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第三章 王城での一月
夕暮れの秘め事
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「まったく……酷い目に遭うたわ……」
今にも、その姿をシュナークル山脈の向こうへと隠そうとする夕日に照らされた部屋の一角を眺めて、やれやれとリリエラは息をついた。
そこには、本来ならば朝一番に日の光をこの部屋に届けてくれる窓があった。それが、今や見る影もなく破壊し尽くされてしまっている。大判の布を当座の目隠しとして急ぎ張り付けたものの、今そこは窓としての役割を放棄しているどころか、隙間風を呼び込んで、壁としての役割も大して果たしていない。更に、床には窓であったものの残骸がいくつも転がり、その破壊の余波を受けて、少し前にキリアンの暴挙によって一部崩れたがらくたの山は、今再びの崩落を迎えて足の踏み場もない荒れ様だ。
何とか新調したテーブルだけは死守したものの、この部屋が綺麗に片付き新たな窓が据え付けられるまでに、一体どれほどの日数を要することか。目に入れる度にリリエラのやる気と言うやる気をすっかり削ぎ落としてくれる光景には、最早ため息しか出て来ない。
「これじゃから、リーテは嫌いなんじゃ」
うっかりリーテの娘と図書館で遭遇してからと言うもの、最近のリリエラはろくなことがない。遭遇した当日にお気に入りのテーブルは粉砕されるは、クルードに叱られるは、その後数日にわたってリーテの娘の為に頭を使わされたかと思ったら、挙句の果てに、今日のこれである。
これだけの破壊をもたらした張本人は意気揚々城を帰って行ったと言うことだが、リーテの娘共々、もう二度と来なくていい。顔も見たくない。
「ヴィシュヴァも相変わらず加減と言うものを知らぬし、散々じゃ」
「それは、あなたがアレクシアを怒らせるからだろう」
カップに並々と注いだ温かな茶をずず、と啜り、リリエラの瞳がテーブルを挟んだ向かいへと動く。そこには、同じく湯気を立てるカップを手にした、この国で最も高い地位に座す男が、内心を窺わせない微笑を浮かべて座っている。
「娘にはきちんと誠意を見せたわ。それなのにわしの部屋を破壊したんじゃぞ、あやつ。これはやりすぎであろうが。そう思わぬか、イェルドよ」
「さて。あなたが懲りないからではないのかな?」
「……ふん。何と言われようと、わしはリーテは好かぬ」
額を撫でて顔を顰め、リリエラは「それで?」と、これ以上のリーテの話題を避けるように、イェルドに尋ねた。せっかく嵐が去って清々したところだと言うのに、その気分を壊すようなリーテの話題を口にし続けたくなどない。
それに、一国の王がわざわざ東塔までリリエラに会いに来るのには、それなりの理由があるものだ。特に、このイェルド・ガイランダルと言う男はこれまでの王とは違い、その腹の底で何を企んでいるのか、リリエラにすら読ませない人間だ。果たして今回の訪いは、どれほどの厄介ごとなのやら。
面倒なことを持って来たのだろう気配に、リリエラは嫌そうに目を眇めた。
「大したことではないよ。いつものように、あなたにまじなってもらいたいだけだからね」
「そらきた。簡単に言ってくれるのう、おぬしは」
ちょっとそこまでのお使いを頼むような調子で、イェルドがリリエラの思った通りの厄介ごとを持ち込んで来る。
「簡単に言うさ。私はこの国の王なのだから。国を守る為ならば、使えるものは全て躊躇せず使う覚悟くらい、いつだって持ち合わせているよ」
そうでなくては、王など務まらない。そう言って人畜無害の穏やかな表情を見せるイェルドは、一見、民を思う心に溢れた善良な王のようである。事実、民にとってはよき王であるのだろう。特に、御子にクルードの愛し子が誕生したことを思えば、二十五年前にイェルドの起こした行動は神に正しいと認められたも同然で、クルードの認める王の行いが正しくないなどと、民は思わないものだ。
