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第三章 王城での一月
馬上の出会い
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城門から修練場までは緩い曲線を描いているため、城門そのものは直接視認できない。当然、声も明瞭には届かない。けれど、城壁に反響して聞こえてくる音は、城門警備の騎士が、王城へ侵入しようとする何者かを制止しようとしているのだと言うことを、はっきりと伝えていた。
「何が……」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
そう言って私に笑顔を見せてくれつつも、イーリスは即座に私から日傘を預かり、私を木の陰に隠すように背に庇って城門を警戒している。私はそんなイーリスの服をぎゅっと掴んで、恐る恐る城門を覗き見た。城門側に最も近い区画で訓練をしていた参加者も、次々と城門での騒ぎの声に気付いてその手を止め、それはすぐさま全体に伝播して、再び訓練の手が止まる。
その中で最初に聞こえたのは、高らかな馬の蹄の音だった。わずかの間を置いて、実際に駆けてくる馬の姿が現れる。実に勇ましく、立派な体躯の黒鹿毛の馬だ。その馬に跨る人物は外套を羽織っているようで人相ははっきりとしないけれど、決して小柄ではなく、また手綱捌きから見ても文官とは言い難く、むしろ、明らかに手練れと言った雰囲気が遠目からでも窺えた。
その馬上の人物が、不意に私のいる方角へ頭を振った――気がした。
その瞬間、イーリスが嘘でしょと慄いて私へと勢いよく振り返る。その表情は真剣そのもの。ただし明らかに焦りを含んで、事態が切迫したものであることを私に如実に伝えていた。
「ミリアム! レナートのいる場所は分かるわね?」
「はい」
右手の修練場を一瞥して、私は小さく頷く。
「今すぐ走って!」
「えっ?」
早く、とイーリスの鋭い声が重ねて飛び、私はわけが分からないながらも木陰から飛び出した。その途端、馬首がはっきり私の方へと向けられる。
見つけた――そんな幻聴が聞こえた気がして、私は恐怖に駆られて必死に足を動かした。
けれど、ただでさえ運動と言う運動をしていない上、走るのに全く適していない服装。おまけに、突然のことで緊張と恐怖に駆られた私の足はいつも以上に思う通りに動いてくれず、気を抜けば縺れて転んでしまいそうだった。
加えて不運なことに、レナートのいる区画は私達がいた木陰の対角線上、最も遠くに位置する。正面の区画にいたラーシュが、走る私にいち早く気付いて飛び出してくれたけれど、その時にはもう、力強く駆ける馬は私の間近に迫っていて。
とにかく逃げなければ。その一心で、私の足はラーシュを目指す。けれどその時、私の足が小さな小石に躓いた。
傾く視界。投げ出される体。咄嗟に見たのは、迫る馬体。逞しい四肢。
(あ……)
馬に撥ねられる。
そう思った時には、私は目を瞑っていて。
「――掬い上げな!!」
誰かの鋭い声が聞こえたかと思ったら、予想だにしない浮遊感が私を襲っていた。驚いて見開いた目に映ったのは、私を見上げて唖然とするラーシュと、その前で高々と首を伸び上がらせている馬、そして私に向かって両手を広げる馬上の人。
すかさず落下点に馬が滑り込み、私はまるで飛び込むように、広げられた腕の中へと落ちていた。
衝撃に再び目を瞑った私を、逞しい腕が強く抱き留める。
このまま攫われてしまうのか。そんな最悪が脳裏を過り、たちまち恐怖が全身を支配する。身が竦み、勝手に震えて、瞑った目が開けられない。
けれど、そんな私を待っていたのは、優しく背を撫でる手だった。
私の体を軽々と抱え直したかと思ったら、いまだ恐怖で目を開けられない私を宥めるように、温かな手が背を往復する。その手つきは、寸前まで猛々しく馬を駆っていたとは思えないほど優しいもので、わずかに私の恐怖が薄れた。
「……やれやれ。ちょいと怖い思いをさせてしまったね。怪我はないかい、私の愛しい娘」
次いで聞こえてきたのは、女性にしてはやや低く、芯のある強い声。それでも、笑みの気配を含んで柔らかに響くその声音に押されるように、私は恐る恐る瞼を押し上げた。
そうして最初に視界に飛び込んできたのは、紅だった。薔薇を思わせる明るく鮮やかな色彩が豊かに波打ち、風に靡いて、目を見開いた私の視界を一瞬埋め尽くす。
「え……」
呆然としながら顔を上げれば、私を見下ろす深碧色の切れ長の瞳と目が合った。
「ああ、大丈夫そうだ。よくやったね、スーリャ」
嬉しそうに目を細めたその人は、私の頬を一撫でして満足そうに笑うと、馬の首をぽんと叩く。そうすれば馬は自慢げに首を上げ、尾を高々と振ったのが分かった。
先ほどまでの猛烈な勢いはどこへやら、一転して穏やかなやり取りに放心しつつ、私はその人の顔から目が離せないでいた。
