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第四章 母の故国に暮らす

テーブルに咲かせた花々

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 料理の並ぶテーブルから各自で取り分け、空いている席に自由に座り、同じテーブルに座る人達との会話を料理と共に楽しむ。麗らかな日差しの中で絶えないお喋りと笑い声が庭園に満ち、時に歓声まで混じるほど、茶会は実に楽しく賑やかに進行していく。
 そして今、私はデザートに木苺のタルトを食べながら、エイナー、テレシア、ライサと一つのテーブルを囲んでいた。

「えっ! それじゃ、今ライサは侍女もやってるの?」

 謹慎中に考えたことがあって、と秘密を打ち明けるようにライサから告げられた内容に、私のタルトを口に運ぼうとした動きが止まる。目を丸くして隣を見やれば、私の友人は得意げな顔を見せた。

「そ! 二日エイナー様付きの侍女見習いやって、一日騎士やってるんだ」

 謹慎中にマナーの教本を読んで勉強しながら、これらのことを真実自分のものにする為には何よりも実践が一番であるとの結論に至ったのだと、ライサは胸を張る。
 兵団本部でのハラルドの授業で基礎の知識は叩き込まれたけれど、そう言う授業のやり方は、どうもライサには合わなかったらしい。
 エイナーにもエイナー付きの侍女にも初めは驚かれたものの、ライサがいかに本気かを説いて、無事承諾を得たそうだ。勿論、ラーシュも快く応じてくれたのだとか。

「まだ始めたばかりだけどね」

 エイナーはそう言って苦笑するけれど、その瞳は、ライサならできると信じていることが分かる、温かな感情を宿していた。
 いつか、今より成長した二人が並ぶ姿を想像して、私も二人の友人としてその日を待ち遠しく思う。

「大変そうだけど、私も応援してるね、ライサ」

 やる気十分のライサの現在の目標は、半年以内にはどんな場に出ても恥ずかしくない騎士になることなのだと言う。ただでさえ騎士と侍女を掛け持ちする上、期間は半年とは、ライサも随分と高い目標を掲げたものだ。けれど、それだけにライサの本気度も伺い知れる。
 ライサが成人するまでにやるべきことは多いのだ。今は一つでも多く一日でも早く、エイナーの騎士候補として、周囲に認められるだけのものを身に付けなければならない。そうでなければ、他の優秀な騎士にその座を取って代わられてしまうのだから。

「ありがと、ミリアム! でも、全然大変じゃないんだよね。むしろ、ビオラッデみたいで毎日が超楽しくてさ!」
「ビオラッデ?」

 私の心配をよそに、ライサは実に前向きだ。そんな彼女から発された聞き慣れない言葉に、私は首を傾げる。

「小説の主人公よ。『青薔薇のビオラッデ』と言う作品の」

 すかさず教えてくれたのは、私の正面に座るテレシアだった。
 性別を偽り、男性として生きる騎士ビオラッデ。彼女は、自分が仕える主の為、時に侍女に、剣士に、貴族令嬢令息に……様々な人物に扮して主を守ると言う物語なのだそうだ。

「随分昔に実在した騎士を元にした作品なのだけど、とっても人気で。私が謹慎中にライサに差し入れたら、彼女も気に入ってくれたみたいなのよ」
「あたし、まともに小説なんて読んだことなかったんだけど、これは凄く面白くてさ! ビオラッデみたいに、あたしも侍女になりきってやるんだ!」

 瞳を輝かせ、鼻息も荒く気合いを見せるライサに、エイナーがほどほどにねと零す。そんな二人を、テレシアが微笑ましく見つめて紅茶を口にする。
 目の前のほのぼのとした三人の様子を眺めながら、けれど私は一人、大きな衝撃に身を打たれていた。話の詳細を気にすることも、いつの間にか皿に落ちたタルトを気にすることも忘れて、愕然とする。

「その手があったんだ……っ!」

 女性が駄目なら、男性になればよかったのだ。
 男女の区別がはっきりとしていたあの国で、女として生まれたからには女としての役割を全うするのだと、それを当然のこととして捉え、変装するなんて考えたこともなかった。

「どうして思い付かなかったの、私!」

 上手く男装をすれば、騎士になることは難しくとも、男性の集まりの中へ飛び込むくらいはできたに違いない。そうすれば、女性のままでは触れられなかった情報に触れることは容易かっただろう。私に見える世界は確実に広がった筈だ。世界が広がればそれだけ考えも広がり、これまでになかった閃きが得られた可能性は大きい。繰り返しの人生を終わらせる手立てだって、何か掴めたかもしれない。
 それなのに。

「ああぁ……」

 私は自分自身の愚かさを盛大に嘆き、その嘆きが、情けなくも細った声となって口から漏れ出た。

(何て馬鹿なの、私は!)

