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第五章 絡み合う思惑の果て
国境砦の誘拐騒動
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遠ざかる黒の颶風を前に、イーリスは誰より先に行動に出ていた。
「トーラッ!!」
橋へ向かって駆けながら愛馬を呼び、やって来た背に文字通り飛び乗る。そうしながら、人だかりの中の一人へと顔を向けた。
「申し訳ありません、ミュルダール夫人! 行きます!」
イーリスの端的な言葉にセルマは笑顔で頷き、それをはっきり見る間も惜しんでトーラを走らせる。
追うべき相手の姿はとうに視界から消えてはいるが、向かう先は分かっている。その行き先を思って、イーリスは思い切り顔を顰めた。
「もう! タルグ砦の訪問は明日だと言ってあるのに! これだからキスタス人はっ!」
何故、明日まで待てないのだろう。何故、隊長自らやって来てしまうのだろう。イーリスは、思わず衝動のままに文句をぶちまけた。
とは言え、今回の訪問要請がなされた経緯と彼らの直情径行な性格を考えれば、この事態は全く想定できないことではなかった筈だ。むしろ、イーリスの身近にいる憧れの人も彼らと大差ない性格の持ち主なのだから、ミリアムの護衛担当のイーリスは、彼女を参考に当然想定して然るべきだった。それができなかった自分と、己の想定の甘さに眉間の皺が深まる。
即断即決と言えば聞こえはいいが、だからと言って人攫い紛いの行動に出られては堪らない。今回、相手に悪意がないだけ幸いとは言え、ミリアムは彼らが考えている「アレクシアが保護したどこの者とも知れない子供」と言う以上の意味を持つ人間なのだ。無茶苦茶な行動に出るにも、せめて時と場合は選んでほしい。……いや、選べないから無茶苦茶なのだが。
頭痛を堪えるように顔を顰め、もう! と、もう一度不満を吐き出して、イーリスは次に浮かんだ顔を思って遠くを見やった。
もしかすると、こちらの方がある意味で現状よりも頭痛の種かもしれない。出発前に、少しばかり不満の滲んだ声がイーリスの名を呼んだ時のことが脳裏を過って、嫌でも口から情けない声が漏れ出る。
「……勘弁してくれないかしら……」
イーリスを笑顔で見送ったセルマならば、キリアンに上手く伝えてくれるだろう。キリアンも、この事態に呆れはするだろうが決して慌てるような人ではないので、心配することもない。だからイーリスが頭を悩ませるのは、殊ミリアムのこととなると常の冷静沈着さをどこかへやってしまうレナートのことだ。
本人にどれだけ自覚があるかは分からないが、ミリアムと過ごす時間が増えてからと言うもの、レナートもやはりアレクシアの子なのだと――半分はキスタス人であるのだと――改めて思わされることが増えているのだ。そんなレナートが、彼の与り知らぬところで問題のキスタス人達の元へミリアムが問答無用で連れて行かれたと知れば、一体どんな行動に出ることか。想像するだけで頭痛がしてくる。
こんなことになるのであれば、出発前に護衛を代わっておくべきだったのだろうか。
レナートがイーリスと護衛を代わりたがった理由はともかく、彼があの場にいれば、ここまでのヤーヴァルの勝手は許していなかったかもしれない。今更たらればを考えても無意味だが、この先のことを思うと嫌でも考えてしまう。
イーリスの意を汲んでタルグ砦への道を疾走するトーラの馬上で、どうかキリアンが上手く対処してくれますようにと願いながら、イーリスは深々とため息を吐いた。
*
断る間も、まして止める間もなく暴風のような勢いで私がヤーヴァルに連れて来られたのは、緑よりも切り立つ崖の占める割合が多い街の外れ。灰白色の武骨な四角い建物が威容を誇る場所だった。
「ここは……」
「東の国境の要、タルグ砦だ。それにしても、シシシュの速さに悲鳴も上げず失神もせんとは、ますます気に入ったぞ、娘さん。その胆力は実に戦士に値する!」
ぬはは、と陽気に笑うヤーヴァルに頭上から覗き込まれ、私は曖昧に笑った。
ヤーヴァルの上機嫌な様子を見れば、言葉通り私を気に入ってくれたことは明白だ。まさか、出会ってわずかでシシシュに続いて国境警備隊隊長であるヤーヴァルにも、こんなに気に入られることになるとは。予想外ではあるけれど、このこと自体は嬉しく思う。
けれど、有無を言わさず砦に連れて来られてしまった現状は、私に手放しで喜ぶことをさせてはくれない。セルマやイーリス、広場にいた人々の驚いた顔が思い出され、彼らが今頃慌てているのかと思うと申し訳なさで胸が痛んだ。