ライサとはまた違う、異国を思わせるはっきりとした肌の色。彫りが深く目鼻立ちのくっきりとした、私のよく知る誰かを彷彿とさせる顔。違いと言えばその性別と、年齢か。目尻に、生きた歳月の長さを感じさせる小皺が薄く見えて、その人が私よりも随分と年上であるのだとそっと私に教えていた。
再び私を見下ろすその人と目が合って、優しく微笑まれる。
「ようやく会えたね、ミリアム。……私の愛しい娘」
とても大切な宝物をその手で大事に包み込むかのように私の頬を両手で掬い、その人の顔が迫る。そうしてふっと陰った視界と共に、幼い頃母がよくそうしてくれたように、頭に軽い口付けが落とされた。
ただただ目を瞠るしかできない私をその人が愛おしそうに見つめるのを、やはり私は呆然と見上げるしかできなくて。
何故私の名を知っているのだとか、あなたは誰だとか、どうして口付けるのだとか、そもそもどうして今私は馬上にいるのだとか、疑問ばかりが頭を巡って、まるで状況が飲み込めない。
そうして混乱のただ中にいる私をその人がもう一度腕の中に閉じ込めた時、騒めきが満ちる修練場から慌ただしい足音が複数駆けて来た。その音に私が我に返ると同時、聞き知った声が怒気を伴って飛ぶ。
「何をやっているんだ、アレックス!」
途端に私の目の前の顔が形のいい眉を吊り上げ、ふんと鼻を鳴らした。
「何をやっているだって? それが、数か月振りに会った母親に対して最初に言う言葉かい、レナート!」
「城門警備を振り切って城に侵入する馬鹿に、それ以外に言う言葉があるか!」
馬上と地上、殆ど同じ顔をした二人が睨み合う光景と、互いの口から吐き出された言葉が、私に今日一番の驚きを与える。
そっくりな顔の二人。そして、互いを指し示す言葉。
私を腕に抱き締めるこの人の名を、私はまだ聞いていない。けれど、最早聞く必要がないくらいに答えは明確に示されていて、私の口がぽかんと開く。
アレックス――アレクシア・ヴィシュヴァ・フェルディーン。
以前、彼の母の名だとレナートに教えてもらった名が不思議なほどすんなりと思い出され、その唐突な出会いに、私は束の間呼吸を忘れて彼女に見入った。
レナートはアレックス様似だから、とのテレシアの言葉が脳裏を過る。けれど、「似」と言うには二人はあまりにそっくりで、きっと誰が見たって血の繋がりは明らかだろう。
初めてアレクシアの話を聞いた時、その姿として髪の長いレナートの姿を想像したことがあったけれど、あの時の私はどうやら間違っていなかったらしい。想像と違ったのは髪と瞳の色と、口元にある象徴的な黒子だけ。
ただ同時に、私はアレクシアの姿に聞き覚えがあるような気がして、小さな疑問符が脳内に浮かんだ。レナートに似ていると言うこと以外で、アレクシアの身体的特徴は聞いていない筈なのに、アレクシアの姿を知っているような気がするのだ。
そうして私が一人不思議に思う間にも、久々に再会した親子の言い合いは剣呑な空気を伴って続く。
「あいつらが城門でちんたらやるから、ちょいと待ち切れなくなっただけじゃないか。それを馬鹿呼ばわりとは、随分だね」
「その『ちょっと』で騒ぎを起こす奴を指して馬鹿と言うんだが、知らないのか?」
「知らないねぇ。大体、この私の顔を知らない奴なんていないだろうに、さっさと通さない方が馬鹿だろう!」
「一般人が、何の証明も見せずに城に入れるわけがないだろうが。いつまで騎士気取りでいるんだ、あんたは。少しは他人の迷惑も考えろ!」
珍しく口調が荒れているレナートを、私が目を丸くして馬上から見下ろしたところで、レナートの隣から黒い影が割り込んで来た。キリアンだ。隣には、私に心配そうな顔を向けるエイナーもいた。
キリアンはレナートを制すると、アレクシアの髪よりも深く濃い紅の瞳を真っ直ぐに馬上へ向ける。その瞳に若干呆れの色が見えるのは、きっと私の気の所為ではないのだろう。
「あなたは相変わらず騒々しいな、アレクシア」
「……これはこれは、キリアン殿下。エイナー殿下も。お久しゅうございます。生憎両手が塞がっておりますので、馬上から挨拶することの不敬をお許しいただきたい」
これ見よがしに私を抱き締めて、アレクシアが欠片も不敬と思っていない様子で詫びる。そのあまりに不遜なアレクシアの態度に私は顔を青くするけれど、言われた側は無反応で、こちらを見上げたままだった。
レナートだけがそれとなく私に視線を送ってくれたけれど、そこには、気にすることはないし、咎めたところでどうせ聞きやしない、と言う諦念がありありと浮かんで、私の顔が微かに引き攣る。
「あなたの不敬など、今に始まったことではないだろう。……それで? あなたとの面会は三日後だと記憶しているが、この突然の来城はどう言うことだ?」
