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第四章 母の故国に暮らす
相手を思う心
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ワゴンに用意されたお茶を淹れ、それぞれテーブルを挟んで対面の位置へと座れば、華やいでいながらも落ち着いた花の香りがふわりと鼻先を漂った。
どうやら、就寝前と言うことで、ワゴンに用意されていたのは紅茶ではなくハーブティーらしい。気持ちが落ち着く香りを楽しみながらカップに口を付けて茶を味わっていれば、ふとアレクシアが声を上げた。
「そう言えば、下に敷いてあったハンカチは今日買ったものかい? あまり見ない刺繍が刺してあったようだが……まさか、ウゥスから貰ったものじゃないだろうね?」
油断のならない奴とでも言いたげに眉間に寄る眉に、私は笑って首を振る。
流石にウゥスにそこまでよくしてもらってはいないし、恐らくウゥスがそんなことをしようとすれば、ラッセに丁重にお断りされていたことだろう。
「あのハンカチは、イーリスさんにいただいたものです」
「へぇ、イーリスが。と言うことは、エディルの店か……」
アレクシアの目にはよほど珍しい刺繍に映ったのか、すっかり商会長の妻としての顔で目を細めるその様子に、私はどこか自慢げな気持ちを抱いた。
王都で有名な商会のお眼鏡に適う代物ではないだろうけれど、それだけエリューガルでは見ないものなのだと思うと、もう戻るつもりはないとは言え、私の生まれ育った国。どこか誇らしく思えてくるから不思議だ。
けれど、流石に他国の信奉する神を模った刺繍が、黒竜クルードの守護するエリューガルで流行ってしまうのはよくないだろう。
「イーリスさんがアルグライスで購入されたものなんです。それを私にくださって」
「ミリアムの生まれた……?」
「はい。あの刺繍は、東方の国の多くが信奉する豊穣の女神セーを象徴するもので。エリューガルのお守りのように、はっきりとした効力があるものではないんですけど……大切な相手や旅人へ、その無事を祈って贈るものに施される刺繍なんです」
特に行商人や長期間家を空けなければならない人にありがたがられるのが、このセーの刺繍だった。豊穣を司る女神であるセーを模した刺繍を身に付けていれば、道中の食べ物に困ることがないと言い伝えられているのだ。それに加えて、麦穂を束ねるリボンにも、色毎にそれぞれ意味が込められている。
赤であればよい出会いが、橙であれば金にまつわる幸運が訪れるとされ、白は病を退け、青だと自然災害から身を守り、黄は天候に恵まれる。
「それなら緑は? ミリアムが貰ったハンカチは、緑のリボンで麦穂が束ねられていただろう?」
「緑は女神セーの瞳の色でもあるので、女神がよく見極めて、その人に合ったよい土地に導いてくれるんだそうです。私も――」
言いかけて、私ははっと窓辺を振り返った。今まで意識していなかったことが、唐突に脳内を駆け巡る。
そうだ。確かに、イーリスから貰ったハンカチの刺繍のリボンの色は緑だった。これまで何度も目にしていたのに、どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。
あの手の刺繍は、服の仕立ての注文がない時や手が空いた時には、よく刺していた。少しでも物を作って売ってもらい、収入を得る為に。そして、私は決まって緑の糸でリボンを刺繍した。その色が、私の本来の髪色と同じだったから。それは、ひいては母と同じ色。
誰にも惜しまれることなく、それどころかやっと死んだと言わんばかりに、思い合っていた筈の男の手で無残にも打ち捨てられた母。その母のことを、せめて私だけは誰より思っていようと、決して忘れないと、どこかそんな決意も込めて、いつも緑の刺繍糸をその手にしていたのだ。
だからだろうか。私が働いていた仕立屋で、リボンを緑の糸で刺繍していたのは私だけだった。
そうだとしたなら。
(まさか、あのハンカチは――)
