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第四章 母の故国に暮らす

試された先の決意と忠誠

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 ヒューゴの独断によって救護室の外で待たされていたイーリス達は、部屋へ招き入れられるなり、起き上がっている私の姿に盛大に安堵して強く抱き締めてくれた。
 口々に私の体調を心配し、それに対して私が笑顔で問題ないことを伝えれば、再び抱き締めて無事を喜び合い、それからようやく落ち着いて全員でソファに腰掛ける。一人、ヒューゴだけはマーリットの後ろに立つことを選んだけれど、その視線は皆と同様私に注がれて、部屋に仄かに緊張感が漂った。
 その中で、私は自分が体験した出来事を簡潔に告げる。

「女神リーテにお会いしました」

 私の言葉に息をのんだのは、誰だっただろう。けれど、それは直後に発されたヒューゴの大きな声によってすぐに掻き消されてしまった。

「では、ミリアム様は女神リーテの神託をお受けになったのですね!」

 何と素晴らしい、やはりミリアム様は選ばれしお方だと感動に打ち震えるヒューゴに小さく苦笑して、私は正面に座るマーリットへ顔を向けた。森では上手く答えられなかった会話の続きをするように、瞳にぐっと力を入れる。

「リーテは私に、生命を躍動させよと仰いました。その躍動を全て肯定する、とも」
「生命の躍動を尊ぶ女神らしいお言葉ね。……それで、ミリアムさんは女神のお言葉を聞いて、どうなさるの?」

 マーリットがそう問うた瞬間、まるで私が見据えていることを分かっているかのように、目の見えない筈の彼女と目が合った。柔らかい声、可愛らしく首を傾げる仕草とは裏腹に、マーリットの口元に浮かんだ笑みは私を圧倒する強さを持って、私を試す。
 マーリットもまた、先ほどの会話の続きを所望していた。
 果たして私は、何をもって生命の躍動とするのか。リーテの言葉を受けて、私はどう行動するのか。リーテの愛し子であることをどう考えるのか。何を選び取るのか。
 先ほどは答えられなかった私の答えを、マーリットはどこか楽しげにじっと待っていた。だから、私もマーリットに立ち向かうように背筋を伸ばし、明確に力を込めて答える。

「私は、王都へ帰ります」

 そうすれば、マーリットは途端に失望に小さく息を吐き、その後ろのヒューゴは信じられないとばかりに鮮緑の瞳を見開いた。

「あなたは、もう少し賢い子だと思っていたのだけれど……残念だわ」
「何故です、ミリアム様! あなた様は神の愛し子……我ら人の上に立たれる尊いお方ではないですか。そんなお方が、何故みすみすその身を蛮族に預けることをよしとなさるのです? どうか、我らと共に神殿へ行くと、そう仰ってください!」

 懇願と共にマーリットの後ろから歩み出て来たヒューゴが、私の前に跪いて手を取る。けれど私は、はっきりと首を横に振った。
 もう決めたのだ。いや、本当は初めから私の心は決まっていた。ただ、あの時はマーリットによって整えられた舞台上で冷静さを欠いて、迷わなくともいいものを迷わされてしまっただけで。
 確かにマーリットの言うことは正しく、私に彼女の考えを理解させてしまえるくらい、間違ってもいなかった。マーリットは彼女の立場から、最善の道を私に説いたのだ。けれど、それがたった一つの正解と言うわけでも、私に課された義務と言うわけでもない。だから、私は神殿へ行くことは選ばない。
 何より、私は確かにリーテの愛し子だけれど、その前に「ミリアム」と言う一人の人間なのだ。「リーテの愛し子」としてしか私のことを欲していない神殿になど、誰が好んで行きたいと思うだろうか。
 ただ一つ、気にかかることがあるとするならば――それは、今目の前で跪いている彼のことだ。
 私はヒューゴに包まれた私の手をそっと引き抜き、愕然とする彼に呼び掛けた。

「ヒューゴさん。一つ、お聞きしてもいいですか?」
「……はい」
「あなたは、何をもって私を尊いと言うのです?」
「無論、あなた様がリーテの愛し子様だからでございます」

 私の行動に傷付いた顔をしながらも、ヒューゴの答えは自信に満ちて明快だった。その答えを聞いて、私の中に納得と落胆が広がる。
 何の迷いもなく愚直に本気でそう信じていると分かるヒューゴは、やはり真面目で素直で、純粋な人だ。けれど、それではいけないのだ。そんな人だからこそ、ヒューゴもまたマーリットにいいように利用されてしまったのだから。
 私に曇りのない鮮緑の瞳を真っ直ぐに向けるヒューゴの様子を見ていれば、嫌でも分かってしまう。マーリットが彼に偏った情報しか与えていないことを。きっと、彼女はヒューゴに肝心なことは何も伝えていないのだろう。たとえば、アルグライスでの母や私の境遇について。そうでなければ、救国の乙女に心酔するヒューゴがこんなに落ち着いて私と会っている筈がないのだ。