レナートの視線が告げた通り、アレクシアの態度を殊更咎めることのなかったキリアンは、それでもせめてとばかりに瞳には非難を込めて鋭く相手を射る。先程、わざわざ「アレクシア」と呼び掛けたのも、恐らくはわざとなのだろう。
そうしておきながら、どうやらアレクシアがやって来た理由には心当たりがあるのか、言葉と表情こそ険しいものの、纏う雰囲気には面倒臭さが滲んでいた。どちらかと言えば、早く会話を終わらせて厄介払いをしてしまいたい、と言う気配が強く漂っている。
私がそう感じてしまうのは、キリアンの後ろで渋面を崩さないレナートと、エイナーの隣で何とも言えない表情を浮かべて黙する騎士団長の存在がある所為だろうか。
とは言え、アレクシアの登場に当初は驚いていた騎士や兵士も、驚きが過ぎればその殆どが「またか」と言いたげな表情をしており、いまだ驚きの中にいるのは年若い新兵達くらい。その姿を見れば、これがアレクシアによって引き起こされる「よくあること」なのだと言うことが、アレクシアと初対面の私にもよく分かった。
流石は、テレシア五人分。恐るべし。
「いやなに、私の愛しい娘に手を出した愚か者が出たと、親切なお方が私に手紙をくださいましてね。これは今すぐそいつの脳天をぶち割ってやらねばなるまいと、つい、スーリャに跨りやって来てしまった次第なのです、キリアン殿下」
アレクシアが私の頭を撫でながら、女性の口から出るとは思えない恐ろしい言葉をさらりと紡ぎ出す。けれど、アレクシアの言葉にぎょっとしたのは私だけで、目の前のキリアンを始め、息子のレナートも騎士団長も、ラーシュやエイナーさえも、一様に頭痛を堪えるような顔をしただけで、特段の反応を示すことはなかった。
キリアンだけは手紙の差出人に覚えがあるのか、誰よりはっきりと顔を顰め、聞き取れない声量で何事か呟いていたけれど、その程度だ。
「娘の無事な姿をこうして先に見られたことは、僥倖でした。これで思う存分、奴をぶちのめすことができそうです。……私の愛しい娘、お前の受けた屈辱は私が代わりにちゃあんと晴らしてやるから、安心おしよ」
表情だけはまさに慈母のごとき微笑みを浮かべているのに、その口からは再び物騒な言葉が飛び出して、私は思わず震え上がった。頭を撫で、頬を撫で、これ以上ないくらいに優しく抱擁されても、全く心が休まらない。安心どころか恐怖が徐々に降り積もるようで、心臓は激しく鼓動し、今にも口から何かが飛び出そうだ。
加えて、先ほどから何度もアレクシアが口にする「私の娘」と言う言葉。私はフェルディーン家に保護されるのであって、養女になるわけではない筈だ。けれど、アレクシアの口振りからはすっかり私を養女にする気でいるように思えて仕方がない。まさか、私の知らない間にそんな話が進められているのではと、一抹の不安まで過ってしまう。
アレクシアが乗り気でいるところを大変申し訳ないながら、私は保護されなければならない決まりの為にフェルディーン家に一時世話になるだけであって、その家の養女になるつもりはないのだ。これは今、大勢の証人もいるこの場で一言言っておかねば、私の将来が勝手に決定されてしまいそうな予感がする。
「あ……あの」
半ば強迫観念に駆られるようにして、私はなけなしの勇気を振り絞って声を上げた。
口にした瞬間、キリアンとの会話に割り込んでしまったことに気付いて別の意味で血の気が引きかけたけれど、出してしまった言葉は取り消せないし、アレクシアに聞かれてしまっては、もっとなかったことにはできない。
私は届かないと分かっていながら心の中だけでキリアンに謝罪しつつ、声を発した私を目を瞠って見下ろすアレクシアから、またしても視線を逸らすことができなかった。
「ああ、私の娘は何て愛らしい声だろうね。……この声を愚息が毎日私より先に聞いていたかと思うと今すぐあれの耳を捩じり切って……――ああ、いや、どうしたんだい?」
私の声を褒めた次の瞬間、耳元で低く呟かれた内容に、私の喉がひゅっと鳴る。
直前まで恍惚とした笑みだった筈が一瞬にして獲物を駆る肉食獣へ変貌し、それが再び慈母に戻る様を目にして、一気に冷や汗が吹き出した。
あたかも肉食獣が獲物を前に舌なめずりをする様を目にしたような恐怖に、私の口から咄嗟に「何でもありません」との言葉が出かかる。けれどそれを何とか寸前で止め、私はできるだけ声が震えないよう、腹に力を込めた。
視線を逸らしたら、その瞬間にアレクシアに食い殺されそうな状況で私が彼女から目を逸らせるわけがなく、当然、誰かに助けを求めるなんてこともできそうにない。むしろ、助けに入ろうとしてくれたが最後、その親切な人が返り討ちに遭うだろう。そんな犠牲は出してはいけない。つまりは、私が自力で何とかする以外に、この状況を脱する手立てはないのだ。
遥か遠い出来事のように思えるあの人攫い女と対峙した時が思い出され、私は死地に赴く戦士のような心持ちで、ぐっと顎を引いた。
「アレクシア――」
「アレックスとお呼び」