私の調査でモールト領へ行ったイーリスが、私とは全く無関係の場所でわざわざハンカチ一枚を購入するとは思えない。となれば、買い求めた店は自ずと限られてくる。
それに、滅多に赴くことのない遠方の地で買った、謂わば記念品とも言えるものを、その日が初対面だった私に何の躊躇いもなく譲るなんてことも、そうそうできることではない。
「どうしたんだい、ミリアム?」
首を傾げてこちらを見つめるアレクシアの声に、私は思わず身を乗り出すようにして立ち上がっていた。
「アレックスさん、私……っ!」
あの日、イーリスにハンカチを差し上げますと言われて、私は何度断りの言葉を口にしただろう。最後には結局、私の涙ですっかり汚れてしまったこともあって恐縮して貰い受けたけれど、その時、私はイーリスに対して何と言った? きちんとお礼の言葉を言えていただろうか? ……いや、まともに感謝を伝えられた記憶はない。
そもそも、あのハンカチが本当に私の考えた通りのものだとしたら、私が目にしても手に取っても何の反応も見せないことを、イーリスはどう思っただろう。
「私、イーリスさんに……ああ、どうしたらっ」
「そうさねぇ。まずは座って茶をお飲み、ミリアム。それから、ゆっくり話してごらん。私がちゃんと聞いてやるから」
おろおろとその場で視線を彷徨わせる私を、アレクシアの落ち着き払った声が導く。
私はアレクシアに指差されるままにソファに座り直し、彼女に倣うようにハーブティーを一口飲んで、目を閉じた。漂う花の香りと共に深呼吸を数度ゆっくり繰り返してから目を開けば、ハーブの効果か、私の中に落ち着きが戻って来たのを感じる。
もう一度、考えをまとめるように意識して息を吸って、吐く。そうしてから、私はアレクシアへ、イーリスからハンカチを貰った経緯と今思い出したことを素直に伝えた。
「――お前がイーリスに詫びる必要なんて、どこにもないさ」
私が話し終えて最初に返って来たのは、そんな一言と柔らかな微笑み。咄嗟に反論しそうになった勢いは、先手を打つように挙げられたアレクシアの手によって止められ、浮きかけた私の腰はソファに深く沈んだ。
けれど、私の不服は十分伝わったのだろう。アレクシアの顔に私を宥めるような笑みが浮かぶ。
「人の話は最後までお聞き。私は何も、イーリスに詫びるなと言っているんじゃないよ。ただ、お前がするべきは詫びではなく、感謝だと言いたいのさ」
「感謝、ですか?」
私は口を噤んで少しばかり考えた。
アレクシアの言うことも、分からないではない。これまでにイーリスにもたくさんのものを与えてもらって、私は感謝してもしきれないほどの恩を感じている。感謝を伝えるのは当然のことと言えなくもない。
けれど、今はハンカチを貰った時の、私のイーリスに対する態度について話をしているのだ。ならばこの場合、やはり私がすべきは感謝よりも詫びではないのだろうか。
素直に納得できない私の感情が、無意識に眉根を寄せさせていた。
「お前の詫びたい気持ちを蔑ろにするつもりはないが、私なら、こう言う時には詫びより感謝の言葉が聞きたいね。その方がずっと嬉しい。イーリスだって、きっと同じだろうさ」
「……そうでしょうか」
いや、恐らくそうだろう。アレクシアに比べれば、私のイーリスとの付き合いはとても短い。けれど、短いながらもイーリスの人となりは、私もそれなりに理解しているつもりだ。
こう言う時に私が詫びの言葉を口にすれば、気にしなくていいのよと言うのがイーリスだ。むしろそのあと、気にしなくていいとのイーリスの言葉に対して私が感謝を口にした時にこそ、嬉しそうな顔をする。彼女は、そう言う人だ。
では、私が遅まきながら気付いたと、ハンカチの件で感謝を伝えたとして。果たして、それだけでいいだろうか。
「ミリアムが言葉だけじゃ気が済まないってんなら、何か贈るかい? イーリスはそんなに心の狭い奴じゃないし、言葉だけでも十分だとは思うがねぇ」
私の眉間から力が抜けないのを見かねてのアレクシアの一言は、残念ながら私を更に悩ませた。
