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第五章 絡み合う思惑の果て
誤解の連鎖のその結果
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砦で一泊した翌日の午後、私は砦の女性達に誘われて、厨房の一角で菓子作りに勤しんでいた。
それと言うのも、砦へ来てたった半日の交流で、彼女達に私の甘いもの好きがすっかり知られてしまったからだ。そこで、せっかくならキスタスバでよく食される菓子を一緒に作り、ついでに、その菓子で午後にやって来るキリアン達をもてなそうと言う話が出たのだ。
まるで秘密を明かすように、レナートの好きな珈琲にも合うものだと耳打ちまでされては、私に菓子作りを断る選択肢などある筈もなく。私が目を輝かせてはっきり「作りたい」と伝えれば、私を菓子作りに誘った面々は手を叩き合わせて喜んだ。
ちなみに、初めは一緒に作る気でいたイーリスは、キリアン達がやって来てしまえば自由時間がなくなってしまうだろうと言うことで、手合わせに連れ出されてしまった。
しつこい誘いに折れたように見せかけて、その実満更でもない様子で厨房を出て行くイーリスを笑って見送り、残った私は菓子作りを趣味にする一人から、作り方を教わりながら手を動かし始める。
そうして、お喋りも忘れることなく楽しく作業を始めて、すっかり熱中することしばらく。
「ミリアムさーん! キリアン殿下達が到着されましたよ!」
窯に入れた菓子の焼き上がりを待っていた私達の元へ、タァニが声を弾ませてやって来た。
今日のタァニは、ヤーヴァルが朝から大人しく砦で過ごしてくれているからかすこぶる機嫌がよく、その顔に疲労の色も見えない。そんなタァニの満面の笑みでの知らせに、私は思わず胸を弾ませて椅子から立ち上がっていた。
「まあ! もう、いらっしゃったんですか!」
「レナート殿を出迎えに行きましょう、ミリアムさん」
タァニの一言に浮かれた気持ちのまま足を踏み出そうとして、私ははっと動きを止める。そして、一緒に菓子の焼き上がりを待っていた女性達を振り返った。
厨房に漂う食欲を刺激する匂いはもうじき焼き上がることを告げてはいるけれど、菓子を窯から取り出すにはまだ早い。せっかくここまで一緒に作ってきて、最後の最後で放り出すと言うのは無責任だろう。
けれど、テーブルを囲んで座っていた彼女達は、全員が私に対して笑顔だった。
「行っといで。焼き上がったらすぐに持って行ってやるから」
そんな一言と共に、菓子のことは気にせず早く行きなと手まで振られては、私としても彼女達の好意を素直に受け取るしかない。私は礼を言い、タァニと共に厨房をあとにした。
玄関を目指して廊下を進み、その途中、鏡に映った自分の姿を目にして、私はふと足を止める。
今日の私の服は、リーテの愛し子の礼服でも、川に落ちたあとに借りたものでもない。赤い生地に金や緑、橙に青……様々な色糸で刺繍が施された、キスタス人の民族衣装だ。
裾の長い羽織物を帯で留め、騎馬民族らしくいつでも乗馬できるよう、女性でも男性同様にズボンを履く、活動的ながら優美さも兼ね備えた服である。
当然この服も借り物だけれど、私の意思で着たものではない。今日は絶対にこれを着ろと、礼服の時同様に有無を言わさず手渡され、着せられたのだ。明らかに何かを企んでいると分かる強引さに正直気は進まなかったけれど、着てみると見た目以上に素敵な服で、軽くて動き易い点もすっかり気に入ってしまった。
改めて、そんな民族衣装に身を包む自分の姿を鏡で見つめ、私は菓子作りに熱中するあまりに乱れてしまった髪や服をさっと整えた。そして、レナートがこの格好の私を見たらどう思うだろうかと、そんなことを考えてしまう。
考えてしまってから、私は慌てて内心で首を振った。
別に、レナートが気に入ってくれることを期待しているわけではないのだ。その為にこの服を着ているわけでもない。それに、私が何を着ても、いつだってレナートは似合っていると褒めてくれる。だから、今回だって特別何を思うことなく似合っていると言うことは、既に分かっているのだ。そんなレナートの反応なんて、考えるだけ無駄と言うもの。
それなのに、どうして今日はこんなにもレナートの反応を気にしてしまうのか。
鏡の中の自分の顔がほんのり赤くなっているのを見て、私はすいと視線を逸らした。そして、どうして私がこんなことでいちいち慌てなければならないのかと、恥ずかしさを憤りへと変換させる。
それもこれも、原因は砦滞在中に様々に交わした会話の所為だ。そうに決まっている。
これまでの女性達との会話でも昨夜の晩餐の席でも、誰も彼もが何故かやたらと私にレナートの話を聞きたがったのだ。
ただ、そのこと自体は、アレクシアを尊敬する彼らが同じくらいレナートのことも認めているからだと思えば、私にとって答えることは一つも苦ではなかった。むしろ、誇らしく感じたくらいだ。
問題だったのは、そうして私が質問に答える度に、彼らから返ってきた反応の方で。
私の話に聞き入っては何度も頷き、生暖かな笑顔を浮かべ、よっぽど好きなんだねぇだの、大切にされているなぁだの、二人が羨ましいだの妬けるだの、どこかずれた言葉ばかりを返してきたのだ。
