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第三章 王城での一月
残照の懸念、別れの日
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「私だって、息子達のことは愛しているとも」
ランプに火を灯し、書き物道具を携えて戻れば、イェルドの慈愛に満ちた父の顔がリリエラを出迎えた。その表情に、当然偽りはない。我が子が愛おしくてたまらないと言う言葉は、どこまでもイェルドの本心なのだから。
だが、あまりに綺麗なその顔は、リリエラにはいっそ哀れにも映った。
何故なら、歪んだイェルドの愛は、たとえ息子が心を壊し物言えぬ廃人になったとしても、そのことを嘆き悲しんだ次の瞬間には、そんな本人を前にして、今と同じ顔で同じ言葉を掛けさせてしまうのだから。
それはあまりに哀れではないか。
それでも、妻と娘の二人を失った――神に奪われた――イェルドの愛は最早、どんな形であれ、これ以上自分の手の中から愛する家族が失われることさえなければ、その在りようを問わないほどにまで歪んでしまっているのだ。
そして何より哀れなのは、その歪みを決して他者へ見せないよう、イェルドが完璧に振る舞えてしまうことだろう。
キリアンはイェルドが神を憎んでいることは知っているようだが、それ故の歪みについてはどれほど理解しているか。なまじ父親からの愛情は本物なだけに、大して気にすることもなく、ただ愛情表現が少々ひねくれているだけだとでも思っているかもしれない。
「愛しておる、か……」
誘拐を実行するに当たってリリエラが視た仮初の未来は、あくまでモルムがその姿を現すか否かに重点を置いていた為、誘拐されたあとのエイナーについては視ていない。だが、クルードの愛し子たるキリアンが次期王位に就くことが明白であるこの国で、同じく愛し子である第二王子のエイナーが壊れてしまったとしても、それは国の存続を揺るがすものではない。
むしろ、その方がエイナーを担ごうとする愚か者が出る可能性もなくなり、キリアンの王位をより絶対的なものにするだろう。そして、イェルドは己の腕にいつでもエイナーを抱いて、愛を注ぐことができる。キリアンとは違い、死の危険が付き纏うエイナーを自らの手で守ることができる。
だからこそ、思う。今回の誘拐では、エイナーの心を壊すこともイェルドの目的の一つであったのかもしれない、と。
何故なら、モルムを誘き出す為だけであるならば、わざわざ息子達を巻き込まずとも、方法はいくらでもあった筈なのだ。それなのに、イェルドはわざわざその中から誘拐と言う手段を選んだのだから。
誰より神を憎むイェルドにとっては、神の愛し子が何の役にも立たないまま生きて死ぬこともまた、神への復讐である。神が愛することさえなければ、愛する我が子は真っ当な人間として幸せに生きられたのにと神に見せつけ、神に自身の行為を後悔させたいのだ。
それを思えば、エイナーを助け、心を壊すどころか自立に目覚めさせ、イェルドの復讐の一つを妨げてしまったリーテの娘は、イェルドに憎まれていてもおかしくないだろう。であれば、この先モルムを狩る為にリーテの娘を存分に使うことを、イェルドが躊躇う筈もない。
子を残す前に娘の命が失われることをリーテがよしとしないことも、恐らくイェルドは織り込み済み。決して死なないと分かっているからこそ、この先、瀕死の重傷を負うような危険のただ中にリーテの娘を放り込むくらいは、平気で選択肢に入れていそうである。
ただしそうなった時、それがイェルドの描いた筋書だと知れば、娘を我が子のように思う人間がどう言う行動に出るか……少なくとも、今日の窓破壊程度で済まされないことは必至だ。
クルードの愛し子ではないにしても、イェルドもクルーディオの子孫には違いない。その存在が害されるようなことは、リリエラとしては絶対に避けたいところである。
「やれやれ。どうもおぬしが気を付けねばならんのは、息子共よりもヴィシュヴァの方のようじゃな」
「そうだね。彼女は少し……邪魔になりそうだ」
「おっ、恐ろしいことを言うでないわ! 死にたいのか、おぬし!」
