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第四章 母の故国に暮らす
花冠と女神の白花
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それは、ふざけが過ぎた結果私を怒らせたことを反省した三人が、蔦と木の葉で作った即席の籠一杯に苺を盛ってやって来て許しを請い、私がその謝罪を受け入れてしばらく経った時のこと。
その頃には、十二分に苺を堪能した私達は、その行動を苺の収穫へと移行させていて。収穫用に新たに作ってもらった籠を手に、苺を求めて群生地をあちらこちらへ移動していた私は、ふと顔を上げた。
「……?」
一度瞬いて、周囲を見回す。
朽ちた小屋、苺の群生地。森の緑に、木漏れ日の白。苺を啄む野鳥に、栗鼠に野兎。見える景色は、私がここへ来た時と変わらないものだ。
その筈なのに、不意にどこかからレナート達のものではない視線を感じたような気がして、私は小さく首を傾げた。すぐ近くで、私が突然顔を上げたことに警戒して動きを止めていた栗鼠と顔を見合わせ、
「あなた……じゃないよね?」
と、念の為に問うてみるけれど、当然答えなど返って来ない。その内、栗鼠は苺を咥えて走り去り、あとには爽やかな風が苺の香りを纏って吹くだけ。やはり、何ら変わらない長閑な森の光景があるばかりだ。
「どうした、ミリアム?」
「いえ、何でもありません」
籠を手にしたレナートが、私を窺うようにこちらへやって来る。その様子は何を警戒している風でもなく、自分の気の所為だったかと、私はレナートの問いに首を振った。
そもそも、私が気付くくらいなら、私よりも気配に聡いレナート達が気付かないわけがないのだ。風に揺れた梢か小動物の動きに、私の苺に対する集中がうっかり乱されでもしただけなのだろう。そう結論付けて、私はレナートの手の中の籠に興味を示して視線を移す。
レナートの片手ほどの大きさの籠の中には、みっしりと苺が入っていた。どれも小粒ではあるものの、しっかり熟して美味しそうだ。アレクシア達への土産として持って帰るものとは言え、粒の小さなものは乾燥させてお菓子に使ったり、煮詰めてジャムを作ったりしてもよさそうである。
「もうそんなに摘んだんですか、レナートさん」
「大半は俺だが、キリアンとオーレンもいくらか摘んでくれたよ。手土産にするにも、俺達の家が一番人数が多いからな」
見れば、今も苺を摘んでいるのは私とレナートだけで、オーレンは苺で一杯になった籠を脇に腰を下ろし、木の幹を背凭れに休憩していた。
そのオーレンと目が合って笑顔で手を振られ、それに手を振り返してから、私は首を傾げる。もう一人いる筈の人の姿が見えない。
「レナートさん、キリアン様はどちらに?」
「あいつなら少し先の――」
言いかけたレナートが一旦言葉を止め、私を見下ろす。
「そろそろ苺の収穫は終わりにして、俺達も行ってみるか?」
「苺の他にも、何かあるんですか?」
「きっとミリアムの喜ぶものが、な」
もしや、この森には苺の他にも美味しい果実が実っているのだろうか。一瞬にして期待に目を輝かせた私にレナートが笑みを浮かべ、その手を私へと差し出してくれる。
一旦オーレンの元へ行って、苺で満たされた籠を置く。申し訳程度にハンカチをその上に被せ、近くで私達の様子を窺っているように見えた栗鼠に笑いかけた。
「この苺は、家族へのお土産なの。だから、できれば食べないでくれると嬉しいな」
彼らに、私の言葉が通じているかは分からない。それでも、通じていることを祈って私は籠の中から苺を一粒取り出し、栗鼠の前へと置いた。お願いします、との気持ちを込めて。
「ミリアムちゃん、もしかして動物と話せるようになった?」
「いえ、まだです。でも、通じているといいな……とは思います」
オーレンも共にキリアンがいると言う場所へ向かいながら、私は自分があげた苺を食べる栗鼠の姿を振り返った。
小さな両手で苺を掴み、これまた小さな口を懸命に動かして食べる姿は、とても愛らしい。位置がちょうど籠の前の為、籠の中の苺を守っているようにも、独り占めしようとしているようにも見えるのがまた絶妙で、食べることに夢中になっている栗鼠には気付いてもらえないと思いつつ、私は小さく手を振った。
「ミリアムの気持ちは通じているさ」
いつものようにぽんと軽く頭を撫でるレナートの優しさに、私は無言で小さく頷く。そして前へと向き直り、苺の群生地をあとにした。
再び木が茂る中へと入れば、木陰がひんやりと涼しい。どこかに川があるのか、吹く風の音に混じって微かに水の流れる音もした。その音に耳を澄ませながら歩くこと、ほんのわずか。急に目の前が開け、そこに表れた光景に私は大きく目を見開いた。
「わあ……っ!」
思わず歓声を上げた私の眼前に広がっていたのは、ずいぶん昔に大雨などで土砂が崩れ、繁っていた木が流されてできたのだろう窪地。そこが、一面咲き誇る白い花に埋もれている姿だった。
森の中にぽかりと空いたこの場所は、日の光を遮るものがなく、白い花が陽光に煌めく様はとても美しい。苺とはまた違う優しく柔らかな甘い香りが風に乗って届き、私は誘われるように足を早めて花畑の中へと進んで行った。