慌てた私がそんなことはないと否定してみても、照れちゃって可愛いなどと、これまたおかしな受け取り方をされる始末。
挙げ句、困った私が助けを求めたイーリスからも、一体何を思ったか、護衛の顔で話を合わせておいた方がいいと耳打ちされてしまったものだから、私はすっかり否定の言葉を言えなくなって、おかしな認識が次々と積み重ねられてしまった。
そんなことがこの半日ずっと続けられてしまえば、どうしたって意識の端にレナートのことが引っかかると言うものだろう。お陰で、普段ならば流してしまうようなことにも過剰に反応してしまい、常にレナートのことを気にしてしまっている。
まったく、どうしてイーリスは私にはっきり否定させてくれなかったのか。それさえさせてくれていたなら、こんな面倒なことにはなっていないのに。
「よくお似合いですよ、ミリアムさん。この姿を見せたら、レナート殿もきっと喜びます!」
「レナートさんはお優しいですからね」
喜ぶかどうかは別にして、褒めてくれることは間違いない。善意しかないタァニの純粋な笑顔に遠慮がちに微笑んで、私は再び玄関へと向かった。
そして、開かれたままの玄関扉の向こうへと出た私の目に飛び込んできたのは、玄関から少し歩いた先、広場の中央でレナート達の到着を歓迎する兵士の人だかりと、その中心になっているレナートと――彼の腕にしなやかに腕を絡ませ密着する、若い女性の姿だった。
それを目にした瞬間、落ち着かなかった気分が嘘のように凪ぎ、私の足が勝手に止まる。
兵士達と笑顔で言葉を交わす女性は、時にレナートの腕を引き、時にレナートの頭を撫で、時には耳元に顔を寄せて何事かを囁いていた。その様子は、誰がどう見ても疑いようのないほど二人が親密であることを示していて、セルマの言葉が私の胸にすっと落ちる。同時に、王都ではレナートに女性の影がなかったことも納得した。
今一度二人の様子をどこか遠い感覚で眺めて、私は小さく息を吐く。
二人はまだ、私の存在に気付いてはいない。ならば、二人の邪魔をする前に私はここからいなくなろう。最初から、私はここに出迎えになんてやって来なかった。そう言うことにしておこう。
「あれ? ミリアムさん? 行かないんですか?」
足を止めた私を、数歩先のタァニが不思議そうに振り返る。それに笑って頷けば、タァニはぎょっと目を見開いて驚いた。
「なんだか、思った以上に多くの方に出迎えられていらっしゃるので……あの中に入っていくのは、ちょっと」
「いやいや、大丈夫ですよ! ミリアムさんが行けば、皆、道を開けてくれますから!」
タァニの優しい言葉にも、私は首を横に振る。
「レナートさんがここへいらっしゃるのは、久し振りなんですよね? きっと、積もる話もあるでしょうから……」
「そんなこと気にしなくていいんですよ? どうせ今夜も宴会ですし、話ならそこでだってできますから。それに、ミリアムさんだってせっかくここまで迎えに出て来たじゃないですか。レナート殿だって――」
どうしても私をレナートの元へ行かせたいらしいタァニは、私を引き留めようと言葉を紡ぐ。けれど、その途中でとうとう彼もレナートの隣にいる彼女の存在に気付いたようで、言葉が途切れたその顔は、一瞬にして愕然としたものに変化した。
そのままほんのわずか沈黙をして、それから何故か、タァニは一気に顔を青褪めさせる。
「あ……ああ、あのですねミリアムさん! 違いますよ? 違いますからねっ? あの女性は――」
「タァニさん。私、キリアン様にお伝えすることがあるんです。ですから、先にキリアン様のところへ案内してください」
タァニに皆まで言わせず、私はその手を掴んでくるりとレナート達に背を向けた。
このままここに居続ければ、いつレナート達に気付かれてしまうかしれない。それは私の望むところではないし、何より、私の心がこれ以上この場にいることを望まなかったのだ。
「えぇっ! ちょっ、ミリアムさん待って! いや、あの、待ってください! 俺の話を聞いてください!」
手を引いて、来た道を戻る私にタァニが必死に声を掛けてくるけれど、私はそれを笑顔で黙殺した。ついでに、そんなに大きな声を上げるとレナートに気付かれてしまうではないかとの抗議の意味も込めて、握る手の力を強める。
「タァニさん、キリアン様はどちらにいらっしゃいますか?」
あの人だかりの中に、キリアンの姿はなかった。恐らく、大いに歓迎されているのはレナートだけなのだろう。いや、あの女性も込みで、と言うべきか。
ともかく、二人に関係のないキリアンは既に中へ案内されていると見ていい。
そう見当をつけて尋ねれば、タァニは弱り切った顔に情けない声で、一言「応接室に」と答えてくれた。
「では、そちらに行きましょう」
すっかり足が重くなってしまったタァニを笑顔と共に手を引いて歩かせながら、私は今しがた出て来た扉を再び中へと入る。廊下への角を曲がる際、タァニがなおもレナート達を気にするように玄関を振り返ったけれど、私はそれを完全に無視した。
人目も憚らずに密着していることも、女性が豊満な胸をレナートに押し付けているようだったことも、それをレナートが何の反応も見せず当然のように受け入れていたことも、どれもこれもが私の憧れる騎士様の姿とは程遠いものだったけれど、レナートは物語の人物ではなく、実在する人間なのだ。理想通りになると思う方がどうかしている。
