸のように細く降る雨と濡れた緑ばかり。時折風に揺れる枝はあってもその強さは強風とまで呼べるものではなく、エディルや礼拝堂のような突風が吹く様子もない。
「どうした、ミリアム?」
私とは違って、姿なきものの声が聞こえないキリアンが、私の突然の行動に不思議そうに首を傾げる。私は窓に体を向けたまま、顔だけをキリアンへと向けた。
「キリアン様。その……また、声が聞こえたんです」
「それは礼拝堂の時と同じ、痛みを訴えるものか?」
「はい。まだ雨音に混じって、微かに聞こえるだけではあるんですけど……」
痛い、痛いと囁く声はさめざめと涙するような弱々しさで、礼拝堂の時のような激しさはない。響きは酷く痛ましく、こちらまで心を痛め、できるならば助けたいと思わせる、そんな声だった。
ただし、その声の出所は判然としない。右手から聞こえるようでもあるし、左手から聞こえるようでもある。かと思えば真上から聞こえるようでも、背後から縋るように聞こえるようでもあった。遠くから風に乗ってどこからともなく届いてくる、そんな印象だ。
私からの要領を得ない説明を真剣な表情で聞いたキリアンは、一度窓外の景色に目を凝らし、それから思案気に顎に手を当てて何事かを考え始めた。
礼拝堂で聞いた声のことを砦滞在中にキリアン達に伝えた際、次にまた聞こえることがあれば教えてほしいとキリアン自らが言ったこともあるだろうけれど、キリアンは決して私の言葉を否定せず、きちんと受け取り、考えてくれる。
当たり前のことのようでいて私のこれまでの人生では決してあり得なかった光景は、声を聞いて俄かに湧いた私の中の不安を取り除き、安心感を与えてくれた。
「私にも聞こえればいいのだが……やはり、加護を受けている神の違いか」
そう呟くと、キリアンは私に向かって一言断り、私の隣へと席を移る。そして、「手を」と私に向かって彼の手を差し出してきた。
すぐに私はキリアンの手に自分の手を重ね、砦で教わった通り、気持ちを鎮めて目を閉じ、自分の内にある力へと神経を集中させる。姿なきものの声を捉えて私に届けるべく私の内で働く力の存在へと、意識を向ける為に。より鮮明に声を聞く為に。私が、私自身で力を制御できるようになる為に。
未熟な私を補助すべく触れているキリアンの手からは、私のことを包み込むような柔らかな力の拍動を感じた。
その拍動に導かれて静かに精神を集中させ、心を落ち着かせて呼吸を繰り返していれば、次第に馬車の揺れを感じなくなり、それに伴って車輪の音も、並走する馬の蹄の音も、風の音も雨音さえも意識から遠くなる。
穏やかな静寂に包まれた私は、その中でゆるりと両手を持ち上げた。そう行動する自分の姿を思い浮かべた。
手の平を上にしてそっと掬うのは、私の内にある力の欠片。私に、声を届けてくれている力だ。それは、今まさに声を捉えていることを示すように、私の両手の中で活発に脈打っていた。
私はその力へ向かって、声を聞かせてほしいとの望みを伝える。そうすれば、静寂の中に徐々に雨音が聞こえ始め、私は次に、その雨音へと意識を向けた。
初めはほんの微かな音だった雨音は次第にはっきりと聞こえるようになり、徐々に変化を始め、雨音から様々な声となって私に届き始める。
痛い。痛い。苦しい。痛い。助けて。痛い。
小さくか細く、痛々しい声が私に届く。私は助けを求める多くの声に真摯に耳を傾け、問い掛けた。
どこが痛いのか、苦しいのか、何から助けてほしいのか、声の持ち主はどこにいるのか。
けれど、私の問いに答える様子のないまま声は徐々に大きさを増し、数を増し、勢いを増し、ついには私に叩き付けるような大音響となって響き始める。
慌てて鎮まるように願っても一向に収まる気配はなく、そのことに力の制御が利いていないと気付いて私が焦る間も、声は容赦なく膨れ上がる。
痛い。裂ける。痛い。割れる。痛い。壊れる。痛い。苦しい。助けて。呑まれる。苦しい。痛い。助けて。痛い。苦しい。助けて、助けて、助けて、助けて――――!!