予想した他の果実ではなかったけれど、レナートの言う通り、この光景は私にとって心弾むものだ。連れて来てもらえたことに、苺を見つけた時と同じかそれ以上の嬉しさが湧く。
「キリアン様っ」
私の呼び掛けに、こちらに背を向けて花畑の中ほどに座り込んでいたキリアンの顔が上がる。
「ミリアムか。ちょうどよかった」
「何をなさっているんですか?」
花畑の中をキリアンを目指して進み、視線を合わせるようにしゃがめば、キリアンの手によって私の頭に何かが乗せられる感覚があった。それほど重くはないものの、存在感のある何かが私の頭をぐるりと一周し、心持ち花の香りが濃さを増す。
「よかった。長さは十分そうだ」
突然のことに目を瞬く私の正面で、キリアンが満足げな笑みを浮かべる。その彼の膝の上には、広げられたハンカチと摘んだ花々があった。
それらと、今のキリアンの言葉と行動、この場所が花畑であることを照らし合わせて考えれば、私の頭に乗せられたものの正体は自ずと導き出される。
「キリアン様、これってもしかして……」
呟く私に「ああ」と首肯し、キリアンが私の頭に乗せたものを再び手元へと戻す。
果たしてそこには、私が予想した通りの花冠があった。一帯を埋め尽くす白い花を主として編まれた花冠には、この近辺に咲く他の花や葉も随所に編まれて、その出来栄えは見事としか言いようがない。
「素敵な花冠! テレシアさんへの贈り物ですか?」
そう尋ねはしたものの、これは確実にテレシアへの贈り物だろう。キリアンが手ずから作ったものを贈る相手が、テレシア以外の女性である筈がない。
何より、花冠を彩る花々は正にテレシアの明るく賑やかな性格を表しているようで、キリアンが彼女のことを思って一つ一つ編んでいったことが窺える代物だ。これを頭に頂く相手は、やはりただ一人だろう。
「まぁ……その、つもりなんだが……」
案の定、私の一言にキリアンは急に恥ずかしそうに言葉を詰まらせ、花冠を作るのに集中する振りをして、私からそっと視線を逸らしてしまった。どことなく目元に赤みが差して見えるのは、照れているのだろうか。
「へぇー。見事なもんだな、キリアン。お前、こんなの作れたのかよ? レナートは知ってたか?」
「いや、俺も初めて見る。……器用だな」
遅れてやって来た二人も頭上からキリアンの手元を覗き込んで、私同様感心している。てっきり二人は知っているものと思っていた私には、二人のその反応は意外なものだった。
目を瞬きながら二人を見上げ、キリアンの手元へと視線を落とし、私は思う。と言うことは、手慣れているように見えて、実はキリアンは花冠を作るのは初めてなのだろうか、と。
もしもそうだとしたなら、初めてでこれだけ見事なものを作ってしまえるだなんて、世の多くの女性が嘆いてしまいそうである。かく言う私も、もう長いこと花冠作りなんてしていないので、まともに作れるかどうか。
「凄いですね、キリアン様」
「そうでもない。俺も、花冠なんて作ったのは子供の頃以来なんだ。お陰で、編み始めの部分はどうにも格好が悪くて、誤魔化すのに苦労しているよ。それでも、手が覚えていたんだろうな……」
編んでいく内に形は整い、編む速度も増し、無心になって続けた結果ここまででき上がったと、様々な角度から花冠を見ながらキリアンがその出来を眺め、懐かしむように目を細める。
「妹に、よく作っていたんだ」
キリアンの妹――今は亡きこの国の姫、シアーシャ。
誰に似たのか、活発なシアーシャは庭園で遊ぶことをよく好んだのだそうだ。キリアンは毎回そんな彼女に付き合って庭園へと赴き、シアーシャはその度に兄と共に過ごすその時間を、全身で喜んだ。そんな日々の中で、ある時、乳母がシアーシャへと花冠を作る姿を見て、キリアンは教えを乞うたのだと言う。
それからと言うもの、キリアンは庭園へ行った際には必ず何かしらを花で作った。指輪、腕輪、髪飾りに首飾り――シアーシャの喜ぶ顔を、見る為に。
「花冠を作ると、特に喜んでな……。あの子が病に罹ってからは、回復を願って、三日にあけず花冠を作っては部屋へ届けたものだ」
けれど、病とは無縁そうに見えたのに、キリアン達の願いも空しくシアーシャは亡くなってしまった。生まれて、たった四年で。
それ以降、キリアンは花を使ってものを作ることを、ぱったりと止めてしまった。けれど、その頃の経験が、今もこうして見事な花冠をキリアンに作らせたのだろう。
「これも、本当は作るつもりはなかったんだ。正式な発表前に、俺からテレシアに形あるものを贈ることは、あいつを危険に晒すことに繋がりかねない。……それでも、久々にこの花畑を目にしたら、何故か作らずにはいられなくなってしまって」
「テレシアさんはきっと凄く喜びますよ、キリアン様」
「そうだといいんだが……」
素敵な花冠を贈られて喜ばない女性は、きっといない。相手が恋人であるなら尚更だ。だから私は、力一杯頷いた。
「喜ぶに決まっています!」
「……そうか」
ありがとう、と続けるキリアンへ笑顔で応え、私は自分の足元の一点に気付いてはっとした。瞬いても幻のように消えてしまわないことを確認して手を伸ばし、そこにあった葉を一本摘む。