だが、その腹の底で考えていることが清く正しいものばかりでないことを、リリエラは知っている。そして、イェルドがリリエラの元を訪れるのは、そう言う清く正しくないことをする為だと言うことも。その為に、リリエラを利用するのだと言うことも。
リリエラは、未来を視ることができる。そう言う力を持っている。しかし、それは女神リーテが未来を水鏡に映し見るのとは、少々異なる。現在の状況から条件を仮定して、その先にある仮の未来を視るのだ。
普段、リリエラが国の行く末を視る際には「現状のまま」と仮定して未来を視、よくない未来――例えば、国の存続が危うくなりそうなもの――が視えたならば、それを予言と言う形で王へと伝える。そうすることで「現状のまま」と言う仮定の未来を消滅させ、未来を変化させるのだ。そうして、エリューガルと言う国を存続させる手助けをしている。
だが、このイェルドと言う男は、リリエラをそれ以上に積極的に使う。そしてリリエラも、退屈凌ぎになるならばと、ある程度は素直に協力していた。ひいてはそれがクルードの為、エリューガルの為になると分かっているから。
時には眉を顰めるような仮定を持ち出されることもあるが、今回はどのような仮定の未来を視ることになるのだろうか。
もっとも、この時期にこうしてやって来ると言うことは、モルムに関すること以外にないに違いない。それはつまり、リーテの娘をいかに使えば、効率よくモルムを仕留められるか――その未来を、リリエラに視せるつもりだと言うことだ。
果たして、イェルドの脳内には今、どれほどの仮定が用意されているのやら。
「……神を毛嫌いしておる癖に、その神の力すら使うことを躊躇せぬとはの」
「あなたは随分とおかしなことを言う。神を毛嫌いしているからこそ、だろう? たかが人間如きに、神がいいように使われるんだ。こんな愉快なことはないだろうに。私に言わせれば、歴代の王達は何故あなたを使おうとしなかったのか、不思議でならないね」
「わしから言わせれば、おぬしは神を畏れなさすぎる。わしを便利な道具として使う奴が、そうほいほい出て来る方が問題じゃろう」
とは言え、イェルドとて初めからこうではなかった。初めて顔を合わせた頃は、いずれは自分がこの国の王になるのだとの責任と覚悟から、リリエラの予言を興味深く聞いては、リリエラの示した悪い未来を回避する為にはどうすればいいのかと、頭を悩ませていたものだ。
それが変化し始めたのは、イェルドの婚約者にエステルが選ばれた頃から。次に、リリエラに対する態度が明確に変わったのは、キリアンが生まれてから。その後、生まれてわずか四年で娘が死に、妻を失い、新たな息子までもがクルードの愛し子として生きることを決定付けられてからは、躊躇がなくなったように思う。
ここ最近で二の句が継げなくなったほどの依頼は、いつのことだったか。
突然ふらりと夜半に塔へとやって来て、モルムをその穴倉から誘き出す為の餌として、末の息子と息子の思い人と、どちらを誘拐させる方がより効果的だろうか――などと、何と言うことのない雑談を話す調子で、イェルドが口にしたのだ。それぞれの未来を視てほしいと。
あまりのことに椅子を蹴立てて立ち上がったリリエラに対し、全てはこの国の為だと口にした時のイェルドは、酷く穏やかな表情ではあったが、リリエラには酷く歪んで見えたものだ。
それでも、結局リリエラが折れてイェルドの望みを叶え、イェルドは躊躇うことなく事を起こした。リリエラが視た未来の片方を選び取り、己の息子を餌としたのだ。
もっとも、イェルド自身は何もしていないのだが。
自らが手を下すことは勿論、誘拐の為の手引きをすることもなく、イェルドはただ事態の推移をひっそりと見ていた。イェルドがやったことがあるとすれば、それはただ一つ。事ある毎にエイナーの内向的な性格を心配し、それを健気に支えるキリアンを褒め、己が親馬鹿を演じたことだけ。
