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第五章 絡み合う思惑の果て

王太子の懸念

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 シュナークル山脈より東、キスタス人の暮らす高原の地には、かつてその地を守護する白き竜がいたとされている。
 キスタス人の伝承には、白き竜は黒き竜クルードと共に聖域の守護を務める三竜の一角を担う存在であるとも言われているが、白き竜がこの地より姿を消して幾星霜の歳月が過ぎ去った今では、その存在を知る者は殆どいない。現在を生きるキスタス人でさえ、その名を知りはしても存在を確かなものと信じる者は少ないと聞く。
 山脈を挟んだ隣国であり、黒竜クルードを信奉するエリューガル国内ですら、白き竜については王城図書館書庫と神殿書庫の書物の中に、ほんのわずか記述が確認できるのみだ。

 元より、キスタス人は馬を駆り高原を流離い戦う民。文字を持たず、口伝でのみ伝えられてきた彼ら民族の有り様と歴史、彼らと共にあったとされる白き竜の伝承が文字に書き留められ書物の形を取ったのは、彼らがキスタスバと言う国家を形成したわずか数百年前のことである。長い年月の間に変化し、途絶え、失われた伝承や歴史は数多く、キスタス人から白き竜に対する信心が失われていても何ら不思議ではない。
 だが、中にはかつて自分達の元に白き竜がおり、それが失われたと言う表面的な事実だけを都合好く利用し、現在も存在を認知されている黒竜クルードに対して、ひいてはクルードを信奉するエリューガルに対して、強い敵愾心を抱く者がいると言う。
 エリューガルにとっては傍迷惑なことに、時代が移り変わり多くの国々が平和を享受するようになっても、彼らの身に流れる猛き戦士の血が闘争を求めて止まないのだ。

「ただ豪気なだけなら、よき隣人なのだがな……」

 砦の敷地内を、千鳥足の兵士とそれを支える兵士とが楽しげに笑いながら連れ立って歩き去る姿を眼下に見て、キリアンは窓の外から視線を剥がした。
 盛大な誤解をしたまま――させたまま――開かれてしまったレナートとミリアムの婚前の祝宴は、主役が退席して相応の時間が経つが、いまだに終わる気配を見せない。キリアンもそれなりの時間を宴の席で過ごしてから場を辞したが、それでも早い方で、祈願祭のように夜通し楽しむのではと思うほどには宴を楽しみ続ける人の数は多かった。
 そんな彼らのことをほんの少しばかり羨んで、キリアンは窓に背を向け、ソファに腰掛けた。そうすれば途端に疲労感が押し寄せるようで、そのままソファに深々と身を預け、唸るようにして息を吐いてしまう。

「疲れているわね」
「これで疲れないでいられるのは、クソ親父殿だけだろうよ」

 キリアンのぼやきに苦笑が返り、天井を向くキリアンの視界にイーリスの鮮やかな明るい藍色の頭髪が入り込む。
 鼻先を掠めた紅茶とは異なる爽やかな香りに気付いて、背凭れにだらしなく寄り掛かったままわずかに頭を下げれば、茶器を乗せた盆を持つ優秀な側近の穏やかな笑みと会った。

「紅茶よりはこっちの方がいいと思って」

 そう言ってテーブルに出されたのは、紅茶にしては薄い色味の茶。ハーブティーだ。

「奴らに、この程度でも気遣いを求めるのは無駄なのだろうな……」
「昼間の話?」

 身を起こしながらイーリスに軽く首肯して、キリアンはありがたくカップに口を付ける。そして、昼間、応接室にレナートとミリアムを残して向かった隊長執務室で、ヤーヴァル達から聞かされた新たな問題に顔を顰めた。
 ヤーヴァル達から報告されたのは、キスタスバ国内での不穏な動きについて。
 彼らの話によれば、その昔、殺戮を好むあまり傭騎兵として出た戦場で兵士のみならず武器を持たぬ老人から女子供まで、敵味方を問わず生きた人間を悉く虐殺し、帰った国内でもその者の行いを批判した同胞を部族ごと滅ぼして姿を消した、戦士キスタスの血を穢した大逆人とされた男が、十数年振りにキスタスバ国内で目撃されたと言うのだ。
 しかも、その男はキスタスバに数ある部族の内、騎馬戦士として力を振るい示すことこそが民族の誇りであると言って憚らない好戦的部族ラムジグや、その周辺の部族から複数名の戦士を引き抜いていった。その際、大逆人と気付いて男を殺そうとした者達をあっさり返り討ちにし、引き抜かれて行く者を引き留めようとした者達を容赦なく殺して。

