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第四章 母の故国に暮らす

私にできること

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「では、何かございましたらいつでもお呼びくださいね」

 食べ終わった食器を乗せたワゴンを押しながら、柔らかな笑みと共に侍女が退室するのを見送って、私は静かに席を立った。
 ここは、フェルディーンの屋敷にある私の自室だ。野盗から逃げる途中に湖に落ちて溺れ、それを助けられていつの間にか眠ってしまった私は、目を覚ましたら自室のベッドに寝かされていた。
 湖からどうやって助け出されたのか、意識が朦朧としていた私が覚えていることは殆どない。ただ、必死に私の名を呼ぶレナートの声があったこと、目を開けた時にずぶ濡れのレナートの顔があったこと、それから森の魔女と名乗った女性が手を貸してくれたらしいことは、朧げながらも記憶にある。

 そんなことをベッドの中でぼんやりと思い出していた私は、ふと見た外がとっくに日が暮れて暗くなっていたことに、酷く驚き慌て、布団を跳ね上げる勢いで跳び起きた。そんな私を落ち着かせてくれたのは、今ほど退室した侍女だった。
 彼女はアレクシアに私の世話を頼まれ、私がいつ目を覚ましてもいいように、そばについていていてくれたらしい。そして目覚めたあとには、私の知りたいことを、何を言わずとも教えてくれた。

 その侍女が言うには、私達が屋敷へ戻ったのは予定よりも随分と早い、夕刻に差し掛かったばかりの頃。手足を縛った男達を乗せた荷馬車を伴い、見覚えのないローブに包まれて眠る私をレナートが大事に抱えての帰宅だったのだとか。
 たったそれだけで、遠乗り先で何かがあったのは一目瞭然だっただろう。
 玄関先で私達を出迎えたアレクシアは、行きとは全く違う様相で帰って来た息子達の姿を見るや、詳細を聞くより先に剣を手にし、招待を受けていた城での晩餐会を蹴って、荷馬車に乗り込んでしまったのだと言う。
 私には、気にせずゆっくり休んでいるように、との言伝を残して。

 そして現在。サロモンは晩餐会へと赴き、アレクシアとレナートは野盗の対処で城へと行ったまま、まだ帰宅していない。フェルディーンの屋敷にいるのは、私だけ。いつもならばこの時間は静まっている私兵団の宿舎付近が騒がしいのは、恐らくアレクシアから何かしらの指示が出されたからだろう。
 宿舎の入口辺りに焚かれた火が時折地面に落とす人影を窓からしばらく眺めてから、私はその足を鏡台へと向けた。椅子に座り、大きな鏡に映る自分の姿と相対する。

 毛先に行くにしたがって空気を含んで広がっていく、鮮やかに艶めく緑の髪。少しばかり薄い、けれども形は整った唇。すっと通った鼻筋。丸みを帯びて少し目尻の下がった瞳。ゆるりと弧を描く眉――ウゥスのブラシの効果が失せたその顔は、ここ最近、何故か直視することを避けていた自分の顔だ。
 けれど、今はもう直視を恐れる気持ちはない。
 久々に自分の顔とはっきり向き合って、記憶にある姿と見事に重なることに、私は思わず苦笑した。

「……やっぱり、お母様の顔だ」

 この顔は、私が呪われている証。
 日中、湖に落ちた際に自分の姿を目にして鮮明になった記憶は、今も忘れることなくはっきりと私の中にある。
 呪いのこと。私と言う存在について。それを知り、考える切っ掛けとなった図書館での出来事。そのあとに起こした私の行動。
 改めて思い返すと、私はなんて突拍子もないことを考えたのだろうと、思わないでもない。けれど残念ながら、目の前の姿が私の考えの全ては否定させてくれない。それに、何と言っても王家に仕えるまじない師が断言したのだから、私が呪われているのは疑いようのないことなのだろう。何より、そうでなければ繰り返す人生に説明が付かないし、キリアンにとって害となる存在である可能性も消えるものではない。
 本当に、どうしてこれまで私は呪いについて思い至らなかったのか。

 私は一つ息を吐き、改めて鏡に映る自分の姿を見つめた。
 溺れた時には、記憶が鮮明になった衝撃からか衝動的に死を望んでしまったけれど、冷静になった今は、そんな気持ちはない。ただ、どこか虚しさのようなものは感じている。それに、これまでのように、単純にフェルディーンの屋敷で新たな生活を楽しもうと言う気持ちも、ずっと薄らいでしまった。
 だって、私が母の似姿である限り、私には長い人生も幸せな人生も望めないのだから。私のことを大切に思ってくれる人達には申し訳ないけれど、私にはそんな価値はないのだ。
 それでも、あの日の出来事を早い段階で思い出せたことだけは、幸運だと思っている。それに、湖で溺死しなかったことも。
 こうして生き延びたのならば、この幸運を生かさない手はない。
 私は今日の出来事を振り返り、目を伏せた。そして、考える。これまでの人生でもそうしてきたように、これからの私が成すべきことについて。

