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第三章 王城での一月
深更の密やかな談笑
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「忘れるところだったわ」
そう言ってイーリスからレナートの手へそれが乗せられたのは、改めて今日のこととこれからのこと、そしてランデール地方の視察でのことを粗方共有し終えた頃のことだった。
差し出したレナートの手の中に納まったのは、ミリアムが肌身離さず付けている筈の、リーテの雫の入った小瓶。そこにある筈のないものに、レナートは目を見開いた。
「どうして……」
反射的にミリアムへと顔を向けたレナートに対して、イーリスがやっぱり、と呟く。
「気付いていなかったのね。部屋の片付けで、テレシアが小箱を確かめた時に見つけたそうよ」
鏡台の鏡や花瓶が割られ、部屋中にその破片が散らばってしまったミリアムの部屋は今、全てが片付けられて空き部屋になっている。ミリアムが寝かせられているここは、その部屋の隣、扉一枚で繋がっているレナートの滞在する部屋だ。
既にミリアムの新たな部屋の手配は済んでいるが、いまだ目覚めない彼女の状態を考慮して部屋を移動するのは明日に回された。
テレシアは、そんな新たな部屋の準備の際、ミリアムの私物の管理を任されていたのだ。
当然ながら、レナートは倒れたミリアムの着替えには関わっていない。加えて、ミリアムがリーテの雫を肌身離さず身に付けていることを知る者は、キリアンにごく近しい者達だけ。ミリアムが首から何も下げていないことを不思議に思う者は誰もおらず、その頃には半ば放心状態であったレナートには、リーテの雫の有無にまで回る頭もなかった。
結果、ようやく今になって、レナートに渡されたと言うことのようだ。
「いつから外していたのかは分からないけど、ミリアムがまじないの影響を強く受けてしまったのは、これも一因かもしれないわね」
イーリスの言う通り、女神の加護が聖域の民のまじないに劣る筈がない。そのことを考えれば、ミリアムがリーテの雫を身に付けてさえいれば、あの騒動は起こらなかった可能性は十分にある。そして、仮に影響を受けたとしてもその程度は小さく、また、まじないの影響下から早く脱することだってできただろう。
現に、ミリアムが一向に目を覚ます気配がないのは、一つには、今もってまじないの影響下に強くあるからだ。
一度は目を覚ましてもらわなければ、リリエラから渡された薬も飲ませてやれない。その為、何よりも今望まれるのはミリアムの目覚めだと言うのに。
「どうやったらこんな大事なものを、今の今まで渡し忘れられるんだ、お前」
ミリアムの冷え切った手に手早く小瓶を握らせ、早く目が覚めるようにと祈ってから、レナートはイーリスを軽く睨む。
だが、睨まれた側のイーリスは、いたって平然としていた。
「仕方ないでしょう? レナートがまじないに当てられていない確証が得られない内に、渡せるようなものじゃないんだもの」
「お前! ……俺を疑っていたのかっ?」
思わず大きくなりかけた声に慌てて小声でイーリスに詰め寄るも、イーリスの揺るがない強い眼差しに射られては、レナートもそれ以上何も言えなかった。
なんせレナート自身、少し前に自分自身でその可能性を頭に過らせたのだ。自分ではそんなことはなかったと思ってはいるが、自分でもらしくなく落ち込んだ自覚だけは確かにある。それをまじないの影響ではないのかと言われれば、残念ながら強く否定はできない。
「あなたの様子があまりに普段と違い過ぎたんだもの。疑って当然でしょう」
「……つまり。今は、すっかり疑いは晴れたわけだな」
これ以上イーリスに下手なことを言って墓穴を掘ることにならないよう、レナートは小瓶を手渡されたことを、敢えて前向きに受け取ることにした。
「そうね」