キリアンが今度はいつエイナーを外に連れ出してくれるのだの、どこそこへ共に視察に出掛けるのだのと、王子達が城を離れる日をそれとなく仄めかす。親馬鹿のイェルドはそれを喜びつつ、可愛い息子達が誘拐されでもしたら大変だと、警備は厳重にしておかねばと殊更に心配しては、周囲から大袈裟だと笑われてみせる。そうして、確かに心配のし過ぎだったと、そんなに心配しなくとも、今はあんなに小さな息子もあっと言う間に大きくなるものだからねと、周囲からの笑いに冷静になったように見せ、己の親馬鹿に照れる。最後には、そう言えば、エイナーの身長はこんなに伸びていたんだと再び親馬鹿の惚気話を始めて仲睦まじい親子であることを周囲に見せつけ、平和惚けしているように装う――そんなことを繰り返しただけだ。
だが、王位簒奪を考えている側にとっては、その光景は微笑ましくもなんともない。長命な聖域の民であるモルムはともかく、時間に限りのある人間の側は、イェルドが微笑む度に焦りが生まれたことだろう。
しかも、その当時で既に、カルネアーデ事件から二十年近くの年月を経てしまっていた。自分達に残された時間の少なさは、焦りを募らせる。彼らが全く動けぬままにクルードの愛し子が成人間近にまで無事に成長してしまったことも、それに拍車をかけていたことだろう。
もしかすると、彼らに動く隙を与えなかったのもイェルドの策の内だったのかもしれない。のほほんと平和を享受して隙だらけに見せて、キリアンが成人するまでは騎士団長に最強の者を据え置いて、彼らに手出しする隙を一切与えなかったのだから。
やがて、彼らの内に生まれた焦りは余裕を削ぎ、判断を鈍らせ、イェルドがわざと隙を見せたことに気付く思考を奪い、ついには過ちを犯させる。そうして、イェルドは見事に垂らした餌に食い付かせ、モルムを穴倉から誘き出してみせた。
リリエラの視る仮初の未来は、仮初が故に遠い未来になればなるほど不確かさが増すと言うのに、その不確かさなどものともせずに、イェルドは数年をかけてじっくりと、リリエラの視た仮初の未来を実現させたのだ。
退屈を嫌うリリエラにとっては面白いことではあるものの、こんな人間がこの先も現れることを思うと、それはそれでうんざりしてしまう。
「……あなたは、たかが人間に使われるのは嫌いかな?」
いつの間にかすっかり夕日は沈み、残照だけが空を茜色に染めていた。やや暗くなった室内に、沈んだ筈の夕日と同じ色の瞳が一対、どこか剣呑な光を帯びて輝く。
リリエラはイェルドを正面から睨み据え、ふんと鼻を鳴らした。
「わしが嫌いなのは、リーテと退屈。それに、この国が亡びることじゃ」
「それはよかった」
では、よろしく頼むよ。と、これまた軽い調子でイェルドが微笑んで茶を飲むものだから、リリエラは思わず深々と息を吐いてしまった。そうしながら、明かりを持ってくる為に立ち上がる。
「……おぬし、いつか息子共に刺されても知らぬぞ?」
「おや。私は、息子達に刺されるようなことをした覚えはないよ?」
「何を白々しいことを……」
イェルドの物言いに呆れるものの、事実、イェルドは息子達に直接何かしたことはない。イェルドの思惑が息子達の周囲で何か事を起こしたとしても、無辜の民を含めてその命が失われないよう、手回しは決して怠らない。それが、イェルドと言う男だ。
先だってのエイナーの誘拐の件一つ取っても、イェルドは決してエイナーが害されることのないよう私兵を配し、状況の全てを監視させていたのだから。
実際には、想定外のリーテの娘の存在がエイナーを助けることにはなったが、それがなくとも、頃合いを見て私兵が誘拐を失敗させることになっていた。夜の山中に不運はつきもの。いくらでも誤魔化しは効くし、エイナー救出の為に必死で馬車を追っていたキリアン達の存在があればこそ、不運を不審に思う者もいない。
「イェルドよ。わしは、キリアンのことは元より、少なくとも今のエニー坊のことは、好いておるからの?」