だからと言って、そのことをヤーヴァルに告げ、礼拝堂へ帰してほしいと願って万一にも機嫌を悪くされたらと考えると、文字通り彼の手の中にいる私には抵抗できる術はなく、おいそれと言い出すこともできない。
(どう、しよう……)
けれど、私がそうして悩んでいる間にも時は無情に過ぎていき、速度を緩めたとは言えシシシュの歩みも止まらない。上機嫌で喋るヤーヴァルに言葉少なに相槌を打っていれば、シシシュは私とヤーヴァルを乗せたまま、あっと言う間に慣れた様子で砦の門を潜って中へと入ってしまった。
そして、私達はいくつもの遠慮のない視線に出迎えられる。
「ああっ! 隊長、どこ行ってたんです、もう! 探したんですよ、俺!」
「やれやれ……。黒竜殿下がはるばる王都から来るってぇ時くらい、もうちっと真面目に隊長できねぇのか、あんたは」
「帰ったら説教だーって、アディーシャが呆れてましたよ?」
「久し振りにヴィシュヴァ・ラヌも来るってんで、お前も楽しみにしていただろうに。そっちに顔も見せないでどこほっつき歩いてやがった、ヤーヴァル」
存外広い敷地内をシシシュが歩む度、口々に気安い調子でヤーヴァルに向かって苦言が飛んで、場に賑わいが咲く。ある程度進んだところでシシシュが足を止めれば、真っ先に声を上げた青年が一目散に駆けて来た。
レナートと年齢が近しいと見える、はっきりとした肌色を持ったキスタス人だ。
「勝手に砦を抜け出さないでくださいよ、隊長! 俺がどんだけ大変だったか――」
言いながら上向いた顔が、ヤーヴァルの腕の中にいる私の姿を捉えてぎょっと目を剥いた。その反応は、今まさに私の存在に気付いたと言わんばかりだ。いや、事実、私に気付いたのはたった今なのだろう。
私の何倍もの大きさの小山のようなヤーヴァルに、その彼を乗せて走れる通常の馬より遥かに大きな体格のシシシュ。そんな一人と一頭の間にちょこんと座らされている私は、ヤーヴァルの逞しい腕に上半身を、顔以外の部分を彼の外套に覆われてしまっている為、すっかり黒に埋もれている。おまけにシシシュの頭が邪魔をして、正面からでは恐らくほんのわずかしか私の姿は見えていないだろう。ヤーヴァルしか見ていなかった青年が驚くのも、無理もない。
事実、彼の驚きの度合いを表すようにぱかりと開いた口から続く言葉はなく、今にも零れてしまいそうなほど見開いた瞳は驚愕に染まっていた。おまけに、真面目で苦労性な雰囲気を漂わせるその顔も、みるみる青褪めていく。
「な……」
青年の戦慄く口から、小さく音が零れた。その驚き様は、ヤーヴァル一人だと思ったら知らない子供まで乗っていた、と言うだけにしてはあまりに異様で。
私の何がそんなに彼を驚かせてしまったのか。まさか、生首と思われているわけでもないだろう。不思議に思って私が小さく首を傾げた瞬間。
「何やってんだ、あんた――っ!! 手負いの獣連れ帰るのとはわけが違うんだぞっ!? 今すぐその子を元いた場所に戻してこいっ!! この馬鹿! 変態! 犯罪者――っ!!」
青年の絶叫が迸り、ヤーヴァルに言うだけ言って各々好きに過ごしていた兵士達の視線が、たちまちこちらに集中する。同時に、青年の大袈裟な反応の理由に私は衝撃を受けていた。
まさか、私を攫われた子供と見ていたなんて。けれど、自分達の隊長が子供を攫ってきたと思ったならば、彼がこれほど驚くのも納得だ。変態はともかく、犯罪者と叫んだのも理解できる。
ただし、残念ながら彼の認識は間違いだらけだ。いや、だらけと言うには、実際に私は了承を得ずに連れて来られたわけで、それを攫われたと言われると否定はできないのだけれど。たとえ、私自身が攫われたと思っていないのだとしても。
だからと言って、このままヤーヴァルを犯罪者と思われたままにもしておけない。私は、せめて攫われたと言うことだけでも青年の認識を正そうと口を開いた。
「あの、私は――」
けれど、あっと言う間に兵士に囲まれ多くの視線に晒されてしまい、私は最後まで言葉を続けることができなかった。
集まってきた兵士は、ある者は私の姿を目にして青年同様ぎょっと驚き、ある者はとうとうやってしまったかとばかりに手で顔を覆って天を仰いでいた。またある者は、どうしようもないなと言う態度で何故か手にしていた武器を構えて、不穏な空気が漂い始める。
そんな周囲の様子に、私の中で嫌な予感が膨れ上がった。まさかとは思うけれど、これからここにいる全員で、子供を攫ってきたヤーヴァルに対して制裁を加えるつもりだったりするのだろうか。
(いやいやいやいや、まさかそんなこと!)