ぎょっと目を剥いてイェルドを見やれば、相手は変わらず穏やかな表情のままで、驚くリリエラをおかしそうに眺めているだけだった。それがいかにも恐ろしく、リリエラはそっと椅子の上で身を引く。
「生憎、私はあと五十年はこの国の王として生きるつもりでね。心配しなくとも、アレクシアも我が国の大切な民の一人。その命が失われることを私は望まないし、彼女の怒りを買うことが得策でないことも承知しているよ。何より、彼女は貴重な戦力なんだ。失うわけにはいかない」
「それを聞いて安心したが……相変わらずじゃの。おぬし、やはり実はキリアンに王位を譲る気はないのではないか?」
「そんなことはないさ。ただ、キリアンがその頭に王冠を抱く姿は、見たくはないがね」
これもまたイェルドの神への復讐であることを知るのは、リリエラだけだ。
神の愛し子だけが特別な存在なのではないのだと、そのことをイェルドは示そうとしている。
愛し子ではない王も、時にリリエラの予言を助けに、国を守ってきた立派な者達だった。中には愚王もいたが――例えば、リリエラの忠告を無視してリーテの娘を己の息子の婚約者に据えた前王――それでも、この国を危機的状況に追い込むほどの者はいない。だが同時に、大した功績を残してもいないのに、クルードの愛し子と言うだけで殊更に持ち上げられた王が存在することも、事実である。
歴代の王の中には、愛し子でなくともこの国をより発展に導いた者もいると言うのに、その功績は愛し子の名の前に霞んでしまっている。
それが、イェルドには許せないのだ。いずれキリアンが、愛し子だからと過大に評価され、その列に加わることも。
その為にはイェルドが華々しい功績を残し、長く王の座に就いて国の安泰を確固たるものへと導くことが大事である。そして、今後への懸念が一つもなく、愛し子の特別な力も突出した王としての才も必要としない平和で退屈な国を、自分の死と引き換えに、老いたキリアンに遺す。そうすれば必然的にキリアンの在位は短くなり、愛し子であることの意味も、これまでの愛し子の王よりは薄れることになるに違いない。
愛し子であるのに無能な王であるとの謗りを受けることだけはないよう、キリアンには相応の教育は施してある。事実、キリアンは聡明だ。愛し子の王として、死の時まで、前王が作り上げた平和な国とその民を見守り続けた善王である、くらいの評価は後世に残るだろう。
イェルドは、それを願っている。キリアンよりも己の名が強くこの国の歴史に残ることを。そして、その未来をこの手にする為に、今を懸命に生きているのだ。
「では、無茶をほどほどに長生きせねばな」
「勿論だとも。鼻の効くアレクシアには早速忠告を受けたが……だからこそ用心深く慎重に、上手くやるつもりだよ。彼女のことも、リーテの愛し子のことも、ね」
「くぁーっ! そうじゃろうな、そうじゃろうな! おぬしはそう言う奴じゃ! まったく……おぬしといると確かに退屈はせぬが、のんびり茶を啜ってもいられん!」
リリエラの忠告をさらりと聞き捨てるイェルドは、相変わらず穏やかに笑んだままだ。それが無性に腹立たしく、ばん、とテーブルを叩き、リリエラは持って来た書き物道具をイェルドへと押しやった。
「おぬしの望み通り視てやるから、さっさと書いて帰れ!」
「では、そうさせてもらおうか」
ペンを手に取り、リリエラに視てほしい未来を迷いなく紙に書き付けていくイェルドを眺めながら茶を啜り、リリエラはそっと目を細める。
こんなイェルドであっても、彼が息子達を愛するように、息子達もイェルドのことを愛している。父として、王として、一人の人間として、尊敬もしている。そして、今のところその感情は、この先も変わりなく存在し続けている。
イェルドの歪みこそ多少気にはなるものの、どのような仮定の未来を視ても、父が子を思い、子が父を思っていることは変わらない。いっそ、不気味なほどに。
だからこそ、時折。それこそ、リーテの娘のことを女神リーテがリリエラに視せなかったように。リリエラが決して及ばない力が、リリエラに未来を選び取らせている――そんな気がするのだ。
