黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~

奏ミヤト

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第四章 母の故国に暮らす

帰る場所、新しい家族

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 きしり、と。
 買ったばかりのソファが、二人分の重みにか私の心情が生み出した幻聴か、嫌な音を立てる。

「さて……どう話そうか」

 いつもならばアレクシアに抱き寄せられることを恐ろしいと思うことなどないのに、今は腕を肩に回されただけで体が硬直した。肩にかかる腕の重みがずしりと体に響いて、私の喉が勝手に上下する。
 ぐっと腕に力が込められ二人の体が密着し、少しの沈黙のあと、アレクシアが言葉を選ぶように語り始めた。

「そうさねぇ。ミリアムは、私が十七の時に周囲の反対を押し切ってこの国へ来たことは、知っているね?」
「は、はい」

 その話は、王城滞在中にレナートから聞いていた。
 サロモンが、まだ商会を継ぐ前のこと。いずれ商会を継ぐ者として何か一つ新しいことをしてみせろと言う父の言葉に従って、サロモンは当時、国交こそ結んではいても民同士の交流は殆どなかったキスタスバを、新たな交易先として目を付けた。そして、単身エリューガルの産品を売り込みに行ったのだ。そこで出会ったのが、当時の国長の補佐を務めていた男性の娘である、アレクシア。

 屈強な騎馬戦士ばかりを目にしていたアレクシアにとって、突然隣国からやって来たサロモンは、大した剣の腕もなければ鍛えた肉体も持たない、初めて出会った軟弱な男性だった。それなのに、他国に一人で乗り込む度胸だけは一人前。そんなサロモンの姿はアレクシアの目には酷く新鮮に映り、一目で惚れたのだと言う。アレクシアの側に、「自分が守ってやりたいと思う男を伴侶に」と言う願いがあったことも、サロモンへの思いを強くさせる一因だったのだろう。
 そこで、この機を逃してなるものかと、アレクシアは即座に行動に出た。歓待する為に父が自宅に招いたサロモンに、あろうことか招いたその日に夜這いをかけ、一晩をかけて強引に口説き落としたのだ。そして、キスタスバに産品を売り込むことに成功したサロモンが国へ帰る際、猛反対する家族や周囲の者達全員を見事に実力で黙らせ、共にエリューガルへと来た。

 ちなみにサロモンの両親は、息子が新たな交易先を確保すると共に嫁まで連れ帰って来たことに驚き、婚姻後半年もしない内に長女が誕生したことに更に驚き、遡ってアレクシアが当時十七歳だったことに――キスタスバでは十七歳で成人だそうだけれど――またまた驚いた結果、数年間は夫婦の寝室を別々にされたと言う後日談があるとかないとか。
 レナートから聞いた衝撃すぎて頭痛を誘発しそうな話を、うっかり余計なことまで含めて思い出して、思わず私は遠い目になった。
 けれど、そんな私の様子を意に介さず、アレクシアの言葉は続いていく。

「イレーネも、成人したその年にサロモンの仕事に付いて行った先で男を見つけてとっとと向こうに嫁いでしまったって話も、レナートから聞いているだろう?」
「はい。聞いています」

 海の女宣言をしたイレーネも、そう言えば現地の商会の息子と結婚しているのだから、この二人、本当に似た者親子である。

「サロモンは腰を抜かすほど驚いて猛反対したらしいが、私とサロモンの出会いも似たようなものだったからね。結局は、賛成するしかなかったさ」

 結果として、イレーネは三人の子宝に恵まれ、夫の商会でも若旦那の妻として周囲に認められながら幸せに暮らしているのだから、この時に反対を押し通すようなことがなくてよかったと言えるだろう。
 私はイレーネの姿については想像するしかないのだけれど、レナート曰く、外見は父親似の性格は母親似と言う、見事に二人を足して二で割ったような人物と言うことなので、とにかく強そうだと言う印象ばかりが先行している。
 ともあれ、アレクシアはこんな話を私に聞かせて、一体何を私にきっちり教えると言うのか。覚悟しろとの脅し文句にびくびくしつつも耳を傾けていたけれど、どうにも話の行き先が見えてこないことに、私はそろりとアレクシアを窺った。
 そのアレクシアが、まるで私の動きに呼応するようにこちらに顔を向けて来て、意図せずかち合った視線に、私はアレクシアの腕の中でびくりと身を竦ませてしまう。