 そう心中で盛大に嘆いた時、不意に私の手が誰かに握られた。自分の世界に入り込んでいた私は、はっとして横を見やり、そこに今までの和やかな雰囲気とは一転、鬼気迫る表情で私を見つめるエイナーの顔が現れたことに、反射的に肩を震わせる。

「ミリアム! 今、何かおかしなこと考えてなかったっ?」
「え?」

 ずいと顔を寄せ、切羽詰まった様子での問い掛けに、私は思わず目を瞬く。
 一拍遅れて、自分がうっかり口に出していたことに気付いて慌てて口を押えたけれど、どうやらその行動はエイナーに衝撃を与えるのに十分なものだったらしい。より一層縋るように私の手を掴んだエイナーが、夕日色の瞳に力を入れて私の顔を覗き込んできた。

「駄目だよ? 駄目だからね?」
「えっと、あの……エイナー様?」

 エイナーからあまりに必死に駄目だと繰り返されて、私の方は困惑が増す。
 うっかりしていたとは言え、流石の私でも過去の人生に触れるようなことだけは口走っていなかった筈だ。では、私の断片的な呟きから、エイナーは何を思い、何を駄目だと私へ告げるのか。
 それに加えて、最早言われ慣れてしまったとは言え、まさかエイナーからでさえ変なことを考えていないかとの言葉を貰ってしまうとは、私は一体、周囲にどんな思考の持ち主だと思われているのだろう。

 ともあれ、ここで下手なことを言えば、変に追及されかねない。どう答えるべきかと私が困っていると、とうとうエイナーが私の両手をひっしと掴んで胸に引き寄せ、潤んだ瞳で上目遣いに私を見上げてきた。
 ただでさえ見目のいいエイナーがそんな仕草をすれば、その破壊力たるや、見慣れた私でさえ直視に耐えないものとなる。まるでエイナー自身が光源となったかのようにその顔はきらきらと眩しく、私の心臓が勝手に跳ねた。

「あのねっ。ミリアムは今のままでとっても素敵な人だし、僕は今のままのミリアムが大好きだよ? アレックスとかビオラッデなんて真似しなくていいんだからね? お願いだから、猪になんてならないで?」

 ちゃんとこっちを見て僕と約束して。おまけに最後にそんなことを耳元で囁かれては、すんなり約束してしまいそうになるし、問われるがままに色々と白状しそうになってしまう。
 けれど幸いなことに、エイナーの口から突然出て来た獣の名が、私にどうにか正気を保たせてくれた。ついでに私の正面の席から聞こえてきた笑い声も、私を助けてくれる。

「あらあら。エイナー様ったら、そんな心配をなさっておいででしたのね」

 落ち着いた所作で紅茶を飲みながらも口元に手を当てて淑やかに笑うテレシアの姿は、無駄に跳ねていた私の心臓に冷静さを呼び込んでくれた。
 小さく息を吐いて正面のエイナーへと視線を戻せば、上目遣いはどこへやら、実に心外と言った風に顔を顰めている。

「笑いごとじゃないよ、テレシア」
「いいえ、笑いごとですわ。だって、エイナー様の心配は無用のものなんですもの」
「そんなの分からないじゃない。保護者がアレックスで、友達にイーリスとテレシアとライサがいるんだよ? 猪に囲まれて、ミリアムが染まらない保証がどこにあるの?」

 子供らしく口を尖らせた口から、再び猪と言う単語が出て来る。
 それは、これまで度々耳にしてきた。初めの頃はそれがどう言う意味か分からなかったけれど、城の図書館通いで知識を得た今ならば、正確に分かる。