イーリスから注がれる視線はレナートの誤魔化しを見透かしているようだったが、彼女はそのことを追及することなく、話題を別へと移していく。
「それにしても、リリエラ殿も困った方よね。まさか、あの方のリーテ嫌いがここまでとは思わなかったわ」
「俺達は、話でしか知らないからな」
リリエラのリーテ嫌いは有名だが、その嫌悪の度合いが実際にどの程度なのかを知る者は、多くない。言わずもがな、ミリアムの母であり先代の泉の乙女であるエステルが、この国を出て二十五年も経っているからだ。
この二十五年の間、リリエラのリーテに対する反応はと言えば、祈願祭の頃に国からいなくなることくらいで、実に大人しいものだった。アレクシアから当時の話を聞かされていたレナートですら、そんなリリエラの姿しか見ていないものだから、アレクシアの性格からして大袈裟に話を盛っているのだろうと思っていたくらいだ。
まさか、その話が誇張なしの事実だったとレナートが認識したのは、ミリアムに馬乗りになるリリエラの姿を目にした時。エステルも、リリエラとの初対面時にその場で押し倒され、即座にアレクシアがリリエラを蹴り飛ばしたと言っていたのだ。
あの時レナートは、瞬間的に湧き上がった怒りのままにリリエラを引っ掴みミリアムを救い出せたが、もしレナートが三階にいなければミリアムはどうなっていたかと思うと、別の意味でぞっとする。
「あの方のことだから、ミリアムを裸に剥くくらいはやってのけそうよね」
「……ああ。リリエラ殿ならやりかねない」
想像をして、レナートは顔を青くした。
そう。本当に、リリエラならばやりかねないのだ。根拠となる前例も、勿論ある。
アレクシアの話によれば、エステルは王太子婚約者時代に城内を散策中、背後から襲われて服に手を掛けられたことがあるのだそうだ。「傷物にしてくれる!」とかなんとか叫ぶリリエラによって。
この時も、アレクシアがすぐさまリリエラを彼方に投げ飛ばした為に、事なきを得たと言うことだったが。
ちなみに、この時の痕跡が、実は今もリリエラの居住する東塔の壁に残っている。投げ飛ばされたリリエラが頭を突っ込ませたと言う、穴の跡が。
今の今まで作り話だと思っていたこれらの話が、今回のことで全て真実であることが証明されてしまったことは、レナートには大きな衝撃だ。できれば、知りたくなかった真実でもある。
「アレックス様の強さの象徴だったのね、あれ」
「感心するなよ。どこからリリエラ殿をぶん投げたか知らないが、塔は城の敷地の東端なんだぞ? そこに頭がめり込むほどなんて、強さ云々の次元じゃないだろうが」
レナート自身、幼い頃から、アレクシアは女だてらに随分と力がある人だと思ってはいた。だが、彼女の系図に聖域の民はいないと聞いている。それなのにこの人間離れした怪力とは、我が母ながら実に恐ろしいことだ。
レナートにアレクシア譲りの剣の才があることには感謝の気持ちはあるものの、彼女の怪力だけは遺伝しなくて、本当によかったと思う。
「アレックス様なら、きっと何だってやってしまえるわよ。ああ……なんて素敵な方のかしら」
渋い表情を浮かべて語るレナートに対し、イーリスは態度こそ控えめではあるものの、その瞳は嫌でも輝いて、アレクシアへの憧れを隠しもしない。
その珍しいイーリスの様子に、レナートは驚きからわずかに目を瞠った。
普段からイーリスは、特にレナートの前ではアレクシアに関する話題は意図的に避けているのだ。彼女がアレクシアへ強い憧れを抱いていると分かる言動を、息子であるレナートにはあまり見られたくないと言う理由で。それなのに、今日は上等な葡萄酒のお陰か、避けるどころか積極的に話題に触れている。
果たして今、イーリスはそれを自覚しているだろうか。
心なしか上機嫌にも見えるイーリスの表情を横目に見て、レナートは密かにため息を零した。恐らくは、視察の疲労が普段は酒に強いイーリスにも影響を与えているのだろうと見当をつけたものの、ここでそれをあえて指摘をするほど、レナートも馬鹿ではない。