「ミリアム」
「は、はいっ」

 呼びかけられて、反射的に背筋が伸びる。

「生まれ育った国を出た、と言う点ではお前も同じだね」
「そう……ですね」

 もっとも、私が国を出た理由は、二人のような情熱的なものとは掛け離れているけれど。そして、私の母も理由は違うけれど国を出た身だ。状況は異なるとは言え、私と母もアレクシア達に負けず劣らず、似た者親子と言えそうだ。
 そんな私の呑気な思考を、続くアレクシアの真剣な声が薙ぎ払った。

「――だがね、同じなのは国を出たってことだけだ。だから、今のお前にはあるべきものがない」

 それが何か分かるかと、顔を覗き込みながら問われる。
 真っ先に私の脳裏に思い浮かんだのは、二人が得た伴侶だ。二人の共通点と私との相違点は、それくらいしかない。けれど子供の私にとって、その存在はいずれ得る可能性はあっても、決して今「あるべきもの」と称される存在ではない。そして、あるべきと言うことは、なくてはならないと言い換えることもできる。
 国を出た者にとって、なくてはならないもの。金……は、私には十分すぎるほどある。生活するのに必要なものは、その金があれば大抵のものは揃えられるだろう。友人も知人もそれなりに得られた。これから暮らす土地に関する知識は今後嫌でも増えるし、子供に必要な保護者だって、今目の前にいる。それに、成人してしまえば保護者はあるべきとは言えない。
 身一つで国を飛び出したと言うのに、私は短い時間で驚くほどたくさんのものを手にした。ないものなんて、何もないように思える。
 どれだけ考えても分からず、私は降参するように首を振った。

「分かりません」

 果たしてアレクシアは、素直に答えた私に落胆も失望もすることなく、むしろ私の回答に満足するように頷きながら、私の頭を一撫でする。

「そうだろうねぇ。お前の一番大切なものは、まだエステルなんだ。それじゃ、分かりっこないさ」

 安堵しているようにさえ見えるアレクシアの一方、私は彼女の反応に疑問符を浮かべていた。私が母のことを一番大切にしているから分からないとは、どう言うことなのか。
 どことなく、暗に私が家宝の短剣を手元に望んだことを咎められているような気がしたけれど、大事にするようにと手渡してくれたのは、他でもないアレクシア自身だ。アレクシアは、駄目なことは駄目だとはっきり言う質で、それはいくら私が親友の娘だからと言って、甘くなるようなものではない。

「ミリアム。お前にないのはね、帰る場所だ」
「帰る場所、ですか?」

 アレクシアからの思いもよらない答えは、私の目を丸くさせた。
 生まれ育った国を捨ててこの国に来た私には、確かに帰る場所はない。元より、あの家に帰るつもりもないし、帰りたいとも思わない。もっとも、帰る場所だと思ったことだって、一度もないけれど。

「そうさ。それに、場所とは言ったが、自分の生まれ育った国だの生家だの、そう言う形あるものだけを指すわけじゃない。帰る場所ってのは、それがあるからこそ生きようと思える、それがあることが自分の力になる。自分の心が真っ先に求める……生きていく上で何より大切なものを言うのさ」
「それは……お母様では駄目なんですか?」

 私にとっては、正に母の形見の短剣こそが、生きる上で何より大切なものだ。それが手元にあるからこそあの家での最悪な日々を生きて来られたし、短剣を頼りにエリューガルへ行くのだと言う、生きる目的もあった。辛い時も嬉しい時も苦しい時もどうしようもなく寂しい時も、私を支えてくれたのは短剣であり母だ。
 それを一番に大切に思ってはいけないとも取れるアレクシアの言い分には、どうにも納得がいかない。
 それなのに、アレクシアは私のわずかな希望も砕くように即答する。

「駄目だね」
「そんなっ」
「エステルは死者だ。生者であるお前と共に、明日を生きることができる存在じゃない。それは、帰る場所とは呼べないのさ。心が求めたところでそのものが存在しないんじゃ、決して得られやしないじゃないか」
「で、でも、私はこれまで実際に支えてもらって――」

 朝、部屋から出る時。夜、部屋に戻って来た時。いってきますとただいまを、必ず口にした。その言葉に返してくれる母の声を思い出しながら。そうできることが、私の日々の些細な喜びだった。まだ私は生きているのだと思わせてくれるから。
 あまりにも酷い折檻を受けて、痛みで眠れなかった夜。今だけはと隠していた短剣を胸に抱いて、夜寝る時にいつも母が私にしてくれたことを必死に思い出していれば、安心した。短剣に移った自分の温もりが、まるで母の温もりのように感じられたから。
 それは、支えられていたと言っていいのではないだろうか。

「そいつは違うよ、ミリアム。お前はエステルに支えられていたんじゃない。エステルの思い出に縋って、辛い日々を耐えていただけだ。支えるってのは、互いがあって初めて成立するものだろう」
「そ、れは……」

 咄嗟に反論しようと口を開くけれど、残念ながら、そこから言葉は出て来なかった。
 アレクシアの言う通り、母は既にこの世に存在しない。当然、思い出す母が私に語りかけてくれることも、頭を撫でてくれることもなかった。私がただその声を、その行動を夢想して、仮初でも幸せな気持ちに浸っていただけでは、ある。

(私は、お母様に縋っていただけ……?)