生えている葉の殆どが卵型の葉三枚で形成されている中で、私の摘んだ一本には四枚の葉が付いている。
エリューガルではどうかは知らないけれど、アルグライスを始めとする三女神信仰が盛んな国々では、三つ葉はその土地が三女神の加護に満ちている証だと捉えられているものだ。咲く花も三女神の思いが形となったものであるとして、摘んで帰って家に飾ると、悪いものを寄せつけないと言われている。花が咲く時期には、家々の玄関に小さなリースがよく下がっていたものだ。
そして、三つ葉の中に時折現れる四つ葉は、三女神からの特別な贈り物。人々の、三女神への信仰に対するお返し。希少なこの葉を見つけた者、もしくはそれを贈られた者には、三女神の加護が宿るとされている。
文化も信仰している神も違うけれど、エリューガルにもこの植物が茂っていると言うことは、三女神の加護がある証。この四つ葉をテレシアへ贈れば、きっと三女神が彼女を守ってくれるだろう。
「キリアン様。よかったら、その花冠にこの葉を……」
「お! 四つ葉じゃん!」
「よく見つけたな、ミリアム」
私の手からキリアンの手へと渡った四つ葉へ、全員の視線が移る。
その口振りからするに、どうやらエリューガルでも四つ葉は特別な意味を持つものらしい。三女神に纏わる伝承はエリューガルでは殆ど知られていないと思っていたけれど、実は意外と知られているのだろうか。もしくは、エリューガルにも四つ葉にまつわる何かがあるのか。
「よかった。エリューガルでも、四つ葉は特別なものなんですね!」
だから、私は言葉を弾ませて喜んだのだけれど。
「うーん、どうだろ。見つけたら得した気持ちにはなるけど、言うほど特別って感じでもないよな?」
「そうだな……。見つけたら運がいいとか、いいことがありそうとは言うが、これと言って特別な意味があるとは聞いたことはないな」
「アルグライスでは、何か特別に意味のあるものなのか?」
私の言葉に返って来たのは、私の予想に反して平坦な反応ばかり。それどころか、逆にキリアンに問われてしまう始末だ。
今度は私へと集まってしまった三人の視線を前に、私は花と葉を一本ずつ摘んで、三人へと示す。
「この花……三女神信仰のある国ではティレスと呼んでいるんですけど、三女神の花なんです」
「それって、三つ葉だから?」
「はい。この葉のそれぞれが、セー、レー、テーの三女神を表していて、それより一枚葉が多い四つ葉は、三女神から人間への特別な贈り物だと言われているんです。だから、三女神にテレシアさんのことを守ってもらえるようにと思って……」
そこまで言って、私は目の前に座る人がクルードの愛し子であることに気付いて、はっと言葉を止めた。神に特別に慈しまれている人を相手に、その恋人に他の神の加護を薦めるような発言は、黒竜クルードを蔑ろにしていると映っただろうか。
しかも、私自身も相変わらず自覚は薄いけれど、リーテの愛し子だ。自分のことを特別に慈しんでくれる神を差し置いて他の神を信奉するような言動は、流石にまずかったかもしれない。
まさか、私に一向に力が発現しないのは、この愛し子としての自覚のなさが原因と言うことはないだろうか。
思えば、これまで送った人生の多くでは、三女神――特に豊穣の女神セーへ祈りを捧げてその日を始めることが多く、そうでない人生でも三女神は身近な存在として日々の生活の中にあり、事ある毎に祈っていたように思う。
今生でも、三歳までは作法の一つだとして、周囲の大人達の見よう見まねで祈っていた。けれど、貴族令嬢ではなくなった途端にその習慣はすっかり失われ、エリューガルへ来てからも、意識的にリーテへ祈りを捧げて一日を始めるようなことはしていない。
これでは、リーテの雫を肌身離さず身に付けているとは言っても、この先まだしばらく、私の力は発現しないのではないだろうか。
(どうして私は、こうなんだろう……)
私はため息が零れそうになるのを堪え、一旦考えを振り払い、まずは目の前のキリアンに対して非礼を詫びた。
「……すみません。クルードの愛し子のキリアン様に、勧めるべきではありませんでしたね」
「気にすることはない。この程度のことで目くじらを立てるほどクルードは狭量な神ではないし、むしろ、君のテレシアを思う心はクルードにとって好ましいものだ。この四つ葉は、ありがたくテレシアに贈らせてもらうよ」
言うが早いか、キリアンは花冠の中央、被った際にちょうど正面に当たる位置に四つ葉を編み込んでいく。周囲の花や葉との釣り合いを見て位置を微調整し、あっと言う間に四つ葉が花冠の一部となってしまった。
「なぁ、キリアン。あとで俺にも作り方教えてくれよ」
「お前は……どうせ、女性の気を引く為の道具にするつもりだろう。そんな奴には教えてやらん」
「そこを何とか! 最近、女の子が皆つれないんだよー。分かるだろ? 悲しいんだ。寂しいんだよ、俺は!」
「お前の事情なんぞ知るか」
背に縋るように凭れるオーレンを、キリアンが至極邪魔そうに顔を歪めて半眼で睨む。けれど当然、オーレンはそんなことでへこたれる人物ではない。
