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第五章 絡み合う思惑の果て

要請、可愛らしい出会い

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 隣国キスタスバと国境を接する、エリューガル最東部の都市オスタルグ。そこは、アレクシアがフェルディーン家へ嫁いだことを切っ掛けに、キスタスバとの交易都市として栄え始めた地でもある。
 エリューガル国内では最もキスタス人が多く住まう地でもあり、歴史は浅いものの、両国の文化が入り混じった独特の都市が形成されている。また、切り立った崖や剥き出しの岩肌が多く連なるシュナークル山脈東端ながら、不思議とエリューガル側は豊富な水と緑に溢れ、オスタルグの人々の生活はその恩恵によっても支えられていた。

「――ところが、近年、崖崩れや土砂による災害が頻発しておりまして。つい先日も大きな崖崩れが発生し、その影響か支流の一つが干上がってしまったのです……」

 訓練場から木陰へ移動し、私に向かって沈痛な面持ちでそう話すのは、そのオスタルグの礼拝堂に勤めていると紹介された神官である。
 オスタルグを含むフェルベルグ地方は湧水が多くある地で、昔からその水に生活を支えられてきたことから、どちらかと言えばクルードよりもリーテへの信仰心の方が強いと言う。人々が日常的に祈りを捧げる相手もリーテであり、この神官も神殿経由で「リーテの愛し子わたし」のことを知り、今回の事態に藁にも縋る思いで城までやって来たのだそうだ。

「水の豊富なオスタルグでは、災害によって川が干上がるようなことは長い歴史の中でも殆どなく、私共も手を尽くしてはいるのですが、立て続けに起こる災害の所為で多くの民に不安が広まっている現状でして……。ですから、ミリアム様にオスタルグへお越しいただき、民を安心させていただきたいのです。どうか、お願いいたします」
「……お話は分かりました。ですが、その……」

 すっかり窶れた様子で懇願する神官に、私は戸惑った。
 助けを求めてわざわざ私の元まで来たならば、私だって、できることなら力になりたいとは思う。けれど、ようやく動物と多少の意思疎通ができる力が発現しただけの私に、残念ながらそれ以上のことはできない。
 もしも神官の言う民を安心させる行為が、干上がった川を元に戻すと言うような人知を超える力の発揮を意味しているのであれば、尚更だ。
 何より、私は表向きには「第二王子を助けた子供」であって、「泉の乙女」として祈願祭に登場はしたけれど「リーテの愛し子」であることは公然の秘密――公表されてはいない。そして、当然キリアンはそのことを誰より知っている。そんな私が、どうやって民を安心させられると言うのだろう。
 神官から既に話を聞いているだろうキリアンが、それでも神官を私に引き合わせた理由が分からず、私は困惑した。そんな私に対して、キリアンからは申し訳なさが滲む笑みが向けられる。

「ミリアム。私の叔母のことを覚えているだろうか?」
「ミュルダール夫人……ですか?」

 セルマ・ガイランディア・ミュルダール。イェルドの妹であり、現在は結婚して王都から離れた都市に暮らしている元王女だ。
 彼女について私が知っていることと言えば、その名とキリアン達との関係。そして、毎年王都の祈願祭で泉の乙女役を担ってきた人物であることくらいである。今年は、泉の乙女役を急遽私が担った為に彼女が王都へ来ることはなく、私はまだ直接会ったことはない。
 突然出された無関係にも思える第三者の名に、私は目を瞬いた。

「ああ。実は、その叔母……セルマ様からも、こちらに要請があってな」

 ますます分からなくなってきた話の流れに、私は疑問符を浮かべながら眉を寄せる。
 神官の話とセルマの要請との接点が、私には見出せない。加えて、キリアンの口振りからすると、セルマの要請と言うのはどうも私に対してのように思える。何故、会ったこともない相手から私に対して要請が来るのだろうか。
 私のそんな疑問は、けれど直後のキリアンからの端的な一言によってすぐに解消した。

「セルマ様の御夫君は、フェルベルグの地方官の一人なのだ」

 つまりセルマは、元王女であると言う以上に地方官の妻として、頻発する災害に対し民の心を癒すべく奔走していると言うことか。例えば、被災地への慰問と言う形で。
 そんな彼女から私への要請となれば、考えられることは一つだ。