 納得しかけて、私は視界の端にある短剣を入れた箱に気付いた。母はもういないけれど、短剣は形あるものだ。

「で、でも、短剣ならちゃんと存在していますよね?」
「ミリアムがあの短剣を大事に思うのは、エステルの形見だからだろう。あれが形見ではなくて……例えば、単なる装飾の綺麗な短剣だったとしても、お前は後生大事に胸に抱えるかい?」
「えっと、それは……」

 金銭的価値と言う意味で、ここぞと言う時の為に持っておこうとはしたかもしれない。けれど、それがあったら辛い日々を生きていけるとまでは流石に思わなかっただろう。精々考えたとして、売ったらいくらになるだろうかと言う現実的なことくらい。心がどうしようもない時の支えに――縋るものに――なりはしない。それに、そんな短剣がとある家の家宝の一つだと分かったなら、私はすぐに手放しただろう。
 私が、あの短剣を家宝の収められた箱に入れたままにできなかったのは、母の形見と言う事実の方が、カルネアーデ家の家宝と言う事実よりも、私にとって大きな意味を持っていたからだ。

「そうだろう? お前は短剣を通して、結局はエステルのことを求めてしまっているのさ」
「そうだとしても、ですよ? 実際に私があの家で生き抜いて来られたのは、お母様の思い出と形見の短剣があったからで」

 これはもう、アレクシアの言い分に納得するしかないのだろうかと思いつつも、どうにも素直に認めたくない私は、ついつい食い下がってしまう。
 だって、私が支えられていると思い込んで、その実思い出に縋っていたのだとしても、それが私をあの劣悪な環境で生かしたことは紛れもない事実なのだ。そこは、アレクシアに否定されたくはない。

「確かにね。お前がエステルの思い出に縋ったお陰で、生きて来られたことは事実だ。そいつを否定する気はないよ」

 私の半ば必死な思いをぶつければ、アレクシアは意外とすんなり首肯を返してくれて、私は思わず拍子抜けする。
 けれど、そこまでだった。すぐさまアレクシアの口が「ただし」と鋭く続いて、改めて私の悪足掻きは否定されてしまった。

「状況がちょいと特殊だったのさ。その時のお前にとっては、信じられる存在がエステルだけだった。だから、死んでいると分かっても縋らざるを得なかったんだよ。そいつは、お前の心が何とか生きようとして取った、最終手段だ。そんな状態が長く続けられると思うかい?」

 最終手段。突然出て来た何やら物騒な単語に、私は瞬く。
 最終手段とは、読んで字の如く最後の手段。それを用いてしまったが最後、もう有効な手立てがないもの。切羽詰まった時の頼みの綱。
 そんなものを私の心が必要としたと言うことは――

「もしかして私……実は、危ない状態だったんでしょうか」
「もしかしなくても危険だったんだよ、お前は。文字通り、心も体もずたぼろだった。むしろ、体より心の方がよほど深く傷付いていただろうね」

 体に負った傷は、時間をかければ確実に癒える。傷跡や多少の後遺症が残る場合はあるけれど、癒えていく様ははっきりと目に見え、自他共に実感できるものだ。
 けれど、心の傷は目に見えない。受けた傷の深さも本人には知覚できない。自分の心に傷がある自覚がないのだ。故に、癒すことを考えることもない。
 もしも、その人を気に掛ける他者がいたならば、異変に気付けたかもしれない。けれど、私のように気に掛ける他者が誰もいない状態では、正常も異常も気付ける筈がない。

「考えてもごらん。幼子が、子供が持つには物騒な剣を胸に抱き締めて、安堵するように笑いながら『お母様』と呟く……そんな姿を目にして、そいつがまともだと思えるかい?」

 あの隙間風吹く屋根裏部屋で、私は何度藁のベッドに丸くなり、身を縮こまらせて唱えただろう。存在しない母に向かって笑みを浮かべただろう。それでなくともついさっき、私はこの胸に短剣を抱いて喜んでいた。
 客観的に考えて、初めて私はその異様さを自覚する。