正直に言えば、レナートの好みがあのような女性であったことには、少なからず衝撃を受けたけれど。貞淑さに欠ける女性が、王太子の騎士の相手に相応しいとも思えなかったけれど。
とは言え、ここはエリューガルであって、私の生まれ育ったアルグライスではない。私が相応しくないと考えてしまうのは、恐らくアルグライスの考え方なのだろう。
ならば、私にできるのはただレナート達を祝福することだけ。第一、ただ保護されて屋敷で世話になっているだけの赤の他人の私には、そもそも口を出す権利などどこにもない。
何とも形容し難いもやもやとした気持ちの悪さが胸の中に蟠っているのも、決してレナートに対して思うところがあるのではなく、周囲の言葉にすっかり惑わされてしまった自分自身の愚かさに対する怒りだ。
皆が執拗にレナートの話を聞きたがったのは、単に英雄の息子の近況を知りたかったから。私を大切にしているだの何だのも、彼らの英雄が、息子と共に子供を保護していることを褒め称えていただけ。私を民族衣装で着飾らせたのだって、きっとレナートに対する労いで、彼へ感謝を示せと私に遠回しに伝えていたのに違いない。イーリスの助言にしても、下手なことを言って英雄を貶めたと思われない為のものと考えれば理解できる。
それなのに、私は何を勝手に気にして浮かれていたのだろう。我ながら、滑稽にもほどがある。せめてもの救いは、全ての言葉に遠慮がちに対応して、控えめな反応しか示してこなかったことだろうか。
馬鹿で愚かな自分を叱咤し、気持ちを切り替える為に深呼吸をして、私は到着した応接室の扉を叩いた。
入室すれば、そこには既にキリアンとヤーヴァル、それにイーリスが揃っており、三人はタァニと共にやって来た私を目にして意外そうな顔をした。
その反応は、まるで私はレナートと共に来ると思っていたと言わんばかりで、私の方こそ驚いてしまう。ずっと砦にいたヤーヴァルは知らないにしても、キリアンはレナートと共に行動していたのだから、女性の存在を知っていてもいいだろうに。
まさかとは思うけれど、三人は私が恋人達の久々の逢瀬を邪魔するような無粋な真似を、何の躊躇いもなくやってしまえる人間だとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、実に心外だ。
「ミリアム……? レナートと一緒ではないのか?」
それなのに、三人を代表してのキリアンからの問いは私の考えを肯定するもので。
タァニが再び顔色を悪くさせるのを横目に、私は苛立ちを隠してにこりと微笑み、タァニに言ったのと同じ理由を口にした。
「既に多くの方の出迎えを受けていらっしゃったので、私は遠慮させていただいたんです」
「遠慮? いや、だが……」
キリアンが何かを言いたげにタァニへと視線を移せば、タァニは弾かれたようにキリアンに迫り、今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「誤解なんです、キリアン殿下!」
「待て。何の話だ?」
「全部、うちの副官の所為なんです!」
誤解だの副官だの、タァニは一体何を言っているのだろう。
私には何のことだかさっぱりのタァニの言葉は、けれどキリアンには通じるものだったらしい。怪訝そうだった彼の切れ長の瞳に瞬時に理解の光が灯り、かと思えばたちまち眉間に皺を寄せ、頭痛を堪えるような顔になる。
それは、王城で今回の要請の話をした時に見せたものとよく似て、私は更に困惑した。何故なら、そんなにもキリアンを困らせる何かに、私は全く心当たりがなかったからだ。
それでも、話が通じているらしい二人は言葉を交わし続ける。
「……まったく。アディーシャは余計なことしかしないな。油断も隙もない」
「申し訳ありません、キリアン殿下! 揃いも揃って、うちの馬鹿共が……本当に申し訳ありません! この詫びは必ずさせますのでっ!」
「謝罪より先に、状況の詳細を聞きたいのだが」
平謝りするタァニに向かって、キリアンから容赦ない言葉とため息が放たれる。そんなやり取りを聞いても相変わらず私には理解できず、ますます疑問ばかりが積み重なった。
けれど、疑問を増やしていたのはどうやら私だけらしい。
キリアンの後ろに立つイーリスも、一人で三人掛けのソファを占領するヤーヴァルも、その顔には疑問の欠片も浮かんでいなかったのだ。
私一人だけが取り残されている状況に、たちまち居心地の悪さが私の心を占める。
ただ、そんな私にも、唯一理解できたことはあった。それは、キリアンが口にした女性の名だ。話の流れから考えれば、その名が指すのはレナートの隣にいた女性に違いない。
縮れた葡萄色の髪に、澄んだ卵色の大きな瞳。キスタス人特有の肌の色に、鍛えて引き締まっていながらも、女性らしい曲線をも描く体躯の持ち主。満面の笑顔がとても可愛らしく、奔放そうな態度も併せて、その名がとても似合うと感じた女性。
アディーシャ。
なるほど、それがレナートが選んだ相手の名か。
そう私が納得した、まさにその時。
「わしの妻がどうかしたのか、タァニ?」
「――え?」
のんびりした調子で室内に落ちたヤーヴァルの一言に、私は耳を疑った。息すら止まるかと思うほどに驚いて、絶句する。
(……つ、ま……?)
