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第四章 母の故国に暮らす

執務室、とある日常

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 静かな執務室に聞こえるのは、紙を捲る音と時折ペンが紙の上を走る音。それから、部屋の片隅にある時計の針が規則正しく時を刻む音。
 窓から差し込む陽光は薄雲に遮られて常より柔らかいものの、温められた空気は午睡を誘う程度には心地よく、その中でキリアンは、出そうになる欠伸を噛み殺しながら黙々と仕事をこなしていた。
 広い執務机の右手奥から手前に引き寄せた報告書に、じっくりと目を通していく。既に文官達によって精査されている為にキリアンが行うのは最終的な確認程度だが、それでも時折、気になる箇所を見つけてはその都度書き付けながら、紙を捲っていく。
 そうして目を通し終わった報告書を机の左端へ寄せると、再び次の報告書を手元に持ってくる。
 それを何度か繰り返し、全ての報告書に目を通し終えたところで、キリアンは脇に立つ侍従に向かって声を上げた。

「カニア。シュニット地方の報告書がないが?」
「それでしたら、既に陛下へお渡ししてあります」
「……何故だ?」

 至極当然と言った風の己の侍従からの答えに、キリアンはそこで初めて執務机から顔を上げ、侍従を見上げた。
 檸檬を思わせる鮮やかな黄色の髪に、琥珀を溶かし込んだような瞳。嫌味なほど片眼鏡が似合う、代々王太子に仕える聖域の民カニア・カニスは、キリアンの疑問を浮かべる顔を見下ろして、何か問題でも、と小首を傾げる。その動きに従って流れる、顔の左半分を覆う長い前髪が、これまた実に嫌味たらしい。

「何故と申されましても。陛下に必要なものでしたので」
「シュニット地方は私の管轄だろう。何故、陛下が私より先に必要とされる?」
「ですから、陛下に必要なものでしたのでお渡ししたまでです」

 すっとぼけた返答を寄越すカニアに、キリアンは己のこめかみが引くつくのを感じた。思わずペンを握る手に力が入り、今にも軸を折ってしまいそうになる。それを何とか押し止め、必死に心中で冷静を唱えた。
 ここでキリアンが分かるように説明しろとでも言おうものなら、この年長眼鏡侍従は、この程度のことも理解できないのですかと、その視線に侮蔑を込めて嫌味を返してくることは必至なのだ。それが分かるから、次に自分が口にすべき言葉には慎重を期さねばならない。
 とは思うものの、キリアンが見るべき報告書を、キリアンの手に渡る前に父イェルドが手にしている理由の見当が、まるでつかない。
 故に、キリアンは侮蔑の眼差しを覚悟で、凡庸な言葉を重ねるしかできなかった。

「地方官達との会議まで、間がないのだぞ?」

 毎年、芽吹きの祈願祭前後に行われる各地の視察。その視察の報告を持って開かれる年初の最も重要な会議は、二日後に迫っている。成人したキリアンは当然、政務を担う者の一人として会議へ出席することになっているのだ。
 そのことはカニアも十分理解しているだろうに、この嫌味眼鏡はどう言うつもりでふざけたことを言うのだろう。
 カニアの琥珀の瞳がふっと宙を泳ぎ、長い睫毛に縁取られた瞼の裏に、一度隠れる。そして、何かに気付いたようにキリアンを見た。

「もしや、殿下はイーリス殿から聞いていらっしゃらないのですか?」
「……何の話だ?」

 予想した嫌味が返って来なかったことに安堵したのも束の間、キリアンの脳裏を嫌な予感が駆け巡った。
 普段、キリアンのそばに仕えて仕事を支えているのは、レナートとイーリス、カニアの三人だ。
 基本的に内にこもってひたすら文官達と共に対内的な仕事を担当するカニアに対し、キリアンの騎士でもあるレナートとイーリスは、キリアンと行動を共にすることが多い為、対外的な仕事を主としている。
 それらは、普段は護衛の任と併せて二人で分担しているのだが、レナートが休暇と言う名目で城を不在にしている現在、イーリスが一手に引き受けている。その中には、キリアンの日々の予定の調整も含まれているのだが――

「今回の会議、殿下は欠席となっておりますよ」
「はぁあっ!?」

 カニアからの衝撃的な報告に、声と同時に力が入ってしまった手元から、とうとうペンの折れる乾いた音が響く。

「陛下も既に了承済みですので、ご心配には及びません」
「ちょっ……いや、待て待て待て待てっ!! どう言うことだっ!!」

 衝撃のままに椅子を蹴立てて立ち上がり、キリアンは涼しい顔をするカニアに詰め寄った。
 だが、慌てるキリアンに対し、カニアは机の上で無残な姿となったペンに視線を落として呑気に「あーぁ」と嘆いているばかりで、キリアンの苛立ちをまともに受ける素振りはない。おまけに鬱陶しそうにキリアンから顔を逸らすと、キリアンの苛立ちを怒りに変化させる一言をさらりと言ってのける。