「……このままじゃ駄目だとは、思います」

 だから、先ほどのアレクシアの私を見る目は、憐憫を帯びていたのか。躊躇を見せたのも、短剣を手元に残せると喜んだ直後の私に対して、お前のそれは死者の思い出に縋っているだけだと事実を突き付けたところで、私が素直に聞き入れないと思ったからだろう。冷静にアレクシアの話を聞いている今だって、往生際悪く食い下がったくらいなのだ。
 まして、そんなことを続けているのは私の為にならないなんて言われたら――考えたくはないけれど、私が何某かの極端な行動に出たことは容易に想像がつく。

「だけどね。何が切っ掛けだったかは知らないが、お前が家を出ようと思ったことで、お前の心の傷は手遅れになるほどにならずに済んだ。それに、城での生活も、お前の心の傷を多少は癒してくれた」

 私がようやく今になってイーリスから貰ったハンカチの刺繍に気付けたのは、傷が癒え始めていることを示す、いい傾向なのだとアレクシアは言う。
 心は、傷付けば傷付くほど人から余裕を奪い、視野を狭め、極端な行動ばかりを許すようになる。癒えれば逆に余裕が生まれ、視野が広がり、様々に物事を思考することができるようになるのだと。
 それでも、数か月を城で過ごした割にようやくハンカチに気付けるくらいでしかないのは、客人と言う私の城での立場が、少なからず私の心に緊張を強いていたから。緊張は、心の傷の回復を妨げるものにしかならないのだ。

「――よし。話を本題に戻そうか、ミリアム」

 ぱん、と一つ手を叩き、アレクシアがようやく私を腕の中から解放する。私は改めて背筋を伸ばし、膝に置いた手に軽く力を入れた。

「さっきも言ったが、帰る場所ってのは、生きていく上で何より大切なものだ。世の中には、持たないままで生きている奴も多少はいるだろう。だが、そう言う奴ってのは大抵死に急ぐ馬鹿ばかりだ。私はミリアムにはそんな奴になってほしくないし、お前の保護者としても、絶対に見過ごせない」

 いいね、と私がアレクシアの話をきちんと理解していることを確認するように念を押され、私は素直に頷いた。
 これまでの私の人生、記憶を思い出してからの行動は、思えば非常に捨て鉢だった。どうせフィロンと出会ってしまったら死ぬのだとの思いが常に私を切迫させ、形振り構わない行動をさせていた気がする。
 今生ではそれに加えて、記憶を取り戻した時には既に心が酷く傷付き、謂わば壊れかけていた。そんな状態の私の心に過去の記憶が乗っかった結果、最も極端な行動――家出を決意させるに至った。
 自棄を起こしたとは言え、あまりに無謀。死に急いでいると言われても、何も言い返せない。そして、この先もそのままでは絶対に駄目だし、何より私自身が嫌だ。

「アレックスさん。私、生きたいです」
「ああ、勿論さ」

 頷くアレクシアに、私も頷き返す。
 アレクシアの言う、生きていく上で何より大切だと言う帰る場所。私はそれを、きちんと持たなければならない。持てるようにならなければならない。その為に私が成すべきことは一体、何なのか。
 緊張しながら次の言葉を待つ私に、アレクシアは安心させるように柔らかく笑んで、難しいことじゃない、と告げた。

「ただ毎日を、心安く過ごせばいい」

 寝る前にその日一日を振り返って、いい日だったと笑顔でベッドに入れるように。
 たったそんなことだけでいいと言う。
 それはつまり、ただ日々を楽しく過ごせと言っているのと同義だ。そんなことで、アレクシアが言う帰る場所が、私にも見つけられるようになると言うのだろうか。

「そんなことで、いいんですか?」

 あまりに信じられなくて、私は呆気に取られて、間近にあるアレクシアの顔を見返していた。そうすればアレクシアの腕が伸びて、私は額を軽く弾かれる。

「痛っ!」
「馬鹿を言うんじゃないよ。それが何より大事なことなんじゃないか。今のお前は、まず何よりも心の傷を癒すことが先決なんだから」
「え? でも、帰る場所は?」

 痛む額を両手で押さえた私の頭を、アレクシアが今度は上からぐっと押さえ付けて来た。その顔には、隠しもしない呆れが色濃く滲み出ている。それは私が、レナートの基準で言うところの「馬鹿なこと」を言った時に、レナートが見せるものとそっくりだった。
 あ、と思った時には鼻が触れるほどの距離にアレクシアが顔を寄せて、じっとりとした半眼が私を覗き込む。