 残念だと言ったきり、口を噤んで私とヒューゴの会話を聞いているだけのマーリットに対し、私の中にどうしようもない苛立ちと対抗心が湧き上がってくる。
 さあ、ヒューゴの言葉を聞いてあなたはどうなさるの? わたくしの手を跳ね除けて堂々と王都へ帰ると言い切ったのだから、せめてわたくしを納得させてごらんなさい――ぴくりとも動かない彼女からは、そんな言葉がせせら笑いと共に聞こえてくるようですらあった。
 流石は、神殿序列第二位のマーリット神官だ。誘いを断って、素直にはいそうですかで終わらせてくれるほど甘い相手ではない。ここで私が納得させられる行動を取れなければ、彼女は再び私に接触して来るのだろう。私を神殿へ連れていく為に。今度もきっと、ヒューゴを使って。
 それは、許せることではない。

 分かっている。いくら友人に暴言を吐いた人だとしても、裏を返せばヒューゴはそれだけ一途に母を、そしてその娘である私への気持ちを持ってくれているのだと。少しばかり人よりも真っ直ぐすぎるだけで、きっと悪い人でもない。そして、生憎私はそんな人を平気で放っておけるほど、冷たくできてはいないのだ。
 だからこそ、ヒューゴのことが気にかかったのだから。そして、こうしてマーリットに試されているのならば、私の為にも彼の為にも、受けて立つしかないではないか。
 だから私は、言葉を紡ぐ。

「……私には、何の力もありませんよ?」
「そのようなこと、いずれ必ず、あなた様にも女神の加護が花開く時が参ります」
「私の父は、あなたの嫌う異国の者ですが」
「何を仰るのです。ミリアム様は遠き国のお生まれとは言え、その国の貴族家にて生を受けたと聞き及んでおります。何よりそのお姿は、間違いなくエステル様のお子である証。そのような方を嫌うなど」

 ヒューゴは、そんな悲しいことを言わないでほしいと再び私の手を握り、彼の私への忠誠を示そうとしてくる。そんな彼に、けれど私はなおも淡々と続けた。恐らくは、素直な彼を苦悩させるであろう言葉を告げる為に。

「……では、ヒューゴさんは、貴族の生まれであれば異国の者でも尊いと?」
「無論です。王家より特権を与えられ、平民を統べる地位にあられる方の血が、卑しい筈がございません」
「それは……幼い我が子に理不尽な暴力を振るう者でも、ですか?」
「――は?」

 ヒューゴの表情が固まり、何を言われたのか理解できないとばかりに、その瞳が私を見上げて瞬く。予想した通りの反応に、私の心がほんの少し痛んだ。
 けれど、ここで怯んではマーリットを納得させられはしない。ヒューゴを利用させることを止めることもできない。
 私は、ここ最近では思い出すことのなかったアルグライスでの生活を思い出しながら一度深く呼吸をし、腹に力を込めた。そして、わずかに顔色を悪くさせたヒューゴへと語る。
 父である屋敷の主人が、私や母に対してどんな仕打ちをしてきたのか。その仕打ちの結果、母がどのように死んだのか。残された私がどうやって生きて、この国へとやって来たのか。
 それから、改めてヒューゴへ問うた。あなたは何をもって私を尊いと言うのか、と。

「私の中には、一度は確かに愛したであろう相手や、その相手との間に生まれた実の子にすら平気で暴力を振るう人間の血も入っています。……いえ。あれだけ暴力を振るわれていたのなら、もしかしたら、私は二人が愛し合った結果生まれたのではないかもしれません。それは、ヒューゴさんにとっては卑しく下賤で野蛮な人間ではありませんか?」

 私を偽者と罵ったことを後悔した時同様の顔色になってしまったヒューゴからは、すぐに言葉は出て来なかった。
 国を救った英雄の末路がこれほど悲惨であれば、心酔しているヒューゴにとっては尚更信じ難いだろう。その子である私の出生も、のちの暴力を考えれば知れたものではなく、人によっては悍ましいと感じるに違いない。
 私の手を握る指先は話の内容に衝撃を受けているのか小刻みに震えて、ヒューゴにとって今の話がどれほど想像の外だったのかを私に知らせていた。