普段は「兄殿下」と、敢えて名を言わないことでオーレンなりの線引きをしているけれど、お忍びでやって来ている今はただの友人としてその気安さに拍車をかけて、しつこく食い下がっていた。
オーレンが減るものではないのにと不満を口にすれば、キリアンは花が減るとにべもなく返し、心が狭いとの文句には、狭くて結構と即座に返す。
そんな、ある意味で息の合った言い合いは二人の仲のよさを表して、私を自然と笑顔にさせた。その私の隣にレナートが腰掛け、手が差し出される。
「ミリアム。その花と葉を貸してくれるか?」
「はい。どうぞ」
言われるままに、私は説明する際に摘んで手に持ったままでいた二本を、レナートへと手渡した。
一体、何をするつもりなのか。私が不思議そうにその行動を見つめる前で、レナートは手近な場所に咲く花をもう二、三本摘むと、慣れた手つきで編み始める。縦に連ねていくのではなく敢えて束にすると、最後に三つ葉を使って全体の茎を縛る。そうすれば、レナートの手の中にはあっと言う間に小さな花束ができ上っていた。
「わあっ、可愛い!」
レナートに花束を手渡され、私は顔を近付けてまず香りを嗅ぎ、それから花束を目の前に持って行って眺めた。多すぎず少なすぎず、小さな花が束になった様は愛らしく、花の下から覗く三つ葉が、また何とも言えず可愛らしい。
「ありがとうございます、レナートさん!」
「気に入ってもらえたなら、よかった」
もう一度、今度は目を閉じて、私はゆっくりと花の香りを吸い込んだ。そうすれば、瑞々しい緑と澄んだ甘い香りが体の隅々にまで行き渡り、そのまま私自身が自然の中に溶け込んでいくようだった。
吹く風の音、そよぐ草の香り、日の光を浴びる花の温もり、木々の呼吸、流れる水の煌めき。それらの中で生きる大小様々な生物達の存在、息遣い――聞こえる筈のない植物の声なき声まで聞こえるような、不思議な感覚に包まれる。
けれど、それは決して不快なものではなく、むしろとても好ましいもので、いつまでも浸っていたくなるようなものだった。
私はしばらくその不思議な感覚の中に身を置いて、やがてゆるりと瞼を押し上げた。
緑と白と、青と茶と。ぼやけた色彩が徐々に形を成していき、森の姿が輪郭を取り戻す。その景色は目を閉じる前と何ら変わりない筈のものなのに、目に映る全ての輝きが増して見えて、私はその眩しさに目を細めた。感覚それ自体が鋭敏になっているのか、聞こえる音もどこか変化して、普段は聞こえないような小さな音まではっきりと届く。
それは、隣で新たな花束を作るレナートの息遣いであったり、レナートの手元を覗き込みながらオーレンが花を編む音であったり、少し先で野兎が三つ葉を食む音であったり。
その内、その野兎がこちらを見つめる視線に気が付いて、私は小さく手を振った。野兎の方はどうしてか慌てて体の向きを変えてしまったけれど、そんな動きもまた可愛くて、私は「ふふっ」と声を漏らす。
そんな穏やかな時間が賑やかなものへと変化したのは、それからすぐのこと。初めての花束と二つ目の花束を作った二人が、それを私に見せてくれてからだった。
「オーレンさんのものも、素敵ですね」
オーレンの性格を表すように、レナートが作ったものより多くの花を使ったそれは、少し縦に連ねて高さを出した豪華な花束だった。添えた三つ葉が方々を向いているのも、実にオーレンらしい。
「でしょー! 初めて作ったにしちゃ、よくできたと思うんだよね、俺も」
「持って帰って、部屋に飾らせていただきますね」
このまま花瓶に生けてもいいけれど、菫色のリボンを巻いて壁に吊るしてもいいかもしれない。場所は、書き物机の辺りはどうだろう。家具や置物はだいぶ充実はしたけれど、私の部屋の壁はまだまだ寂しいし、乾燥させた方が長持ちしてくれる。
早速花束を部屋にどう飾るかを考えながら、私はオーレンへと笑顔を向けた。
「ありがとうございます、オーレンさん」
「どういたしまして!」
親指を立て歯を見せて笑うオーレンは、やり切ったとばかりに清々しい。自分で自分を「できる男」と自画自賛する声には苦笑を零し、私はレナートから差し出された手に、最初にレナートが作ってくれた花束を手渡した。
「正面を向いていてくれるか、ミリアム」
そう言ってレナートの手が私の髪に触れ、朝にウゥスが結ってくれた髪の合間に、作った花束――花飾りが差し込まれる。一つは右耳の少し上。もう一つは左側へ。左右同じ位置に着けて、レナートが私を正面から見つめた。
「……うん。よく似合う」
レナートの頷きに、私はそっと自分の髪に触れてみる。指先に花が触れ、思わず頬が緩んだ。鏡が手元にない為に、着けてもらった己の姿をすぐに見られないのが惜しいけれど、レナートの気遣いがとても嬉しい。
「レナートさん、ありがとうございます。凄く嬉しいです」
「それはよかった。喜んでもらえたなら、作った甲斐があったよ」
互いに微笑み合い、レナートが今一度、花の位置を気にするように私の髪に触れた――その時。
窪地の向こう側、私達がやって来た方向とは逆の森から激しい物音がした。何かが忙しく草を掻き分け、やって来る。
瞬時に三人が腰を上げ、殆ど同時に、一段高い茂みの向こうから影が躍り出た。一拍後、眼前に着地したのは立派な牡鹿。私達の存在に気付いて飛び跳ね、鹿の怯えた瞳が私を捉える。はっきりと目が合い、