 これだけであれば、キスタスバ国内の問題であって殊更エリューガル側が警戒する理由にはならない。だが、問題はその男がアレクシアと因縁を持つ人物であること、現在の男の潜伏先が恐らくエリューガルであること、更には、男に引き抜かれた者達が大なり小なりエリューガルに対する敵愾心を抱く者であることだ。
 神に対する信心のない、ただ闘争に飢えた猛き戦士達には、「黒竜殺し」は自分達の力を存分に振るえる絶好の名目と言うわけらしい。

「ジャラシャム・ラナン・パーシュラと言う男は、己が殺戮を存分に楽しむ為には狡猾に動く男での。今この時に奴が敢えて姿を現したのにも、必ず目的があるとわしらは見ておる」
「向こうだってそれなりに歳を取っている筈だけど、ラムジグの連中でさえ誰一人ジャラシャムに手傷を負わせられなかったそうなのよ。いまだにそれだけの強さを持っているとしたら、ヤーヴァルやヴィシュヴァが相手をしたとしても、ただでは済まないと思うの」

 こちらも警戒するが、そちらも十分に警戒するように。何かあれば逐一連絡をしよう――普段奔放な二人が、それぞれに真剣な顔をして告げた言葉が思い出される。
 それは、キリアン達にとって十分どころではなく警戒すべきことだった。
 ただ力があるだけの傭兵が集まるのであれば、こちらも相応の能力がある者を揃え、いつか来る襲撃に備えるだけで済む。だが、エイナー誘拐から俄かに動き始めた、二十五年前の事件に端を発する様々な事態がキリアン達を取り囲んでいる今、今回の件は、そんな単純なものでも無関係なものでもないと、はっきりキリアンに告げていた。
 そう。考えるまでもなく、ジャラシャムの背後にはこの件の首謀者が、ひいてはモルムがいる。キリアンは、半ば確信していた。

 これまで姿を隠していたジャラシャムが、今になってわざわざキスタスバ国内に姿を現したこと、これ見よがしに人を集めたこと、彼の力に衰えがないことを示したこと。今この時にそれらが立て続けに起こったと言うだけで、十二分に首謀者側の策の一つだと分かる。
 そして、それらとこれまでに起こったことを繋げて考えていけば、自ずと一つの仮説に辿り着く。
 キリアンは己の手の平を見つめ、それを殊更意識してゆっくりと開閉させた。
 閉じては開き、開いては閉じる。もう一度同じ動作を繰り返し、最後にぐっと拳を握ってから開き、手の平に付いた爪の跡が瞬く間に消えていくのを確かめる。
 今は、痺れも痛みも、己の意思で動かせないと言うこともなく、体を傷付けられないことも常と変わらない。

「……知っているか、イーリス」

 何の跡もなくなった手の平に視線を落としたまま声だけをかければ、イーリスが動きを止めてキリアンへ注意を向けた気配がした。
 そのまま、イーリスはじっとキリアンの次の言葉を待っている。それを確かめて、キリアンは顔を上げた。

「リリエラが言うには、俺の血は万能薬になるのだそうだ」

 一瞬だけ、室内の空気が張り詰める。だが、それはすぐにイーリスの平時と変わらない声によって弛緩した。

「初耳ね。ちなみに、それは『キリアン』の血? それとも、『クルードの愛し子』の血?」
「前者だ」

 キリアンがリリエラからこのことを聞かされたのは、自分の体が何をもってしても傷付かず、病に罹ることもなく、どんな毒もすぐに解毒してしまうのだとはっきり認識した頃だっただろうか。
 これほどに丈夫な体であるのは、キリアンの血にこそクルードの強い加護が宿っているからだとリリエラが言ったのだ。そして、キリアンの体をそれほどに頑丈たらしめる力を持った血は、当然のことながら相応の薬にもなるものだ、とも。

「それなら、向こうはあなたの血も狙っていると言うことなの?」
「聖域の民であるモルムはともかく、人間側は欲しがるのではないか? 『万能薬』だぞ?」

 東方諸国の聖水やリーテの雫など足元にも及ばない至高の秘薬、万能薬。
 その効果は、死者蘇生こそできないが、虫の息だろうと何だろうと、生きてさえいれば傷や病の完治は勿論、呪いの解呪も無条件でできてしまう。また、願えば若返ることもできるし、欠けた手足を元通りにすることも、キリアンと同じ体質の体を手に入れることも不可能ではないのだ。