イェルドが今こうして、この国の為に次はリーテの娘を存分に使おうと考えていることすら、そうなるように仕組まれたのではないか、と。
リリエラがそう思うのは、何も今回が初めてではない。
例えば、シアーシャが病に倒れた時。
娘が助かる方法はないのかとイェルドに縋られ、リリエラはいくつかの未来を視た。その中に、確かに生き延びる未来が一瞬、垣間見えた。だが、その未来を今一度確かめようとしても、二度とリリエラに視ることは叶わなかった。結局、それ以降どれだけを仮定して未来を視てもシアーシャの死は避けられず、その通りにシアーシャは死んだ。
例えば、誘拐話を持ち掛けられた時。
この時も、未来を視たリリエラを、奇妙な現象が襲った。死んでしまった筈のシアーシャが成長した姿を、エイナーの隣に視たような気がしたのだ。共に攫われ、二人抱き合って震える姿を。だが、その姿は瞬きの間に夢幻かのように失せて、二度と視ることは叶わなかった。そして、まるでそのシアーシャの代わりとでも言うかのように、リーテの娘が馬車に乗り合わせ、エイナーを助けた。
それらのことはいずれも些細なことではあったが、リリエラが気にするのには十分である。
誰が何の目的で、クルードが守護するこの国にわざわざ介入するのか。クルードとリーテはこのことを承知しているのか。今は判断する材料が少なすぎて、リリエラには分からない。
だが、確実なことも一つある。
神を穢した禍々しい呪いをその身に宿す、リーテの愛し子として生まれた娘。この奇怪な存在は、恐らくは、その誰かによって用意されたものである、と言うこと。
リリエラが、この娘がエリューガルへやって来る未来を視たのは、本当に気紛れだった。カルネアーデの事件もすっかり沈静化し、クルードの愛し子もすくすくと育ち、現状に退屈していたリリエラは、何か面白いことが起こる未来へと変化させるものはないか、との思いで、突拍子もないことを思いついては未来を覗き見ていたのだ。
ぼさぼさの黒髪に、みすぼらしい格好。今にも倒れそうな汚らしい小娘が最初に視えた時には、首を傾げた。今時、エリューガルを含めて近隣諸国ですら、ここまでの酷い孤児にお目にかかることはなかった為、確かに興味をそそられはしたが、それだけだった。
だが、娘がその身に呪いを宿していると知った時、リリエラの気分は一転、酷く高揚し、その未来を実現させるべく奮闘したものだ。
結果が、未来を視た当初とは異なり、エイナーの恩人と言う形で娘がこの国へやって来ることになったのは、その誰かの意図が介入した結果だろう。
「ミリアム、とか言ったか。おぬしは……――」
すっかり日が沈み、月が空を照らす頃。イェルドが書き付けた紙を手に、テーブルの上のランプ一つだけが照らす塔の上の部屋の中で、リリエラの呟きが零れて消えた。
◇
「ミリアムを着飾ってあげられるのが今日で最後だなんて……寂しくなるわ」
「もう少し、女同士で楽しみたかったわね」
テレシアとイーリスからの別れを惜しむ言葉に、私は二人の手を取って約束する。
「私、お二人に手紙をたくさん書きます……っ」
きっと、これから王城とは違う新しい生活が私を待っている。毎日、その日どんなことがあったのかを手紙に認めて、二人に送ろう。私が楽しく日々を過ごしていると知らせて、二人に喜んでもらう為に。
「えぇ、毎日楽しみにしているわ」
「街で変な奴に声をかけられたら、ちゃんと教えるのよ」
「テレシアさん……イーリスさん……っ」
広い玄関ホールの一角で、私はこれで最後とばかりに、二人の温もりを記憶に刻み込まんと、ひっしと二人と抱き合った。
そんな私達を、少しばかり離れた位置にいる男性陣が、一人は冷めた眼差しで、もう一人は羨ましそうに、残りは微笑ましいものを見る表情で眺めていることには、気付かない振りをして。
「今生の別れでもないだろうに、大袈裟な……。朝から、これで何度目だ?」
「何を仰いますか。たとえ今生の別れでなかろうと、ミリアムお嬢様の繊細なお心に宿る惜別の情は、それはもう深くていらっしゃるのですよ、キリアン殿下」
「やれやれ。ハラルドの祖父馬鹿は、城にやって来る度に酷くなってきているね」
「……ねぇ、ラーシュ。僕もミリアムの友達なんだし、あれに混ざったら駄目かな?」