 エリューガルには、「バークヴァルのしし」と言う言葉がある。
 それは、シュナークル山脈を構成する山の一つ、バークヴァル山にかつて住んでいた山のぬし、異様な巨体を誇るものの決して人は襲わず、決して人の手に掛かることもなく、山に住まう獣達を守り生き抜いた猪のことである。そしてこの猪の生き様から、勇猛果敢な戦士や、民を守り戦った剣の者、華々しい戦歴を持つ者などを例えて言う時に使われている言葉だ。

 ただし、今では誉め言葉としてよりは、単に猪の生態を模して、喧嘩っ早いだとか直情径行だとか、向こう見ずに突き進む人だとかを揶揄的に指して使われることが多くなった言葉でもある。
 そして、単に「いのしし」とだけで使われる場合は主に女性の騎士や兵士、男勝りの女性や気の強い女性などを指して使われることが多いのだ。
 つまりエイナーは、私が騎士や兵士を目指そうと考えているのではないかと思ったと言うわけだ。何とも可愛い勘違いに、私は気付けば噴き出していた。

「ミリアム?」

 困惑するエイナーの顔がまたおかしくて、私は更に笑ってしまう。そうしながらも、握られた手を私の方から握り返して、心配はいらないとの思いをエイナーへと伝える。

「安心してください、エイナー様。たとえ猪に憧れたって、私にはなれっこありませんから」
「本当に? ライサでも頑張ったら侍女ができるんだよ? ミリアムだって、頑張ったらできちゃうかもしれないじゃない」

 しっかり笑ってしまった後では、私の言葉に説得力はないのだろう。エイナーの疑いの眼差しが容赦なく突き刺さり、私の嘘を暴こうとする。だから私は、しっかり首を横に振った。

「頑張っても無理です」
「どうして?」
「だって、私になる気がないんですから」

 騎士や兵士に対する憧れはある。いざと言う時に全く何もできないでは駄目だと、多少の心得くらいは身に付けたい思いもある。けれど、それだけなのだ。
 私自身が、今生で騎士や兵士になりたいとまでは思っていない。

「じゃあ、さっきの言葉は……」
「あれは、私がもし性別を偽って生きていたら、これまでの生活が少しは違ったものになったのかもしれないな、と思っただけなんです」

 寂しく笑えば、エイナーがわずかに目を瞠って口を噤んだ。
 その口が再び開いて謝罪の言葉を紡ぐ前に、私は敢えてにこりと笑ってみせる。今日のこの楽しい茶会の場に、しんみりとした空気は相応しくない。

「性別を偽らなくてよかったです。そうじゃなかったら、きっと私は今ここにこうしていなかったと思いますから」
「そう、だね」
「でも……そうですね。その内、一度くらいは男の子の格好をして街に遊びに行ってみたいなとは思います。なんだか、とっても楽しそうなので」
「えっ!?」

 悪戯っぽくおどければ、たちまちエイナーが目を見開いて慌て出す。そこに、今度は乗り気な様子でライサが顔を突っ込んできた。

「それ、面白そう! 父さんに言って服を用意してもらおうよ、ミリアム!」
「いいの、ライサ? 嬉しい!」

 何と素晴らしい提案だと喜ぶ私に、とうとうエイナーが立ち上がって、自分の背後に立つライサを振り返った。

「ちょっと待ってよ! ライサは侍女を頑張るんでしょっ?」
「それはそれ、これはこれです、エイナー様。ビオラッデは男装なんてお手のものなんですから、あたしだってなりきらなきゃ!」

 ぐっと拳を握り締めたライサは、善は急げとばかりにジェニスへ向かって歩き出した。それを、エイナーが慌てて追いかける。
 その背を見送り、途端に静かになったテーブルで、私はテレシアと二人、顔を見合わせて笑った。

「そうだわ。『青薔薇のビオラッデ』、ミリアムも興味があったら貸しましょうか?」
「いいんですか?」

 非常に魅力的でありがたい一言に、私は即座に反応した。テレシアが勿論と請け負うのを目にして、けれど私は一拍置いて考え直し、でも遠慮しますと首を横に振る。
 この手の物語は、私も好きなのだ。どうせなら、借りるのではなく自分の手元に置いておきたい。部屋の本棚だって、まだ全く埋まっていないのだから。