そうして、私の頭が割れそうなほどに声が重なり、不協和音が鳴り響き、更にその声の奥から禍々しくも悍ましい何かの気配が私を捉えたと感じた瞬間――
力強い腕に問答無用で引き上げられるように、私の意識は強制的に浮上した。
「――っ!」
勢いよく目を見開けば、私の目の前には苦笑を浮かべたキリアンの顔。
ふっと息を吐いたその表情はどこか安堵しているようにも見え、私は意識が浮上したことに疑問を抱くより先に、目を瞬いた。
「キリアン、様……?」
「驚かせてすまない。ただ、どうもあなたは聞こえる声に影響されやすいようだ」
キリアンのその一言は、決して私を叱責するものではなかった。けれど、私に反省を促すには十分で。
つまり、私はどの時点からかは分からないけれど、間違いなく力の制御を失っていたのだ。そして、キリアンが有無を言わさず私の意識を引き上げざるを得なかった程度には、危険な状況に陥ってもいたのだろう。
「も、申し訳ありません……」
「いや、お陰で私もあなたに聞こえる声を聞くことができた。あれほどの声が一度に届いては、制御が未熟なあなたではのまれてしまうのも無理はない」
気にすることはないとキリアンは笑顔を見せてくれたものの、それは、私が力を制御できるようになるまでの道程はまだまだ遠いと言われているようなもの。気にしないわけにもいかない。
けれど、キリアンは言葉通り本当に気にしていないのか、表情を改めながら、手を口元に当ててすっかり一人で考え込み考え始めていた。
「それにしても、あれは――」
そして、ぽつりとキリアンの口から言葉が零れた。その時。
軽快に進んでいた馬車が急に制動をかけ、かと思うと、間を置くことなく外から扉が叩かれた。反射的に体を強張らせて扉を注視すれば、窓の外に雨除けの外套をすっかり濡らした騎士の姿がある。
「どうした?」
「キリアン殿下。この先の川が想定以上に増水しているそうです。今、橋を渡るのは危険かもしれないと」
すぐさま冷静に応じたキリアンに、騎士が手短に報告をする。いかがいたしましょう、と外の様子を窺うキリアンに判断を仰ぐ騎士の声を聞きながら、私もつられて窓の外を窺い見た。
外はいつの間にか雨脚が随分と強まって、大雨と言っていい勢いへと変わっていた。風の強さも出発時とは比べ物にならず、木々の枝が大きく撓る様子も見える。雨音を縫って腹に響く音は、雷だろうか。気付けば横殴りの雨が激しく馬車に打ち付ける音もひっきりなしに聞こえており、その音は通常の声量で発した声を掻き消してしまいそうなほどだ。
自分の内にある力に集中していたのはそう長い時間ではなかった筈で、突然とも思える天候の変化に、私は内心で大きく驚く。それと同時に、先ほど聞いた口々に痛みを訴える声の勢いが想起され、私は無意識に両手を握り締めた。雨風の勢いが、ひっきりなしに叫んでいた数多の声に重なる。
どうか、何も悪いことが起こりませんように。無事に先へ進めますように――私が胸元のリーテの雫の入った小瓶の存在を確かめながら祈ったところで、更に馬車へと騎士を乗せた馬がやって来た。
「申し訳ありません、殿下。ただ、フィンが――」
《ミリアム、ミリアムー! あのね、すっごく嫌な感じがするの! だから、止まっちゃ駄目って皆に言って!》
聞こえてきたのは困惑した様子のレナートと、彼を押し退ける勢いで開けた窓から鼻を突き入れてきたフィン、それぞれの声だ。楽天的な性格のフィンには珍しく、その声にははっきりと焦りが現れていた。