流石にそれはないと思いたい。そんなことが起こった日には、あのアレクシア一人ですら簡単に死屍累々の状況を作ってしまえたのだから、この場はきっと戦場と化してしまうだろう。自分の馬鹿な考えに、私は慌てて首を振った。
それなのに、そんな私の横っ面を、よりにもよってシシシュが張り倒す。
《……なるほど。我も我が主も立派な体躯の持ち主。対して、おぬしは小さく貧弱、おまけに非力。攫われたと思われても仕方あるまいな》
「シシシュさんっ!?」
主への濡れ衣に怒るどころか、冷静にこの状況を見て当然のように納得するシシシュに私は唖然とする。普通、こんな時は主の味方をするものではないのだろうか。
思わず身を乗り出してシシシュの鬣を掴みそうになった私は、けれどその動きを逞しい腕にやんわり止められた。そして、頭上からの緊迫感のない声が、この場の不穏な空気を一気に払う。
「お前は何を言っとるんだ、タァニ? この娘さんはわしらの客人、攫うなどとんでもないぞ? のう、娘さん」
同意を求める言葉と共にヤーヴァルの手が私の肩に乗り、その動きで体に掛かっていた外套が外れて私の姿が露わになった。たちまち空気がざわつき、タァニと呼ばれた青年が、今度はきょとんとした顔で目を見開く。
「客、人……?」
「そうだとも」
ヤーヴァルははっきり頷くものの、タァニは一つ瞬くと、半信半疑の眼差しを私に向けた。真偽を確かめるように私をまじまじと見つめる彼は、無言で私へ「本当に?」と問うてくる。
「そう、です……ね」
多分。一応。そうだと思います――うっかり続きそうになったそんな言葉を飲み込み、私はタァニへぎこちなく笑った。
確かに、今の私の立場を表すならば、客人と言うのは適切だろう。ヤーヴァルが言ったことに嘘はない。それでも、やはりこちらの了承を得ずに砦に連れて来られた点を考えると、ここでも素直に客人であるとは、私には言い切ることはできなかった。
そんな私の躊躇が、タァニへ伝わったのだろう。彼の濃灰色の瞳が亜麻色の髪の下で瞬き、小さなため息ののち、一瞬にして私に対する認識を改めたようだった。胡乱だった表情が柔らかくなり、ヤーヴァルの身勝手に巻き込まれた被害者に対する申し訳なさのようなものがそこに滲む。
その変化は、私にタァニに対する信用を芽生えさせた。彼はどうやら、見た目の印象に違わず常識人で、人の話を聞く耳を持ち合わせているらしい、と。
タァニならば、こちらの事情をきちんと話せば、ヤーヴァルを説得してこの砦から礼拝堂へとすぐにでも帰してくれそうだ。味方を得たような気持ちに内心安堵していると、私の頭上から再びヤーヴァルの声が降ってきた。今度はわずかに心外そうだ。
「何だ。わしを疑うのか、タァニよ?」
「疑っちゃいませんけど、呆れてます。明日は黒竜殿下が客人を連れていらっしゃるってのに、その前に余計な仕事を増やすようなことしないでくれませんか」
「うん? 何を言っとる? その明日の客人がこの娘さんだぞ?」
「だぁから――」
文句を続けようとしたタァニの口端が、ひくりと引き攣った。周りに集まった兵士達もヤーヴァルの一言にこの状況を理解したのか、私に向ける視線には明確な同情が、ヤーヴァルに向けるものには多大な呆れの色が現れる。
彼らがそれぞれ見せた態度に、ヤーヴァルの行動は殆どのキスタス人にとっても常識に外れていたことを知って、私の口から乾いた笑いが小さく零れ出た。
その中で一人、事の重大さをまるで分っていないヤーヴァルの声が呑気に続く。
「タァニ。お前さん、客人のもてなしの準備をしておっただろう? 急で悪いとは思うが、娘さんを案内してやってくれんか」
「はぁっ!? いきなり何言い出してんです!? そうじゃないでしょ!?」
「そう時間は取らんのだから、案内ぐらいいいだろう?」
「そう言う問題じゃないでしょうが! 明日の客人って、殿下はこのこと知ってんですよね!?」
「いいや、殿下には会ってはおらん」
くわっと目を見開いて絶句するタァニに、そんなに驚くことかときょとんと目を瞬くヤーヴァル。二人の表情はどこまでも対照的で、だからこそ、私にはタァニの苦労が手に取るように分かってしまった。
周囲もすっかりタァニに同情的で、けれど口を挟むと余計に拗れることが分かっているのか、誰も進んで口を開く様子はない。ならば私が間に入るべきかと二人の間で視線を彷徨わせても、それに気付いた兵士から何もするなと無言で首を振られてしまった。
「安心せい。殿下には会っておらんが、一緒におられたミュルダールの奥方には、ちゃあんと娘さんを借り受けると言ってある」
「借り……っ!? それを聞いてどう安心しろと!? 逆に不安しかないだろうが、この馬鹿! 本当に、あんた何てことしてくれたんだっ!!」
とうとうヤーヴァルの深刻さの欠片もない発言にタァニの怒りが爆発し、言葉遣いの荒くなった大声が響き渡る。