「……な、ぜ……」

 母はそんな男との間に子を儲けたのか。その男の元から逃げ出さなかったのか。そこまでの酷い仕打ちを受けなければならなかったのか。死ぬまで耐え続けたのか。
 私の問いに答えることも忘れて、ヒューゴの瞳に衝撃のままに様々な疑問が浮かぶ。

「母が亡くなったのは私がまだ六つの時でしたから、母が何を考えていたのかは、私にも分かりません」
「……せめて、ご自分の、ことを……」
「そうですね。愛し子だと告げていたら、母は今でも生きていたかもしれません。ですが、その生活はきっと、リンドナー家にいた時よりももっと悲惨なものになった筈です。私だって、この国にこうして来ることなんてできなかったと思います」

 私は、母が有した力を知らない。けれど、たとえ些細な力であっても普通の人には決して持ち得ないものを有していると知られれば、あの国ではそれだけで母の自由を奪う正当な理由となる。
 そうなったら、母は保護の名の下に管理――監禁――されただろう。加えて、母の力が明確に国の益になると判断されたなら、力の行使を強要されたに違いない。私が母と同じ色を持って生まれれば、その瞬間から私もまた道具として管理され、私の存在があることで、更なる力をと、母は望まぬ妊娠を繰り返させられたかもしれない。
 それは、使用人として生きるよりどれだけ辛いことだろう。そんな生活を強いられることを考えれば、あの男の理不尽な暴力に耐えることなんて、どうと言うことはなかったに違いない。

「私が生まれたアルグライスと言う国は……東方十国はそう言う国々なのです。このような国は、ヒューゴさんの考えに則せば、十分野蛮な異国と呼べるのではありませんか?」

 ヒューゴは言葉を発することなく私の手を握る彼自身の両手に視線を落とし、眉間に皺を寄せた。
 エリューガルは身分差がなく、二十五年前の事件を除けば大きな争いもない、実に平和な国だ。愛し子の存在が周辺国との争いを呼び込むこともあるそうだけれど、これまでに国の存続が脅かされるほどの事態に発展した例はなく、シュナークル山脈が自然の要害となっている為、そもそも攻め込まれにくい。そして何より、黒竜クルードに守護されていると言う事実は他国には底知れぬ脅威であり、民には大いなる安寧をもたらしている。
 そんな国に生まれ育ったヒューゴには、東方十国のような国の在り方は、すぐには想像できないことだろう。

「それでもヒューゴさんは、リーテの愛し子だからと言う理由だけで、私を卑しくないと言いますか? 野蛮な異国人の血を継いでいても、残りの半分は間違いなくカルネアーデの血を継いでいるのだから問題ないと、尊い存在として受け入れるのですか?」

 それならば、野蛮とは一体何をもって言うのだろう。そう言う考え方こそ、乱暴で野蛮なのではないだろうか。
 生まれや血筋、身に宿る力の有無だけで人の尊さは決まるものではない。母や私が経験してきた人生が物語る通り、そんなものの価値は場所が変われば全く異なってしまう。
 私自身、すっかり染みついた考えからアレクシアに恐れを抱いた瞬間もあったけれど、共に暮らしていれば恐れることが馬鹿らしくなるくらい、彼女はとても素敵な人だった。
 キリアンだってそうだ。クルードの愛し子として大きな力をその身に宿し、人とは違う特別な存在のように見えても、決して完璧な人ではない。突然のことに狼狽え、理不尽なことに怒り、愛する人を思って微笑み、恥ずかしさで赤面もする、ただの人なのだ。

 どうか私の思いが伝わりますようにと祈るような思いでヒューゴの返答を待てば、視線を落としたままの彼はいつの間にかその目をきつく閉じ、じっと私の言葉を考えているようだった。
 やがて、しばしの沈黙を挟んで顔を上げたヒューゴは、苦悩の陰を取り去った真面目な表情をそこに表していた。同時に、私の手を握る両手に力が籠る。

「ミリアム様。……やはりあなたは、尊いお方です」
「ちょっ! あんた、今のミリアムの話ちゃんと聞いてたの!?」

 私に対してこれまでと変わらぬ言葉を告げるヒューゴに真っ先に反応したのは、私の隣に座っていたイーリスだった。怒鳴った勢いのまま腰を上げるのを慌ててライサが引き留めてくれたけれど、手をテーブルに打ち付けることは阻止できず、室内に大きな音が響き渡る。
 けれど、イーリスの苛立ちも露わな視線を前にしても、ヒューゴは落ち着き払っていた。