「勘弁してくれ……」
指摘する代わりにレナートが大きく嘆いたところで、イーリスがグラスを傾けながら、存外に酔いを見せない態度でレナートの胸元を指差した。
「そう言えば、あなたが近くにいたのは、やっぱりティーティスのお陰なの?」
「……どうだろうな」
レナートは曖昧に答えつつ、首元を弄ってその指に細い革紐を引っ掛けて引っ張り出した。先端にぶら下がるものが、ランプの明かりに照らされて鮮やかな発色を見せる。
手の平に収まる大きさの、瑠璃色の羽根。
これは祈願祭の夜、ティーティスが自ら羽根を抜き取り手渡す夢を見たレナートが、翌朝枕元で見つけたものだ。夢で見たのと寸分違わぬその羽根に、レナートはすぐに、女神リーテがミリアムの口を借りて直々にレナートへと告げた「芽吹きの勝者への祝福」を思い出した。
恐らく、これがその形なのだと。
女神は、一体どんな祝福をレナートに授けてくれたのか。その日からお守りとして肌身離さず身に付けるようにしているのだが、今のところ、これと言ってレナートに特別な幸運が舞い込んでくるようなことは起こっていない。
ただ最近、図書館で頃合いを見計らってミリアムの様子を窺いに行くと、どうやら彼女にとっては実に都合のいい時に自分が現れているらしいと言うことが、続いてはいる。
だが、これをティーティスの羽根の効果と言っていいものかは、大変に悩ましい。ティーティスほどの稀有な存在がもたらす幸運にしては、あまりに小さいものなのだから。しかも、どちらかと言うとミリアムへ幸運が訪れている。
ちなみに今回は、遠雷に気付いた為に一旦部屋へ引き上げようとミリアムを呼びに行ったところ、彼女の方もちょうど引き上げようとしていたところだった。
つまりはその程度の偶然で、ティーティスの羽根は無関係だろう。
そしてあの時、ティーティスの羽根が、特別レナートにリリエラの存在を知らせることもなければ、ミリアムが床に押し倒されることになると言う未来を知らせることもなかった。本当に、たまたま運がよかっただけなのだ。
その時のことを改めて思い出して、レナートはわずかに顔を顰めた。
「どうかしたの?」
「……そう言えば、聞こえなかったなと思ってな」
要領を得ないレナートの一言に、イーリスが首を傾げる。
「ミリアムのような力の弱い人間が突然襲われたら、大抵の場合、悲鳴を上げるものじゃないか?」
恐怖や驚きが過ぎて声が出なくなることもあるだろうが、反射的に上げる声があっても何ら不思議ではない。特にミリアムは、直前に三階へやって来たレナートの姿をその目にしているのだ。危機を知らせようと大声を上げるなり、何らかの行動があってもよさそうなものだ。だがあの時、レナートがミリアムの元へ駆け付けるまで、そこから聞こえてきたのはリリエラの苛立たしげな声だけ。
言い訳に聞こえるかもしれないが、だからレナートは、まさかミリアムがあんな状況に置かれているとは予想もしなかったのだ。
「……恐らく、だけど。ミリアムには、恐怖のままに叫ぶことや、助けを求めて叫ぶなんて発想が、なかったんじゃないかしら」
そんなことをすれば容赦のない折檻が待っていたリンドナー家での暮らしが、いつしかミリアムに声を上げることを忘れさせたのだ。彼女が、喜びを感じる以外で涙を流すことができなくなったのと同じように。
紡がれる音こそ平常を装ってはいたが、イーリスの瞳の奥には明確な怒りが燃えて、その拳は怒りを耐えるように握り込まれていた。レナートも、あの時、腕の中でただ震えるばかりだったミリアムを思い出して、無意識に拳に力が入る。
「エルマン・リンドナーとか言う男は、本当にろくでもない奴だな」
実の父親でありながら、どうしてそこまで徹底的にミリアムに対して非道な行いができたのか、レナートにはどれだけ考えても理解ができなかった。いくら、ミリアムがエルマンに似たところが一つもなかったからと言っても、あまりに常軌を逸している。