「代わりに、テレシアさんお薦めの本を教えてください。今度、本屋で買い揃えます!」
「あら、嬉しい! 語り合える仲間がもう一人増えたわ!」

 そう言ってテレシアが喜んだところで、私の視界に孔雀の羽根を思わせる濃い青緑色のスカートの裾が入り込み、二人だけになっていたその場に声が増えた。

「なんだか随分楽しそうね? 私も混ざっていいかしら?」

 両手にデザートを乗せた皿を持ったイーリスだ。後ろには、飲み物を持った給仕係が付いてきている。

「勿論よ。これからミリアムに、我が国が誇る作家テルツァ・ネッサの布教を始めるところなの!」
「え? お薦めの本を教えてくださるんじゃ?」
「あら、テレシアのお勧めは九割がテルツァの本よ、ミリアム。……これは話が長くなりそうね」

 まさかの布教と言う言葉とイーリスがさらりと述べた一言に、私は言葉を詰まらせた。
 確認するようにイーリスからテレシアへと視線を戻せば、彼女は輝かんばかりの笑みを浮かべてうきうきとしている。これは、思う存分語り尽くす気満々の愛好者の顔だ。
 もしかして私は、とんでもないことをテレシアにお願いしてしまったのではないだろうか。
 一抹の不安に駆られていると、そんな私の内心を知ってか知らずか、隣に座ったイーリスから、そう言えば、との言葉が漏れた。

「ミリアムの好きな物語……テルツァの作品に似たものがあった気がするわね」
「まあ、初耳だわ! どんな話なの、ミリアム?」

 それは、私自身いつの人生で読んだものか分からない、騎士と少女の恋物語。
 強く覚えているのは、確かにこの二人が心惹かれ合っていたことくらい。作者も題名も結末も、二人が作中で交わした会話の一つもはっきりと覚えているものはないけれど、不思議と私の記憶に強く残っている物語の断片。
 きらりと瞳を輝かせるテレシアには申し訳ないと思いつつ、そんな覚束ない記憶を語れば、テレシアは存外真剣な表情で腕組みをした。

「……確かに、テルツァの作品に似ている気はするわね」
「本当ですかっ?」
「ええ。月華の騎士に山嶺の剣士なんて、テルツァが好んでつけそうだもの。でも……そんな名前の登場人物なら、私が覚えていない筈はないと思うのよね……」

 申し訳なさそうに眉を下げるテレシアに、私の中で仄かに芽生えかけた期待があっさりと萎れる。
 けれど、テルツァの作品を網羅しているらしいテレシアに、まさか知らない作品があるとも思えない。そのテレシアが知らないと言うのならば、私の知る物語はテルツァの手によって書かれたものではないのだろう。それが分かっただけでも、収穫と言えば収穫だ。
 それに、もしもあの物語がテルツァの作品であったなら、少なくとも私は、アルグライスの外でこの物語に触れたことになる。アルグライスを含む東方十か国では、三女神以外の神についての書物同様、西方の国の書物はまずお目にかからない代物なのだから。
 アルグライスの外へ出るなんて貴重な経験を、私がそうそう忘れるとも思えない。私が覚えている限り、高位の貴族令嬢人生くらいでしか国外へ出たことはないのだ。

「他の作者の作品か、テルツァの作品を読んだ他国の人が似せて書いたものか。それとも……エステル様が寝物語に作って聞かせていた、なんてことはないかしらね?」
「お母様から、そう言った話は……」

 普通なら一番有り得そうな話ではあるけれど、残念ながら、それだけは私には当て嵌まらない。あれは確かに、本だった。自ら頁を捲り、読み進めたものだ。

(……でも、何だろう)

 少しばかり、違和感がある。他にももっと、何か。本を読むより先に何かを、私は目にしたような気がする。それを目にしたからこそ本を手に取ったような……小さな違和感。

「力になれなくてごめんなさいね、ミリアム」
「変に期待させちゃって悪かったわね」

 口々に謝罪の言葉を口にする二人に、私は笑顔で首を振った。

「お二人共、気にしないでください。テルツァの作品に似ていると言うことが分かっただけでも、私には大きな発見なんですから!」

 これまでの人生でたくさんの本を読んできたのに、どうしてこんなにもあの物語のことだけは強く記憶しているのか。そのことも、いつか本を見つけられたら分かるかもしれない。
 その為の小さな手掛かりが初めて現れたのだ、二人には感謝しかない。