つま、とは。
私の頭が言葉の意味を理解することを拒んでいるのか、「つま」と言う音だけが意味をなさずにぐるぐる私の脳内を駆け巡る。
更にそこに大きな音を立てて応接室の扉が開き、その音に一瞬思考が停止した。そして、入ってきた人物とはっきり目が合ってしまう。
「……ぁ」
葡萄色の髪、卵色の瞳。つい今しがたこの場で話題に上っていた女性が、私の目の前にいる。
そう認識した瞬間、私の中に玄関先で感じた不快感がよみがえり、数々の疑問も「つま」の衝撃も新たな人物の登場への驚きも忘れて、私は固く口を引き結んだ。
「ああ、よかった! ほらほら、レナート君! 娘ちゃん、キリアン殿下と一緒にいたわよ! 残念ながら、タァニも一緒にいるけど」
「残念って何ですか、アディーシャ! いきなり入って来て第一声がそれは、酷くないです!?」
無遠慮に部屋の中に入って来たかと思ったら、見た目に違わぬ明るい声と共に、アディーシャのすらりと伸びた綺麗な腕が、見慣れた騎士服に包まれた腕を引く。当然ながら、扉の向こうから現れたのはレナートだ。
けれど、今の私はその顔を見ても、喜びと言った感情は一切湧いては来なかった。むしろ、自分でも驚くほどに機嫌が降下し、その顔を見たくもなかった。レナートの方も、疲れてでもいるのか表情は暗く口を開く気配もなく、アディーシャにされるがままだ。
いつもの私であれば、そんなレナートの様子を見れば心配してすぐさま声を掛けただろう。けれど、今は不思議なほどそんなことをする気も湧かない。何なら、アディーシャに労わってもらえばいいとすら思ってしまっていた。
と、そのアディーシャが、何故かレナートの腕を引いてこちらへとやって来る。
一体、何をするつもりなのか。はたまた何を言うつもりなのか。
「ほぅら、元気を出してレナート君! ひとまず、娘ちゃんの隣に座りなさい!」
身構える私の前で、そんな言葉と共にアディーシャが、よりにもよってレナートを私の隣に座らせる。何故と疑問に思うより先に私は沈むソファに身を固くして、レナートから視線を逸らし、意識も逸らしてしまうべく、頭上で交わされる新たな会話に耳を澄ませた。
そして私は、更なる衝撃を受けることになる。
「それで、タァニはキリアン殿下にレナート君との決闘のお話でもしてた?」
「はぁっ!? 何でそんな話になるんです!? するわけないでしょう!」
「おお? 何じゃ、タァニ。おぬし、決闘をするのか?」
「しないって言ってんでしょうが! 人の話聞けよ!? 本当に、夫婦揃ってろくなこと言わないな、あんたらは!!」
キリアンの前にも拘らずとうとう切れてしまったタァニの叫びが室内に響き渡り、私の耳に、たった一つの単語だけをこびり付かせた。
「…………ふう、ふ……?」
乾いて罅割れた声が、私の口から勝手に零れる。その私の呟きが聞こえていたのか、ヤーヴァルがそうであったと手を叩き、満面の笑みでアディーシャを手招いた。
「ミリアムさんにはまだ紹介しておらんかったな! わしの最愛の妻で自慢の伴侶、アディーシャだ!」
つま――妻。
聞き間違いかと思った言葉は、どうやら聞き間違いではなかったらしい。一度ならず二度までもヤーヴァルの口から出た言葉のあまりの衝撃に、私の視界がふらりと揺れた。
ではまさか、レナートは人妻相手に道ならぬ恋をしているのか。いや、人前であれだけ堂々としていたのならば、キスタス人は一妻多夫が許されているのかもしれない。けれど、エリューガル国内ではどうだろう。許されないことなのだとしたら、レナートは……いや、そんなことより、アディーシャとヤーヴァルでは歳の差がありすぎやしないだろうか。もしや、アディーシャはヤーヴァルの後妻? レナートは後妻に懸想を? それとも既に愛人に? 年老いた男に無理矢理嫁がされた若い後妻が青年騎士に思いを募らせる、なんて物語ならば読んだ記憶はあるけれど、では目の前の状況は、一体どう説明付けたらいいのだろう?
ヤーヴァルは嬉々としてアディーシャを抱き抱え、アディーシャも愛おしそうにヤーヴァルに腕を回して、二人が思い合っていることは明らかだ。レナートの入る隙などないくらいに、はっきり相思相愛だ。
では何故、アディーシャとレナートはあんなに親密そうだったのだろう。
「はぁい、アディーシャよ。よろしくねぇ、ミリアムちゃん。ヴィシュヴァの手紙にあったけど、その髪色、本当に彼女にそっくりで驚いちゃった。ふふ、可愛らしいお嬢ちゃんでよかったわ」
「……は、ぁ……え?」
無邪気な笑顔を向けて挨拶するアディーシャに対して、衝撃と混乱が頭の中で渦を巻きっ放しの私は、間の抜けた声しか出せない。
けれど、アディーシャは私の薄い反応を気にした様子もなく、それ以上私に話しかけることもなく、その顔はヤーヴァルへと向いてしまった。
「ところで、ヴァヤン? 私、あなたにとっても大事な話があるの。ここじゃなんだし、場所を移しましょ?」
「おお、大事な話か! だが、その前に帰還の挨拶がまだではないか、アシャアよ!」
「あらぁ、そうだったわね」
言うが早いか、ヤーヴァルとアディーシャ、二人の顔の距離があっと言う間に縮まっていく。
距離がなくなる直前に私の視界は何かに遮られて何も見えなくなってしまったけれど、二人が何を行ったのかは、経験のない私にだって流石に分かる。
私が玄関前で見た光景と、この部屋での出来事と、今目の前で繰り広げられている二人のやり取りと。何が嘘で本当か、最早、何が何だか分からない。