「陛下が仰るには、藪をつついてみたいので殿下がいらっしゃると十分に楽しめないのだそうですよ。殿下には、代わりに茶会を楽しんでくるようにと」
「あ……んの、クソ親父っ!」

 堪らずキリアンは己の拳を執務机に叩き付け、鈍く重い音が室内に響いた。
 エイナー誘拐から本格的に動き出した、。ようやくミリアムの身がフェルディーン家へと移り、しばらくはアレクシアやレナートに任せて、敢えてミリアムを自由に街中に出すことで相手の反応を窺うと言う話だった筈なのに。
 イェルドはイェルドで首魁を刺激する気満々でいるとは、一体何を考えているのか。
 いや、あの父のこと、こうして相手を煽ることも既に計算の内なのだろう。その程度では己の計画に狂いは生じないと言う、絶対的な自信があるのだ。煽られた相手の反応を楽しむ余裕と共に。
 それがまた、キリアンとしては腹立たしいことこの上ない。

「いいではありませんか。陛下が欠席しろと仰るのであれば、そのお言葉に甘えれば。実際、殿下は連日の視察で疲れが溜まっておいでなのですし、殿下の名代は私がきっちり務めますから」

 百年をくだらない年月を王太子の侍従として補佐し続けているカニアには、毎年恒例の会議に名代で出席するなど、大したことではないのだろう。いつもの事務連絡と同程度の口振りであっさり言われ、キリアンは脱力して椅子に逆戻りした。
 深々と息を吐き、机に肘を付いて頭を抱える。
 これまでミリアムの問題を抱えて忙しくしながらも、キリアンは割り当てられた地方へと視察に赴き、現地の民と直接言葉を交わし、各地の現状をできる限り具に見てきた。どの視察先も王都からそう遠く離れた場所ではなかったとは言え、それでも移動に数日を要する場所ばかりだ。時間はいくらあっても足りず、それなのに、会議までの時間もない。
 その為、ここ最近はほぼ一日中執務室にこもり、珍しくエイナーにも会わずに仕事に追われて、ようやく終わらせたと言うのに。
 そんな最後に待っていたのが会議の欠席と言う衝撃の事実に、これが脱力せずにいられようか。
 おまけに、会議を欠席して向かう先はアレクシア主催の茶会ときた。

 これが、所謂東方諸国で言うところの茶会ではないことは、恐らくミリアム以外の誰もが理解しているだろう。東方流の文化が定着していないエリューガルでは、王家主催のもの以外では、その言葉が言葉通りの意味で使われることはあまりない。仕事上の付き合いでのちょっとした会食や身内での親睦会と言った集まり全般を、聞こえがいいから「茶会」と称していることの方が多いのだ。
 もっとも、他国と交易をするフェルディーン家は、数少ない東方流の茶会を催すことのある家の一つではある。
 だが、今回の茶会はそうではない。名目はミリアムが世話になった礼を兼ねた食事会だが、あのアレクシアが素直に礼だけで済ませるわけがない。どうせ、アレクシアを差し置いてミリアムと親しくした者達への腹癒せで、キリアン達はアレクシアが満足するまで手合わせさせられるに決まっているのだ。和気藹々とミリアムと共に食事を楽しめるのは、招待客の中では恐らくエイナーとテレシアくらいのものだろう。
 それもあって、ミリアムには悪いと思いながらもキリアンは会議を優先させ――アレクシア主催の茶会の招待状は、実質召集令状に等しいのだが――茶会には欠席すると言ってあったと言うのに。
 それが、どうしてこうなったのか。

 今一度深々と重く長く息を吐き、キリアンは怒りを鎮めて己の父のことを考える。
 父が予め全て考えた上でのことであるならば、初めからキリアンをこの会議に出席させるつもりがなかったことになる。その上で欠席を伏せてキリアンを普段通りに行動させ、あたかも会議に出席するように見せたのは、相手方の油断を誘う為か。
 会議期間中に、キリアン達ミリアムと親しい者を招いての茶会が開かれるのも、キリアンを城から出す口実にする為だろう。

「……アレックス殿も一枚噛んでいるわけか」

 会議の日程は、毎年同じ。であれば、アレクシアがその日を狙って茶会を開くことは造作もない。二人の間で話が進められたのは、恐らく合同訓練の日。イーリスから聞いていないのかとカニアは言ったが、どうせイーリスも口止めされていたのだ。
 自分はまたしても、父にいいように使われてしまったらしい。同時に、この程度のことも読めない自分の情けなさに落ち込む。

「お怒りですか、殿下?」
「腹が立たないと言ったら嘘になるが、己の愚かさへの失望の方が強い」

 キリアンの立腹の犠牲になってしまったペンは、まだそこに虚しく転がっている。一時の怒りを物に当たるなどますますキリアンの愚かさを表すようで、気分は落ち込んでいくばかりだ。