「失礼なことを言うな。この私がミリアム様のお言葉を聞き逃すと思っているのか? 一言一句漏らさず聞き、間違いなくお言葉に込められた思いも受け取っているとも。……流石に私を馬鹿にしすぎだぞ、イーリス」
「だったら――」
「だからこそだ。だからこそ私は己の浅慮を恥じ、改めてミリアム様は尊いお方だと言ったのだ」

 きっぱりと言い切るヒューゴからはどこかこれまでとは違う真剣さが感じられ、私は小さく息をのむ。これはつまり、私の言いたいことはヒューゴにきちんと伝わったと思っていいのだろうか。
 そんな期待を込めてヒューゴの横顔を凝視していれば、不意に正面へと戻って来たヒューゴの瞳と思い切り見合ってしまう。思わぬことに互いに驚いて目を瞬き、けれど次の瞬間、ごく自然に幸せが溢れ出たような柔らかな微笑みをヒューゴから向けられて、私の心臓が大きく跳ねた。

「……ミリアム様」

 更に、溢れた笑みそのままのこれまでにない柔らかな声で名を呼ばれてしまい、再び跳ねる心臓と共に過剰に肩が揺れてしまう。

「な、んでしょう?」

 頬が熱いのは、うっかりつかえてしまったからだと思いたい。現実を逃避するようにそんなことを考えていれば、ヒューゴは私を笑うこともなく、ただもう一度、今度は改まった調子で私の名をその口にした。

「ご無礼を重々承知の上で、ミリアム様に一つお願いがございます」
「……お願い、ですか?」

 私が聞き返すと、ヒューゴはこれまでずっと握っていた私の手を離し、代わりに腰の剣を私へと差し出した。

「どうか、私があなた様へ剣を捧げることを、お許しいただきたいのです」

 一拍ののち、その一言に疑問符を浮かべたのは私。絶句したのはイーリス達。まあ、と楽しそうに弾んだ声を上げたのはマーリットだった。
 そして室内に響いたのは、先ほどのものより驚きが多分に含まれたイーリスの大声。

「――はぁっ!? ヒューゴ!! あんた、どさくさに紛れて何言ってんのっ!? 馬鹿なの!? 阿呆なの!? 叩っ斬るわよ!?」

 今度こそ立ち上がったイーリスが、驚きと怒りと呆れと様々な感情を爆発させて、ヒューゴの胸倉を掴まんと素早く腕を伸ばす。けれど、その腕は今度もライサと、更にはテレシアも加わって寸前で引き戻され、勢い余ってイーリスの体はソファに倒れた。その衝撃にソファが盛大に弾み、よろけた私の体をヒューゴが咄嗟に支えてくれる。
 一体、イーリスは何をそこまで怒るのか。今のヒューゴの言葉は、そんなにも常識に外れたものなのか。
 ライサに後ろから必死にしがみ付かれ、テレシアに手を握って宥められるイーリスの珍しい姿に目を丸くしていると、あらあらと、相変わらず楽しそうに傍観を決め込んでいるマーリットの声が聞こえてきた。

「もしかして、ミリアムさんはご存知ないの?」
「何を……でしょう?」
「騎士が剣を捧げる意味よ」
「それは知っています、けど」

 騎士が主へ忠誠を捧げることを意味することは知っている。それは知っているのだけれど、だからこそ、ヒューゴが突然私に対してそんなことを言い出したことに疑問しかないのだ。
 いくらヒューゴが神殿騎士でリーテの愛し子である私を特別視しているとしても、それでどうして、私に忠誠を捧げるなんてことになったのか。しかも、あの話の流れで、だ。
 一体全体、どこにそんな話に繋がる要素があっただろう? 私はただ、これ以上ヒューゴがマーリットに利用されないように、彼の立場が悪くならないように、可能な限り言葉を尽くしてマーリットを納得させようとしただけなのに。
 諸々の意味を込めて私が首を傾げれば、その仕草が見えたわけではないだろうけれど再びマーリットがころころと笑い、それならこちらかしらと、実に楽しそうに人差し指を立てた。

「愛し子は騎士を持てるのよ、ミリアムさん」
「…………へ?」

 理解するのにたっぷり数秒を要し、私はいまだに私の体を支えてくれているヒューゴの顔を見返した。
 目の前にある無駄にきらきらとした顔が、その通りだとはっきりしっかり頷いてマーリットの言葉を肯定するのを目にして、私は更に言葉を失う。