贈り物。その言葉からまず真っ先に思い付くのは、今エイナーの為に作ろうとしているお守りだ。今の私ができる精一杯の感謝と詫びの気持ちを伝えるものは、これくらいしかない。
そうは思うものの、エイナーへのものとは別にもう一つ特別な核でお守りを作って渡すのは、どうにも少し違う気がする。私の心が首を傾げて、乗り気にならないのだ。
「別に、形に残る物でなくたって構わないさ。ウゥスから教わったんじゃないのかい? 大切なのは、相手を思う心だと」
すっと私の胸元を指差すアレクシアの姿に、核に込める祈りこそが最も大切だと言ったウゥスの言葉が思い出される。
どんなに価値の高いものでも、そこに相手を思う心がこもっていなければ、相手に気持ちは伝わらない。祈りが、相手を守るものになりはしない。
相手に相応しいものを、相手の為になるものを――そんな形に拘るのではなく、ただ相手のことを大切だと思う。その心こそが、何より大事なのだ。
「イーリスさんを思う、心……」
いつも私へ笑顔を向けてくれるイーリス。時に姉のように寄り添ってくれるイーリス。友として私と笑い合ってくれるイーリス。
そんな彼女が喜んでくれるものはきっと、高価なものなんかではない。高価なものでなくていい。
「そうさ。お前がイーリスのことを思って贈ることに意味があるんだよ」
そう言ってからりと笑うアレクシアの言葉は、迷える私に真っ直ぐ手を伸ばし、導いてくれるようだった。
「そう、ですね」
私の視界が、アレクシアの一言によって開ける。
とは言うものの、それはそれでまた、なかなかの難題だったりする。心がこもってさえいれば何でもいい、と言うわけにもいかないのだから。
髪の長いイーリスのこと、髪飾りはどうだろうと一瞬考えたけれど、そちらは別の人に贈り物として用意しているので、それは私自身がどうにも気が進まない。では、私からも刺繍を施したハンカチを贈るのはどうだろうか。刺繍ならば得意中の得意だ。セーの刺繍のように、意味のある図柄がこのエリューガルにもあるのであれば、それを刺繍してもいい。それとも、キリアンの騎士と言う立場もあるし、ここは普通の核を使ったお守りを作って渡すか。アレクシアは形に残る物でなくともいいとは言ったけれど、それこそ、言葉以外に感謝を伝えるものとして何を贈ればいいのか、私には皆目見当がつかない。
新たな悩みに考え込む私へ、アレクシアが助け舟を出してくれたのはその時。
「そこまで悩むなら……そうだねぇ、茶会で出す菓子なんてどうだい? 料理なんて、これまでろくにしたことがないだろう? そんなミリアムが作った菓子なんて出してごらんよ。イーリスの奴でなくとも、飛び上がらんばかりに喜ぶさ。心がこもっていることも疑いようはない」
「まあ! 手作りのお菓子!」
全く思いもしなかった提案に、私は目を見開いて驚いた。
これまでの私の数多の人生経験は、人付き合いに関しては全く役に立たないことはつくづく思い知らされていたけれど、手作りの料理を振る舞うだなんてまさに盲点。私には、絶対に思い付かない贈り物だ。
それにアレクシアの言う通り、自分で料理を作ることも、今生は元よりこれまでの人生でも実はそう多くなかった。貴族令嬢人生は言わずもがなだけれど、平民の娘人生でも、部屋に引きこもる娘が台所に立つ機会なんて、そうそう訪れるものではなかったから。
必要に迫られて常日頃から料理をする人生を送ったことも、少ないながらもあるにはある。その為、最低限の知識は有していると自負はしている。けれど、その記憶を詳細に覚えているわけではないので、全体的に見ればだいぶ覚束ない。今包丁を握らされたら、とんでも料理が出来上がる自信の方があるだろう。
考えてみれば、成人後にこの家を出るならば、家事に関しての知識は一通り身に付けておかなければならない。掃除や洗濯、裁縫に関しては下女経験が役には立っても、あの家では人様の口に運ぶものは一度だって関わらせてはもらえなかった。
これはもしや、独り立ち後の生活の為にも、料理を学ぶいい機会なのではないだろうか。イーリスに私の感謝の気持ちも伝えられるし、正に一石二鳥!