「夫人と共に私も慰問へ赴いてほしい……と言うことですか」
「そう言うことだ」

 慰問に訪れるセルマが連れる形であれば、それがいくら緑髪の子供だとしても、周囲は下手なことは聞けないし言えないだろう。そして、その私が形だけでもセルマと共に礼拝堂でリーテへ祈りを捧げれば、民の心を癒すのにこれほど絶大な効果を持つものもない。
 もしかすると、私の祈りをリーテが聞き入れてこれ以上の災害の発生を留めてくれたり、川に水を戻してくれたりする可能性もなくはないだろうし、私が祈ることで、私自身にも何か別の新たな力が発現する可能性だってあるかもしれない。
 納得する私に、更にキリアンが言葉を重ねる。

「無論、あなた一人だけを行かせるつもりはない。災害の状況をこの目で確かめる為に、私も共に向かうことになった。それに、実を言うとあなたへの要請にはもう一つあってな……」

 一旦言葉を切ったキリアンが、そこでふと頭痛を堪えるように眉を寄せた。

「――オスタルグの国境警備隊を、大人しくさせてもらいたいのだ」
「……はい?」

 予想外の内容に私が間の抜けた声を上げると同時に、私の隣に立つレナートまでがキリアンと似たり寄ったりな表情を見せ、こちらははっきり額に手を当てた。どうやら、非常に頭の痛い問題であるらしい。
 そんな二人の反応は、私に慰問へ行く以上の面倒事を予感させるもので。
 けれど、始終弱り切った顔で私に縋るような視線を送る神官の存在と、元王女からの要請、それに国境警備に関わるどうやら重大事であると言う事柄は、どうしたって私に断る選択肢を選ばせず――その日の内に、私のオスタルグ慰問は正式に決定してしまったのだった。


 ◇


 ごつごつとした黒い岩肌を背景に、深い緑の針葉樹が多く茂るエリューガル東端のフェルベルグ地方。ここは、王都よりも標高の高い場所に位置している。濃い色の地に吹く風は暑さを一時忘れるほどに涼やかで、間近に迫る山脈の偉容を始め、車窓からの新鮮な景色を見ていれば、長旅の疲れも癒えるほどに王都やシーナン地方とはまた違った風景の広がる土地だった。
 キリアン付きの騎士隊一隊に、キリアンの側近であるレナートとイーリス、私とキリアン、神官と文官を乗せた馬車、支援物資を積んだ荷馬車数台と言う一行は、慰問と視察が決まった翌々日には王都を発ち、一路フェルベルグ地方を目指した。
 道中、度々キリアンの存在が目立ちはしたもののその行く手を阻む問題が起こるようなことは一度もなく、天候にも恵まれて、旅程は順調だった。

 どこへ行くにも隙のない警護に、宿泊は当然毎夜屋根のある場所で手厚いもてなし付き。恐れ多くも私はキリアンに次ぐ賓客扱いを受けて、毎回個室が与えられた。けれど、私の護衛も兼ねて常にイーリスが同室で過ごしてくれたお陰で、不安や緊張と言った感情ばかりが私に伸し掛かって来ることもなかった。
 そして、移動中の馬車内では、キリアンからはセルマを始めとしたミュルダール一家のことや国境警備隊のことを、神官からはフェルベルグ地方のことを様々に教えられ、時折補足として文官が細かな説明を加えてくれるお陰で、退屈を感じる暇もなかった。
 また、時には馬車に並走するフィンや、イーリスの愛馬であるトーラと窓越しに会話をすることもあった。休憩時には、レナートが私をフィンに乗せてくれることもあり、休憩場所の近辺を散策したり、見かける動物との会話を試みたりもした。
 それらは、残念ながらこの旅にレイラを伴えなかった私の寂しさを十分に紛らわせてくれて、被災地への慰問と視察だと言うのに、それを一時忘れるほどには楽しい時間を過ごすことができた。

 もしかすると、これらは遠方への旅に不慣れな上、その後に慰問をこなさなければならない私への、レナートなりの気遣いだったのかもしれない。イーリスもそうだけれど、キリアンの側近としての仕事を第一に考えなければならない筈なのに私のことも常に気に掛けてくれていたのだと思うと、二人には感謝してもし足りない。
 そんな旅路を大きな問題もなくフェルベルグへ進んだ私達は、まずはオスタルグの手前にある都市、ミュルダール一家が住まうナーデルへと入った。
 幾つもの支流が流れ込んでできた大きな川に沿って家々が連なるナーデルは、渓谷の街だ。幅広の川に橋が点在し、川の左右がそれぞれに賑わいを見せる街並みは実に美しい。川で獲れる魚を使った料理が有名な地と言うこともあり、至る所で見たこと、味わったことのない魚料理と出会えたのも、始終私を楽しませてくれた。
 目指すミュルダール家の住まいは、それらの街並みを見下ろす位置に建つ古城だ。