「エイナー様、それはお控えください」
*
アレクシアの突然の来城から、三日。
前日には、ささやかでありながらも私にとっては盛大な晩餐を催してもらい、その後はテレシアとイーリス、女三人で心行くまで最後の一夜を楽しんだ私は、今日、短くも濃い時間を過ごした王城を辞す。
サロンでフェルディーン一家との対面を果たし、本来やる筈だった私の保護に際しての必要な手続きを、アレクシアが三日前に全て済ませてしまったお陰で空いた時間、最後の談笑を楽しんだ今は、馬車の用意が整うのを待っているところだ。
――と言うのは建前で、荷物の積み込みは談笑中に全て済んでおり、実のところ、私達が乗り込めばいつでも出発できる状態ではある。
ひとしきり三人で抱き合ってその温もりをしっかり味わったところで、私は後ろ髪を引かれる思いでようやく手を解いた。そして、その足をキリアン達とは少しばかり距離を開けて立つ、フェルディーン一家の方へと向ける。
アレクシアの暴走を心配したレナートもこれから一緒に屋敷へと帰り、そのまま数日を休暇と言う名目で過ごす為、そこには一家四人が仲よく並んでいた。
「それにしても、子兎みたいな女の子を目の前にして、母さんってば、よく攫って帰るのを我慢したよね」
「……あのな、ラッセ。我慢できずに城に来た奴だぞ? 本当に我慢したと思うか?」
「何を言っているんだい。ちゃあんと我慢したから、今日こうしてミリアムを迎えに来ているんじゃないか。適当なことを言うんじゃないよ、レナート」
「そうさ。ヴィアだって、そんなことをすればどう言う結果になるかが分からないほど、考えなしではないよ。こうしてお嬢さんを我が家にお迎えできるのが、何よりの証だ」
顔を顰めるレナートの左右で、似た顔の親子がそれぞれに笑う。
癖のない金髪を後ろで一つに括り、商人らしく人好きのする柔和な表情を浮かべているのが、レナートの父であるサロモン。そして、同じく癖のない、けれどこちらは赤味を帯びた金髪にアレクシアと同じ瞳の色が目を引く青年が、弟のラッセだ。
レナートから聞いてはいたけれど、ラッセはその色こそアレクシアに似てはいるものの容姿は実にサロモン寄りで、二人が並んだ姿は、二歳差と言う年齢の近さもあってか、それと知らなければ兄弟ではなく友人同士のように私の目に映った。
「もういいのかい、ミリアム?」
歩み寄った私に真っ先に声を掛けてくれたアレクシアは、先日の戦士と見紛う格好とは打って変わって、今日はいかにも女性らしい装いだ。どこの貴婦人かと思うほどに美しいアレクシアに抱き締められて、私はわずかにはにかんだ。
「はい。これ以上一緒にいると、ますますお二人と離れがたくなってしまうので……」
正直なところを言えば、もっと二人と話をしていたかった。
昨夜になって初めて、気心の知れた同性だけで過ごす時間がどれほど楽しいのかを知ってしまった私には、こんなにも二人との別れが寂しいものになるとは大きな誤算である。
けれど、いい加減に区切りをつけなければ、去る機会をいつまでも逸してしまいかねない。見送りの為にわざわざこの場に留まってくれているキリアン達だって、暇ではないのだ。城を辞すその日に迷惑をかけてしまうのは、流石によろしくないだろう。
そんな思いで、別れの挨拶は済んだと私がはっきり告げれば、よく我慢したねとばかりにアレクシアが私の頭を撫でてくれた。そうして、私だけにそっと耳打ちする。
「またすぐ皆に会わせてやるから、そんな顔をするんじゃないよ」
意外な言葉に目を丸くする私に微笑んでアレクシアが私から腕を離し、一度、イェルド達の方へと体を向けた。
「それでは陛下、殿下方。本日はありがとうございました。我々はこれで失礼いたします」
「ああ。ミリアムのこと、よろしく頼むよ」
「皆さん。今日まで本当に、ありがとうございました!」
私が最後に改めて感謝を伝えれば、イェルドとキリアンは一つ頷き、エイナーは手を振ってくれた。深々と頭を下げるのはハラルドとテレシア。イーリスとラーシュも軽く頭を下げて、それぞれが見送ってくれる姿をしっかりと目に焼き付けながら、私はフェルディーン一家の四人と共に王城を辞した。