混乱が混乱を呼び全く状況を整理できず、私は視界を遮られたまま、ただただ茫然とした。いっそこのまま気を失えたならどんなにいいだろうと思っても、残念ながら、気が遠くなる気配は微塵もない。
そうする内に、タァニがヤーヴァル達を叱る声、キリアンが呆れてぼやく声、それをイーリスが宥める声が立て続けに聞こえ、再びタァニの謝罪があってソファが軋み、巨体が立ち上がる音がそれに続いた。
「それじゃあ、あとはよろしくねぇ!」
最後にアディーシャの呑気な声が放たれキスタス人三人が出て行き扉が閉まると、ようやく室内に静けさが戻ってくる。
同時に私の視界も開けたけれど、何故かレナートの腕の中にいることに気付いた私は、反射的に勢いよく両腕を突っ張っていた。
それがレナートにどれほどの衝撃を与えることになるのか、全く考えもせずに――
それと言うのも、砦へ来てたった半日の交流で、彼女達に私の甘いもの好きがすっかり知られてしまったからだ。そこで、せっかくならキスタスバでよく食される菓子を一緒に作り、ついでに、その菓子で午後にやって来るキリアン達をもてなそうと言う話が出たのだ。
まるで秘密を明かすように、レナートの好きな珈琲にも合うものだと耳打ちまでされては、私に菓子作りを断る選択肢などある筈もなく。私が目を輝かせてはっきり「作りたい」と伝えれば、私を菓子作りに誘った面々は手を叩き合わせて喜んだ。
ちなみに、初めは一緒に作る気でいたイーリスは、キリアン達がやって来てしまえば自由時間がなくなってしまうだろうと言うことで、手合わせに連れ出されてしまった。
しつこい誘いに折れたように見せかけて、その実満更でもない様子で厨房を出て行くイーリスを笑って見送り、残った私は菓子作りを趣味にする一人から、作り方を教わりながら手を動かし始める。
そうして、お喋りも忘れることなく楽しく作業を始めて、すっかり熱中することしばらく。
「ミリアムさーん! キリアン殿下達が到着されましたよ!」
窯に入れた菓子の焼き上がりを待っていた私達の元へ、タァニが声を弾ませてやって来た。
今日のタァニは、ヤーヴァルが朝から大人しく砦で過ごしてくれているからかすこぶる機嫌がよく、その顔に疲労の色も見えない。そんなタァニの満面の笑みでの知らせに、私は思わず胸を弾ませて椅子から立ち上がっていた。
「まあ! もう、いらっしゃったんですか!」
「レナート殿を出迎えに行きましょう、ミリアムさん」
タァニの一言に浮かれた気持ちのまま足を踏み出そうとして、私ははっと動きを止める。そして、一緒に菓子の焼き上がりを待っていた女性達を振り返った。
厨房に漂う食欲を刺激する匂いはもうじき焼き上がることを告げてはいるけれど、菓子を窯から取り出すにはまだ早い。せっかくここまで一緒に作ってきて、最後の最後で放り出すと言うのは無責任だろう。
けれど、テーブルを囲んで座っていた彼女達は、全員が私に対して笑顔だった。
「行っといで。焼き上がったらすぐに持って行ってやるから」
そんな一言と共に、菓子のことは気にせず早く行きなと手まで振られては、私としても彼女達の好意を素直に受け取るしかない。私は礼を言い、タァニと共に厨房をあとにした。
玄関を目指して廊下を進み、その途中、鏡に映った自分の姿を目にして、私はふと足を止める。
今日の私の服は、リーテの愛し子の礼服でも、川に落ちたあとに借りたものでもない。赤い生地に金や緑、橙に青……様々な色糸で刺繍が施された、キスタス人の民族衣装だ。
裾の長い羽織物を帯で留め、騎馬民族らしくいつでも乗馬できるよう、女性でも男性同様にズボンを履く、活動的ながら優美さも兼ね備えた服である。
当然この服も借り物だけれど、私の意思で着たものではない。今日は絶対にこれを着ろと、礼服の時同様に有無を言わさず手渡され、着せられたのだ。明らかに何かを企んでいると分かる強引さに正直気は進まなかったけれど、着てみると見た目以上に素敵な服で、軽くて動き易い点もすっかり気に入ってしまった。
改めて、そんな民族衣装に身を包む自分の姿を鏡で見つめ、私は菓子作りに熱中するあまりに乱れてしまった髪や服をさっと整えた。そして、レナートがこの格好の私を見たらどう思うだろうかと、そんなことを考えてしまう。
考えてしまってから、私は慌てて内心で首を振った。
別に、レナートが気に入ってくれることを期待しているわけではないのだ。その為にこの服を着ているわけでもない。それに、私が何を着ても、いつだってレナートは似合っていると褒めてくれる。だから、今回だって特別何を思うことなく似合っていると言うことは、既に分かっているのだ。そんなレナートの反応なんて、考えるだけ無駄と言うもの。
それなのに、どうして今日はこんなにもレナートの反応を気にしてしまうのか。
鏡の中の自分の顔がほんのり赤くなっているのを見て、私はすいと視線を逸らした。そして、どうして私がこんなことでいちいち慌てなければならないのかと、恥ずかしさを憤りへと変換させる。
それもこれも、原因は砦滞在中に様々に交わした会話の所為だ。そうに決まっている。
これまでの女性達との会話でも昨夜の晩餐の席でも、誰も彼もが何故かやたらと私にレナートの話を聞きたがったのだ。
ただ、そのこと自体は、アレクシアを尊敬する彼らが同じくらいレナートのことも認めているからだと思えば、私にとって答えることは一つも苦ではなかった。むしろ、誇らしく感じたくらいだ。