常にキリアンの後ろに隠れ、自分が心許せる騎士に守られ、部屋を出る度に周囲を怖がっていた頃に比べれば、今のエイナーは実に明るくのびやかで、何事にも積極的。見ていると自然と顔が緩む程度には年相応の子供で、愛らしい。それがクルードの愛し子ともなれば、リリエラとて、ただの人間には抱くことのない愛しさも生まれると言うもの。故に、エイナーの変化は、リリエラとしては実に喜ばしいことだ。
これまで家族の愛情に守られて危険とは無縁のエイナーが、誘拐などと言う恐ろしい目に遭って心を壊すようなことがなくて、実のところリリエラは、心底から安堵してもいる。
それがリーテの娘の存在によってもたらされたことには、リーテに借りを作ったようで非常に面白くはないが、生き生きと日々を過ごすエイナーの姿は、リリエラにとって至高の存在であるクルードの、その愛し子をわずかでも苦しめたと言う後ろめたさを和らげ、リリエラの救いになっていると言ってもいいだろう。
人の心を持たないと非難されることの多いリリエラだが、クルードとこの国に関することにだけは、親兄弟かのようにその心を揺らしてしまうのだ。
だからこそ、イェルドのやり方には、時に眉を顰めてしまう。
この男の愛は、酷く歪んでいるのだ。中でも、キリアンに対するものはエイナーの比ではない。イェルドの最初の子供でありながらクルードの愛し子と言う、イェルドにとって神を憎む決定的な存在になったのだから仕方のないことだろうが、時にリリエラにすら呆れさせるほど、その愛の形は歪だ。
いつだったか、城内で侍女が服毒自殺をしたことがあった。その侍女は、室内を隅々まで捜索せねば見つかり得ない場所に遺書を残していた。彼女をこの城に潜り込ませた者に、遺書が見つかることを恐れたのだろう。
そして発見された遺書を読み、イェルドは知る。リリエラも知る。キリアンには――此度誕生したクルードの愛し子には、クルードの加護により毒が効かない……正確には、毒を無効化させる力を有していることを。
遺書によれば、その侍女は幾度もキリアンの食事に毒を仕込んだと言う。そう命令されていたのだと。だが、キリアンは食べてしばらくは気分を悪くする様子を見せたが、ものの数分でけろりとして、食事を美味しそうに食べたのだと。そんなことが片手で足りない回数続き、仕込む毒をより毒性の強いものに変えても、結果は同じ。
いよいよ耐え切れなくなった侍女は、クルードの怒りを恐れ、キリアンを恐れ、依頼主を恐れ、自ら命を絶った。
その後、イェルドは自ら進んで、キリアンに様々な毒物を与えるようになる。無論、王家に生まれた者は、ある程度毒への耐性を付ける為にそう言う訓練をするものではあるが、キリアンに課されたものは当然、比較にならない。
イェルドは各地から毒物を取り寄せ、時にはリリエラに依頼して毒性の強いものを敢えて作らせては、耐性を付ける為だと言ってキリアンに毒を摂取させた。それも、徐々に慣らすのではなく、一度に致死量を。ついこの間も、リリエラが十五年の歳月をかけて作った最高傑作を、キリアンに呷らせることに成功したとか。
イェルドにしてみれば、己の行動は息子に迫るだろう危険を予め排除する為の、愛ある行動だ。同時に、クルードに対しては、お前が愛し子としたのだから、どんな毒であってもキリアンを救ってみせろ、できないとは言わせないと当て付ける為のものである。
クルードは、恐らく困惑していることだろう。これまでの己の愛し子は、周囲から大切にされ、崇められ、国の発展に大きく寄与する立派な人物として、クルードの守護する地を守って来た。それが、実の父親から致死量の毒物を摂取させられると言う、およそ愛とは程遠い仕打ちを受けているのだから。それなのに愛し子はその父を恨むどころか愛し、大切に思い、尊敬すらしている。
人の心と言うものを本当の意味で理解し得ないクルードには、それだけでも十分イェルドは復讐できていると言えるだろう。