もしも、これもまたミリアムがその身に受けた呪いが関係しているのだとしたら。その所為で、ミリアムが何もかもを理不尽に奪われたのだとしたら。呪いをかけた相手を、レナートは決して許せそうになかった。
「いいじゃない。これから私達がミリアムに教えてあげれば」
「そう、だな」
人を信じることも、頼ることも、甘えることも。父親に奪われたものも、この先与えられる筈だったものも。その全てを、代わりにレナート達がミリアムに与えてあげればいい。そうしてミリアムが人生を楽しめるようになったなら、それはレナート達にとっての何よりの幸せだ。
そっと口元に笑みを刷くイーリスと顔を見合わせ、同時にミリアムへと視線を向ける。
ミリアムは相変わらず目覚める気配のないままベッドに横たわっているが、それでも心なしか顔色が戻り始めているように感じたのは、リーテの加護のお陰か、今のレナートの心の持ちようがそう見せるのか。
少し前のレナートからは想像できないほど穏やかな気持ちでその寝顔を見つめて、レナートは表情を和らげた。
「……やれやれ。教えることは山ほどありそうだ」
「あら。教え甲斐があっていいじゃない、『お兄様』」
レナートの世話焼き気質を指して言われるその言葉に、一瞬、レナートは隣へ向けて半眼を寄越した。
城内で、「レナートに今度は妹ができた」と言われていることは、知っている。そのことについては、これまで散々「弟」のことで弄られてきているので、今更気にすることでもない。だが、恐らくイーリスの言葉には、別の意味が込められている。
「楽しんでるだろ、お前」
「当然でしょう?」
悪びれることなく堂々と言い切る相棒に、レナートの大きなため息が重なる。だがその一拍後、ミリアムが倒れて以降、ようやく初めてレナートはその口端をはっきり持ち上げていた。
そこに浮かんだのは、からかいを甘んじて受け入れ、いっそ自分も楽しんでしまおう――そんな、仄かに苦みの走るものではあったが、優しく穏やかな笑みだった。
そう言ってイーリスからレナートの手へそれが乗せられたのは、改めて今日のこととこれからのこと、そしてランデール地方の視察でのことを粗方共有し終えた頃のことだった。
差し出したレナートの手の中に納まったのは、ミリアムが肌身離さず付けている筈の、リーテの雫の入った小瓶。そこにある筈のないものに、レナートは目を見開いた。
「どうして……」
反射的にミリアムへと顔を向けたレナートに対して、イーリスがやっぱり、と呟く。
「気付いていなかったのね。部屋の片付けで、テレシアが小箱を確かめた時に見つけたそうよ」
鏡台の鏡や花瓶が割られ、部屋中にその破片が散らばってしまったミリアムの部屋は今、全てが片付けられて空き部屋になっている。ミリアムが寝かせられているここは、その部屋の隣、扉一枚で繋がっているレナートの滞在する部屋だ。
既にミリアムの新たな部屋の手配は済んでいるが、いまだ目覚めない彼女の状態を考慮して部屋を移動するのは明日に回された。
テレシアは、そんな新たな部屋の準備の際、ミリアムの私物の管理を任されていたのだ。
当然ながら、レナートは倒れたミリアムの着替えには関わっていない。加えて、ミリアムがリーテの雫を肌身離さず身に付けていることを知る者は、キリアンにごく近しい者達だけ。ミリアムが首から何も下げていないことを不思議に思う者は誰もおらず、その頃には半ば放心状態であったレナートには、リーテの雫の有無にまで回る頭もなかった。
結果、ようやく今になって、レナートに渡されたと言うことのようだ。
「いつから外していたのかは分からないけど、ミリアムがまじないの影響を強く受けてしまったのは、これも一因かもしれないわね」