〝タス、ケ――〟
「何だ、鹿か――」
私の耳が鹿とオーレンの声を同時に聞き、視界の端を鋭利な光が掠めた。
その頃には、十二分に苺を堪能した私達は、その行動を苺の収穫へと移行させていて。収穫用に新たに作ってもらった籠を手に、苺を求めて群生地をあちらこちらへ移動していた私は、ふと顔を上げた。
「……?」
一度瞬いて、周囲を見回す。
朽ちた小屋、苺の群生地。森の緑に、木漏れ日の白。苺を啄む野鳥に、栗鼠に野兎。見える景色は、私がここへ来た時と変わらないものだ。
その筈なのに、不意にどこかからレナート達のものではない視線を感じたような気がして、私は小さく首を傾げた。すぐ近くで、私が突然顔を上げたことに警戒して動きを止めていた栗鼠と顔を見合わせ、
「あなた……じゃないよね?」
と、念の為に問うてみるけれど、当然答えなど返って来ない。その内、栗鼠は苺を咥えて走り去り、あとには爽やかな風が苺の香りを纏って吹くだけ。やはり、何ら変わらない長閑な森の光景があるばかりだ。
「どうした、ミリアム?」
「いえ、何でもありません」
籠を手にしたレナートが、私を窺うようにこちらへやって来る。その様子は何を警戒している風でもなく、自分の気の所為だったかと、私はレナートの問いに首を振った。
そもそも、私が気付くくらいなら、私よりも気配に聡いレナート達が気付かないわけがないのだ。風に揺れた梢か小動物の動きに、私の苺に対する集中がうっかり乱されでもしただけなのだろう。そう結論付けて、私はレナートの手の中の籠に興味を示して視線を移す。
レナートの片手ほどの大きさの籠の中には、みっしりと苺が入っていた。どれも小粒ではあるものの、しっかり熟して美味しそうだ。アレクシア達への土産として持って帰るものとは言え、粒の小さなものは乾燥させてお菓子に使ったり、煮詰めてジャムを作ったりしてもよさそうである。
「もうそんなに摘んだんですか、レナートさん」
「大半は俺だが、キリアンとオーレンもいくらか摘んでくれたよ。手土産にするにも、俺達の家が一番人数が多いからな」
見れば、今も苺を摘んでいるのは私とレナートだけで、オーレンは苺で一杯になった籠を脇に腰を下ろし、木の幹を背凭れに休憩していた。
そのオーレンと目が合って笑顔で手を振られ、それに手を振り返してから、私は首を傾げる。もう一人いる筈の人の姿が見えない。
「レナートさん、キリアン様はどちらに?」
「あいつなら少し先の――」
言いかけたレナートが一旦言葉を止め、私を見下ろす。
「そろそろ苺の収穫は終わりにして、俺達も行ってみるか?」
「苺の他にも、何かあるんですか?」
「きっとミリアムの喜ぶものが、な」
もしや、この森には苺の他にも美味しい果実が実っているのだろうか。一瞬にして期待に目を輝かせた私にレナートが笑みを浮かべ、その手を私へと差し出してくれる。
一旦オーレンの元へ行って、苺で満たされた籠を置く。申し訳程度にハンカチをその上に被せ、近くで私達の様子を窺っているように見えた栗鼠に笑いかけた。
「この苺は、家族へのお土産なの。だから、できれば食べないでくれると嬉しいな」
彼らに、私の言葉が通じているかは分からない。それでも、通じていることを祈って私は籠の中から苺を一粒取り出し、栗鼠の前へと置いた。お願いします、との気持ちを込めて。
「ミリアムちゃん、もしかして動物と話せるようになった?」
「いえ、まだです。でも、通じているといいな……とは思います」
オーレンも共にキリアンがいると言う場所へ向かいながら、私は自分があげた苺を食べる栗鼠の姿を振り返った。
小さな両手で苺を掴み、これまた小さな口を懸命に動かして食べる姿は、とても愛らしい。位置がちょうど籠の前の為、籠の中の苺を守っているようにも、独り占めしようとしているようにも見えるのがまた絶妙で、食べることに夢中になっている栗鼠には気付いてもらえないと思いつつ、私は小さく手を振った。
「ミリアムの気持ちは通じているさ」
いつものようにぽんと軽く頭を撫でるレナートの優しさに、私は無言で小さく頷く。そして前へと向き直り、苺の群生地をあとにした。
再び木が茂る中へと入れば、木陰がひんやりと涼しい。どこかに川があるのか、吹く風の音に混じって微かに水の流れる音もした。その音に耳を澄ませながら歩くこと、ほんのわずか。急に目の前が開け、そこに表れた光景に私は大きく目を見開いた。
「わあ……っ!」
思わず歓声を上げた私の眼前に広がっていたのは、ずいぶん昔に大雨などで土砂が崩れ、繁っていた木が流されてできたのだろう窪地。そこが、一面咲き誇る白い花に埋もれている姿だった。
森の中にぽかりと空いたこの場所は、日の光を遮るものがなく、白い花が陽光に煌めく様はとても美しい。苺とはまた違う優しく柔らかな甘い香りが風に乗って届き、私は誘われるように足を早めて花畑の中へと進んで行った。
予想した他の果実ではなかったけれど、レナートの言う通り、この光景は私にとって心弾むものだ。連れて来てもらえたことに、苺を見つけた時と同じかそれ以上の嬉しさが湧く。
「キリアン様っ」