「上手くできるか分かりませんけど、私、イーリスさんだけでなく皆さんにお菓子を振る舞いたいです!」
そもそも今度の茶会は、これまで私が世話になった礼をする為にアレクシアが催してくれるものだ。
これほど、手作りの菓子を振る舞うのに相応しい場もない。
「最初から上手くできる奴なんていやしないから、気楽におやり。それに、別に手の込んだものを作らなくたっていいんだ。材料を混ぜて捏ねて焼くだけのクッキーでも、十分お前の気持ちは伝わるだろうさ」
「はい!」
料理長には話をしておいてやろう、とのアレクシアの言葉に感謝を伝えれば、すっかり胸のつかえが下りて、私は少しばかり温くなったハーブティーを穏やかな気持ちで飲み干した。
そんな私を、アレクシアがどこか過去を懐かしむような眼差しで見つめてくる。けれどそれも束の間、アレクシアの手がテーブルに置かれたまま触れられなかったものに、ようやく伸びた。
どうやら、就寝前と言うことで、ワゴンに用意されていたのは紅茶ではなくハーブティーらしい。気持ちが落ち着く香りを楽しみながらカップに口を付けて茶を味わっていれば、ふとアレクシアが声を上げた。
「そう言えば、下に敷いてあったハンカチは今日買ったものかい? あまり見ない刺繍が刺してあったようだが……まさか、ウゥスから貰ったものじゃないだろうね?」
油断のならない奴とでも言いたげに眉間に寄る眉に、私は笑って首を振る。
流石にウゥスにそこまでよくしてもらってはいないし、恐らくウゥスがそんなことをしようとすれば、ラッセに丁重にお断りされていたことだろう。
「あのハンカチは、イーリスさんにいただいたものです」
「へぇ、イーリスが。と言うことは、エディルの店か……」
アレクシアの目にはよほど珍しい刺繍に映ったのか、すっかり商会長の妻としての顔で目を細めるその様子に、私はどこか自慢げな気持ちを抱いた。
王都で有名な商会のお眼鏡に適う代物ではないだろうけれど、それだけエリューガルでは見ないものなのだと思うと、もう戻るつもりはないとは言え、私の生まれ育った国。どこか誇らしく思えてくるから不思議だ。
けれど、流石に他国の信奉する神を模った刺繍が、黒竜クルードの守護するエリューガルで流行ってしまうのはよくないだろう。
「イーリスさんがアルグライスで購入されたものなんです。それを私にくださって」
「ミリアムの生まれた……?」
「はい。あの刺繍は、東方の国の多くが信奉する豊穣の女神セーを象徴するもので。エリューガルのお守りのように、はっきりとした効力があるものではないんですけど……大切な相手や旅人へ、その無事を祈って贈るものに施される刺繍なんです」
特に行商人や長期間家を空けなければならない人にありがたがられるのが、このセーの刺繍だった。豊穣を司る女神であるセーを模した刺繍を身に付けていれば、道中の食べ物に困ることがないと言い伝えられているのだ。それに加えて、麦穂を束ねるリボンにも、色毎にそれぞれ意味が込められている。
赤であればよい出会いが、橙であれば金にまつわる幸運が訪れるとされ、白は病を退け、青だと自然災害から身を守り、黄は天候に恵まれる。
「それなら緑は? ミリアムが貰ったハンカチは、緑のリボンで麦穂が束ねられていただろう?」
「緑は女神セーの瞳の色でもあるので、女神がよく見極めて、その人に合ったよい土地に導いてくれるんだそうです。私も――」
言いかけて、私ははっと窓辺を振り返った。今まで意識していなかったことが、唐突に脳内を駆け巡る。
そうだ。確かに、イーリスから貰ったハンカチの刺繍のリボンの色は緑だった。これまで何度も目にしていたのに、どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。
あの手の刺繍は、服の仕立ての注文がない時や手が空いた時には、よく刺していた。少しでも物を作って売ってもらい、収入を得る為に。そして、私は決まって緑の糸でリボンを刺繍した。その色が、私の本来の髪色と同じだったから。それは、ひいては母と同じ色。
誰にも惜しまれることなく、それどころかやっと死んだと言わんばかりに、思い合っていた筈の男の手で無残にも打ち捨てられた母。その母のことを、せめて私だけは誰より思っていようと、決して忘れないと、どこかそんな決意も込めて、いつも緑の刺繍糸をその手にしていたのだ。
だからだろうか。私が働いていた仕立屋で、リボンを緑の糸で刺繍していたのは私だけだった。
そうだとしたなら。
(まさか、あのハンカチは――)