イーリスの言う通り、女神の加護が聖域の民のまじないに劣る筈がない。そのことを考えれば、ミリアムがリーテの雫を身に付けてさえいれば、あの騒動は起こらなかった可能性は十分にある。そして、仮に影響を受けたとしてもその程度は小さく、また、まじないの影響下から早く脱することだってできただろう。
現に、ミリアムが一向に目を覚ます気配がないのは、一つには、今もってまじないの影響下に強くあるからだ。
一度は目を覚ましてもらわなければ、リリエラから渡された薬も飲ませてやれない。その為、何よりも今望まれるのはミリアムの目覚めだと言うのに。
「どうやったらこんな大事なものを、今の今まで渡し忘れられるんだ、お前」
ミリアムの冷え切った手に手早く小瓶を握らせ、早く目が覚めるようにと祈ってから、レナートはイーリスを軽く睨む。
だが、睨まれた側のイーリスは、いたって平然としていた。
「仕方ないでしょう? レナートがまじないに当てられていない確証が得られない内に、渡せるようなものじゃないんだもの」
「お前! ……俺を疑っていたのかっ?」
思わず大きくなりかけた声に慌てて小声でイーリスに詰め寄るも、イーリスの揺るがない強い眼差しに射られては、レナートもそれ以上何も言えなかった。
なんせレナート自身、少し前に自分自身でその可能性を頭に過らせたのだ。自分ではそんなことはなかったと思ってはいるが、自分でもらしくなく落ち込んだ自覚だけは確かにある。それをまじないの影響ではないのかと言われれば、残念ながら強く否定はできない。
「あなたの様子があまりに普段と違い過ぎたんだもの。疑って当然でしょう」
「……つまり。今は、すっかり疑いは晴れたわけだな」
これ以上イーリスに下手なことを言って墓穴を掘ることにならないよう、レナートは小瓶を手渡されたことを、敢えて前向きに受け取ることにした。
「そうね」
イーリスから注がれる視線はレナートの誤魔化しを見透かしているようだったが、彼女はそのことを追及することなく、話題を別へと移していく。
「それにしても、リリエラ殿も困った方よね。まさか、あの方のリーテ嫌いがここまでとは思わなかったわ」
「俺達は、話でしか知らないからな」
リリエラのリーテ嫌いは有名だが、その嫌悪の度合いが実際にどの程度なのかを知る者は、多くない。言わずもがな、ミリアムの母であり先代の泉の乙女であるエステルが、この国を出て二十五年も経っているからだ。
この二十五年の間、リリエラのリーテに対する反応はと言えば、祈願祭の頃に国からいなくなることくらいで、実に大人しいものだった。アレクシアから当時の話を聞かされていたレナートですら、そんなリリエラの姿しか見ていないものだから、アレクシアの性格からして大袈裟に話を盛っているのだろうと思っていたくらいだ。
まさか、その話が誇張なしの事実だったとレナートが認識したのは、ミリアムに馬乗りになるリリエラの姿を目にした時。エステルも、リリエラとの初対面時にその場で押し倒され、即座にアレクシアがリリエラを蹴り飛ばしたと言っていたのだ。
あの時レナートは、瞬間的に湧き上がった怒りのままにリリエラを引っ掴みミリアムを救い出せたが、もしレナートが三階にいなければミリアムはどうなっていたかと思うと、別の意味でぞっとする。
「あの方のことだから、ミリアムを裸に剥くくらいはやってのけそうよね」
「……ああ。リリエラ殿ならやりかねない」
想像をして、レナートは顔を青くした。
そう。本当に、リリエラならばやりかねないのだ。根拠となる前例も、勿論ある。
アレクシアの話によれば、エステルは王太子婚約者時代に城内を散策中、背後から襲われて服に手を掛けられたことがあるのだそうだ。「傷物にしてくれる!」とかなんとか叫ぶリリエラによって。
この時も、アレクシアがすぐさまリリエラを彼方に投げ飛ばした為に、事なきを得たと言うことだったが。
ちなみに、この時の痕跡が、実は今もリリエラの居住する東塔の壁に残っている。投げ飛ばされたリリエラが頭を突っ込ませたと言う、穴の跡が。