緊張のあまり、うっかりキリアンが彼女へと呼び掛けた名が口から出て、すかさずアレクシア本人に訂正されてしまう。
得も言われぬ圧を背負ったにこやかな笑みを目にした瞬間、私は自分の失敗を悟って早速勇気が萎みかけた。これまでレナートとの会話の中ではちゃんと「アレックス」と愛称を口にできていたのに、肝心な時に出て来ないだなんてどうしたことか。
それでも、私の口から悲鳴が出なかったのは、せめてもの幸いだろうか。そのことを萎みかけた勇気に足すように、私は気を取り直して口を開く。
「ア……アレックスさん。私は、フェルディーン家で保護される……のです、よね?」
私はできるだけ愛らしい子供に見えるよう精一杯の笑みを浮かべて、わずかに首を傾げながらアレクシアを見上げた。さながら山中で熊と遭遇してしまった気分で、どうにか相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「その、養女になる、と言うお話は……聞いていないのですけど……」
視界の端で誰かが「よく言った」と言う態度を見せている気がしたけれど、当然、そちらに視線を向ける余裕などない。私はじっとアレクシアだけを見上げて、彼女からの返答を、死刑宣告を待つかのような心地で待った。
そして寄越された返答は、私を混乱に陥れるものだった。
「何を言っているんだい、当たり前じゃないか。私だって、お前を養女にするつもりなんてないよ」
思わず耳を疑って、「え?」と間抜けな声が漏れる。
「でも、私のことを娘と……」
「それのどこがおかしい? この私が保護すると決めた瞬間から、お前は私の娘だろう?」
「えっ? そうなんですか?」
「そうだとも」
あまりに堂々と言い切られて、私の目が丸くなる。
つまり、保護した子供のことは養子縁組をするしないに拘わらず、そう呼ぶものだと言うことなのだろうか。男児であれば息子、女児であれば娘、と。そんな説明は、今までされたことはないけれど。
「そう……」
「――そんなことはない」
私がアレクシアの勢いにのまれて納得しかける寸前、私の声を遮って、疲れ切ったようなキリアンの声が響いた。とうとう耐え切れずに盛大なため息をその口から漏らしたキリアンと、アレクシアの視線が再び交わる。
「アレクシア。あなたがミリアムのことをどう呼ぼうとそれは勝手だが、呼ばれる本人が戸惑っているのをいいことに丸め込もうとするのは、保護者としては褒められたものではないぞ? ……いいのか、アレクシア?」
牽制するように殊更名前に強く力を込めたキリアンの、瞳の奥に何やら剣呑な光がちらついて、アレクシアが私を抱く腕に力を込めたのが分かった。二人の間で、声なき言葉が交わされる。
ややあって最初に動きを見せたのは、馬上のアレクシアの方だ。王族相手に隠すことなく心底忌々しげに舌を打つと、不承不承ながらキリアンの言葉の正しさを認める。
「……ミリアム。私がお前を娘と呼ぶのは、私のお前への愛情表現の一つだ。実の娘のように大切に思っている、と言う。だから、もしもお前が嫌でなければ、これからも愛しい娘と呼ばせてはくれないかい?」
私の頬を両手で掬い上げて間近から見つめるその瞳には、私を真っ先に保護すると申し出てくれたアレクシアの、私への確かな情が見て取れた。
そのことは、素直に嬉しく思う。アレクシアからの愛情表現として「娘」と呼ばれることも、決して嫌ではない。
嫌ではないけれど――できれば今はまだ、その言葉は私の母一人だけのものでありたい。
「……ありがとうございます、アレックスさん。私のことをそれだけ思ってくださるのは、とても嬉しく思います」
感謝を伝えようと笑顔を作ろうとして、それが少しだけ失敗してしまったことが、アレクシアのわずかに下がった眉で分かった。
アレクシアからの好意を、無下にしてしまっただろうか。
「アレ――」
不安を感じて呼びかけた私の声は、けれど直後にアレクシアに抱き締められたことで途切れた。
「ああ。やっぱり、お前はエステルの娘だね。安心したよ」
微かに寂しさを感じる響きを伴ったそれは、私の耳元で、私だけに聞こえるようにそっと囁かれた一言。言葉の通り、安堵もしていると示すように鼻から抜けるような笑い声が続いて、もう一度、今度は私の蟀谷に口付けを落としてアレクシアの腕が離れる。
そうして、アレクシアが私へ向かって小さな頷きを寄越した。
大丈夫。お前の思いは伝わっているよ。
アレクシアのそんな声が聞こえて、私はほっと肩の力を抜く。
髪を梳るように頭を撫でるアレクシアの手つきの優しさにくすぐったく目を細めれば、私とアレクシアのやり取りを固唾をのんで見守っていた周囲にも、これにて騒動は幕引きかとどこか弛緩した空気が漂い始める。私も、思いがけない対面の時間はこれで終わりかと、少しばかり名残惜しく感じていた。