 川沿いの道からでもはっきりと見ることのできる、木々の合間から聳える鈍色の立派な城壁に、監視の為の複数の尖塔。街を睥睨するかのような堂々とした佇まいの古城は、キリアンの訪問を受けて警備が強化されているのか歩廊に兵の姿も垣間見え、重厚な雰囲気に加えて、どこか重々しい。
 けれど、それらの光景を遠目に見て緊張していた私を出迎えたのは、見た目の雰囲気とは対照的な涼やかな空気だった。濃い土と緑、それから清涼な水の香りが一瞬にして私を包み込み、思わず気持ちがほっとする。
 次いで出迎えてくれたのは使用人の列と、玄関先にイェルドと同じ銀鼠色の髪をきっちりと結い上げた女性。女性のすぐ脇には、私より二つ三つ下と思われる男の子と、その彼より更に幼い三、四歳ほどの女の子が並び、こちらに興味深そうな視線を向ける姿があった。
 二人は、ここまでの道中でキリアンから話を聞いていたミュルダール家の子供だろう。もう一人、成人したばかりの長男がいると言う話だったけれど、その人物の姿はこの場にはなかった。

「叔母上、お久し振りです。二人も、少し見ない間に大きくなったな」
「よく来てくれましたね、キリアン。神官様も苦労をかけました。それから……」

 理知的な薄青の瞳が一瞬驚いたように瞠られ、すぐに嬉しそうに細められて私に微笑む。

「あなたがミリアムさんね。私はセルマ・ガイランディア・ミュルダール。お会いできて嬉しいわ。私の無理なお願いを聞いてくださって、どうもありがとう」

 浮かべられた笑みはイェルドによく似ていたけれど、より柔らかく母性に溢れたもので、見た目の雰囲気そのままに、セルマは私を優しい抱擁で迎え入れてくれた。

「私の方こそお会いできて光栄です、ミュルダール夫人。慰問では精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
「セルマで構わないわ。話に聞いていた通りの礼儀正しいお嬢さんね。それに……お母上によく似ていらっしゃる」

 過去を懐かしむセルマの表情に、ほんのわずか悲しみが過る。
 キリアンから聞いたところでは、母とセルマは親しい仲だったのだそうだ。母とは年齢が一つ違いだったこともあり、王女と言う特殊な立場にあったセルマにとって、将来義姉となる予定だった母は、数少ない心許せる存在だったのだろう。そんなセルマの前に現れた生前の母にそっくりな私の姿は、彼女にどれほど明瞭に過去を思い起こさせるものになっただろうか。
 セルマの笑みに垣間見えた悲しみの理由を思って、私も自然と眉が下がる。
 と、そんな私の足に、不意に軽い衝撃が走った。
 セルマが目を丸くし、隣で息子が慌てる様子に見下ろせば、そこにあったのはセルマと同じ色のふわふわとした髪。次いで、大きく丸い潤んだ瞳が私を見上げる姿だった。

「まあ!」

 その可愛らしさに私が相好を崩せば、小さな口から、だいじょうぶと舌っ足らずな声が零れ出る。

「かあさまも、とうさまも、おやさしいよ」

 だいじょうぶと繰り返すセルマの娘は、どうやら私が眉を下げたのはミュルダール家への不安の表れと取ったようだった。
 小さな手が元気付けるように私の服をきゅっと握る姿は何とも愛らしく、私はセルマとの挨拶の途中にも拘らず小さな体と視線の高さを合わせると、衝動のままにその子を抱き締めていた。

「私のことを心配してくださったんですね。ありがとうございます」
「あのね、こわいことがあったら、セシィがねえさまをまもってあげる」
「ふふ。それはとっても頼もしいです」

 ふわふわの髪に包まれた頭を撫でれば、くすぐったそうに肩を竦めて目を瞑る。その姿もまた堪らなく可愛くて、私の頬が勝手に緩んだ。どことなくエイナーの可愛さに通じるものがあるのは、やはり血縁だからだろうか。