私の呼び掛けに、こちらに背を向けて花畑の中ほどに座り込んでいたキリアンの顔が上がる。
「ミリアムか。ちょうどよかった」
「何をなさっているんですか?」
花畑の中をキリアンを目指して進み、視線を合わせるようにしゃがめば、キリアンの手によって私の頭に何かが乗せられる感覚があった。それほど重くはないものの、存在感のある何かが私の頭をぐるりと一周し、心持ち花の香りが濃さを増す。
「よかった。長さは十分そうだ」
突然のことに目を瞬く私の正面で、キリアンが満足げな笑みを浮かべる。その彼の膝の上には、広げられたハンカチと摘んだ花々があった。
それらと、今のキリアンの言葉と行動、この場所が花畑であることを照らし合わせて考えれば、私の頭に乗せられたものの正体は自ずと導き出される。
「キリアン様、これってもしかして……」
呟く私に「ああ」と首肯し、キリアンが私の頭に乗せたものを再び手元へと戻す。
果たしてそこには、私が予想した通りの花冠があった。一帯を埋め尽くす白い花を主として編まれた花冠には、この近辺に咲く他の花や葉も随所に編まれて、その出来栄えは見事としか言いようがない。
「素敵な花冠! テレシアさんへの贈り物ですか?」
そう尋ねはしたものの、これは確実にテレシアへの贈り物だろう。キリアンが手ずから作ったものを贈る相手が、テレシア以外の女性である筈がない。
何より、花冠を彩る花々は正にテレシアの明るく賑やかな性格を表しているようで、キリアンが彼女のことを思って一つ一つ編んでいったことが窺える代物だ。これを頭に頂く相手は、やはりただ一人だろう。
「まぁ……その、つもりなんだが……」
案の定、私の一言にキリアンは急に恥ずかしそうに言葉を詰まらせ、花冠を作るのに集中する振りをして、私からそっと視線を逸らしてしまった。どことなく目元に赤みが差して見えるのは、照れているのだろうか。
「へぇー。見事なもんだな、キリアン。お前、こんなの作れたのかよ? レナートは知ってたか?」
「いや、俺も初めて見る。……器用だな」
遅れてやって来た二人も頭上からキリアンの手元を覗き込んで、私同様感心している。てっきり二人は知っているものと思っていた私には、二人のその反応は意外なものだった。
目を瞬きながら二人を見上げ、キリアンの手元へと視線を落とし、私は思う。と言うことは、手慣れているように見えて、実はキリアンは花冠を作るのは初めてなのだろうか、と。
もしもそうだとしたなら、初めてでこれだけ見事なものを作ってしまえるだなんて、世の多くの女性が嘆いてしまいそうである。かく言う私も、もう長いこと花冠作りなんてしていないので、まともに作れるかどうか。
「凄いですね、キリアン様」
「そうでもない。俺も、花冠なんて作ったのは子供の頃以来なんだ。お陰で、編み始めの部分はどうにも格好が悪くて、誤魔化すのに苦労しているよ。それでも、手が覚えていたんだろうな……」
編んでいく内に形は整い、編む速度も増し、無心になって続けた結果ここまででき上がったと、様々な角度から花冠を見ながらキリアンがその出来を眺め、懐かしむように目を細める。
「妹に、よく作っていたんだ」
キリアンの妹――今は亡きこの国の姫、シアーシャ。
誰に似たのか、活発なシアーシャは庭園で遊ぶことをよく好んだのだそうだ。キリアンは毎回そんな彼女に付き合って庭園へと赴き、シアーシャはその度に兄と共に過ごすその時間を、全身で喜んだ。そんな日々の中で、ある時、乳母がシアーシャへと花冠を作る姿を見て、キリアンは教えを乞うたのだと言う。
それからと言うもの、キリアンは庭園へ行った際には必ず何かしらを花で作った。指輪、腕輪、髪飾りに首飾り――シアーシャの喜ぶ顔を、見る為に。
「花冠を作ると、特に喜んでな……。あの子が病に罹ってからは、回復を願って、三日にあけず花冠を作っては部屋へ届けたものだ」
けれど、病とは無縁そうに見えたのに、キリアン達の願いも空しくシアーシャは亡くなってしまった。生まれて、たった四年で。
それ以降、キリアンは花を使ってものを作ることを、ぱったりと止めてしまった。けれど、その頃の経験が、今もこうして見事な花冠をキリアンに作らせたのだろう。
「これも、本当は作るつもりはなかったんだ。正式な発表前に、俺からテレシアに形あるものを贈ることは、あいつを危険に晒すことに繋がりかねない。……それでも、久々にこの花畑を目にしたら、何故か作らずにはいられなくなってしまって」
「テレシアさんはきっと凄く喜びますよ、キリアン様」
「そうだといいんだが……」
素敵な花冠を贈られて喜ばない女性は、きっといない。相手が恋人であるなら尚更だ。だから私は、力一杯頷いた。
「喜ぶに決まっています!」
「……そうか」
ありがとう、と続けるキリアンへ笑顔で応え、私は自分の足元の一点に気付いてはっとした。瞬いても幻のように消えてしまわないことを確認して手を伸ばし、そこにあった葉を一本摘む。
生えている葉の殆どが卵型の葉三枚で形成されている中で、私の摘んだ一本には四枚の葉が付いている。