「だあああああっ! くそっ! うちの馬鹿が本当に申し訳ありません! 今すぐ! 今すぐに、お嬢さんをミュルダール夫人の元へ送り届けさせていただきます!」
「何を言っとるんだ、タァニ。せっかくわしが娘さんを連れて来たと言うのに、砦の案内ももてなしもせず帰せと言うのか? そんな馬鹿な話……」
「馬鹿はそっちだろうが!! あんたは黙ってろっ!!」
眦を釣り上げた一喝はタァニの嘆きと怒りを端的に表して、流石のヤーヴァルも黙らせてしまった。たじろぐように目を白黒させたヤーヴァルは、何かを言いたげに口籠るものの、結局そこから新たな言葉は出て来ないまま。タァニの剣幕にはそれだけの迫力があり、思わず私も身を竦ませていた。
タァニは、彼の言葉通りにヤーヴァルが黙ったことにも気付かない様子で頭を掻き毟って唸り、それを幾人かが宥めようとして――砦の外からやって来る騒がしさに、その手がふと止まる。
最初にその姿を目にした誰かが、「お」と声を上げた。
それは、礼拝堂の広場で聞いたのと同じ、力強い蹄の音を伴っていた。ただし、シシシュが奏でた遠雷ほどの常識外れた音ではなく、ごく一般的な、それでも音の間隔だけは短いもの。それだけで、馬が常より早く駆けて来ていることが窺い知れるものだった。
その音を耳にして、すぐに私の頭に、そんなにまでして馬を急がせる必要がある人の姿が浮かぶ。期待を込めてシシシュの背からぐっと身を乗り出し、可能な限り背後を窺えば、見慣れた牡馬の姿が私の視界に飛び込んできた。
「イーリスさん! トーラ!」
それと気付いた兵士が素早くその場を移動すると同時、シシシュの隣に横付けるようにトーラが走り込み、手綱を繰るイーリスの姿が私の隣に現れる。
「おぉ、これはレリオール殿。どう――」
「ヤーヴァル殿! こちらの了承も得ず、ミリアム様を連れて行くとは何事ですか!」
トーラの制動に派手に土埃が立つのも構わず、イーリスは私の姿を目にして安堵するより先に、タァニにも劣らない厳しい表情でヤーヴァルへと声を飛ばした。
ぴしゃりと放ったイーリスの声はざわつくその場でもよく通り、ヤーヴァル以外の誰もが自分達の隊長のしでかしたことを耳にして、呆れ果てる姿が私の目に飛び込んでくる。
特に、誰より声を張ってヤーヴァルに事態の拙さを伝えようと努力していたタァニは、
「んん? そうであったか? 奥方には断った筈だが……」
顎髭を撫で、首を傾げて答えたヤーヴァルのその一言がとどめとなって、その場にがくりと崩れ落ちる始末だ。
やっぱりそうだった、殿下の怒りが、ヴィシュヴァ・ラヌに知られたら……項垂れてしまった頭からそんな呟きが途切れ途切れに聞こえる様は、彼もれっきとしたヤーヴァルの被害者の筈なのに、まるで彼自身がこの事態を引き起こしてしまった張本人であるかのような絶望振りだ。
そんなタァニの頭上では、イーリスの尖った声とヤーヴァルの呑気な声が飛び交い続ける。
「一方的に言うだけ言って、返答を待たずに連れ去ったではないですか! ミュルダール夫人も護衛の私も、了承していません!」
「おおっ? そうであったのか! わしはてっきり返答を貰ったものと思っておったわ! それは、まこと申し訳ないことをした!」
「本当に反省しておいでですか? あなたは、一歩間違えれば謝罪だけでは済まないことをなさったのですよ、ヤーヴァル殿! もっと自覚を持って行動をなさっていただかねば困ります!」
「なるほど、それでタァニがあれほど怒ったのだな。うむ、理解した! 感謝するぞレリオール殿!」
巨体と厳つい顔の迫力に臆することのないイーリスの非難にぽんと手を叩いたヤーヴァルは、それでもこちらが脱力するほど、この事態を深刻に受け取る様子はなかった。
イーリスも、彼女の怒りがヤーヴァルに全く届いた様子のないことに額に手を当てて渋い顔で嘆息し、これ以上何かを言うことを諦めるように視線を逸らす。
「しかし、娘さんもそれならそうと言ってくれればよかっただろうに。道中何も言わぬから、うっかりここまで連れて来てしまったではないか」
「それは……申し訳ありませんでした」
私の肩を叩いて悪びれなく笑うヤーヴァルに、私は眉尻を下げて笑うしできなかった。
何故なら、そうは言うもののこのヤーヴァルのこと、仮に私が勇気を出して言っていたとして、心配ないだの気にするなだのと私の言葉を笑い飛ばし、引き返すことをしないだろう姿が容易に想像できるのだ。
「いや、よいよい。わしはどうもやりすぎてしまう癖があるようでな。娘さんには迷惑をかけた!」
そう言いながら、ヤーヴァルは私の体を軽々と抱えてイーリスの腕の中へと降ろしてくれた。すかさず私を落とさないよう抱き締めるイーリスの腕の感触に私からも腕を回しながら、私の口からは勝手に深く息が漏れ、体の強張りが解けていく。