当分会えなくなるだろうと思っていた皆に、どうやらそう遠くない内に会えるらしいと言う喜びを、密かに胸に抱いて。
ランプに火を灯し、書き物道具を携えて戻れば、イェルドの慈愛に満ちた父の顔がリリエラを出迎えた。その表情に、当然偽りはない。我が子が愛おしくてたまらないと言う言葉は、どこまでもイェルドの本心なのだから。
だが、あまりに綺麗なその顔は、リリエラにはいっそ哀れにも映った。
何故なら、歪んだイェルドの愛は、たとえ息子が心を壊し物言えぬ廃人になったとしても、そのことを嘆き悲しんだ次の瞬間には、そんな本人を前にして、今と同じ顔で同じ言葉を掛けさせてしまうのだから。
それはあまりに哀れではないか。
それでも、妻と娘の二人を失った――神に奪われた――イェルドの愛は最早、どんな形であれ、これ以上自分の手の中から愛する家族が失われることさえなければ、その在りようを問わないほどにまで歪んでしまっているのだ。
そして何より哀れなのは、その歪みを決して他者へ見せないよう、イェルドが完璧に振る舞えてしまうことだろう。
キリアンはイェルドが神を憎んでいることは知っているようだが、それ故の歪みについてはどれほど理解しているか。なまじ父親からの愛情は本物なだけに、大して気にすることもなく、ただ愛情表現が少々ひねくれているだけだとでも思っているかもしれない。
「愛しておる、か……」
誘拐を実行するに当たってリリエラが視た仮初の未来は、あくまでモルムがその姿を現すか否かに重点を置いていた為、誘拐されたあとのエイナーについては視ていない。だが、クルードの愛し子たるキリアンが次期王位に就くことが明白であるこの国で、同じく愛し子である第二王子のエイナーが壊れてしまったとしても、それは国の存続を揺るがすものではない。
むしろ、その方がエイナーを担ごうとする愚か者が出る可能性もなくなり、キリアンの王位をより絶対的なものにするだろう。そして、イェルドは己の腕にいつでもエイナーを抱いて、愛を注ぐことができる。キリアンとは違い、死の危険が付き纏うエイナーを自らの手で守ることができる。
だからこそ、思う。今回の誘拐では、エイナーの心を壊すこともイェルドの目的の一つであったのかもしれない、と。
何故なら、モルムを誘き出す為だけであるならば、わざわざ息子達を巻き込まずとも、方法はいくらでもあった筈なのだ。それなのに、イェルドはわざわざその中から誘拐と言う手段を選んだのだから。
誰より神を憎むイェルドにとっては、神の愛し子が何の役にも立たないまま生きて死ぬこともまた、神への復讐である。神が愛することさえなければ、愛する我が子は真っ当な人間として幸せに生きられたのにと神に見せつけ、神に自身の行為を後悔させたいのだ。
それを思えば、エイナーを助け、心を壊すどころか自立に目覚めさせ、イェルドの復讐の一つを妨げてしまったリーテの娘は、イェルドに憎まれていてもおかしくないだろう。であれば、この先モルムを狩る為にリーテの娘を存分に使うことを、イェルドが躊躇う筈もない。
子を残す前に娘の命が失われることをリーテがよしとしないことも、恐らくイェルドは織り込み済み。決して死なないと分かっているからこそ、この先、瀕死の重傷を負うような危険のただ中にリーテの娘を放り込むくらいは、平気で選択肢に入れていそうである。
ただしそうなった時、それがイェルドの描いた筋書だと知れば、娘を我が子のように思う人間がどう言う行動に出るか……少なくとも、今日の窓破壊程度で済まされないことは必至だ。
クルードの愛し子ではないにしても、イェルドもクルーディオの子孫には違いない。その存在が害されるようなことは、リリエラとしては絶対に避けたいところである。
「やれやれ。どうもおぬしが気を付けねばならんのは、息子共よりもヴィシュヴァの方のようじゃな」
「そうだね。彼女は少し……邪魔になりそうだ」
「おっ、恐ろしいことを言うでないわ! 死にたいのか、おぬし!」
ぎょっと目を剥いてイェルドを見やれば、相手は変わらず穏やかな表情のままで、驚くリリエラをおかしそうに眺めているだけだった。それがいかにも恐ろしく、リリエラはそっと椅子の上で身を引く。