問題だったのは、そうして私が質問に答える度に、彼らから返ってきた反応の方で。
私の話に聞き入っては何度も頷き、生暖かな笑顔を浮かべ、よっぽど好きなんだねぇだの、大切にされているなぁだの、二人が羨ましいだの妬けるだの、どこかずれた言葉ばかりを返してきたのだ。
慌てた私がそんなことはないと否定してみても、照れちゃって可愛いなどと、これまたおかしな受け取り方をされる始末。
挙げ句、困った私が助けを求めたイーリスからも、一体何を思ったか、護衛の顔で話を合わせておいた方がいいと耳打ちされてしまったものだから、私はすっかり否定の言葉を言えなくなって、おかしな認識が次々と積み重ねられてしまった。
そんなことがこの半日ずっと続けられてしまえば、どうしたって意識の端にレナートのことが引っかかると言うものだろう。お陰で、普段ならば流してしまうようなことにも過剰に反応してしまい、常にレナートのことを気にしてしまっている。
まったく、どうしてイーリスは私にはっきり否定させてくれなかったのか。それさえさせてくれていたなら、こんな面倒なことにはなっていないのに。
「よくお似合いですよ、ミリアムさん。この姿を見せたら、レナート殿もきっと喜びます!」
「レナートさんはお優しいですからね」
喜ぶかどうかは別にして、褒めてくれることは間違いない。善意しかないタァニの純粋な笑顔に遠慮がちに微笑んで、私は再び玄関へと向かった。
そして、開かれたままの玄関扉の向こうへと出た私の目に飛び込んできたのは、玄関から少し歩いた先、広場の中央でレナート達の到着を歓迎する兵士の人だかりと、その中心になっているレナートと――彼の腕にしなやかに腕を絡ませ密着する、若い女性の姿だった。
それを目にした瞬間、落ち着かなかった気分が嘘のように凪ぎ、私の足が勝手に止まる。
兵士達と笑顔で言葉を交わす女性は、時にレナートの腕を引き、時にレナートの頭を撫で、時には耳元に顔を寄せて何事かを囁いていた。その様子は、誰がどう見ても疑いようのないほど二人が親密であることを示していて、セルマの言葉が私の胸にすっと落ちる。同時に、王都ではレナートに女性の影がなかったことも納得した。
今一度二人の様子をどこか遠い感覚で眺めて、私は小さく息を吐く。
二人はまだ、私の存在に気付いてはいない。ならば、二人の邪魔をする前に私はここからいなくなろう。最初から、私はここに出迎えになんてやって来なかった。そう言うことにしておこう。
「あれ? ミリアムさん? 行かないんですか?」
足を止めた私を、数歩先のタァニが不思議そうに振り返る。それに笑って頷けば、タァニはぎょっと目を見開いて驚いた。
「なんだか、思った以上に多くの方に出迎えられていらっしゃるので……あの中に入っていくのは、ちょっと」
「いやいや、大丈夫ですよ! ミリアムさんが行けば、皆、道を開けてくれますから!」
タァニの優しい言葉にも、私は首を横に振る。
「レナートさんがここへいらっしゃるのは、久し振りなんですよね? きっと、積もる話もあるでしょうから……」
「そんなこと気にしなくていいんですよ? どうせ今夜も宴会ですし、話ならそこでだってできますから。それに、ミリアムさんだってせっかくここまで迎えに出て来たじゃないですか。レナート殿だって――」
どうしても私をレナートの元へ行かせたいらしいタァニは、私を引き留めようと言葉を紡ぐ。けれど、その途中でとうとう彼もレナートの隣にいる彼女の存在に気付いたようで、言葉が途切れたその顔は、一瞬にして愕然としたものに変化した。
そのままほんのわずか沈黙をして、それから何故か、タァニは一気に顔を青褪めさせる。
「あ……ああ、あのですねミリアムさん! 違いますよ? 違いますからねっ? あの女性は――」
「タァニさん。私、キリアン様にお伝えすることがあるんです。ですから、先にキリアン様のところへ案内してください」
タァニに皆まで言わせず、私はその手を掴んでくるりとレナート達に背を向けた。
このままここに居続ければ、いつレナート達に気付かれてしまうかしれない。それは私の望むところではないし、何より、私の心がこれ以上この場にいることを望まなかったのだ。
「えぇっ! ちょっ、ミリアムさん待って! いや、あの、待ってください! 俺の話を聞いてください!」
手を引いて、来た道を戻る私にタァニが必死に声を掛けてくるけれど、私はそれを笑顔で黙殺した。ついでに、そんなに大きな声を上げるとレナートに気付かれてしまうではないかとの抗議の意味も込めて、握る手の力を強める。
「タァニさん、キリアン様はどちらにいらっしゃいますか?」
あの人だかりの中に、キリアンの姿はなかった。恐らく、大いに歓迎されているのはレナートだけなのだろう。いや、あの女性も込みで、と言うべきか。
ともかく、二人に関係のないキリアンは既に中へ案内されていると見ていい。
そう見当をつけて尋ねれば、タァニは弱り切った顔に情けない声で、一言「応接室に」と答えてくれた。
「では、そちらに行きましょう」
すっかり足が重くなってしまったタァニを笑顔と共に手を引いて歩かせながら、私は今しがた出て来た扉を再び中へと入る。廊下への角を曲がる際、タァニがなおもレナート達を気にするように玄関を振り返ったけれど、私はそれを完全に無視した。