ヤーヴァルの腕は誰より逞しく、私が落ちてしまわないようにしっかり守ってくれてはいた。それでも、やはり相手とは初対面であんな形で馬に乗せられ、おまけに疾風の如き速度で走られてしまっては、どうしたって緊張してしまうと言うものだ。
「ごめんなさいね、ミリアム。これでも、トーラをできる限り早く走らせて来たのだけれど……」
「謝らないでください。来てくださってありがとうございます、イーリスさん」
《おや。僕への感謝の言葉が聞こえないようだが?》
「勿論、トーラもありがとう」
《よろしい。存分に僕に感謝したまえ》
トーラの尾が機嫌よく振られるのを目にして私がくすりと笑ったところで、ヤーヴァルが、今度は一つ大きく柏手を打った。
「うむ! 護衛のレリオール殿もやって来たことだし、これで娘さんを今日の客人として気兼ねなくもてなしてもいいわけだな!」
ぬっはははは! と、今日二番目にご機嫌なヤーヴァルの大きな大きな笑い声が響き渡り――そして。
「どうしてそうなるんだよっっ!?」
悲鳴にも似たタァニの絶叫が、全員の心の声を代弁した。
「トーラッ!!」
橋へ向かって駆けながら愛馬を呼び、やって来た背に文字通り飛び乗る。そうしながら、人だかりの中の一人へと顔を向けた。
「申し訳ありません、ミュルダール夫人! 行きます!」
イーリスの端的な言葉にセルマは笑顔で頷き、それをはっきり見る間も惜しんでトーラを走らせる。
追うべき相手の姿はとうに視界から消えてはいるが、向かう先は分かっている。その行き先を思って、イーリスは思い切り顔を顰めた。
「もう! タルグ砦の訪問は明日だと言ってあるのに! これだからキスタス人はっ!」
何故、明日まで待てないのだろう。何故、隊長自らやって来てしまうのだろう。イーリスは、思わず衝動のままに文句をぶちまけた。
とは言え、今回の訪問要請がなされた経緯と彼らの直情径行な性格を考えれば、この事態は全く想定できないことではなかった筈だ。むしろ、イーリスの身近にいる憧れの人も彼らと大差ない性格の持ち主なのだから、ミリアムの護衛担当のイーリスは、彼女を参考に当然想定して然るべきだった。それができなかった自分と、己の想定の甘さに眉間の皺が深まる。
即断即決と言えば聞こえはいいが、だからと言って人攫い紛いの行動に出られては堪らない。今回、相手に悪意がないだけ幸いとは言え、ミリアムは彼らが考えている「アレクシアが保護したどこの者とも知れない子供」と言う以上の意味を持つ人間なのだ。無茶苦茶な行動に出るにも、せめて時と場合は選んでほしい。……いや、選べないから無茶苦茶なのだが。
頭痛を堪えるように顔を顰め、もう! と、もう一度不満を吐き出して、イーリスは次に浮かんだ顔を思って遠くを見やった。
もしかすると、こちらの方がある意味で現状よりも頭痛の種かもしれない。出発前に、少しばかり不満の滲んだ声がイーリスの名を呼んだ時のことが脳裏を過って、嫌でも口から情けない声が漏れ出る。
「……勘弁してくれないかしら……」
イーリスを笑顔で見送ったセルマならば、キリアンに上手く伝えてくれるだろう。キリアンも、この事態に呆れはするだろうが決して慌てるような人ではないので、心配することもない。だからイーリスが頭を悩ませるのは、殊ミリアムのこととなると常の冷静沈着さをどこかへやってしまうレナートのことだ。
本人にどれだけ自覚があるかは分からないが、ミリアムと過ごす時間が増えてからと言うもの、レナートもやはりアレクシアの子なのだと――半分はキスタス人であるのだと――改めて思わされることが増えているのだ。そんなレナートが、彼の与り知らぬところで問題のキスタス人達の元へミリアムが問答無用で連れて行かれたと知れば、一体どんな行動に出ることか。想像するだけで頭痛がしてくる。
こんなことになるのであれば、出発前に護衛を代わっておくべきだったのだろうか。
レナートがイーリスと護衛を代わりたがった理由はともかく、彼があの場にいれば、ここまでのヤーヴァルの勝手は許していなかったかもしれない。今更たらればを考えても無意味だが、この先のことを思うと嫌でも考えてしまう。
イーリスの意を汲んでタルグ砦への道を疾走するトーラの馬上で、どうかキリアンが上手く対処してくれますようにと願いながら、イーリスは深々とため息を吐いた。
*
断る間も、まして止める間もなく暴風のような勢いで私がヤーヴァルに連れて来られたのは、緑よりも切り立つ崖の占める割合が多い街の外れ。灰白色の武骨な四角い建物が威容を誇る場所だった。
「ここは……」
「東の国境の要、タルグ砦だ。それにしても、シシシュの速さに悲鳴も上げず失神もせんとは、ますます気に入ったぞ、娘さん。その胆力は実に戦士に値する!」
ぬはは、と陽気に笑うヤーヴァルに頭上から覗き込まれ、私は曖昧に笑った。
ヤーヴァルの上機嫌な様子を見れば、言葉通り私を気に入ってくれたことは明白だ。まさか、出会ってわずかでシシシュに続いて国境警備隊隊長であるヤーヴァルにも、こんなに気に入られることになるとは。予想外ではあるけれど、このこと自体は嬉しく思う。