エリューガルではどうかは知らないけれど、アルグライスを始めとする三女神信仰が盛んな国々では、三つ葉はその土地が三女神の加護に満ちている証だと捉えられているものだ。咲く花も三女神の思いが形となったものであるとして、摘んで帰って家に飾ると、悪いものを寄せつけないと言われている。花が咲く時期には、家々の玄関に小さなリースがよく下がっていたものだ。
そして、三つ葉の中に時折現れる四つ葉は、三女神からの特別な贈り物。人々の、三女神への信仰に対するお返し。希少なこの葉を見つけた者、もしくはそれを贈られた者には、三女神の加護が宿るとされている。
文化も信仰している神も違うけれど、エリューガルにもこの植物が茂っていると言うことは、三女神の加護がある証。この四つ葉をテレシアへ贈れば、きっと三女神が彼女を守ってくれるだろう。
「キリアン様。よかったら、その花冠にこの葉を……」
「お! 四つ葉じゃん!」
「よく見つけたな、ミリアム」
私の手からキリアンの手へと渡った四つ葉へ、全員の視線が移る。
その口振りからするに、どうやらエリューガルでも四つ葉は特別な意味を持つものらしい。三女神に纏わる伝承はエリューガルでは殆ど知られていないと思っていたけれど、実は意外と知られているのだろうか。もしくは、エリューガルにも四つ葉にまつわる何かがあるのか。
「よかった。エリューガルでも、四つ葉は特別なものなんですね!」
だから、私は言葉を弾ませて喜んだのだけれど。
「うーん、どうだろ。見つけたら得した気持ちにはなるけど、言うほど特別って感じでもないよな?」
「そうだな……。見つけたら運がいいとか、いいことがありそうとは言うが、これと言って特別な意味があるとは聞いたことはないな」
「アルグライスでは、何か特別に意味のあるものなのか?」
私の言葉に返って来たのは、私の予想に反して平坦な反応ばかり。それどころか、逆にキリアンに問われてしまう始末だ。
今度は私へと集まってしまった三人の視線を前に、私は花と葉を一本ずつ摘んで、三人へと示す。
「この花……三女神信仰のある国ではティレスと呼んでいるんですけど、三女神の花なんです」
「それって、三つ葉だから?」
「はい。この葉のそれぞれが、セー、レー、テーの三女神を表していて、それより一枚葉が多い四つ葉は、三女神から人間への特別な贈り物だと言われているんです。だから、三女神にテレシアさんのことを守ってもらえるようにと思って……」
そこまで言って、私は目の前に座る人がクルードの愛し子であることに気付いて、はっと言葉を止めた。神に特別に慈しまれている人を相手に、その恋人に他の神の加護を薦めるような発言は、黒竜クルードを蔑ろにしていると映っただろうか。
しかも、私自身も相変わらず自覚は薄いけれど、リーテの愛し子だ。自分のことを特別に慈しんでくれる神を差し置いて他の神を信奉するような言動は、流石にまずかったかもしれない。
まさか、私に一向に力が発現しないのは、この愛し子としての自覚のなさが原因と言うことはないだろうか。
思えば、これまで送った人生の多くでは、三女神――特に豊穣の女神セーへ祈りを捧げてその日を始めることが多く、そうでない人生でも三女神は身近な存在として日々の生活の中にあり、事ある毎に祈っていたように思う。
今生でも、三歳までは作法の一つだとして、周囲の大人達の見よう見まねで祈っていた。けれど、貴族令嬢ではなくなった途端にその習慣はすっかり失われ、エリューガルへ来てからも、意識的にリーテへ祈りを捧げて一日を始めるようなことはしていない。
これでは、リーテの雫を肌身離さず身に付けているとは言っても、この先まだしばらく、私の力は発現しないのではないだろうか。
(どうして私は、こうなんだろう……)
私はため息が零れそうになるのを堪え、一旦考えを振り払い、まずは目の前のキリアンに対して非礼を詫びた。
「……すみません。クルードの愛し子のキリアン様に、勧めるべきではありませんでしたね」
「気にすることはない。この程度のことで目くじらを立てるほどクルードは狭量な神ではないし、むしろ、君のテレシアを思う心はクルードにとって好ましいものだ。この四つ葉は、ありがたくテレシアに贈らせてもらうよ」
言うが早いか、キリアンは花冠の中央、被った際にちょうど正面に当たる位置に四つ葉を編み込んでいく。周囲の花や葉との釣り合いを見て位置を微調整し、あっと言う間に四つ葉が花冠の一部となってしまった。
「なぁ、キリアン。あとで俺にも作り方教えてくれよ」
「お前は……どうせ、女性の気を引く為の道具にするつもりだろう。そんな奴には教えてやらん」
「そこを何とか! 最近、女の子が皆つれないんだよー。分かるだろ? 悲しいんだ。寂しいんだよ、俺は!」
「お前の事情なんぞ知るか」
背に縋るように凭れるオーレンを、キリアンが至極邪魔そうに顔を歪めて半眼で睨む。けれど当然、オーレンはそんなことでへこたれる人物ではない。
普段は「兄殿下」と、敢えて名を言わないことでオーレンなりの線引きをしているけれど、お忍びでやって来ている今はただの友人としてその気安さに拍車をかけて、しつこく食い下がっていた。
オーレンが減るものではないのにと不満を口にすれば、キリアンは花が減るとにべもなく返し、心が狭いとの文句には、狭くて結構と即座に返す。