だが、イェルドの神に対する復讐がこの程度で終わる筈もないこともまた、リリエラは知っているのだ。この男の神への憎悪の強さは、息子達への深い愛情に比例するのだから。
今にも、その姿をシュナークル山脈の向こうへと隠そうとする夕日に照らされた部屋の一角を眺めて、やれやれとリリエラは息をついた。
そこには、本来ならば朝一番に日の光をこの部屋に届けてくれる窓があった。それが、今や見る影もなく破壊し尽くされてしまっている。大判の布を当座の目隠しとして急ぎ張り付けたものの、今そこは窓としての役割を放棄しているどころか、隙間風を呼び込んで、壁としての役割も大して果たしていない。更に、床には窓であったものの残骸がいくつも転がり、その破壊の余波を受けて、少し前にキリアンの暴挙によって一部崩れたがらくたの山は、今再びの崩落を迎えて足の踏み場もない荒れ様だ。
何とか新調したテーブルだけは死守したものの、この部屋が綺麗に片付き新たな窓が据え付けられるまでに、一体どれほどの日数を要することか。目に入れる度にリリエラのやる気と言うやる気をすっかり削ぎ落としてくれる光景には、最早ため息しか出て来ない。
「これじゃから、リーテは嫌いなんじゃ」
うっかりリーテの娘と図書館で遭遇してからと言うもの、最近のリリエラはろくなことがない。遭遇した当日にお気に入りのテーブルは粉砕されるは、クルードに叱られるは、その後数日にわたってリーテの娘の為に頭を使わされたかと思ったら、挙句の果てに、今日のこれである。
これだけの破壊をもたらした張本人は意気揚々城を帰って行ったと言うことだが、リーテの娘共々、もう二度と来なくていい。顔も見たくない。
「ヴィシュヴァも相変わらず加減と言うものを知らぬし、散々じゃ」
「それは、あなたがアレクシアを怒らせるからだろう」
カップに並々と注いだ温かな茶をずず、と啜り、リリエラの瞳がテーブルを挟んだ向かいへと動く。そこには、同じく湯気を立てるカップを手にした、この国で最も高い地位に座す男が、内心を窺わせない微笑を浮かべて座っている。
「娘にはきちんと誠意を見せたわ。それなのにわしの部屋を破壊したんじゃぞ、あやつ。これはやりすぎであろうが。そう思わぬか、イェルドよ」
「さて。あなたが懲りないからではないのかな?」
「……ふん。何と言われようと、わしはリーテは好かぬ」
額を撫でて顔を顰め、リリエラは「それで?」と、これ以上のリーテの話題を避けるように、イェルドに尋ねた。せっかく嵐が去って清々したところだと言うのに、その気分を壊すようなリーテの話題を口にし続けたくなどない。
それに、一国の王がわざわざ東塔までリリエラに会いに来るのには、それなりの理由があるものだ。特に、このイェルド・ガイランダルと言う男はこれまでの王とは違い、その腹の底で何を企んでいるのか、リリエラにすら読ませない人間だ。果たして今回の訪いは、どれほどの厄介ごとなのやら。
面倒なことを持って来たのだろう気配に、リリエラは嫌そうに目を眇めた。
「大したことではないよ。いつものように、あなたにまじなってもらいたいだけだからね」
「そらきた。簡単に言ってくれるのう、おぬしは」
ちょっとそこまでのお使いを頼むような調子で、イェルドがリリエラの思った通りの厄介ごとを持ち込んで来る。
「簡単に言うさ。私はこの国の王なのだから。国を守る為ならば、使えるものは全て躊躇せず使う覚悟くらい、いつだって持ち合わせているよ」
そうでなくては、王など務まらない。そう言って人畜無害の穏やかな表情を見せるイェルドは、一見、民を思う心に溢れた善良な王のようである。事実、民にとってはよき王であるのだろう。特に、御子にクルードの愛し子が誕生したことを思えば、二十五年前にイェルドの起こした行動は神に正しいと認められたも同然で、クルードの認める王の行いが正しくないなどと、民は思わないものだ。
だが、その腹の底で考えていることが清く正しいものばかりでないことを、リリエラは知っている。そして、イェルドがリリエラの元を訪れるのは、そう言う清く正しくないことをする為だと言うことも。その為に、リリエラを利用するのだと言うことも。