「帰る場所ってのは、心が求めるものだと言ったろう。まともでない状態の心が、正しく見つけられると思うのかい?」
「お……思いません……」

 まずはしっかり心の傷を癒すこと。それが私のやるべきことだと、アレクシアが一言一言、私に言い聞かせる。
 安静にして体を休め、よく食べよく寝て体の傷を癒すのと同様に、心の傷を癒すには、日々を楽しみ、心の望むように過ごし、心を安らげることが大事なのだと。

「その為に、こうやってお前好みの部屋にもしたんだ。好きなものに囲まれてゆっくり過ごす時間ってのは、何より心に安らぎを与えてくれるものだろう? これからも、お前の好きなものでこの部屋を埋めておいき。それで心もちゃんと癒えたなら、成人してすぐこの家を出て行ったって、私は何も言わないよ。その時のお前の心なら、きっと帰る場所も見つけられるだろうからね」
「え……?」

 思わぬ言葉に意表を突かれて、私は驚きに目を見開いた。その先にあるのは、どこか得意げなアレクシアの笑みだ。

「何だい、その意外そうな顔は。子供らしくない遠慮の塊のお前の考えていることくらい、レナートじゃなくたって分かるんだよ。お前のその極度の遠慮も心の傷に障るんだから、取っ払っちまわないでどうするんだ」

 手を下ろして再び無防備になっていた額を再度突かれて、私は顔を顰める。

「でも」
「でも、じゃない。大体、この家を出て行くったって、お前が生家を飛び出したのとはわけが違うんだ。ここを出て行ったって、いつだって戻って来たらいいじゃないか。この部屋もそのまま残しておくから、お前の心が疲れたら休みにおいで」

 アレクシアから告げられるあまりに意外な内容に、私はただただ目を瞬いた。
 誰より私の保護に積極的だったアレクシアのこと、私が成人してすぐ家を出るなんて言えば、当然反対されると思っていた。だからこそ、貰うものの大きさに比例するように申し訳なさが募っていたのに。
 それが、反対されないどころか、いつでも戻って来ていいと言う言葉を貰うだなんて。

「ミリアムは、このフェルディーンの新しい家族だと言ったろう。もうこの家はお前の家で、この部屋はお前の部屋なんだ。お前の新しい家族は、お前のことをいつだって温かく出迎えて抱き締めてやるんだから、出て行ってそれきりなんて寂しいことを言うんじゃないよ。もっとも、その前にうちの男共をちゃんと説得してこの家を出られたら、だけどね」

 あいつらは手強いから覚悟しておくんだよ、と笑うアレクシアの言葉に、何故か私の中で今日のことが思い出された。
 笑顔で見送り、笑顔で出迎えてくれた使用人。私の手を引いて、嬉しそうに案内してくれたラッセ。いつもと変わらないように見えて、いつも以上に優しかったレナート。夕食の席で、私の話を楽しそうに聞いてくれたサロモン。そして、模様替えをした部屋を意気揚々案内してくれたアレクシア――
 その瞬間、私の頬を何かが流れ落ちた。それと気付いた時にはあっと言う間に視界が滲んで、アレクシアの笑う気配だけが私に届く。

「……ああ。やっとお前を泣かせることができたねぇ」

 そう言って私を抱き締めるアレクシアに、私は何も言えずにただ腕を回した。そして、この胸に湧き上がる喜びの意味を、私はようやく理解する。
 これまでの私にとっての家族とは、一つ屋根の下に暮らす血の繋がっただけの他人だった。特に今生では、それを酷く思い知らされた。生まれ育った家だって、一度出ると決めたならもう二度と戻って来ることのない、捨て去る場所なのだと思っていた。たった一人の味方だった母も、たった六つの私を残していなくなった。
 私の中ではいつしか、温かく愛情に溢れ笑顔の絶えない家族の形は、あくまで理想の、現実にはありもしない夢物語になっていた。
 けれど本来、家族とは、家とは、そんな冷たいものではない筈で。

 今生で私の中に何より強く植え付けられていた意識が、アレクシアの言葉と与えられる温もりによって、やっと氷解していくのを感じる。
 ありがとうも大好きも喜びも嬉しさも感謝も、全ての気持ちを込めて今一度アレクシアに回した腕の力を強めれば、今日一番に強く抱き返されて、私はその温かさと優しさにそっと頬を緩めたのだった。
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