そんな、ある意味で息の合った言い合いは二人の仲のよさを表して、私を自然と笑顔にさせた。その私の隣にレナートが腰掛け、手が差し出される。
「ミリアム。その花と葉を貸してくれるか?」
「はい。どうぞ」
言われるままに、私は説明する際に摘んで手に持ったままでいた二本を、レナートへと手渡した。
一体、何をするつもりなのか。私が不思議そうにその行動を見つめる前で、レナートは手近な場所に咲く花をもう二、三本摘むと、慣れた手つきで編み始める。縦に連ねていくのではなく敢えて束にすると、最後に三つ葉を使って全体の茎を縛る。そうすれば、レナートの手の中にはあっと言う間に小さな花束ができ上っていた。
「わあっ、可愛い!」
レナートに花束を手渡され、私は顔を近付けてまず香りを嗅ぎ、それから花束を目の前に持って行って眺めた。多すぎず少なすぎず、小さな花が束になった様は愛らしく、花の下から覗く三つ葉が、また何とも言えず可愛らしい。
「ありがとうございます、レナートさん!」
「気に入ってもらえたなら、よかった」
もう一度、今度は目を閉じて、私はゆっくりと花の香りを吸い込んだ。そうすれば、瑞々しい緑と澄んだ甘い香りが体の隅々にまで行き渡り、そのまま私自身が自然の中に溶け込んでいくようだった。
吹く風の音、そよぐ草の香り、日の光を浴びる花の温もり、木々の呼吸、流れる水の煌めき。それらの中で生きる大小様々な生物達の存在、息遣い――聞こえる筈のない植物の声なき声まで聞こえるような、不思議な感覚に包まれる。
けれど、それは決して不快なものではなく、むしろとても好ましいもので、いつまでも浸っていたくなるようなものだった。
私はしばらくその不思議な感覚の中に身を置いて、やがてゆるりと瞼を押し上げた。
緑と白と、青と茶と。ぼやけた色彩が徐々に形を成していき、森の姿が輪郭を取り戻す。その景色は目を閉じる前と何ら変わりない筈のものなのに、目に映る全ての輝きが増して見えて、私はその眩しさに目を細めた。感覚それ自体が鋭敏になっているのか、聞こえる音もどこか変化して、普段は聞こえないような小さな音まではっきりと届く。
それは、隣で新たな花束を作るレナートの息遣いであったり、レナートの手元を覗き込みながらオーレンが花を編む音であったり、少し先で野兎が三つ葉を食む音であったり。
その内、その野兎がこちらを見つめる視線に気が付いて、私は小さく手を振った。野兎の方はどうしてか慌てて体の向きを変えてしまったけれど、そんな動きもまた可愛くて、私は「ふふっ」と声を漏らす。
そんな穏やかな時間が賑やかなものへと変化したのは、それからすぐのこと。初めての花束と二つ目の花束を作った二人が、それを私に見せてくれてからだった。
「オーレンさんのものも、素敵ですね」
オーレンの性格を表すように、レナートが作ったものより多くの花を使ったそれは、少し縦に連ねて高さを出した豪華な花束だった。添えた三つ葉が方々を向いているのも、実にオーレンらしい。
「でしょー! 初めて作ったにしちゃ、よくできたと思うんだよね、俺も」
「持って帰って、部屋に飾らせていただきますね」
このまま花瓶に生けてもいいけれど、菫色のリボンを巻いて壁に吊るしてもいいかもしれない。場所は、書き物机の辺りはどうだろう。家具や置物はだいぶ充実はしたけれど、私の部屋の壁はまだまだ寂しいし、乾燥させた方が長持ちしてくれる。
早速花束を部屋にどう飾るかを考えながら、私はオーレンへと笑顔を向けた。
「ありがとうございます、オーレンさん」
「どういたしまして!」
親指を立て歯を見せて笑うオーレンは、やり切ったとばかりに清々しい。自分で自分を「できる男」と自画自賛する声には苦笑を零し、私はレナートから差し出された手に、最初にレナートが作ってくれた花束を手渡した。
「正面を向いていてくれるか、ミリアム」
そう言ってレナートの手が私の髪に触れ、朝にウゥスが結ってくれた髪の合間に、作った花束――花飾りが差し込まれる。一つは右耳の少し上。もう一つは左側へ。左右同じ位置に着けて、レナートが私を正面から見つめた。
「……うん。よく似合う」
レナートの頷きに、私はそっと自分の髪に触れてみる。指先に花が触れ、思わず頬が緩んだ。鏡が手元にない為に、着けてもらった己の姿をすぐに見られないのが惜しいけれど、レナートの気遣いがとても嬉しい。
「レナートさん、ありがとうございます。凄く嬉しいです」
「それはよかった。喜んでもらえたなら、作った甲斐があったよ」
互いに微笑み合い、レナートが今一度、花の位置を気にするように私の髪に触れた――その時。
窪地の向こう側、私達がやって来た方向とは逆の森から激しい物音がした。何かが忙しく草を掻き分け、やって来る。
瞬時に三人が腰を上げ、殆ど同時に、一段高い茂みの向こうから影が躍り出た。一拍後、眼前に着地したのは立派な牡鹿。私達の存在に気付いて飛び跳ね、鹿の怯えた瞳が私を捉える。はっきりと目が合い、
〝タス、ケ――〟
「何だ、鹿か――」
私の耳が鹿とオーレンの声を同時に聞き、視界の端を鋭利な光が掠めた。
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