《アシェルもトーラも、嫌な気配が近付いてるから早く進んだ方がいいって言ってる!》
私が突然のことに驚く間もなくフィンは更に言葉を続け、私に早く早くと行動を促す。レナートに手綱を引かれて窓から引き剥がされてもなお、フィンは落ち着かなげに鼻を鳴らし、足で地面を蹴り付けて、私に向かって首を振り続けていた。
野盗に襲撃された時でさえ飄々としていたフィンのこれほどに焦る様子は見たことがなく、私ならずとも、ただならない事態が迫っていると察するには十分だった。
「ミリアム。フィンは何と?」
「嫌な気配が近付いているので、ここで止まっては駄目だと。アシェルとトーラもそう言っているそうです」
「グーラ三頭が揃って言うなら、間違いないな」
フィンからの警告を聞いたキリアンの決断は、早かった。
指示を待つ騎士には、先行して橋へ向かい改めて正確な状況を確認するよう伝え、レナートには数人を連れて後方の警戒をするよう指示を出す。他の者達には、警戒しつつ急ぎ先へ進むようにと命じた。
「殿下、まさか」
「いや。この辺りもまだ、警戒網の中の筈だ」
俄かに緊張感が漂い始める中で、小声で言葉少なに交わされる二人の会話を聞くともなしに耳に入れ、私は後方へと馬首を巡らせるレナートをその目で追った。
と、隊列の後方に鋭い視線を投げていたレナートの横顔が、不意に私へと向く。そして、一瞬前の引き締まった表情が嘘のように私へ柔らかく笑んだ。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だ、ミリアム。橋さえ渡ってしまえば、休憩できる街までそう遠くない」
強い雨の中でもレナートの声は不思議とはっきり私の耳に届き、不安にざわつく胸に温かな気持ちが灯る。
「気を付けてくださいね、レナートさん」
「ああ」
レナートは力強く頷くものの、その手には鞘から抜いた剣が握られて物々しい。フィンと共に後方へと走っていく後ろ姿に、私はどうか無事でと祈らずにはいられなかった。
そんなレナート達に遅れることわずか、私とキリアンの乗る馬車も動き始める。ただし、急ぎたくともこの大雨では、そう速度を出せるものではない。
馬車の車輪や並走する馬の蹄の音に混じって、雨脚の強さに比例するように雷鳴が大きさを増して轟き、その度に空が光っては鼓膜が震えた。
そして。
一際眩い光と雷鳴が視覚と聴覚を同時に叩いた時に、それは起こった。
落雷の衝撃に大地が大きく揺れ、みしりと巨大な何かの軋む音が耳を掠める。次の瞬間、前方に巨大な影が出現し、馬のけたたましい嘶きが雨音を裂いた。間を置かず地鳴りまでが隊列を襲い、今度は後方から馬の嘶きと人の慌てた叫び声が湧く。私の乗った馬車も大きく弾み、私は踏ん張る間もなく体が浮いた。
「きゃ……っ」
「ミリアム!」
キリアンが私の腕を掴む。直後に大きな轟音が聴覚に雪崩れ込み、息が詰まるような強い衝撃に襲われる。全身を何かに強く打ち付けて、束の間、私の意識が飛んだ。
〝――――赦セ……リーテノ娘ヨ……――〟
視界が暗転する直前、私の頭の中に直接響く誰かの声を聞きながら。
景色が白く煙るほどに激しく降る雨の中、全身が濡れそぼつのも構わず、私はすっかり様変わりしてしまった街道の有様を目にして、呆然と立ち尽くしていた。
綺麗に整えられていた街道は雪崩れ込んできた大量の土砂によって埋め尽くされて、見る影もない。噎せ返るほどの濃い土の匂いが辺りに充満し、土砂の運んできた落石や倒木があちらこちらに転がっている。
(何、で……?)