(……多分、だけど)

 野盗に襲撃されても無傷のキリアンと、湖から助け出された私。
 この二つに繋がりがあると仮定したとして、キリアンが死ななければ私も生き延びるのだとしたら――恐らく私は、当面は死ぬことはないのだろう。
 死にそうな目に遭ったとしても、何とか生還する筈だ。今日のように。ただし、それは私がリーテの愛し子として授かった力が、きちんと発現するまでだとも思う。
 私が自分の内にある力を自在に扱えるようになり、愛し子としてキリアンと同等の存在になってしまえば、呪いの力がキリアンを殺し、私も死んでしまうに違いない。今はまだキリアンの力が強く、私の呪いがキリアンを上回れていないのだと考えれば、今日のことで二人共無事だったことにも説明がつく。

 では、私の力が発現しなければキリアンは死なず私も生き続けられるかと言えば、それは難しいだろう。私には、リーテの雫が与えられているのだから。
 リーテの雫を首から外して力の発現を遅らせればとも思うけれど、アレクシアやレナートに気付かれない自信はない。アレクシアはよく私のことを抱き締めるし、レナートだって頭を撫でてくる。首に下がるものがなければ、二人が気付かない筈がないのだ。
 そしてそれが見つかった時、彼らの追及を上手く躱す自信も、残念ながら私にはない。
 となれば、私はリーテの雫を身に着けざるを得ない。せめて、眠っている時には外しておけば多少は時間を稼ぐことはできるかもしれないけれど、遅かれ早かれ力は発現することになるだろう。
 現に今日の遠乗りで、わずかではあるけれどレイラ達の声が聞こえた。まだ、強い感情を片言で、と言う状態ではあるけれど、人と対話するように流暢に言葉を交わすことができる日が、すぐやって来ないとも限らない。
 私に残された時間は、これまでの人生よりは多くあるとしても、決して悠長にしていられるほどではないと考えるべきだろう。

(だったら、今やれることは――)

 私は伏せていた目を上げ、書き物机へと移した。
 そこには、懐中時計が置かれている。エイナーが肌身離さず持っていてほしいと言うので、遠乗りにも勿論、身に付けて出ていたものだ。侍女が私を着替えさせてくれた際、ポケットに入れていたものを取り出しておいてくれたのだろう。目覚めた時には、既にそこにあった。
 壊れてしまってはいないかと心配したけれど、流石は特別製。エイナーの言葉通り、しばらくの間水没していたにも拘わらず、傷の一つもなければ水が入ったことによって停止してしまっていることもなく、正確に時を刻み続けている。

 これは、今の私にとって大きな武器だ。
 王族同等の通行許可証。私の特別な身分証。これさえあれば、エリューガル国内であれば望んだ場所へ自由に行き来できる。勿論、城の図書館の書庫にだって。そして、得たいと思うものを得ることができる。
 私は、ぐっと拳を握った。
 知識を得るには、書物から。これまでにも散々やってきたことだ。これは地道だけれど、確実でもある。
 城の書庫の蔵書であれば、これまでよりずっと有益な知識を得られるだろう。エイナーからもいつでも城に遊びに来てほしいと言われているし、私が城を頻繁に訪れたとしても怪しまれることはない筈だ。

(……うん。まずは、呪いのことを調べよう)

 あの日私が見ていた書架には、まじないやお守りについての本は多くあった。私がそれらの本を探していたからでもあるだろうけれど、呪いについて書かれたものは、記憶にある限り見ていない。
 もっとも、一般書架に呪いについての書物があったとして、その内容は決して、具体的な呪う方法などではないだろうけれど。
 それでも、入室できる人間が限られる書庫にならば、具体例が記載されたものがあるかもしれない。私にかけられた呪いのことについても、何かしら手掛かりを見つけられる可能性はある。
 全く知識のない呪いのことを知り、調べていけば、この繰り返す人生を終わらせる手立てが今度こそ……今度こそ、何か見つかるかもしれない。

(でも……それだけでいい? 本当に?)