今の今まで作り話だと思っていたこれらの話が、今回のことで全て真実であることが証明されてしまったことは、レナートには大きな衝撃だ。できれば、知りたくなかった真実でもある。
「アレックス様の強さの象徴だったのね、あれ」
「感心するなよ。どこからリリエラ殿をぶん投げたか知らないが、塔は城の敷地の東端なんだぞ? そこに頭がめり込むほどなんて、強さ云々の次元じゃないだろうが」
レナート自身、幼い頃から、アレクシアは女だてらに随分と力がある人だと思ってはいた。だが、彼女の系図に聖域の民はいないと聞いている。それなのにこの人間離れした怪力とは、我が母ながら実に恐ろしいことだ。
レナートにアレクシア譲りの剣の才があることには感謝の気持ちはあるものの、彼女の怪力だけは遺伝しなくて、本当によかったと思う。
「アレックス様なら、きっと何だってやってしまえるわよ。ああ……なんて素敵な方のかしら」
渋い表情を浮かべて語るレナートに対し、イーリスは態度こそ控えめではあるものの、その瞳は嫌でも輝いて、アレクシアへの憧れを隠しもしない。
その珍しいイーリスの様子に、レナートは驚きからわずかに目を瞠った。
普段からイーリスは、特にレナートの前ではアレクシアに関する話題は意図的に避けているのだ。彼女がアレクシアへ強い憧れを抱いていると分かる言動を、息子であるレナートにはあまり見られたくないと言う理由で。それなのに、今日は上等な葡萄酒のお陰か、避けるどころか積極的に話題に触れている。
果たして今、イーリスはそれを自覚しているだろうか。
心なしか上機嫌にも見えるイーリスの表情を横目に見て、レナートは密かにため息を零した。恐らくは、視察の疲労が普段は酒に強いイーリスにも影響を与えているのだろうと見当をつけたものの、ここでそれをあえて指摘をするほど、レナートも馬鹿ではない。
「勘弁してくれ……」
指摘する代わりにレナートが大きく嘆いたところで、イーリスがグラスを傾けながら、存外に酔いを見せない態度でレナートの胸元を指差した。
「そう言えば、あなたが近くにいたのは、やっぱりティーティスのお陰なの?」
「……どうだろうな」
レナートは曖昧に答えつつ、首元を弄ってその指に細い革紐を引っ掛けて引っ張り出した。先端にぶら下がるものが、ランプの明かりに照らされて鮮やかな発色を見せる。
手の平に収まる大きさの、瑠璃色の羽根。
これは祈願祭の夜、ティーティスが自ら羽根を抜き取り手渡す夢を見たレナートが、翌朝枕元で見つけたものだ。夢で見たのと寸分違わぬその羽根に、レナートはすぐに、女神リーテがミリアムの口を借りて直々にレナートへと告げた「芽吹きの勝者への祝福」を思い出した。
恐らく、これがその形なのだと。
女神は、一体どんな祝福をレナートに授けてくれたのか。その日からお守りとして肌身離さず身に付けるようにしているのだが、今のところ、これと言ってレナートに特別な幸運が舞い込んでくるようなことは起こっていない。
ただ最近、図書館で頃合いを見計らってミリアムの様子を窺いに行くと、どうやら彼女にとっては実に都合のいい時に自分が現れているらしいと言うことが、続いてはいる。
だが、これをティーティスの羽根の効果と言っていいものかは、大変に悩ましい。ティーティスほどの稀有な存在がもたらす幸運にしては、あまりに小さいものなのだから。しかも、どちらかと言うとミリアムへ幸運が訪れている。
ちなみに今回は、遠雷に気付いた為に一旦部屋へ引き上げようとミリアムを呼びに行ったところ、彼女の方もちょうど引き上げようとしていたところだった。
つまりはその程度の偶然で、ティーティスの羽根は無関係だろう。
そしてあの時、ティーティスの羽根が、特別レナートにリリエラの存在を知らせることもなければ、ミリアムが床に押し倒されることになると言う未来を知らせることもなかった。本当に、たまたま運がよかっただけなのだ。
その時のことを改めて思い出して、レナートはわずかに顔を顰めた。