けれど、有無を言わさず砦に連れて来られてしまった現状は、私に手放しで喜ぶことをさせてはくれない。セルマやイーリス、広場にいた人々の驚いた顔が思い出され、彼らが今頃慌てているのかと思うと申し訳なさで胸が痛んだ。
だからと言って、そのことをヤーヴァルに告げ、礼拝堂へ帰してほしいと願って万一にも機嫌を悪くされたらと考えると、文字通り彼の手の中にいる私には抵抗できる術はなく、おいそれと言い出すこともできない。
(どう、しよう……)
けれど、私がそうして悩んでいる間にも時は無情に過ぎていき、速度を緩めたとは言えシシシュの歩みも止まらない。上機嫌で喋るヤーヴァルに言葉少なに相槌を打っていれば、シシシュは私とヤーヴァルを乗せたまま、あっと言う間に慣れた様子で砦の門を潜って中へと入ってしまった。
そして、私達はいくつもの遠慮のない視線に出迎えられる。
「ああっ! 隊長、どこ行ってたんです、もう! 探したんですよ、俺!」
「やれやれ……。黒竜殿下がはるばる王都から来るってぇ時くらい、もうちっと真面目に隊長できねぇのか、あんたは」
「帰ったら説教だーって、アディーシャが呆れてましたよ?」
「久し振りにヴィシュヴァ・ラヌも来るってんで、お前も楽しみにしていただろうに。そっちに顔も見せないでどこほっつき歩いてやがった、ヤーヴァル」
存外広い敷地内をシシシュが歩む度、口々に気安い調子でヤーヴァルに向かって苦言が飛んで、場に賑わいが咲く。ある程度進んだところでシシシュが足を止めれば、真っ先に声を上げた青年が一目散に駆けて来た。
レナートと年齢が近しいと見える、はっきりとした肌色を持ったキスタス人だ。
「勝手に砦を抜け出さないでくださいよ、隊長! 俺がどんだけ大変だったか――」
言いながら上向いた顔が、ヤーヴァルの腕の中にいる私の姿を捉えてぎょっと目を剥いた。その反応は、今まさに私の存在に気付いたと言わんばかりだ。いや、事実、私に気付いたのはたった今なのだろう。
私の何倍もの大きさの小山のようなヤーヴァルに、その彼を乗せて走れる通常の馬より遥かに大きな体格のシシシュ。そんな一人と一頭の間にちょこんと座らされている私は、ヤーヴァルの逞しい腕に上半身を、顔以外の部分を彼の外套に覆われてしまっている為、すっかり黒に埋もれている。おまけにシシシュの頭が邪魔をして、正面からでは恐らくほんのわずかしか私の姿は見えていないだろう。ヤーヴァルしか見ていなかった青年が驚くのも、無理もない。
事実、彼の驚きの度合いを表すようにぱかりと開いた口から続く言葉はなく、今にも零れてしまいそうなほど見開いた瞳は驚愕に染まっていた。おまけに、真面目で苦労性な雰囲気を漂わせるその顔も、みるみる青褪めていく。
「な……」
青年の戦慄く口から、小さく音が零れた。その驚き様は、ヤーヴァル一人だと思ったら知らない子供まで乗っていた、と言うだけにしてはあまりに異様で。
私の何がそんなに彼を驚かせてしまったのか。まさか、生首と思われているわけでもないだろう。不思議に思って私が小さく首を傾げた瞬間。
「何やってんだ、あんた――っ!! 手負いの獣連れ帰るのとはわけが違うんだぞっ!? 今すぐその子を元いた場所に戻してこいっ!! この馬鹿! 変態! 犯罪者――っ!!」
青年の絶叫が迸り、ヤーヴァルに言うだけ言って各々好きに過ごしていた兵士達の視線が、たちまちこちらに集中する。同時に、青年の大袈裟な反応の理由に私は衝撃を受けていた。
まさか、私を攫われた子供と見ていたなんて。けれど、自分達の隊長が子供を攫ってきたと思ったならば、彼がこれほど驚くのも納得だ。変態はともかく、犯罪者と叫んだのも理解できる。
ただし、残念ながら彼の認識は間違いだらけだ。いや、だらけと言うには、実際に私は了承を得ずに連れて来られたわけで、それを攫われたと言われると否定はできないのだけれど。たとえ、私自身が攫われたと思っていないのだとしても。
だからと言って、このままヤーヴァルを犯罪者と思われたままにもしておけない。私は、せめて攫われたと言うことだけでも青年の認識を正そうと口を開いた。
「あの、私は――」
けれど、あっと言う間に兵士に囲まれ多くの視線に晒されてしまい、私は最後まで言葉を続けることができなかった。
集まってきた兵士は、ある者は私の姿を目にして青年同様ぎょっと驚き、ある者はとうとうやってしまったかとばかりに手で顔を覆って天を仰いでいた。またある者は、どうしようもないなと言う態度で何故か手にしていた武器を構えて、不穏な空気が漂い始める。
そんな周囲の様子に、私の中で嫌な予感が膨れ上がった。まさかとは思うけれど、これからここにいる全員で、子供を攫ってきたヤーヴァルに対して制裁を加えるつもりだったりするのだろうか。
(いやいやいやいや、まさかそんなこと!)