けれど、流石はアレクシア。私が大嵐と形容するこの人物が、そう易々とこの場を去るわけがなかったのだ。そしてそれを薄々感じていたのは、アレクシアのことを最もよく知る、レナートを始めとする少数の面々。彼らは、緩んでいく周囲の空気に反して、静かに緊張を高めていた。
「何が……」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
そう言って私に笑顔を見せてくれつつも、イーリスは即座に私から日傘を預かり、私を木の陰に隠すように背に庇って城門を警戒している。私はそんなイーリスの服をぎゅっと掴んで、恐る恐る城門を覗き見た。城門側に最も近い区画で訓練をしていた参加者も、次々と城門での騒ぎの声に気付いてその手を止め、それはすぐさま全体に伝播して、再び訓練の手が止まる。
その中で最初に聞こえたのは、高らかな馬の蹄の音だった。わずかの間を置いて、実際に駆けてくる馬の姿が現れる。実に勇ましく、立派な体躯の黒鹿毛の馬だ。その馬に跨る人物は外套を羽織っているようで人相ははっきりとしないけれど、決して小柄ではなく、また手綱捌きから見ても文官とは言い難く、むしろ、明らかに手練れと言った雰囲気が遠目からでも窺えた。
その馬上の人物が、不意に私のいる方角へ頭を振った――気がした。
その瞬間、イーリスが嘘でしょと慄いて私へと勢いよく振り返る。その表情は真剣そのもの。ただし明らかに焦りを含んで、事態が切迫したものであることを私に如実に伝えていた。
「ミリアム! レナートのいる場所は分かるわね?」
「はい」
右手の修練場を一瞥して、私は小さく頷く。
「今すぐ走って!」
「えっ?」
早く、とイーリスの鋭い声が重ねて飛び、私はわけが分からないながらも木陰から飛び出した。その途端、馬首がはっきり私の方へと向けられる。
見つけた――そんな幻聴が聞こえた気がして、私は恐怖に駆られて必死に足を動かした。
けれど、ただでさえ運動と言う運動をしていない上、走るのに全く適していない服装。おまけに、突然のことで緊張と恐怖に駆られた私の足はいつも以上に思う通りに動いてくれず、気を抜けば縺れて転んでしまいそうだった。
加えて不運なことに、レナートのいる区画は私達がいた木陰の対角線上、最も遠くに位置する。正面の区画にいたラーシュが、走る私にいち早く気付いて飛び出してくれたけれど、その時にはもう、力強く駆ける馬は私の間近に迫っていて。
とにかく逃げなければ。その一心で、私の足はラーシュを目指す。けれどその時、私の足が小さな小石に躓いた。
傾く視界。投げ出される体。咄嗟に見たのは、迫る馬体。逞しい四肢。
(あ……)
馬に撥ねられる。
そう思った時には、私は目を瞑っていて。
「――掬い上げな!!」
誰かの鋭い声が聞こえたかと思ったら、予想だにしない浮遊感が私を襲っていた。驚いて見開いた目に映ったのは、私を見上げて唖然とするラーシュと、その前で高々と首を伸び上がらせている馬、そして私に向かって両手を広げる馬上の人。
すかさず落下点に馬が滑り込み、私はまるで飛び込むように、広げられた腕の中へと落ちていた。
衝撃に再び目を瞑った私を、逞しい腕が強く抱き留める。
このまま攫われてしまうのか。そんな最悪が脳裏を過り、たちまち恐怖が全身を支配する。身が竦み、勝手に震えて、瞑った目が開けられない。
けれど、そんな私を待っていたのは、優しく背を撫でる手だった。
私の体を軽々と抱え直したかと思ったら、いまだ恐怖で目を開けられない私を宥めるように、温かな手が背を往復する。その手つきは、寸前まで猛々しく馬を駆っていたとは思えないほど優しいもので、わずかに私の恐怖が薄れた。
「……やれやれ。ちょいと怖い思いをさせてしまったね。怪我はないかい、私の愛しい娘」
次いで聞こえてきたのは、女性にしてはやや低く、芯のある強い声。それでも、笑みの気配を含んで柔らかに響くその声音に押されるように、私は恐る恐る瞼を押し上げた。
そうして最初に視界に飛び込んできたのは、紅だった。薔薇を思わせる明るく鮮やかな色彩が豊かに波打ち、風に靡いて、目を見開いた私の視界を一瞬埋め尽くす。
「え……」
呆然としながら顔を上げれば、私を見下ろす深碧色の切れ長の瞳と目が合った。
「ああ、大丈夫そうだ。よくやったね、スーリャ」
嬉しそうに目を細めたその人は、私の頬を一撫でして満足そうに笑うと、馬の首をぽんと叩く。そうすれば馬は自慢げに首を上げ、尾を高々と振ったのが分かった。
先ほどまでの猛烈な勢いはどこへやら、一転して穏やかなやり取りに放心しつつ、私はその人の顔から目が離せないでいた。
ライサとはまた違う、異国を思わせるはっきりとした肌の色。彫りが深く目鼻立ちのくっきりとした、私のよく知る誰かを彷彿とさせる顔。違いと言えばその性別と、年齢か。目尻に、生きた歳月の長さを感じさせる小皺が薄く見えて、その人が私よりも随分と年上であるのだとそっと私に教えていた。