「にいさまがねえさまをいじめたら、セシィがおこるの」
「あら。セシィさんの兄様は、とってもお優しそうに見えますよ?」

 小さくも頼もしい妹は胸を張ってそう言うけれど、妹が私にしがみ付いた瞬間からおろおろと慌てていた兄は、私にはどう見ても他人を虐めるような人物には見えない。むしろ、エイナーに似て心優しい兄だろう。
 実際、私が不思議に思って顔を上げれば、とんでもないとばかりに首を横に振って「セシリーが申し訳ありません」と妹の発言に対して謝罪をしてきた。
 周囲も、それぞれの仕事に取り掛かりながらも私達のやり取りに頬を緩めているので、二人は仲のいい兄妹なのだと分かる。もしかすると、この場にはいないもう一人の兄のことを指しているのだろうかとも思ったけれど、こんなに小さな子供が、いない人物の話題を真っ先に挙げるものだろうか。
 だから、やはり兄は優しいようだとセシリーへ言おうとして――それより先に、彼女の愛らしい口からとんでもない言葉が飛び出し、その場のほのぼのとした空気がひび割れた。

「でも、けっこんしたらおっとはひょーへんするって。だから、ねえさまはセシィがまもるの」
「け……っ!?」

 重たい物が地面に落ちる鈍い音と共に、その場にいた全員がぎょっとする。

(えっ!? 一体誰が!? 誰と!? と言うか、誰がそんなことを!?)

 あまりの発言に私が絶句している間に、流石のセルマも慌ててセシリーを抱き上げ侍女へと渡し、セシリーの兄も、再びとんでもないと高速で首を横に振って妹の言葉を否定した。
 ただし、今度の否定の先は私ではなく、キリアンだ。見れば、キリアンが冷え冷えとした視線でセルマを睨んでいた。

「叔母上……どう言うことですか? まさか、慰問は口実で――」
「落ち着きなさい、キリアン。私は、そんなつもりでミリアムさんをここへ呼んだわけではないわ」
「では、今のセシリーの発言は? 何故、ミリアムに向かって結婚などと言う言葉が出て来ると?」
「だから、娘の勝手な勘違いよ」

 眼光鋭く詰め寄るキリアンを躱して私を立たせたセルマは、キリアンが呼び止める声を無視してこの場を使用人達へと任せると、そのまま私の手を引いて城内へと入って行った。
 背後で音を立てて扉が閉まると、途端に慌ただしい空気が遠ざかり、吹き抜けの大階段に窓から差し込む光が溢れる城内に、二人の足音だけが響く。
 玄関前の広間を突っ切り大階段の袂まで来たところでセルマの手が離れ、私もようやく衝撃から冷めて回り始めた思考で、一つ大きく息を吐いた。
 扉の外では仕事を再開した人々の賑やかな様子が微かに聞こえるけれど、こちらに遠慮しているのか、扉が再び開く様子は今のところない。そのことを確認して気持ちを落ち着けると、私は一旦周囲を見回した。

 足を踏み入れた城内は、至る所に緑が飾られた、外観からは想像できない落ち着きのある心安らぐ空間が広がっていた。リーテを信奉する民の多い地だからだろう、壁には水のある風景を描いた絵画が多く飾られ、中には女神リーテと思しき女性を描いたものもある。
 珍しいものとしては、明らかにエリューガルの民ではない、湾曲した幅広の剣を掲げた戦士の姿が描かれたタペストリー。こちらは、キスタス人だろうか。
 その物珍しさに私が思わず目を奪われていると、不意にセルマから謝罪の言葉が告げられた。

「先ほどは娘がごめんなさいね、ミリアムさん」
「いえ、そんな。セルマ様が謝罪されることでは……」

 そのことについては、セルマ自身が随分と慌てていたのだから、彼女にとっても予想外だっただろう。むしろ、あの場の誰より驚いたのはセルマだったのではないだろうか。
 だって、まだ五つにも満たない自分の子供の口から、まさか「結婚後に夫が豹変する」なんて言葉が出てくるなんて思わないのだから。
 一体誰がそんなことをセシリーに教えたのか、もしくは彼女の耳に届く場所で口にしたのか……今頃侍女達は、このあとに来るだろうセルマからの叱責を思って、戦々恐々としていそうである。

「誤解しないでほしいのだけれど、本当に私達はそんなつもりであなたをここへ呼んだわけではないの。勿論、あなたにそれを望む気持ちもないわ」

 セルマはそう言って、小さく息を吐く。そこにあったのは、娘の突飛な発言に困らされた母の横顔だった。
 セルマが言うには、成人したばかりの長男には特定の女性がおらず、兄しかいないセシリーは姉の存在に強い憧れを持っているのだとか。また、最近は子供向けの恋物語の読み聞かせを好んでもいるそうで、そんな時に現れた私を一目見て、セシリーは長男の妻になる女性が来たと思い込んだのではないかとのことだった。
 では、私のことを「姉様」と呼んだのも、単に私が年上の女性だからと言うだけではなかったと言うことか。せっかく期待してくれただろうに、セシリーには申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