流石にそれはないと思いたい。そんなことが起こった日には、あのアレクシア一人ですら簡単に死屍累々の状況を作ってしまえたのだから、この場はきっと戦場と化してしまうだろう。自分の馬鹿な考えに、私は慌てて首を振った。
それなのに、そんな私の横っ面を、よりにもよってシシシュが張り倒す。
《……なるほど。我も我が主も立派な体躯の持ち主。対して、おぬしは小さく貧弱、おまけに非力。攫われたと思われても仕方あるまいな》
「シシシュさんっ!?」
主への濡れ衣に怒るどころか、冷静にこの状況を見て当然のように納得するシシシュに私は唖然とする。普通、こんな時は主の味方をするものではないのだろうか。
思わず身を乗り出してシシシュの鬣を掴みそうになった私は、けれどその動きを逞しい腕にやんわり止められた。そして、頭上からの緊迫感のない声が、この場の不穏な空気を一気に払う。
「お前は何を言っとるんだ、タァニ? この娘さんはわしらの客人、攫うなどとんでもないぞ? のう、娘さん」
同意を求める言葉と共にヤーヴァルの手が私の肩に乗り、その動きで体に掛かっていた外套が外れて私の姿が露わになった。たちまち空気がざわつき、タァニと呼ばれた青年が、今度はきょとんとした顔で目を見開く。
「客、人……?」
「そうだとも」
ヤーヴァルははっきり頷くものの、タァニは一つ瞬くと、半信半疑の眼差しを私に向けた。真偽を確かめるように私をまじまじと見つめる彼は、無言で私へ「本当に?」と問うてくる。
「そう、です……ね」
多分。一応。そうだと思います――うっかり続きそうになったそんな言葉を飲み込み、私はタァニへぎこちなく笑った。
確かに、今の私の立場を表すならば、客人と言うのは適切だろう。ヤーヴァルが言ったことに嘘はない。それでも、やはりこちらの了承を得ずに砦に連れて来られた点を考えると、ここでも素直に客人であるとは、私には言い切ることはできなかった。
そんな私の躊躇が、タァニへ伝わったのだろう。彼の濃灰色の瞳が亜麻色の髪の下で瞬き、小さなため息ののち、一瞬にして私に対する認識を改めたようだった。胡乱だった表情が柔らかくなり、ヤーヴァルの身勝手に巻き込まれた被害者に対する申し訳なさのようなものがそこに滲む。
その変化は、私にタァニに対する信用を芽生えさせた。彼はどうやら、見た目の印象に違わず常識人で、人の話を聞く耳を持ち合わせているらしい、と。
タァニならば、こちらの事情をきちんと話せば、ヤーヴァルを説得してこの砦から礼拝堂へとすぐにでも帰してくれそうだ。味方を得たような気持ちに内心安堵していると、私の頭上から再びヤーヴァルの声が降ってきた。今度はわずかに心外そうだ。
「何だ。わしを疑うのか、タァニよ?」
「疑っちゃいませんけど、呆れてます。明日は黒竜殿下が客人を連れていらっしゃるってのに、その前に余計な仕事を増やすようなことしないでくれませんか」
「うん? 何を言っとる? その明日の客人がこの娘さんだぞ?」
「だぁから――」
文句を続けようとしたタァニの口端が、ひくりと引き攣った。周りに集まった兵士達もヤーヴァルの一言にこの状況を理解したのか、私に向ける視線には明確な同情が、ヤーヴァルに向けるものには多大な呆れの色が現れる。
彼らがそれぞれ見せた態度に、ヤーヴァルの行動は殆どのキスタス人にとっても常識に外れていたことを知って、私の口から乾いた笑いが小さく零れ出た。
その中で一人、事の重大さをまるで分っていないヤーヴァルの声が呑気に続く。
「タァニ。お前さん、客人のもてなしの準備をしておっただろう? 急で悪いとは思うが、娘さんを案内してやってくれんか」
「はぁっ!? いきなり何言い出してんです!? そうじゃないでしょ!?」
「そう時間は取らんのだから、案内ぐらいいいだろう?」
「そう言う問題じゃないでしょうが! 明日の客人って、殿下はこのこと知ってんですよね!?」
「いいや、殿下には会ってはおらん」
くわっと目を見開いて絶句するタァニに、そんなに驚くことかときょとんと目を瞬くヤーヴァル。二人の表情はどこまでも対照的で、だからこそ、私にはタァニの苦労が手に取るように分かってしまった。
周囲もすっかりタァニに同情的で、けれど口を挟むと余計に拗れることが分かっているのか、誰も進んで口を開く様子はない。ならば私が間に入るべきかと二人の間で視線を彷徨わせても、それに気付いた兵士から何もするなと無言で首を振られてしまった。
「安心せい。殿下には会っておらんが、一緒におられたミュルダールの奥方には、ちゃあんと娘さんを借り受けると言ってある」
「借り……っ!? それを聞いてどう安心しろと!? 逆に不安しかないだろうが、この馬鹿! 本当に、あんた何てことしてくれたんだっ!!」
とうとうヤーヴァルの深刻さの欠片もない発言にタァニの怒りが爆発し、言葉遣いの荒くなった大声が響き渡る。
「だあああああっ! くそっ! うちの馬鹿が本当に申し訳ありません! 今すぐ! 今すぐに、お嬢さんをミュルダール夫人の元へ送り届けさせていただきます!」
「何を言っとるんだ、タァニ。せっかくわしが娘さんを連れて来たと言うのに、砦の案内ももてなしもせず帰せと言うのか? そんな馬鹿な話……」
「馬鹿はそっちだろうが!! あんたは黙ってろっ!!」
眦を釣り上げた一喝はタァニの嘆きと怒りを端的に表して、流石のヤーヴァルも黙らせてしまった。たじろぐように目を白黒させたヤーヴァルは、何かを言いたげに口籠るものの、結局そこから新たな言葉は出て来ないまま。タァニの剣幕にはそれだけの迫力があり、思わず私も身を竦ませていた。