 やるべきことを決めたのにどうもすっきりと納得できず、私は手元に視線を落とした。
 調べて、調べて、調べて――多くの知識を得て。それでは、結局これまでと変わらない。
 せっかく私の死が遠いのに、これまでと同じことを繰り返し続けるのは正しいことだろうか。今生はこれまでの人生で一番、環境も立場も恵まれている。それを生かさないのは、間違ってはいないだろうか。

 私はもう一度顔を上げ、そこに映る姿、その髪へと目を向けた。
 普通の人とは違う、鮮やかに艶めく緑の髪。これは、神から力を授かっている証だ。神の愛し子である、何よりの証拠。
 人生を繰り返し続けた中で、こんな特別な存在として生まれたのはこれが初めて。自ら国を捨てるつもりで家を出たこともそうだけれど、それ以上に大きな違いのある人生と言える。
 このことを利用しないまま、授かった力を発現させることを望まず、いつか来る日に対処することは本当に正しいことだろうか。

(……でも、何をしたらいいの?)

 考えてみるけれど、いい案なんて一つも出やしない。誰に相談できる話でもない。
 唯一頭を過ったのは私が呪われていると断じたリリエラだけれど、まさか「疾く、去ね」と私に言い放った人が、私に会ってくれるわけがないだろう。
 何より、あの日のことを私が忘れてしまっていたことに、リリエラが関わっている可能性だってあるのだ。お守りや変装の為のブラシを作り出せてしまう聖域の民のこと、特定の記憶を消す薬だって作り出せてしまうかもしれない。そして、その薬を私に飲ませたことが私に絶対に会わないと言うリリエラの意思表示だったとしたら、あの日のことを私が思い出したと知れば、ますます私に会ってくれないことは明白。

 それに、私はレナートのいる前で、ウゥスのことを初めて会った聖域の民だと口にしてしまっている。だからきっとレナート達は、今の私はリリエラを覚えていないと言う認識でいる筈だ。そんな彼らに私が思い出したと知られても、優しい人達のこと、色々と心配をさせてしまうに違いない。それは、私の望むところではない。
 誰にも心配をかけず、迷惑をかけず、でも、これまでとは違う新しいことをする――そんな方法、何かあるだろうか。

「……いっそ、一日でも早く力を発現させてしまう……?」

 これまでと違うことをするならば、今生での大きな違いを利用する以外にない。
 生命の泉の女神リーテ。私はそのリーテから力を授けられた、リーテの愛し子。泉の乙女。
 リーテはその名の通り、生命を司っている存在だ。生命を司ると言うことは、生と死をも司っているとも言える。ならば、敢えて力を発現させて、私に与えられた力を十全に使えるようになってみたら……?

 勿論、キリアンの死の確率が上がってしまう危険性は孕んでいる。けれど、仮に私が聖水同等の力を発現させられるようになったとしたら、もしもの時でも、私の力でキリアンの死を回避させられたりしないだろうか。
 どうやって、いつ、どこで、誰からかけられたかも分からない呪いを解くことに尽力するより、今生で唯一与えられた力を使えるよう努力することに注力することで、何か違う道が拓けないだろうか。
 もっとも、私に聖水同等の力が発現するかどうかは賭けでしかないのだけれど。
 そこまで考えて、少し前はそんな大それた力は発現しないでほしいと思っていた筈なのに、今はその力に可能性を見出そうとしている自分に、私は少しだけ呆れた。

 一体、私はこれからどうしたらいいのだろう――私は、どうしたいのだろう。
 鏡台に肘を付き、頭を抱えるように視線を下げながら、私は目を閉じた。思いの外しっかりと寝てしまったからか、疲労もなければ眠気もなくて、つい色々と考えすぎてしまう。けれど、迷うばかりでは、このまま考え続けていてもどうせいい案は浮かんでこないだろう。
 日中の出来事を考えれば、明後日からの旅行は延期か中止。そして、アレクシアがことを成し終えて帰って来るまでは、私は屋敷で大人しくしていなければならない筈である。それなら当面、私には自室で考える時間がたっぷり与えられることになる。考えごとに時間を割けるのならば、今日焦って考えをまとめる必要はない。
 ならば、ひとまず今は、ハーブティーでも淹れて気分転換をしよう。

 そう決めて、私は考えていたことを振り払うように立ち上がった。そしてその足を戸棚へと向けて、その時初めて、私は扉の向こうから話し声がすることに気が付いた。
 声の調子から、話しているのは女性ではなく男性。それも、二人。
 フェルディーン家の使用人には、当然男性も多くいる。だから、声が聞こえること自体は不思議なことではない。ただ、どうやら私の部屋の前で、と言うことにはどうにも首を傾げてしまう。
 不思議に思いながらも、何か重大なことが起こっていてはいけないと、私は扉の取っ手へと手を伸ばした。その瞬間扉が外から開かれて、行き場のなくなった私の手が宙で止まる。そしてそこから覗いた顔に、私は驚きで目を丸くした。