再び私を見下ろすその人と目が合って、優しく微笑まれる。
「ようやく会えたね、ミリアム。……私の愛しい娘」
とても大切な宝物をその手で大事に包み込むかのように私の頬を両手で掬い、その人の顔が迫る。そうしてふっと陰った視界と共に、幼い頃母がよくそうしてくれたように、頭に軽い口付けが落とされた。
ただただ目を瞠るしかできない私をその人が愛おしそうに見つめるのを、やはり私は呆然と見上げるしかできなくて。
何故私の名を知っているのだとか、あなたは誰だとか、どうして口付けるのだとか、そもそもどうして今私は馬上にいるのだとか、疑問ばかりが頭を巡って、まるで状況が飲み込めない。
そうして混乱のただ中にいる私をその人がもう一度腕の中に閉じ込めた時、騒めきが満ちる修練場から慌ただしい足音が複数駆けて来た。その音に私が我に返ると同時、聞き知った声が怒気を伴って飛ぶ。
「何をやっているんだ、アレックス!」
途端に私の目の前の顔が形のいい眉を吊り上げ、ふんと鼻を鳴らした。
「何をやっているだって? それが、数か月振りに会った母親に対して最初に言う言葉かい、レナート!」
「城門警備を振り切って城に侵入する馬鹿に、それ以外に言う言葉があるか!」
馬上と地上、殆ど同じ顔をした二人が睨み合う光景と、互いの口から吐き出された言葉が、私に今日一番の驚きを与える。
そっくりな顔の二人。そして、互いを指し示す言葉。
私を腕に抱き締めるこの人の名を、私はまだ聞いていない。けれど、最早聞く必要がないくらいに答えは明確に示されていて、私の口がぽかんと開く。
アレックス――アレクシア・ヴィシュヴァ・フェルディーン。
以前、彼の母の名だとレナートに教えてもらった名が不思議なほどすんなりと思い出され、その唐突な出会いに、私は束の間呼吸を忘れて彼女に見入った。
レナートはアレックス様似だから、とのテレシアの言葉が脳裏を過る。けれど、「似」と言うには二人はあまりにそっくりで、きっと誰が見たって血の繋がりは明らかだろう。
初めてアレクシアの話を聞いた時、その姿として髪の長いレナートの姿を想像したことがあったけれど、あの時の私はどうやら間違っていなかったらしい。想像と違ったのは髪と瞳の色と、口元にある象徴的な黒子だけ。
ただ同時に、私はアレクシアの姿に聞き覚えがあるような気がして、小さな疑問符が脳内に浮かんだ。レナートに似ていると言うこと以外で、アレクシアの身体的特徴は聞いていない筈なのに、アレクシアの姿を知っているような気がするのだ。
そうして私が一人不思議に思う間にも、久々に再会した親子の言い合いは剣呑な空気を伴って続く。
「あいつらが城門でちんたらやるから、ちょいと待ち切れなくなっただけじゃないか。それを馬鹿呼ばわりとは、随分だね」
「その『ちょっと』で騒ぎを起こす奴を指して馬鹿と言うんだが、知らないのか?」
「知らないねぇ。大体、この私の顔を知らない奴なんていないだろうに、さっさと通さない方が馬鹿だろう!」
「一般人が、何の証明も見せずに城に入れるわけがないだろうが。いつまで騎士気取りでいるんだ、あんたは。少しは他人の迷惑も考えろ!」
珍しく口調が荒れているレナートを、私が目を丸くして馬上から見下ろしたところで、レナートの隣から黒い影が割り込んで来た。キリアンだ。隣には、私に心配そうな顔を向けるエイナーもいた。
キリアンはレナートを制すると、アレクシアの髪よりも深く濃い紅の瞳を真っ直ぐに馬上へ向ける。その瞳に若干呆れの色が見えるのは、きっと私の気の所為ではないのだろう。
「あなたは相変わらず騒々しいな、アレクシア」
「……これはこれは、キリアン殿下。エイナー殿下も。お久しゅうございます。生憎両手が塞がっておりますので、馬上から挨拶することの不敬をお許しいただきたい」
これ見よがしに私を抱き締めて、アレクシアが欠片も不敬と思っていない様子で詫びる。そのあまりに不遜なアレクシアの態度に私は顔を青くするけれど、言われた側は無反応で、こちらを見上げたままだった。
レナートだけがそれとなく私に視線を送ってくれたけれど、そこには、気にすることはないし、咎めたところでどうせ聞きやしない、と言う諦念がありありと浮かんで、私の顔が微かに引き攣る。
「あなたの不敬など、今に始まったことではないだろう。……それで? あなたとの面会は三日後だと記憶しているが、この突然の来城はどう言うことだ?」
レナートの視線が告げた通り、アレクシアの態度を殊更咎めることのなかったキリアンは、それでもせめてとばかりに瞳には非難を込めて鋭く相手を射る。先程、わざわざ「アレクシア」と呼び掛けたのも、恐らくはわざとなのだろう。
そうしておきながら、どうやらアレクシアがやって来た理由には心当たりがあるのか、言葉と表情こそ険しいものの、纏う雰囲気には面倒臭さが滲んでいた。どちらかと言えば、早く会話を終わらせて厄介払いをしてしまいたい、と言う気配が強く漂っている。