「つまり、王位簒奪を行うと同時にあなたの血を飲み、同じ体を手に入れる。ついでに若返ってしまえば怖いものなしだと?」
「奴らの考えそうなことだろう?」

 嫌そうに顔を顰めるイーリスに、キリアンはこともなげに頷いた。
 二十五年と言う年月は、人間には長すぎる。
 王位簒奪など絶対に成功させてやるつもりはないが、もしも万が一その大願が成就したとして、奴らの老いた体では、それほど長く玉座には座り続けられない。
 そう言う焦りも奴らを動かしたのだろうし、恐らくモルムもそれを分かって、キリアンの血の万能性をちらつかせることで人間達を自分の都合よく動かしているのだろう。

「でも、どうやってあなたの血を得るつもりなのかしら? 体に傷を付けられないのに」

 首を傾げて、イーリスが当然の疑問を零す。
 キリアンがクルードの愛し子である以上に奴らにとって厄介この上ない存在であるのは、偏にその為だ。
 愛し子の死は、奴らにとって絶対条件。毒が効かない以上、キリアンの体を直接かつ物理的に攻撃する以外に殺す方法はない。だが、それが最も困難であることが、奴らに容易に行動を起こさせない原因ともなっている。
 それでも、実は全く方法がないわけではないのだ。

「イーリス、忘れたか? 俺の体は、傷を負わない」

 つまり、人間でなければ――例えば、聖域の民であれば。聖域の民の作った武器であれば。キリアンに傷を負わせることは可能なのだ。
 もっとも、そんなことをすればまず間違いなくクルードの怒りに触れる。キリアンを傷付けた者は、その怒りによって即座に殺されるだろう。如何な聖域の民であろうと、神の力の前には無力だ。その為、あのリリエラですら万能薬が目の前にあるのに手にできないと、地団駄を踏んで酷く悔しがっていた。
 本人に害意がなければクルードも怒らないのではとキリンは考えたのだが、それを聞いたリリエラは、わしを殺したいのかと物凄い剣幕でキリアンに怒鳴ってきたので、その様子から察するに、害意の有無は関係ないのだろう。

「待って。それじゃ、結局万能薬は手に入らないんじゃないの? 刺し違えてでもあなたを殺す、なんて気概をモルムが持っているとは思えないし、クルードだって、欲に塗れた人間が傷付いた愛し子の体に触れるのを許すとは思えないわよ?」

 キリアンの話を聞いたイーリスの反応は、至極最もなものだった。そして、キリアンも概ね同じ考えだ。
 モルムにそんな気概があれば、奴は二十五年も息を潜めてはいないし、キリアンだってとっくに命を狙われていておかしくない。
 それに、万能薬については人間の側が欲しがるだけで、長命な聖域の民であるモルムにとってはどうでもいいものだ。そんなものの為に、モルムが命の危険を犯すとは考えられない。
 そんな奴が、とうとう行動に出ている――それはつまり、自分達は死なず、キリアン達だけを殺せる算段を付けていると言うことだ。もしかすると、万能薬も手にできると考えてもいるのかもしれない。
 そして、キリアンはその算段に心当たりがあった。

「だから、モルムはミリアムを呪ったのだろうな」

 ミリアムの受けた呪い――悪意あるまじない――が具体的にどんなものかはまだ分からないが、呪いは、相手に直接的に肉体的精神的苦痛を与える類のもの、相手に強制的に呪者の望む行動を取らせる類のものに大別される。
 現在までにミリアムに特段の異変が見られないことも踏まえて考えれば、十中八九、彼女の受けたものは後者と言える。

「それって……」

 現実に主に命の危険が迫る可能性があることに対してか、年下の友人の名が出されたことに対してか。一瞬にして表情を引き締めたイーリスの真剣な声が、ひたとキリアンを見据えた。
 ようやく今になってそんな顔をする側近にどことなく納得できない思いを抱きながらも、キリアンは彼女に応えるべく口を開く。ただし、少しばかり真実を避けて。

「ミリアムは泉の乙女だろう」

 簡潔な回答に、イーリスの眉が更に寄る。だが、その表情は疑問故のものではなく、懸念を正確に理解したが故のものだ。
 泉の乙女――リーテの愛し子。
 いつかテレシアがキリアンに言ったように、キリアンと同じ愛し子であるならば、ミリアムは恐らくキリアンを傷付けられるし、キリアンと同じ理由で死を避けることもできると考えていい。
 そして、イーリス達には秘していることだが、特に後者に関しては、現時点ではミリアムが死ぬことはまずない。ミリアムが新たな命を確実に産み落とすまでは、女神リーテが彼女が死ぬことを絶対に許さないのだから。
 モルムもその点を知っているとすれば、そこを利用しない手はないと考えても何らおかしくない。むしろ、それこそを好機とさえ考えるだろう。
 無論、仮に愛し子殺しを成した場合、いくらミリアムを利用すると言っても、まじないを通じてミリアムと繋がりが生じている以上、モルムも無傷とはいかない。それでも、直接手を下すのがミリアムであるならば、降りかかるクルードの怒りの殆どはリーテが退け、モルムは重傷すら負わない公算が高い。