信じられなかった。目に見えるもの全てを信じたくなかった。嘘だと誰かに言ってほしかった。
空から降る雷鳴が、強い雨音が、キリアンの切迫した声が、騎士達の必死に応じる声が、馬の苦しげな嘶きが、助けを求める人の声が――数多の音が、私の聴覚を埋め尽くす。けれど、私にとって全ては意味を成さない雑音だった。
一呼吸毎に荒くなる自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえ、次第にそれは耳鳴りと共に全ての音を掻き消した。耳の奥からは心臓の鼓動が聞こえ始め、私は熱に浮かされるようにふらりと一歩を踏み出す。
泥濘んだ土砂が私の足を飲み込むのも構わず、一歩、更に一歩と歩を進め、それは次第に速さを増して、気付けば私は雪崩れた土砂に向かって無我夢中で駆け出していた。
「待て、ミリアム! どこへ行くんだっ! 戻れ! ミリアムッ!!」
背後からキリアンの慌てる声が聞こえた気がしたけれど、私の足は止まらない。
どれだけ泥だらけになろうと、手足に傷を作ろうと、私は必死になって土砂を駆けた。目の前から消え去った、鮮やかな金色を探して。
どうしてこうなってしまったのかと、多大な後悔を抱きながら――
◇
少しばかり、時は遡る。
婚前の祝宴が催された翌日、本来ならば午前中の内に砦を発つ予定は、視察組対国境警備隊の訓練試合の開催――基、主にレナートによる国境警備隊への制裁――によって、昼過ぎに延期された。
訓練中、私への悪戯に腹を立てていたレナートは当然ながら、どう言うわけかキリアンやイーリスも随分と気合が入っており、彼らの気迫に押されたのか結果は視察組の圧勝。主に三人によって積み上げられた警備隊の敗者の山は堆く、訓練は最後にキリアンがアディーシャに参ったと言わせ、レナートがまさかのヤーヴァルに膝を付かせると言う驚きの結果で終了した。
この結果にはヤーヴァル本人が一番驚いており、このことがレナートを真に認めることに繋がったようで、砦を発つ頃にはレナートのことを「ヴィシュヴァ・ラヌ」と呼ぶ人は誰もいなくなっていたのは、レナートにとっては予想外の収穫だったことだろう。
私はと言えば、夜通し自分に言い聞かせていたお陰か、レナートに対しての冷静さを取り戻すことに成功していた。レナートの方はまだ多少引きずっている様子で、初めの内は私に対してどうにもぎこちない様子だったものの、私があくまで普段通りに接したことが功を奏したのか、いつの間にか、わざわざ仮初の伴侶であることを意識することもなくなるくらいには、いつもの私とレナートの関係に戻っていた。
ちなみに、砦の人達にはそんな私達でも「伴侶である」と言う刷り込みからか、婚前の祝宴を終えたあとだったからか、関係を怪しまれるようなことは一切なく、どこへ行っても何をしても私達はすこぶる仲のよい伴侶として見られていた。
あまりの怪しまれなさに肩透かしを食らったような気分ではあったけれど、何はともあれ、私は無事にレナートの仮初の伴侶役をやり遂げられたわけで。
色々と想定外のことが起こった砦での滞在は、多少の問題はありつつも、何とか平穏に幕を閉じた。
その後、ミュルダール家の古城へと帰還した私達は、翌日からは古城を起点にフェルベルグ地方の他都市への視察に赴いた。私も泉の乙女としてキリアンと共に各都市を回り、各地の礼拝堂で祈りを捧げ、民との交流を行い、今回のオスタルグ慰問を兼ねた視察の全行程を恙なく終える。
そうして、私達が古城を発つ日がやって来た。
*
昨夜から降り始めた雨の所為で生憎の空模様の中、大粒の涙を流して別れを惜しむセシリーを含むセルマ達に見送られながら、私達は予定通りに出発する。
行きに四人を乗せた馬車は、神官が礼拝堂へ戻り、文官も今しばらく地方官の仕事を補佐するとのことで、帰りには私とキリアンの二人だけ。すっかり広くなってしまった馬車は、しとしとと細く降り続く雨もあってか、どこか寂しい。
そんな馬車に揺られること、しばらく。都市ナーデルを出ると、途端に窓外の景色は一変する。人家の数は疎らになり、緑が視界を埋め尽くすのだ。都市間を繋ぐ街道は雨によって増水した川から離れ、上も下も木々の繁る中を縫うように進んでいく。
行きにこの道を通った際には、鳥達の声や時折姿を見せる動物達に耳と目を楽しませてもらっていたけれど、流石に雨の降る中ではそうもいかない。私はキリアンと言葉を交わすことで次の都市へ到着するまでの退屈を紛らわせながら、馬車に揺られた。