「でも、気になるわね。ミリアムがそんなに好きで覚えているんだもの、きっと素敵な物語に違いないんだわ!」

 皿に残っていたケーキの最後の一切れを口にして、テレシアが鼻息荒く息を吐く。そして、すっきりしない気持ちを甘味で紛らわせるべく席を立った。どうやら、私にテルツァの布教をすることは一旦中止と言うことらしい。
 いってらっしゃいと声を掛けてテレシアを見送り、今度はイーリスと二人きりになってしまったテーブルで、私はイーリスをそっと窺い見た。
 今日のイーリスは頭の高い位置で髪を一括りにして、ただでさえすらりとした姿が余計に凛々しく見える。ドレスもそんなイーリスの雰囲気に合った余計な装飾のない、どちらかと言えば格好いいもの。私にはどうしたってなれない、私の憧れが詰まった姿だ。

「……ミリアムも食べる?」

 あまりに凝視してしまっていたのか、私の視線に気付いたイーリスが、そっと私へ皿を寄せてくれる。けれど、そんなつもりのなかった私は首を振り、代わりにハンカチを取り出してイーリスへと示した。
 私がイーリスに貰った、あのハンカチだ。今日は心なしか、麦穂を束ねる緑のリボンがいつもよりも眩しく見える。
 緑のリボンは、その人に合ったよい土地に導いてくれるもの。このハンカチを持ち歩いていたわけではないけれど、私がこの国へなんとか辿り着き、そしてフェルディーン家へ保護されたのは、今では女神セーの導きもあったのではと言う気がしている。

「ハンカチ、使ってくれているのね。嬉しいわ」
「ありがとうございます、イーリスさん」
「あら、突然どうしたの?」

 不思議そうに目を丸くするイーリスへ、私は背筋を伸ばして少しばかり腹に力を入れた。果たしてイーリスはどんな反応をするのかと、緊張しながら。

「このハンカチ……私が刺繍したもの、ですよね?」

 意を決してそう告げれば、見つめる先のイーリスの表情がふわりと和らいだ。

「……そう。気が付いたのね」
「随分、時間がかかってしまいましたけど」

 ハンカチを貰ってから一月と少し。それだけの時間をかけて、私はようやく気付くことができた。私の周りにいる人達の優しさのお陰で。
 今の私にとって、あの家での暮らしはもう、思い出す度に苛まれ母に縋って自分を慰める、辛く苦しいだけの過去ではない。

「お礼を言われたってことは、ミリアムにとってこのハンカチは嫌なものではない、と言うことでいいのよね?」
「勿論です。イーリスさんがこのハンカチをくださったことには、感謝しかありません」

 不思議なもので、自分が刺繍をしたものだと確信してからは、このハンカチを目にする度にどこか郷愁にも似た感情が湧いていた。そして、辛かったことも痛かったこともどうしようもなく悲しかったことも、その過去があるからこそ今の私がここにいるのだとの思いを、改めて強くさせてくれるものでもあった。

「そう……。だったら、私からもありがとうと言わせて。ミリアムに、あなたが生きる為に懸命に努力した証を持っていてほしくて贈ったのだけれど、実はずっと後悔していたから」

 刺繍を見ても何の反応も示さなかった私にとって、仮に刺繍に気付いたとしても、このハンカチは嫌な記憶を呼び起こすものにしかならないのではないか、と。
 けれど今日、イーリスの心は報われた。心の傷が癒え始め、過去を受け止められる余裕が出て来た私の言葉によって。

「ありがとう、ミリアム。ハンカチを受け取ってくれて」
「私こそ、ハンカチをくださってありがとうございます、イーリスさん」

 互いに感謝を伝え合い、テレシアの時よりも近い距離でイーリスと微笑み交わす。
 そうして、「やっぱりミリアムもどうぞ」と皿の中のケーキを勧められて味わっていると、手を打ち鳴らす音が不意に庭園中に響いた。
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