人目も憚らずに密着していることも、女性が豊満な胸をレナートに押し付けているようだったことも、それをレナートが何の反応も見せず当然のように受け入れていたことも、どれもこれもが私の憧れる騎士様の姿とは程遠いものだったけれど、レナートは物語の人物ではなく、実在する人間なのだ。理想通りになると思う方がどうかしている。
正直に言えば、レナートの好みがあのような女性であったことには、少なからず衝撃を受けたけれど。貞淑さに欠ける女性が、王太子の騎士の相手に相応しいとも思えなかったけれど。
とは言え、ここはエリューガルであって、私の生まれ育ったアルグライスではない。私が相応しくないと考えてしまうのは、恐らくアルグライスの考え方なのだろう。
ならば、私にできるのはただレナート達を祝福することだけ。第一、ただ保護されて屋敷で世話になっているだけの赤の他人の私には、そもそも口を出す権利などどこにもない。
何とも形容し難いもやもやとした気持ちの悪さが胸の中に蟠っているのも、決してレナートに対して思うところがあるのではなく、周囲の言葉にすっかり惑わされてしまった自分自身の愚かさに対する怒りだ。
皆が執拗にレナートの話を聞きたがったのは、単に英雄の息子の近況を知りたかったから。私を大切にしているだの何だのも、彼らの英雄が、息子と共に子供を保護していることを褒め称えていただけ。私を民族衣装で着飾らせたのだって、きっとレナートに対する労いで、彼へ感謝を示せと私に遠回しに伝えていたのに違いない。イーリスの助言にしても、下手なことを言って英雄を貶めたと思われない為のものと考えれば理解できる。
それなのに、私は何を勝手に気にして浮かれていたのだろう。我ながら、滑稽にもほどがある。せめてもの救いは、全ての言葉に遠慮がちに対応して、控えめな反応しか示してこなかったことだろうか。
馬鹿で愚かな自分を叱咤し、気持ちを切り替える為に深呼吸をして、私は到着した応接室の扉を叩いた。
入室すれば、そこには既にキリアンとヤーヴァル、それにイーリスが揃っており、三人はタァニと共にやって来た私を目にして意外そうな顔をした。
その反応は、まるで私はレナートと共に来ると思っていたと言わんばかりで、私の方こそ驚いてしまう。ずっと砦にいたヤーヴァルは知らないにしても、キリアンはレナートと共に行動していたのだから、女性の存在を知っていてもいいだろうに。
まさかとは思うけれど、三人は私が恋人達の久々の逢瀬を邪魔するような無粋な真似を、何の躊躇いもなくやってしまえる人間だとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、実に心外だ。
「ミリアム……? レナートと一緒ではないのか?」
それなのに、三人を代表してのキリアンからの問いは私の考えを肯定するもので。
タァニが再び顔色を悪くさせるのを横目に、私は苛立ちを隠してにこりと微笑み、タァニに言ったのと同じ理由を口にした。
「既に多くの方の出迎えを受けていらっしゃったので、私は遠慮させていただいたんです」
「遠慮? いや、だが……」
キリアンが何かを言いたげにタァニへと視線を移せば、タァニは弾かれたようにキリアンに迫り、今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「誤解なんです、キリアン殿下!」
「待て。何の話だ?」
「全部、うちの副官の所為なんです!」
誤解だの副官だの、タァニは一体何を言っているのだろう。
私には何のことだかさっぱりのタァニの言葉は、けれどキリアンには通じるものだったらしい。怪訝そうだった彼の切れ長の瞳に瞬時に理解の光が灯り、かと思えばたちまち眉間に皺を寄せ、頭痛を堪えるような顔になる。
それは、王城で今回の要請の話をした時に見せたものとよく似て、私は更に困惑した。何故なら、そんなにもキリアンを困らせる何かに、私は全く心当たりがなかったからだ。
それでも、話が通じているらしい二人は言葉を交わし続ける。
「……まったく。アディーシャは余計なことしかしないな。油断も隙もない」
「申し訳ありません、キリアン殿下! 揃いも揃って、うちの馬鹿共が……本当に申し訳ありません! この詫びは必ずさせますのでっ!」
「謝罪より先に、状況の詳細を聞きたいのだが」
平謝りするタァニに向かって、キリアンから容赦ない言葉とため息が放たれる。そんなやり取りを聞いても相変わらず私には理解できず、ますます疑問ばかりが積み重なった。
けれど、疑問を増やしていたのはどうやら私だけらしい。
キリアンの後ろに立つイーリスも、一人で三人掛けのソファを占領するヤーヴァルも、その顔には疑問の欠片も浮かんでいなかったのだ。
私一人だけが取り残されている状況に、たちまち居心地の悪さが私の心を占める。
ただ、そんな私にも、唯一理解できたことはあった。それは、キリアンが口にした女性の名だ。話の流れから考えれば、その名が指すのはレナートの隣にいた女性に違いない。
縮れた葡萄色の髪に、澄んだ卵色の大きな瞳。キスタス人特有の肌の色に、鍛えて引き締まっていながらも、女性らしい曲線をも描く体躯の持ち主。満面の笑顔がとても可愛らしく、奔放そうな態度も併せて、その名がとても似合うと感じた女性。
アディーシャ。
なるほど、それがレナートが選んだ相手の名か。
そう私が納得した、まさにその時。
「わしの妻がどうかしたのか、タァニ?」
「――え?」
のんびりした調子で室内に落ちたヤーヴァルの一言に、私は耳を疑った。息すら止まるかと思うほどに驚いて、絶句する。
(……つ、ま……?)