「生憎、私はあと五十年はこの国の王として生きるつもりでね。心配しなくとも、アレクシアも我が国の大切な民の一人。その命が失われることを私は望まないし、彼女の怒りを買うことが得策でないことも承知しているよ。何より、彼女は貴重な戦力なんだ。失うわけにはいかない」
「それを聞いて安心したが……相変わらずじゃの。おぬし、やはり実はキリアンに王位を譲る気はないのではないか?」
「そんなことはないさ。ただ、キリアンがその頭に王冠を抱く姿は、見たくはないがね」
これもまたイェルドの神への復讐であることを知るのは、リリエラだけだ。
神の愛し子だけが特別な存在なのではないのだと、そのことをイェルドは示そうとしている。
愛し子ではない王も、時にリリエラの予言を助けに、国を守ってきた立派な者達だった。中には愚王もいたが――例えば、リリエラの忠告を無視してリーテの娘を己の息子の婚約者に据えた前王――それでも、この国を危機的状況に追い込むほどの者はいない。だが同時に、大した功績を残してもいないのに、クルードの愛し子と言うだけで殊更に持ち上げられた王が存在することも、事実である。
歴代の王の中には、愛し子でなくともこの国をより発展に導いた者もいると言うのに、その功績は愛し子の名の前に霞んでしまっている。
それが、イェルドには許せないのだ。いずれキリアンが、愛し子だからと過大に評価され、その列に加わることも。
その為にはイェルドが華々しい功績を残し、長く王の座に就いて国の安泰を確固たるものへと導くことが大事である。そして、今後への懸念が一つもなく、愛し子の特別な力も突出した王としての才も必要としない平和で退屈な国を、自分の死と引き換えに、老いたキリアンに遺す。そうすれば必然的にキリアンの在位は短くなり、愛し子であることの意味も、これまでの愛し子の王よりは薄れることになるに違いない。
愛し子であるのに無能な王であるとの謗りを受けることだけはないよう、キリアンには相応の教育は施してある。事実、キリアンは聡明だ。愛し子の王として、死の時まで、前王が作り上げた平和な国とその民を見守り続けた善王である、くらいの評価は後世に残るだろう。
イェルドは、それを願っている。キリアンよりも己の名が強くこの国の歴史に残ることを。そして、その未来をこの手にする為に、今を懸命に生きているのだ。
「では、無茶をほどほどに長生きせねばな」
「勿論だとも。鼻の効くアレクシアには早速忠告を受けたが……だからこそ用心深く慎重に、上手くやるつもりだよ。彼女のことも、リーテの愛し子のことも、ね」
「くぁーっ! そうじゃろうな、そうじゃろうな! おぬしはそう言う奴じゃ! まったく……おぬしといると確かに退屈はせぬが、のんびり茶を啜ってもいられん!」
リリエラの忠告をさらりと聞き捨てるイェルドは、相変わらず穏やかに笑んだままだ。それが無性に腹立たしく、ばん、とテーブルを叩き、リリエラは持って来た書き物道具をイェルドへと押しやった。
「おぬしの望み通り視てやるから、さっさと書いて帰れ!」
「では、そうさせてもらおうか」
ペンを手に取り、リリエラに視てほしい未来を迷いなく紙に書き付けていくイェルドを眺めながら茶を啜り、リリエラはそっと目を細める。
こんなイェルドであっても、彼が息子達を愛するように、息子達もイェルドのことを愛している。父として、王として、一人の人間として、尊敬もしている。そして、今のところその感情は、この先も変わりなく存在し続けている。
イェルドの歪みこそ多少気にはなるものの、どのような仮定の未来を視ても、父が子を思い、子が父を思っていることは変わらない。いっそ、不気味なほどに。
だからこそ、時折。それこそ、リーテの娘のことを女神リーテがリリエラに視せなかったように。リリエラが決して及ばない力が、リリエラに未来を選び取らせている――そんな気がするのだ。
イェルドが今こうして、この国の為に次はリーテの娘を存分に使おうと考えていることすら、そうなるように仕組まれたのではないか、と。
リリエラがそう思うのは、何も今回が初めてではない。
例えば、シアーシャが病に倒れた時。