リリエラは、未来を視ることができる。そう言う力を持っている。しかし、それは女神リーテが未来を水鏡に映し見るのとは、少々異なる。現在の状況から条件を仮定して、その先にある仮の未来を視るのだ。
普段、リリエラが国の行く末を視る際には「現状のまま」と仮定して未来を視、よくない未来――例えば、国の存続が危うくなりそうなもの――が視えたならば、それを予言と言う形で王へと伝える。そうすることで「現状のまま」と言う仮定の未来を消滅させ、未来を変化させるのだ。そうして、エリューガルと言う国を存続させる手助けをしている。
だが、このイェルドと言う男は、リリエラをそれ以上に積極的に使う。そしてリリエラも、退屈凌ぎになるならばと、ある程度は素直に協力していた。ひいてはそれがクルードの為、エリューガルの為になると分かっているから。
時には眉を顰めるような仮定を持ち出されることもあるが、今回はどのような仮定の未来を視ることになるのだろうか。
もっとも、この時期にこうしてやって来ると言うことは、モルムに関すること以外にないに違いない。それはつまり、リーテの娘をいかに使えば、効率よくモルムを仕留められるか――その未来を、リリエラに視せるつもりだと言うことだ。
果たして、イェルドの脳内には今、どれほどの仮定が用意されているのやら。
「……神を毛嫌いしておる癖に、その神の力すら使うことを躊躇せぬとはの」
「あなたは随分とおかしなことを言う。神を毛嫌いしているからこそ、だろう? たかが人間如きに、神がいいように使われるんだ。こんな愉快なことはないだろうに。私に言わせれば、歴代の王達は何故あなたを使おうとしなかったのか、不思議でならないね」
「わしから言わせれば、おぬしは神を畏れなさすぎる。わしを便利な道具として使う奴が、そうほいほい出て来る方が問題じゃろう」
とは言え、イェルドとて初めからこうではなかった。初めて顔を合わせた頃は、いずれは自分がこの国の王になるのだとの責任と覚悟から、リリエラの予言を興味深く聞いては、リリエラの示した悪い未来を回避する為にはどうすればいいのかと、頭を悩ませていたものだ。
それが変化し始めたのは、イェルドの婚約者にエステルが選ばれた頃から。次に、リリエラに対する態度が明確に変わったのは、キリアンが生まれてから。その後、生まれてわずか四年で娘が死に、妻を失い、新たな息子までもがクルードの愛し子として生きることを決定付けられてからは、躊躇がなくなったように思う。
ここ最近で二の句が継げなくなったほどの依頼は、いつのことだったか。
突然ふらりと夜半に塔へとやって来て、モルムをその穴倉から誘き出す為の餌として、末の息子と息子の思い人と、どちらを誘拐させる方がより効果的だろうか――などと、何と言うことのない雑談を話す調子で、イェルドが口にしたのだ。それぞれの未来を視てほしいと。
あまりのことに椅子を蹴立てて立ち上がったリリエラに対し、全てはこの国の為だと口にした時のイェルドは、酷く穏やかな表情ではあったが、リリエラには酷く歪んで見えたものだ。
それでも、結局リリエラが折れてイェルドの望みを叶え、イェルドは躊躇うことなく事を起こした。リリエラが視た未来の片方を選び取り、己の息子を餌としたのだ。
もっとも、イェルド自身は何もしていないのだが。
自らが手を下すことは勿論、誘拐の為の手引きをすることもなく、イェルドはただ事態の推移をひっそりと見ていた。イェルドがやったことがあるとすれば、それはただ一つ。事ある毎にエイナーの内向的な性格を心配し、それを健気に支えるキリアンを褒め、己が親馬鹿を演じたことだけ。