私の調査でモールト領へ行ったイーリスが、私とは全く無関係の場所でわざわざハンカチ一枚を購入するとは思えない。となれば、買い求めた店は自ずと限られてくる。
それに、滅多に赴くことのない遠方の地で買った、謂わば記念品とも言えるものを、その日が初対面だった私に何の躊躇いもなく譲るなんてことも、そうそうできることではない。
「どうしたんだい、ミリアム?」
首を傾げてこちらを見つめるアレクシアの声に、私は思わず身を乗り出すようにして立ち上がっていた。
「アレックスさん、私……っ!」
あの日、イーリスにハンカチを差し上げますと言われて、私は何度断りの言葉を口にしただろう。最後には結局、私の涙ですっかり汚れてしまったこともあって恐縮して貰い受けたけれど、その時、私はイーリスに対して何と言った? きちんとお礼の言葉を言えていただろうか? ……いや、まともに感謝を伝えられた記憶はない。
そもそも、あのハンカチが本当に私の考えた通りのものだとしたら、私が目にしても手に取っても何の反応も見せないことを、イーリスはどう思っただろう。
「私、イーリスさんに……ああ、どうしたらっ」
「そうさねぇ。まずは座って茶をお飲み、ミリアム。それから、ゆっくり話してごらん。私がちゃんと聞いてやるから」
おろおろとその場で視線を彷徨わせる私を、アレクシアの落ち着き払った声が導く。
私はアレクシアに指差されるままにソファに座り直し、彼女に倣うようにハーブティーを一口飲んで、目を閉じた。漂う花の香りと共に深呼吸を数度ゆっくり繰り返してから目を開けば、ハーブの効果か、私の中に落ち着きが戻って来たのを感じる。
もう一度、考えをまとめるように意識して息を吸って、吐く。そうしてから、私はアレクシアへ、イーリスからハンカチを貰った経緯と今思い出したことを素直に伝えた。
「――お前がイーリスに詫びる必要なんて、どこにもないさ」
私が話し終えて最初に返って来たのは、そんな一言と柔らかな微笑み。咄嗟に反論しそうになった勢いは、先手を打つように挙げられたアレクシアの手によって止められ、浮きかけた私の腰はソファに深く沈んだ。
けれど、私の不服は十分伝わったのだろう。アレクシアの顔に私を宥めるような笑みが浮かぶ。
「人の話は最後までお聞き。私は何も、イーリスに詫びるなと言っているんじゃないよ。ただ、お前がするべきは詫びではなく、感謝だと言いたいのさ」
「感謝、ですか?」
私は口を噤んで少しばかり考えた。
アレクシアの言うことも、分からないではない。これまでにイーリスにもたくさんのものを与えてもらって、私は感謝してもしきれないほどの恩を感じている。感謝を伝えるのは当然のことと言えなくもない。
けれど、今はハンカチを貰った時の、私のイーリスに対する態度について話をしているのだ。ならばこの場合、やはり私がすべきは感謝よりも詫びではないのだろうか。
素直に納得できない私の感情が、無意識に眉根を寄せさせていた。
「お前の詫びたい気持ちを蔑ろにするつもりはないが、私なら、こう言う時には詫びより感謝の言葉が聞きたいね。その方がずっと嬉しい。イーリスだって、きっと同じだろうさ」
「……そうでしょうか」
いや、恐らくそうだろう。アレクシアに比べれば、私のイーリスとの付き合いはとても短い。けれど、短いながらもイーリスの人となりは、私もそれなりに理解しているつもりだ。
こう言う時に私が詫びの言葉を口にすれば、気にしなくていいのよと言うのがイーリスだ。むしろそのあと、気にしなくていいとのイーリスの言葉に対して私が感謝を口にした時にこそ、嬉しそうな顔をする。彼女は、そう言う人だ。
では、私が遅まきながら気付いたと、ハンカチの件で感謝を伝えたとして。果たして、それだけでいいだろうか。
「ミリアムが言葉だけじゃ気が済まないってんなら、何か贈るかい? イーリスはそんなに心の狭い奴じゃないし、言葉だけでも十分だとは思うがねぇ」
私の眉間から力が抜けないのを見かねてのアレクシアの一言は、残念ながら私を更に悩ませた。
贈り物。その言葉からまず真っ先に思い付くのは、今エイナーの為に作ろうとしているお守りだ。今の私ができる精一杯の感謝と詫びの気持ちを伝えるものは、これくらいしかない。
そうは思うものの、エイナーへのものとは別にもう一つ特別な核でお守りを作って渡すのは、どうにも少し違う気がする。私の心が首を傾げて、乗り気にならないのだ。
「別に、形に残る物でなくたって構わないさ。ウゥスから教わったんじゃないのかい? 大切なのは、相手を思う心だと」
すっと私の胸元を指差すアレクシアの姿に、核に込める祈りこそが最も大切だと言ったウゥスの言葉が思い出される。