「ミリアムにあなたを殺させようだなんて……つくづくモルムは下劣な下種野郎ね」
「ただの憶測にすぎんがな」

 とは言え、キリアンはこの憶測が全く的外れとも思っていない。
 クルードの愛し子と泉の乙女と。その二人が同時代に生まれることは、極めて稀だ。泉の乙女が二代にわたって生まれることもまた、奇跡に近い。
 となれば、クルードを憎んでいるらしいモルムにとっては、その血族を滅する千載一遇の好機。キリアン達にとっても同じことで、二十五年前の真の首謀者であるモルムを今度こそ殺してしまえる機会は、これを逃せば二度と訪れないかもしれない。
 だからこそ、イェルドもモルムも互いに幾重にも策を巡らせ、用意周到にその時を迎える準備を進めているのだ。その中で、どちらにとっても鍵となる存在のミリアムには、自分達の都合よく動いてもらう為に様々な事情を伏せたままで。

「俺も、もう少し鍛えておくべきか……」
「剣を? それとも逃げ足を?」
「おい」

 キリアンの真剣な呟きに、イーリスからは茶化すような問いが投げられ、反射的に眉が跳ね上がる。だが、そうして見た先のイーリスの表情は真面目なもので。

「ジャラシャムと真っ向からぶつかってあなたがモルム達の手に落ちるくらいなら、逃げてくれた方がよほどましよ、キリアン」

 確かに、仮にジャラシャムに襲撃されでもしたら、残念なことに剣の腕がレナートに及ばないキリアンでは、太刀打ちできるとは思えない。何とか足掻いたとしても時間稼ぎが精々、最終的には意識を刈り取られるのが落ちだろう。そうなれば、あとはミリアムにかけたまじないで彼女を操ってしまえば奴らの勝ちだ。イーリスの言いたいことも分からないではない。
 ただ、一つ。仮にそんな状況に陥ったとしても、モルムの策を狂わせられる可能性があるとすれば……それは、ミリアムがリーテより授かった力の存在だろうか。
 夕刻、宴の前にミリアムから受けた相談のことを思って、キリアンは目を眇めた。
 礼拝堂で聞いたと言う痛みを訴える声に、シシシュに対して無意識ながら行使してしまった強制力。そして、そのシシシュからの助言。
 ミリアムは、少しずつではあるが確実に、授かった力を使えるようになってきている。また、自らその力に向き合おうともしている。ならば、まだ今は芽生え始めたばかりのその力をより自在に行使できるようミリアム自身が鍛錬したならば、新たな力も発現し、モルムのまじないに抗うこともできるだろう。

 ミリアムに聞こえた声に関しての懸念は残るが、残念ながら、そちらはキリアン一人では何とも判断できず、今は保留しておく他ない。
 キリアンは今一度己の手に視線を落とし、まだ微かに覚えている感触を優しく包み込んだ。
 キリアン自身が幼い頃リリエラにしてもらったように、己の内にある力を感じ取る為に互いに向かい合い、取ったミリアムの手。騎士であるイーリスとも、侍女として日々働くテレシアともまた違う小さな少女の繊手は、そんなことはないと分かってはいても、加減を間違えれば簡単に折れてしまうのではないかと思うほどに頼りなかった。
 そんな相手に、泉の乙女だからと、エステルの娘だからと、何も知らせぬまま我々のいいように使われてくれとは、やはり非道に過ぎる。

「どうしたものか……」

 悩みが尽きないことに息を吐けば、お前は甘いなとイェルドの呆れた笑い声が聞こえるようで、キリアンは気を紛らわそうと、手元からもイーリスからも視線を逸らした。
 そして、そこに見えた時計の針の差す時刻に、これまでとは全く別の意味で眉を寄せる。

「なあ、イーリス。あの二人……随分戻りが遅くはないか?」

 宴が始まって一時間も経たない内に、場を辞した主役の二人。砦の中では落ち着けないとフィンに乗って砦の外へ出掛けて行ったらしいが、静かな場所でゆっくりと食事をするだけにしては、時計が示す時刻はそれからかなりの時間が経過している。
 ジャラシャムがこの近辺に潜伏している可能性が低いことはヤーヴァル達の報告から明らかであり、レナートがいるのであれば身の危険と言う点では何の心配もしていないが、それにしては遅過ぎる気がする。