キリアンが今度はいつエイナーを外に連れ出してくれるのだの、どこそこへ共に視察に出掛けるのだのと、王子達が城を離れる日をそれとなく仄めかす。親馬鹿のイェルドはそれを喜びつつ、可愛い息子達が誘拐されでもしたら大変だと、警備は厳重にしておかねばと殊更に心配しては、周囲から大袈裟だと笑われてみせる。そうして、確かに心配のし過ぎだったと、そんなに心配しなくとも、今はあんなに小さな息子もあっと言う間に大きくなるものだからねと、周囲からの笑いに冷静になったように見せ、己の親馬鹿に照れる。最後には、そう言えば、エイナーの身長はこんなに伸びていたんだと再び親馬鹿の惚気話を始めて仲睦まじい親子であることを周囲に見せつけ、平和惚けしているように装う――そんなことを繰り返しただけだ。
だが、王位簒奪を考えている側にとっては、その光景は微笑ましくもなんともない。長命な聖域の民であるモルムはともかく、時間に限りのある人間の側は、イェルドが微笑む度に焦りが生まれたことだろう。
しかも、その当時で既に、カルネアーデ事件から二十年近くの年月を経てしまっていた。自分達に残された時間の少なさは、焦りを募らせる。彼らが全く動けぬままにクルードの愛し子が成人間近にまで無事に成長してしまったことも、それに拍車をかけていたことだろう。
もしかすると、彼らに動く隙を与えなかったのもイェルドの策の内だったのかもしれない。のほほんと平和を享受して隙だらけに見せて、キリアンが成人するまでは騎士団長に最強の者を据え置いて、彼らに手出しする隙を一切与えなかったのだから。
やがて、彼らの内に生まれた焦りは余裕を削ぎ、判断を鈍らせ、イェルドがわざと隙を見せたことに気付く思考を奪い、ついには過ちを犯させる。そうして、イェルドは見事に垂らした餌に食い付かせ、モルムを穴倉から誘き出してみせた。
リリエラの視る仮初の未来は、仮初が故に遠い未来になればなるほど不確かさが増すと言うのに、その不確かさなどものともせずに、イェルドは数年をかけてじっくりと、リリエラの視た仮初の未来を実現させたのだ。
退屈を嫌うリリエラにとっては面白いことではあるものの、こんな人間がこの先も現れることを思うと、それはそれでうんざりしてしまう。
「……あなたは、たかが人間に使われるのは嫌いかな?」
いつの間にかすっかり夕日は沈み、残照だけが空を茜色に染めていた。やや暗くなった室内に、沈んだ筈の夕日と同じ色の瞳が一対、どこか剣呑な光を帯びて輝く。
リリエラはイェルドを正面から睨み据え、ふんと鼻を鳴らした。
「わしが嫌いなのは、リーテと退屈。それに、この国が亡びることじゃ」
「それはよかった」
では、よろしく頼むよ。と、これまた軽い調子でイェルドが微笑んで茶を飲むものだから、リリエラは思わず深々と息を吐いてしまった。そうしながら、明かりを持ってくる為に立ち上がる。
「……おぬし、いつか息子共に刺されても知らぬぞ?」
「おや。私は、息子達に刺されるようなことをした覚えはないよ?」
「何を白々しいことを……」
イェルドの物言いに呆れるものの、事実、イェルドは息子達に直接何かしたことはない。イェルドの思惑が息子達の周囲で何か事を起こしたとしても、無辜の民を含めてその命が失われないよう、手回しは決して怠らない。それが、イェルドと言う男だ。
先だってのエイナーの誘拐の件一つ取っても、イェルドは決してエイナーが害されることのないよう私兵を配し、状況の全てを監視させていたのだから。
実際には、想定外のリーテの娘の存在がエイナーを助けることにはなったが、それがなくとも、頃合いを見て私兵が誘拐を失敗させることになっていた。夜の山中に不運はつきもの。いくらでも誤魔化しは効くし、エイナー救出の為に必死で馬車を追っていたキリアン達の存在があればこそ、不運を不審に思う者もいない。
「イェルドよ。わしは、キリアンのことは元より、少なくとも今のエニー坊のことは、好いておるからの?」
常にキリアンの後ろに隠れ、自分が心許せる騎士に守られ、部屋を出る度に周囲を怖がっていた頃に比べれば、今のエイナーは実に明るくのびやかで、何事にも積極的。見ていると自然と顔が緩む程度には年相応の子供で、愛らしい。それがクルードの愛し子ともなれば、リリエラとて、ただの人間には抱くことのない愛しさも生まれると言うもの。故に、エイナーの変化は、リリエラとしては実に喜ばしいことだ。