どんなに価値の高いものでも、そこに相手を思う心がこもっていなければ、相手に気持ちは伝わらない。祈りが、相手を守るものになりはしない。
相手に相応しいものを、相手の為になるものを――そんな形に拘るのではなく、ただ相手のことを大切だと思う。その心こそが、何より大事なのだ。
「イーリスさんを思う、心……」
いつも私へ笑顔を向けてくれるイーリス。時に姉のように寄り添ってくれるイーリス。友として私と笑い合ってくれるイーリス。
そんな彼女が喜んでくれるものはきっと、高価なものなんかではない。高価なものでなくていい。
「そうさ。お前がイーリスのことを思って贈ることに意味があるんだよ」
そう言ってからりと笑うアレクシアの言葉は、迷える私に真っ直ぐ手を伸ばし、導いてくれるようだった。
「そう、ですね」
私の視界が、アレクシアの一言によって開ける。
とは言うものの、それはそれでまた、なかなかの難題だったりする。心がこもってさえいれば何でもいい、と言うわけにもいかないのだから。
髪の長いイーリスのこと、髪飾りはどうだろうと一瞬考えたけれど、そちらは別の人に贈り物として用意しているので、それは私自身がどうにも気が進まない。では、私からも刺繍を施したハンカチを贈るのはどうだろうか。刺繍ならば得意中の得意だ。セーの刺繍のように、意味のある図柄がこのエリューガルにもあるのであれば、それを刺繍してもいい。それとも、キリアンの騎士と言う立場もあるし、ここは普通の核を使ったお守りを作って渡すか。アレクシアは形に残る物でなくともいいとは言ったけれど、それこそ、言葉以外に感謝を伝えるものとして何を贈ればいいのか、私には皆目見当がつかない。
新たな悩みに考え込む私へ、アレクシアが助け舟を出してくれたのはその時。
「そこまで悩むなら……そうだねぇ、茶会で出す菓子なんてどうだい? 料理なんて、これまでろくにしたことがないだろう? そんなミリアムが作った菓子なんて出してごらんよ。イーリスの奴でなくとも、飛び上がらんばかりに喜ぶさ。心がこもっていることも疑いようはない」
「まあ! 手作りのお菓子!」
全く思いもしなかった提案に、私は目を見開いて驚いた。
これまでの私の数多の人生経験は、人付き合いに関しては全く役に立たないことはつくづく思い知らされていたけれど、手作りの料理を振る舞うだなんてまさに盲点。私には、絶対に思い付かない贈り物だ。
それにアレクシアの言う通り、自分で料理を作ることも、今生は元よりこれまでの人生でも実はそう多くなかった。貴族令嬢人生は言わずもがなだけれど、平民の娘人生でも、部屋に引きこもる娘が台所に立つ機会なんて、そうそう訪れるものではなかったから。
必要に迫られて常日頃から料理をする人生を送ったことも、少ないながらもあるにはある。その為、最低限の知識は有していると自負はしている。けれど、その記憶を詳細に覚えているわけではないので、全体的に見ればだいぶ覚束ない。今包丁を握らされたら、とんでも料理が出来上がる自信の方があるだろう。
考えてみれば、成人後にこの家を出るならば、家事に関しての知識は一通り身に付けておかなければならない。掃除や洗濯、裁縫に関しては下女経験が役には立っても、あの家では人様の口に運ぶものは一度だって関わらせてはもらえなかった。
これはもしや、独り立ち後の生活の為にも、料理を学ぶいい機会なのではないだろうか。イーリスに私の感謝の気持ちも伝えられるし、正に一石二鳥!
「上手くできるか分かりませんけど、私、イーリスさんだけでなく皆さんにお菓子を振る舞いたいです!」
そもそも今度の茶会は、これまで私が世話になった礼をする為にアレクシアが催してくれるものだ。
これほど、手作りの菓子を振る舞うのに相応しい場もない。
「最初から上手くできる奴なんていやしないから、気楽におやり。それに、別に手の込んだものを作らなくたっていいんだ。材料を混ぜて捏ねて焼くだけのクッキーでも、十分お前の気持ちは伝わるだろうさ」
「はい!」
料理長には話をしておいてやろう、とのアレクシアの言葉に感謝を伝えれば、すっかり胸のつかえが下りて、私は少しばかり温くなったハーブティーを穏やかな気持ちで飲み干した。
そんな私を、アレクシアがどこか過去を懐かしむような眼差しで見つめてくる。けれどそれも束の間、アレクシアの手がテーブルに置かれたまま触れられなかったものに、ようやく伸びた。
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