娘が助かる方法はないのかとイェルドに縋られ、リリエラはいくつかの未来を視た。その中に、確かに生き延びる未来が一瞬、垣間見えた。だが、その未来を今一度確かめようとしても、二度とリリエラに視ることは叶わなかった。結局、それ以降どれだけを仮定して未来を視てもシアーシャの死は避けられず、その通りにシアーシャは死んだ。
例えば、誘拐話を持ち掛けられた時。
この時も、未来を視たリリエラを、奇妙な現象が襲った。死んでしまった筈のシアーシャが成長した姿を、エイナーの隣に視たような気がしたのだ。共に攫われ、二人抱き合って震える姿を。だが、その姿は瞬きの間に夢幻かのように失せて、二度と視ることは叶わなかった。そして、まるでそのシアーシャの代わりとでも言うかのように、リーテの娘が馬車に乗り合わせ、エイナーを助けた。
それらのことはいずれも些細なことではあったが、リリエラが気にするのには十分である。
誰が何の目的で、クルードが守護するこの国にわざわざ介入するのか。クルードとリーテはこのことを承知しているのか。今は判断する材料が少なすぎて、リリエラには分からない。
だが、確実なことも一つある。
神を穢した禍々しい呪いをその身に宿す、リーテの愛し子として生まれた娘。この奇怪な存在は、恐らくは、その誰かによって用意されたものである、と言うこと。
リリエラが、この娘がエリューガルへやって来る未来を視たのは、本当に気紛れだった。カルネアーデの事件もすっかり沈静化し、クルードの愛し子もすくすくと育ち、現状に退屈していたリリエラは、何か面白いことが起こる未来へと変化させるものはないか、との思いで、突拍子もないことを思いついては未来を覗き見ていたのだ。
ぼさぼさの黒髪に、みすぼらしい格好。今にも倒れそうな汚らしい小娘が最初に視えた時には、首を傾げた。今時、エリューガルを含めて近隣諸国ですら、ここまでの酷い孤児にお目にかかることはなかった為、確かに興味をそそられはしたが、それだけだった。
だが、娘がその身に呪いを宿していると知った時、リリエラの気分は一転、酷く高揚し、その未来を実現させるべく奮闘したものだ。
結果が、未来を視た当初とは異なり、エイナーの恩人と言う形で娘がこの国へやって来ることになったのは、その誰かの意図が介入した結果だろう。
「ミリアム、とか言ったか。おぬしは……――」
すっかり日が沈み、月が空を照らす頃。イェルドが書き付けた紙を手に、テーブルの上のランプ一つだけが照らす塔の上の部屋の中で、リリエラの呟きが零れて消えた。
◇
「ミリアムを着飾ってあげられるのが今日で最後だなんて……寂しくなるわ」
「もう少し、女同士で楽しみたかったわね」
テレシアとイーリスからの別れを惜しむ言葉に、私は二人の手を取って約束する。
「私、お二人に手紙をたくさん書きます……っ」
きっと、これから王城とは違う新しい生活が私を待っている。毎日、その日どんなことがあったのかを手紙に認めて、二人に送ろう。私が楽しく日々を過ごしていると知らせて、二人に喜んでもらう為に。
「えぇ、毎日楽しみにしているわ」
「街で変な奴に声をかけられたら、ちゃんと教えるのよ」
「テレシアさん……イーリスさん……っ」
広い玄関ホールの一角で、私はこれで最後とばかりに、二人の温もりを記憶に刻み込まんと、ひっしと二人と抱き合った。
そんな私達を、少しばかり離れた位置にいる男性陣が、一人は冷めた眼差しで、もう一人は羨ましそうに、残りは微笑ましいものを見る表情で眺めていることには、気付かない振りをして。
「今生の別れでもないだろうに、大袈裟な……。朝から、これで何度目だ?」
「何を仰いますか。たとえ今生の別れでなかろうと、ミリアムお嬢様の繊細なお心に宿る惜別の情は、それはもう深くていらっしゃるのですよ、キリアン殿下」
「やれやれ。ハラルドの祖父馬鹿は、城にやって来る度に酷くなってきているね」
「……ねぇ、ラーシュ。僕もミリアムの友達なんだし、あれに混ざったら駄目かな?」
「エイナー様、それはお控えください」
*
アレクシアの突然の来城から、三日。
前日には、ささやかでありながらも私にとっては盛大な晩餐を催してもらい、その後はテレシアとイーリス、女三人で心行くまで最後の一夜を楽しんだ私は、今日、短くも濃い時間を過ごした王城を辞す。