「どうかしたの?」
「……そう言えば、聞こえなかったなと思ってな」
要領を得ないレナートの一言に、イーリスが首を傾げる。
「ミリアムのような力の弱い人間が突然襲われたら、大抵の場合、悲鳴を上げるものじゃないか?」
恐怖や驚きが過ぎて声が出なくなることもあるだろうが、反射的に上げる声があっても何ら不思議ではない。特にミリアムは、直前に三階へやって来たレナートの姿をその目にしているのだ。危機を知らせようと大声を上げるなり、何らかの行動があってもよさそうなものだ。だがあの時、レナートがミリアムの元へ駆け付けるまで、そこから聞こえてきたのはリリエラの苛立たしげな声だけ。
言い訳に聞こえるかもしれないが、だからレナートは、まさかミリアムがあんな状況に置かれているとは予想もしなかったのだ。
「……恐らく、だけど。ミリアムには、恐怖のままに叫ぶことや、助けを求めて叫ぶなんて発想が、なかったんじゃないかしら」
そんなことをすれば容赦のない折檻が待っていたリンドナー家での暮らしが、いつしかミリアムに声を上げることを忘れさせたのだ。彼女が、喜びを感じる以外で涙を流すことができなくなったのと同じように。
紡がれる音こそ平常を装ってはいたが、イーリスの瞳の奥には明確な怒りが燃えて、その拳は怒りを耐えるように握り込まれていた。レナートも、あの時、腕の中でただ震えるばかりだったミリアムを思い出して、無意識に拳に力が入る。
「エルマン・リンドナーとか言う男は、本当にろくでもない奴だな」
実の父親でありながら、どうしてそこまで徹底的にミリアムに対して非道な行いができたのか、レナートにはどれだけ考えても理解ができなかった。いくら、ミリアムがエルマンに似たところが一つもなかったからと言っても、あまりに常軌を逸している。
もしも、これもまたミリアムがその身に受けた呪いが関係しているのだとしたら。その所為で、ミリアムが何もかもを理不尽に奪われたのだとしたら。呪いをかけた相手を、レナートは決して許せそうになかった。
「いいじゃない。これから私達がミリアムに教えてあげれば」
「そう、だな」
人を信じることも、頼ることも、甘えることも。父親に奪われたものも、この先与えられる筈だったものも。その全てを、代わりにレナート達がミリアムに与えてあげればいい。そうしてミリアムが人生を楽しめるようになったなら、それはレナート達にとっての何よりの幸せだ。
そっと口元に笑みを刷くイーリスと顔を見合わせ、同時にミリアムへと視線を向ける。
ミリアムは相変わらず目覚める気配のないままベッドに横たわっているが、それでも心なしか顔色が戻り始めているように感じたのは、リーテの加護のお陰か、今のレナートの心の持ちようがそう見せるのか。
少し前のレナートからは想像できないほど穏やかな気持ちでその寝顔を見つめて、レナートは表情を和らげた。
「……やれやれ。教えることは山ほどありそうだ」
「あら。教え甲斐があっていいじゃない、『お兄様』」
レナートの世話焼き気質を指して言われるその言葉に、一瞬、レナートは隣へ向けて半眼を寄越した。
城内で、「レナートに今度は妹ができた」と言われていることは、知っている。そのことについては、これまで散々「弟」のことで弄られてきているので、今更気にすることでもない。だが、恐らくイーリスの言葉には、別の意味が込められている。
「楽しんでるだろ、お前」
「当然でしょう?」
悪びれることなく堂々と言い切る相棒に、レナートの大きなため息が重なる。だがその一拍後、ミリアムが倒れて以降、ようやく初めてレナートはその口端をはっきり持ち上げていた。
そこに浮かんだのは、からかいを甘んじて受け入れ、いっそ自分も楽しんでしまおう――そんな、仄かに苦みの走るものではあったが、優しく穏やかな笑みだった。
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