「愚かなど。私は、殿下のことを好ましく思っておりますよ」

 どうせ嫌味が飛んで来るのだろうと思っていたカニアからの、存外に素直な言葉に顔を上げれば、容易には感情を読ませない平坦な瞳と視線が交わる。

「殿下は殿下のままあればよろしいのです」

 続いた言葉にキリアンは思わず目を見開いて、己の侍従を間抜けにもぽかんと見つめた。そして、唖然とした感情をそのままうっかり舌に乗せる。

「……何だ、明日は雪でも降るのか?」
「失礼ですね。私の正直な気持ちではないですか」

 たちまちカニアは心外そうに眉を寄せ、しかし続けて文句を言うでもなく、代わりに報告書の束を揃えて小脇に抱えた。そして、すまし顔で話題を変える。

「ともあれ、殿下が茶会へ出席されると知れば、テレシア様も喜ばれるでしょう。ご一緒に楽しまれてはいかがですか?」

 ちらりと視線だけを寄越したカニアからは、キリアンの何某かの反応を期待する色が窺えたが、キリアンは敢えてそれを無視した。

「その敬称はまだ早い。茶会にも、私の同伴で連れて行くつもりはないぞ?」
「……左様ですか」

 途端につまらないとばかりに平坦な表情に戻ったカニアは、その一言を最後にキリアンへと背を向けた。
 そして、カニアが歩き出すのと同時に、執務室の扉が外から開かれる。
 キリアンの視界に入って来たのは、見知った二人。イーリスとテレシアだ。イーリスはその手に何やら紙束を持ち、テレシアはワゴンを押している。
 そのイーリスが、真っ先にキリアンの執務机の折れたペンを見て眉を寄せた。瞬時に何があったか悟ったようで、すぐさまカニアに非難を込めた視線を向けるものの、当のカニアは薄く微笑むだけ。
 互いに何も言わず、二人が入り一人が出て行き扉が閉まって、わずかに執務室の空気が変わった。その中で、キリアンはこちらを黙って伺うイーリスへと軽く首を振る。

「心配ない」
「それならいいのですが」

 そう言って、イーリスがどことなく気まずそうに、キリアンへと持っていた書類を差し出した。それは、キリアンが初めにカニアに尋ねた、シュニット地方の視察に関する報告書だった。

「間違って陛下の方へ回されていたと、渡されました」
「そうか。探していたんだが……間違っていた、か」

 あからさまにキリアンから視線を逸らすイーリスの手から書類を受け取り、思わずキリアンの手に力が入った。カニアの言葉を鵜呑みにした少し前のキリアン自身を嘲笑うかのように、まだ誰も目を通していないことが分かる綺麗な紙面が実に眩しい。それはもう、我が息子はまだまだだなと言わんばかりに。

「あの人は……っ!」

 つまり、キリアンはまたしてもまんまと父にしてやられてしまったわけだ。
 考えてみれば、会議への欠席を伝えるだけなら、時期を見てカニアなりイーリスなりがキリアンへ伝えればそれで済む。キリアンはそれに対して怒りはするだろうが、それだけだ。だが、イェルドはそれではつまらないとでも思ったのだろう。
 今頃は、キリアンが結局最後まで気付かなかったことを笑っているのかと思うとその憎たらしさにますます力が入り、とうとうキリアンの手の中で、報告書がくしゃりと音を立てた。

「……やはり殴るか、あの顔。ああ、そうしようそれがいい。会議があるなど知ったことかっ!」
「落ち着いてください、殿下」

 報告書を机に叩き付け勢いよく椅子から立ち上がったキリアンを、やはりこうなったと言いたげに一度天井を仰いだイーリスが、慌てて押し止める。

「心配するな、イーリス。私は落ち着いている」
「どこがですか。一旦冷静になりましょう、殿下」
「だから、私は十分冷――」
「さあさ、キリアン様! お仕事が一段落なさったのでしたら、休憩にいたしましょう!」

 キリアンが、行く手を遮るイーリスを押し退ける直前。二人の間にすかさずテレシアが割り込んで、問答無用でキリアンの手を引いた。

「おい、テレシアっ」
「お疲れの時には、甘いものを召し上がるのがいいんですのよ、キリアン様」
「待て。私は――」

 キリアンが上げた抗議の声は、しかし、突然口の中に何かが放り込まれたことで消える。
 たちまち口の中に広がる砂糖の甘さに、キリアンはこれまでとは別の意味で顔を顰め、目の前でにこにこと笑うテレシアと見合い――数秒後。
 砂糖の甘さに怒りが溶けるように、キリアンは諦めの息を吐いた。

「……分かった。休憩にしよう」
「では、お茶をお淹れいたしますね」

 テレシアはキリアンの一言に嬉しそうに顔の前で両手を合わせると、早速ワゴンへ向かい、準備を始める。
 その姿を眺めながら観念してソファに座ったところで、キリアンはイーリスにも席を勧めた。ついでに、テレシアには三人分の茶を淹れるよう告げる。そうすればテレシアの笑みがますます明るいものになり、イーリスと顔を見合わせて一層嬉しそうに綻んだ。
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