「カルネアーデは私兵団を持つ家だったから、神殿が用意するリーテの愛し子の為の騎士隊から専任の騎士をと望んだ人は多くはないのだけれど、クルードの愛し子と同じくらい、リーテの愛し子だってこの国ではとても大切な存在なのだもの。自分の為の騎士を持ちたいと考えることも、リーテの愛し子をたった一人の主にと望むことも、おかしなことではないでしょう?」

 これは、納得していいのだろうか。一瞬、「そうですね」と頷きかけて、私は慌てて動きを押し止めた。
 油断も隙もないマーリットのことだ。ここで私が肯定的な反応を見せれば、これ幸いと同意と受け取り、ヒューゴを私の騎士にしかねない。ヒューゴはヒューゴで、それはもう決意漲る純真な瞳をこちらに向けて私の騎士になる気満々でいるようにしか見えなので、うっかり微笑みかけでもしたら、私がヒューゴの剣を受け取ったと勘違いされそうだ。
 失望していたのが嘘のように、いつの間にか至極楽しそうに口に曲線を描くマーリットの姿に、ここに来て再び彼女にしてやられたことに、私はようやく気が付いた。

 まさかとは思うけれど、マーリットはこうなることを初めから見越していたのだろうか。私は自分なりに考えて行動し、思いを言葉にしていると思っていたけれど、実はそうではなく、マーリットに全て仕組まれていたのだとしたら。
 マーリットは一体いつから考え、どこまでを思い通りに実行させたのか。私が衝撃に何も言えずにいると、不意に横から伸びてきた腕に体を引き寄せられた。
 ふわりと香った香水に、その人物がイーリスであることを知る。

「そんな顔をしなくても大丈夫よ、ミリアム。あくまで望めば持てると言う話で、不要ならきっぱり断っていいのだから。第一、今のあなたはフェルディーン家の保護下にある子供でしょう。こう言う大事なことには保護者の同意が必要なのだから、深刻に受け止める必要はないのよ」

 取り乱してごめんなさいね、とついでに謝罪するイーリスの存在に安堵感が押し寄せて、私は自分からイーリスへと腕を回した。よしよしと頭を撫でられて、先ほどまでぴんと張り詰めていた気がじわりと緩む。

「むしろ、さっきのあいつの発言は、例えるなら出合い頭に相手に求婚するような非常識極まりないものなんだから、まともに聞かずに突っぱねなさい」

 騎士が主を定めてその剣を捧げることは、互いを知り信頼関係を築き、更にその上で特別に強い思いを持って望むものであって、今日が初対面の相手に軽々しくやっていいものではないのだと、イーリスがごみを見るような目でヒューゴを睨み付けた。

「……イーリスの言うことはもっともですが……その、私の身では、この機を逃せば次はいつミリアム様にお目通りが叶うか……。ですから、非常識だろうと何だろうと、私の決意だけは今この場でミリアム様に知っていただきたかったのです」
「それが図々しいって言ってんでしょうが。そう言うところが馬鹿だって言ってんのよ、あんたは」

 イーリスにぴしゃりと言われて、ヒューゴはとうとう押し黙って項垂れてしまう。その姿はまるで叱られた犬のようで、思わず私は小さく笑ってしまった。そのことにヒューゴが更に肩を落とすのを見て申し訳ない気持ちになりながらも、私はソファに座り直して考える。
 放っておけないと感じたヒューゴに、どんな言葉を返すのか。たとえマーリットの狙い通りになっているのだとしても、マーリットが納得する、私なりの答えを出さなくてはいけない。自分の気持ちに嘘はつきたくない。

「……ヒューゴさんの決意は、分かりました。ですが、今はそれに応えることはできません」

 ほんの少し前にライサを侮辱したその口で、考えを改めたので私に忠誠を誓うことを許してほしいと告げられても、簡単に受け入れられるわけがない。

「ごもっともなことだと、承知しております」
「ですから。……二年、お待ちします」

 私が成人するまでのおよそ二年。正確には一年と半年。その間に、私にヒューゴのことを信じさせられるだけの証を立ててほしい。今日の言葉が嘘ではないと示してほしい。私もまた、リーテの愛し子と言う自分の立場と向き合い、自分がどうあるべきかを考えながら、前を向いて生きるから。
 それに、できない約束をしたくはないから、きっと呪いのことだって何とかしてみせる。

「それで、構いませんか?」
「異論などあろう筈もございません。ミリアム様の寛大なお心に感謝いたします」

 そう言って、ヒューゴは額づくほどに深々と頭を垂れた。その向こうでは、マーリットが満足そうに口元に笑みを刷いており、それを見て、どうやらマーリットを納得させるだけの決着に導くことはできたようだと、私は密かに胸を撫で下ろした。
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