私がそう感じてしまうのは、キリアンの後ろで渋面を崩さないレナートと、エイナーの隣で何とも言えない表情を浮かべて黙する騎士団長の存在がある所為だろうか。
とは言え、アレクシアの登場に当初は驚いていた騎士や兵士も、驚きが過ぎればその殆どが「またか」と言いたげな表情をしており、いまだ驚きの中にいるのは年若い新兵達くらい。その姿を見れば、これがアレクシアによって引き起こされる「よくあること」なのだと言うことが、アレクシアと初対面の私にもよく分かった。
流石は、テレシア五人分。恐るべし。
「いやなに、私の愛しい娘に手を出した愚か者が出たと、親切なお方が私に手紙をくださいましてね。これは今すぐそいつの脳天をぶち割ってやらねばなるまいと、つい、スーリャに跨りやって来てしまった次第なのです、キリアン殿下」
アレクシアが私の頭を撫でながら、女性の口から出るとは思えない恐ろしい言葉をさらりと紡ぎ出す。けれど、アレクシアの言葉にぎょっとしたのは私だけで、目の前のキリアンを始め、息子のレナートも騎士団長も、ラーシュやエイナーさえも、一様に頭痛を堪えるような顔をしただけで、特段の反応を示すことはなかった。
キリアンだけは手紙の差出人に覚えがあるのか、誰よりはっきりと顔を顰め、聞き取れない声量で何事か呟いていたけれど、その程度だ。
「娘の無事な姿をこうして先に見られたことは、僥倖でした。これで思う存分、奴をぶちのめすことができそうです。……私の愛しい娘、お前の受けた屈辱は私が代わりにちゃあんと晴らしてやるから、安心おしよ」
表情だけはまさに慈母のごとき微笑みを浮かべているのに、その口からは再び物騒な言葉が飛び出して、私は思わず震え上がった。頭を撫で、頬を撫で、これ以上ないくらいに優しく抱擁されても、全く心が休まらない。安心どころか恐怖が徐々に降り積もるようで、心臓は激しく鼓動し、今にも口から何かが飛び出そうだ。
加えて、先ほどから何度もアレクシアが口にする「私の娘」と言う言葉。私はフェルディーン家に保護されるのであって、養女になるわけではない筈だ。けれど、アレクシアの口振りからはすっかり私を養女にする気でいるように思えて仕方がない。まさか、私の知らない間にそんな話が進められているのではと、一抹の不安まで過ってしまう。
アレクシアが乗り気でいるところを大変申し訳ないながら、私は保護されなければならない決まりの為にフェルディーン家に一時世話になるだけであって、その家の養女になるつもりはないのだ。これは今、大勢の証人もいるこの場で一言言っておかねば、私の将来が勝手に決定されてしまいそうな予感がする。
「あ……あの」
半ば強迫観念に駆られるようにして、私はなけなしの勇気を振り絞って声を上げた。
口にした瞬間、キリアンとの会話に割り込んでしまったことに気付いて別の意味で血の気が引きかけたけれど、出してしまった言葉は取り消せないし、アレクシアに聞かれてしまっては、もっとなかったことにはできない。
私は届かないと分かっていながら心の中だけでキリアンに謝罪しつつ、声を発した私を目を瞠って見下ろすアレクシアから、またしても視線を逸らすことができなかった。
「ああ、私の娘は何て愛らしい声だろうね。……この声を愚息が毎日私より先に聞いていたかと思うと今すぐあれの耳を捩じり切って……――ああ、いや、どうしたんだい?」
私の声を褒めた次の瞬間、耳元で低く呟かれた内容に、私の喉がひゅっと鳴る。
直前まで恍惚とした笑みだった筈が一瞬にして獲物を駆る肉食獣へ変貌し、それが再び慈母に戻る様を目にして、一気に冷や汗が吹き出した。
あたかも肉食獣が獲物を前に舌なめずりをする様を目にしたような恐怖に、私の口から咄嗟に「何でもありません」との言葉が出かかる。けれどそれを何とか寸前で止め、私はできるだけ声が震えないよう、腹に力を込めた。
視線を逸らしたら、その瞬間にアレクシアに食い殺されそうな状況で私が彼女から目を逸らせるわけがなく、当然、誰かに助けを求めるなんてこともできそうにない。むしろ、助けに入ろうとしてくれたが最後、その親切な人が返り討ちに遭うだろう。そんな犠牲は出してはいけない。つまりは、私が自力で何とかする以外に、この状況を脱する手立てはないのだ。
遥か遠い出来事のように思えるあの人攫い女と対峙した時が思い出され、私は死地に赴く戦士のような心持ちで、ぐっと顎を引いた。
「アレクシア――」
「アレックスとお呼び」
緊張のあまり、うっかりキリアンが彼女へと呼び掛けた名が口から出て、すかさずアレクシア本人に訂正されてしまう。
得も言われぬ圧を背負ったにこやかな笑みを目にした瞬間、私は自分の失敗を悟って早速勇気が萎みかけた。これまでレナートとの会話の中ではちゃんと「アレックス」と愛称を口にできていたのに、肝心な時に出て来ないだなんてどうしたことか。