「……レナート、さん?」
「ミリアム……」

 どことなく疲れた様子のレナートが私と同じく目を丸くして、私の名を口にする。けれど、それも一瞬のこと。
 私が瞬いた次の間には、大きく開かれた扉からレナートの腕が伸びて私をその中に囲い、耳元で小さく「よかった」との声が漏れるのが聞こえた。

「ほら、大丈夫だと言っただろう。お前はミリアムのこととなると、本当に随分と心配症になってしまうね」

 脱力するように深々と息を吐くレナートの後ろから聞こえた声に顔を上げれば、そこには穏やかながらおかしそうに口元を緩めるサロモンの姿があった。その格好は晩餐会の正装のままで、帰宅したその足で真っ直ぐ私の部屋へ来たことが窺える。
 そんなに慌ててやって来るなんて、何かあったのだろうか。そんな疑問を乗せた私の視線に気付いたサロモンと目が合ったけれど、彼からは緩く首を振られるだけだった。

「気にすることはないよ、ミリアム。侍女から、君は少し前に食事を済ませて部屋で休んでいると聞いて来たのに、扉を叩いても声を掛けても応答がないから、レナートが酷く心配しただけなんだ」
「昼間あんなことがあったんだぞ? 心配するのは当たり前だろう」

 私を腕の中から解放したレナートが、途端にサロモンを不満げに睨む。
 二人が言うには、私からの応答がないことについて、食後ならばうたた寝でもしているのだろうと深刻に捉えなかったサロモンに対し、レナートは日中の出来事もあって、体調に異変があったのではないか、意識を失って倒れてしまっているのではないかと、悪い方に考えてしまっていたのだとか。
 そうして、居ても立ってもいられなくなったレナートが意を決して扉を開けてみたら、目の前に何らの異変も感じさせない私が、今しも扉を開けようとする格好で立っていたのだと言う。
 なるほど、それではレナートが私の姿を見てあからさまに安堵したのも頷ける。

「ご心配をおかけして、すみませんでした」
「こちらこそ、休んでいたところを起こしてしまったみたいで悪かったね」
「いえ、そんな……」

 サロモンに対して首を横に振りつつ、私は内心では噴き出た冷や汗を必死に拭っていた。
 私は考え事に集中して自分の世界に閉じこもってしまうと、時間の感覚を忘れ、周囲の物音に聴覚が機能しなくなってしまう悪癖を持つ。実際、扉を叩かれた音も掛けられた声も私の記憶にはないので、これは明らかに私が考えることに没頭していた証拠だ。
 ついでにさり気なく確認した時刻は、食事を終えてからもうじき一時間と言うところを指してもいた。窓の外の様子を眺めていた時間もあったとは言え、随分と長い時間、私は考えに耽っていたことになる。
 久々に出た悪癖なのに、早速そこまでの時間考え込んでいたことに、私は密かに自分で自分に呆れた。同時に、あと少しレナートが扉を開けるのが早いか私が立ち上がるのが遅ければ、鏡台に肘を付いて頭を抱えた私の姿をレナートに目撃されていた可能性があったことに、ぞっとする。

(……見られなくて、よかった)

 この悪癖の所為で、私はこれまで何度変人扱いをされ、気味悪がられ、家族にさえ遠巻きにされてきたか知れない。今生では、せっかく血の繋がりがないにも拘らず、私にこんなにもよくしてくれる人達に出会えたのだ。悪癖が露呈して、この良好な関係にひびが入るような事態だけは、絶対に避けたい。

 たまたま城で、馬車待ちをするレナートを見掛けて一緒に帰って来たと話すサロモンや、アレクシアからの指示でスーリャを連れて行くついでに、私を心配する人達を代表して様子を見に来たと話すレナートに相槌を打ちながら、私は今更ながらに鼓動を早める心臓にそっと手を当て、内心の動揺を誤魔化すように笑みを浮かべた。
 そんな私の頭にレナートの手が優しく触れて、体調に問題がなくてよかったと、いつものように撫でてくる。
 そのレナートの優しさを嬉しく思いながらも、私は改めて決意していた。

 こんなにも私のことを大切に思ってくれる人達には、これ以上の心配や迷惑をかけないことは勿論、私の呪いに巻き込むようなことは絶対にしてはいけない、と。
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