サロンでフェルディーン一家との対面を果たし、本来やる筈だった私の保護に際しての必要な手続きを、アレクシアが三日前に全て済ませてしまったお陰で空いた時間、最後の談笑を楽しんだ今は、馬車の用意が整うのを待っているところだ。
――と言うのは建前で、荷物の積み込みは談笑中に全て済んでおり、実のところ、私達が乗り込めばいつでも出発できる状態ではある。
ひとしきり三人で抱き合ってその温もりをしっかり味わったところで、私は後ろ髪を引かれる思いでようやく手を解いた。そして、その足をキリアン達とは少しばかり距離を開けて立つ、フェルディーン一家の方へと向ける。
アレクシアの暴走を心配したレナートもこれから一緒に屋敷へと帰り、そのまま数日を休暇と言う名目で過ごす為、そこには一家四人が仲よく並んでいた。
「それにしても、子兎みたいな女の子を目の前にして、母さんってば、よく攫って帰るのを我慢したよね」
「……あのな、ラッセ。我慢できずに城に来た奴だぞ? 本当に我慢したと思うか?」
「何を言っているんだい。ちゃあんと我慢したから、今日こうしてミリアムを迎えに来ているんじゃないか。適当なことを言うんじゃないよ、レナート」
「そうさ。ヴィアだって、そんなことをすればどう言う結果になるかが分からないほど、考えなしではないよ。こうしてお嬢さんを我が家にお迎えできるのが、何よりの証だ」
顔を顰めるレナートの左右で、似た顔の親子がそれぞれに笑う。
癖のない金髪を後ろで一つに括り、商人らしく人好きのする柔和な表情を浮かべているのが、レナートの父であるサロモン。そして、同じく癖のない、けれどこちらは赤味を帯びた金髪にアレクシアと同じ瞳の色が目を引く青年が、弟のラッセだ。
レナートから聞いてはいたけれど、ラッセはその色こそアレクシアに似てはいるものの容姿は実にサロモン寄りで、二人が並んだ姿は、二歳差と言う年齢の近さもあってか、それと知らなければ兄弟ではなく友人同士のように私の目に映った。
「もういいのかい、ミリアム?」
歩み寄った私に真っ先に声を掛けてくれたアレクシアは、先日の戦士と見紛う格好とは打って変わって、今日はいかにも女性らしい装いだ。どこの貴婦人かと思うほどに美しいアレクシアに抱き締められて、私はわずかにはにかんだ。
「はい。これ以上一緒にいると、ますますお二人と離れがたくなってしまうので……」
正直なところを言えば、もっと二人と話をしていたかった。
昨夜になって初めて、気心の知れた同性だけで過ごす時間がどれほど楽しいのかを知ってしまった私には、こんなにも二人との別れが寂しいものになるとは大きな誤算である。
けれど、いい加減に区切りをつけなければ、去る機会をいつまでも逸してしまいかねない。見送りの為にわざわざこの場に留まってくれているキリアン達だって、暇ではないのだ。城を辞すその日に迷惑をかけてしまうのは、流石によろしくないだろう。
そんな思いで、別れの挨拶は済んだと私がはっきり告げれば、よく我慢したねとばかりにアレクシアが私の頭を撫でてくれた。そうして、私だけにそっと耳打ちする。
「またすぐ皆に会わせてやるから、そんな顔をするんじゃないよ」
意外な言葉に目を丸くする私に微笑んでアレクシアが私から腕を離し、一度、イェルド達の方へと体を向けた。
「それでは陛下、殿下方。本日はありがとうございました。我々はこれで失礼いたします」
「ああ。ミリアムのこと、よろしく頼むよ」
「皆さん。今日まで本当に、ありがとうございました!」
私が最後に改めて感謝を伝えれば、イェルドとキリアンは一つ頷き、エイナーは手を振ってくれた。深々と頭を下げるのはハラルドとテレシア。イーリスとラーシュも軽く頭を下げて、それぞれが見送ってくれる姿をしっかりと目に焼き付けながら、私はフェルディーン一家の四人と共に王城を辞した。
当分会えなくなるだろうと思っていた皆に、どうやらそう遠くない内に会えるらしいと言う喜びを、密かに胸に抱いて。
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