それから、どれほどの時間が経った頃だろうか。ひたすら代わり映えのしない緑に囲まれた街道を進む中、不意に、雨音に混じって「痛い」との姿なき声が私の耳を掠めた。
はっとして窓外に目をやるけれど、見えるのは変わらず白糸のように細く降る雨と濡れた緑ばかり。時折風に揺れる枝はあってもその強さは強風とまで呼べるものではなく、エディルや礼拝堂のような突風が吹く様子もない。
「どうした、ミリアム?」
私とは違って、姿なきものの声が聞こえないキリアンが、私の突然の行動に不思議そうに首を傾げる。私は窓に体を向けたまま、顔だけをキリアンへと向けた。
「キリアン様。その……また、声が聞こえたんです」
「それは礼拝堂の時と同じ、痛みを訴えるものか?」
「はい。まだ雨音に混じって、微かに聞こえるだけではあるんですけど……」
痛い、痛いと囁く声はさめざめと涙するような弱々しさで、礼拝堂の時のような激しさはない。響きは酷く痛ましく、こちらまで心を痛め、できるならば助けたいと思わせる、そんな声だった。
ただし、その声の出所は判然としない。右手から聞こえるようでもあるし、左手から聞こえるようでもある。かと思えば真上から聞こえるようでも、背後から縋るように聞こえるようでもあった。遠くから風に乗ってどこからともなく届いてくる、そんな印象だ。
私からの要領を得ない説明を真剣な表情で聞いたキリアンは、一度窓外の景色に目を凝らし、それから思案気に顎に手を当てて何事かを考え始めた。
礼拝堂で聞いた声のことを砦滞在中にキリアン達に伝えた際、次にまた聞こえることがあれば教えてほしいとキリアン自らが言ったこともあるだろうけれど、キリアンは決して私の言葉を否定せず、きちんと受け取り、考えてくれる。
当たり前のことのようでいて私のこれまでの人生では決してあり得なかった光景は、声を聞いて俄かに湧いた私の中の不安を取り除き、安心感を与えてくれた。
「私にも聞こえればいいのだが……やはり、加護を受けている神の違いか」
そう呟くと、キリアンは私に向かって一言断り、私の隣へと席を移る。そして、「手を」と私に向かって彼の手を差し出してきた。
すぐに私はキリアンの手に自分の手を重ね、砦で教わった通り、気持ちを鎮めて目を閉じ、自分の内にある力へと神経を集中させる。姿なきものの声を捉えて私に届けるべく私の内で働く力の存在へと、意識を向ける為に。より鮮明に声を聞く為に。私が、私自身で力を制御できるようになる為に。
未熟な私を補助すべく触れているキリアンの手からは、私のことを包み込むような柔らかな力の拍動を感じた。
その拍動に導かれて静かに精神を集中させ、心を落ち着かせて呼吸を繰り返していれば、次第に馬車の揺れを感じなくなり、それに伴って車輪の音も、並走する馬の蹄の音も、風の音も雨音さえも意識から遠くなる。
穏やかな静寂に包まれた私は、その中でゆるりと両手を持ち上げた。そう行動する自分の姿を思い浮かべた。
手の平を上にしてそっと掬うのは、私の内にある力の欠片。私に、声を届けてくれている力だ。それは、今まさに声を捉えていることを示すように、私の両手の中で活発に脈打っていた。
私はその力へ向かって、声を聞かせてほしいとの望みを伝える。そうすれば、静寂の中に徐々に雨音が聞こえ始め、私は次に、その雨音へと意識を向けた。
初めはほんの微かな音だった雨音は次第にはっきりと聞こえるようになり、徐々に変化を始め、雨音から様々な声となって私に届き始める。
痛い。痛い。苦しい。痛い。助けて。痛い。
小さくか細く、痛々しい声が私に届く。私は助けを求める多くの声に真摯に耳を傾け、問い掛けた。
どこが痛いのか、苦しいのか、何から助けてほしいのか、声の持ち主はどこにいるのか。
けれど、私の問いに答える様子のないまま声は徐々に大きさを増し、数を増し、勢いを増し、ついには私に叩き付けるような大音響となって響き始める。
慌てて鎮まるように願っても一向に収まる気配はなく、そのことに力の制御が利いていないと気付いて私が焦る間も、声は容赦なく膨れ上がる。
痛い。裂ける。痛い。割れる。痛い。壊れる。痛い。苦しい。助けて。呑まれる。苦しい。痛い。助けて。痛い。苦しい。助けて、助けて、助けて、助けて――――!!