これまで家族の愛情に守られて危険とは無縁のエイナーが、誘拐などと言う恐ろしい目に遭って心を壊すようなことがなくて、実のところリリエラは、心底から安堵してもいる。
それがリーテの娘の存在によってもたらされたことには、リーテに借りを作ったようで非常に面白くはないが、生き生きと日々を過ごすエイナーの姿は、リリエラにとって至高の存在であるクルードの、その愛し子をわずかでも苦しめたと言う後ろめたさを和らげ、リリエラの救いになっていると言ってもいいだろう。
人の心を持たないと非難されることの多いリリエラだが、クルードとこの国に関することにだけは、親兄弟かのようにその心を揺らしてしまうのだ。
だからこそ、イェルドのやり方には、時に眉を顰めてしまう。
この男の愛は、酷く歪んでいるのだ。中でも、キリアンに対するものはエイナーの比ではない。イェルドの最初の子供でありながらクルードの愛し子と言う、イェルドにとって神を憎む決定的な存在になったのだから仕方のないことだろうが、時にリリエラにすら呆れさせるほど、その愛の形は歪だ。
いつだったか、城内で侍女が服毒自殺をしたことがあった。その侍女は、室内を隅々まで捜索せねば見つかり得ない場所に遺書を残していた。彼女をこの城に潜り込ませた者に、遺書が見つかることを恐れたのだろう。
そして発見された遺書を読み、イェルドは知る。リリエラも知る。キリアンには――此度誕生したクルードの愛し子には、クルードの加護により毒が効かない……正確には、毒を無効化させる力を有していることを。
遺書によれば、その侍女は幾度もキリアンの食事に毒を仕込んだと言う。そう命令されていたのだと。だが、キリアンは食べてしばらくは気分を悪くする様子を見せたが、ものの数分でけろりとして、食事を美味しそうに食べたのだと。そんなことが片手で足りない回数続き、仕込む毒をより毒性の強いものに変えても、結果は同じ。
いよいよ耐え切れなくなった侍女は、クルードの怒りを恐れ、キリアンを恐れ、依頼主を恐れ、自ら命を絶った。
その後、イェルドは自ら進んで、キリアンに様々な毒物を与えるようになる。無論、王家に生まれた者は、ある程度毒への耐性を付ける為にそう言う訓練をするものではあるが、キリアンに課されたものは当然、比較にならない。
イェルドは各地から毒物を取り寄せ、時にはリリエラに依頼して毒性の強いものを敢えて作らせては、耐性を付ける為だと言ってキリアンに毒を摂取させた。それも、徐々に慣らすのではなく、一度に致死量を。ついこの間も、リリエラが十五年の歳月をかけて作った最高傑作を、キリアンに呷らせることに成功したとか。
イェルドにしてみれば、己の行動は息子に迫るだろう危険を予め排除する為の、愛ある行動だ。同時に、クルードに対しては、お前が愛し子としたのだから、どんな毒であってもキリアンを救ってみせろ、できないとは言わせないと当て付ける為のものである。
クルードは、恐らく困惑していることだろう。これまでの己の愛し子は、周囲から大切にされ、崇められ、国の発展に大きく寄与する立派な人物として、クルードの守護する地を守って来た。それが、実の父親から致死量の毒物を摂取させられると言う、およそ愛とは程遠い仕打ちを受けているのだから。それなのに愛し子はその父を恨むどころか愛し、大切に思い、尊敬すらしている。
人の心と言うものを本当の意味で理解し得ないクルードには、それだけでも十分イェルドは復讐できていると言えるだろう。
だが、イェルドの神に対する復讐がこの程度で終わる筈もないこともまた、リリエラは知っているのだ。この男の神への憎悪の強さは、息子達への深い愛情に比例するのだから。
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