タァニは、彼の言葉通りにヤーヴァルが黙ったことにも気付かない様子で頭を掻き毟って唸り、それを幾人かが宥めようとして――砦の外からやって来る騒がしさに、その手がふと止まる。
最初にその姿を目にした誰かが、「お」と声を上げた。
それは、礼拝堂の広場で聞いたのと同じ、力強い蹄の音を伴っていた。ただし、シシシュが奏でた遠雷ほどの常識外れた音ではなく、ごく一般的な、それでも音の間隔だけは短いもの。それだけで、馬が常より早く駆けて来ていることが窺い知れるものだった。
その音を耳にして、すぐに私の頭に、そんなにまでして馬を急がせる必要がある人の姿が浮かぶ。期待を込めてシシシュの背からぐっと身を乗り出し、可能な限り背後を窺えば、見慣れた牡馬の姿が私の視界に飛び込んできた。
「イーリスさん! トーラ!」
それと気付いた兵士が素早くその場を移動すると同時、シシシュの隣に横付けるようにトーラが走り込み、手綱を繰るイーリスの姿が私の隣に現れる。
「おぉ、これはレリオール殿。どう――」
「ヤーヴァル殿! こちらの了承も得ず、ミリアム様を連れて行くとは何事ですか!」
トーラの制動に派手に土埃が立つのも構わず、イーリスは私の姿を目にして安堵するより先に、タァニにも劣らない厳しい表情でヤーヴァルへと声を飛ばした。
ぴしゃりと放ったイーリスの声はざわつくその場でもよく通り、ヤーヴァル以外の誰もが自分達の隊長のしでかしたことを耳にして、呆れ果てる姿が私の目に飛び込んでくる。
特に、誰より声を張ってヤーヴァルに事態の拙さを伝えようと努力していたタァニは、
「んん? そうであったか? 奥方には断った筈だが……」
顎髭を撫で、首を傾げて答えたヤーヴァルのその一言がとどめとなって、その場にがくりと崩れ落ちる始末だ。
やっぱりそうだった、殿下の怒りが、ヴィシュヴァ・ラヌに知られたら……項垂れてしまった頭からそんな呟きが途切れ途切れに聞こえる様は、彼もれっきとしたヤーヴァルの被害者の筈なのに、まるで彼自身がこの事態を引き起こしてしまった張本人であるかのような絶望振りだ。
そんなタァニの頭上では、イーリスの尖った声とヤーヴァルの呑気な声が飛び交い続ける。
「一方的に言うだけ言って、返答を待たずに連れ去ったではないですか! ミュルダール夫人も護衛の私も、了承していません!」
「おおっ? そうであったのか! わしはてっきり返答を貰ったものと思っておったわ! それは、まこと申し訳ないことをした!」
「本当に反省しておいでですか? あなたは、一歩間違えれば謝罪だけでは済まないことをなさったのですよ、ヤーヴァル殿! もっと自覚を持って行動をなさっていただかねば困ります!」
「なるほど、それでタァニがあれほど怒ったのだな。うむ、理解した! 感謝するぞレリオール殿!」
巨体と厳つい顔の迫力に臆することのないイーリスの非難にぽんと手を叩いたヤーヴァルは、それでもこちらが脱力するほど、この事態を深刻に受け取る様子はなかった。
イーリスも、彼女の怒りがヤーヴァルに全く届いた様子のないことに額に手を当てて渋い顔で嘆息し、これ以上何かを言うことを諦めるように視線を逸らす。
「しかし、娘さんもそれならそうと言ってくれればよかっただろうに。道中何も言わぬから、うっかりここまで連れて来てしまったではないか」
「それは……申し訳ありませんでした」
私の肩を叩いて悪びれなく笑うヤーヴァルに、私は眉尻を下げて笑うしできなかった。
何故なら、そうは言うもののこのヤーヴァルのこと、仮に私が勇気を出して言っていたとして、心配ないだの気にするなだのと私の言葉を笑い飛ばし、引き返すことをしないだろう姿が容易に想像できるのだ。
「いや、よいよい。わしはどうもやりすぎてしまう癖があるようでな。娘さんには迷惑をかけた!」
そう言いながら、ヤーヴァルは私の体を軽々と抱えてイーリスの腕の中へと降ろしてくれた。すかさず私を落とさないよう抱き締めるイーリスの腕の感触に私からも腕を回しながら、私の口からは勝手に深く息が漏れ、体の強張りが解けていく。
ヤーヴァルの腕は誰より逞しく、私が落ちてしまわないようにしっかり守ってくれてはいた。それでも、やはり相手とは初対面であんな形で馬に乗せられ、おまけに疾風の如き速度で走られてしまっては、どうしたって緊張してしまうと言うものだ。
「ごめんなさいね、ミリアム。これでも、トーラをできる限り早く走らせて来たのだけれど……」
「謝らないでください。来てくださってありがとうございます、イーリスさん」
《おや。僕への感謝の言葉が聞こえないようだが?》
「勿論、トーラもありがとう」
《よろしい。存分に僕に感謝したまえ》
トーラの尾が機嫌よく振られるのを目にして私がくすりと笑ったところで、ヤーヴァルが、今度は一つ大きく柏手を打った。
「うむ! 護衛のレリオール殿もやって来たことだし、これで娘さんを今日の客人として気兼ねなくもてなしてもいいわけだな!」
ぬっはははは! と、今日二番目にご機嫌なヤーヴァルの大きな大きな笑い声が響き渡り――そして。
「どうしてそうなるんだよっっ!?」
悲鳴にも似たタァニの絶叫が、全員の心の声を代弁した。
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