「娘には、私から言い聞かせておくわ」
「がっかりさせてしまいますね」
「いいのよ。姉様ができてしまったら、あなたの兄様を独り占めできなくなるとでも言っておきますから」

 そんなことを母から言われたら、それは嫌だと、セシリーは長男にしがみ付きそうだ。その光景を想像して、私はセルマと小さく笑い合った。
 それから、何を思い出したのか、セルマが不意におかしそうに吹き出す。

「それにしても、レナートのあんなに動揺した顔を見たのは久々だわ」
「レナートさんがどうかしたのですか?」

 唐突に出て来たその名に私が首を傾げれば、セルマはくすりと笑って顔を寄せた。

「ミリアムさんには見えていなかったでしょうけれど、彼ったら、娘の言葉を聞いて馬車から下ろしていた旅行鞄を取り落としていたのよ。キリアンよりも、それはそれは驚いた顔をして。……大人になってからは、常に澄まし顔でいる人なのに」
「まあ。そんなことが」

 そう言えば、あの時背後で何か大きな物が落ちる音がしていた。
 振り返る余裕もなかったから確かめなかったけれど、なるほどあの物音の正体は旅行鞄だったのか。まさか、私の視界の外でそんなことが起こっていたとは。そして、セルマを笑わせてしまうくらいのレナートの驚いた顔とは、一体どんなものだったのか……少しばかり気になる。
 けれど、あんな言葉を小さな子供から聞けば、驚いて荷物を取り落としてもおかしくはないだろう。私だって、レイラの言葉がはっきり聞こえた時には、手にしていた物を落としてしまったことだし。

「皆さん、驚かれていましたからね。それより、レナートさんに怪我はなかったでしょうか」
「怪我の心配はなさそうだったけれど……ミリアムさんは気にならないの?」
「何が……でしょう?」

 レナートに怪我がなかったのであれば、私にはそれ以上に気にすることなど何もないのだけれど、セルマには何か他に気になることがあったのだろうか。
 私が不思議に思っていれば、セルマはわずかに目を丸くして、あら、と小さく呟いた。それから、意味ありげな視線と共に声を潜めて私に囁く。

「だって、彼があれほど驚くのよ? そう言うことを意識する相手がいるのかもしれないと思うでしょう。キリアンもようやく意志を固めたようだし、主に倣って……と彼が考えてもおかしくないのではない?」
「レナートさんが……?」

 セルマの言葉に、私はレナートの姿を思い浮かべながら考える。
 祈願祭の時には、レナートにはまだ決まった相手はいない様子だった。けれど、それは私が勝手にそう思ったたけで、直接本人に尋ねたわけではない。だから、実はその時から既に誰か決まった相手がいて、けれどキリアンより先にとは考えられず、相手がいる素振りすら見せないようにしていたのだとしたら。イーリスも身近な人以外には王都ではフレデリクのことは口外していないと言っていたし、十分考えられることだろう。

 そもそも、突然保護することになった見ず知らずの子供である私に対してすら、過保護と思えるほど優しく頼もしいレナートを、女性が放っておく筈がない。それに、レナートだっていい大人なのだから、相手がいる方が自然とも言える。
 レナートの好む女性像は知らないけれど、あのレナートが思いを寄せるほどの相手が、誰もが羨む素敵な女性でないわけがない。二人並べば、きっととてもお似合いだろう。
 いつかそんな二人を目にする日を思い浮かべて、私は胸を高鳴らせた。

「もしもそうだったら、素敵なお話ですね」

 私は、満面の笑みを浮かべて胸元で手を合わせる。向かいのセルマは何故か私の反応に意外そうな顔をしていたけれど、ふ、と柔らかく笑うと私を促して歩き出した。

「王都からここまで距離があって疲れたでしょう、ミリアムさん。まずは部屋に案内しますから、ゆっくり休んでらしてね」
「ありがとうございます、セルマ様」

 私達が歩き始めてすぐ。まるで見計らったように玄関の扉が開き、人の出入りが再開する。少しばかり慌ただしさが戻った玄関を背に、私はセルマの案内を受けながら城内を進んで行った。
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