それでも、私の口から悲鳴が出なかったのは、せめてもの幸いだろうか。そのことを萎みかけた勇気に足すように、私は気を取り直して口を開く。
「ア……アレックスさん。私は、フェルディーン家で保護される……のです、よね?」
私はできるだけ愛らしい子供に見えるよう精一杯の笑みを浮かべて、わずかに首を傾げながらアレクシアを見上げた。さながら山中で熊と遭遇してしまった気分で、どうにか相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「その、養女になる、と言うお話は……聞いていないのですけど……」
視界の端で誰かが「よく言った」と言う態度を見せている気がしたけれど、当然、そちらに視線を向ける余裕などない。私はじっとアレクシアだけを見上げて、彼女からの返答を、死刑宣告を待つかのような心地で待った。
そして寄越された返答は、私を混乱に陥れるものだった。
「何を言っているんだい、当たり前じゃないか。私だって、お前を養女にするつもりなんてないよ」
思わず耳を疑って、「え?」と間抜けな声が漏れる。
「でも、私のことを娘と……」
「それのどこがおかしい? この私が保護すると決めた瞬間から、お前は私の娘だろう?」
「えっ? そうなんですか?」
「そうだとも」
あまりに堂々と言い切られて、私の目が丸くなる。
つまり、保護した子供のことは養子縁組をするしないに拘わらず、そう呼ぶものだと言うことなのだろうか。男児であれば息子、女児であれば娘、と。そんな説明は、今までされたことはないけれど。
「そう……」
「――そんなことはない」
私がアレクシアの勢いにのまれて納得しかける寸前、私の声を遮って、疲れ切ったようなキリアンの声が響いた。とうとう耐え切れずに盛大なため息をその口から漏らしたキリアンと、アレクシアの視線が再び交わる。
「アレクシア。あなたがミリアムのことをどう呼ぼうとそれは勝手だが、呼ばれる本人が戸惑っているのをいいことに丸め込もうとするのは、保護者としては褒められたものではないぞ? ……いいのか、アレクシア?」
牽制するように殊更名前に強く力を込めたキリアンの、瞳の奥に何やら剣呑な光がちらついて、アレクシアが私を抱く腕に力を込めたのが分かった。二人の間で、声なき言葉が交わされる。
ややあって最初に動きを見せたのは、馬上のアレクシアの方だ。王族相手に隠すことなく心底忌々しげに舌を打つと、不承不承ながらキリアンの言葉の正しさを認める。
「……ミリアム。私がお前を娘と呼ぶのは、私のお前への愛情表現の一つだ。実の娘のように大切に思っている、と言う。だから、もしもお前が嫌でなければ、これからも愛しい娘と呼ばせてはくれないかい?」
私の頬を両手で掬い上げて間近から見つめるその瞳には、私を真っ先に保護すると申し出てくれたアレクシアの、私への確かな情が見て取れた。
そのことは、素直に嬉しく思う。アレクシアからの愛情表現として「娘」と呼ばれることも、決して嫌ではない。
嫌ではないけれど――できれば今はまだ、その言葉は私の母一人だけのものでありたい。
「……ありがとうございます、アレックスさん。私のことをそれだけ思ってくださるのは、とても嬉しく思います」
感謝を伝えようと笑顔を作ろうとして、それが少しだけ失敗してしまったことが、アレクシアのわずかに下がった眉で分かった。
アレクシアからの好意を、無下にしてしまっただろうか。
「アレ――」
不安を感じて呼びかけた私の声は、けれど直後にアレクシアに抱き締められたことで途切れた。
「ああ。やっぱり、お前はエステルの娘だね。安心したよ」
微かに寂しさを感じる響きを伴ったそれは、私の耳元で、私だけに聞こえるようにそっと囁かれた一言。言葉の通り、安堵もしていると示すように鼻から抜けるような笑い声が続いて、もう一度、今度は私の蟀谷に口付けを落としてアレクシアの腕が離れる。
そうして、アレクシアが私へ向かって小さな頷きを寄越した。
大丈夫。お前の思いは伝わっているよ。
アレクシアのそんな声が聞こえて、私はほっと肩の力を抜く。
髪を梳るように頭を撫でるアレクシアの手つきの優しさにくすぐったく目を細めれば、私とアレクシアのやり取りを固唾をのんで見守っていた周囲にも、これにて騒動は幕引きかとどこか弛緩した空気が漂い始める。私も、思いがけない対面の時間はこれで終わりかと、少しばかり名残惜しく感じていた。
けれど、流石はアレクシア。私が大嵐と形容するこの人物が、そう易々とこの場を去るわけがなかったのだ。そしてそれを薄々感じていたのは、アレクシアのことを最もよく知る、レナートを始めとする少数の面々。彼らは、緩んでいく周囲の空気に反して、静かに緊張を高めていた。
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