つま、とは。
私の頭が言葉の意味を理解することを拒んでいるのか、「つま」と言う音だけが意味をなさずにぐるぐる私の脳内を駆け巡る。
更にそこに大きな音を立てて応接室の扉が開き、その音に一瞬思考が停止した。そして、入ってきた人物とはっきり目が合ってしまう。
「……ぁ」
葡萄色の髪、卵色の瞳。つい今しがたこの場で話題に上っていた女性が、私の目の前にいる。
そう認識した瞬間、私の中に玄関先で感じた不快感がよみがえり、数々の疑問も「つま」の衝撃も新たな人物の登場への驚きも忘れて、私は固く口を引き結んだ。
「ああ、よかった! ほらほら、レナート君! 娘ちゃん、キリアン殿下と一緒にいたわよ! 残念ながら、タァニも一緒にいるけど」
「残念って何ですか、アディーシャ! いきなり入って来て第一声がそれは、酷くないです!?」
無遠慮に部屋の中に入って来たかと思ったら、見た目に違わぬ明るい声と共に、アディーシャのすらりと伸びた綺麗な腕が、見慣れた騎士服に包まれた腕を引く。当然ながら、扉の向こうから現れたのはレナートだ。
けれど、今の私はその顔を見ても、喜びと言った感情は一切湧いては来なかった。むしろ、自分でも驚くほどに機嫌が降下し、その顔を見たくもなかった。レナートの方も、疲れてでもいるのか表情は暗く口を開く気配もなく、アディーシャにされるがままだ。
いつもの私であれば、そんなレナートの様子を見れば心配してすぐさま声を掛けただろう。けれど、今は不思議なほどそんなことをする気も湧かない。何なら、アディーシャに労わってもらえばいいとすら思ってしまっていた。
と、そのアディーシャが、何故かレナートの腕を引いてこちらへとやって来る。
一体、何をするつもりなのか。はたまた何を言うつもりなのか。
「ほぅら、元気を出してレナート君! ひとまず、娘ちゃんの隣に座りなさい!」
身構える私の前で、そんな言葉と共にアディーシャが、よりにもよってレナートを私の隣に座らせる。何故と疑問に思うより先に私は沈むソファに身を固くして、レナートから視線を逸らし、意識も逸らしてしまうべく、頭上で交わされる新たな会話に耳を澄ませた。
そして私は、更なる衝撃を受けることになる。
「それで、タァニはキリアン殿下にレナート君との決闘のお話でもしてた?」
「はぁっ!? 何でそんな話になるんです!? するわけないでしょう!」
「おお? 何じゃ、タァニ。おぬし、決闘をするのか?」
「しないって言ってんでしょうが! 人の話聞けよ!? 本当に、夫婦揃ってろくなこと言わないな、あんたらは!!」
キリアンの前にも拘らずとうとう切れてしまったタァニの叫びが室内に響き渡り、私の耳に、たった一つの単語だけをこびり付かせた。
「…………ふう、ふ……?」
乾いて罅割れた声が、私の口から勝手に零れる。その私の呟きが聞こえていたのか、ヤーヴァルがそうであったと手を叩き、満面の笑みでアディーシャを手招いた。
「ミリアムさんにはまだ紹介しておらんかったな! わしの最愛の妻で自慢の伴侶、アディーシャだ!」
つま――妻。
聞き間違いかと思った言葉は、どうやら聞き間違いではなかったらしい。一度ならず二度までもヤーヴァルの口から出た言葉のあまりの衝撃に、私の視界がふらりと揺れた。
ではまさか、レナートは人妻相手に道ならぬ恋をしているのか。いや、人前であれだけ堂々としていたのならば、キスタス人は一妻多夫が許されているのかもしれない。けれど、エリューガル国内ではどうだろう。許されないことなのだとしたら、レナートは……いや、そんなことより、アディーシャとヤーヴァルでは歳の差がありすぎやしないだろうか。もしや、アディーシャはヤーヴァルの後妻? レナートは後妻に懸想を? それとも既に愛人に? 年老いた男に無理矢理嫁がされた若い後妻が青年騎士に思いを募らせる、なんて物語ならば読んだ記憶はあるけれど、では目の前の状況は、一体どう説明付けたらいいのだろう?
ヤーヴァルは嬉々としてアディーシャを抱き抱え、アディーシャも愛おしそうにヤーヴァルに腕を回して、二人が思い合っていることは明らかだ。レナートの入る隙などないくらいに、はっきり相思相愛だ。
では何故、アディーシャとレナートはあんなに親密そうだったのだろう。
「はぁい、アディーシャよ。よろしくねぇ、ミリアムちゃん。ヴィシュヴァの手紙にあったけど、その髪色、本当に彼女にそっくりで驚いちゃった。ふふ、可愛らしいお嬢ちゃんでよかったわ」
「……は、ぁ……え?」
無邪気な笑顔を向けて挨拶するアディーシャに対して、衝撃と混乱が頭の中で渦を巻きっ放しの私は、間の抜けた声しか出せない。
けれど、アディーシャは私の薄い反応を気にした様子もなく、それ以上私に話しかけることもなく、その顔はヤーヴァルへと向いてしまった。
「ところで、ヴァヤン? 私、あなたにとっても大事な話があるの。ここじゃなんだし、場所を移しましょ?」
「おお、大事な話か! だが、その前に帰還の挨拶がまだではないか、アシャアよ!」
「あらぁ、そうだったわね」
言うが早いか、ヤーヴァルとアディーシャ、二人の顔の距離があっと言う間に縮まっていく。
距離がなくなる直前に私の視界は何かに遮られて何も見えなくなってしまったけれど、二人が何を行ったのかは、経験のない私にだって流石に分かる。
私が玄関前で見た光景と、この部屋での出来事と、今目の前で繰り広げられている二人のやり取りと。何が嘘で本当か、最早、何が何だか分からない。
混乱が混乱を呼び全く状況を整理できず、私は視界を遮られたまま、ただただ茫然とした。いっそこのまま気を失えたならどんなにいいだろうと思っても、残念ながら、気が遠くなる気配は微塵もない。
そうする内に、タァニがヤーヴァル達を叱る声、キリアンが呆れてぼやく声、それをイーリスが宥める声が立て続けに聞こえ、再びタァニの謝罪があってソファが軋み、巨体が立ち上がる音がそれに続いた。
「それじゃあ、あとはよろしくねぇ!」
最後にアディーシャの呑気な声が放たれキスタス人三人が出て行き扉が閉まると、ようやく室内に静けさが戻ってくる。
同時に私の視界も開けたけれど、何故かレナートの腕の中にいることに気付いた私は、反射的に勢いよく両腕を突っ張っていた。
それがレナートにどれほどの衝撃を与えることになるのか、全く考えもせずに――
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