「ミリアムに森を見せたそうにしていたし、満足するまで見ているだけじゃない? 早く帰って来ても、逆に中途半端に酒の入った連中に絡まれて面倒なことになるのは分かっているだろうし」 
「それはそうだが……万が一、と言うことはないか……?」

 通常、婚前の祝宴で出される主役への料理には、二人がより仲を深める為に、夜を長く共に過ごす為に、所謂そう言う作用を引き起こす食材が使用されるものだと聞いている。
 ミリアムは未成年であり、キスタスバで婚姻が認められる十七にも達していない為、まさかいくら何でも料理にそんな食材を使っていないとは思うが、この砦にいるのは祝いごとは全力で楽しむ質の者ばかり。悪戯心が働かないとも限らない。

「ちょっと。やめてくれない、キリアン? 私まで心配になってくるじゃない」
「……洒落にならないことになっていたら、どうしたらいいと思う?」
「だから、やめてったら。私達だって、それなりに毒への耐性を付ける訓練はしているのよ? そう言うのも毒の一種みたいなものでしょう? 第一、使われているとは限らないじゃないの」
「だがな、イーリス。あのアディーシャ達だぞ? 信用できるか?」

 レナートの民族衣装姿を率先して弄り倒していたアディーシャの面白がりようは、まだ記憶に新しい。一緒に揶揄っていたイーリスもその時のことを思い出したのか、たちまち顔色が変わった。
 キリアンとイーリスは沈黙したまま視線だけを交わし合い、妙な緊張が室内を流れる。
 そのまま時が過ぎること、少し。
 静まり返った室内に、不意に廊下を歩む聞き慣れた足音が近付く音が届き、キリアンとイーリスは弾かれたように部屋から飛び出した。

「レナート!」
「ミリアム!」

 ばん、と勢いよく開いた扉に廊下を進んでいた足がぴたりと止まり、キリアンの目が、予想した通りの人物の驚きに目を丸くした姿を捉える。

「キ、キリアン様……に、イーリスさん……? どうかされたんですか?」
「何か、あったのか?」

 仲よく手を繋いだ状態で尋ねる二人の様子は、一見、宴の前と変わりはないようだった。
 ただし、ミリアムの頬がわずかに上気していることと、レナートの髪が濡れて掻き上げられていることを除けば、だが。

「レナート。あなた、どうして髪が濡れているの?」
「……あ、ああ。これは、その……」
「レナートさんが少しお酒に酔ってしまわれたんですっ。それで、酔いを冷ます為に顔を洗おうとしたら、誤って川に……ですね!」

 視線を泳がせて口籠ると言う珍しいレナートに代わって、どこか焦った様子でミリアムが説明をする。その様子は、両者共に明らかにおかしかった。
 そもそも、レナートが酒に酔うこと自体、あり得ないことだ。この男の酒の強さは、キリアンもイーリスもよく知っている。そのレナートが。

「……なるほど、酒か」
「酒ね」
「いや、待て! 違うからな!?」

 キリアン達が端的な言葉で理解を示せば、レナートがたちまち何もなかったと慌てる。そんなレナートを横目に、キリアンはイーリスに目配せすると軽く頷き合い、それぞれレナートとミリアムへと向かい合った。

「……そう。それは大変だったわね。それじゃ、レナートのことはキリアンに任せて、ミリアムは私と一緒に部屋で休みましょう」
「そうだな。レナートも、この時期は寒くないとは言え、髪が濡れたままではよくない。さっさと乾かしてしっかり酔いを醒ませ。特別に、俺が茶くらいは淹れてやろう」

 イーリスはミリアムの背を押して二人に宛がわれた部屋へ促し、キリアンはレナートの腕を掴んで、今しがた出てきた部屋へと押し込む。
 その際、ミリアムとレナートの間でどうにもぎこちない就寝の挨拶が交わされるのを聞き、誰かの余計な悪戯心によって二人の間に全く何も起きなかったわけではないらしいことを、キリアンは確信した。元より、レナートの慌て振りは自ら墓穴を掘ってはいたが。
 一体、何があったのか。部屋に入った途端に頭を抱えるレナートの姿からは、「振り」が「本当」になった様子は見られないにしても、こちらは真剣に今後のことに頭を悩ませていたと言うのに、実に呑気なことである。
 まったく、これだからキスタス人は。
 一瞬脳裏を過ったアディーシャの奔放な笑みに呆れながらも、どこか張り詰めていた心が解れるのを感じて、キリアンは苦笑と共にひっそりとため息を零したのだった。
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