そうして、私の頭が割れそうなほどに声が重なり、不協和音が鳴り響き、更にその声の奥から禍々しくも悍ましい何かの気配が私を捉えたと感じた瞬間――
力強い腕に問答無用で引き上げられるように、私の意識は強制的に浮上した。
「――っ!」
勢いよく目を見開けば、私の目の前には苦笑を浮かべたキリアンの顔。
ふっと息を吐いたその表情はどこか安堵しているようにも見え、私は意識が浮上したことに疑問を抱くより先に、目を瞬いた。
「キリアン、様……?」
「驚かせてすまない。ただ、どうもあなたは聞こえる声に影響されやすいようだ」
キリアンのその一言は、決して私を叱責するものではなかった。けれど、私に反省を促すには十分で。
つまり、私はどの時点からかは分からないけれど、間違いなく力の制御を失っていたのだ。そして、キリアンが有無を言わさず私の意識を引き上げざるを得なかった程度には、危険な状況に陥ってもいたのだろう。
「も、申し訳ありません……」
「いや、お陰で私もあなたに聞こえる声を聞くことができた。あれほどの声が一度に届いては、制御が未熟なあなたではのまれてしまうのも無理はない」
気にすることはないとキリアンは笑顔を見せてくれたものの、それは、私が力を制御できるようになるまでの道程はまだまだ遠いと言われているようなもの。気にしないわけにもいかない。
けれど、キリアンは言葉通り本当に気にしていないのか、表情を改めながら、手を口元に当ててすっかり一人で考え込み考え始めていた。
「それにしても、あれは――」
そして、ぽつりとキリアンの口から言葉が零れた。その時。
軽快に進んでいた馬車が急に制動をかけ、かと思うと、間を置くことなく外から扉が叩かれた。反射的に体を強張らせて扉を注視すれば、窓の外に雨除けの外套をすっかり濡らした騎士の姿がある。
「どうした?」
「キリアン殿下。この先の川が想定以上に増水しているそうです。今、橋を渡るのは危険かもしれないと」
すぐさま冷静に応じたキリアンに、騎士が手短に報告をする。いかがいたしましょう、と外の様子を窺うキリアンに判断を仰ぐ騎士の声を聞きながら、私もつられて窓の外を窺い見た。
外はいつの間にか雨脚が随分と強まって、大雨と言っていい勢いへと変わっていた。風の強さも出発時とは比べ物にならず、木々の枝が大きく撓る様子も見える。雨音を縫って腹に響く音は、雷だろうか。気付けば横殴りの雨が激しく馬車に打ち付ける音もひっきりなしに聞こえており、その音は通常の声量で発した声を掻き消してしまいそうなほどだ。
自分の内にある力に集中していたのはそう長い時間ではなかった筈で、突然とも思える天候の変化に、私は内心で大きく驚く。それと同時に、先ほど聞いた口々に痛みを訴える声の勢いが想起され、私は無意識に両手を握り締めた。雨風の勢いが、ひっきりなしに叫んでいた数多の声に重なる。
どうか、何も悪いことが起こりませんように。無事に先へ進めますように――私が胸元のリーテの雫の入った小瓶の存在を確かめながら祈ったところで、更に馬車へと騎士を乗せた馬がやって来た。
「申し訳ありません、殿下。ただ、フィンが――」
《ミリアム、ミリアムー! あのね、すっごく嫌な感じがするの! だから、止まっちゃ駄目って皆に言って!》
聞こえてきたのは困惑した様子のレナートと、彼を押し退ける勢いで開けた窓から鼻を突き入れてきたフィン、それぞれの声だ。楽天的な性格のフィンには珍しく、その声にははっきりと焦りが現れていた。
《アシェルもトーラも、嫌な気配が近付いてるから早く進んだ方がいいって言ってる!》
私が突然のことに驚く間もなくフィンは更に言葉を続け、私に早く早くと行動を促す。レナートに手綱を引かれて窓から引き剥がされてもなお、フィンは落ち着かなげに鼻を鳴らし、足で地面を蹴り付けて、私に向かって首を振り続けていた。
野盗に襲撃された時でさえ飄々としていたフィンのこれほどに焦る様子は見たことがなく、私ならずとも、ただならない事態が迫っていると察するには十分だった。
「ミリアム。フィンは何と?」
「嫌な気配が近付いているので、ここで止まっては駄目だと。アシェルとトーラもそう言っているそうです」
「グーラ三頭が揃って言うなら、間違いないな」
フィンからの警告を聞いたキリアンの決断は、早かった。
指示を待つ騎士には、先行して橋へ向かい改めて正確な状況を確認するよう伝え、レナートには数人を連れて後方の警戒をするよう指示を出す。他の者達には、警戒しつつ急ぎ先へ進むようにと命じた。
「殿下、まさか」
「いや。この辺りもまだ、警戒網の中の筈だ」
俄かに緊張感が漂い始める中で、小声で言葉少なに交わされる二人の会話を聞くともなしに耳に入れ、私は後方へと馬首を巡らせるレナートをその目で追った。
と、隊列の後方に鋭い視線を投げていたレナートの横顔が、不意に私へと向く。そして、一瞬前の引き締まった表情が嘘のように私へ柔らかく笑んだ。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だ、ミリアム。橋さえ渡ってしまえば、休憩できる街までそう遠くない」
強い雨の中でもレナートの声は不思議とはっきり私の耳に届き、不安にざわつく胸に温かな気持ちが灯る。
「気を付けてくださいね、レナートさん」
「ああ」
レナートは力強く頷くものの、その手には鞘から抜いた剣が握られて物々しい。フィンと共に後方へと走っていく後ろ姿に、私はどうか無事でと祈らずにはいられなかった。
そんなレナート達に遅れることわずか、私とキリアンの乗る馬車も動き始める。ただし、急ぎたくともこの大雨では、そう速度を出せるものではない。
馬車の車輪や並走する馬の蹄の音に混じって、雨脚の強さに比例するように雷鳴が大きさを増して轟き、その度に空が光っては鼓膜が震えた。
そして。
一際眩い光と雷鳴が視覚と聴覚を同時に叩いた時に、それは起こった。
落雷の衝撃に大地が大きく揺れ、みしりと巨大な何かの軋む音が耳を掠める。次の瞬間、前方に巨大な影が出現し、馬のけたたましい嘶きが雨音を裂いた。間を置かず地鳴りまでが隊列を襲い、今度は後方から馬の嘶きと人の慌てた叫び声が湧く。私の乗った馬車も大きく弾み、私は踏ん張る間もなく体が浮いた。
「きゃ……っ」
「ミリアム!」
キリアンが私の腕を掴む。直後に大きな轟音が聴覚に雪崩れ込み、息が詰まるような強い衝撃に襲われる。全身を何かに強く打ち付けて、束の間、私の意識が飛んだ。
〝――――赦セ……リーテノ娘ヨ……――〟
視界が暗転する直前、私の頭の中に直接響く誰かの声を聞きながら。
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